図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

白居易(はく・きょい 772-846)と唐代の文人たち

 白居易は中唐の詩人で、字は楽天です。詩仙と称された李白が亡くなって10年後、詩聖と称された杜甫が亡くなって2年後の772年、鄭州(ていしゅう)新鄭県(今の河南省新鄭市)の小さな町で生まれました。祖父も父も科挙に合格しましたけれど、中央の官僚への道がひらける進士科ではなく、ふたりとも合格しやすい明経科だったため、地方でそれなりの地位についた役人でした。

 ここでご紹介するのは、唐代の宮中図書館で仕事をした経験のある白居易と、その他の文人や政治家です。その多くが、科挙の試験に合格した直後に、またはさほど年月を隔てることなく、宮中図書館の役所である秘書省で仕事をしたのでした。まず秘書省の位置づけについて簡単にご説明しておきましょう。

 

 唐代には、中央・地方ともに行政機構と官僚制度がかなり細かく整えられていました。中央には6つの省があり、これらの中央官僚組織を統括して天子(皇帝)を補佐したのが宰相で、ふつうは同時に数名がその任に当たっていました。

 中央6省のうち、中核をなした中書省門下省尚書省の概略は、次のとおりです。

 ①中書省=政策を立案して天子の意思としての詔勅を起草。

 ②門下省中書省が起案した詔勅を吟味。とうぜん、異議を申し立てる権限をもつ。また、さまざまな部署から上がってくる意見や提案、要望を天子にとりつぐ。

 ③尚書省門下省の関門をとおった政策を実行する六部(りくぶ)を統括。六部は、文字どおり6つの部が、官僚の人事(吏部)、祭祀(礼部)、財政(戸部)、国防(兵部)、司法(刑部)、土木(工部)などを分担。

 残りの3省は、④宮中の女官や宦官をあつかう内侍省、⑤天子の衣食住をあつかう殿中省、⑥宮中図書館に責任をもつ秘書省、でした。

 

 宮中図書館はいわば国立図書館で、唐代では秘書省、弘文館、集賢殿書院、史館、崇文院、司経局などで構成されて、秘書省が全体を統括していました。以下の5館にはそれぞれ役割があり、集賢殿書院では国内からひろく蔵書を集め、慎重に校勘・清書したものを原本(正本)として収蔵しました。校勘とは、同じ内容であるべき複数の写本や印刷本を突き合わせて、異同や正誤を調べ正すことです。よって、すべて原本とされる集賢殿書院の本は、内容が正確で文字も美しいものでした。それと比べますと、弘文館に置かれた副本(原本の写し)は質的にやや見劣りがしました。史館は歴史書を編纂するために設けられた図書館として、各時代・各王朝の史書や行政文書などが大部分を占め、崇文院と司経局は皇太子のための小規模な蔵書機関として存在しました。(1)

 秘書省では、時代によって違いはありますけれど、おおむね秘書監(長官)、秘書少監(副長官)、秘書丞、秘書郎、校書郎、正字など全部で10種類以上の官職からなる人たちが働いていました。キャリアの初期に校勘を任務とする校書郎として働いた人の多くが、のちに詩人や作家、書家や政治家となったのでした。たとえば、

 「宰相にいたる最も典型的なエリート・コースは、まず進士科の試験に合格し、秘書省校書郎(正九品上)から官界に入り、畿県の尉(正九品下)、御史台の監察御史(正八品上)、中書省門下省の拾遺(従八品上)、尚書省の員外郎(従六品上)、中書舎人(正五品上)、中書侍郎(正四品上)の諸官をへて、直ちに宰相に至るといわれたのである。」(2)

 「秘書省校書郎は官位は低いが、将来の高級官僚になるための順当なコースであった。宮中図書館の蔵書を自由に見ることができるし、なによりもたっぷり時間に恵まれる。将来性のある若手官僚に存分に勉強する時間を与えるべく仕組まれていたのだろう」ということです。(3)

 

 「たっぷり時間に恵まれる」校書郎としての勤務について、白居易は「常楽里閑居」という詩の中で次のように表現しました。「常楽里」は長安の町名、「閑居」は白居易が詩のタイトルの一部によく使った語で、のどかな暮しというほどの意味です。

  典校在秘書

  三旬両入省

 この2行は、「秘書省で典校の仕事をし、出勤するのは月に2日」という意味で、典校とは、先にご説明した校勘のことです。これは、古い文献をあつかう思想・文学・歴史などの研究者にとって、昔から最近まで学問への大切な入口でありつづけました。

 出勤日が月に2日とは、コロナ禍の昨今でもめずらしい勤務風景のように思われますけれど、訳者のみなさんはおおむね「月に2日」としています。たとえば、「一月に二日の登庁」(3)、「月に二度ばかり役所へつとめ」(4)、「月に二回だけ秘書省に顔を出す」(5)などです。一方、三旬とは30日、両は両旬の意味で20日のことだ、とする人もいます。(6)

 月に2日の出勤と20日の出勤とでは大違いですね。これは、思い切った誇張をいとわない漢詩の中での表現ですし、気にする必要のないことかも知れません。ところが、この詩をもう少し読み進めますと、自分の住いやそこにいる下僕、俸給や役所の人間関係などに満足していることを述べ、次のような句にいたります。

  蘭台七八人

  出処與之倶

  旬時阻談笑

  旦夕望軒車

 この4句の意味は、「役所の同僚は7、8人。いつも行動をともにする。なので、10日も談笑できないと、一日中誰か来ないか待つありさま」となるでしょう。ということで、やはり、月に2日あるいは数日だけの出勤と解するのが正しいのではないか、と思われます。

 

 白居易が初めての任官で校書郎となったのは、803年、32歳(以下、年齢はすべて数え年)のときでした。そこで気楽な務めと気の合う仲間との交わりを楽しんでいるうち、806年、例年の科挙の試験とはおもむきのことなる制挙という試験が実施されることになります。この試験は、天子が臨時に命令を発して人材を抜擢しようとするものでした。

 白居易は、同じ年に校書郎となった元稹(げん・しん)と一緒にこの難関試験にいどみ、ふたりとも上位の成績で合格します。なにしろ、両者は道教の寺院にこもって《模範回答集》まで作ったといいますから、意気込みが相当に強かったのでしょう。結果、ともに校書郎とは違う官職に任命されましたので、宮中図書館での勤務は3年だったということになります。その後、白居易と元稹は無二の親友となり、たいていは違う任地に住んでいましたのに、唱和というかたちで詩のやり取りをつづけたのでした。『広辞苑』によりますと、《唱和》とは、「一方がまず詩歌を作り、他方がそれに応じて詩歌を作ること」です。

 

 白居易が制挙にいどんだのは、行政官として活躍したいと思っていたからにほかなりません。初めは望みどおりに、天子の秘書のような仕事をする翰林学士、天子の誤りを正すために意見を具申する左拾遺など、重要な官職に就くことができた白居易でしたが、気持ちを萎えさせる3つの事態が起きます。30代後半から40代前半にかけてのことでした。

 ①白居易が左拾遺であったとき、職務に忠実なあまり、朝臣のありようを批判し、天子にも遠慮なく諫言した上、自分の思いを詩の題材としたため、朝廷の多くの人から反感をかってしまいます。

 ②白居易が官僚になるはるか前から、唐の朝廷では貴族出身者と科挙及第者とが勢力争いをしていました。808年、3人の科挙受験者が論文試験の解答のなかで時の政治を批判したことから、《牛李の党争》と呼ばれる両派の長い左遷合戦が始まります。白居易科挙出身者でしたけど、貴族出身者の中にも親しい人がいて、どちらにも加担しませんでした。《君子危うきに近寄らず》ですね。

 ③ところが、815年、宰相だった武元衡(ぶ・げんこう)が暗殺されたとき、皇太子の顧問のような閑職にあった白居易が「暗殺者と彼らを裏であやつった勢力を早急に究明すべきだ」と上奏したところ、越権行為だと一斉に非難され、左遷されてしまいます。当時は政治的なあやまちを犯せば実質的な仕事のない司馬という職名で遠くに追いやられました。白居易のばあいは江州(今の陝西省九江市)司馬として4年間を過ごすことになります。

 

 江州司馬として左遷されていたとき、白居易は親友の元稹にあてて「元九に与うる書」と題する手紙風の文章を書きます。815年、44歳のときでした。元九とは元稹のことで、内容は文学にかんする考えと自分の半生の詩作についてです。それによりますと、詩人としての彼は806年につくった「長恨歌(ちょうごんか)」によって全国的に有名になり、810年ごろの「秦中吟(しんちゅうぎん)」10首や「新楽府(しんがふ)」50首なども反響が大きかったと書いています。(7)

 それは白居易自画自賛には違いありませんけれど、元稹は白居易の文集『白氏長慶集』(824年)の「序」のなかで、次のように証言しています。

 「この二十年間というもの、宮廷、役所、道観、寺院、駅舎など、至るところに白楽天の詩が書き付けられていた。上は王侯貴族から下は車夫馬丁に至るまで、口の端にのぼさぬものはない。書写したり翻刻したりして、市場で売る者、酒や茶と交換する者、どこでも見られた。」(3)

 白居易の詩が広く受け入れられた理由は、その平易で具体的な表現と物語性にあるというのが、多くの評者の一致した意見です。また、さまざまな作品を収める「新楽府」50首のなかで「とくに目立つのは、政治の乱脈と社会の混迷とを諷刺批評したもの、ならびに人民の苦しみに同情した作品の多いことである」(8)ため、庶民に歓迎されたとも言えるでしょう。「人民の苦しみに同情した作品」には次のような人びとが描かれています。

 《宮中に招かれたのに寵愛をうけず、結婚もできずに老いた女性》

 《兵役を逃れるために自らの腕を折った老爺》

 《お上から無益なイナゴ獲りをさせられた農民》

 《作物が収穫できないのに例年どおりの納税を迫られる農民》

 《宮中の女性のために美しい織物をつくる貧しい女性》

 《寒い中で薄着の老人からはした金で炭を買う役人》

 これらの内容には、人民を苦しめる中央と地方の政治・行政に対する批判がこめられています。

 

 このように、文才と学識に自信と誇りをもっていた白居易は、早くからその結実としての詩や文章を後世に残そうとしていました。その始まりは、「元九に与うる書」を書いたのと同じ年の815年にみずから編んだ15巻から成る詩集で、次第に巻数を増やしてゆき、その終りは、死の前年の845年、74歳のときに5部作った『白氏文集』(はくしもんじゅう・はくしぶんしゅう)75巻でした。ここにはおよそ2,900首の詩歌だけでなく、職務として作った文書なども納めていて、著者自身の編集による個人全集のおもむきを呈しています。

 それらの保管方法は、3つの寺へ各1部を奉納、残りの2部を甥と孫に1部ずつ寄託、としたのでした。なかなか用心深いですね。

 詩人としての白居易にとって、詩作は、趣味であると同時に生き甲斐であり、交友にあたっての重要な手段であり、自分の詩論を根拠づけるための作業であり、意図していたか否かにかかわらず、日記や自叙伝に代わる記録を残すことでもあったのでした。ただし、「交友にあたっての重要な手段」である詩の唱和は、白居易にかぎらず唐代の詩人のありふれた遊戯のようなものでした。

 

 官僚としての白居易は、さまざまな地でさまざまな職務にたずさわりながら、慎重に争いごとを避け、生活を楽しみます。妻子を愛しながらの楽しみは、詩作や飲酒、友人との談話や詩の唱和、琴の演奏や魚釣りなどでした。そのような日常生活の楽しみや喜びを表現した詩を白居易は《閑適》と名づけたのに対して、先にご紹介した『新楽府』などの政治・社会批判の詩を《諷喩》と称しました。

 このようにストレスのない暮しをしていた白居易は、50歳にして中書舎人という官職を与えられます。中書舎人というのは、「ついにこのポストまで来たという感慨を覚えないものはいません。王言すなわち天子の詔勅の起草に責任を持つポストであり、学問文章によって官界に生きてきた人間としては、最高の栄誉なのです。」(9)

 中書舎人につづいて次々と異なる州の長官職(刺史)を命ぜられた白居易は、826年、55歳のときに、落馬による怪我や病気を理由にして長い休暇をもらいました。その翌年、秘書監(秘書省の長官)に任命された白居易は、そこでの勤務の様子をうかがわせる「秘書後庁」という七言絶句を残します。その後半の2句は次のとおりです。

  尽日後庁無一事

  白頭老監枕書眠

 言わんとするところは、「秘書省の奥の部屋では日がな一日なにごともなく、白髪の老長官が書物を枕に居眠りばかり。」

 そこには、30代のころに諷喩詩によって本領を発揮した詩人の面影はありません。この館長職が「ご苦労さま。少しゆっくり休みなさい」という意味を込めたご褒美だったからでしょうか。

 62歳になって洛陽に落ちついた白居易は、あいかわらず官歴を重ねますけれど、いずれも名誉職的な仕事で、仲の良かった友人・知人にあいついで先立たれた悲しみと愁いをいだきつつ、《閑適》と称するにふさわしい暮しをつづけることができました。亡くなったのが75歳ですから、当時としては大往生の部類に入るでしょう。

 

 白居易と同時代またはほぼ同時代の文人や官僚には、宮中図書館で仕事をした人がたくさんいました。その中で比較的有名な人をごく簡単にご紹介します。順序は生年の昇順です。

 以下に列挙する人たちのすべてまたは多くに共通する特徴は、次のとおりです。

 ①男性。

 ②文人(とくに詩人・文章家)として知られる人。

 ③科挙の試験に及第して秘書省の校書郎。

 ④中央と地方でさまざまな官職を経験。

 ⑤官歴のなかでしばしば左遷・失脚の憂き目。

張九齡(ちょう・きゅうれい 673?~740)

 702年に進士に及第し、校書郎を手始めに官吏の道へ。左遷にめげず、733年に宰相となり、唐の最盛期の治世である《開元の治》の実現に尽力。「学問にすぐれ、古今の経籍を収集・校勘する集賢院学士にも就いた。」(10)

顔真卿(がん・しんけい 709~785)

 書家。28歳で校書郎。信念にもとづく直言によって宰相や天子に煙たがられ、たびたび左遷。最後は、命によって反乱軍の説得に向かい、敵の懐柔を拒んで殺された。ために唐代一の忠臣とされた。「顔家は代々学問を伝えた家系。後に顔真卿の書は王義之と並ぶ二大潮流の一つと称された。」(10)

王建(おう・けん 766?~830?)

 詩人。秘書省で位の高い秘書丞を務めたが、それ以外の官職では目立った活躍をしなかった。詩人としては年齢の近い張籍、白居易、劉禹錫(りゅう・うしゃく)などと交友。楽府にすぐれていたため張籍とともに《張王楽府》と並称された。

崔玄亮(さい・げんりょう 768 ~833)

 803年の任用試験に白居易とともに合格して以来、終生の友人。秘書省では校書郎より上の秘書郎をつとめた。白居易・元稹・崔玄亮による『三州唱和集』がある。

張籍(ちょう・せき 768?~830?)

 詩人で楽府の名手。友人の王建とともに《張王楽府》と並称された。秘書省では校書郎より上の秘書郎として仕事。

劉禹錫(りゅう・うしゃく 772~842)

 図書館員生活は秘書省ではなく、東宮の太子校書として図書の校勘・整理を行なった。若いときは柳宗元と親しく、ともに政治改革運動に加わって失脚。30代半ばから長い地方生活を余儀なくされ、晩年には白居易と親しくなって多くの唱和詩を作った。

柳宗元(りゅう・そうげん 773-819)

 唐宋八大家のひとりで、散文家として名高い。装飾的な駢文(べんぶん)に反対し、古文に帰ることを主張して韓愈とともに古文運動を主導。20歳で進士に及第し、「26歳で宮中図書館の集賢殿正字に任官」した。(2)このように官吏としてのスタートは申し分なかったが、政治改革に関与して長安から遠く離れた地へ左遷され、47歳で亡くなった。

白行簡(はく・こうかん 776~826)

 白居易の弟。809年に校書郎。『李娃伝』(りあでん)という伝奇短篇小説がある。

元稹(げん・しん 779~831)

 白居易の無二の親友。同じ地に住んだ期間はさほど長くなかったものの、互いを高く評価し、つねに文学的に刺激しあって詩の唱和が多かった。たび重なる左遷にもかかわらず、822年に44歳で宰相となったが、半年も経たないうちに左遷された。

 白居易が「元九に与うる書」を書いたのは815年。元稹も同じ年に「詩を叙して楽天に寄するの書」を書いており、内容は「自伝とも言うべき前半と心境を記した後半とに分かれる。」(11)『元氏長慶集』60巻のほか、伝奇短篇小説『鶯鶯伝』(おうおうでん)を残した。

李紳(り・しん 780?~846)

 812年に校書郎。官歴では、浮沈をくり返して822年に中書舎人、842年に宰相となる。詩人としては『新題楽府』20首をつくり、親しかった元稹や白居易の新楽府に影響を与えた。

杜牧(と・ぼく 803~852)

 李商隠と同じく詩にも散文にもすぐれ、《李杜》と並称された。秘書省の校書郎ではなく、弘文館校書郎を経験したあと浮沈の激しい官僚生活を送ったが、最後は中書舎人となった。

段成式(だん・せいしき 803?~863)

 詩人で博覧強記の文筆家。当時の社会の様子を活写した随筆集『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)が有名。宰相で蔵書家だった父の段文昌のコネによって校書郎となり、秘書省の膨大な蔵書に接しえたことが文人生活に幸いした。

李商隠(り・しょういん 813?~858)

 詩人・文章家で駢文にすぐれていた。《牛李の党争》の両派と親密な関係にあったため、一方から裏切り者として恨まれ、官僚としては生涯にわたって不遇だった。28歳のとき秘書省の校書郎。

 

 そのほか、上記の人たちと同じころの校書郎などの経験者は、以下のとおりです。

楊炯(よう・けい 650?~695?) 詩人。校書郎。

賀知章(が・ちしょう 659~744) 詩人、書家。秘書監。

張說(ちょう・えつorちょう・せつ 667~730) 詩人、宰相。太子校書郎。

王昌齢(おう・しょうれい 698?-755?) 詩人、大歴十才子のひとり。校書郎。

銭起(せん・き ?-782?) 詩人。校書郎。

李端(り・たん 732-792) 詩人、大歴十才子のひとり。校書郎。

楊巨源(よう・きょげん 770?~???) 詩人。校書郎。

李徳裕(り・とくゆう 787-850) 政治家。《牛李の党争》の李派の旗頭。校書郎。

朱慶餘(しゅ・けいよ 797?~???) 詩人。校書郎。

 

参照文献

(1)邱五芳著「中国古代の蔵書事業」in呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)

(2)礪波護著『唐の行政機構と官僚』(中公文庫、1998年)

(3)川合康三著『白楽天:官と隠のはざまで』(岩波新書、2010年)

(4)アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳『白楽天』(みすず書房、1959年)

(5)平岡武夫著『白居易:生涯と歳時記』(朋友書店、1998年)

(6)高木正一注『白居易 下』(岩波書店、1958年)

(7)静永健著「白居易の諷諭詩」in『白居易の文学と人生 II』(勉誠社、1993年)

(8)高木正一注『白居易 上』(岩波書店、1958年)

(9)下貞雅弘著『白楽天の愉悦:生きる叡智の輝き』(勉誠出版、2006年)

(10)尾崎雄二郎ほか編『中国文化史大事典』(大修館書店、2013年)

(11)金在乗著「白居易と元稹」in『白居易の文学と人生 II』(勉誠社、1993年)

イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804)

 イマヌエル・カントは18世紀の哲学者で、その生地はプロイセン王国ケーニヒスベルク。この都市にはバルト海に面する港があり、人口は5万数千人、ドイツ人以外にもいろいろな民族が定住していました。

 父が馬具職人、母が馬具職人の娘で、両親はイマヌエルの教育に熱心でした。その点について晩年のカントは、ある手紙に次のように書いています。「私の両親は(職人階級の出であるが)誠実で、道徳的にきちんとしていて、規律正しいという点で模範的だった。両親は私に財産を残さなかった(しかも借金も残さなかった)。その両親が私に教育を授けてくれた。」(1)

 少年イマヌエルは6歳から救貧学校で読み・書き・算数をまなび、8歳からは寮のあるフリードリヒ学院で本格的な勉強を始めます。ただし、彼は入寮せず、朝7時から夕方4時までの授業を受けるために、月曜から土曜まで自宅から通学しました。この学校はキリスト教敬虔派の運営で、卒業後に《自立》できるための勉強と同時に、《自律》の精神をはぐくむことを教育の目標としていました。

 「誠実で、道徳的にきちんとしていて、規律正しいという点で模範的だった」両親の訓えと、自律の精神をはぐくむ学院の教育とが、哲学者イマヌエル・カントの人格形成に大きな影響を及ぼしたことは間違いないと思われます。カントの一生は、質素な日常生活においても道徳にかんする信条においても、《自律》を地で行ったからです。

 

 フリードリヒ学院を優秀な成績で卒業したカントは、16歳でケーニヒスベルク大学の哲学部に進みます。けれども、その間にカント家に不幸な出来事がつづきました。

 ①イマヌエルが10歳にならない1733年、父の仕事が以前ほどにはうまく回らなくなり、家計の苦しさから、一家は母方の祖母の家へ引っ越さざるを得なくなります。

 ②イマヌエルが13歳のとき、母が40歳の若さで亡くなります。その2年前、彼女の最後の子どもが誕生していました。

 ③イマヌエルが20歳のとき、父が脳卒中で倒れ、2年後に亡くなります。残された子ども5人のうち20歳以上だったのは5歳上の姉と学生のイマヌエルだったので、母方のおじがイマヌエルの学費をふくめて一家の面倒をみてくれました。

 父の死後、1746年にケーニヒスベルクを去ったイマヌエル・カントは、生地から数十キロ離れたいくつかの地で、牧師や軍人の息子たちの家庭教師をして暮らします。短い旅行は何度かしましたけれど、カントがケーニヒスベルク以外の地に住んだのは、この家庭教師時代だけでした。

 彼が生れ故郷に戻ったのは30歳になったばかりの1754年、東プロイセンきっての名門貴族であるカイザーリンク伯爵家の家庭教師となるためでした。ここでカントは、伯爵夫妻の信頼をえて、夕食時にはいつも伯爵夫人の隣席をあてがわれ、招待された名士たちとの社交を楽しみました。カントの生きざまをたどりますと、貧しい中で少しずつ力をたくわえ、時間をかけて望みどおりのものを手にした印象があります。伯爵家の家庭教師職とそこで受けた厚遇は、そのようなカントの品性を象徴するひとつの例ではないかと思われます。

 

 カントの望みは母校ケーニヒスベルク大学の哲学部の正教授になることでした。手始めはマギスター(修士)の学位と学生に講義をする資格をとることで、いずれも論文を書いて審査に合格しなければなりません。このハードルを彼は1755年、31歳のときにクリアし、すぐに私講師として講義を始めます。

 私講師という制度は、大学の講座の一部として講義をするものの、給料が大学から支給されるわけではなく、場所(教室)を自分で準備し、聴講を希望する学生からの謝礼だけが収入となるものでした。これは言わば大学の暖簾を借りての個人営業のようなもので、生計を立てるためには多くの学生が集まる講義をする必要がありました。

 初めのうち、カントは週に平均16時間の講義をしました。科目は論理学、形而上学、自然学、数学でした。カントのいくつかの伝記によりますと、彼の講義は人気があって、講義室がいつも満員、早く行かなければ坐ることができなかった、ということです。哲学者と言えば、謹厳実直の見本のように思われがちですけれど、カントは授業中にしばしば学生を笑わせる講師でした。

 

 謹厳実直といえば、カントにはその暮しぶりや人となりに面白みがないという評判が定着していたようで、私もずっとそのように思い込んできました。たとえばドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは次のように書いています。

 「カントはドイツの東北の国境にある古い町ケーニヒスベルクの、しずかなへんぴな横町で、千ぺん一律の、ほとんど抽象的な独身生活をおくった。あの町の中央寺院の大時計でも、やはりその町にすむイマヌエル・カントほど冷静に規則正しく表面的な日々のつとめをはたしたとは思われない。起床、コーヒーを飲む、著述、講義、食事、散歩と万事がきまった時刻になされた。イマヌエル・カントが灰いろの燕尾服をきて、籐の杖をにぎり、住居の戸口から出てぼだい樹のささやかな並木道へぶらぶらあるいていくのを見ると、となり近所の人たちは知ったのである。今ちょうど午後三時半だと。そのぼだい樹の並木道はカントにちなんで、今日も「哲人の道」とよばれている。カントはその並木道を、どの季節でも八度だけ往復した。」(2)

 たしかに、カントは規則正しい生活をし、恋愛も結婚もせず、物見遊山の旅をせず、趣味らしい趣味をもたず、スキャンダルがなく、健康に留意しつつ信頼できる友人に蓄財をまかせ、授業と読書と執筆の日々を送ったのでした。

 けれども彼は会話・座談・講義の名手で、彼と接した学生や友人、哲学者仲間の多くがその事実を伝えています。時計のように正確に一日を刻むだけの人、むずかしい話を好むだけの人が、講義でしばしば学生の笑いを誘い、貴族や軍人、実業家や行政官たちと何年、何十年にわたって親しく交わることはありえません。杓子定規のような人生であっても、カントの昼食はいつも誰かと一緒、散歩も誰かと一緒、夕食には市内の誰彼が競うように招待をしてくれました。なぜなら、皆さん、カントの人柄を好もしく感じ、話をするのが楽しかったからでしょう。

 

 1750年代の後半から、カントにたびたび就職のチャンスが訪れます。大学の教授職については、次の6回でした。

 ①②1756年と58年、ケーニヒスベルク大学哲学部の論理学・形而上学の教授職 ⇨ 前者は応募したあと、国の財政ひっ迫のため募集自体が取りやめ。後者は応募して不採用。

 ③④1762年と64年、ケーニヒスベルク大学哲学部の詩学教授職 ⇨ 両方とも辞退。

 ⑤1769年、エアランゲン大学の論理学・形而上学の教授職への招聘 ⇨ いったん承諾するものの、翻意して2か月後に辞退。

 ⑥1770年、イェナ大学から哲学教授職への就任の打診 ⇨ 辞退。

 これらの応募と辞退の様子から、カントが《ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学を担当する教授》にこだわったことがわかります。ちなみに、当時のケーニヒスベルク大学の教授には定年制度がなく、原則として死ぬまでその職にとどまることができ、空席を埋めたい人は現職の教授が亡くなるのを待つしかありませんでした。

 一度は招聘に応じようとした上記⑤のエアランゲン大学のばあい、招聘の労をとった同大学のズッコウ教授に宛てた、次のような文言をふくむカントの手紙が残っています。日付は1769年12月15日です。

 「こちらで近々欠員ポストが生じるであろうという見込みも出てきました。生まれ故郷の町への愛着もあります。知人や友人の輪もかなり拡がりました。しかし、一番大きいのは、私の体質が病弱であるということです。これらのことが、私の心の中で、今回の計画に対して強力に立ちはだかりました。そのため、私は、この地でしか今後も心の平安が得られないだろうと思っています。」(3)

 これらのいきさつを少し補足しますと、カントには次のような事情もあったのでした。

 ①私講師のほかに、1758年からケーニヒスベルクを占領したロシア軍の将校たちに個人授業を行ない、1762年にロシア軍が撤退するとプロシアの将校たちに教えるなど、副収入を得るようになっていた。

 ②1765年、ケーニヒスベルクで貿易の仕事をしていたジョセフ・グリーンというイギリス人と知り合って生涯の親友となった。グリーンは激動する世界情勢にかんする最新の情報をいちはやくカントに提供しただけでなく、カントのわずかな投資金を着実に増やし、そして何よりも重要なのは、学問的な対話でも恰好の相手となった。

 ③カントは1766年からケーニヒスベルクの王宮図書館で副司書の仕事にありついた。週に2回、半日ずつの勤務であるために年俸は高額ではなかったが、生計にゆとりができ、図書館の本を利用するにも都合がよかった。

 

 カントの王宮図書館勤めについては、多くの人がさまざまな書き方をしていて、細部が少しずつ違っています。その中から比較的くわしく書かれている3つの例をご紹介しておきます。

第1の例

 {城内図書館の副司書が引退したとき、カントは応募して就職した。}

 「城内図書館といっても、実質的には大学図書館であったが、この図書館はあまり頻繁には利用されていなかった。カントは一七六五年一一月にこの職に応募し、一七六六年二月に採用された。給与は年間六二ターラーであった。{原注略}図書館の開館は週二日、水曜日と土曜日の午後一時から四時であった。前任の副司書が退職したとき、図書館はひどく乱雑な状態にあった。カントと、上司であるフリードリヒ・ザムエル・ボックは、まず蔵書を整理して、目録と照合しなければならなかった。これだけでもかなり面倒で、気の遠くなるような仕事であった。そのうえ図書館内の部屋には冬季でも暖房が入らなかったので、作業はなおさら困難になった。このようにして、副司書としてのカントは、一週間に六時間という、一年間にすればかなり多くの時間を、「手は凍え」「インクが凍りつき」読み書きもままならない暗い室内に座って過ごした。ケーニヒスベルクの冬は長い。この季節には図書館を利用する人もほとんどいなかったけれども、カントは職場に詰めていなければならなかった。だがその一方で、新しい定額の給与によって、カントの「きわめて乏しい生計」は改善されたのである。」(1)

第2の例

 {カントは}「翌々年{1766年}、ケーニヒスベルク王立図書館司書の職を得た。少ないながらも俸給があり、私講師の授業と両立できて、図書の管理のかたわら、学問をつづけられる。冬場の図書館の寒さには閉口したが、ほかはほぼ不足のない職場であって、カントは図書館勤めを五年つづけた。」

 「宮廷図書館司書時代のことを少しくわしく話すとしよう。前任者の年金入りにともなうもので、年収六十二ターレル。宮廷図書館とはいえ、ほぼ大学関係者のみが利用していて、水曜と土曜の午後一時から四時まで開館。カント自身、その図書館の常連であって、さして利用されていないことをよく知っていた。司書は二人で、人間的な煩わしさもない。

 さっそく応募してみたところ、運よく採用ときまった。定収入を確保して、落ち着いて研究に専念できる。そのはずだったが、見込みちがいがなくもなかった。前任の老人がサボっていたものだから、整理すべき本がたまっていて、目録作りに時間をとられた。また図書館は暖房がなく、長い冬は「凍ったインク」と「こわばった指」に悩まされた。利用者はまるでなくても司書は仕事場にいなくてはならず、部屋が暗くて読書も執筆もままならない。

 その点はともかく、カントにとって定収の確保はやはりうれしいことだった。」(4)

第3の例

 「哲学者イマヌエル・カントは1765年、大学教員資格を取得して10年後に、「まことに不如意な物質生活を楽にする一助として」、ケーニヒスベルク王宮図書館の下級司書の口を国王に願い出た。そして1766年に雇われたが、それは館内秩序に気を配るためだった。「ことに、本を好き勝手に引っ張り出したり、図書室を一般の遊歩道がわりに使用するなど、以前からあつかましい振る舞いの絶えない無作法な若者たちがたむろしたときに」。カントは「まったくなじみのない、いやな分野に」勤めたことに気づき、哲学の正教授として、1772年職を退いた。」(5)

 この3例のうち、第1と第3の著者は、カントが図書館員として仕事をしたのは1766年から1772年までの6年間、第2の著者は「5年間つづけた」としています。また「1770年5月まで」とする別の著者もいて、そのばあいは4年間になります。

 このように私講師と図書館員をしながら、いくつもの教授職に応募したり辞退したりしていたカントは、1770年3月、ついに念願のケーニヒスベルク大学哲学部で論理学・形而上学を教える教授職に就任します。46歳でした。けれど、王宮図書館副司書を辞めたのが1772年5月なので、教授になってからも2年余りは図書館の仕事を兼ねていたことになります。

 また、上の例で図書館勤めが《薄給》であると書かれていますけれど、週に半日(3時間)が2回で年俸62ターラーの図書館勤めと、週に半日(2時間または3時間)が6回で年俸160ターラー+アルファの教授職とを比べれば、《薄給》と言うほど安くはなかったと分かります。

 

 カントをカントたらしめる著作が現れるのは、1780年代に入ってから、彼の年齢が50代の半ばをすぎて以降のことでした。とくに大学教授となってからの約10年は、これといった著書と論文の発表がほとんどありません。《沈黙の10年間》と言われたほどでした。

 その長い沈黙を破って現われたのが『純粋理性批判』(1781年刊)です。この書物は、カントが親しくしていた哲学者の中にも「理解できない」と言う人がいたほか、刊行後の数年間はさまざまに批判されました。そのため、同書をより分かりやすくした『プロレゴーメナ』という要約書を1783年に出さなければなりませんでした。先に引用した本の中で、ハイネは、『純粋理性批判』ほど「重要なものはほかにない」と評価する一方、それが認められるまでに8年を要したのは「おそらくこの書物の異様な形式とまずい文体によるのであろう。まずい文体といえば、カントほど非難さるべき哲学者はほかにあるまい」と指摘しています。(2)

 日本でも旧制高校生のときに『純粋理性批判』に挑戦して挫折した人が何人もいました。たとえば、長じて哲学者となる西田幾多郎は、四高の図書館に「マックス・ミューラ訳のカントの『純理批評』があった。それらを借りて来て読んで見たが、当時はとても分りそうになかった」と書いています。(6)

 

 カントの著書で有名なのは、『純粋理性批判』に『実践理性批判』(1788年)と『判断力批判』(1790年)を加えたいわゆる三批判書ですけれど、世界に大きな影響をおよぼした『永遠平和のために』という晩年の著書も見逃せないでしょう。

 カントの生きた18世紀は、肯定的に《啓蒙の世紀》と言われるばあいが多い反面、とくにヨーロッパを中心に《戦争の世紀》でもありました。カントが生涯を過ごしたプロイセンの国王は、啓蒙専制君主として有名なフリードリヒ2世でしたけれど、軍備を増強しながら周辺諸国と戦いをつづけた国王でもありました。この国王が死去する2年前、体力と知力の衰えを自覚する中でカントの出版したのが『永遠平和のために』(7)です。

 この本はヨーロッパ列強国の植民地政策を批判し、戦争を起こさないためにはどうすればよいかを説いたもので、パンフレットほどのページ数の本ということもあって、多くの読者に歓迎されました。

 主張の要点は、平和を維持するために、それぞれの国が次のことを実現する必要があるというものです。①民主化すること、②常備軍をもたないこと、③他国の内政に干渉しないこと、④国家連合組織をつくること、などです。このうち最後に挙げた国家連合組織は、第1次世界大戦後に国際連盟として実現しています。

 

 晩年のカントは、亡くなる10年以上前からゆっくりと心身が衰えてゆきました。《心》の方は記憶や発話などに認知症の兆候があらわれ、《身》の方はまず歩行に困難がともなうようになり、最晩年にはそこへ長期の食欲不振や睡眠障害などが加わったのでした。

 それでも40年にわたって身の回りの世話をしてくれた召使のランペとその後任のカウフマン、料理人の女性、かつての教え子で口述筆記などもしていたE. A. C. ヴァシャンスキ、介護のために呼び寄せられた妹のカタリーナなどの助けを受けながら生きながらえたカントは、あと2か月で80歳というときに老衰のためになくなりました。ヴァシャンスキは遺言執行人に指名され、のちにカントの伝記を書いた人でもありました。

 カントの葬儀は、彼が望んでいた《簡略な葬儀》とはならず、16日間つづいて数千人が参加したと言われています。(8)

 

参照文献:

(1)マンフレッド・キューン著、菅沢龍文ほか訳『カント伝』(春風社、2017年)

(2)ハインリヒ・ハイネ著、伊東勉訳『ドイツ古典哲学の本質』(改訳版、岩波文庫、1973年)

(3)イマヌエル・カント著、北尾宏之ほか訳『カント全集 21:書簡 1』(岩波書店、2003年)

(4)池内紀(おさむ)著『カント先生の散歩』(潮出版社、2013年)

(5)ゴットフリート・ロスト著、石丸昭二訳『司書:宝番か餌番か』(白水社、2005年)

(6)『西田幾多郎随筆集』(岩波文庫、1996年)

(7)イマヌエル・カント著、池内紀訳『永遠平和のために』(綜合社、2007年)

(8)菅沢龍文ほか著「カント年譜」in 有福孝岳ほか編『カント事典』(弘文堂、1997年)

前川恒雄著述リスト

前川恒雄著述リスト

 このリストでは、前川恒雄さんの書いたものと述べたものをできるだけ網羅的に列挙しましたが、次の資料は省略しています。①新聞、②点字資料、③視聴覚資料(録音資料)。

項目の配列

 図書、雑誌、パンフレットなどの刊行年月の昇順。

表記法

(1)単著(図書・パンフレットなど)

 『タイトル』

   (出版地、出版者、発行年月)

(2)共著や分担執筆(図書・パンフレットなど)

 前川が執筆や講演をした部分タイトル in『図書のタイトル』編者等

   (出版地、出版者、発行年月)

(3)雑誌に掲載された論文・講演・座談会など

 論文・講演などのタイトル

  『雑誌のタイトル』(出版地、出版者)巻号, 刊行年月

(4)表記で省略した事項

  ①出版地が東京であるばあい、「東京」を省略。

  ②雑誌等の該当ページ数。

(5)補記

  必要だと思われる箇所に{補記}。

参考にした情報源

 「日野市立図書館関係文献リスト」(日野市立図書館のウェブサイト)

 國松完二編「前川恒雄先生著作目録」 in『いま、市民の図書館は何をすべきか』

 「三多摩公立図書館関係文献リスト」(三多摩図書館研究所のウェブサイト)

リスト作成に際して特にお世話になった図書館(50音順)

大阪府立中央図書館  京都市岩倉図書館

京都府立京都学・暦彩館 京都府立図書館

国立国会図書館東京本館

滋賀県立図書館 日野市立図書館

 

奉仕と云うこと:田舎図書館員の生活と意見

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 47, no. 8, 1953.8

公共図書館における読書会活動

  『石川読書通信:石川県中央図書館月報』(金沢、石川県中央図書館)no. 37,   1954.1

石川県郷土誌料分類法について:市立図書館研究集会記録

  『石川読書通信:石川県中央図書館月報』(金沢、石川県中央図書館)no. 49, 1955.6

整理事務室の一隅から

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 52, no. 3, 1958.3

図書館の曲りかど:図書館問題研究会全国大会から(北から南から)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 54, no. 3, 1960.3

図書館用語についての雑感(北から南から)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 56, no. 8, 1962.8

奉仕を第一に:座談会〈中小公共図書館運営基準委員会の作業を終えて〉

  図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 57, no. 6, 1963.6

  {出席者:清水正三石井敦鈴木四郎・前川恒雄、きき手:有山崧。}

中小都市における公共図書館の運営▶について

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 57, no. 6, 1963.6

マンチェスターのスイントンにて

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 1, 1964.1

イギリスから 2

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 2, 1964.2

  {「イギリスから1」は鈴木四郎の執筆で、同じ号の同じページに掲載。}

英国でのお願い2つ(北から南から)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 4, 1964.4

資料の貸出しについて 1(英国に学ぶ)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 6, 1964.5

資料の貸出しについて 2(英国に学ぶ)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 7, 1964.6

職員について(1)(英国に学ぶ 3)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 8, 1964.7

図書館協力▶見たまま◀:英国図書館の実情を聞く{インタビュー}

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 9, 1964.8

  {話す人:鈴木四郎・前川恒雄、聞く人:丸山昭二郎・森博。}

職員について 2(英国に学ぶ 4)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 10, 1964.9

英国の図書館に学び日本の図書館を考える

  『社会教育』(日本青年館「社会教育」編集部)v. 19, no. 10, 1964.10

分館について(英国に学ぶ 5)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 58, no. 12, 1964.11

英国の地方制度と図書館

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 2, no. 4, 1964.12

英国の地方制度と図書館:英国の公共図書館基準の理解のために

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 2, no. 4, 1964.12

議会における図書館問題の討議:イギリス上院の場合

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 59, no. 1, 1965.1

整理作業の能率・学校図書館(英国に学ぶ 6)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 59, no. 1, 1965.1

図書館の統計と調査

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 59, no. 2, 1965.2

区立練馬図書館の新しい貸出方式について

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 59, no. 4, 1965.4

公共図書館の読書案内{翻訳}

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 3, no. 3, 1965.9

  {”Reader's Guidance Service in a Small Public Library” by H. H. Lymanの翻訳。}

『貸出しと閲覧』前川恒雄編(図書館の仕事 13){共著者:石井敦、石橋幸男、前川 恒雄}

  (日本図書館協会、1966.8)

英国の図書館と図書館員

  『中部図書館学会誌』(名古屋、中部図書館学会)v. 8, no. 1, 1966.11

イギリスにおける図書館協力

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 61, no. 1, 1967.1

書庫が空になる!:座談会・日野市立図書館の活動に学ぶ

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 61, no. 10, 1967.10

  {出席者:有山崧・石井敦・伊藤峻・後藤暢・鈴木喜久二・浪江虔・前川恒雄・渡辺進、司会:清水正三。}

公共図書館学校図書館の接点:対談

  『日野の教育』(日野市教育委員会)no. 4, 1967.10

  {対談者:前川恒雄・松本武。}

市民の役に立つ図書館へ:日野市立図書館の場合

  『月刊社会教育』(国土社)v. 11, no. 11, 1967.11

『納本週報』に索引を(読者の声)

  『国立国会図書館月報』(国立国会図書館)no. 81,1967.12

貸出し・レファレンス・読書案内:日野市における図書館づくりから

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 19, no.5,1968.1

予約サービス:その意義と問題点

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 62, no. 9, 1968.9

公共図書館の発展を

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 63, no. 1, 1969.1

現場からみた図書館行政:座談会

  『週刊とちょう』(東京都広報室)no. 216, 1969.6.20

  {出席者:杉捷夫・清水正三・糀邦雄・松葉幸雄・平島セツ子・前川恒雄。}

くらしの中の図書館:市立図書館の特色

  『庁内報ほほえみ』(日野市役所秘書課)no. 11, 1969.11

『有山崧著作集』全3巻 石山洋石井敦清水正三・菅原峻・前川恒雄共編

  (日本図書館協会、第1巻1970.1, 第2・3巻1970.3)

解説 in『有山崧著作集』第1巻

  (日本図書館協会、1970.1)

県立図書館は何をすべきか:座談会

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 64, no. 2, 1970.2

  {1969年10月20日日本図書館協会会議室での座談会の記録。出席者:久保輝巳小林宏・菱田忠義・前川恒雄・森博、司会者:浪江虔。}

市立町田図書館:貸出しをテコとして

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 64, no. 8, 1970.8

  {調査と執筆に当った人:岩島皎一・小川俊彦・鹿児島達雄・酒川玲子・嵩原安一、進行とまとめ:前川恒雄、オブザーバー:浪江虔。}

大学図書館 ’70年の展望:国大協・図書館特別委員会「第一次報告」を中心に:座談会

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 64, no. 10, 1970.10

  {出席者:酒井忠夫・深川恒喜・津田良成・高宮秀夫・住谷雄幸・前川恒雄、司会:岡崎義富。}

東京における図書館協力の可能性

  『ひびや:東京都立中央図書館報』(東京都立中央図書館)通巻101, 1970.11

市街地における自動車図書館サービスについて{助言者}in『東京都公立図書館職員研究大会報告書 昭和45年度』

  (東京都公立図書館長協議会・東京都立日比谷図書館、1971)

  {研究大会のIII:貸出分科会が1971年2月19日、標記の研究テーマで日比谷図書館において開催され、前川は午後の「討議」に助言者として参加。}

  {国立国会図書館から入手した複写は、表紙だけが活字印刷で、当該部分は手書き

  となっている。}

公共図書館と読書運動:座談会

  『読書推進運動』(読書推進運動協議会)no. 39, 1971.2

  {出席者:清水正三・萩原祥三・前川恒雄・森昌伸、司会者:小峰広恵。}

資料提供サービスのための図書館

  『社会教育』(日本青年館「社会教育」編集部)v. 26, no. 3, 1971.3

公共図書館基準論

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 22, no. 6, 1971.3

公共図書館の管理』(図書館の仕事 3)清水正三編、清水正三・前川恒雄共著

  (日本図書館協会、1971.3)

第3分科会:都道府県立{図書館}館外奉仕部会{助言者} in『全国公共図書館研究集会報告書 昭和46年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1971.5)

  {前川恒雄は助言者として出席。}

全体会議{助言者} in 『全国公共図書館研究集会報告書 昭和46年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1971.5)

  {前川恒雄は5名の助言者のひとり。}

誌上座談会:有山崧著作集をめぐって

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 65, no. 6, 1971.6

  {語る人:石井敦石山洋清水正三・前川恒雄、設問・構成:菅原峻。}

図書館協会のなすべきこと

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 65, no. 10, 1971.10

  {日本図書館協会第13期理事としての抱負。}

激しく、やさしい人{森博氏追悼特集}

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 65, no. 11, 1971.11

図書館員の仕事と専門制度:第3講 in『新しい図書館の理論をめざして:第2回図問研学校の記録』

  (図書館問題研究会東京支部、1972.4)

  {図書館問題研究会が1971年11月16日から翌年1月28日にかけて東京都教育会館を主たる会場として開催した「第2回図問研学校」の記録。第1講から第8講のうち、前川恒雄は第3講を担当した。}

新しい図書館の働き(図書館だより)

  『日野の教育「まどべ」』(日野市教育委員会)no. 22, 1972.7

中央図書館の建設はじまる:情報の提供など数々の特色

  『庁内報ほほえみ』(日野市役所秘書課)no. 43, 1972.9

男の読書・女の読書

  『マミール』(佼成出版社)no. 6, 1972.10

まえがき in「東京都の図書館政策、その軌跡〈資料特集〉」

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 10, no. 4, 1972.12

市立中央図書館の開館について(図書館だより)

  『日野の教育「まどべ」』(日野市教育委員会)no. 23, 1972.12

都立三館の行方

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 67, no. 1, 1973.1

子どもへのサービス:座談会

  『季刊子どもの本棚』(日教販)no. 7, 1973.3

  {出席者:前川恒雄・代田昇・山花郁子・宮治玲子、司会:黒沢浩。}

『中小レポート』をふりかえって

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 67, no. 4, 1973.4

問題点をさぐる:図書館活動は転換期にさしかかる

  『庁内報ほほえみ』(日野市役所秘書課)no. 50, 1973.4

予約制度について{助言者}in『全国公共図書館研究集会報告書 昭和47年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1973.5)

  {前川恒雄は助言者を務めた。}

都立中央図書館への期待

  『丸善ライブラリーニュース』(丸善)no. 92, 1973.5

図書館とは建物ではなく貸出しサービスの全システムをいう

  『新建築』(新建築社)v. 48, no. 8, 1973.8

  {後に『図書館建築22選』(東海大学出版会、1995.4)に収録。なお、『新建築』のこの号には、日野市立中央図書館と児童図書館の多くの写真が掲載されている。}

『図書館の発見:市民の新しい権利』NHKブックス 194)(共著者:石井敦

  (日本放送出版協会、1973.10)

  {2006.1に同じ出版者から新版が刊行された。}

「公立図書館の設置および運営の基準」作成の経過

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 67, no. 10, 1973.10

これからの図書館建築

  『建築知識』(日本ハウジングセンター)v. 15, no. 10, 1973.10

図書館を建てるとき地方自治体のすべきこと

  『建築知識』(日本ハウジングセンター)v. 15, no. 10, 1973.10

  {ほかに日野市立中央図書館と児童図書館の写真・平面図を13ページにわたって掲載。}

すべての差別をなくすために in『ともに生きるまちに:障害者運動の夜明け』

  (日野、日野市障害者問題を考える会、1974.8)

市財政における今日の課題

  『庁内報ほほえみ』(日野市役所秘書課)no. 69, 1974.11

図書館というコトバ(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1031, 1976.2上旬号

雪の思い出(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1034, 1976.3上旬号

  {図書館利用者としての思い出。}

読書感想文(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1037, 1976.4上旬号

教育と文化と図書館(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1040, 1976.5上旬号

市民生活と移動図書館:地域文化の形成に積極的な活用をはかる日野市の活動から

  『自動車とその世界』(トヨタ自動車東京支社広報部)no. 117, 1976.5

コミュニティ・センター(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1043, 1976.6上旬号

懸念と期待(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1046, 1976.7上旬号

III:管理、A:総論 in『図書館ハンドブック』第4版

  (日本図書館協会、1977.3)

図書館:だれにでもつかえる玉手箱 in『講談社大百科事典 19:とうよ~にしか』

  (講談社、1977.4)

  {主たる執筆者は前川恒雄、写真の被写体はすべて日野市立図書館、さらに同館の第2代館長である砂川雄一が日野市立図書館を紹介しているなど、百科事典にある「図書館」の項目の内容としてはきわめて異色である。}

図書館の現状勢と打開への道 in『これからの図書館活動をすすめるために』

  (図書館問題研究会東京支部、1977.5)

  {図問研東京支部総会(1976年7月)における講演の筆記をもとに、論文として書き改めたもの。}

『東京の図書館のこれから進むべき方向』{講演}

  『図問研・さんたま会報』(日野、図書館問題研究会東京支部三多摩班)no. 6,1977.9

  {この『会報』第6号は、標記の講演のみからなる。後記には、注記をつけたのが編集者であること、前記「図書館の現状勢と打開への道」と内容が部分的に重複すること、1977年2月例会(18日)の講演記録であること、などが書かれている。}

市民と図書館:東京都日野市

  『ジュリスト増刊総合特集』(有斐閣)no. 9, 1977.12

「中小レポート」をもう一度:これからの公共図書館の展望{講演}

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 6, 1978.2

  {1977年10月10日、図書館問題研究会の第24回大会における記念講演の記録。}

「中小レポート」をもう一度:これからの公共図書館の展望{講演要旨}

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 7, 臨時増刊、1978.2

  {初出である同誌no.6の要旨。}

公共図書館:状況を超えるもの

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 16, no. 1, 1978.3

生活と図書館:都立日比谷図書館創立70周年記念パネルディスカッション

  『ひびや:東京都立中央図書館報』(東京都立中央図書館)v. 22, no. 1, 通巻129,1980.1

  {パネラー:川島恭子・高田宏・清水英夫・前川恒雄、司会:清水正三。この催しは1978年11月28日、東京都立日比谷図書館講堂で開催された。}

現代の公共図書館

  『建築画報』(建築画報社)v. 16, no. 1(通号141), 1980.2

図書館行財政について{講演}in『図書館振興に関する提言』

  (大津、滋賀県図書館振興対策委員会、1980.3)

  {1979年8月20日、29日、9月10日の3日間、滋賀県図書館振興研修会が開かれ、1日に2名が講演を行った。前川恒雄の講演は8月29日に滋賀会館において。この講演の概要は滋賀県立図書館のウェブサイトでも読むことができる。}

『講演記録:80年代の図書館』

  (立川市図書館、1980.3)

  {日野市立図書館によれば、1980年3月22日、立川市公民館幸分館での講演記録。ホッチキス止めの小冊子(26㎝、23p)。}

『図書館白書 1980:戦後公共図書館の歩み:図書館法30年記念』(編集・執筆:石

  井敦・久保輝巳清水正三浪江虔・前川恒雄)

  (日本図書館協会、1980.4)

供給が需要をつくる:前川恒雄氏が語る新しい図書館{講演}

  『としょかん・長崎通信』(長崎、わたしたちの図書館・長崎連絡会)no. 1,1980.5

  {国立国会図書館から入手した複写によれば、講演部分が2~4ページ(その中でタイトルと注記が手書き文字。全3ページの中に4か所の「中略」がある)、その後の質疑が5~6ページ(手書き)となっている。}

菅原峻「母親のための図書館」(晶文社)を読んで(北から南から)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 74, no. 10, 1980.10

すること しないこと

  『読書推進運動』(読書推進運動協議会)no. 155, 1980.10

図書館づくりと地域住民へのサービス [述]

  同志社大学図書館学年報』(京都、同志社大学図書館司書課程)no. 6, 1980.10

  {1980年、同志社大学の司書課程受講生のための講演または授業のゲスト・スピーチと思われる。堅い感じのタイトルだが、具体的なエピソードが盛りだくさん。}

国立国会図書館に望むこと

  『図研論集』(国立国会図書館職員組合)no. 3, 1980.11

新しい時代に求められる図書館:地方自治、文化、図書館 in『新しい時代の図書館づく

  り:滋賀県図書館振興会議講演記録』

  (大津、滋賀県教育委員会、1981.5)

  {市町村の図書館普及が遅れていた滋賀県内市町村の首長と教育長を聴衆として、施設、図書、職員、図書館間の協力について、わかりやすく説いている。}

専門職員の配置

  『社会教育』(日本青年館「社会教育」編集部)v. 36, no. 5, 1981.5

1970年代の図書館活動を総括し、80年代の公共図書館を展望する

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 33, no. 1, 1981.5

図書館の日常を励ましつづける論理の詩:「中井正一全集」の完結に寄せて:書評

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1222, 1981.7中旬号

『図書館で何をすべきか:若い図書館員のために:図書館問題研究会大阪支部第五期図

  問研塾の記録』{講演}

  (図書館問題研究会大阪支部、1981.9)

  {サブタイトルにある第5期図問研塾は、前川恒雄の連続3回の講演とその後の質疑応答からなる。内容は「貸出」「図書選択」「都道府県立図書館」「専門職員」で、例によって具体的なエピソードがちりばめられている。}

基調講演:図書館システムを考える in『愛知の図書館を考える県民集会記録』

  (名古屋、図書館問題研究会愛知支部名古屋市職員労働組合教事支部図書館ブロック、1981.9)

『貸出し』(図書館員選書 1)

  (日本図書館協会、1982.3)

東京都の図書館振興政策:その意義と教訓

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 59, 1982.4

市民の学習と図書館

  『社会教育』(日本青年館「社会教育」編集部)v. 37, no. 5, 1982.5

本との出会い 人との出会い:わたしたちのくらしと図書館のはたらき{講演} in『第一回堺市の図書館を考えるシンポジウム記録集』

  (堺市の図書館を考えるシンポジウム実行委員会、1982.6)

  {活字印刷ではなく、手書き。4ページの中に次の4つの見出しがある。「図書館はなぜ必要か」「どういう図書館でなければならないか」「図書館と地方自治」「図書館員の一人として、みなさんにお願いしたいこと」。末尾に「前川恒雄氏の講演をもとにして、記録者が書き直したもの」とあり。}

いま公立図書館はなにをすべきか:講演 in『長野県公共図書館研究集会報告書 昭和56年度』(長野県図書館協会公共図書館部会、1982.7)

  {1981年12月2日、市立飯田図書館における講演の記録。}

「図書館事業基本法(案)」批判(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1257, 1982.7中旬号

自治体の首長と図書館(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1260, 1982.8中旬号

「図書館の自由」とリクエスト・サービス(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1263, 1982.9中旬号

受験勉強と図書館 in『本と人と』

  (日本エディタースクール出版部、1982.10)

読者の拡大・発展と図書館(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1266, 1982.10中旬号

図書館建築の条件(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1269, 1982.11中旬号

最後は人(ブック・ストリート)

  『出版ニュース』(出版ニュース社)no. 1272, 1982.12中旬号

図書館サービス・現下の問題点と打開の方向:講演 in『全国公共図書館研究集会報告書 昭和56年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1983.1)

  {1981年11月18日~19日に高知市で開催された奉仕部門研究集会初日の講演。また、前川恒雄は初日の第2部会と2日目の全体会議で助言者を務めた。}

予定表

  『湖国と文化』(大津、びわ湖芸術文化財団)no. 22, 1983.1

  {数少ないエッセーの一篇。}

新しい図書館の出発

  『季刊としょかん批評』(せきた書房)no. 2, 1983.4

実習生に望む:実習受入館より

  『同志社大学図書館学年報』(京都、同志社大学図書館司書課程)no. 9, 1983.5

市民に拠ってひらく図書館の未来 in『これからどうなる:日本・世界・21世紀』

  (岩波書店、1983.5)

克服すべき基本的課題は何か:『これからどうなる』補遺

  『としょかん』(としょかん・文庫友の会)no. 9, 1983.8

  {本誌は2005年1月に「としょかん」復刻版刊行会より復刻版が出された。}

公共図書館発展の基礎

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 77, no. 11, 1983.11

現状況における貸出の意義とその発展{講演}

  『東公図貸出研究会会報』(東京都公立図書館貸出研究会)no. 4, 1983.11

  {1983年3月30日、東京都公立図書館貸出研究会における講演会の記録。この第4号は手書きである。}

図書館理論の発展

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 79, 1983.12

T. ケリー、E. ケリー共著、原田勝、常盤繁共訳『イギリスの公共図書館(東京、東京

  大学出版会、1983){書評}

  『ドクメンテーション研究』(情報科学技術協会)v. 34, no. 2, 1984.2

図書館の二つの顔

  『紙魚』(鳥取紙魚の村)no. 3, 1984.2

書評:『大阪の公共図書館:「貸出に関する調査」報告書』図書館問題研究会大阪支部

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 36, no. 2, 1984.7

公共図書館の発展を支える理論とは:特に図書選択を中心に:特別講演

  『図書館評論』(図書館問題研究会)no. 25, 1984.7

  {第10回図問研理論集会における講演。}

お天気しらべ

  『研修だより』(大津、滋賀県職員研修所)no. 21, 1984.8

コピー禍

  『滋賀の経済と社会』(大津市、滋賀総合研究所)no. 32, 1984.8

  {数少ないエッセーの一篇。}

『市民の図書館とそれを支える県立図書館:前川恒雄氏講演記録』

  (福岡、「九州の図書館を考えるつどい」実行委員会、1984.10)

  {1984年7月30日、福岡県立図書館で開催された第5回「九州の図書館を考える」福岡のつどいで行なわれた講演(p. 5~23)。}

滋賀県立図書館のサービス(実践レポート){講演}in 『市民の図書館とそれを支える

  県立図書館:前川恒雄氏講演記録』

  (福岡、「九州の図書館を考えるつどい」実行委員会、1984.10)

  {前記の「市民の図書館とそれを支える県立図書館」につづいて、翌31日に同じ「つどい」で行なわれた講演(p. 25~44)。}

『みんなのまちに図書館を:滋賀県立図書館 図書館講座講演録』

  (大津、滋賀県公共図書館協議会、1985)

  {滋賀県野洲図書館から借りた本書には出版事項が記載されていないため、同館のOPACによって上記出版事項を補った。OPACが著者名としている「前川恒雄」は、背表紙に「前川恒雄 述」となっている。本書の表紙裏には次の文言がある。「図書館講座は六十年秋、「自分の住むまちによい図書館がほしい」という地域住民の方々と県立図書館が、力をあわせて図書館について考えようと、ひらかれたものです。そのときの講演をまとめました。」}

日本社会の変動と図書館活動

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 36, no. 5, 1985.1

いま県立図書館がなすべきこと

  『丸善ライブラリーニュース』(丸善)no. 130, 1985.2

『図書館員を志す人へ:前川恒雄講演録』

  (長崎、純心女子短大図書館学研究室、1985.3)

  {1984年の秋、純心女子短大(長崎市)図書館学コースの特別講義として講演したもの。後に復刻版発行:長崎、図書館づくりと子どもの本の研究所、2007.3。}

公共図書館の方向と方法

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 79, no. 6, 1985.6

図書館の国際交流

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 23, no. 2, 1985.6

ネットワークをどう考えるべきか:シンポジウム

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 38, no. 2, 1986.7

ともに働くものとして in『創立20周年記念誌:二十年のあゆみ』

  (日野市職員互助会、1986.8)

「灰かぶり」の結末 in『私たちと子どもの本:十五周年記念誌』

  (大津、滋賀県児童図書研究会、1986.11)

図書館建築の課題:司書の立場から

  『公共建築』(社団法人営繕協会)v. 28, no. 3, 1986.12

書評:『公立図書館の歴史と現代』森耕一著

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 81, no. 2, 1987.2

『われらの図書館』

  (筑摩書房、1987.4)

「第3章 都道府県立図書館」に対する意見について(小特集「『公立図書館の任務と目標(第二次案)』を検討する」(1月号)を読んで)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 81, no. 4, 1987.4

図書館日誌

  『ちくま』(筑摩書房)no. 194, 1987.5

 {数少ないエッセーの一篇。}

電算化の方法とその問題点:講演 in『全国公共図書館研究集会報告書 昭和61年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1987.10)

  {1986年10月23日~24日に岐阜市で開催された整理部門研究集会初日の講演。}

発刊の辞

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 1, 1987.10

新任図書館長への手紙(第一信)

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 1, 1987.10

リクエスト論への疑問にこたえる:清水正三氏への手紙(北から南から)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 81, no. 12, 1987.12

後世に伝えるに足るものを

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 25, no. 4, 1987.12

貸出業務、記録と評価in『図書館情報学ハンドブック』

  (丸善、1988.3)

  {第8章:利用サービスの8.3.3および8.3.5が標題の記事。}

テクノロジー図書館論の特徴

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 2, 1988.3

新任図書館長への手紙(第二信)

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 2, 1988.3

移動図書館ひまわり号』

  (筑摩書房、1988.4)

  {2016年に夏葉社から復刻版。}

図書館発展の要因をさぐる〈対談〉{対談者:森耕一}

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 40, no. 1, 1988.5

論理の初歩について

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 40, no. 2, 1988.7

新任図書館長への手紙(第三信)

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 3, 1988.8

考える力をつける教育を…(これも、重要な教育課題だ!)

  『学遊』(第一法規)v. 3, no. 1, 1989.1

生涯学習時代の図書館を考える:座談会

  『文部時報』(ぎょうせい)no. 1345, 1989.2

  {出席者:前川恒雄・清田義昭・山下勇・櫻井良子、司会者:飛田眞澄。}

新任図書館長への手紙(四)

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 4, 1989.2

公共図書館のあり方{講演}

  『図書館学』(久留米、西日本図書館学会)no. 54, 1989.3

  {1988年11月12日、福岡市における西日本図書館学会創立35周年記念公開講演の記録。タイトルは抽象的な感じだが、内容は実例を挙げていて、読みやすい。}

『図書館への確信:前川恒雄講演録』

  (日野、「図書館への確信」刊行委員会、1989.10)

  {1989年1月の東京都公立図書館職員研究集会の部会での記録をもとにして、講演者が加筆したもの。大見出しは、「東京都の図書館」「どこに問題があるか」「われわれは何をすべきか」。}

おふくろさん

  『湖国と文化』(大津、滋賀県文化体育振興事業団)no. 49, 1989.10

  {母の思い出を率直に書いたエッセー。}

出版を祝う in『道:雑誌の協力貸出に取り組んだ都立立川図書館の記録』

  (立川、都職労教育庁支部三多摩分会、1989.11)

『図書館は何のためにあるのか:前川恒雄氏講演録』

  (金沢、石川県読書推進協議会、1989.12)

  {平成元年度石川県図書館大会での記念講演(1989年11月16日)の記録。内容は、「図書館は何のためにあるのか」「図書館にはどういう条件が必要か」「良い図書館はどうしたらできるか」。}

公立図書館の職員:(コンメンタール図書館法 8)

  『図書館雑誌』(日本図書館協会)v. 84, no. 2, 1990.2

  {後に森耕一編『図書館法を読む』(日本図書館協会、1990.10)に収録。}

解説 in『有山崧』(個人別図書館論選集)有山崧著、前川恒雄編

  (日本図書館協会、1990.3)

図書館はなぜ無料か

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v.41, no.6, 1990.3

新任図書館長への手紙(五)

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 5, 1990.3

あとがき

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 5, 1990.3

図書館は何のためにあるのか{講演要旨}

  『石川自治と教育』(金沢、石川県自治と教育研究会)v. 43, no. 4, 1990.4

  {前記『図書館は何のためにあるのか:前川恒雄氏講演録』(石川県読書推進協議会、1989.12)の要旨}

公立図書館の職員 in『図書館法を読む』(森耕一編)II:図書館法の解説、第五章

  (日本図書館協会、1990.10)

  {後に同書補訂版にも収録。{初出は『図書館雑誌』v. 84, no. 2, 1990.2}

図書館法規に関する質問と回答 in『図書館法を読む』(森耕一編)

  (日本図書館協会、1990.10)

  {標題の部分は、Ⅲ:図書館法をめぐって、第4章に含まれている(分担執筆)。後に同書補訂版にも収録。}

新しい時代の図書館相互協力を考える:記念講演 in『全国公共図書館研究集会報告書

  平成元年度』

  日本図書館協会公共図書館部会事務局、1990.10)

  {1989年9月13日、群馬県民会館における奉仕部門研究集会での記念講演。資料の所在検索・貸借・搬送・費用負担・保存、住民の広域利用、雑誌記事の索引づくり、職員の交流など、多岐にわたって持論を展開。}

図書館サービス発展の方向と展望:講演 in 『全国公共図書館研究集会報告書 平成元年度』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1990.10)

  {1989年11月30日、那覇市自治会館における移動図書館研究集会での講演。}

市民と図書館員

  『径』(草津草津市立図書館)no. 2, 1990.10

図書館協力の条件:コンピュータ・ネットワークの前に

  『三角点』(堺、羽衣学園短期大学図書館学研究室)no. 6, 1991.1

杉捷夫先生の業績

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 166, 1991.3

図書館へ

  『藤棚:甲南大学図書館報』(神戸、甲南大学図書館)v. 8, no. 1, 1992.4

すべてはカウンターに

  『径』(草津草津市立図書館)no. 10, 1992.11

書評:伊藤昭治、山本昭和編著『本をどう選ぶか』

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 44, no. 5, 1993.1

これからの図書館、それを生かす人

  『社会教育』(日本青年館)v. 48, no. 2, 1993.2

受験勉強の場から自己教育の場へ

  『年魚市:館報』(名古屋、愛知芸術文化センター愛知県図書館)no. 4, 1993.3

森さんの一面{追悼:森耕一}

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 45, no. 2, 1993.6

図書館発展の方向:滋賀県の場合 in『滋賀の図書館 ‘93』

  (大津、滋賀県公共図書館協議会、1994.2)

  {後に『みんなの図書館』no. 217, 1995.5に採録。}

座談会:基本のところを歩んで:滋賀県立図書館創立50周年記念座談会 in『滋賀県立図

  書館創立50周年記念誌』

  (大津、滋賀県立図書館、1994.3)

  {出席者:稲葉稔、前川恒雄、伊藤昭治、上原恵美、澤田正春。}

『図書館の働きと委託:図書館の現在と未来を問う:前川恒雄講演記録』

  (日野、「公立図書館の管理委託を考える」実行委員会、1994.5)

  {調布市が新中央図書館の運営を財団に委託する方針を1993年4月に明らかにしたことから、多摩地域の図書館関係者がシンポジウムや学習会を開催した。標記の講演は、1994年1月7日、調布市民センターで開かれた「図書館の働きと委託」と題する学習会におけるもの。}

図書館の働きと委託{講演} in 『公立図書館の現在と未来を問う : 公立図書館のあり方と委託問題:シンポジウム・連続学習会の記録』

  (日野、「公立図書館の管理委託を考える」実行委員会、1994.7)

  {前記と同じ内容。}

図書選択論の基礎

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 46, no. 3, 1994.9

現代公立図書館の課題と中小レポートの思想:前川恒雄さんに聞く

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 46, no. 5, 1995.1

  {インタビューは1993年11月13日、栗東町立図書館会議室で行なわれ、主たる聞き手は山口源治郎。ほかに松野高徳・小林卓・竹島昭雄。後に『『中小都市における公共図書館の運営』の成立とその時代』(日本図書館協会、1998.3)に「前川恒雄氏インタビュー記録」として収録。}

図書館とは建物ではなく貸出しサービスの全システムをいう in『図書館建築22選』

  (東海大学出版会、1995.4)

  {前川の文章は『新建築』v. 48, no. 8, 1973.8からの転載。本書には、日野市立図書館の各種データ、中央図書館の各種図面が収録されている。}

図書館発展の方向:滋賀県の場合

  『みんなの図書館』(教育史料出版会)no. 217, 1995.5

  {初出は『滋賀の図書館 ‘93』(1994.2)。}

地方自治と図書館の働き

  『地方財務』(ぎょうせい)no. 495, 1995.8

県立図書館序論 in『転換期における図書館の課題と歴史 : 石井敦先生古稀記念論集』

  (緑蔭書房、1995.9)

司書養成教育と図書館学

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会) v. 47, no. 3, 1995.9

公立図書館の職員in『図書館法を読む』(森耕一編)補訂版

  (日本図書館協会、1995.10)

  {標題部分は、Ⅱ:図書館法の解説、第5章に含まれている。}

図書館法規に関する質問と回答 in森耕一編『図書館法を読む』補訂版

  (日本図書館協会、1995.10)

  {標題部分は、Ⅲ:図書館法をめぐって、第4章(分担執筆)に含まれている。}

解説 in清水正三著『図書館を生きる:若い図書館員のために』

  (日本図書館協会、1995.10)

  {苦楽を共にした先輩図書館員への敬愛の情がにじみ出ている文章。}

図書選択の理論と実際:私の選択論:講演要旨

  『教育広報』(松江、島根県教育委員会)no. 1198, 1996.2

  {下記1996年11月の全国公共図書館整理部門研究集会における同じタイトルの基調講演の要旨。}

図書館サービスの方向:児童文化講演会 in『彩の国さいたま図書館フェスティバル '95講演集』

  (浦和、埼玉県立浦和図書館、1996.3)

  {児童文化講演会と銘打っているが、講演の内容は図書館の基本についてである。}

「市民の図書館」の二十五年:基調講演 in『「貸出し」がひらいてきたもの:『市民の図書館』から二十五年:平成七年度全国公共図書館奉仕部門研究集会記録集』

  (大津、滋賀県立図書館、1996.3)

  {後に下記の日本図書館協会刊『全国公共図書館研究集会報告書 平成7年度(1995年度)』に収録。}

シンポジウム:本のある暮らし in『「貸出し」がひらいてきたもの:『市民の図書館』から二十五年:平成七年度全国公共図書館奉仕部門研究集会記録集』

     (大津、滋賀県立図書館、1996.3)

  {後に下記の日本図書館協会刊『全国公共図書館研究集会報告書 平成7年度(1995年度)』に収録。}

『図書館を考える』{2件の講演記録}

  (日野、「公立図書館の管理委託を考える」実行委員会、1996.5)

  {1993年10月1日、市川房枝記念婦選会館において行われた講演「図書館は何のためにあるのか」、1993年11月11日、同じ会場で行われた講演「図書館はどこへ:現状、問題、そしてこれから」の記録。}

状況から明日(あす)へ{講演}

  『図書館史研究』(日外アソシエーツ)no. 12, 1996.5

  {日本図書館学会・図書館史研究会主催の第12回図書館史を考えるセミナー(1995年9月9日、法政大学)における特別講演。現在の状況を確認した上で新しい理論をつくる新しい人材が必要だと説く。}

図書選択の理論と実際:私の選択論:基調講演 in『全国公共図書館研究集会報告書 平成7年度(1995年度)』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1996.11)

  {整理部門研究集会での基調講演。}

『市民の図書館』の25年:基調講演 in 『全国公共図書館研究集会報告書 平成7年度(1995年度)』

  日本図書館協会公共図書館部会事務局、1996.11)

  {奉仕部門研究集会での基調講演。}

本のある暮らし:シンポジウム in『全国公共図書館研究集会報告書 平成7年度(1995年度)』

  (日本図書館協会公共図書館部会事務局、1996.11)

図書館理論形成の方法:図書選択論を中心に

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 49, no. 1, 1997.5

発刊に寄せて in 西田博志著『図書館員として何ができるのか:私の求めた図書館づくり』

  (教育史料出版会、1997.10)

前川恒雄氏インタビュー記録 inオーラルヒストリー研究会編『『中小都市における公共図書館の運営』の成立とその時代』

  (日本図書館協会、1998.3)

  {1993年11月13日のインタビュー。おもな聞き手は山口源治郎、ほかに竹島昭雄・松野高穂・小林卓。予算折衝の裏話的な話などもあって、興味深い内容となっている。初出は、「現代公立図書館の課題と中小レポートの思想」(『図書館界』v. 46,no. 5, 1995.1)。}

図書館のしごと:カウンターで in塩見昇編『図書館サービス論』新訂版(新編図書館学教育資料集成 3)

  (教育史料出版会、1998.3)

  {前川恒雄著『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)の一部を転載したもの。}

忘れえぬ人びと(1)梶井重雄さん

  『としょかん』(図書館計画施設研究所)no. 64, 1998.5

忘れえぬ人びと(2)有山崧さん

  『としょかん』(図書館計画施設研究所)no. 65, 1998.8

忘れえぬ人びと(3)杉捷夫先生

  『としょかん』(図書館計画施設研究所)no. 66, 1998.11

図書館経営論序説

  『現代の図書館』(日本図書館協会)v. 36, no. 4, 1998.12

忘れえぬ人びと(4)ブライアンさん

  『としょかん』(図書館計画施設研究所)no. 67, 1999.2

『前川恒雄著作集 1:図書館について』

  (出版ニュース社、1999.2)

『前川恒雄著作集 2:図書館の世界』

  (出版ニュース社、1999.3)

『前川恒雄著作集 3:図書館の変革』

  (出版ニュース社、1999.4)

『前川恒雄著作集 4:人間の図書館へ』

  (出版ニュース社、1999.5)

図書館の過去・現在・未来{基調講演}in『’99本で育むいのちの未来:地域から描く21世紀の出版ビジョン:第5回(平成11年度)「本の学校」大山緑蔭シンポジウム記録集』

  (米子、「本の学校」大山緑蔭シンポジウム実行委員会、2000.8)

  {第3分科会での基調講演。}

この時、何をすべきか:特別研究例会報告{講演}

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 52, no. 3, 2000.9

  {2000年5月28日、京大会館を会場として、午後に開かれる日本図書館研究会評議員会に先立ち、午前に開かれた特別研究例会での講演。この講演の記録は、前川によって一部を削除・加筆・修正され、翌年刊行の『いま、市民の図書館は何をすべきか:前川恒雄さんの古稀を祝して』に収録された。}

今、よみがえる有山崧:記念講演 in『有山崧:その思想に学び、これからの図書館を考える:没後30年記念集会』

  (有山崧没後30年記念集会実行委員会、2000.12)

  {1999年5月24日、立川市女性総合センターの集会における講演。}

この時、何をすべきか{講演} in『いま、市民の図書館は何をすべきか:前川恒雄さんの古稀を祝して』

  (出版ニュース社、2001.4)

  {2000年5月28日の京大会館における講演の一部を削除・加筆・修正したもの。}

発刊の辞

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 1, 2002.2

住民と図書館の関係

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 1, 2002.2

忘れえぬ人びと:瀬林杏子さん

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 3, 2002.6

公立図書館の民間委託はしてはならない

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 4, 2002.9

栞をはさむ

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 5, 2003.1

栞をはさむ(2)人の勢い

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 6, 2003.4

栞をはさむ(3)

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 7, 2003.7

これからの市民の図書館(1)

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 7, 2003.7

これからの市民の図書館(2)委託に抗して

  『三角点』(神戸、甲南大学図書館学研究室)復刊no. 9, 2004.1

『新版 図書館の発見』(NHKブックス 1050)(共著者:石井敦

  (日本放送出版協会、2006.1)

「供給が需要を生む」という言葉(エコー)

  『図書館界』(大阪、日本図書館研究会)v. 58, no. 2, 2006.7

『図書館員を志す人へ:前川恒雄講演録』復刻版

  (長崎、図書館づくりと子どもの本の研究所、2007.3)

  {初版は純心女子短大図書館学研究室、1985.3。}

  {講演に加えて、聴講した学生、この小冊子を読んださまざまな館種の図書館員、学生、司書課程の教員、文庫関係者、市民などの感想が紹介されている。}

公共図書館の歴史が変わった日:日野市立図書館元館長・前川恒雄氏は語る{インタビュー}in『建築家の自由:鬼頭梓と図書館建築』

    (建築ジャーナル、2008.6)

有山崧から何を学び、何を生かすのか:基調講演 in『有山崧の視点から、いま図書館を問う : 有山崧生誕100周年記念集会記録』

  (日野、有山崧生誕100周年記念集会実行委員会、2012.9)

  {2011年11月28日、実践女子大学香雪記念館で開かれた集会における講演記録。}

市民と図書館

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 1, 2014.9

司書の仕事(1)

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 6, 2015.12

”ひまわり号“から50年、日本の図書館の現状は?:基調講演 in『滋賀から問う:”ひまわり号“から50年、日本の図書館の現状は?:図書館を考える集い(2015年10月28日)記録』

    (草津、滋賀の図書館を考える会、2016.1)

  {2015年10月28日に開かれた「図書館を考える集い」での講演記録。}

滋賀の図書館がめざしてきたこと{講演} in『滋賀から問う:”ひまわり号“から50年、

  日本の図書館の現状は?:図書館を考える集い(2015年10月28日)記録』

    (草津、滋賀の図書館を考える会、2016.1)

  {この講演は、2014年12月16日に開かれた「図書館を考える集い」でのもの。}

日野市立図書館がめざしたもの in『本の力 図書館の力を信じて:日野市立図書館開設

  50周年記念誌』

  (日野、日野市立図書館、2016.2)

  {後に『未来の図書館のために』(夏葉社、2020.12)に収録。}

司書の仕事(2)

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 7, 2016.3

みんなで賢くなろう

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 8, 2016.6

移動図書館ひまわり号』

  (武蔵野、夏葉社、2016.7)

  {1988年に筑摩書房から出された同書の再刊。}

マイナンバーカードの図書館への導入:その危険性について

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 9, 2016.9

著者インタビュー:前川恒雄

  『サンデー毎日』(毎日新聞出版)v. 95, no. 48, 2016.11.6

  {復刊された『移動図書館ひまわり号』(夏葉社、2016.7)の著者として受けたインタビュー。構成:竹坂岸夫。}

第1部:対談{前川恒雄・島田潤一郎} in『志のバトンをつなぐ:〈2016.9.2〉前川恒雄『移動図書館ひまわり号』復刊記念のつどい・記録』

  (草津、滋賀の図書館を考える会、2016.12)

出版社の仕事:その重要さ

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 10, 2016.12

マイナンバーカードと私の心配

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 11, 2017.3

図書館の現状をどう打開するか(1)

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 12, 2017.6

学習室、入館者数について

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 13, 2017.9

図書館の現状をどう打開するか(2)

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 14, 2017.12

現代日本の民主主義と図書館

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 14, 2017.12

図書館統計について

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 15, 2018.4

いわゆる「出先き」の重要さについて

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 16, 2018.6

歴史の中の国の図書館政策

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 17, 2018.9

滋賀県内の図書館への私の願い

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 18, 2018.12

図書館建築の美しさについて

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 19, 2019.3

(1)指針としての歴史と理論 (2)「和の国、日本」における図書館の使命

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 20, 2019.7

翻訳の文章について

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 21, 2019.12

なぜ移動図書館だったのか{遺稿}

  『点』(草津、滋賀の図書館を考える会)no. 22, 2020.9

『未来の図書館のために』

  (武蔵野、夏葉社、2020.12)

  {収録されているのは、「日野市立図書館がめざしたもの」、回想録「一図書館人の思い出」、「みんなで賢くなろう」、「滋賀の図書館を考える会」の会報『点』に寄稿した文章20篇。}

前川恒雄さんの仕事(5)甲南大学教授と大阪商業大学図書館相談役

 1991(平成3)年3月に滋賀県立図書館を定年退職した恒雄さんは、翌4月から甲南大学文学部の教授になりました。司書課程の担当です。前年の秋に甲南大学の教授や旧知の森耕一氏など3人が会いに来て勧誘されたときは、特任教授という条件で承諾していました。ところが4月に受け取った辞令には、身分が正規・専任の教授、給与も聞いていた額よりはるかに高額で、びっくりします。

 

 恒雄さんは1968(昭和43)年いらい東洋大学(3年間)や実践女子大学(3年間)などいくつかの私立大学で司書講習の非常勤講師を経験していました。また、図書館関係の研修会や講習会での講師の経験も豊富で、大勢の人の前で話すことには慣れていました。けれども、初年度の数か月間は、ふたつの不安を抱えていたということです。

 ひとつは、「立っている場所がなくなったような不安」でした。ある日、デパートへ行ったとき、何のはずみか、不安の理由に気づきます。「公務員としての仕事を離れて、立っている場所がなくなったような感覚、それが不安の原因なのだ」と。(録音20130524)

 もうひとつの不安は、担当した週に4コマの講義ノートをきちんと練り上げることができなかったことでした。

 

 恒雄さんは週に2日、講義のために出校しました。教授会への出席と入学試験の監督以外にこれといった義務がなく、終の棲家とするつもりで建てた家が滋賀県野洲にあって、大学が遠く、出勤を原則として2日だけにしたのでした。とは言え、司書課程の教授はひとりだけなので、課程全般への目配りや非常勤講師の手配などには、責任をもたなければなりません。また、大学の教員は研究をすることも大事な仕事ですから、論文の執筆が義務のようなもので、そのため毎年度、定額の研究費(使途は本や物品の購入、旅費など)が支給されます。

 甲南大学の司書課程では、1科目あたり(年度によって上下しますけれど)100人前後の受講生がいました。まじめな学生が多く、出欠を確認しなくても欠席する学生はほとんどいなかったということです。

 

 やがて、恒雄さんは次のような感慨をもつにいたります。

 「大学教授になってみて、こんな職業が世の中にあるのか、と思った。休みが長く、出勤は週に2日ほど。上司や部下がいなくて独立している。給料はそこそこ、知らない人は偉いと思ってくれる。」(録音130524)

 

 甲南大学在職中、恒雄さんは図書館長を兼任するよう要請されました。最初は理工学部長が学長の意向を伝えに来て断りますと、学長から呼び出されて「先生のおっしゃることを聞きますから、ぜひ引き受けていただきたい」と言われます。学長の口から「言うことを聞きますから」という文言が出たのは、いろいろと改革する必要のあった図書館を、経験と実績の豊かな恒雄さんに何とかしてほしかったからです。

 けれども、恒雄さんは「教育と図書館長の両立という芸当はとても無理です」ということで、お断りしたのでした。《芸当》というやや不穏当な言葉は私のインタビューに答えるときに使ったもので、学長に対して発したかどうかは知りません。(録音130503)

 たしかに、日本では教授が図書館長を兼任するのが普通になっていて、図書館の専門家(司書)が大学図書館長に就任する例がほとんどありません。それは、大学の図書館職員に適任者がいないからではなく、たんに前例を踏襲しつづけてきた結果だと私は思っています。

 

 ある日、経済学部の高橋哲雄教授が「前川さんが甲南の教授になることを知って、とても嬉しかった」と恒雄さんに声をかけてくれました。氏は以前から図書館に関心があり、恒雄さんの著書『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)を読んで、日野市まで図書館を見に行ったことがあったのでした。

 高橋教授は経済学以外の本もいろいろ書いていて、その中に『ミステリーの社会学』という新書(中公新書、1989年)があります。これはミステリーを縦横に論じた労作で、著者の渉猟ぶりと現実の事件現場などにも足を運ぶフットワークの軽さにも驚かされる本です。

 甲南大学での恒雄さんは、この高橋教授を介して、熊沢誠(経済学部)、山内昶(ひさし・文学部)の両教授、文学部長だった松村昌家教授などと親しくなりました。松村教授とは学術的な話題よりも、くだけた話をすることが多かったということです。たとえば、

 「松村さんが電車に乗っていると、自分は明治天皇の兄弟の子孫だという男が話しかけてきた。「証拠を見せるから自宅に来ませんか」というので、松村さんはついて行った。すると、その男の野洲の自宅には、菊のご紋章のついた品々が所狭しと飾ってあった。松村さんが「あれはほんとですかね」と言うので、野洲に住んでいた私が役場の偉い人に聞いたら、「そんな人はぜんぜん知りません」とにべもない返事をされた。」(録音130524)

 たわいない話ですけれど、利害関係のない教授たちとの交わりの一例なのでしょうね。

 

 未刊の回想録『思い出から』(注1)には、「甲南大学の八年間は実に幸せな年月だった」と書かれています。健康面では大きな手術を受けるなどの試練がありましたけれど、仕事面では重圧と緊張から解放された気楽さがあったようです。たとえば、「教授会の大事な議題にかんすることはほとんど記憶にないのに、脇道の話を覚えている」と言って、次の例を披露してくれました。

 「学内にKnowledge Factory Centerとかいうものを新設するという話があり、イギリス人の教員が「英語にそんな言葉はありません。略すとKFCですね」と言い、みんなが声をあげて笑った。」(録音130524)

 振り返ってみますと、恒雄さんが気持ちよく仕事をできたのは、七尾市立図書館員時代、日野市の部長時代、そして甲南大学教授時代でした。ここには、日本の図書館史に残る大きな仕事をなしとげた日本図書館協会の事務局職員時代、日野市立図書館長時代、滋賀県立図書館長時代が入っていません。

 

 1999(平成11)年3月、恒雄さんは定年によって甲南大学を退職し、4月から大阪商業大学図書館の(館長)相談役に就任します(在職期間は2年)。数年前に甲南大学を退職して大阪商業大学の教授・図書館長に就任していた高橋哲雄教授から請われてのことでした。

 図書館の改善、とくに職員の教育を依頼されましたけれど、出勤は原則として週に1日、それで満足な結果を得られるかを案じていました。ところが懸案となっていた新図書館の建築が具体化し始め、恒雄さんは「これで救われた」「責任を果たせる」と思ったいうことです。

 恒雄さんが甲南大学を退職する1か月前の年3月1日、私が勤務していた京都産業大学図書館を、恒雄さんを含む5人の見学者が訪れました。『京都産業大学図書館年報 1999』の「見学者」欄に、「甲南大学前川教授と大阪商業大学高橋哲雄氏ほか3名」と記録されています。つまり、その時点で大阪商業大学は図書館の新館建設を視野に入れていたということになります。

 その後、東畑設計事務所大阪商業大学図書館の高橋館長、前川相談役は頻繁に設計のための協議を重ね、恒雄さんの意見がいろいろ採用された6階建ての新図書館は、2002(平成14)年9月30日にオープンしました。

 

(1)

 当ブログでは、前川恒雄さんの未刊の回想録『思い出から』を、数回にわたって情報源として引用してきました。このたび、『思い出から』を中核部分とする本が出版されましたので、ご紹介しておきます。『未来の図書館のために』(夏葉社、2020年12月25日発行、定価:本体1,800円+税)です。

 発行から1か月が経っても夏葉社のウェブサイトの「刊行書籍」欄に情報が出なかったため同社にメールで問い合わせましたところ、2月5日発売予定との回答を得ました。「業務過多で更新に手がまわっていない」のが同社のウェブサイトに情報が載っていなかった理由だそうです。

 同書は、「日野市立図書館がめざしたもの」、「一図書館人の思い出」、「みんなで賢くなろう」という3つの部分からなっています。このうちの「一図書館人の思い出」が(くわしく突き合わせてはいませんけれど)『思い出から』とほぼ同じ内容だと思われます。つまり、日本図書館協会事務局に就職してから甲南大学教授退任までの回想が『思い出から』とほぼ同じ内容で、そこへその後の転居や図書館とのかかわりの手短な記録が添えられています。

 3つ目の「みんなで賢くなろう」は、『点』(発行:滋賀の図書館を考える会)の創刊号(2014年9月)から終刊号(2020年9月)までに恒雄さんが寄稿した比較的短い文章から成っています。

 なお、本書が「市場に流通する数は3、400部と少ない」そうです。

前川恒雄さんの仕事(4の3)図書館県・滋賀の誕生

 1980年代の後半からでしょうか、滋賀県は「図書館県」「図書館先進県」「図書館立県」「図書館王国」「図書館見学のメッカ」などと言われ始めました。そして滋賀県公共図書館協議会も、2019年4月につくったポスターの中で「としょかん県 しが」と自称しています。(1)図書館関係者の自信と誇りの現われでしょうね。

 今回は、滋賀県図書館界がそのように高く評価されるようになった理由について考えてみます。

 

活気のある図書館群が見学者を驚かせる

 恒雄さんが滋賀県立図書館を定年退職する3年前、滋賀県では7市のすべてに図書館があるものの、43町村のうち図書館があるのは6町だけでした。そこで、県の教育委員会は市町村の図書館設置を促進するために、1988(昭和63)年3月、『市町村立図書館の建設に向けて』と題するパンフレットをつくります。

 それによりますと、活動面では、「昭和50年以前は全国でも最下位争いをしていた滋賀県が、50年代中頃以降、東京、愛知、神奈川などに次いで最上位の一つにランクされるように」なったということです。

 

 その後もこの勢いはつづきます。当ブログの「バラエティー豊かな公共図書館」にある「統計による大まかな現状」では、『日本の図書館:統計と名簿 2017』を参考にして都道府県単位で図書館のいくつかの要素を比べました。それによりますと、滋賀県は、

 図書館設置率  全国1位(5県が100%)

 専任職員に占める司書の割合  全国1位

 蔵書数(人口100人当り)  全国2位

 個人への貸出数(人口100人当り)  全国2位

 年間の受入冊数(人口1,000人当り)  全国4位

 利用登録率  全国4位

となっていました。全6項目でベスト5に入っていたのは滋賀県だけで、4項目がベスト5に入ったのは福井県、3項目がベスト5に入ったのは山梨県鳥取県でした。

 この事実の意味するところは、滋賀県では公共図書館がすべての自治体に設置されていて、統計をとれる要素の多くがトップ5に入っていた、ということです。「としょかん県 しが」と自称するのもうなずけますね。(2)

 

 自分の住んでいる自治体に図書館がない、あるいはお粗末な図書館しかない、それを何とかしようと活動する団体は、しばしば他の自治体の図書館を見学してきました。図書館をつくると決めた自治体のばあいは、建設準備委員会などのメンバーが中心となって(時には市長や町長、村長が同行して)見学をすることがあります。

 見学の対象となるのは、図書館の建物が比較的新しく、利用が活発で評判がよい、見学を勧める人がいる、などの条件をみたす図書館で、1980年代以降の滋賀県にはその種の図書館がつぎつぎと誕生していました。

 そして、滋賀県の市立・町立図書館の見学を終えた人たちは、「活気がある」「居心地がよい」「雰囲気がよい」「ユニークな取り組みをしている」「職員の応対がすばらしかった」「館長の話に感銘をうけた」「館長の情熱が伝わった」といった感想をもらす例が多かったのでした。

 一例を挙げますと、

 2000年に斐川町島根県)の図書館準備室長に就任した白根一夫氏は、図書館建設計画検討委員会(白根氏を入れて16人)を立ち上げ、委員とともに県内、県外の図書館を精力的に見学し、次のように書いています。

 「多くの検討委員が滋賀県の2つの町立図書館には衝撃に近い感動をもたれたようです。」

 また、委員のひとりの感想文には次のようなくだりがあります。

 「栗東市{見学時点では栗東町}・甲西町・湖東町の3カ所を実際に見て、専門家の館長さんの話を聞き大変勉強になったと共に驚きいっぱいだった。」(3)

 栗東市甲西町、湖東町の図書館長は、市や町が図書館を新設するに際して、いずれも県外から招かれた人たちでした。

 

県外から招かれた館長たちが活躍する

 滋賀県が図書館長になる人を県外から招くことは、1980(昭和55)年の恒雄さんいらい、少しずつ図書館界で知られるようになります。ほぼできあがっていた県立図書館の新館を着任前に案内されたとき、恒雄さんはいくつかの問題点に気づき、数年後に多額のお金をかけてリフォームしなければなりませんでした。

 その反省を踏まえて、滋賀県では、市町村で図書館を新設するときには「あらかじめ県立図書館に相談するように」「司書資格と実務経験のある館長予定者を準備段階から」と文化振興課がお願いしていました。そのため、建築を始める以前に館長候補者の推薦を文化振興課や県立図書館が頼まれる例が増えていったのでした。

 

 県外から招かれた司書館長の2人目は京都大学附属図書館から草津市立図書館長になった武内隆恭氏、3人目は大阪府立図書館から八日市市立図書館館長になった西田博志氏で、恒雄さんの滋賀県立図書館退職後も含めれば、県外から10人を軽く超える人たちが館長として迎えられました。そのため、滋賀県図書館界は《人さらいの滋賀》というありがたくない言い方をされることがありました。この件について私のインタビューに答えた恒雄さんの弁解めいた回答はおおむね次のとおりです。

 ①館長となる人をスカウトしたのは、初めのうち、そうせざるをえなかったから。私が滋賀県へ行った時点で、県内の公立図書館は県立を含めて5館しかなく、図書館の専門職が他館へ人を回せるほどに育っていなかった。

 ②県立図書館には市町村立の館長が務まるしっかりした司書がいたが、まず県立図書館を立て直す必要があったし、推薦しようと思って打診しても、県立の司書は市町立へ行きたがらなかったという事情もあった。

 ③スカウトされた図書館長が呼び水となって、新たにスカウトされた人が少なくなかった。呼び水の好例は西田博志氏で、「彼は考えがしっかりしている上に、性格が明るく、指導力もあって、八日市市の図書館を見学に行ったすぐれた図書館員を滋賀県内の図書館長としてむかえるのに一役かってくれた。」

 ④私が声掛けをした人は多くない。ほとんどは誰かの紹介で館長になってくれた人。

 ⑤《人さらい》という品のない言葉には多分に《やっかみ》が含まれている。

 このばあい、《やっかみ》の対象になったのは、滋賀県(の図書館界)だけでなく、招かれて館長となった人たちでもあるのですね。ある本の中での著者佐野眞一氏と図書館員との問答をご紹介しましょう。

 「図書館業界では、〇〇町の館長が××市の館長さんに転勤したなどという話をよく聞きます。{一文略}この流動性の高さは一体何に起因しているんですか。」

 「他の自治体から一本釣りされて移る人はこの業界のスターですよ。」(4)

 この引用部分には首をかしげざるをえない表現(業界・転勤・スター)がありますけれど、図書館界で「他の自治体から一本釣りされて移る人」にすぐれた人が多いのは事実だと思います。立派な仕事を期待できない人を一本釣りするわけがありませんから、あたり前ですよね。ともかく、そのような人材があいついで滋賀県にやってきて、それぞれが個性を発揮しながら全体として滋賀県公共図書館界をパワーアップしたのでした。

 ついでに、上原恵美氏(滋賀県政策監・文化長)の証言もご紹介しておきます。

 「前川さんが滋賀にいらして、前川さんのところで一緒に仕事ができるのならというので、全国からたくさん人が来てくれたんです。」(5)

 

 ときには激論を交わして、恒雄さんから高く評価されていた八日市市立図書館長の西田博志氏には、《減量大作戦》と称して図書館の活動を縮小せざるをえなくなった経験がありました。その作戦の中に貸出の実績を減らそうとする珍しい努力がありますのでご紹介します。1991(平成3)年の末から翌年にかけてのことで、あらましは次のとおりです。

 八日市市立図書館は、市長の考えにもとづいて、周辺自治体の住民にも貸出のサービスをしていました。その結果、1991年夏の時点で、貸出冊数の33%が市外住民によるものとなり、図書館としては、「①未設置自治体の住民にもいいサービスをして図書館のよさを知ってもらい、図書館づくりの機運をつくり出そう、②落ち込んでいる商店街に、一人でも多くのお客さんに来てもらうとの目標を立て、積極的にこの施策をすすめてきました。」(6)

 このとき、図書館の全登録者(約28,000人)の35.7%が市外住民(約10,000人)でした。市外の人たちは1人当りで市内の住民とほぼ同じだけ図書館から本を借りていたことになります。ところが、集会や行事を含めて利用が活発になってきた一方で、職員の増員が思うに任せません。職員がよく話し合い、限界に来たという結論に達して、やむなく《減量大作戦》に踏み切ったのでした。

 貸出にかんする減量作戦は、

 「市内への通勤、通学者を除く市外住民への貸出を新年度(4月)から停止する(新規登録は1月から中止)」

 「貸出冊数を無制限から10冊へ変更する」というものでした。

 その結果、「平成3年度の貸出冊数は、本年1月から市外住民の新規登録中止などの効果もあって、43万強(昨年より2万冊増)に落ち着きました。」

 最近では、当該自治体外の住民の登録者が全登録者の30%を超える例はさほど珍しくはありませんけれど(たとえば2017~18(平成29~30)年ごろ、千代田区立図書館(東京)=80.9%、水巻町立図書館(福岡)=61.9%、猪名川町立図書館(兵庫)=60.8%、湧水町くりの図書館(鹿児島)=50.2%、多賀城市立図書館(宮城)=46.8%など)、30年近く前に30%を超えるのは大変な数字だったのでした。

 

文化振興課と県立図書館がタッグを組む

 このように、滋賀県の公立図書館群の活動は多くの利用者を惹きつけ、県外からの見学者や視察者を驚かせました。その背景には次のような事実があります。

 公立図書館の盛衰を左右する大きな要素には、自治体の財政状況や住民の意向などとともに、首長の推し進める政策があります。滋賀県のばあい、武村正義知事や稲葉稔知事が県議会の支持をとりつけて、文化の振興に力を入れたことが決定的だったと思われます。

 知事と県の教育委員会は、文化振興課と県立図書館を信頼して図書館行政を任せましたた。具体的には文化振興課の上原恵美課長と前川恒雄県立図書館長に旗振り役をゆだね、この英断が功を奏します。

 

 滋賀県が図書館振興のために打ったもうひとつの具体的な手は、1981(昭和56)年度から市町村の図書館のための補助金を支出し始めたことでした。図書館建設費、移動図書館車購入費、図書購入費に対するこの制度は、県の教育委員会が立ち上げた滋賀県図書館振興対策委員会が出した『図書館振興に関する提言』に沿ったものだということは、すでにご説明しました。

 この補助金制度は、滋賀県の市町村立図書館の新設などに決定的な役割を果たします。たとえば、1980(昭和55)年から1990(平成2)年までの図書館の創設や新館建設の例は次のとおりです。

 1981(昭和56)年=八日市市立・大津市

 1983(昭和58)年=長浜市立・近江八幡市立・水口(みなくち)町立(新館)・草津市立・今津町立(新装)

 1987(昭和62)年=マキノ町立・愛東町立・栗東町立

 1989(平成元)年=甲西町立・五個荘(ごかしょう)町立

 1990(平成2)年=石部町

 90年代以降もつぎつぎに図書館が新設され、平成の自治体大合併という追い風もあって、県の公立図書館設置率100%が達成されたのでした。

 県が図書館振興策を予算化したばあい、県の財政にどの程度の負担になるかを調べた結果が『図書館年鑑1991』に掲載されています。調査対象は東京都と17県、調査期間は補助事業が実施された全期間、調査数値は一般会計決算額に占める平均補助金額です。その結果、滋賀県が最高の0.0404%でした。100万円当たり404円ですね。(7)

 武村滋賀県知事が国政に進出したあと、恒雄さんは東京で氏から「知事時代いろいろ仕事をしたが、少ない経費で大きな効果をあげたのは図書館だ」と言われたそうです。(8)

 

 県が資金援助をするだけで市町村の風向きが「図書館をつくろう」というふうに変わったわけではありません。滋賀県の公立図書館の普及度はもともと全国の最低レベルだったため、図書館が何のためにあって何の役に立つかを知る首長や教育長は少なく、反応は冷やかでした。恒雄さんが「図書館をつくってほしい」と市町村長にお願いに回ったときの返事は、ほぼ次のとおりでした。

 「本を読むのは坊さんと学校の先生だけですよ」

 「図書館をつくっても誰も来ませんよ」(9)

 自治体にはそれぞれの事情があり、首長や教育長の考え方もさまざまでしょうけれど、図書館をつくるのは税金の無駄づかいになるという点では、図書館に無関心だった皆さんの一致した予測だったようです。

 けれども、自治体の首長や教育長に集まってもらって、公立図書館が町づくりの拠点となりうることなどを話すとき、恒雄さんは《訴える人》として本領を発揮しました。図書館のことなど眼中になかった人を説得するとき、恒雄さんの情熱、経験に裏付けられた理論が有効に働いたからでした。

 恒雄さんが市町村の首長に図書館設置などのお願いに行くとき、たいていは県の文化部の幹部が「一緒に行きましょう」と同行してくれました。そのことを「とてもありがたかった」と感謝していましたけれど、市町村の公立図書館普及は県の文化振興課の職掌でもあったわけですから、両者が二人三脚で連携協力をしたことになります。

 

 滋賀県立図書館による県内公共図書館への支援も見逃すことができません。この件については前回の「滋賀県立図書館の再生(2)」に書きましたので、ここでは簡単に振り返るにとどめます。

 ①県立図書館の職員が協力車に同乗して、出向いた図書館の要望や困りごとに耳をかたむけ、一方で県立の情報を伝えた。

 ②協力車の巡回頻度を徐々に増やし、相互貸借の本が市町立図書館へより早く届くようにした。

 ③県内公共図書館からの貸出依頼に応じるために、県立の蔵書の充実を図り、他府県の大きな図書館を回って協力を頼んだ。

 ④県立図書館がコンピュータを導入し、県内の公共図書館が県立の資料所蔵情報を簡単に知ることができるようにした。また、県立図書館にアクセスすれば、日本の新刊出版状況や滋賀県にかんする新聞記事の見出しを検索できるようにした。

 ⑤県内公共図書館の資料収蔵・廃棄にかんする悩みに対処すると同時に、県立図書館の蔵書を充実するために、資料保存センターをつくった。

 このようにして、恒雄さんを中心とする県立図書館は、県内で新設された図書館群が順調に運営され、住民に喜ばれるように、さまざまな支援をしてその責任を全うしたのでした。

 

人的ネットワークができあがる

 滋賀県図書館界が発展したもうひとつの要素に、人的ネットワークがあります。県内の図書館職員が親しくなる機会が多く、個々の図書館とその職員が孤立せず、互いに刺激し合い協力し合う関係ができあがったからでした。

 滋賀県公共図書館協議会は、年に1回、総会と研修会を開くだけという形式的な存在ではなく、何かを成し遂げるために実質的に機能する存在でした。

 たとえば、私立図書館や準備室段階の図書館も会員としてむかえられ、館長が出席する理事会が年に5~6回開かれてきました。また、1983(昭和58)年には「図書館資料相互貸借規約」をつくって、資料の貸し借りにかんする約束事を個々の図書館が文書化する手間をはぶきました。ほぼ2か月おきに開かれる理事会(館長会議でもある)は、顔を合せての情報交換の場となり、ほとんどの館長が楽しみにしていたということです。

 この協議会にはいくつかの委員会が設けられ、テーマに沿って活動しました。そのうちの研修委員会は、図書館の視察を行ない、講演会、児童文学講座、製本講習会などを開いたほか、他県にはなかった図書館員専門講座を主催していました。これは年に2回あって、前期は図書館の基礎的理論と実践の講義、後期は県内図書館の共通課題についての講義とグループ討議など、それぞれ3日間とし、毎年開催することで県下の全図書館員が参加することを目指していました。(10)

 研修会をたびたび開けば、参加者の資質の向上はもちろんのこと、顔見知りや親しい人が増えるという人的ネットワークの土台づくりも期待できるわけですね。

 

 恒雄さんは、公共図書館協議会とは別に、他県から招かれてきた司書館長との非公式の会合を月に1回開いていました。そこでは肩肘張らずに何でも話すことができますので、よそから来た館長にとっては心強い会合だったようです。集まった人たちにとっては、それぞれの館長の現任地と前任地の情報を交換しながら、以後の目標を共有する上で、有益な会合だったに違いありません。

 滋賀県には、恒雄さんが県立図書館を退職して数年後の2006(平成18)年から実施され始めた、県立図書館と市町立図書館との「滋賀県公立図書館職員(司書)交流研修」制度があります。県立の職員が市町立図書館へ、市町立の職員が県立図書館へ、原則として2年間派遣され、研修を積むというものです。(11)

 このような制度も、県立と市町立の職員が視野をひろげ、異なる仕事に挑戦し、結果的に滋賀県の図書館職員の可能性の拡大や人的ネットワークの強化につながるものだと言えるでしょう。

 

 日本図書館協会の図書館政策特別委員会による「県の図書館振興策:現状と課題」という報告は、個々の項目でしばしば滋賀県を例に挙げ、「図書館振興策の評価」の部分で高く評価しています。要領よくまとめられている内容は次のとおりです。(7)

 八日市市立図書館以後の「図書館設置の趨勢は、同館の活動が周辺自治体住民に図書館の利便性を事実で示して、その要求を掘り起こし、自治体の議員や理事者を動かしたことが大きく影響している。八日市市の後からできた各町も、それぞれのすぐれた図書館サービスによって、周辺自治体へ強い影響を及ぼしている。」

 滋賀県であいついで図書館が新設されたのは、「同県の振興策が単なる施設整備費や図書費の補助にとどまらず、未設置自治体の理事者や行政担当者を対象に図書館の必要性を啓蒙し、その設置を働きかける研修会を開催するなど、幅広い内容をもっていることの成果である。」

 「その振興策を実りあるものにするために、そして、設置された図書館が図書館本来の役割を果たすことができるよう、積極的に援助を行っている県立図書館の働きも大きい。」

 

 滋賀県が自他ともにみとめる図書館県となる過程では、多くの人がかかわりました。その中から図書館で仕事をした人に限れば、キーパーソンは前川恒雄県立図書館長でした。その理由は次のとおりです。

 ①県の上層部と良好な関係をたもちつつ県立図書館を立て直した。

 ②その結果、県立図書館の役割である市立・町立・私立の図書館をさまざまに支援することができ、県内の公共図書館が全体として活気づいた。

 ③市町村での図書館新設を促進するために、県の教育委員会とくに文化振興課と協力してお願いと説明に回った。

 ④公立図書館のあるべき姿を示し、また説きつづけ、県立・市町立の図書館にすぐれた後継者が育った。

 ⑤新設図書館に司書館長をむかえるように努め、多くの人の協力でそれを実現した。

 ⑥県の公共図書館の人的ネットワークを強固なものにした。

 

参照文献:

(1)滋賀県公共図書館協議会「「わたし」と「本」がつながる場所」(ポスター)(滋賀県立図書館のウェブサイト20201210)

(2)『日本の図書館:統計と名簿 2017』(日本図書館協会、2018年)

(3)白根一夫『町立図書館をつくった!:島根県斐川町での実践から』(青弓社、2005年)

(4)佐野眞一『誰が「本」を殺すのか』(プレジデント社、2001年)

(5)「座談会:基本のところを歩んで」in『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(6)西田博志『ようかいち通信』(サンライズ印刷出版部、1997年)

(7)日本図書館協会図書館政策特別委員会「県の図書館振興策:現状と課題」in『図書館年鑑 1991』(日本図書館協会、1991年)

(8)関根英爾『武村正義の知事力』(サンライズ出版、2013年)

(9)前川恒雄「「本を読むのは先生と坊さんだけ」と言われて」in 関根英爾『武村正義の知事力』(サンライズ出版、2013年)

(10)竹島昭雄「滋賀県の図書館職員研修について」(『現代の図書館』v. 31, no. 3, 1993)

(11)「滋賀県公立図書館職員(司書)交流研修要領」(滋賀県立図書館のウェブサイト20201210)

前川恒雄さんの仕事(4の2)滋賀県立図書館の再生(2)

 恒雄さんは1980(昭和55)年7月1日に滋賀県立図書館長に就任しました。あと数か月で50歳、図書館関係のほかに市役所の中枢でも経験と実績を積み、さまざまな機会に新たな知友を得ることができました。日野市の元市長だった古谷太郎氏に別れの挨拶に行きますと、「君は琵琶湖の龍になる」とフライング気味の励ましの言葉をかけられて、四高(第四高等学校)の漢文教授だった赤井直好氏が授業中に呼びかけた、次のような戒めの言葉を想い出します。

 「君たちはいずれ指導者になると思いますが、指導者にとっていちばん大事なのは廉恥心をもちつづけることです。」『広辞苑』によりますと、廉恥心とは「心が清らかで、恥を知る心のあること」です。

 話は横道にそれますけれど、恒雄さんの記憶によれば、赤井教授は和服で授業にのぞみ、風呂敷にテキストの『孟子』とその他の資料を包み、ページの代りに「枚」という語を使うなど英語を避ける傾向があり、代返の多いクラスにもかかわらずその件について苦言は洩らさなかったということです。

 私の記憶によりますと、若いころの恒雄さんは風呂敷包みを小脇に抱え、風采などを気にしない様子で飄々と歩いていました。また、『孟子』にある君子三楽の、「仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは、二楽なり」をモットーのように話したこともありましたから、ひょっとすると恒雄さんは赤井教授にあこがれていたのかも知れません。

 

 県立図書館がほんらいの役割をまっとうするには、県の図書館界がふたつの条件を満たしている必要があります。ひとつは、県立図書館の足腰が強く、運営の進路がしかるべき方向に向いていること、もうひとつは、市町村に図書館が普及していることです。恒雄さんが滋賀県立図書館長に就任したとき、いずれの条件も不十分でした。どちらか一方を先に手がけていては時間がかかりすぎますので、両方を同時に進める必要がありました。

 今回は、そのうちの滋賀県立図書館の再生についてご説明します。

 

職員の成長と結束を図る

 図書館の建物は完工直後でピカピカではありましたけれど、新任館長は着任前に短時間の検分をしただけで、無駄な空間の多いことや使いにくさに気づきました。建物以外でも、蔵書の質と量、サービスの種類と力点の置き方、利用状況など、いずれにも問題があります。

 問題に対処するのは職員です。恒雄さんは、基本的な方針について機会をとらえては職員に《かくあるべし》を話すだけでなく、日野市立図書館でのみずからの成功体験を援用することで、滋賀県でも職員の意識改革に成功しました。方法は、①みんなで考える、②みんなで同じ仕事に取り組む、③館長がカウンターに出て範を示す、の3つです。

 いくつかの例を挙げてみましょう。

 ①予算案をつくるとき、恒雄さんは全職員に予算書のコピーを配布し、必要だと思われる経費を考えた者が、それを書いて提出するよう指示しました。すると、最初は副館長と総務課長が、「私たちはいったい何をするのでしょう」と言ってきます。返答の要旨は次のとおりでした。

 「必要な経費は仕事をしている者がわかっていますから、彼らの考えをまず聞いてから案を作るべきです。副館長や総務課長は、できた予算案をできるだけ獲得するため、また決定した予算を現場の職員が使いやすいように執行するために頑張ってください。」

 ②利用規則やマニュアルの改正作業にもすべての館員が参加することになりました。その結果、貸出カードの有効期限を3年に延長し、貸出冊数を5冊に増やし、期間を3週間に延ばすことになりました。また、市町村立図書館への貸出を「協力貸出」として規則に盛り込み、日曜日の開館を隔週から毎週に変更するときも同じ手順を踏んだのでした。

 このようなやり方によって、普段は立場や職務の違いから意見の交換などをあまりしない人たちが、会議での討論などをつうじて意思を確かめ合い、課題について共通認識をもつようになります。図書館という職場にだけ有効なやり方ではありませんね。

 滋賀県立図書館では1981(昭和56)年5月から県内の公共図書館支援のための協力車を運行し始めました。協力車とは、都道府県立図書館が管内の市町村立図書館の資料要求に応えるために、一定期間ごとに巡回する車のことで、「連絡車」「配本車」など別の言い方をするところもあります。巡回に際しては、資料のやりとりだけでなく、書類の受け渡しや顔をあわせての情報交換も大切で、協力車の運行が県内図書館のネットワークを活性化させます。

 運行を始めるにあたり、恒雄さんは職員会議で次のような方針を示しました。

 1.係長以上の職員全員が交替で同乗すること

 2.行き先の図書館長に会い、問題の有無や援助してほしいことを聞くこと

 3.それを職員会議で報告して、全職員で何をすべきかを考えること

 これに対して、奉仕課以外の部署から「担当でない者は行かなくてもよいのではないか」という意見が出ます。

 この当然とも思える疑問に対する恒雄さんの返答は、「県内の図書館に対する援助は県立図書館全体の任務なのだから、全員が担当すべきなのです」というものでした。

 館長の方がやや強引な感じではありますけれど、県立にとっても市町村立にとっても、とりわけ意思疎通の面で、結果的にはこの方針が正しかったようです。

 ③県立レベルの図書館では、館長がカウンターへ出なくても困らない職員体制をもっているのが普通ですけれど、恒雄さんはあえてサービスの最前線に立つようにしました。カウンターで利用者と触れ合う仕事の大切さと、その際のあるべき態度について範を示すのが目的で、後に「何より効果があったと思う」と話していました。

 

 ◎神戸市立図書館の伊藤昭治氏も出席していたある座談会で、恒雄さんは次のように話します。

 「私がこちら{滋賀県立}に来て、伊藤{昭治}さんの最初の反応は「滋賀県立に電話をかけたら職員の応対が変わった。館長が代わるとあそこまで変わるのか」と言ってくれたんです。これは私のせいではなく職員のせいなんですけれどもね。」(1)

 ただ、新館の見学者への応対が増え、県内市町村の図書館が増えるにつれて、恒雄さんがカウンターへ出る機会は減っていきました。奉仕課の中島千恵子課長が率先してカウンターで範を示してくれていたので、案ずる必要がなかったのでした。

 

 ある年、図書館外の職場で課長補佐を経験した人が昇格人事で図書館に配属されてきました。課長補佐時代には、挨拶をしても横を向いたまま「フン」という感じだったので、恒雄さんは内心「困ったな」と思っていましたところ、彼の態度が少しずつ変わってきて、「図書館の仕事が気に入った。嬉しくてしようがない」ということで、あちこちで図書館の良さを吹聴し始めます。あげくの果てに「図書館には毎日たくさんの利用者が来るのに、隣にある美術館はどうして入館者が少ないのか」と、美術館長を詰問するほどになったのでした。(録音20130503)

 

蔵書を豊かにする

 改善しなければならない問題のひとつが蔵書でした。着任後に時間をかけて調べていった恒雄さんの目には、蔵書がアンバランスに映りました。未刊の回想『思い出から』には次のように書かれています。

 「蔵書はアンバランスで、漢文の書物と戦記物が多く、歴史の分野では日本の歴史と外国の歴史にはひどい差があり、フランス革命の本が一冊もないなど、外国の歴史があまりにも貧弱だった。料理や子育てなど、家事の本はほとんどなかった。全体として安い本が多く、なぜそうなったかは聞かなくても解った。前任の館長は漢文の先生、前の副館長は戦記物が大好き、職員数人は日本史を専攻していた。」

 足りない部分を補うためにまず参考にしたのは、加藤周一編『読書案内』(上下、朝日新聞社、1976~77年)という基本図書の解説つきリストでした。ほかにも、現存する作家、読み継がれている過去の作家の著作などを充実させていきました。

 館長になった翌年、恒雄さんは武村知事に資料費の増額を直訴します。

 「図書費は今までとても少なくて蔵書が貧弱です。だから県内の図書館や県民から要求されたら、よその県立に頭を下げて借りなければなりません。こんなことは私が館長の代で終わらせてください。」

 知事は「わかった」と一言。

 それから毎年、図書費は増加の一途をたどり、1987(昭和62)年から「図書資料整備五カ年計画」を始めた事情もあって、計画初年度の資料費は1億円を超えました。

 やがて滋賀県立図書館は、特色のある資料群を構築し始めることができるようになり、《近畿の水がめ》を擁する滋賀県らしく水にかんする資料を収集し、県内に多かった熱心な児童書研究者と市町村立図書館の要望にこたえるために、国内で刊行される児童書の全点購入にも手をつけることができたのでした。

 

サービスを利用者本位にする

 もうひとつ改善しなければならなかったのは、広い意味でのサービスについてでした。

 恒雄さんが館長として着任したとき、県民が県立図書館で貸出登録をしようとすれば、貸出利用願に必要事項を記入して捺印しなければなりませんでした。「いろいろな関門をいとわない利用者が本当の利用者だ」という理由だったそうですけれど、公立図書館に関門はそぐわないということで、これは廃止することにしました。

 貸出の冊数を多くし、期間を長くしたことは、先に触れた通りです。

 館内の模様替えでは、2階の開架室のスペースの配分を変えました。この部屋の3分の2を書架が占め、3分の1を閲覧机が占めていたのを、恒雄さんはその閲覧机を撤去して書架のスペースにし、閲覧机を史料室に移させます。利用者が自由に本を手に取れる開架の閲覧室から机をなくしたのですね。そして、この件は県議会で問題になりかねないと思った恒雄さんは、武村知事に説明に行きました。知事は了解してくれたものの、「東大の図書館に武村の席があるくらいよく利用した。あれはいいもんだよな」と言ったのでした。

 閲覧室に机を置くか否かという問題について、私は恒雄さんに(おもに手紙で一般論として)「置くべきだ」という考えとその理由を何度も伝えました。「何度も伝えた」ということは、「一度も同意されなかった」ということです。

 サービスの改善で忘れてならないのは、先に触れました市町村立図書館を巡回する協力車の運行です。県立図書館の最大の存在理由は市町村図書館の支援だと考えていた恒雄さんは、協力車の運行を大切にしました。1981(昭和56)年の開始時は対象となる図書館が少なく、運転手が移動図書館の運転を兼務していたこともあって、協力車の運行は月に1回だけでした。

 恒雄さんはしばしば協力車に同乗し、市と町の図書館の実情を知ると同時に、県立の考えを伝えて館長たちの警戒感をやわらげるよう努めました。県の公共図書館のネットワークづくりの基本を実践したのですね。『思い出から』には、次のように書かれています。

 「館長たちは喜んでくれ、県立図書館に対する要望はもちろん、それぞれの図書館で起きた問題を話し合って、時間の経つのが早く、ふりきって次の館に向かうこともしばしばだった。」

 協力車は1983(昭和58)年4月から県内の全図書館を週に1回巡回することになります。その代わり、県内を回っていた2台の移動図書館車を1982(昭和57)年と1984(昭和59)年に廃止しました。理由は次の3点です。

 ①県立図書館の移動図書館サービスが市町村立図書館新設の意欲をそぐ恐れがあること。

 ②県立図書館の移動図書館がほとんど利用されていないと思われたこと。

 ③協力車運行のための予算獲得には、移動図書館の廃止が得策であること。

 移動図書館サービスの廃止については、県会議員や元県立図書館長から疑義が寄せられましたけれど、このサービスを受けていた市町村からは反応がありませんでした。利用が少なかったことに加えて、市町村の図書館設置に対する県の助成情報が多くの自治体に浸透し、「自分たちも頑張らなければ」という機運が高まっていたからでしょう。

 

 協力車の運行を始めてしばらく経ったころ、恒雄さんは県内の市町立図書館にひとつの提案(というかお願い)をします。利用者が県立図書館で借りた本の返却を市町立でも受けつけてもらえないか、という内容です。

 提案の場は、滋賀県公共図書館協議会の理事会でした。理事会には県内の公共図書館長が出席することになっており、ここで重要事項を相談し決定します。ところが、「県立図書館のこの提案は理事会の席上で即座に否決」されてしまいます。まだ市町立の館長さんたちには県立に対する警戒感があったというのが恒雄さんの感想でした。けれどもその翌年の理事会では、ある館長から「県立図書館の本の返却の受付は、やってやることにしようか」という発言があり、さっそく実施されることになりました。」(2)『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』の「滋賀県図書館関係年表」によりますと、1982(昭和57)年11月から「滋賀県立図書館の図書返却が、県内公共図書館の全館で可能になる」とあります。

 ちなみに、県立図書館が協力車を走らせて、県内の公立図書館が相互貸借した本の受け渡しを日本で初めて実現したのは、次の証言にありますように、富山県でした。

 「昭和 45(1970)年、相互貸借資料の搬送も併せ担う連絡車の巡回を開始した。これは、県内館の所蔵情報を一括して管理・調査できるカード体総合目録の供用と連動した、先駆的・画期的な取組みであった。また、連絡車には定期的に県立館司書が添乗し(注:現在は廃止)、巡回先の担当者と「顔の見えるやり取り」を行い、実際的・実効的な支援につながるよう努めた。」(3)

 このサービスを実施している都道府県立図書館のほとんどは2005年以降に始めており、1982年に始めた滋賀県立図書館は日本で2番目に早かったのではないかと思われます。

 協力車が運んだ資料は、県立⇔市町立間だけでなく、市町立⇔市町立、他府県⇨県立⇨市町立もありました。この県立レベルの図書館間貸出を実現するため、恒雄さんは近畿地方の府県立と指定都市立の図書館を訪ねて協力貸出をお願いしました。そのとき、京都府立図書館だけが「府内の図書館にも貸していない」という理由で協力してくれませんでしたが、数年後に貸してくれるようになりました。逆に、貸してくれていた図書館が、館長が交代したとたんに雲行きがあやしくなり、とうとう貸してくれなくなった例もあったということです。

 

県立レベルの図書館で初めてコンピュータを導入する

 滋賀県立図書館では、新館を建てるとき、将来に備えてコンピュータ室を設け、ケーブル配線の準備もしていました。新館が開館して1年ほど経ちますと、貸出・返却・予約の処理が急増し始め、入館者の多い土曜・日曜のカウンターでの作業は目の回るような忙しさになってきました。職員を増やすのは簡単ではありませんし、職員増には県立図書館にとってのメリットしかありません。そこで、市町村立図書館に対する協力業務の拡充を視野に入れた、コンピュータの導入を検討することになりました。

 動いたのは、3年前にできたまま休業状態だったコンピュータ導入検討チームで、1983(昭和58)年のことでした。この件についてあらかじめ説明を受けた武村知事は、資料費の思い切った増額のばあいと同じように、快諾します。

 結果、電算機導入の目的は次のように決まりました。

 第1の目的は、「県立図書館に収集・蓄積されている資料に関するすべての情報が、市町村の図書館のカウンターを通してあらゆる市民に公開」されること。

 第2の目的は、要求された資料の迅速かつ正確な提供を図ること。(4)

 具体的には、まず県立図書館にとって、機械処理可能業務のほとんどすべて(発注・受入・支払い、目録作成、貸出・返却・予約処理など)に適用するトータルシステムとすることです。

 コンピュータの導入が正式に決まったのは1984(昭和59)年3月、システムが稼働し始めたのは1年後の1985(昭和60)年4月でした。システム開発会社(NEC)との打合せ、テストデータを使っての確認、35万冊近くになっていた蔵書へのバーコード貼付、カード目録からオンライン目録への変換など、稼働までの準備作業を1年間でやり遂げたことになります。「1年間でやり遂げた」と書きましたのは、その仕事量が膨大だからです。

 次に、全県域を強く意識して、日本の出版情報を県立および市町村立の図書館で検索できるようにしました。東販のゼロMARC(マーク、直訳すれば機械可読目録)と図書館流通センターのTRC-MARCを県立図書館のサーバーに蓄積し、それを市町村立図書館でも検索できるようにしたのでした。この2種類のMARCによって日本の新刊情報がわかるようにしようということです。

 都道府県立図書館でコンピュータを本格的に導入したのは、滋賀県立図書館が初めてでした。中でも、出版情報を県内のどの図書館でも検索できるようにしたのは、滋賀県のひとつの特徴となりました。もうひとつ、複数の全国紙・地方紙に掲載された滋賀県と県内の市町村にかんする新聞記事の索引をデータベース化し、県内のどこからでも検索できるようにしたことも、特徴と言えるでしょう。この索引は1983(昭和58)年4月から直近までの記事の見出しを対象にして、今でも県立図書館のウェブサイトで検索ができるようになっています。

 

県立レベルの図書館で初めての資料保存センターをつくる

 図書館を新設するとき、とうぜん蔵書が増えつづけることを念頭において設計しますけれど、10年経ち20年経ちますと、多くの図書館が書庫問題に頭を悩ませるようになります。このような状態になるには用地や建設費用などいくつかの理由がありますので、一概に計画を立てた人たちの責めに帰することはできませんけれど、できれば書庫の増築(拡張)に含みをもたせておくべきだと思います。

 滋賀県立図書館のばあい、1980(昭和55)年の新館開館のときに、図書の収容能力を開架12万冊、閉架書庫36.5万冊と見込んでいました。合計48.5万冊です。

 ところが、8年後の1988(昭和63)年、実際の蔵書冊数は40.2万冊で、数字の上では8万冊の余裕がありそうに思われますのに、「書庫内の書架から溢れた図書が通路に横積みされはじめるという切迫した段階になっていました。」(5)

 いくつかの案を検討した結果、滋賀県立図書館は地下に17億円をかけて書庫を作ることになり、合わせて館内の模様替え工事の予算も認められました。収容冊数100万冊、工事は1989(平成元)年12月から2年をかけて1991(平成3)年12月に完工しました。

 

 この書庫は、県立図書館の資料を収蔵するだけでなく、県内の市町村立図書館が毎年要らなくなった資料を廃棄するとき、いったんこの書庫であずかり、県立図書館にもないものを県全体で共有する共同書庫、名づけて「資料保存センター」としての役割をもたせることになりました。「昨年{1992年}すでに2万点近い除籍図書や寄贈図書が持ち込まれ、そのうち約6,000点の資料を県立の蔵書として受け入れている。古い資料の少ない県立図書館にとって、この制度は、極めて有益であると考えている」(6)ということです。

 このセンターは県立レベルでは日本初のもので、県内公共図書館の蔵書全体を豊かにし、利用されなくなった資料がのちのち活用される余地を残し、資源のムダを少しでも減らすという意味があります。恒雄さんはこの書庫が完成する年の3月に定年で退職しましたので、資料保存センターは置き土産のような形になりました。

 

知事との信頼関係を築く

 見てきたとおり、滋賀県立図書館は10年間で《再生》と表現してもよい段階にまで改革が進み、以降もその勢いがつづきました。その根底にあったのは、武村正義知事とそのあとを継いだ稲葉稔知事の文化行政に対する熱意、県の教育委員会の力強い支え、県立図書館職員の成長と努力でした。

 武村知事は1986(昭和61)年7月に国政に進出するまで、滋賀県内の図書館の発展を教育委員会と県立図書館に委ねました。信頼して任せたのですね。それを彷彿させるひとつのエピソードをご紹介します。

 「武村知事から「知事として読んでおいたらいい本を毎月三冊言ってくれ」と頼まれました。これには困りました。三冊推薦するのに三冊だけ読めばいいわけではない。大変でした。それに推薦する本や著者を通して私の考え方も知事に分かりますしね。知事室にうかがうと、机の上に推薦した本がちゃんと置いてあって、「読んでいらっしゃいますか」と聞くと、「いやー、全部は読めないけど、表紙を見るだけでも勉強だよ」と、知事はおっしゃっていました。忘れられない思い出です。」(7)

 「参考になりそうな本があったら、教えてください」という程度であればともかく、「知事として読んでおいたらいい本」を「毎月三冊」と言われれば、誰でも困るでしょうね。でも恒雄さんは、自分を信頼して招いてくれた人への恩返しのつもりだったのか、必ず目を通して納得した社会科学系の本を推薦しつづけたのでした。

 

 稲葉知事も、総務部長時代から県立図書館に関心を寄せていて、以降、副知事時代を含めて一貫して恒雄さんの図書館再生を支援してくれました。県立図書館に地下書庫と館内の模様替えの予算を同じ年度に要求したとき、稲葉知事の「図書館長の言うとおりにしなさい」という指示で庁内の了承が得られたのでした。

 未刊の回想『思い出から』に書かれているエピソードをご紹介します。

 あるとき、稲葉知事が全庁への訓示の中で県立図書館の活動を褒め、全庁が図書館のように働くようにと話してくれました。恒雄さんは、とても嬉しかった半面、やきもちを焼かれるのではないかと心配した、ということです。

 また、ときどき知事公舎へ呼ばれて相談を持ちかけられたことや、知事が恒雄さんを、「他に替えがたい場合」という人事の例外規則を適用して、定年後も(非常勤嘱託ではなく正規・専任の職員として)現職にとどめるつもりだったこと、などが書かれています。

 

統計数値に見る滋賀県立図書館の10年

 前川恒雄館長時代の10年間に滋賀県立図書館は数値的にどのように変わったでしょうか。以下の統計数値は、左が1980(昭和55)年度、右が1990(平成2)年度のものです。

 ①専任職員数(司書・司書補+その他) 17+11 ⇒ 22+6

  司書・司書補の割合  60.7% ⇒ 78.6%

 ②蔵書冊数  231,290 ⇨ 443,034

  年間受入冊数  14,560 ⇒ 40,749

 ③登録者数(年度の新規登録者数)  5,997 ⇒ 9,948

 ④個人貸出冊数  53,687 ⇒ 553,756

  協力貸出冊数  37 ⇒ 17,365

 専任職員数に変化はありませんけれど、司書・司書補の割合が高くなっています。一般職の退職や異動に際して、専門職を増やしていったということですね。

 蔵書冊数は約2倍に増え、年間受入冊数も2.8倍になりました。

 登録者数は、年度内の新たな登録者数だけが統計表に掲載されているため、前年度、前々年度から継続して利用している全登録者数は不明です。

 貸出では、個人への貸出が10倍以上に増え、県内公共図書館への貸出は無に等しいほど少なかったものが、市や町の図書館新設と県立の協力車の巡回などによって、順調に増えています。

 

 ここでは、県立図書館が廃止したサービス、中国の湖南省立図書館との交流、日本図書館協会の理事長選挙、図書館事業振興法(案)など、恒雄さんがかかわったのに触れなかったテーマがたくさんあります。それらについては、田井郁久雄氏による『前川恒雄と滋賀県立図書館の時代』(出版ニュース社、2018年)に詳しく書かれています。

 

参照文献:

(1)「座談会:基本のところを歩んで」in『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(2)岸本岳文「図書館の本は図書館で返せます」(『みんなの図書館』no. 214, 1995.2)

(3)小林秀哉「頼りになる「図書館のための図書館」であり続ける」(『ライブラリィとやま』no. 93, 2020.3.13)

(4)滋賀県立図書館・日本電気株式会社「コンピュータ・システム概要説明書」(1985年)

(5)『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(6)木村英司「滋賀県における県立図書館を核とした公共図書館の資源協力」(『情報の科学と技術』v. 43, no. 11, 1993)

(7)前川恒雄「「本を読むのは先生と坊さんだけ」と言われて」in 関根英爾『武村正義の知事力』(サンライズ出版、2013年)

前川恒雄さんの仕事(4の1)滋賀県立図書館の再生(1)

 日野市の二つ目の部長職にあった1980(昭和55)年、恒雄さんが49歳のとき、滋賀県立図書館長になってほしいという話が舞い込んできました。最初に恒雄さんにアプローチした教育委員会の上原恵美文化振興課長によりますと、

  「私が昭和54年に課長の辞令をもらったとたんに、武村知事から「館長をさがせ」と命令された。図書館関係者を誰も知らず、図書館とは何かも知らないから、それは無理だった。

 どうしようかと思っていた時に、森耕一先生が「もしかしたら、前川さんは可能かもしれんなあ」と、チラッと耳打ちしてくださって、「本当ですか」と食らいついていった」ということです。(1)

 けれども、恒雄さんはすぐには決断できません。このブログの「日野市の助役と部長」の最後に書きましたように、日野市の部長職を捨てて苦労をしに行くのはとてももったいないと思ったのがひとつ、それと、(恒雄さん自身は書いたり話したりしていませんけれど)滋賀県の本気度を確かめたかったのではないかと私は考えています。と言いますのは、首長が交代したり財政状況が悪化したりして自治体行政が急変することはあり得ることだからです。

 すると数週間後、滋賀県の人事課長が日野市を訪れて2度目の勧誘をします。

 「報告を聞いた知事が、そのような人にこそ来てほしいと言っています。いま県立図書館の建物がほぼできあがっていますので、ぜひ一度ごらんいただきたい」と、恒雄さんが図書館長になったばあいの10年間の給与と手当の一覧表を持参して説得しました。

 人を変え、なおかつ遠くまで足を運んでくれた県の熱意が伝わりましたので、恒雄さんは夫人を伴って建築中の図書館を見に行きました。内装工事まで進んでいた建物を確認しますと、使いにくそうで、無駄な空間が多く、規模の割にはそれほど資料を置けない感じの建物でした。それで、恒雄さんは「申し訳ありませんが」と図書館長への就任を断ってしまいます。

 けれども、滋賀県は簡単にあきらめません。何日かして副知事の前川尚美(なおよし)氏から日野市長の森田喜美男氏に電話があり、どうしても恒雄さんを迎えたいとのことで、副知事と市長が口論になってしましまいます。その話を耳にした恒雄さんは、滋賀県の熱意をありがたく思う一方、自分を手放そうとしなかった森田市長の厚情も身にしみてうれしく思ったのでした。

 滋賀県は、文字どおり三顧の礼を尽くしてくれました。かつて日本図書館協会の有山事務局長は、まだ20代の恒雄さんを口説くために石川県まで来てくれました。そのとき、ふんぎりのつかなかった恒雄さんは「ここで辞退するのは男じゃない」と、決断しました。滋賀県のばあいも「そこまでやってくださるなら行かないと男でないみたいな感じになって、それで{滋賀へ}来たんです。」(1)

 さいわい滋賀県には恒雄さんも特別委員として作成にかかわった『図書館振興に関する提言』があり、県が本気ならば、県立図書館だけでなく県内の市町村の図書館も、住民に喜ばれるものに育てることができるでしょう。加えて、恒雄さんは滋賀県の知事、副知事、教育委員会が本気だと信じることができたのでした。

 1974(昭和49)年11月の滋賀県知事選挙では、現職の野崎欣一郎知事に対して若干40歳の武村正義氏が八日市市長を辞任して挑み、激しい戦いの末に武村氏が当選しました。武村氏は12月に知事に就任したものの、1月には「県財政非常事態宣言」を発せざるをえず、翌年度の一般会計予算案を「超緊縮型」にしなければなりませんでした。

 破綻寸前だった県の財政をかろうじて立て直す一方で、武村知事が文化行政に力を入れられるようになったのは、1976(昭和51)年4月、教育委員会に文化振興課を設置したころからでした。

 滋賀県立図書館は1979(昭和54)年2月に新館の建設が始まり、それと並行して4月に教育委員会が設置した滋賀県図書館振興対策委員会が県内の図書館をどのように増やし育てるかを検討し始めます。この委員会は、ともに6名の特別委員(全員が県外の図書館関係者)と委員(おもに県内の図書館関係者と社会教育関係者)によって構成され、恒雄さんは特別委員に名を連ねていました。念のため特別委員の顔ぶれをご紹介しておきますと、次のとおりです。(2)

 伊藤昭治(神戸市立中央図書館奉仕係長)

 小田泰正(京都産業大学教授)

 栗原嘉一郎(筑波大学教授)

 佐藤政孝(東京都立中央図書館管理部長)

 前川恒雄(日野市企画財政部長)

 森耕一(京都大学教授)

 この滋賀県図書館振興対策委員会が1年をかけてまとめたのが、『図書館振興に関する提言』(1980年3月)でした。そこには、図書館の意義、のぞましい図書館のあり方、滋賀県の図書館の現状、市町村立図書館の振興策、などが72ページにわたって書かれています。

 そこから滋賀県の図書館の現状にかんする記述の要点を拾いますと、以下のとおりです。

 ①公立図書館のある市町村は、彦根・守山・大津の3市と水口(みなくち)町だけで、設置率は市区で43パーセント、町で2パーセント。全都道府県では市区・町ともに下から2番目の低さ。

 ②県立と市町村立の合計蔵書冊数は、38万3,000冊で全国の44位。人口100人当りの冊数は36冊で全国の43位。年間増加冊数は全国の30位。

 ③専任職員1人当りの人口は、21,900人で全国の36位。

 ④市町村立図書館の貸出登録率は2.6パーセント。人口100人当りの貸出冊数は36冊(1人当りにすれば0.36冊)。

 残念ながら、これらは《惨状》と言わざるを得ませんね。そこで、『提言』は、「市町村立図書館整備」と題する項目で対策を示します。大きな柱は2本で、県による市町村への助成金と、県立図書館による市町村立図書館への支援、です。

 助成金は、図書館建設と移動図書館車購入については費用の3分の1程度を、図書購入については費用の2分の1程度を助成することが望ましいとしました。

 県立図書館が行なうべき支援については、以下の事項が挙げられています。

 ①図書館のない市町村に対して移動図書館車でサービスをしながら、図書館設置の要望を掘り起こす努力をすること。

 ②市町村が図書館を設置しようとするときは、準備段階から協力をすること。

 ③市町村の行政担当者に対して図書館の意義や役割を説明するための研修会・講演会を開催すること。

 ④市町村立図書館や公民館図書室の職員のための研修を援助すること。

 この『提言』には、先行サンプルがありました。『図書館政策の課題と対策:東京都の公共図書館の振興施策』(1970年4月)です。その成立に深くかかわったのが滋賀県で特別委員となった恒雄さんと佐藤政孝氏で、同じ特別委員の小田泰正氏も東京都の振興策をつくる際、「図書館専門家の意見を聴く会」で意見を述べた5人のうちのひとりでした。そのことが理由であるかどうかは分かりませんけれど、滋賀県の『図書館振興に関する提言』は、全体の構成から具体的な内容にいたるまで、東京都の『図書館政策の課題と対策』とかなり似通っています。

 というわけで、滋賀県は、既存の県立・市町立図書館のブラッシュアップと、未設置の市や町への図書館の普及という、ふたつの目標に向かって歩み始めたのでした。

 

参照文献:

(1)「座談会:基本のところを歩んで」in『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(2)滋賀県図書館振興対策委員会『図書館振興に関する提言』(滋賀県図書館振興対策委員会、1980年)