種田山頭火は大正から昭和の前半にかけて活躍した自由律俳句の俳人です。自由律俳句とは、長くつづけられてきた5・7・5の定型にとらわれずに、自由なリズムで句を構成する俳句のことです。そのため、句全体の音数が10に満たないこともあれば20を超えることもあり、5・7・5のリズムを刻まない句が多いため、非定型俳句と言われることもあります。
自由律俳句のきっかけとなる主張を展開し始めたのは、正岡子規という俳人でした。たとえば、彼は「字余りの和歌俳句」という新聞記事のなかで、短歌を31文字としたのも俳句を17文字としたのも人間が勝手に決めたことなので、そこから外れてはいけないというのは間違いだと主張しました。そして、自分はまず字余りを許容することで古くさい陳腐さから脱却しようと思っているとも書いています。1894(明治27)年のことでした。(1)
その後、子規の俳句の弟子だった河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)や、碧梧桐の新しい俳句の考え方に共鳴した荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)などが自由律俳句の推進役を担いました。中学生のころから田螺公(たにしこう、でんらこう)という俳号で定型俳句を作っていた山頭火は、井泉水と碧梧桐が1911(明治44)年に創刊した『層雲』という俳句雑誌に投稿し始めて俳人として育ったのでした。
種田山頭火は、生涯にわたって多くの不幸の種に苦しめられ、それらにあらがい、自分を叱咤し、時には不甲斐ない自分をののしりながら、中年以降に存在感を発揮した俳人でした。
俳句における自由律の主張も、無季の主張も、山頭火が初めて提唱したのではありませんけれど、作品の出来栄えの面では山頭火が突出していたのではないかと思います。また、数々の不幸や不運に打ちのめされながら必死になって句作に励んだ姿勢が、時を経るにつれて支持者・愛読者を増やしていったように思われます。
以下、山頭火の数々の不幸や不運を明らかにしながら、その人となりを浮き彫りにしてみましょう。彼は50歳を過ぎた1933(昭和8)年2月18日の日記に、次のように書いています。
「彼の過去帳を繰りひろげて見る。――
最初の不幸は母の自殺。
第二の不幸は酒癖。
第四の不幸は結婚、そして父となつた事。
第五の不幸……」
この一連の文章の冒頭に「過去帳を繰りひろげて見る」とあるのは、「自分の過去を振り返ってみれば」ほどの意味です。
第1の不幸:母の自殺
彼は山口県佐波(さば)郡西佐波令(にしさばりょう)村(今の防府市)の地主一家に長男正一(しょういち)として生まれました。正一が誕生したときの種田家は、祖母ツル、父竹治郎、母フサ、長女フク、長男正一の5人家族でしたが、その後、妹がひとり(シズ)と弟がふたり(二郎、信一)生まれます。
順調に成長していった長男の正一少年とは違って、母親のフサ、長女フク、次男の二郎、三男の信一は、長く生きつづけることができませんでした。この4人の中でいちばん先に亡くなったのが母親のフサで、1892(明治25)年、まだ32歳でした。死因は自宅の敷地にある井戸への投身という悲惨なもので、山頭火に関する評伝などでは、夫の竹治郎が女遊びと政治活動で家を顧みなかったことを苦にしての自殺だと書かれています。例外は、臨床心理学者の福田周(あまね)東洋英和女学院大学教授による「山頭火:俳句にみる生と死の表現」(2)で、該当部分は次のとおりです。
「母フサは、3男の信一を身ごもったときに病に倒れ、肺結核と診断される。それ以降母の容態は悪く、精神的にも不調をかかえ、母屋とは別の同じ敷地内の長屋部屋に一人寝かされて過ごすようになった。山頭火をはじめ、子どもたちはその長屋へは近づかぬように言われていた。そんな折りに、2男二郎を竹治郎の姉の嫁ぎ先へ養子に出すという話が持ち上がる。そのことをフサは非常に気にしていたらしい。また、当時竹治郎は精力的に助役の仕事につく一方で、花街に通い、女性関係に湯水のように金をつぎ込んでいた。」
このように、フサが夫の放蕩を苦にしていただけでなく、心身ともに八方塞がり状態だったことが判ります。
次いで1894(明治27)年、末弟信一が4歳10か月で亡くなり、正一より1歳上の姉フクは、幸せな結婚をしたのに、20歳になるかならぬかの若さで亡くなりました。弟の二郎は1893(明治26)年に父竹治郎の姉の婚家へ養子に出されていましたが、父がその家から借りた多額の借金を返済できなくなったのをきっかけとして、1916(大正5)年12月に離縁されてしまいます。その後の彼は、結婚していた兄の正一を頼ってしばらく同居していた時期もありましたけれど、1918(大正7)年6月、徳山の山中で縊死しているのが発見されました。満31歳でした。
家族の早世、とりわけ母フサと弟二郎の死は、正一・山頭火の心に大きな傷跡を残したと思われます。いわゆるトラウマですね。
山頭火は日記の別の日付で、一家の不幸は母の自殺から始まった、自分が自叙伝を書くときはその事実から始めるだろう、と書いています。(3)
弟の二郎についても祥月命日に祈りをささげ、「彼はまことに不幸な正直な人間であつた」とか、「甘い物を供へて回向する、あゝ彼は愚直すぎた!」などと日記に哀悼の情を記しました。それに対して、二郎が養子先から追放される原因をつくった上に、借金苦から逃れるために行方をくらました父竹治郎や、若死にした姉フクなどについては全くと言ってよいほど言及していません。
このように、母とすぐ下の弟を自死という痛ましい形で失ったことが、正一の心に深い傷跡を残したのは間違いないでしょう。困って頼ってきた弟に十分な援助をしてあげられなかった兄として、自責の念があったのかも知れません。
第2の不幸:酒癖
第2の不幸として挙げられている酒癖とは、酒を飲みすぎたときにしばしば失態を演じてしまうことを指しています。いくつか例を挙げてみましょう。
①1919(大正8)年4月、前後不覚になるまで泥酔して警察署に連行され、連絡を受けた医師で句友の木村緑平が翌日に引き取りに行った。
②1924(大正13)年12月、熊本市で走行中の電車の前に立ちはだかって急停車させ、乗客を激怒させた。この事件がきっかけで彼は出家得度し、本名を種田正一から種田耕畝(こうほ)へと改名した。
③1931(昭和6)年3月、泥酔して飲食料金の支払いができず、無銭飲食とみなされて留置所に入れられた。このとき山頭火は48歳。
④1937(昭和12)年11月、日記によれば、あちこちで無茶苦茶に飲んだあげく、支払い不足が45円になって留置場にぶちこまれた。検事局に回され、誓約書を書いて1週間後に釈放された山頭火は、息子の健(けん)、句友の木村緑平と大山澄太(すみた)へ、借金返済を助けてほしいと連絡した。このときの山頭火は54歳。
上記の②以外は、いずれも警察のご厄介になったものでしたが、警察が介入せずに友人や知人が後始末をしてくれた例はたくさんありました。中でもひどかったのが、1936(昭和11)年6月に山形県鶴岡町の和田秋兎死(わだ・あきとし、本名は光利=あきとし)という俳友に迷惑をかけた一件でした。山頭火より20歳ほど若い秋兎死は、後年「みちのくに出現した山頭火」(4)と題する文章で、その件をくわしく書いています。要約すれば次のとおりです。
山頭火が自宅に数日間も滞在してくれたのを喜んだ秋兎死は、一家をあげてもてなし、料亭で接待し、毎日のように銭湯代まで渡したにもかかわらず、山頭火は勝手気ままにふるまい、出立の連絡も別れの挨拶もしないで姿を消し、高額な借金返済の肩代りを金持ちではない秋兎死に押しつけてしまったのでした。山頭火は合わせる顔がないという慚愧の念が強かったのでしょうけれど、「第2の不幸」の代表例と言ってもよいでしょう。当然ながら、この「みちのくに出現した山頭火」のあちこちで、秋兎死の恨みつらみを読み取ることができます。
もちろん山頭火自身、飲酒に起因する悪癖を分かっていて、日記の中でしばしば自分を𠮟りつけ、ののしり、あるいは励まし、対策を提案し、その実行を誓約しました。けれども、激励、対策の提案、誓約は、何度くりかえしても効果が現われません。やがて日記に諦めの心境が見え始めます。たとえば、
1934(昭和9)年10月9日、「酒、酒、そして酒だ。
面白くないから飲む、飲めばきつと飲みすぎる、いよいよ面白くないから、ますます飲む、――これを循環的に繰り返して転々するから、末は自殺しかない(その自殺はほがらかな自殺であらうが)。」
1936(昭和11)年5月23日、「私は何故時々泥酔するのか、泥酔しないではゐられないのか。――
私はほんたうにおちついてゐない、いつも内面では動揺してゐる、――それもその源因ではあるが、私は自己忘却を敢てしなければ堪へられないのである、かなしいかな。」
山頭火のエッセーに「物を大切にする心」(5)と題する一篇があります。マッチを無駄使いする老人と、水道の水を無駄に流しつづける女中さんを注意しないある奥さんのエピソードを紹介して、両者を非難する内容です。ところが、山頭火自身、泥酔しなければ耐えられないほど、加えて、その事実によって親しい人に迷惑をかけざるをえない結果をたびたび引き起こすほど、酒という「物」を無駄使いします。彼が無駄使いをするのは酒に限られますけれど、自己救済のための無駄使いであり、それがとりもなおさず金の無駄使いになっています。他人を非難して物の大切さを説きながら、自分はさらに大きな無駄使いをしているのですね。その矛盾を十二分に理解しているからこそ、彼は泥酔するほどに飲酒し、日記の中で自分を罵らずにはおられないのでした。山頭火の第2の不幸たるゆえんです。
第3の不幸:種田家の没落
山頭火は、彼にとっての第3の不幸を、なぜか日記に書きませんでした。けれども、彼の生涯の大きな不幸のなかで、種田家を没落させた酒造業の失敗と一家離散を見逃すことはできません。
1904(明治37)年に神経衰弱のために早稲田大学を中途退学した正一青年は、実家にもどって静養するうちに、地元の文芸雑誌『青年』に定型俳句や翻訳、エッセーなどを発表するなど、元気をとりもどしていきました。翻訳がツルゲーネフやモーパッサンの作品だったということは、東京専門学校高等予科を含めた2年半ほどの在学中に、ロシア語とフランス語を徹底的に学んで神経衰弱になった可能性があるのではないかと思います。
帰郷した長男正一の回復ぶりを目の当りにした父竹治郎は、家政を傾かせた責任を取るべく、1906(明治39)年に吉敷郡大道村(よしきぐん・だいどうそん)の酒造場を買収して一家でそこへ移住します。父子は翌1907(明治40)年から酒造りを始め、7~8年間はうまくいっていました。
その間、父は長男正一に家督をゆずり、結婚に積極的でなかった正一に見合い結婚をすすめ、1909(明治42)年8月、正一は佐波郡和田村の佐藤家の長女サキノと結婚します。正一26歳、サキノ20歳でした。(6)
ところが、種田酒造場は、1925(大正4)年と翌年の2年つづけて製造中の酒を腐らせてしまいます。酒造りには杜氏(とうじ、とじ)という専門家が製造の全工程を指揮・監督するのがふつうでしたから、何か尋常でない事態が起こったのでしょう。この時期、正一は地元での文学活動に加えて、全国的な新傾向俳句結社である「層雲」で注目されていましたので、酒造業への注力や目配りがおろそかになっていたのかも知れません。
売るべき商品を2年つづけて製造できなければ、経費を回収できないだけでなく、借金の返済がとどこおり、家族の生活費にも事欠くことになります。資金繰りに困った種田家は、1926(大正5)年4月、最後に残った頼みの綱、酒造場を親戚の町田米四郎と有富イクに売却せざるをえませんでした。町田家は山頭火の妹シズ(町田家に嫁いだ姉の死後、後妻として)の嫁ぎ先、有富家は正一の弟二郎の里親で、竹治郎は両家からの多額の借金を返済できなくなったのでした。(7)
借金と言えば、種田家では正一の妻サキノの父親である佐藤光之輔(みつのすけ)からも借金をしていました。岩見幸恵(ゆきえ)「佐藤咲野:山頭火の妻の虚像と実像」によりますと、1924(大正3)年の秋、「咲野の口添えで佐藤家から借金。山頭火が金を貰いに行くが途中で酒を飲み一部を酒代にする。翌年は咲野自身が実家に赴く。十月二十一日付、父親の光之輔宛の咲野の礼状が残る。」(8)ということです。
ただし、山田啓代(みちよ)著『山頭火の妻』では、山頭火の息子の健(けん)が、種田家の没落は2年連続で酒造の際に酒を腐らせたからというよりも、「祖父が放蕩で使い果たした、というほうが正しい」と答えた、と書かれています。(9)
破産した種田家の家族は、祖母が親類宅に身を寄せ、竹治郎が行方をくらまし、正一とサキノ、健の3人は熊本に転居して雅楽多(がらくた)書房という古書店を開きました。かつて何不自由なく暮らしていた大家族は、破産の末の一家離散という憂き目にあったのでした。
第4の不幸:結婚と子どもの誕生
1909(明治42)年8月に結婚した種田正一と佐藤サキノは、山口県内の資産家の長男と長女で、ちょうど1年後の8月に息子が誕生して健と名づけました。その後の数年間は、正一の父の荒い金遣いのせいで屋敷の一部を売却せざるを得なくなったものの、代りに入手した酒造場の経営は軌道に乗っていました。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言われるように、夫婦仲は外部から簡単には判らないものです。というわけで、残念ながら以下は推測です。
村上護(まもる)編「山頭火年譜」には、子どもをさずかった1910(明治43)年、「この頃から無軌道な酒を飲む」とあります。(10)
当時、父の竹治郎はあいかわらず遊興にうつつを抜かしており、酒の飲み方について息子にとやかく言えません。高齢になった祖母は妻のいる孫に小言を言いにくくなっています。子どもをさずかった妻は、家庭内での立場が強くなりますし、夫に対して遠慮なく文句を言えます。第4の不幸として「結婚」が挙がった理由のひとつは、このような家庭内の事情が影響した可能性もあるのではないかと思います。
もうひとつ思い浮かぶのは、結婚と子どもの誕生が正一にとって不幸だったのは、彼が束縛を嫌う人として育ったことです。一般に人は束縛されることを嫌いますけれど、正一のばあいは、その傾向がとりわけ強かったということです。
結婚という束縛から逃れる方法は大きく分けて2つあります。第1は話し合いによって束縛と感じられる事象を取り除くことで、いわば夫婦の妥協ですね。第2は別居ないし離婚を選ぶことです。けれども、正一は日々をおだやかに過ごす妥協を選ばず、別居も離婚も選びません。たらふく酒を飲んで憂さを晴らす第3の方法を選んだのでした。
俳号に山頭火を名乗り始めて間もない1914(大正3)年、『層雲』9月号に彼の「砕けた瓦(或る男の手帳から)」と題する短いエッセーが掲載されました。酒造りに苦労している時期に書いたこの文章の中に、次のような一節があります。
「家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。
親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして、姉は妹を、妹は姉を理解しない。――理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。
彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。」
何というニヒリスティックな考えでしょう。家庭という結びつきには、「邪推と不安と寂寥」しかないと言っているのです。
ということで、正一は妻を愛していなかったのではなく、息子の健を可愛く思わなかったのでもなく、結婚という束縛の種を不幸の種ととらえていたというのが、私の推測の結論です。
その根拠となりそうな事例をいくつか挙げておきます。
①1919(大正8)年、正一はサキノと健を熊本に残して上京し、額縁の行商などで生活費を稼ごうと苦労していました。ところが、翌1920年(大正9)年にサキノの実家から離婚届が送られてきます。サキノが送ったものだと思い込んだ正一は、自分も署名捺印して送り返したのですが、実家は事前にサキノと話し合いも打合せもしていませんでした。(11)サキノの実家では以前から彼女に離婚するよう勧めていたという情報もありますから、計略を使わなければサキノが離婚に踏み切らないと知っていたのかも知れません。
②正一は戸籍上の離婚後も毎年のように(短期間ではありましたけれど)熊本の妻子のところへ帰って暮らしています。また、正一の住いが変わると、サキノは何度も暮しに必要な品物を彼に送りました。山頭火の日記を読みますと、彼の晩年には、サキノの小包便が木村緑平を経由して山頭火に送られるようになっています。これらの事実は、元夫婦の仲が冷え切っていなかったという証拠になるでしょう。
③山頭火が熊本市内の民家の2階1室を借りて住み始めた1930(昭和5)年の暮れから翌年の1月にかけて、彼はたびたびサキノ宅(雅楽多書房)を訪ね、正月用の餅をもらい、年賀状を受け取り、火鉢や炬燵、金を借り、1月16日には「酔うて彼女を訪ねた、……そして、とう/\花園、ぢやない、野菜畑の墻(しょう=垣根)を踰(こ)えてしまつた、今まで踰えないですんだのに」と日記に書くに至ります。
その後も元夫婦は交流をつづけ、山頭火が亡くなる1年あまり前の1939(昭和39)年8月から9月にかけて、サキノがだしぬけに山頭火を訪ねたり、手紙のやり取りをしたりしました。
④サキノに育てられた息子の健は小学校卒業後に就職する予定でした。それを知った父正一はサキノに健を進学させるよう勧め、その結果、息子は熊本県内の進学校である濟々黌(せいせいこう)中学に入学しました。また、健は中学卒業後にいったん炭鉱に就職しましたが、ふたたび父親の勧めをうけいれて、翌1930(昭和5)年に秋田鉱山専門学校(今の秋田大学国際資源学部)に進学し、無事に卒業しています。(12)後年、山頭火の足腰が弱ってきたのを知ると、孝行息子は毎月一定額(日本にいるときは10円、満州へ転居してからは15円)を父が死ぬまで送金しつづけました。
第5の不幸:生活力の欠如
山頭火が自分の生涯を振り返って第1、第2、第4の不幸を挙げたとき、第5については見出しだけで何が不幸だったかは空欄にしていました。よって、第3の不幸と同じく、この第5の不幸も私の推測にしか過ぎません。
1932(昭和7)2月の山頭火は、書簡と日記の中で「私はだんだん生活力がなくなるやうに思ひます」、「私はだん/\生活力が消耗してゆくのを感じないではゐられない」と書き(13)、1938(昭和13)年と1940(昭和15)年の日記では、「痛切に自分の無能無力を感じた、私には生活能力がない、そして生活意慾をもなくしつゝある私である」とか、「私には世間的な生活能力がないのだ」(14)と書きました。妻子と離れて独居生活に入って以降、彼は炊事、洗濯、掃除、衣類の繕い、買い物、近隣との交流など、家事のほとんどすべてを自分でこなしていました。乏しい収入をおぎなうために、庭で自分の食べる野菜を育てた時期もありました。
よって、彼の自認する生活能力のなさは、おもに経済的な能力の欠如を意味しています。ただし、妻子を熊本に残して上京した1919(大正8)年の春までは、彼も酒造場の経営を父や妻と、古書店の経営を妻とともに担っていましたので、経済的な自立能力の欠如は、おもに1919(大正8)年から亡くなる1940(昭和15)年までの約20年間のことになります。
東京へ出た山頭火はまず、雅楽多書房で扱っていた額縁を行商で売り歩きますけれど、下宿者の身分としては稼ぎが少なすぎました。世間知らずというべきか、無鉄砲というべきか、このあたりにも生活力の乏しさが感じられますね。困っている山頭火に助け舟を出してくれたのが、熊本で知り合っていた工藤好美(よしみ)という早稲田大学の学生で、仕事は東京市水道局のアルバイト、つづいて東京市立一橋図書館の臨時職でした。図書館での勤務は1920(大正9)年11月からで、日給1円35銭だったのが、翌年の1921(大正10)年6月に彼は臨時職から正規の事務職に昇格して月給42円を支給されるようになります。
「彼を推薦したのは職場の上司・竹内善作である。彼は山頭火の几帳面な性格をいたく買い、仕事上では彼を全面的に信用していた。時にひきおこす酒乱の愚行にも、それなりの理解を示していたという」(11)と書かれた上司の竹内は、当時、『市立図書館と其事業』という図書館広報誌の編集責任者をしており、山頭火の俳句を「独居雑詠」のタイトルで第1号に14句、「落葉集」のタイトルで第4号に16句、載せました。(15)その「独居雑詠」には熊本に残してきたわが子を忍ぶと思われる句が含まれています。
とんぼ捕ろ捕ろその児のむれにわが子なし
蚊やり線香のけむり ますぐに子をおもふ
当時の山頭火を知るふたりの人物の証言をご紹介しましょう。
熊本の短歌会で知り合った茂森唯士(ただし)は、山頭火が上京したときに住いのことで頼った友人で、「種田山頭火の横顔」で次のようなエピソードを書いています。
「大正十年、彼の勤め先は東京市立の一ツ橋図書館に変った。毎日時間におくれないよう弁当携帯で九段下の図書館に通い、精勤で有能な模範的職員のよい生活がしばらく彼につゞいた。と思うと或朝、突然須崎の遊郭から私に電話がかゝって来て、彼が酒に酔い痴れて昨夜から無銭登楼し、行燈部屋に入れられている。すぐ迎えに来てくれという呼び出しである。」(16)
山口県小郡(おごおり)出身の伊東敬治は、山頭火の日記で「敬坊」「敬君」などと書かれ、山頭火よりかなり年下の飲み仲間として登場する人です。その証言は、
「{私は}図書館へ時々訪ねていったが、彼は羽織なしのあわせ一枚を着ていた。時々小使から二、三円ばかり借りていたようである。小使から金を借りるのは僕ぐらいのものだといって笑っていた。私は約一カ月位滞在していたが、いろいろな所へ飲みに連れていった。{一橋図書館の}館長から使者が来て、早く出勤してくれるよう頼まれたが遂に出勤をしないばかりか、やめてしまった。その内、東京の大震災で彼は熊本に帰って行った。」(17)
1922(大正11)年12月20日、40歳になったばかりの山頭火は東京市長あてに退職願を提出します。添付された診断書には神経衰弱症と書かれていました。大森健一独協医科大学名誉教授は、山頭火の診断書や病歴を考察した結果、山頭火の退職願提出時の状態を講演で次のように話しています。
「われわれの視点からみますと、うつ病とちょっと違うんですが、おそらく、うつ病に近い状態なんですね。早稲田大学のときに悪くなったのも、おそらく同じだろう、と推定されますし、その後、東京の図書館を退職するときもそう。それから、其中庵{ごちゅうあん}で具合が悪くなったときの症状も似通っています。それ以外にも、熊本で奥さんと暮らしていたときにも似たような病態を繰り返しています。」(18)
山頭火が東京市立一橋図書館に勤めたのは、臨時職と正規の事務職を合わせて2年と1か月でした。大学の退学にしろ図書館の退職にしろ、山頭火は休学や休職を選ばずに、病気のせいとは言え、見切りをつけるのが早すぎますね。
その後の山頭火は、生活費をかせぐほどの仕事に就いたことがほぼありません。日々の暮しのための収入源は、時期によって異なりますけれど、およそ次のとおりです。
①息子の健からの送金
初めは毎月10円、健の勤務先が満州になってからは毎月15円。きっかけは1934(昭和9)年11月、訪ねてきた父親の老衰ぶりに驚いた健が、月々の米塩代だけは送るから歩き回らないで暮らしてほしいと懇願したことでした。(19)
②行乞(ぎょうこつ)によって得る米とお金
行乞とは、僧が他人の玄関先でお経をあげ、米やお金を報謝として受け取ることです。地域や天候、社会情勢、行乞する人の健康状態などの影響を受けやすく、報謝の量は予定・予測することができません。そのため、山頭火のばあいは、知人や俳句仲間の多い九州、中国、四国地方を行乞することが多くなりました。なぜなら、行乞の旅は木賃宿に泊まって宿泊と3食の費用を支払う必要があるのに対して、友人・知人のいる土地では宿泊費を節約できるだけでなく、静かな部屋、ご馳走と酒、楽しい会話に恵まれたからです。また、俳句関係の友人宅で句会を開くことも再々あったのでした。
山頭火のばあい、行乞の実際を旅行記と日記を兼ねる行乞記という形で記録しているのが特徴です。そこには、その日の天候と泊まった宿の評価(上・中・下など)に始まって、宿泊費、主人やおかみさんの人物評、宿泊客の様子と自分とのかかわり、食事の良し悪し、宿屋で自分のしたこと(読書、代筆、入浴、飲酒)などを記録しています。
見逃してならないのは、彼が歩いているときに見つけた俳句の種をていねいに記録していることでしょう。俳句の種とは、作者の山頭火がまだ取捨選択も推敲もしていない段階の俳句という意味です。
山頭火は絶えず誰かとつながっていたいという気持ちの並はずれて強い人で、その「誰か」の核心は友人なのでした。そのため、毎日のように5通、10通とハガキや手紙を送り、長旅で住いを留守にするときは、相手から来た手紙やハガキを旅先の郵便局に留め置く「局留め」の手配をしました。この文通癖は、飲酒癖、大食癖、喫煙癖とならんで、山頭火をくりかえし無銭状態におちいらせる楽しみであり悩みの種でもあったのでした。
③原稿料など
a.『広島逓友{ていゆう}』の俳句欄の選評とエッセーの原稿料
『広島逓友』は広島逓信局広島逓友会が発行していた雑誌で、山頭火を物心両面で支えつづけた大山澄太が編集を担当していたため、彼が自由律俳句欄の選評やエッセーの執筆を山頭火に依頼して原稿料を払っていました。
b.『層雲』その他の雑誌への寄稿
c. 印税
1940(昭和15)年4月、東京の八雲書林は、山頭火が自選した一代句集『句集草木塔』(そうもくとう)を出版し、分割払いだった印税の残額を7月になって支払いました。山頭火には、点数も金額もわずかではありますが印税収入を得た出版物がありました。
④揮毫(きごう)料
自由律俳句の作者として山頭火が人気者・有名人になるにつれて、彼の書いた色紙、短冊などを手に入れたいと思う人が増えました。毛筆の腕をふるったのはおおむね求められた結果でしたけれど、まれに押売りのようになることもありました。たとえば、
1938(昭和13)年6月2日と3日の日記に、「S氏K氏の邸宅に押しかけて短冊を売りつけた、あゝ不快、不快、不快」「人絹会社のM氏を訪ねる、黙壺{もっこ}君からの紹介があるので気持よく五六枚買うて貰ふ」とあります。
⑤句集の販売代金
山頭火には一代句集『草木塔』のほかに7点の句集があります。40歳のときの『鉢の子(はちのこ)』(木村緑平編)に始まり、57歳のときに共著の形で出た『雀:木村緑平第六句集 鴉:種田山頭火第七句集』で終わる7点です。彼の没後はさまざまな出版社から版をかさねる出版がなされましたけれど、生前は自費出版に近い刊行形態が少なくなく、俳友による無償の協力での出版が多かったのでした。
というわけで、句集の販売代金と言っても、生活費に充当するほどの収入には程遠いものでした。
⑥友人からの寄付
山頭火に魅せられた俳句仲間たちは、さまざまな名目で彼にお金を渡していました。名目は、会費、小遣い、お布施、喜捨、餞別、心付け、草鞋代などです。
会費の例としては、山頭火が月刊の俳句関係雑誌を創刊するための支援組織をつくり、会費を集めたことがありました。時期は1931(昭和6)年、組織の名前は三八九会(さんぱくかい)、雑誌名は『三八九』、会員には「会友」と「特別会友」の2種類があり、その会費の月額は、前者が30銭、後者が50銭で、会員には毎月雑誌が送られます。2種類の会員の合計は50余名でした。それだけの数の友人、知人が山頭火の活動を応援したことになります。月刊誌の予定だったこの雑誌は、出だしから不定期刊となり、いったん第3集まで刊行されたあと休刊し、最終的には第6集まで出て廃刊となりました。
もう1件、後援会をつくって山口県下関市の川棚温泉に庵を新築しようとした例があります。昭和6年2月、山頭火が趣意書案をつくって木村緑平たちに後援会の会員と会費の募集を依頼しました。緑平は集まった金を山頭火の要請に応じて何度かに分けて送ったものの、山頭火が地主(寺)やその檀家との交渉に手間取っているうちに、造庵にまわすはずの資金が払底してしまい、あきらめざるを得なくなってしまいました。
喜捨という単語を使って山頭火支援のエピソードを書いた大山澄太の例は、次のとおりです。
「私も句集代その他いささか彼のために、お金を使ってきたが、それは喜捨で、あと形を変えて返してもらおうなどとは夢にも思っていなかった。」「はじめは私は{彼に送る金額を}いつも五円ときめていた。月給が八十五円だったので、十円は送っていたのではあるが、彼はそれですぐに呑みにでるので。」(20)
また、同書で澄太は、山頭火が松山の一草庵(いっそうあん)に転居するときの様子について、次のように書いています。「私{澄太}は{愛媛県の}高浜{港}までの切符を買って当分の小遣銭としての十五円と共に山頭火の手に握らせた。相生丸で、顔を知ったボーイさんがいたので、毛布代と茶代を先きに渡してよく頼んでから別れた。」
⑦元妻と妹からの支援金
元妻のサキノは山頭火の最晩年には面倒を見なくなりますけれど、ある時期までは小包と現金を送っていました。また、姉のフクがなくなったあとに後妻として町田米次郎と結婚した妹のシズも、少なくとも1930(昭和5)年ごろまでは、サキノと同様の方法で兄を経済的に支えていました。
⑧屑屋に古新聞などを売却
晩年の数年間、山頭火は経済的にとても追い込まれた生活になりました。日中戦争が長引くにつれて、物資不足と物価高騰によって、国内の庶民は窮乏に引きずりこまれ、無職で財産も貯えもない山頭火はその象徴のような存在になってしまったのでした。
日記には金欠や空腹、不眠や悪夢にかんする記述が増え、屑屋がやって来ますと、山頭火は古新聞や空き瓶、古俵や古い長靴などを売って糊口をしのぎ、質草のあるときにはそれを質屋に預けたりもしました。いつも金のことで甘えていた木村緑平に、師と仰ぐ荻原井泉水の額(「基中一人」の文字)を買ってもらえないかと頼んだこともありました。(21)
種田山頭火のこのような生活力の乏しさの要因は何だったのでしょうか。考えられるのは次の3点です。
①坊ちゃん育ち
山頭火は20歳のころまで何不自由なく暮らすことができ、厳しく叱責する人が家庭にいませんでした。その結果、ストレスへの耐性が乏しくなり、束縛されるのを極度に嫌うようになったと思われます。
②トラウマ
山頭火が9歳のときに母が自殺し、35歳のときに弟の縊死した遺体が発見され、40歳のときに東京にいて関東大震災に遭遇しました。いずれも心的外傷(トラウマ)ないしPTSD(心的外傷後ストレス障害)の素因となる可能性のある衝撃的な出来事です。
③アルコールへの依存
山頭火の日記には、飲酒にかんする記述が頻出します。山頭火の酒好きを知っている人は、彼の住いを訪問するとき、必ずと言ってよいほど土産に酒と肴をたずさえて行きました。また、酒席での彼はよく飲み、よく食べ、話しすぎるほど饒舌になる人で、話題が豊富で話し上手なこともあって、「一緒に飲むのが楽しい」と言う人がとても多いのでした。
ところが、50歳になるころから、山頭火は自分がアルコール中毒ではないかと疑い始めます。1932(昭和7)年2月1日、内科医でもある木村緑平宛に出した書簡には、「私はだんだん生活力がなくなるやうに思ひます、アル中かも知れません」と書き、1年後の日記に「私はだん/\アルコール中毒になりつゝあるらしい、すこし手がふるへだした、アルコールがきれると憂欝を感じる」と症状を含めて記録しました。アルコール中毒(依存症)が亢進したと思われる1934(昭和9)年は、とうとう開き直ります。曰く、
「アルコール中毒、ニコチン中毒、そして俳句中毒、酒と煙草と俳句とはとうてい止められない、止めようとも思はない。」(22)そして、死去する1940(昭和15)年にも中毒の発作や徴候をはっきりと意識しています。
自由律俳句界への登場
種田酒造場の経営に心をくだいていた時期、種田正一は「種田山頭火」という俳号で、俳句結社「層雲」内で急速に頭角を現わしていきました。1913(大正2)年の春に初めて俳誌『層雲』に投稿し、同年には「窓に迫る巨船あり河豚鍋の宿」などが掲載されています。
長年にわたって『層雲』の編集担当者をつとめた伊藤完吾は、次のように書いています。
「山頭火は、大正四年にはじまる「草上句稿」欄に毎月投稿した。これは当時の『層雲』中堅作家が、毎月五句ずつ投句し、互選結果を発表するといった形式の欄であるが、はじめて投句した三月号で、山頭火は三十名中、三十五点、一位で」、「その年、七回投句した山頭火の句は、いずれも三位内だった」(23)
この結果をうけて、「層雲」の主宰者である荻原井泉水は、翌1916(大正5)年の『層雲』3月号で次のように宣言しました。
①これまでは自分が毎月5句ずつ選んできたが、次の4月号からは毎月3句ずつ選ぶことにする。
②自分は毎月1句だけを選び、2句は新進の方に毎月交代で選句を委託する。選句をお願いするのは次の10氏である。
芹田鳳車(せりた・ほうしゃ)、種田山頭火、小沢武二(たけじ)、久保白船(はくせん)、江良碧松(えら・へきしょう)、東海林灰斗(しょうじ・かいと)、野村朱燐洞(しゅりんどう、後に朱鱗洞と改める)、秋山秋紅蓼(しゅうこうりょう)、白石花馭史(かぎょし)、深田紫洋(しよう)。
この10名中の最年長者は山頭火で、当時33歳でした。芹田鳳車と久保白船は『層雲』創刊時からの同人であり、年齢も山頭火に近かったので、はたして「新進の方」という表現がふさわしいのか疑問ですけれど、中堅・若手にちからをつけさせようという井泉水の姿勢がうかがえます。
このように荻原井泉水が新進ないし中堅の作家に活躍の場を与えた事実には、「層雲」をともに立ち上げた河東碧梧桐との意見の相違が影響した可能性があると思われます。
と言いますのは、井泉水が非定型俳句の運動をすすめるだけでは飽き足らず、1914(大正3)年に季題(季語)にこだわる必要がないと宣言したのに対し、碧梧桐はその考えに同調せず、同志や弟子筋の人たちとともに、翌年の3月に『海紅』と題する俳句雑誌を創刊したからです。新傾向俳句の結社がふたつに分裂したのに、手をこまねいていれば死活問題になると危惧するのは当然でしょう。
このように『層雲』を足掛かりとして華々しく登場した山頭火ではありましたが、1940(昭和15)年10月までの存命中に、俳句界に広く名を知られてはおらず、せいぜい無季自由律俳句というジャンルでの著名な作家に過ぎませんでした。
詩歌の創作では、一般に才能の開花が小説や随筆、戯曲などの創作とくらべて早い傾向があります。別の言い方をしますと、詩、短歌、俳句などは若いときに傑作を生みだす例が多いということです。山頭火のばあいは、中学生のころから定型俳句をつくり、20代には短歌、エッセーにも興味をもって創作を手がけました。その意味では決して出発が遅かったわけではありませんが、30代に自由律俳句と出会ってようやく芽が出たのでした。
自由律俳句とは、5・7・5のリズムにとらわれないという意味であって、5・7・5のリズムで俳句をつくってはいけないという意味ではありません。『層雲』内で認められ始めて以降、山頭火の日記や書簡には、遠慮なく5・7・5のリズムによる俳句が書かれています。たとえば、
ふと顔をあげしに月が出てゐたり(1917(大正6)年4月29日、渡辺さとる宛書簡)
星空の冬木ひそかに並びゐし(1919(大正8)年3月10日、木村緑平宛書簡)
毒薬をふところにして天の川(1930(昭和5)年9月14日、『行乞記』)
ゆく春の夜のどこかで時計鳴る(1940(昭和15)年5月31日、『松山日記』)
これらは、句集などに含めて発表する前段階の俳句ですから、結果的にメモあるいは推敲の材料に過ぎなかった可能性もありますけれど。
山頭火の俳句の特徴
以下に4つの特徴を挙げますが、例示する句には複数の特徴を兼ねそなえているものが少なくないことをご承知おきください。
①表現が口語調であること
山頭火の俳句の表現は、日常会話の口語調であるばあいが多いという特徴があります。これは、明治時代から議論されてきた国語国字問題に彼が関心をもってきたことと関係があります。その証拠は1915(大正4)年の『層雲』8月号に掲載された荻原井泉水への書簡です。すなわち、
「私のやうなものでも国字問題、国語問題に就いては大変悩まされてをります」につづけて「漢語(主として成語)をなるたけ使はないやうにする事がペンに親しみのある人の責任であると思ひます」と主張していることです。俳句の例は、
分け入っても分け入っても青い山
うしろすがたのしぐれていくか
笠へぽつとり椿だつた
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
てふてふひらひらいらかをこえた
うまれた家はあとかたもないほうたる
音はしぐれか
鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ)
②リズムを大切にすること
定型俳句のリズムには及ばないものの、山頭火の俳句にはリズム感のあるものが少なくないという特徴があります。リズム感を出すための工夫には、ひとつの句のなかに同じ単語や語句の繰り返しと、相反する(または対となる)単語の使用とがありますけれど、これらを江戸時代の有名な俳人たちもときどき用いていました。同じ単語の繰り返しは、『層雲』誌上で他の会員の句にも見られる手法です。わずか17音前後の句の中で同じ単語や語句を使うのは効率が悪そうに思えますけれど、必ずしもそうではないのですね。山頭火の俳句のばあい、やや剝き出しの感は否めませんが、次のような例があります。
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ (まへ・うしろ)
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ(あるく・すわる、きんぽうげ×2)
うれしいこともかなしいことも草しげる(うれしいこと・かなしいこと)
ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない(ふくろう×2、わたし×2)
枇杷が枯れて枇杷が生えてひとりぐらし(枇杷×2、枯れて・生えて)
其中一人いつも一人の草萌ゆる(一人×2)
③かな文字を多用すること
山頭火が意識的にかな文字を多用しているのは間違いありません。なぜなら、彼にはかな文字だけの句が驚くほど多いからです。すでに上記の①②の例にかな文字だけで表現されている句が2句ずつ含まれているほか、次のような句があります。
すずめをどるやたんぽぽちるや
てふてふうらからおもてへひらひら(てふてふ=蝶々)
あざみあざやかなあさのあめあがり(語頭に「あ」)
ほうたるこいこいふるさとにきた(ほうたる=蛍)
ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ(たんぽぽ×2)
さくらさくらさくさくらちるさくら(さくら×4、咲く・散る)
④内容が庶民的であること
山頭火の句は、身の回りで目にした草や木などの植物、鳥や虫などの動物、ひとり暮しの自分のこと、山や川、太陽や雲や風などの自然を詠む例が多く、表現の分かりやすさと相まって、読む人の年齢に関係なく親しみやすいのではないかと思います。ただし、彼が当然ながら僧形(そうぎょう)で行乞をしていたことや、後半生はひとり暮しをしていたことなどを知らなければ、首をかしげる句が少なくないかも知れません。
松はみな枝垂(しだ)れて南無観世音(リズム感)
笠にとんぼをとまらせてあるく(ほほえましい姿)
よい宿でどちらも山で前は酒屋で(山頭火は山も酒も大好き)
照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいつぴき(照れば・曇れば、鳴いて×2)
やつぱり一人はさみしい枯草(やっぱり=典型的な口語)
啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない(鴉×2)
俳人としての山頭火の評価
種田山頭火は死後に広く知られ、評価が高まり、人気の出た俳人でした。その理由を考えてみましょう。
まず第1は、時代の風潮、社会の変化です。山頭火が亡くなって四半世紀が過ぎた1960年代後半に、アメリカ西部でヒッピーと呼ばれる若者が出現しました。その後、彼らの考え方、活動、ファッションはカウンター・カルチャー(対抗文化)と呼ばれてアメリカ全土から日本を含む多くの国々へ広がっていきました。
ヒッピー文化には山頭火の生き方と共通する面があります。例えば既存の権威への対抗という面では、自由律俳句自体が伝統的な俳句への挑戦でした。自然との共存という面では、山頭火の後半生が自然に囲まれた庵(いおり)での独居生活、近くの山裾への散歩、行乞の際には山を越え野を横切って1日に2里、3里を歩くこともあるなど、自然に溶け込むような暮しでした。見た目では、散髪代に事欠くときの長髪とひげ面がヒッピーそっくりでした。
また、1970年に日本で公開されたアメリカ映画『イージー・ライダー』は、主人公ふたりがヒッピーで、オートバイにまたがってアメリカ各地を放浪する姿が格好よかったのでした。山頭火の行乞や知友を訪ねつつ頼りつつの観光旅行は、句材を探す旅でもありました。40代半ばの1926(大正15)年、彼は師と仰ぐ荻原井泉水へ次のように書き送ります。
「兎にも角にも私は歩きます、歩けるだけ歩きます、歩いているうちに落付きましたならば、どこぞ縁のある所で休ませて頂きませう、それまでは野たれ死にをしても、私は一所不在の漂泊をつづけませう。」(24)
逝去後の山頭火は「漂泊の俳人」とか「放浪の俳人」と称されるようになりました。けれど、40代半ばで「一所不在の漂白をつづける」と宣言し、以後、そのとおりの人生を送ったのでした。振り返れば、江戸時代の著名な俳人である松尾芭蕉や小林一茶は俳諧行脚をした人でした。山頭火はなかでも芭蕉を偉大な詩人だと高く評価していましたので、その例にならおうと覚悟していたのかも知れません。
このように見てきますと、山頭火はお坊さんなのに大酒を吞んだ挙句に遊郭へあがりこみ、家庭や職場という束縛を逃れて自由気ままに旅をする、ヒッピー文化の先駆けのように思えてくるのではないでしょうか。それはともかくとして、山頭火の生きざまが1970年代以降、多くの人に共感されたことは間違いないでしょう。
第2は、著作集や全集を含む山頭火の出版物です。
1968(昭和43)年から1971(昭和46)年にかけて潮文社が全4巻の『山頭火著作集』を出版し、その後も愛蔵版や潮文社新書という形での出版をつづけました。最初の『山頭火著作集』の売行きがよかったのでしょうね。ちなみに潮文社新書には、上田都史(とし)の『俳人山頭火 : その泥酔と流転の生涯』(1967年刊)を皮切りに、大山澄太による評伝なども含められています。
潮文社を追いかけるように、1972(昭和47)年から1973(昭和48)年に春陽堂書店が全7巻の『定本山頭火全集』を出版しました。このほかにも春陽堂書店は1980~90年代に『山頭火全集』を、2020年代に『新編山頭火全集』を出版しています。
この2社による著作集・全集の出版以前は、山頭火の著作が単発的な出版にとどまっていました。というわけで、まずこの著作集と全集がブームに点火した一因だと言ってもよいのではないかと思います。
春陽堂書店は1989(平成元)年~1990(平成2)年に山頭火文庫全12巻を出し、蒼史社は1995(平成7)年~1999(平成11)年に山頭火の俳句と小崎侃(こざき・かん)の版画を組み合わせた絵本シリーズ『山頭火の絵本』全5冊を出版しています。
このような動きの結果、山頭火の生涯や俳句、エッセーに興味・関心をもつ人がふえただけでなく、彼の生涯と業績の調査研究が進捗して、つぎつぎと評伝や研究書が刊行されるに至りました。一種の好循環現象が現われたのですね。
第3は、山頭火を顕彰する団体や施設の活動です。
とくに目立つのは、山口県防府市にある「山頭火ふるさと館」と、愛媛県松山市の「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」です。
山頭火ふるさと館は2017(平成29)年10月7日に開館し、常設展示室や特別展示室、文化・教育活動のための交流室、ショップなどを備えています。イベントとしては自由律俳句大会、山頭火ふるさとまつり、フォトコンテスト、自由律俳句や山頭火を学ぶ講座などを開催しています。また、『山頭火ふるさと館報』を年2回発行しています。
NPO法人まつやま山頭火倶楽部は2008(平成20)年7月にNPO法人として認可された団体で、「山頭火教科書(=山頭火検定公式テキスト)を作成し、全国に向け発信して、楽しく学べる『山頭火講座』や、成果を確認する『山頭火検定』を実施し、生涯学習の一環として俳文学育成に寄与していくことを目的」として活動しています。
両者はともにウェブサイトを開設していますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
以上のような理由で種田山頭火が多くの人に支持されるようになったと思われます。その結果、北海道から九州までの多くの都道府県に句碑が設置されるようになり、その数は500基を超えるに至りました。山頭火が訪れたことのない県や市町村にも句碑が設置されているという事実は、彼を愛し、評価し、支持し、その功績を末永く後世に伝えたいと望む人が全国に広がっている証拠だと言えるでしょう。
山頭火の死をめぐる謎
種田山頭火は、1940(昭和15)年10月11日に58歳で亡くなりました。亡くなったのは、その年の1月から毎月1回開いていた柿の会という句会の翌日ということになっています。まわりくどい表現をしましたのは、山頭火の死をめぐって不可解な点がいくつかあるからです。
①死の第一発見者
山頭火の重要な支援者のひとりだった大山澄太は、御幸寺(みゆきじ)の黒田住職の夫人が第一発見者だとしています。山頭火の住いである一草庵は御幸寺の境内にあり、黒田住職夫妻はさまざまに山頭火の世話をしてきた人たちでした。大山澄太の描いた住職の奥さんの動きを要約しますと、おおむね次のとおりです。
御幸寺の奥さんは、10日の夕方に山頭火が一草庵の上り口で倒れているのを発見し、いつもと様子のちがう状態だったので、介抱し、着衣などを整えて、布団に寝かせた。
夫人は夫(住職)にそのことを告げると、「それは心配だ。しかし今夜は句会があるので、もうやがて一洵さんたちが来られる。そしたら、よいようにして下さるであろう」と様子を見ることになった。
夫人はろくに眠れなかった。「不安な一夜が明けそめてきたので庵へ行ってみると、もういけない。胸部は少し温かいけれども息が止まっている。そこで一洵さんに急を告げ、お医者へ走るやら、それからのことは夢中だったので覚えていない。」(25)
一方、上記で住職夫人から急を告げられたことになっている高橋一洵について、山頭火関連の著書が多い文芸評論家の村上護は次のように書いています。
10月10日の柿の会の例会には6人が一草庵に集まったが、主宰者である山頭火は眠っていると思って起こさないで句会を開き、11時ごろに散会した。
高橋一洵はいったん帰宅したが、気になって夜中の2時過ぎに一草庵へ行ってみたところ、山頭火の身体は硬直していた。(11)
このように、大山澄太は御幸寺の黒田住職夫人が第1発見者だとし、村上護は高橋一洵を第1発見者だとしています。
②自殺の可能性
山頭火は自殺未遂の経験を何度か書き残しています。まずは、『行乞記』の1930(昭和5)年9月14日の文言です。「アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルモチンを二百瓦{グラム}飲め(先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)。」そして、この日の行乞記には、「死」という単語を含む2句のほか、「毒薬をふところにして天の川」という定型俳句が書かれています。この句にある毒薬は睡眠剤カルモチンのことですね。
次は1935(昭和10)年8月10日の日記に書かれているもので、
「正しく言へば、卒倒でなくして自殺未遂であつた。{中略}多量過ぎたカルモチンに酔つぱらつて、私は無意識裡にあばれつつ、それを吐き出したのである。」
この件について、翌1936(昭和11)年6月30日付の木村緑平宛書簡では、「昨年の卒倒も実は自殺未遂だつたのです」のほかに、「幾度か自殺を企てました」と告白しています。
自殺未遂を何度もくりかえして5度目に成功した人として太宰治が有名ですが、山頭火は少なくとも3度は自殺未遂をしたことになります。
山頭火が自殺をしたのではないかと考えた人は、息子の健、柿の会の会員である広瀬無水、大山澄太、松山在住の作家である青山淳平氏などがいます。
広瀬無水は柿の会の例会があった10月10日の昼過ぎに酒の一升瓶を下げて一草庵を訪れ、山頭火の異常に気づきました。無水が亡くなったあとで家人に取材した青山淳平氏は次のように書いています。
「翁は畳にぐったり横たわっていた。昼に兵隊さんと飲んだのだという。便所に連れていった帰り、翁は洗面器に少し吐いたが、それが大変臭く、無水は薬品を飲んで自殺をはかったのではないかと直感したそうである。」(26)
息子の健は父親の遺骨を引き取るために満州からやってきて、出迎えた人たちに「父は自殺でしたか」と尋ねながら肩を落としたけれど、高橋一洵が「大往生だった」と言って健を励ましたと、これまた青山淳平氏が書いています。
では、山頭火は自身の死や自殺についてどのように考えていたのでしょうか。日記や書簡の記述から拾い上げると、次のようになります。なお、仮名遣いは現代風に改めています。
1932(昭和7)年の秋から1934(昭和9)年の前半までは「死ぬにも死ねない、生きるにも生きられない、ジレンマだ」、「生きているのが苦しくなってくるが死ぬのは何となく恐しい」などと、山頭火は生死の間をさまよい、自殺に踏みきれない感じで過ごします。
1934(昭和9)年の後半からは「うまく死ねないものか!」、「いつ死んでもよい用意をして置かなければならない、遺書も書きかえなければならない」などと、死(自殺)の準備へと心構えが変化し始めます。
1935(昭和10)年1月には、「私は今日から郵便貯金を始めた、一日十銭を節約するのである({タバコの}バットをなでしこに、酒三合を二合にという風に)、そしてそれは私の死骸かたづけ代となるのである」と書きましたけれど、その後の暮しぶりから判断すれば、この郵便貯金が継続されたとはとても思えません。
その年の5月は旅に出て、「一歩一歩が生死であった。生きていたくない、死ぬるより外ないではないか。白い薬が、逆巻く水が私の前にあるばかりだった」と自殺方法を暗示し、8月、ついに白い薬(睡眠剤カルモチン)で自殺を図りました。
以降も山頭火は「死{に}場所探し」という言葉を日記の中で使い、1936(昭和11)年11月には「一時の睡眠から永遠の睡眠へ――やっぱり催眠剤がよい、――酒を腹いっぱい飲んで、それから寝床に横わって。」と書くに至ります。
1937(昭和12)年11月、山頭火は泥酔して金を払えなくなり、警察から検事局に回される事件を起こしてしまいます。いつものように悔恨と自責の念に苦しめられた彼は、11月20日に「自問自答(一)自殺について」と題する文章を書きました。自答部分をまとめると、次のようになります。
自分はいつでも死ぬことができる。死にたいというよりも、生きていたくない。その理由は「性格破産の苦悩に堪えきれないのだ。」「生存難だ、いや、存在難だ! 生きる死ぬるの問題以前の問題だ。」
その3日後の日記には、「ともすれば死の誘惑を感じる」とあります。日本中が生活苦の中にある状況下で、山頭火は1938(昭和13)年以降も同様の精神状態がつづきました。「友達のふところにすがることがいやになった、すまないと思う、毎日毎月の赤字がたまらなく私を悩ます」(1939(昭和14)年9月2日の日記)というわけです。
このように、山頭火はアルコールの誘惑としばしばの泥酔癖を克服できず、生活苦から抜け出す試み(材木商への就職)もわずか数日の勤務をしただけで挫折し、1940(昭和15)年には松山の俳句仲間の奥さんや近所の奥さんから米や醬油、酒代を借りて「恥ずかしかった」「身震いするほど恥ずかしかった」と日記に書かざるをえなくなります。経済的に極限まで追い詰められたのですね。亡くなる1か月ほど前の9月15日に「死の誘惑に敗けそうな日なり」、亡くなる10日前には「身のまわりを整理する、いつ死んでもよいように」とあります。
③主宰者が隣室で眠っている句会
山頭火は死去する前日の句会のとき、隣室で眠っていたことになっています。ところが上記②で触れたとおり、句会に出席した広瀬無水は、その日の昼過ぎにも一草庵をおとずれ、山頭火をトイレにつれて行ったあと、山頭火の吐いた物が異様に臭かったため、彼が薬物で自殺を図ったと直感したのでした。
句会のために一草庵に集まった無水以外の5人の会員に対して、無水が昼過ぎの山頭火の状態を話さなかったとはとても考えられません。唯一考えられるのは、彼が山頭火から「このまま眠らせてほしい」または「このまま死なせてほしい」と頼まれた可能性でしょう。以上、この最後の段落は私の憶測です。
④脳溢血の発症者が布団に寝ている可能性
駆けつけた医師は、山頭火に脳溢血(今は脳出血という表現がふつう)の症状が出たあと、心臓麻痺で死亡したと診断しました。現在は、脳溢血の初期症状として激しい頭痛、言語障害、半身麻痺、嘔吐などが挙げられています。そのような体調の人が自分で布団を敷いて、おとなしく身を横たえていられるものか疑問に思いますが、どうでしょうか。とくに「自分で布団を敷く」余裕があるか否かが焦点です。そのような余裕がないはずなら、御幸寺の住職夫人が夕方に山頭火を介抱して布団に寝かせたという話の信憑性が高まるのではないかと思います。
⑤日記の最終部分の偽造
山頭火が記録しつづけた日記は、死去する直前の3日分が偽造されました。その事実が判明したいきさつは、筆跡鑑定の依頼をうけた田村真樹氏という筆跡鑑定士のウェブサイトに詳しく書かれています。依頼者は長野県に住む古川富章(とみあき)氏という山頭火研究者、時期は2020年6月、依頼内容は山頭火の日記の筆跡鑑定でした。
鑑定の結果、筆順の違い、文字の違い、送り仮名の違いなどがつぎつぎに明らかとなり、「古川様は筆跡鑑定の結果を受けて、雑誌への記事の投稿など地道な活動を積み重ねられました。その結果、新聞や週刊誌でも報道され、ついには(今年{2022年}5月、)山頭火全集の出版社自らが贋作部分をカットし真筆の10月6日で終わる内容に全集を改訂しました。50年近く加えられたままだった捏造部分がなくなり、本来の姿に戻ることになったわけです。」(27)
⑥山頭火の遺書
山頭火は1933(昭和8)年1月以降、日記の中で何度も自分の遺書について触れています。焼き捨てると書いたことが一度ありますけれど、そのほかは「書きかへる」という表現を使って、遺書・遺言書への思い入れをうかがわせています。死去する1か月半ほど前の1940(昭和15)年8月27日にも「遺言も書きかへておかう」と書いています。
また彼は一貫して整理整頓をこころがける人でした。東京で一橋図書館の上司からその点を評価され、元妻のサキノも同様の証言をしています。というわけで、私は遺書が一草庵に残されていたのではないか、それについて誰も言及しないのはなぜか、などと思いを巡らせています。
蛇足: 実現しなかった自伝的な著作
山頭火は文学と仏教関係の書物を中心に、幅広く読書をする人でした。彼の『基中日記』1934(昭和9)年12月17日には、ジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』を読み終えたという記述があります。その10日前の日付では「彼は私ではあるまいかとさへ思はれるページがある。……私も私流の随筆なら書けさうだ」とありますから、この『手記』にかなり刺激を受けたと思われます。
また、『手記』を最初に読み終えた1934(昭和9)年12月には、日記に「のらくら手記」と「ぐうたら手記」と題して執筆の素材を書き連ね始め、翌年は、9月上旬までに「ぐうたら手記」が37件あり、中旬以降は「基中漫筆」とタイトルを変えて12件の記述があります。ただし、記述と言っても、ほとんどが記憶を呼び起こすためのごく短いメモにしかすぎません。
1937(昭和12)年8月2日の日記には『手記』を読み直し、著者のギッシングと自分には「共通なものがあるらしい」と書いています。これらのことから、山頭火が自分も自伝的エッセーを書きたいと思った可能性は大きいと思います。
ちなみに、山頭火の創作意欲を刺激したジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』は、イギリスで1903年に出版され、藤野滋による日本語訳が1924年に春秋社から出版されました。その後も異なる訳者の翻訳本が岩波文庫や新潮文庫から出ています。
内容は、田舎に住んでいるライクロフト氏の孤独な生活、貧しいころの回想、四季折々の自然の移り変わり、読んだ本の感想など、山頭火と共通する部分がたしかに多いと言えるでしょう。
参考文献と注
(1)正岡子規「字余りの和歌俳句」in『日本』(1894年8月20日)
(2)福田周「山頭火:俳句にみる生と死の表現」in『死生学年報』(2018年)p. 111-138。この論文はネット上に公開されている。
(3)山頭火は、『基中(ごちゅう)日記』の1937(昭和12)年3月3日に「私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだらう」と書き、11月27日には「私が自叙伝を書くならば、その冒頭の語句として、――私一家の不幸は母の自殺から初まる、――と書かなければならない」と書いている。
(4)和田光利「みちのくに出現した山頭火」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 219-225。
(5)種田山頭火『山頭火随筆集』(講談社文芸文庫、2002年)
(6)正一の結婚相手の佐藤サキノという女性は、私の目にした文献のタイトルや本文で「サキノ」または「咲野」と、ほぼ半々の割合で表記されていた。どの文献もカタカナまたは漢字で表記する理由に触れていなかったので、防府市にある「山頭火ふるさと館」にメールで問い合わせたところ、戸籍上は「サキノ」となっていて、「さ起乃」という当て字を通称として使い、晩年には「咲野」を用いていたようだ、という回答を得た。
また、サキノについては、田村悌夫(やすお)著『種田山頭火の妻「咲野」』(山頭火ふるさと会発行、平成10年7月31日第一刷)にて詳細に触れられている、とのことだった。というわけで、このブログでは一貫して「サキノ」とする。
(7)酒造場売却にかんする情報は、村上護(まもる)『放浪の俳人山頭火』(講談社、1988年)p. 58による。
(8)岩見幸恵「佐藤咲野:山頭火の妻の虚像と実像」in『山頭火徹底追跡』(勉誠出版、2010年)p. 58~59。
(9)山田啓代『山頭火の妻』(読売新聞社、1994年)p. 39。
(10)村上護(まもる)編「山頭火年譜」in『山頭火読本:男はなぜさすらうのか』(牧羊社、1990年)p. 334-339。
(11)村上護『放浪の俳人山頭火』(講談社、1988年)
(12)崎村裕「山頭火の放浪」in『山頭火徹底追跡』(勉誠出版、2010年)p. 80。
(13)木村緑平宛書簡、『行乞記(2)』、日付はいずれも1932(昭和7)年2月1日。
(14)『基中日記』1938(昭和13)年1月12日、『一草庵日記』1940(昭和15)年3月1日。
(15)東條文規「種田山頭火と図書館」in『短期大学図書館研究』第29号(2009年)
(16)茂森唯士「山頭火の横顔」in『山頭火:研究と資料』(春陽堂書店、1980年)p. 159-164。
なお、引用文にある「一ツ橋図書館」は多くの山頭火関連文献での表記と一致するが、東京市の文書や図書館関係者の文献では「一橋図書館」となっている。
(17)伊東敬治「熊本・東京・基中庵」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 165-169。
(18)大森健一「自然のもたらす心の癒し―病跡学的視点から―俳人種田山頭火の場合」in『人間・植物関係学会雑誌』7 (l), p. 9-15(2007年)
これは「人間・植物関係学会2007年大会シンポジウム」での基調講演で、ウェブサイトにも公開されている。
(19)1934(昭和9)年11月7日付の木村緑平宛書簡 in『山頭火全集 第11巻:書簡』(春陽堂書店、1988年)
(20)大山澄太『生死の中の山頭火』(春陽堂、1988年)p. 64, p. 91。
送金は、『広島逓友』の俳句欄のために山頭火に依頼していた選評の謝礼金と、執筆してもらったエッセーの原稿料を指していると思われる。
(21)1934(昭和9)年8月16日付の木村緑平宛書簡 in『山頭火全集 第11巻:書簡』(春陽堂書店、1988年)。基中(ごちゅう)とは、山頭火が山口県吉敷郡小郡町で1932(昭和7)年9月20日から6年2か月にわたって住んだ基中庵のこと。
(22)『基中日記』1934(昭和9)年6月29日。
(23)伊藤完吾「『層雲』における放哉と山頭火」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 55-62。
(24)この月日不詳の荻原井泉水あて郵便以降、山頭火は自分にとっての歩くことの必然性や山を歩くときの幸福感などを、定住を勧めたらしい師に対して繰り返し訴えている。
(25)大山澄太『俳人山頭火の生涯』新装版(彌生書房、1983年)p. 221-222。
(26)青山淳平「山頭火コロリ往生の真相」in『原点』64号(1995.7)。『原点』は松山市で発行されてきた同人雑誌。「山頭火コロリ往生の真相」はネット上に公開されているほか、青山淳平著『人、それぞれの本懐:生き方の作法』(社会思想社、1999年)にも収録されている。
(27)田村真樹「種田山頭火”最後の日記”一草庵日記の偽筆を解明」in同氏のウェブサイト(アクセス2026.03.16)