図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

3人のアスリート図書館員

 《図書館員》と《国を代表するアスリート》の両方を経験した人はとても少ないようです。今回はその珍しい経験者を3人ご紹介します。

 

 ◉ニュージーランドのラグビー選手だったジェフリー・トーマス・アリー(Alley, Geoffrey Thomas  1903-1986)は、1920年代の後半に同国のラグビー代表チームで活躍した人です。競技から引退した彼は、地方の図書館サービスの改善に従事するなどし、最終的にニュージーランド国立図書館の初代館長を務めました。

 父親が教師をしていたからでしょうか、アリー家には長じて教育畑に進んだ子どもがジェフリーを含めて3人いました。彼が高校生活を送ったクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールは、ニュージーランドで指折りの名門男子校で、学業面でもスポーツ面でも立派な卒業生を輩出して現在に至っています。

 1920年代のニュージーランドは人口が150万人ほどの国で、100年後の現在でも530万人ほどしかいません。ところがオールブラックスの愛称で知られるこの小さな島国のラグビー代表チームは、ラグビー史の中で世界最強国のひとつとして君臨しつづけています。ラグビーの国代表どうしのゲームをテストマッチと言いますが、オールブラックスはテストマッチで負け越している国がひとつもなく、最も苦戦してきた南アフリカ共和国に対しても勝率が57%を超えています。

 ジェフリー・アリーのポジションはフォワードの核と言われるロックでした。このポジションは、ほとんどのばあいチーム内で最も背の高い選手が担う役で、彼も身長190センチ、体重100キロの大柄な青年でした。ただし、彼の国代表としてのキャリアは短期間(1926年から1928年まで)で、テストマッチの出場経験は3度しかありません。

 高校を卒業した彼は数年間、父親が所有していた農場の経営を任される一方、国内のラグビー界で頭角をあらわします。

 1926年、農場の経営をあきらめてカンタベリー・カレッジ(現・カンタベリー大学)へ入学して以降、教育学のジェームズ・シェリー教授の信任を得て修士号を取得し、国を代表するラグビー選手になったのでした。文字どおりの文武両道ですね。

 ジェフリー・アリーが修士号を取得する過程を含む8年間の実践は、次のように、彼の後半生にとって大きな意味をもつものでした。

 第1は、彼が学士課程を終えた1929年末から地方(農村地帯)の成人教育にかんする新たな試みにたずさわる機会を得たことです。費用はアメリカのカーネギー財団が負担し、実験の指導者はカンタベリー・カレッジの恩師シェリー教授でした。

 第2は、彼が図書や教材を積んだバンを運転して地方を巡回し、各地の社会教育の実情を目の当たりにすると同時に、さまざまなグループの構成員と近づきになれたことです。

 第3は、この移動図書館のような実践活動によって、彼は公立図書館の必要性・重要性について確信に近い考えをもつに至ったことでした。

 第4は、彼の実践活動が1929年末から1937年末まで8年間にわたってつづけられ、最初の2年間の経験をもとに、1932年に修士論文「地方における成人教育の実験」と題する修士論文を書くことができたことでした。

 第5は、地方の図書館状況の改善に意欲を燃やすグループと協力する中で、中央政府の教育や図書館にかんする政策担当者の信頼を得ることができたことです。

 その結果、1937年に政府が地方図書館サービス(Country Library Service)という全国的な図書館網の整備計画を作成したとき、彼はその責任者に任命されました。日本では日野市立図書館が1965年の9月から1台の移動図書館車で本の貸し借りを市内の隅々まで実施してセンセーションを巻き起こしましたが、ジェフリー・アリーに率いられたニュージーランドの地方図書館サービスは、1930年代末から国内の隅々まで本の無料貸借サービスを拡げていったのでした。その方法は、サービスが手薄な地方の図書館に貸出用の図書を届け、図書館のない町村には巡回車で移動図書館サービスをするものでした。

 成功の基となったのは、1934年に発表された『マン=バー報告書』と政府の力強い支えでした。『マン=バー報告書』は、ニュージーランドの公立図書館界の実情報告で、全国的な図書館界改革のための提言を含んでいましたので、日野市立図書館にとっての『中小都市における公共図書館の運営』(略称:『中小レポート』)を上回る役割を果たしたと言っても過言ではないでしょう。(1)

 その後のジェフリー・アリーは、ニュージーランド図書館協会の会長(1959年~1960年)や国立図書館の館長(1964年3月~1967年12月末)、カナダのウェスタン・オンタリオ大学の図書館情報科学部で客員教授(1968年~1971年)などを歴任し、1986年9月25日に83歳で亡くなりました。

 

 ◉陸上競技のトラック長距離選手だった村社講平(むらこそ・こうへい 1905-1998)は、1936年に開催されたベルリン・オリンピックで10000メートルと5000メートルの2種目に出場し、両方とも4位に入賞しました。

 このオリンピックでは、日本の選手が6種目で金メダル、4種目で銀メダル、10種目で銅メダルを獲得しました。加えてこのオリンピックでは、日本女性で初の金メダルを獲得した前畑(まえはた)秀子選手と真夜中に決勝レースを実況したNHKの河西アナウンサーの「前畑がんばれ!」という絶叫のような連呼、棒高跳びで銀メダルの西田修平選手と銅メダルの大江季雄(すえお)選手による《友情のメダル》のエピソードなど、国内で注目された話題がたくさんありました。さらに、日本人がメダルを獲得したことのなかった芸術競技で、絵画部門の藤田隆治(りゅうじ)と鈴木朱雀(すじゃく)のふたりが銅メダルを獲得したのも、明るいニュースでした。

 というわけで、村社選手の2種目で4位という成績はさほど注目されなかったと思われるかも知れません。けれども、大会の公式記録映画『オリンピア』(「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成)では、10000メートル競走で小柄な村社選手が序盤から終盤にかけて先頭を走る姿や、彼を応援する観衆の「ヤーパン」(Japanのドイツ語発音)と「ム~ラ~コ~ソ~」のシュプレヒコール、最終盤のデッドヒートなどによって、彼の奮闘は映画を観た日本人に強い印象を残したのでした。この映画の製作を担当した女性監督レニ・リーフェンシュタールの手腕も見事だったのではないかと思います。

 村社講平は、宮崎県宮崎郡赤江村(現・宮崎市赤江町)で13人きょうだいの5男として誕生しました。父は酒造業をしていましたが、知人の借金の保証人になって運悪く破産してしまいます。たくましい父は代わりに材木商を始め、講平少年が小学校に通い始めると、仕事の一部を手伝わせました。

 幼いころから動き回るのが好きだった講平に任されたのは、登校前に材木運搬業者の家まで行って運搬先などを伝えることでした。そのため、彼は往復7キロを走るのを日課としたと伝えられています。

 彼が小学校に通い始めて間もない1912(明治45)年、ストックホルムで第5回オリンピックが開催され、宮崎県の西隣の熊本県を出身地とする金栗四三(かなくり・しぞう)がマラソンの代表として出場しました。金栗選手は小学生のとき登下校に往復12キロを走っていたとされていましたので、父も講平少年もその逸話を知っていたかも知れませんね。

 1919(大正8)年、孝行息子の講平は宮崎県尋常中学校(5年制の男子校。現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)に通い始めます。翌1920(大正9)年、宮崎中学の先輩である熊谷一弥(くまがい・いちや)が、アントワープで開かれた第7回オリンピックのテニス競技のシングルスとダブルスの2種目で銀メダルを獲得しました。

 中学生になった講平は、校内の運動会の人気競技6000メートル・ロードレースで思いがけず優勝します。「初めての出場で」と表現する資料は複数ありますけど、何年生のときだったかは不明です。確かなのは、若い村社講平が金栗四三や熊谷一弥などのオリンピック選手に刺激されたこと、陸上の長距離競走で自信をもてたこと、自分もオリンピックに出てみたいと思ったこと、ではないかと思います。

 ところが彼は高校や大学に進まず、中学を卒業すると運動具店でしばらく働き、2年近くを都城(みやこのじょう)歩兵23連隊で過ごした期間も、次いで宮崎県立図書館に勤務していた5年余りのあいだも、コーチや一緒に走る仲間がいない状態でひとり黙々と走りつづけたのでした。

 九州などの地区大会で優勝し、記録を少しずつ向上させていった村社は、1932(昭和7)年にロサンゼルスで開かれる予定の第10回オリンピックの最終予選会に臨みましたが、10000メートルで惜しくも3位となって、出場権を獲得できませんでした。代表権を得たのは慶応義塾大学の学生だった竹中選手で、その他の陸上・水泳などの代表の多くも現役の学生でした。

 すでに26歳になっていた村社は、進むべきか退くべきかの岐路に立たされます。そこへ声をかけてくれたのが中央大学の陸上部でした。《渡りに船》とばかり、1933(昭和8)年7月に図書館を退職した彼は、9月に中央大学に入学します。そして集団の中で地道に練習を積んだ結果、10000mでも5000mでも日本記録を更新していきました。その結果、村社講平が1936(昭和11)年に開催されたベルリン・オリンピックの陸上トラック長距離2種目で4位入賞を果たしたことは冒頭で書いたとおりです。その後、1940(昭和15)年の東京大会は日中戦争の影響で日本政府が開催を返上し、1944(昭和19)年のロンドン・オリンピックは第2次世界大戦の影響で開催することができませんでした。

 戦後の村社講平は毎日新聞運動部の記者として取材、執筆、イベントの企画・開催などで活動する一方、陸上長距離界で後進を指導し、何人もの優れた選手を育てました。中でも寺沢徹はマラソンの世界記録を更新し、円谷(つぶらや)幸吉は東京オリンピックで銅メダルを獲得した名選手でした。

 ここまで、図書館員としての村社講平の勤務ぶりをまったく書きませんでした。5年も勤務した人なのに何も書く材料がないのかと言われれば、「そのとおりです。材料が見つかりませんでした」と言わざるを得ません。その代わり、彼の中学時代の同級生だった中村地平が宮崎県立図書館の館長を務めていた事実を簡単に書くことで埋め合わせをしたいと思います。

 中村地平は1908(明治41)年生れの作家(本名は中村治兵衛)で、3篇の小説が芥川賞候補になった人です。彼は東京帝国大学文学部の大学院まで進み、都新聞社と日向日日新聞社を経て1947年に宮崎県立図書館長に就任しました。彼の3度目の芥川賞候補作品「八年間」が『群像』に発表されたのは1950(昭和25)年でしたから、彼は図書館長になって以降も力作を書きつづけていたことになります。

 宮崎県立図書館のウェブサイトに「文人館長 中村地平」というページがあります。その記事によりますと、館長に就任した中村地平は「深い知識と旺盛な行動力、幅広い人脈を使って画期的な活動を次々に創出していった」ということです。

 また、その記事では、彼の具体的な業績として「日本十進分類法による図書の整理、増改築に伴う文化ホールの新設、臨海文庫・農村文庫などの貸出文庫や自動車文庫“やまびこ”の開設、参考係の新設など」を列挙しており、たしかに当時としては斬新な試みが含まれているように見受けられます。

 ウェブサイトにある「宮崎県立図書館100年のあゆみ」によりますと、新館長の業績とされる《臨海文庫》は次のようなものでした。

 「青島海水浴場に海辺の図書館として臨海文庫が開設されたのは、戦後間もない昭和22年の真夏だった。それから毎年8月、海の疲れを癒す憩いの場所として人気があり、多くの海水浴客に喜ばれていた。この臨海文庫の先身が、大正時代に行われた「宮崎図書館納涼文庫」である。」

 中村地平は1957(昭和32)年9月まで10年間にわたって図書館長を務め、退任後すぐに宮崎相互銀行の取締役、社長を歴任しました。

 この中村地平館長と村社講平が「中学時代の同級生」だとする先の記述は、この宮崎県立図書館のウェブサイトの情報によりますが、中村館長は1908年生れで村社講平は1905年生れでした。

 

 ◉1917年にチェコスロヴァキアのトジェビーチ(Třebíč)という町で生まれたミロスラフ・スラーマ(Sláma, Miroslav  1917-2008)は、少年時代にアイスホッケーを始めました。町にはクチンカ(Kuchyňka)という池があって、そこは春秋の散策のコースとして、夏の遊泳場として、冬に凍結するスケートリンクとして、地元住民に親しまれる場となっていました。

 高校生時代のミロスラフ・スラーマはトジェビーチの労働者スポーツクラブでアイスホッケーをつづけていましたが、1936年に国内で最高峰の大学であるカレル大学の法学部(プラハ)に入学することができました。大学でもプレーをつづけた彼は、1939年にノルウェーのリレハンメルで開催された大学アイスホッケー国際大会で優勝したチームの一員として活躍しました。学業面での彼はカレル大学で法学の博士号を取得しましたので、最初にご紹介したニュージーランドのジェフリー・アリーと同じく、文武両道に秀でた人だったのですね。

 プレイヤーとしてのスラーマは、攻撃(オフェンス)を担う選手として出発し、国の代表チームでは守備(ディフェンス)役となりました。俊敏だった彼は攻守に活躍できましたので、《両生類》というニックネームをつけられたということです。

 1947年2月、スラーマは初めてアイスホッケーのチェコスロヴァキア代表に選ばれ、プラハで開催された世界アイスホッケー選手権で優勝しました。翌1948年の1月末から2月上旬にかけて開催された第5回冬季オリンピック大会(スイスのサン・モリッツ)では、チェコスロヴァキア代表が銀メダルを獲得しました。

 ところが、1948年2月下旬に、スラーマの故国ではクーデターによって共産党政権が誕生しました。この政変がスラーマの将来を急角度に変えさせる主因となります。すなわち、同年の12月にスイスのダヴォスで開催されたアイスホッケーの国際クラブチーム大会(シュペングラー・カップ)に助っ人として参加していたスラーマは、大会終了直後にスイスへ亡命します。そのいきさつは、次のとおりです。(2)

 ①共産党政権の誕生以後、チェコスロヴァキア国内ではいろいろと自由が制限され、将来への不安をおぼえる人が多くなっていた。

 ②国の代表チームはLTCプラハだったが、大会期間中にチームの元会長と伝説的な名選手ヨセフ・マレチェクがチームを訪れて、「大会後は帰国せずにスイスで強いチームをつくり、プレーを楽しもうではないか」と提案します。

 ③選手たちは、数日にわたって話し合い、「選手が投票し、全員が同意すれば帰国しないで移住する」と決めました。

 ④投票結果は7対6と割れましたので、全員が帰国するはずでしたが、ミロスラフ・スラーマと若いオルジフ・ザブロドスキーはスイスに亡命しました。1949年の元旦のことでした。

 スイスでの約5年間、スラーマはダヴォスのアイスホッケーチームで選手、コーチとして過ごししたあと、1953年、アメリカに渡ります。

 翌1954年、彼はアメリカのコロラド州デンヴァーにある私立のデンヴァ―大学で図書館学修士号を取得する過程で、ベティ・ウッドハウスという女性と巡り合い、ふたりはともに図書館の専門職である《司書》の資格をも取得したのでした。以後、結婚した夫妻は、夫がいくつかの大学図書館で勤務する一方、妻も夫と同居しながら通えるいくつかの公共図書館と大学図書館で勤務し、夫婦は3人の娘を育てました。具体的な勤務先は次のとおりです。(3)(4)

 なお、ミロスラフ・スラーマはアメリカでマイケル・スラーマと称するようになりましたので、下記のマイケルはミロスラフのことです。

 ①マイケル=1954年から1960年までアイダホ大学図書館(アイダホ州モスコー)。ベティ=ワシントン州立大学図書館(ワシントン州プルマン)。

 ②マイケル=1960年11月からカリフォルニア州立工科大学ポモナ校の図書館副館長。ベティ=ポモナ公共図書館でパートタイム司書。

 ③マイケル=1966年から1980年までムーアパーク・ジュニア・カレッジの図書館長(カリフォルニア州ムーアパーク)。ベティ=一家が住んでいたサウザンド・オークスの市立図書館 ⇒ 1968年6月からシミ・ヴァレー公共図書館のスーパーヴァイザー。

 チェコスロヴァキアでは1948年のクーデターによって共産党政権が誕生し、その直後からさまざまな立場の人たちが監視され、逮捕され、職を奪われ、息苦しくなった市民の多くが亡命しました。マイケル・スラーマもそのひとりだったのですね。彼は1990年まで故国を訪れようとしませんでしたし、亡命後40年間はチェコのメディアに採り上げられなかったということです。

 けれども、アメリカに渡ってからの彼は素晴らしい伴侶を得て、堅実に仕事をしながら家族を大切にする暮しを存分に楽しんだように思われます。長寿夫妻の享年は、マイケルが91、ベティが102でした。

 

参考・参照文献

(1)New Zealand libraries: a survey of conditions and suggestions for their improvement/ by Ralph Munn and John Barr (Christchurch, Libraries Association of New Zealand, 1934)

(2)Pohnuté osudy: Miroslav Sláma by Pavel Kovar in “Lidove Noviny” (2016.4.4)

(3)Michael Slama Obituary(”Los Angeles Times”, on Dec. 7, 2008)

(4)Betty Slama Obituary (Pub. by Legacy Remembers from Apr. 25 to Apr. 30, 2023)

種田山頭火(たねだ・さんとうか 1882-1940)

 種田山頭火は大正から昭和の前半にかけて活躍した自由律俳句の俳人です。自由律俳句とは、長くつづけられてきた5・7・5の定型にとらわれずに、自由なリズムで句を構成する俳句のことです。そのため、句全体の音数が10に満たないこともあれば20を超えることもあり、5・7・5のリズムを刻まない句が多いため、非定型俳句と言われることもあります。

 自由律俳句のきっかけとなる主張を展開し始めたのは、正岡子規という俳人でした。たとえば、彼は「字余りの和歌俳句」という新聞記事のなかで、短歌を31文字としたのも俳句を17文字としたのも人間が勝手に決めたことなので、そこから外れてはいけないというのは間違いだと主張しました。そして、自分はまず字余りを許容することで古くさい陳腐さから脱却しようと思っているとも書いています。1894(明治27)年のことでした。(1)

 その後、子規の俳句の弟子だった河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)や、碧梧桐の新しい俳句の考え方に共鳴した荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)などが自由律俳句の推進役を担いました。中学生のころから田螺公(たにしこう、でんらこう)という俳号で定型俳句を作っていた山頭火は、井泉水と碧梧桐が1911(明治44)年に創刊した『層雲』という俳句雑誌に投稿し始めて俳人として育ったのでした。

 種田山頭火は、生涯にわたって多くの不幸の種に苦しめられ、それらにあらがい、自分を叱咤し、時には不甲斐ない自分をののしりながら、中年以降に存在感を発揮した俳人でした。

 俳句における自由律の主張も、無季の主張も、山頭火が初めて提唱したのではありませんけれど、作品の出来栄えの面では山頭火が突出していたのではないかと思います。また、数々の不幸や不運に打ちのめされながら必死になって句作に励んだ姿勢が、時を経るにつれて支持者・愛読者を増やしていったように思われます。

 以下、山頭火の数々の不幸や不運を明らかにしながら、その人となりを浮き彫りにしてみましょう。彼は50歳を過ぎた1933(昭和8)年2月18日の日記に、次のように書いています。

 「彼の過去帳を繰りひろげて見る。――

 最初の不幸は母の自殺。

 第二の不幸は酒癖。

 第四の不幸は結婚、そして父となつた事。

 第五の不幸……」

  この一連の文章の冒頭に「過去帳を繰りひろげて見る」とあるのは、「自分の過去を振り返ってみれば」ほどの意味です。

 

第1の不幸:母の自殺

 彼は山口県佐波(さば)郡西佐波令(にしさばりょう)村(今の防府市)の地主一家に長男正一(しょういち)として生まれました。正一が誕生したときの種田家は、祖母ツル、父竹治郎、母フサ、長女フク、長男正一の5人家族でしたが、その後、妹がひとり(シズ)と弟がふたり(二郎、信一)生まれます。

 順調に成長していった長男の正一少年とは違って、母親のフサ、長女フク、次男の二郎、三男の信一は、長く生きつづけることができませんでした。この4人の中でいちばん先に亡くなったのが母親のフサで、1892(明治25)年、まだ32歳でした。死因は自宅の敷地にある井戸への投身という悲惨なもので、山頭火に関する評伝などでは、夫の竹治郎が女遊びと政治活動で家を顧みなかったことを苦にしての自殺だと書かれています。例外は、臨床心理学者の福田周(あまね)東洋英和女学院大学教授による「山頭火:俳句にみる生と死の表現」(2)で、該当部分は次のとおりです。

 「母フサは、3男の信一を身ごもったときに病に倒れ、肺結核と診断される。それ以降母の容態は悪く、精神的にも不調をかかえ、母屋とは別の同じ敷地内の長屋部屋に一人寝かされて過ごすようになった。山頭火をはじめ、子どもたちはその長屋へは近づかぬように言われていた。そんな折りに、2男二郎を竹治郎の姉の嫁ぎ先へ養子に出すという話が持ち上がる。そのことをフサは非常に気にしていたらしい。また、当時竹治郎は精力的に助役の仕事につく一方で、花街に通い、女性関係に湯水のように金をつぎ込んでいた。」

 このように、フサが夫の放蕩を苦にしていただけでなく、心身ともに八方塞がり状態だったことが判ります。

 次いで1894(明治27)年、末弟信一が4歳10か月で亡くなり、正一より1歳上の姉フクは、幸せな結婚をしたのに、20歳になるかならぬかの若さで亡くなりました。弟の二郎は1893(明治26)年に父竹治郎の姉の婚家へ養子に出されていましたが、父がその家から借りた多額の借金を返済できなくなったのをきっかけとして、1916(大正5)年12月に離縁されてしまいます。その後の彼は、結婚していた兄の正一を頼ってしばらく同居していた時期もありましたけれど、1918(大正7)年6月、徳山の山中で縊死しているのが発見されました。満31歳でした。

 家族の早世、とりわけ母フサと弟二郎の死は、正一・山頭火の心に大きな傷跡を残したと思われます。いわゆるトラウマですね。

山頭火は日記の別の日付で、一家の不幸は母の自殺から始まった、自分が自叙伝を書くときはその事実から始めるだろう、と書いています。(3)

 弟の二郎についても祥月命日に祈りをささげ、「彼はまことに不幸な正直な人間であつた」とか、「甘い物を供へて回向する、あゝ彼は愚直すぎた!」などと日記に哀悼の情を記しました。それに対して、二郎が養子先から追放される原因をつくった上に、借金苦から逃れるために行方をくらました父竹治郎や、若死にした姉フクなどについては全くと言ってよいほど言及していません。

 このように、母とすぐ下の弟を自死という痛ましい形で失ったことが、正一の心に深い傷跡を残したのは間違いないでしょう。困って頼ってきた弟に十分な援助をしてあげられなかった兄として、自責の念があったのかも知れません。

 

第2の不幸:酒癖

 第2の不幸として挙げられている酒癖とは、酒を飲みすぎたときにしばしば失態を演じてしまうことを指しています。いくつか例を挙げてみましょう。

 ①1919(大正8)年4月、前後不覚になるまで泥酔して警察署に連行され、連絡を受けた医師で句友の木村緑平が翌日に引き取りに行った。

 ②1924(大正13)年12月、熊本市で走行中の電車の前に立ちはだかって急停車させ、乗客を激怒させた。この事件がきっかけで彼は出家得度し、本名を種田正一から種田耕畝(こうほ)へと改名した。

 ③1931(昭和6)年3月、泥酔して飲食料金の支払いができず、無銭飲食とみなされて留置所に入れられた。このとき山頭火は48歳。

 ④1937(昭和12)年11月、日記によれば、あちこちで無茶苦茶に飲んだあげく、支払い不足が45円になって留置場にぶちこまれた。検事局に回され、誓約書を書いて1週間後に釈放された山頭火は、息子の健(けん)、句友の木村緑平と大山澄太(すみた)へ、借金返済を助けてほしいと連絡した。このときの山頭火は54歳。

 上記の②以外は、いずれも警察のご厄介になったものでしたが、警察が介入せずに友人や知人が後始末をしてくれた例はたくさんありました。中でもひどかったのが、1936(昭和11)年6月に山形県鶴岡町の和田秋兎死(わだ・あきとし、本名は光利=あきとし)という俳友に迷惑をかけた一件でした。山頭火より20歳ほど若い秋兎死は、後年「みちのくに出現した山頭火」(4)と題する文章で、その件をくわしく書いています。要約すれば次のとおりです。

 山頭火が自宅に数日間も滞在してくれたのを喜んだ秋兎死は、一家をあげてもてなし、料亭で接待し、毎日のように銭湯代まで渡したにもかかわらず、山頭火は勝手気ままにふるまい、出立の連絡も別れの挨拶もしないで姿を消し、高額な借金返済の肩代りを金持ちではない秋兎死に押しつけてしまったのでした。山頭火は合わせる顔がないという慚愧の念が強かったのでしょうけれど、「第2の不幸」の代表例と言ってもよいでしょう。当然ながら、この「みちのくに出現した山頭火」のあちこちで、秋兎死の恨みつらみを読み取ることができます。

 もちろん山頭火自身、飲酒に起因する悪癖を分かっていて、日記の中でしばしば自分を𠮟りつけ、ののしり、あるいは励まし、対策を提案し、その実行を誓約しました。けれども、激励、対策の提案、誓約は、何度くりかえしても効果が現われません。やがて日記に諦めの心境が見え始めます。たとえば、

 1934(昭和9)年10月9日、「酒、酒、そして酒だ。

面白くないから飲む、飲めばきつと飲みすぎる、いよいよ面白くないから、ますます飲む、――これを循環的に繰り返して転々するから、末は自殺しかない(その自殺はほがらかな自殺であらうが)。」

 1936(昭和11)年5月23日、「私は何故時々泥酔するのか、泥酔しないではゐられないのか。――

 私はほんたうにおちついてゐない、いつも内面では動揺してゐる、――それもその源因ではあるが、私は自己忘却を敢てしなければ堪へられないのである、かなしいかな。」

 山頭火のエッセーに「物を大切にする心」(5)と題する一篇があります。マッチを無駄使いする老人と、水道の水を無駄に流しつづける女中さんを注意しないある奥さんのエピソードを紹介して、両者を非難する内容です。ところが、山頭火自身、泥酔しなければ耐えられないほど、加えて、その事実によって親しい人に迷惑をかけざるをえない結果をたびたび引き起こすほど、酒という「物」を無駄使いします。彼が無駄使いをするのは酒に限られますけれど、自己救済のための無駄使いであり、それがとりもなおさず金の無駄使いになっています。他人を非難して物の大切さを説きながら、自分はさらに大きな無駄使いをしているのですね。その矛盾を十二分に理解しているからこそ、彼は泥酔するほどに飲酒し、日記の中で自分を罵らずにはおられないのでした。山頭火の第2の不幸たるゆえんです。

 

第3の不幸:種田家の没落

 山頭火は、彼にとっての第3の不幸を、なぜか日記に書きませんでした。けれども、彼の生涯の大きな不幸のなかで、種田家を没落させた酒造業の失敗と一家離散を見逃すことはできません。

 1904(明治37)年に神経衰弱のために早稲田大学を中途退学した正一青年は、実家にもどって静養するうちに、地元の文芸雑誌『青年』に定型俳句や翻訳、エッセーなどを発表するなど、元気をとりもどしていきました。翻訳がツルゲーネフやモーパッサンの作品だったということは、東京専門学校高等予科を含めた2年半ほどの在学中に、ロシア語とフランス語を徹底的に学んで神経衰弱になった可能性があるのではないかと思います。

 帰郷した長男正一の回復ぶりを目の当りにした父竹治郎は、家政を傾かせた責任を取るべく、1906(明治39)年に吉敷郡大道村(よしきぐん・だいどうそん)の酒造場を買収して一家でそこへ移住します。父子は翌1907(明治40)年から酒造りを始め、7~8年間はうまくいっていました。

 その間、父は長男正一に家督をゆずり、結婚に積極的でなかった正一に見合い結婚をすすめ、1909(明治42)年8月、正一は佐波郡和田村の佐藤家の長女サキノと結婚します。正一26歳、サキノ20歳でした。(6)

 ところが、種田酒造場は、1925(大正4)年と翌年の2年つづけて製造中の酒を腐らせてしまいます。酒造りには杜氏(とうじ、とじ)という専門家が製造の全工程を指揮・監督するのがふつうでしたから、何か尋常でない事態が起こったのでしょう。この時期、正一は地元での文学活動に加えて、全国的な新傾向俳句結社である「層雲」で注目されていましたので、酒造業への注力や目配りがおろそかになっていたのかも知れません。

 売るべき商品を2年つづけて製造できなければ、経費を回収できないだけでなく、借金の返済がとどこおり、家族の生活費にも事欠くことになります。資金繰りに困った種田家は、1926(大正5)年4月、最後に残った頼みの綱、酒造場を親戚の町田米四郎と有富イクに売却せざるをえませんでした。町田家は山頭火の妹シズ(町田家に嫁いだ姉の死後、後妻として)の嫁ぎ先、有富家は正一の弟二郎の里親で、竹治郎は両家からの多額の借金を返済できなくなったのでした。(7)

 借金と言えば、種田家では正一の妻サキノの父親である佐藤光之輔(みつのすけ)からも借金をしていました。岩見幸恵(ゆきえ)「佐藤咲野:山頭火の妻の虚像と実像」によりますと、1924(大正3)年の秋、「咲野の口添えで佐藤家から借金。山頭火が金を貰いに行くが途中で酒を飲み一部を酒代にする。翌年は咲野自身が実家に赴く。十月二十一日付、父親の光之輔宛の咲野の礼状が残る。」(8)ということです。

 ただし、山田啓代(みちよ)著『山頭火の妻』では、山頭火の息子の健(けん)が、種田家の没落は2年連続で酒造の際に酒を腐らせたからというよりも、「祖父が放蕩で使い果たした、というほうが正しい」と答えた、と書かれています。(9)

 破産した種田家の家族は、祖母が親類宅に身を寄せ、竹治郎が行方をくらまし、正一とサキノ、健の3人は熊本に転居して雅楽多(がらくた)書房という古書店を開きました。かつて何不自由なく暮らしていた大家族は、破産の末の一家離散という憂き目にあったのでした。

 

第4の不幸:結婚と子どもの誕生

 1909(明治42)年8月に結婚した種田正一と佐藤サキノは、山口県内の資産家の長男と長女で、ちょうど1年後の8月に息子が誕生して健と名づけました。その後の数年間は、正一の父の荒い金遣いのせいで屋敷の一部を売却せざるを得なくなったものの、代りに入手した酒造場の経営は軌道に乗っていました。

 「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言われるように、夫婦仲は外部から簡単には判らないものです。というわけで、残念ながら以下は推測です。

 村上護(まもる)編「山頭火年譜」には、子どもをさずかった1910(明治43)年、「この頃から無軌道な酒を飲む」とあります。(10)

 当時、父の竹治郎はあいかわらず遊興にうつつを抜かしており、酒の飲み方について息子にとやかく言えません。高齢になった祖母は妻のいる孫に小言を言いにくくなっています。子どもをさずかった妻は、家庭内での立場が強くなりますし、夫に対して遠慮なく文句を言えます。第4の不幸として「結婚」が挙がった理由のひとつは、このような家庭内の事情が影響した可能性もあるのではないかと思います。

 もうひとつ思い浮かぶのは、結婚と子どもの誕生が正一にとって不幸だったのは、彼が束縛を嫌う人として育ったことです。一般に人は束縛されることを嫌いますけれど、正一のばあいは、その傾向がとりわけ強かったということです。

 結婚という束縛から逃れる方法は大きく分けて2つあります。第1は話し合いによって束縛と感じられる事象を取り除くことで、いわば夫婦の妥協ですね。第2は別居ないし離婚を選ぶことです。けれども、正一は日々をおだやかに過ごす妥協を選ばず、別居も離婚も選びません。たらふく酒を飲んで憂さを晴らす第3の方法を選んだのでした。

 俳号に山頭火を名乗り始めて間もない1914(大正3)年、『層雲』9月号に彼の「砕けた瓦(或る男の手帳から)」と題する短いエッセーが掲載されました。酒造りに苦労している時期に書いたこの文章の中に、次のような一節があります。

 「家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。

 親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして、姉は妹を、妹は姉を理解しない。――理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。

 彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。」

 何というニヒリスティックな考えでしょう。家庭という結びつきには、「邪推と不安と寂寥」しかないと言っているのです。

 ということで、正一は妻を愛していなかったのではなく、息子の健を可愛く思わなかったのでもなく、結婚という束縛の種を不幸の種ととらえていたというのが、私の推測の結論です。

 その根拠となりそうな事例をいくつか挙げておきます。

 1919(大正8)年、正一はサキノと健を熊本に残して上京し、額縁の行商などで生活費を稼ごうと苦労していました。ところが、翌1920年(大正9)年にサキノの実家から離婚届が送られてきます。サキノが送ったものだと思い込んだ正一は、自分も署名捺印して送り返したのですが、実家は事前にサキノと話し合いも打合せもしていませんでした。(11)サキノの実家では以前から彼女に離婚するよう勧めていたという情報もありますから、計略を使わなければサキノが離婚に踏み切らないと知っていたのかも知れません。

 正一は戸籍上の離婚後も毎年のように(短期間ではありましたけれど)熊本の妻子のところへ帰って暮らしています。また、正一の住いが変わると、サキノは何度も暮しに必要な品物を彼に送りました。山頭火の日記を読みますと、彼の晩年には、サキノの小包便が木村緑平を経由して山頭火に送られるようになっています。これらの事実は、元夫婦の仲が冷え切っていなかったという証拠になるでしょう。

 山頭火が熊本市内の民家の2階1室を借りて住み始めた1930(昭和5)年の暮れから翌年の1月にかけて、彼はたびたびサキノ宅(雅楽多書房)を訪ね、正月用の餅をもらい、年賀状を受け取り、火鉢や炬燵、金を借り、1月16日には「酔うて彼女を訪ねた、……そして、とう/\花園、ぢやない、野菜畑の墻(しょう=垣根)を踰(こ)えてしまつた、今まで踰えないですんだのに」と日記に書くに至ります。

 その後も元夫婦は交流をつづけ、山頭火が亡くなる1年あまり前の1939(昭和39)年8月から9月にかけて、サキノがだしぬけに山頭火を訪ねたり、手紙のやり取りをしたりしました。

 サキノに育てられた息子の健は小学校卒業後に就職する予定でした。それを知った父正一はサキノに健を進学させるよう勧め、その結果、息子は熊本県内の進学校である濟々黌(せいせいこう)中学に入学しました。また、健は中学卒業後にいったん炭鉱に就職しましたが、ふたたび父親の勧めをうけいれて、翌1930(昭和5)年に秋田鉱山専門学校(今の秋田大学国際資源学部)に進学し、無事に卒業しています。(12)後年、山頭火の足腰が弱ってきたのを知ると、孝行息子は毎月一定額(日本にいるときは10円、満州へ転居してからは15円)を父が死ぬまで送金しつづけました。

 

第5の不幸:生活力の欠如

 山頭火が自分の生涯を振り返って第1、第2、第4の不幸を挙げたとき、第5については見出しだけで何が不幸だったかは空欄にしていました。よって、第3の不幸と同じく、この第5の不幸も私の推測にしか過ぎません。

 1932(昭和7)2月の山頭火は、書簡と日記の中で「私はだんだん生活力がなくなるやうに思ひます」、「私はだん/\生活力が消耗してゆくのを感じないではゐられない」と書き(13)、1938(昭和13)年と1940(昭和15)年の日記では、「痛切に自分の無能無力を感じた、私には生活能力がない、そして生活意慾をもなくしつゝある私である」とか、「私には世間的な生活能力がないのだ」(14)と書きました。妻子と離れて独居生活に入って以降、彼は炊事、洗濯、掃除、衣類の繕い、買い物、近隣との交流など、家事のほとんどすべてを自分でこなしていました。乏しい収入をおぎなうために、庭で自分の食べる野菜を育てた時期もありました。

 よって、彼の自認する生活能力のなさは、おもに経済的な能力の欠如を意味しています。ただし、妻子を熊本に残して上京した1919(大正8)年の春までは、彼も酒造場の経営を父や妻と、古書店の経営を妻とともに担っていましたので、経済的な自立能力の欠如は、おもに1919(大正8)年から亡くなる1940(昭和15)年までの約20年間のことになります。

 東京へ出た山頭火はまず、雅楽多書房で扱っていた額縁を行商で売り歩きますけれど、下宿者の身分としては稼ぎが少なすぎました。世間知らずというべきか、無鉄砲というべきか、このあたりにも生活力の乏しさが感じられますね。困っている山頭火に助け舟を出してくれたのが、熊本で知り合っていた工藤好美(よしみ)という早稲田大学の学生で、仕事は東京市水道局のアルバイト、つづいて東京市立一橋図書館の臨時職でした。図書館での勤務は1920(大正9)年11月からで、日給1円35銭だったのが、翌年の1921(大正10)年6月に彼は臨時職から正規の事務職に昇格して月給42円を支給されるようになります。

 「彼を推薦したのは職場の上司・竹内善作である。彼は山頭火の几帳面な性格をいたく買い、仕事上では彼を全面的に信用していた。時にひきおこす酒乱の愚行にも、それなりの理解を示していたという」(11)と書かれた上司の竹内は、当時、『市立図書館と其事業』という図書館広報誌の編集責任者をしており、山頭火の俳句を「独居雑詠」のタイトルで第1号に14句、「落葉集」のタイトルで第4号に16句、載せました。(15)その「独居雑詠」には熊本に残してきたわが子を忍ぶと思われる句が含まれています。

 とんぼ捕ろ捕ろその児のむれにわが子なし

 蚊やり線香のけむり ますぐに子をおもふ

 当時の山頭火を知るふたりの人物の証言をご紹介しましょう。

 熊本の短歌会で知り合った茂森唯士(ただし)は、山頭火が上京したときに住いのことで頼った友人で、「種田山頭火の横顔」で次のようなエピソードを書いています。

 「大正十年、彼の勤め先は東京市立の一ツ橋図書館に変った。毎日時間におくれないよう弁当携帯で九段下の図書館に通い、精勤で有能な模範的職員のよい生活がしばらく彼につゞいた。と思うと或朝、突然須崎の遊郭から私に電話がかゝって来て、彼が酒に酔い痴れて昨夜から無銭登楼し、行燈部屋に入れられている。すぐ迎えに来てくれという呼び出しである。」(16)

 山口県小郡(おごおり)出身の伊東敬治は、山頭火の日記で「敬坊」「敬君」などと書かれ、山頭火よりかなり年下の飲み仲間として登場する人です。その証言は、

 「{私は}図書館へ時々訪ねていったが、彼は羽織なしのあわせ一枚を着ていた。時々小使から二、三円ばかり借りていたようである。小使から金を借りるのは僕ぐらいのものだといって笑っていた。私は約一カ月位滞在していたが、いろいろな所へ飲みに連れていった。{一橋図書館の}館長から使者が来て、早く出勤してくれるよう頼まれたが遂に出勤をしないばかりか、やめてしまった。その内、東京の大震災で彼は熊本に帰って行った。」(17)

 1922(大正11)年12月20日、40歳になったばかりの山頭火は東京市長あてに退職願を提出します。添付された診断書には神経衰弱症と書かれていました。大森健一独協医科大学名誉教授は、山頭火の診断書や病歴を考察した結果、山頭火の退職願提出時の状態を講演で次のように話しています。

 「われわれの視点からみますと、うつ病とちょっと違うんですが、おそらく、うつ病に近い状態なんですね。早稲田大学のときに悪くなったのも、おそらく同じだろう、と推定されますし、その後、東京の図書館を退職するときもそう。それから、其中庵{ごちゅうあん}で具合が悪くなったときの症状も似通っています。それ以外にも、熊本で奥さんと暮らしていたときにも似たような病態を繰り返しています。」(18)

 山頭火が東京市立一橋図書館に勤めたのは、臨時職と正規の事務職を合わせて2年と1か月でした。大学の退学にしろ図書館の退職にしろ、山頭火は休学や休職を選ばずに、病気のせいとは言え、見切りをつけるのが早すぎますね。

 その後の山頭火は、生活費をかせぐほどの仕事に就いたことがほぼありません。日々の暮しのための収入源は、時期によって異なりますけれど、およそ次のとおりです。

息子の健からの送金

 初めは毎月10円、健の勤務先が満州になってからは毎月15円。きっかけは1934(昭和9)年11月、訪ねてきた父親の老衰ぶりに驚いた健が、月々の米塩代だけは送るから歩き回らないで暮らしてほしいと懇願したことでした。(19)

行乞(ぎょうこつ)によって得る米とお金

 行乞とは、僧が他人の玄関先でお経をあげ、米やお金を報謝として受け取ることです。地域や天候、社会情勢、行乞する人の健康状態などの影響を受けやすく、報謝の量は予定・予測することができません。そのため、山頭火のばあいは、知人や俳句仲間の多い九州、中国、四国地方を行乞することが多くなりました。なぜなら、行乞の旅は木賃宿に泊まって宿泊と3食の費用を支払う必要があるのに対して、友人・知人のいる土地では宿泊費を節約できるだけでなく、静かな部屋、ご馳走と酒、楽しい会話に恵まれたからです。また、俳句関係の友人宅で句会を開くことも再々あったのでした。

 山頭火のばあい、行乞の実際を旅行記と日記を兼ねる行乞記という形で記録しているのが特徴です。そこには、その日の天候と泊まった宿の評価(上・中・下など)に始まって、宿泊費、主人やおかみさんの人物評、宿泊客の様子と自分とのかかわり、食事の良し悪し、宿屋で自分のしたこと(読書、代筆、入浴、飲酒)などを記録しています。

 見逃してならないのは、彼が歩いているときに見つけた俳句の種をていねいに記録していることでしょう。俳句の種とは、作者の山頭火がまだ取捨選択も推敲もしていない段階の俳句という意味です。

 山頭火は絶えず誰かとつながっていたいという気持ちの並はずれて強い人で、その「誰か」の核心は友人なのでした。そのため、毎日のように5通、10通とハガキや手紙を送り、長旅で住いを留守にするときは、相手から来た手紙やハガキを旅先の郵便局に留め置く「局留め」の手配をしました。この文通癖は、飲酒癖、大食癖、喫煙癖とならんで、山頭火をくりかえし無銭状態におちいらせる楽しみであり悩みの種でもあったのでした。

原稿料など

 a.『広島逓友{ていゆう}』の俳句欄の選評とエッセーの原稿料

 『広島逓友』は広島逓信局広島逓友会が発行していた雑誌で、山頭火を物心両面で支えつづけた大山澄太が編集を担当していたため、彼が自由律俳句欄の選評やエッセーの執筆を山頭火に依頼して原稿料を払っていました。

 b.『層雲』その他の雑誌への寄稿

 c. 印税

 1940(昭和15)年4月、東京の八雲書林は、山頭火が自選した一代句集『句集草木塔』(そうもくとう)を出版し、分割払いだった印税の残額を7月になって支払いました。山頭火には、点数も金額もわずかではありますが印税収入を得た出版物がありました。

揮毫(きごう)料

 自由律俳句の作者として山頭火が人気者・有名人になるにつれて、彼の書いた色紙、短冊などを手に入れたいと思う人が増えました。毛筆の腕をふるったのはおおむね求められた結果でしたけれど、まれに押売りのようになることもありました。たとえば、

 1938(昭和13)年6月2日と3日の日記に、「S氏K氏の邸宅に押しかけて短冊を売りつけた、あゝ不快、不快、不快」「人絹会社のM氏を訪ねる、黙壺{もっこ}君からの紹介があるので気持よく五六枚買うて貰ふ」とあります。

句集の販売代金

 山頭火には一代句集『草木塔』のほかに7点の句集があります。40歳のときの『鉢の子(はちのこ)』(木村緑平編)に始まり、57歳のときに共著の形で出た『雀:木村緑平第六句集 鴉:種田山頭火第七句集』で終わる7点です。彼の没後はさまざまな出版社から版をかさねる出版がなされましたけれど、生前は自費出版に近い刊行形態が少なくなく、俳友による無償の協力での出版が多かったのでした。

 というわけで、句集の販売代金と言っても、生活費に充当するほどの収入には程遠いものでした。

友人からの寄付

 山頭火に魅せられた俳句仲間たちは、さまざまな名目で彼にお金を渡していました。名目は、会費、小遣い、お布施、喜捨、餞別、心付け、草鞋代などです。

 会費の例としては、山頭火が月刊の俳句関係雑誌を創刊するための支援組織をつくり、会費を集めたことがありました。時期は1931(昭和6)年、組織の名前は三八九会(さんぱくかい)、雑誌名は『三八九』、会員には「会友」と「特別会友」の2種類があり、その会費の月額は、前者が30銭、後者が50銭で、会員には毎月雑誌が送られます。2種類の会員の合計は50余名でした。それだけの数の友人、知人が山頭火の活動を応援したことになります。月刊誌の予定だったこの雑誌は、出だしから不定期刊となり、いったん第3集まで刊行されたあと休刊し、最終的には第6集まで出て廃刊となりました。

 もう1件、後援会をつくって山口県下関市の川棚温泉に庵を新築しようとした例があります。昭和6年2月、山頭火が趣意書案をつくって木村緑平たちに後援会の会員と会費の募集を依頼しました。緑平は集まった金を山頭火の要請に応じて何度かに分けて送ったものの、山頭火が地主(寺)やその檀家との交渉に手間取っているうちに、造庵にまわすはずの資金が払底してしまい、あきらめざるを得なくなってしまいました。

 喜捨という単語を使って山頭火支援のエピソードを書いた大山澄太の例は、次のとおりです。

 「私も句集代その他いささか彼のために、お金を使ってきたが、それは喜捨で、あと形を変えて返してもらおうなどとは夢にも思っていなかった。」「はじめは私は{彼に送る金額を}いつも五円ときめていた。月給が八十五円だったので、十円は送っていたのではあるが、彼はそれですぐに呑みにでるので。」(20)

 また、同書で澄太は、山頭火が松山の一草庵(いっそうあん)に転居するときの様子について、次のように書いています。「私{澄太}は{愛媛県の}高浜{港}までの切符を買って当分の小遣銭としての十五円と共に山頭火の手に握らせた。相生丸で、顔を知ったボーイさんがいたので、毛布代と茶代を先きに渡してよく頼んでから別れた。」

元妻と妹からの支援金

 元妻のサキノは山頭火の最晩年には面倒を見なくなりますけれど、ある時期までは小包と現金を送っていました。また、姉のフクがなくなったあとに後妻として町田米次郎と結婚した妹のシズも、少なくとも1930(昭和5)年ごろまでは、サキノと同様の方法で兄を経済的に支えていました。

屑屋に古新聞などを売却

 晩年の数年間、山頭火は経済的にとても追い込まれた生活になりました。日中戦争が長引くにつれて、物資不足と物価高騰によって、国内の庶民は窮乏に引きずりこまれ、無職で財産も貯えもない山頭火はその象徴のような存在になってしまったのでした。

 日記には金欠や空腹、不眠や悪夢にかんする記述が増え、屑屋がやって来ますと、山頭火は古新聞や空き瓶、古俵や古い長靴などを売って糊口をしのぎ、質草のあるときにはそれを質屋に預けたりもしました。いつも金のことで甘えていた木村緑平に、師と仰ぐ荻原井泉水の額(「基中一人」の文字)を買ってもらえないかと頼んだこともありました。(21)

 種田山頭火のこのような生活力の乏しさの要因は何だったのでしょうか。考えられるのは次の3点です。

坊ちゃん育ち

 山頭火は20歳のころまで何不自由なく暮らすことができ、厳しく叱責する人が家庭にいませんでした。その結果、ストレスへの耐性が乏しくなり、束縛されるのを極度に嫌うようになったと思われます。

トラウマ

 山頭火が9歳のときに母が自殺し、35歳のときに弟の縊死した遺体が発見され、40歳のときに東京にいて関東大震災に遭遇しました。いずれも心的外傷(トラウマ)ないしPTSD(心的外傷後ストレス障害)の素因となる可能性のある衝撃的な出来事です。

アルコールへの依存

 山頭火の日記には、飲酒にかんする記述が頻出します。山頭火の酒好きを知っている人は、彼の住いを訪問するとき、必ずと言ってよいほど土産に酒と肴をたずさえて行きました。また、酒席での彼はよく飲み、よく食べ、話しすぎるほど饒舌になる人で、話題が豊富で話し上手なこともあって、「一緒に飲むのが楽しい」と言う人がとても多いのでした。

 ところが、50歳になるころから、山頭火は自分がアルコール中毒ではないかと疑い始めます。1932(昭和7)年2月1日、内科医でもある木村緑平宛に出した書簡には、「私はだんだん生活力がなくなるやうに思ひます、アル中かも知れません」と書き、1年後の日記に「私はだん/\アルコール中毒になりつゝあるらしい、すこし手がふるへだした、アルコールがきれると憂欝を感じる」と症状を含めて記録しました。アルコール中毒(依存症)が亢進したと思われる1934(昭和9)年は、とうとう開き直ります。曰く、

 「アルコール中毒、ニコチン中毒、そして俳句中毒、酒と煙草と俳句とはとうてい止められない、止めようとも思はない。」(22)そして、死去する1940(昭和15)年にも中毒の発作や徴候をはっきりと意識しています。

 

自由律俳句界への登場

 種田酒造場の経営に心をくだいていた時期、種田正一は「種田山頭火」という俳号で、俳句結社「層雲」内で急速に頭角を現わしていきました。1913(大正2)年の春に初めて俳誌『層雲』に投稿し、同年には「窓に迫る巨船あり河豚鍋の宿」などが掲載されています。

 長年にわたって『層雲』の編集担当者をつとめた伊藤完吾は、次のように書いています。

 「山頭火は、大正四年にはじまる「草上句稿」欄に毎月投稿した。これは当時の『層雲』中堅作家が、毎月五句ずつ投句し、互選結果を発表するといった形式の欄であるが、はじめて投句した三月号で、山頭火は三十名中、三十五点、一位で」、「その年、七回投句した山頭火の句は、いずれも三位内だった」(23)

 この結果をうけて、「層雲」の主宰者である荻原井泉水は、翌1916(大正5)年の『層雲』3月号で次のように宣言しました。

 ①これまでは自分が毎月5句ずつ選んできたが、次の4月号からは毎月3句ずつ選ぶことにする。

 ②自分は毎月1句だけを選び、2句は新進の方に毎月交代で選句を委託する。選句をお願いするのは次の10氏である。

 芹田鳳車(せりた・ほうしゃ)、種田山頭火、小沢武二(たけじ)、久保白船(はくせん)、江良碧松(えら・へきしょう)、東海林灰斗(しょうじ・かいと)、野村朱燐洞(しゅりんどう、後に朱鱗洞と改める)、秋山秋紅蓼(しゅうこうりょう)、白石花馭史(かぎょし)、深田紫洋(しよう)。

 この10名中の最年長者は山頭火で、当時33歳でした。芹田鳳車と久保白船は『層雲』創刊時からの同人であり、年齢も山頭火に近かったので、はたして「新進の方」という表現がふさわしいのか疑問ですけれど、中堅・若手にちからをつけさせようという井泉水の姿勢がうかがえます。

 このように荻原井泉水が新進ないし中堅の作家に活躍の場を与えた事実には、「層雲」をともに立ち上げた河東碧梧桐との意見の相違が影響した可能性があると思われます。

 と言いますのは、井泉水が非定型俳句の運動をすすめるだけでは飽き足らず、1914(大正3)年に季題(季語)にこだわる必要がないと宣言したのに対し、碧梧桐はその考えに同調せず、同志や弟子筋の人たちとともに、翌年の3月に『海紅』と題する俳句雑誌を創刊したからです。新傾向俳句の結社がふたつに分裂したのに、手をこまねいていれば死活問題になると危惧するのは当然でしょう。

 このように『層雲』を足掛かりとして華々しく登場した山頭火ではありましたが、1940(昭和15)年10月までの存命中に、俳句界に広く名を知られてはおらず、せいぜい無季自由律俳句というジャンルでの著名な作家に過ぎませんでした。

 詩歌の創作では、一般に才能の開花が小説や随筆、戯曲などの創作とくらべて早い傾向があります。別の言い方をしますと、詩、短歌、俳句などは若いときに傑作を生みだす例が多いということです。山頭火のばあいは、中学生のころから定型俳句をつくり、20代には短歌、エッセーにも興味をもって創作を手がけました。その意味では決して出発が遅かったわけではありませんが、30代に自由律俳句と出会ってようやく芽が出たのでした。

 自由律俳句とは、5・7・5のリズムにとらわれないという意味であって、5・7・5のリズムで俳句をつくってはいけないという意味ではありません。『層雲』内で認められ始めて以降、山頭火の日記や書簡には、遠慮なく5・7・5のリズムによる俳句が書かれています。たとえば、

 ふと顔をあげしに月が出てゐたり(1917(大正6)年4月29日、渡辺さとる宛書簡)

 星空の冬木ひそかに並びゐし(1919(大正8)年3月10日、木村緑平宛書簡)

 毒薬をふところにして天の川(1930(昭和5)年9月14日、『行乞記』)

 ゆく春の夜のどこかで時計鳴る(1940(昭和15)年5月31日、『松山日記』)

 これらは、句集などに含めて発表する前段階の俳句ですから、結果的にメモあるいは推敲の材料に過ぎなかった可能性もありますけれど。

 

山頭火の俳句の特徴

 以下に4つの特徴を挙げますが、例示する句には複数の特徴を兼ねそなえているものが少なくないことをご承知おきください。

表現が口語調であること

 山頭火の俳句の表現は、日常会話の口語調であるばあいが多いという特徴があります。これは、明治時代から議論されてきた国語国字問題に彼が関心をもってきたことと関係があります。その証拠は1915(大正4)年の『層雲』8月号に掲載された荻原井泉水への書簡です。すなわち、

 「私のやうなものでも国字問題、国語問題に就いては大変悩まされてをります」につづけて「漢語(主として成語)をなるたけ使はないやうにする事がペンに親しみのある人の責任であると思ひます」と主張していることです。俳句の例は、

 分け入っても分け入っても青い山

 うしろすがたのしぐれていくか

 笠へぽつとり椿だつた

 蜘蛛は網張る私は私を肯定する

 てふてふひらひらいらかをこえた

 うまれた家はあとかたもないほうたる

 音はしぐれか

 鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ)

リズムを大切にすること

 定型俳句のリズムには及ばないものの、山頭火の俳句にはリズム感のあるものが少なくないという特徴があります。リズム感を出すための工夫には、ひとつの句のなかに同じ単語や語句の繰り返しと、相反する(または対となる)単語の使用とがありますけれど、これらを江戸時代の有名な俳人たちもときどき用いていました。同じ単語の繰り返しは、『層雲』誌上で他の会員の句にも見られる手法です。わずか17音前後の句の中で同じ単語や語句を使うのは効率が悪そうに思えますけれど、必ずしもそうではないのですね。山頭火の俳句のばあい、やや剝き出しの感は否めませんが、次のような例があります。

 捨てきれない荷物のおもさまへうしろ (まへ・うしろ)

 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ(あるく・すわる、きんぽうげ×2)

 うれしいこともかなしいことも草しげる(うれしいこと・かなしいこと)

 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない(ふくろう×2、わたし×2)

 枇杷が枯れて枇杷が生えてひとりぐらし(枇杷×2、枯れて・生えて)

 其中一人いつも一人の草萌ゆる(一人×2)

かな文字を多用すること

 山頭火が意識的にかな文字を多用しているのは間違いありません。なぜなら、彼にはかな文字だけの句が驚くほど多いからです。すでに上記の①②の例にかな文字だけで表現されている句が2句ずつ含まれているほか、次のような句があります。

 すずめをどるやたんぽぽちるや

 てふてふうらからおもてへひらひら(てふてふ=蝶々)

 あざみあざやかなあさのあめあがり(語頭に「あ」)

 ほうたるこいこいふるさとにきた(ほうたる=蛍)

 ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ(たんぽぽ×2)

 さくらさくらさくさくらちるさくら(さくら×4、咲く・散る)

内容が庶民的であること

 山頭火の句は、身の回りで目にした草や木などの植物、鳥や虫などの動物、ひとり暮しの自分のこと、山や川、太陽や雲や風などの自然を詠む例が多く、表現の分かりやすさと相まって、読む人の年齢に関係なく親しみやすいのではないかと思います。ただし、彼が当然ながら僧形(そうぎょう)で行乞をしていたことや、後半生はひとり暮しをしていたことなどを知らなければ、首をかしげる句が少なくないかも知れません。

 松はみな枝垂(しだ)れて南無観世音(リズム感)

 笠にとんぼをとまらせてあるく(ほほえましい姿)

 よい宿でどちらも山で前は酒屋で(山頭火は山も酒も大好き)

 照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいつぴき(照れば・曇れば、鳴いて×2)

 やつぱり一人はさみしい枯草(やっぱり=典型的な口語)

 啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない(鴉×2)

 

俳人としての山頭火の評価

 種田山頭火は死後に広く知られ、評価が高まり、人気の出た俳人でした。その理由を考えてみましょう。

 まず第1は、時代の風潮、社会の変化です。山頭火が亡くなって四半世紀が過ぎた1960年代後半に、アメリカ西部でヒッピーと呼ばれる若者が出現しました。その後、彼らの考え方、活動、ファッションはカウンター・カルチャー(対抗文化)と呼ばれてアメリカ全土から日本を含む多くの国々へ広がっていきました。

 ヒッピー文化には山頭火の生き方と共通する面があります。例えば既存の権威への対抗という面では、自由律俳句自体が伝統的な俳句への挑戦でした。自然との共存という面では、山頭火の後半生が自然に囲まれた庵(いおり)での独居生活、近くの山裾への散歩、行乞の際には山を越え野を横切って1日に2里、3里を歩くこともあるなど、自然に溶け込むような暮しでした。見た目では、散髪代に事欠くときの長髪とひげ面がヒッピーそっくりでした。

 また、1970年に日本で公開されたアメリカ映画『イージー・ライダー』は、主人公ふたりがヒッピーで、オートバイにまたがってアメリカ各地を放浪する姿が格好よかったのでした。山頭火の行乞や知友を訪ねつつ頼りつつの観光旅行は、句材を探す旅でもありました。40代半ばの1926(大正15)年、彼は師と仰ぐ荻原井泉水へ次のように書き送ります。

 「兎にも角にも私は歩きます、歩けるだけ歩きます、歩いているうちに落付きましたならば、どこぞ縁のある所で休ませて頂きませう、それまでは野たれ死にをしても、私は一所不在の漂泊をつづけませう。」(24)

 逝去後の山頭火は「漂泊の俳人」とか「放浪の俳人」と称されるようになりました。けれど、40代半ばで「一所不在の漂白をつづける」と宣言し、以後、そのとおりの人生を送ったのでした。振り返れば、江戸時代の著名な俳人である松尾芭蕉や小林一茶は俳諧行脚をした人でした。山頭火はなかでも芭蕉を偉大な詩人だと高く評価していましたので、その例にならおうと覚悟していたのかも知れません。

 このように見てきますと、山頭火はお坊さんなのに大酒を吞んだ挙句に遊郭へあがりこみ、家庭や職場という束縛を逃れて自由気ままに旅をする、ヒッピー文化の先駆けのように思えてくるのではないでしょうか。それはともかくとして、山頭火の生きざまが1970年代以降、多くの人に共感されたことは間違いないでしょう。

 第2は、著作集や全集を含む山頭火の出版物です。

 1968(昭和43)年から1971(昭和46)年にかけて潮文社が全4巻の『山頭火著作集』を出版し、その後も愛蔵版や潮文社新書という形での出版をつづけました。最初の『山頭火著作集』の売行きがよかったのでしょうね。ちなみに潮文社新書には、上田都史(とし)の『俳人山頭火 : その泥酔と流転の生涯』(1967年刊)を皮切りに、大山澄太による評伝なども含められています。

 潮文社を追いかけるように、1972(昭和47)年から1973(昭和48)年に春陽堂書店が全7巻の『定本山頭火全集』を出版しました。このほかにも春陽堂書店は1980~90年代に『山頭火全集』を、2020年代に『新編山頭火全集』を出版しています。

 この2社による著作集・全集の出版以前は、山頭火の著作が単発的な出版にとどまっていました。というわけで、まずこの著作集と全集がブームに点火した一因だと言ってもよいのではないかと思います。

 春陽堂書店は1989(平成元)年~1990(平成2)年に山頭火文庫全12巻を出し、蒼史社は1995(平成7)年~1999(平成11)年に山頭火の俳句と小崎侃(こざき・かん)の版画を組み合わせた絵本シリーズ『山頭火の絵本』全5冊を出版しています。

 このような動きの結果、山頭火の生涯や俳句、エッセーに興味・関心をもつ人がふえただけでなく、彼の生涯と業績の調査研究が進捗して、つぎつぎと評伝や研究書が刊行されるに至りました。一種の好循環現象が現われたのですね。

 第3は、山頭火を顕彰する団体や施設の活動です。

 とくに目立つのは、山口県防府市にある「山頭火ふるさと館」と、愛媛県松山市の「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」です。

 山頭火ふるさと館は2017(平成29)年10月7日に開館し、常設展示室や特別展示室、文化・教育活動のための交流室、ショップなどを備えています。イベントとしては自由律俳句大会、山頭火ふるさとまつり、フォトコンテスト、自由律俳句や山頭火を学ぶ講座などを開催しています。また、『山頭火ふるさと館報』を年2回発行しています。

 NPO法人まつやま山頭火倶楽部は2008(平成20)年7月にNPO法人として認可された団体で、「山頭火教科書(=山頭火検定公式テキスト)を作成し、全国に向け発信して、楽しく学べる『山頭火講座』や、成果を確認する『山頭火検定』を実施し、生涯学習の一環として俳文学育成に寄与していくことを目的」として活動しています。

 両者はともにウェブサイトを開設していますので、興味のある方はそちらをご覧ください。

 以上のような理由で種田山頭火が多くの人に支持されるようになったと思われます。その結果、北海道から九州までの多くの都道府県に句碑が設置されるようになり、その数は500基を超えるに至りました。山頭火が訪れたことのない県や市町村にも句碑が設置されているという事実は、彼を愛し、評価し、支持し、その功績を末永く後世に伝えたいと望む人が全国に広がっている証拠だと言えるでしょう。

 

山頭火の死をめぐる謎

 種田山頭火は、1940(昭和15)年10月11日に58歳で亡くなりました。亡くなったのは、その年の1月から毎月1回開いていた柿の会という句会の翌日ということになっています。まわりくどい表現をしましたのは、山頭火の死をめぐって不可解な点がいくつかあるからです。

①死の第一発見者

 山頭火の重要な支援者のひとりだった大山澄太は、御幸寺(みゆきじ)の黒田住職の夫人が第一発見者だとしています。山頭火の住いである一草庵は御幸寺の境内にあり、黒田住職夫妻はさまざまに山頭火の世話をしてきた人たちでした。大山澄太の描いた住職の奥さんの動きを要約しますと、おおむね次のとおりです。

 御幸寺の奥さんは、10日の夕方に山頭火が一草庵の上り口で倒れているのを発見し、いつもと様子のちがう状態だったので、介抱し、着衣などを整えて、布団に寝かせた。

夫人は夫(住職)にそのことを告げると、「それは心配だ。しかし今夜は句会があるので、もうやがて一洵さんたちが来られる。そしたら、よいようにして下さるであろう」と様子を見ることになった。

 夫人はろくに眠れなかった。「不安な一夜が明けそめてきたので庵へ行ってみると、もういけない。胸部は少し温かいけれども息が止まっている。そこで一洵さんに急を告げ、お医者へ走るやら、それからのことは夢中だったので覚えていない。」(25)

 一方、上記で住職夫人から急を告げられたことになっている高橋一洵について、山頭火関連の著書が多い文芸評論家の村上護は次のように書いています。

 10月10日の柿の会の例会には6人が一草庵に集まったが、主宰者である山頭火は眠っていると思って起こさないで句会を開き、11時ごろに散会した。

 高橋一洵はいったん帰宅したが、気になって夜中の2時過ぎに一草庵へ行ってみたところ、山頭火の身体は硬直していた。(11)

 このように、大山澄太は御幸寺の黒田住職夫人が第1発見者だとし、村上護は高橋一洵を第1発見者だとしています。

②自殺の可能性

 山頭火は自殺未遂の経験を何度か書き残しています。まずは、『行乞記』の1930(昭和5)年9月14日の文言です。「アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルモチンを二百瓦{グラム}飲め(先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)。」そして、この日の行乞記には、「死」という単語を含む2句のほか、「毒薬をふところにして天の川」という定型俳句が書かれています。この句にある毒薬は睡眠剤カルモチンのことですね。

 次は1935(昭和10)年8月10日の日記に書かれているもので、

 「正しく言へば、卒倒でなくして自殺未遂であつた。{中略}多量過ぎたカルモチンに酔つぱらつて、私は無意識裡にあばれつつ、それを吐き出したのである。」

 この件について、翌1936(昭和11)年6月30日付の木村緑平宛書簡では、「昨年の卒倒も実は自殺未遂だつたのです」のほかに、「幾度か自殺を企てました」と告白しています。

 自殺未遂を何度もくりかえして5度目に成功した人として太宰治が有名ですが、山頭火は少なくとも3度は自殺未遂をしたことになります。

 山頭火が自殺をしたのではないかと考えた人は、息子の健、柿の会の会員である広瀬無水、大山澄太、松山在住の作家である青山淳平氏などがいます。

 広瀬無水は柿の会の例会があった10月10日の昼過ぎに酒の一升瓶を下げて一草庵を訪れ、山頭火の異常に気づきました。無水が亡くなったあとで家人に取材した青山淳平氏は次のように書いています。

 「翁は畳にぐったり横たわっていた。昼に兵隊さんと飲んだのだという。便所に連れていった帰り、翁は洗面器に少し吐いたが、それが大変臭く、無水は薬品を飲んで自殺をはかったのではないかと直感したそうである。」(26)

 息子の健は父親の遺骨を引き取るために満州からやってきて、出迎えた人たちに「父は自殺でしたか」と尋ねながら肩を落としたけれど、高橋一洵が「大往生だった」と言って健を励ましたと、これまた青山淳平氏が書いています。

 では、山頭火は自身の死や自殺についてどのように考えていたのでしょうか。日記や書簡の記述から拾い上げると、次のようになります。なお、仮名遣いは現代風に改めています。

 1932(昭和7)年の秋から1934(昭和9)年の前半までは「死ぬにも死ねない、生きるにも生きられない、ジレンマだ」、「生きているのが苦しくなってくるが死ぬのは何となく恐しい」などと、山頭火は生死の間をさまよい、自殺に踏みきれない感じで過ごします。

 1934(昭和9)年の後半からは「うまく死ねないものか!」、「いつ死んでもよい用意をして置かなければならない、遺書も書きかえなければならない」などと、死(自殺)の準備へと心構えが変化し始めます。

 1935(昭和10)年1月には、「私は今日から郵便貯金を始めた、一日十銭を節約するのである({タバコの}バットをなでしこに、酒三合を二合にという風に)、そしてそれは私の死骸かたづけ代となるのである」と書きましたけれど、その後の暮しぶりから判断すれば、この郵便貯金が継続されたとはとても思えません。

 その年の5月は旅に出て、「一歩一歩が生死であった。生きていたくない、死ぬるより外ないではないか。白い薬が、逆巻く水が私の前にあるばかりだった」と自殺方法を暗示し、8月、ついに白い薬(睡眠剤カルモチン)で自殺を図りました。

 以降も山頭火は「死{に}場所探し」という言葉を日記の中で使い、1936(昭和11)年11月には「一時の睡眠から永遠の睡眠へ――やっぱり催眠剤がよい、――酒を腹いっぱい飲んで、それから寝床に横わって。」と書くに至ります。

 1937(昭和12)年11月、山頭火は泥酔して金を払えなくなり、警察から検事局に回される事件を起こしてしまいます。いつものように悔恨と自責の念に苦しめられた彼は、11月20日に「自問自答(一)自殺について」と題する文章を書きました。自答部分をまとめると、次のようになります。

 自分はいつでも死ぬことができる。死にたいというよりも、生きていたくない。その理由は「性格破産の苦悩に堪えきれないのだ。」「生存難だ、いや、存在難だ! 生きる死ぬるの問題以前の問題だ。」

 その3日後の日記には、「ともすれば死の誘惑を感じる」とあります。日本中が生活苦の中にある状況下で、山頭火は1938(昭和13)年以降も同様の精神状態がつづきました。「友達のふところにすがることがいやになった、すまないと思う、毎日毎月の赤字がたまらなく私を悩ます」(1939(昭和14)年9月2日の日記)というわけです。

 このように、山頭火はアルコールの誘惑としばしばの泥酔癖を克服できず、生活苦から抜け出す試み(材木商への就職)もわずか数日の勤務をしただけで挫折し、1940(昭和15)年には松山の俳句仲間の奥さんや近所の奥さんから米や醬油、酒代を借りて「恥ずかしかった」「身震いするほど恥ずかしかった」と日記に書かざるをえなくなります。経済的に極限まで追い詰められたのですね。亡くなる1か月ほど前の9月15日に「死の誘惑に敗けそうな日なり」、亡くなる10日前には「身のまわりを整理する、いつ死んでもよいように」とあります。

③主宰者が隣室で眠っている句会

 山頭火は死去する前日の句会のとき、隣室で眠っていたことになっています。ところが上記②で触れたとおり、句会に出席した広瀬無水は、その日の昼過ぎにも一草庵をおとずれ、山頭火をトイレにつれて行ったあと、山頭火の吐いた物が異様に臭かったため、彼が薬物で自殺を図ったと直感したのでした。

 句会のために一草庵に集まった無水以外の5人の会員に対して、無水が昼過ぎの山頭火の状態を話さなかったとはとても考えられません。唯一考えられるのは、彼が山頭火から「このまま眠らせてほしい」または「このまま死なせてほしい」と頼まれた可能性でしょう。以上、この最後の段落は私の憶測です。

④脳溢血の発症者が布団に寝ている可能性

 駆けつけた医師は、山頭火に脳溢血(今は脳出血という表現がふつう)の症状が出たあと、心臓麻痺で死亡したと診断しました。現在は、脳溢血の初期症状として激しい頭痛、言語障害、半身麻痺、嘔吐などが挙げられています。そのような体調の人が自分で布団を敷いて、おとなしく身を横たえていられるものか疑問に思いますが、どうでしょうか。とくに「自分で布団を敷く」余裕があるか否かが焦点です。そのような余裕がないはずなら、御幸寺の住職夫人が夕方に山頭火を介抱して布団に寝かせたという話の信憑性が高まるのではないかと思います。

⑤日記の最終部分の偽造

 山頭火が記録しつづけた日記は、死去する直前の3日分が偽造されました。その事実が判明したいきさつは、筆跡鑑定の依頼をうけた田村真樹氏という筆跡鑑定士のウェブサイトに詳しく書かれています。依頼者は長野県に住む古川富章(とみあき)氏という山頭火研究者、時期は2020年6月、依頼内容は山頭火の日記の筆跡鑑定でした。

 鑑定の結果、筆順の違い、文字の違い、送り仮名の違いなどがつぎつぎに明らかとなり、「古川様は筆跡鑑定の結果を受けて、雑誌への記事の投稿など地道な活動を積み重ねられました。その結果、新聞や週刊誌でも報道され、ついには(今年{2022年}5月、)山頭火全集の出版社自らが贋作部分をカットし真筆の10月6日で終わる内容に全集を改訂しました。50年近く加えられたままだった捏造部分がなくなり、本来の姿に戻ることになったわけです。」(27)

⑥山頭火の遺書

 山頭火は1933(昭和8)年1月以降、日記の中で何度も自分の遺書について触れています。焼き捨てると書いたことが一度ありますけれど、そのほかは「書きかへる」という表現を使って、遺書・遺言書への思い入れをうかがわせています。死去する1か月半ほど前の1940(昭和15)年8月27日にも「遺言も書きかへておかう」と書いています。

 また彼は一貫して整理整頓をこころがける人でした。東京で一橋図書館の上司からその点を評価され、元妻のサキノも同様の証言をしています。というわけで、私は遺書が一草庵に残されていたのではないか、それについて誰も言及しないのはなぜか、などと思いを巡らせています。

 

蛇足: 実現しなかった自伝的な著作

 山頭火は文学と仏教関係の書物を中心に、幅広く読書をする人でした。彼の『基中日記』1934(昭和9)年12月17日には、ジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』を読み終えたという記述があります。その10日前の日付では「彼は私ではあるまいかとさへ思はれるページがある。……私も私流の随筆なら書けさうだ」とありますから、この『手記』にかなり刺激を受けたと思われます。

 また、『手記』を最初に読み終えた1934(昭和9)年12月には、日記に「のらくら手記」と「ぐうたら手記」と題して執筆の素材を書き連ね始め、翌年は、9月上旬までに「ぐうたら手記」が37件あり、中旬以降は「基中漫筆」とタイトルを変えて12件の記述があります。ただし、記述と言っても、ほとんどが記憶を呼び起こすためのごく短いメモにしかすぎません。

 1937(昭和12)年8月2日の日記には『手記』を読み直し、著者のギッシングと自分には「共通なものがあるらしい」と書いています。これらのことから、山頭火が自分も自伝的エッセーを書きたいと思った可能性は大きいと思います。

 ちなみに、山頭火の創作意欲を刺激したジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』は、イギリスで1903年に出版され、藤野滋による日本語訳が1924年に春秋社から出版されました。その後も異なる訳者の翻訳本が岩波文庫や新潮文庫から出ています。

 内容は、田舎に住んでいるライクロフト氏の孤独な生活、貧しいころの回想、四季折々の自然の移り変わり、読んだ本の感想など、山頭火と共通する部分がたしかに多いと言えるでしょう。

 

参考文献と注

(1)正岡子規「字余りの和歌俳句」in『日本』(1894年8月20日)

(2)福田周「山頭火:俳句にみる生と死の表現」in『死生学年報』(2018年)p. 111-138。この論文はネット上に公開されている。

(3)山頭火は、『基中(ごちゅう)日記』の1937(昭和12)年3月3日に「私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだらう」と書き、11月27日には「私が自叙伝を書くならば、その冒頭の語句として、――私一家の不幸は母の自殺から初まる、――と書かなければならない」と書いている。

(4)和田光利「みちのくに出現した山頭火」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 219-225。

(5)種田山頭火『山頭火随筆集』(講談社文芸文庫、2002年)

(6)正一の結婚相手の佐藤サキノという女性は、私の目にした文献のタイトルや本文で「サキノ」または「咲野」と、ほぼ半々の割合で表記されていた。どの文献もカタカナまたは漢字で表記する理由に触れていなかったので、防府市にある「山頭火ふるさと館」にメールで問い合わせたところ、戸籍上は「サキノ」となっていて、「さ起乃」という当て字を通称として使い、晩年には「咲野」を用いていたようだ、という回答を得た。

 また、サキノについては、田村悌夫(やすお)著『種田山頭火の妻「咲野」』(山頭火ふるさと会発行、平成10年7月31日第一刷)にて詳細に触れられている、とのことだった。というわけで、このブログでは一貫して「サキノ」とする。

(7)酒造場売却にかんする情報は、村上護(まもる)『放浪の俳人山頭火』(講談社、1988年)p. 58による。

(8)岩見幸恵「佐藤咲野:山頭火の妻の虚像と実像」in『山頭火徹底追跡』(勉誠出版、2010年)p. 58~59。

(9)山田啓代『山頭火の妻』(読売新聞社、1994年)p. 39。

(10)村上護(まもる)編「山頭火年譜」in『山頭火読本:男はなぜさすらうのか』(牧羊社、1990年)p. 334-339。

(11)村上護『放浪の俳人山頭火』(講談社、1988年)

(12)崎村裕「山頭火の放浪」in『山頭火徹底追跡』(勉誠出版、2010年)p. 80。

(13)木村緑平宛書簡、『行乞記(2)』、日付はいずれも1932(昭和7)年2月1日。

(14)『基中日記』1938(昭和13)年1月12日、『一草庵日記』1940(昭和15)年3月1日。

(15)東條文規「種田山頭火と図書館」in『短期大学図書館研究』第29号(2009年)

(16)茂森唯士「山頭火の横顔」in『山頭火:研究と資料』(春陽堂書店、1980年)p. 159-164。

 なお、引用文にある「一ツ橋図書館」は多くの山頭火関連文献での表記と一致するが、東京市の文書や図書館関係者の文献では「一橋図書館」となっている。

(17)伊東敬治「熊本・東京・基中庵」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 165-169。

(18)大森健一「自然のもたらす心の癒し―病跡学的視点から―俳人種田山頭火の場合」in『人間・植物関係学会雑誌』7 (l), p. 9-15(2007年)

これは「人間・植物関係学会2007年大会シンポジウム」での基調講演で、ウェブサイトにも公開されている。

(19)1934(昭和9)年11月7日付の木村緑平宛書簡 in『山頭火全集 第11巻:書簡』(春陽堂書店、1988年)

(20)大山澄太『生死の中の山頭火』(春陽堂、1988年)p. 64, p. 91。

 送金は、『広島逓友』の俳句欄のために山頭火に依頼していた選評の謝礼金と、執筆してもらったエッセーの原稿料を指していると思われる。

(21)1934(昭和9)年8月16日付の木村緑平宛書簡 in『山頭火全集 第11巻:書簡』(春陽堂書店、1988年)。基中(ごちゅう)とは、山頭火が山口県吉敷郡小郡町で1932(昭和7)年9月20日から6年2か月にわたって住んだ基中庵のこと。

(22)『基中日記』1934(昭和9)年6月29日。

(23)伊藤完吾「『層雲』における放哉と山頭火」in『山頭火:研究と資料』(『山頭火の本 別冊1』(春陽堂書店、1980年)p. 55-62。

(24)この月日不詳の荻原井泉水あて郵便以降、山頭火は自分にとっての歩くことの必然性や山を歩くときの幸福感などを、定住を勧めたらしい師に対して繰り返し訴えている。

(25)大山澄太『俳人山頭火の生涯』新装版(彌生書房、1983年)p. 221-222。

(26)青山淳平「山頭火コロリ往生の真相」in『原点』64号(1995.7)。『原点』は松山市で発行されてきた同人雑誌。「山頭火コロリ往生の真相」はネット上に公開されているほか、青山淳平著『人、それぞれの本懐:生き方の作法』(社会思想社、1999年)にも収録されている。

(27)田村真樹「種田山頭火”最後の日記”一草庵日記の偽筆を解明」in同氏のウェブサイト(アクセス2026.03.16)

本の販売不振を図書館貸出のせいだとする思い込み

 出版界と図書館界の20年論争中に、本の売行きが落ちたのは公立図書館の貸出数が増えたせいだと主張する人たちがいました。いくつか例を挙げてみましょう。

例1

 2000年4月、『新文化』という出版業界紙に、能勢仁(のせ・まさし)氏による「増加一途の図書館貸出冊数:書籍販売の伸びおびやかす一要因」という記事が掲載されました。能勢氏は、書店、出版社、出版取次店で経験を積み、1995年に独立して出版と書店のコンサルタント会社「ノセ事務所」を立ち上げた方です。

 上記の記事に次のようなくだりがあります。

 「書籍販売冊数の減少率はこの三年間で、2.6%~7.1%である。この反対の増加現象が公共図書館の貸出冊数である。」

 「九八年度、全国の公共図書館の貸出冊数は五億〇五三二万冊であった。公共図書館数二五八五館で割ると、一館当り平均二〇万冊弱を貸出したことになる。」(1)

 ここでは、書籍の販売冊数と公共図書館の貸出冊数を3年間だけ比較しています。そして、比較したふたつの統計数値の相関関係については、何も言及されていません。ということは、公共図書館の貸出増と書籍の販売減との関係は、能勢氏にとって説明する必要のない自明の理だったのかも知れません。

例2

 翌2001年、作家の楡周平(にれ・しゅうへい)氏による「図書館栄えて物書き滅ぶ」という記事が『新潮45』に掲載されました。楡氏のばあいは、公立図書館についても調べていて、全体的に好感のもてる表現ではあるものの、やはり、書籍の販売部数と公共図書館の貸出冊数を比較して前者が後者の影響を受けているかのような印象を与えています。

 たとえば、1990年から2000年までの書籍の販売部数と公共図書館の個人貸出数に加えて、図書館の受入冊数や図書館数の推移をグラフで示し、「先頃公表された二〇〇〇年実績で、書籍の販売部数は七億七三六四万冊、それに対して公共図書館での個人貸出数は五億二三五七万冊(受入冊数は一九三四万七〇〇〇冊)。このままの傾向が続けば、そう遠くない将来両者の数字は逆転する可能性が高いことがお分かりいただけるかと思います」(2)としています。

 ここでも、比較したふたつの統計数値の相関関係、影響関係については何も言及されていません。

例3

 以上の2氏による記事から10年以上経った2015年、新潮社の常務取締役だった石井昴(いしい・たかし)氏は、『新潮45』に「図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す」という記事で、公立図書館の貸出サービスのせいで出版社がつぶされると訴えました。曰く、

 「公立図書館はこの10年間で423館も増え、全国で3248館になった。また貸出のシステムも簡便化され、スマホで待ち状況を確認し予約ができる。そしてすでに2013年には図書館の個人向け貸出冊数は7億1149万冊になり、書籍販売冊数の6億7738万冊を大きく抜いているのである。これでも図書館の貸出が新刊の売れ行きに影響がないと言えるのだろうか。」(3)

例4

 新潮社の佐藤隆信(さとう・たかのぶ)社長は、2015年11月の「第17 回図書館総合展フォーラム2015」において、次のように主張しました。

 「2010 年に書籍の実売部数と図書館での貸出冊数が、逆転しています。この年を境にして著者の方々からの声が大きくなり始めたんだと思います。もちろん、この売上減少の原因が貸出だけにあるとは言えませんけれど、書籍の実売部数と図書館貸出数のグラフを見る限り、少なくとも何らかの相関関係があると推論せざるを得ない。」(4)

 4氏の記事と発言をごく簡略にまとめますと、公立図書館の貸出サービスのせいで書籍販売が伸び悩み、その結果、作家の暮しが成り立たなくなり、出版社の経営が苦しくなっている、という主張になっています。けれど、このように主張するときは、元になっている統計数値を比較するだけでなく、ふたつの数値の因果関係を説明または証明しなければ何の説得力もない主張になってしまいます。

 ただの仮説にすぎないことを検証抜きで真実であるかのように主張すれば、誠実さを疑われても仕方がありませんね。

 

4氏の主張がただの思い込みだとする根拠

根拠1

 本の販売量と公共図書館の個人貸出冊数とが長期にわたってシンクロしていれば、両者に因果関係があるかも知れないと思うのは、不自然ではないかも知れません。ところが、1968年から2022年までの55年間を調べてみますと、次のような事実に気がつきます。(5)

 1968年から1988年までの21年間、本の販売部数はほぼ一貫して増えました。前年とくらべて減ったのは3年(3回)だけで、減少数はほんのわずかでした。同じ時期、公共図書館の個人貸出は一貫して増えていました。つまり、本の販売量と図書館の貸出量は、ほぼシンクロしていたのです。

 この事実は何を意味するでしょうか?

 4氏の結論とは逆に、この期間中、《公共図書館の貸出冊数が増えたおかげで、本の販売部数も増えた》と言えるのではありませんか?

 ふたつの事象の関連性を考えるとき、わずか3年や10年の統計数値だけで結論を得ようとするのがそもそも間違いだったのです。

 1989年から2009年までの21年間、本の販売部数が前年より増えたのは、6年(6回)で、前年より減ったのは15年(15回)でした。一方、同じ期間に公共図書館の個人貸出は一貫して増えました。

 このばあいは、本の販売量と公共図書館の個人貸出量が同じ傾向を示した年と異なる傾向を示した年がありますから、単純に結論を出すことはできません。

 2010年から2022年までの13年間、書籍の販売部数はすべての年で前年を下回りました。同じ期間中、公共図書館の貸出冊数は前年より増えたのが4年(4回)、減ったのが9年(9回)でした。本の販売量と公共図書館の個人貸出量は、シンクロしていた年が9年(9回)、シンクロしていなかった年が4年(4回)だったことになります。言えるのは、ともに低下した年数が、ともに増加した年数より多かったということです。

 ①②③の事実は何を意味するでしょうか?

 全55年のうち、公共図書館の貸出冊数と本の販売部数とが増減を共にしたのは33年、増減を異にしたのは22年、割合は60%対40%でした。つまり、ふたつの統計を短期間だけ比較するだけでは正しい結論が得られない例だったということになります。

根拠2

 試みに、図書館の本の貸出に濡れ衣を着せた方々がほとんど言及しなかった雑誌と新聞について考えてみましょう。

 雑誌の販売冊数は、1995年がピークで約39.1億冊、以降、2022年の7.7億冊まで減りつづけました。2022年の販売冊数は、1995年の何と20%弱にしかなりません。

 新聞の発行部数は1997年がピークで全国で約5,380万部に達し、以降は2023年までほぼ一貫して減りつづけました。2023年の発行部数およそ2860万部はピークだった1997年の53.2%と、半分に減ってしまいました。

 そして本(書籍)の販売冊数のピークは1988年(販売金額のピークは1996年)でした。

 お気づきでしょうか? 1990年代の中ごろに新聞と雑誌が販売部数のピークをむかえ、本(書籍)が販売金額のピークをむかえ、それ以降は3種の発行物が一貫して減りつづけてきたのですね。おまけに新聞と雑誌の販売は《惨状》と言っても過言でないほどの落ち込みです。

 公立図書館では、雑誌の最新号を館内での閲覧に限ってバックナンバーだけを貸し出し、新聞は前日までの分をコピーで済ませてもらうのが普通です。つまり、図書館の貸出量を問題とするとき、雑誌と新聞はあまり関係がありません。その2種の紙媒体の出版物が、本とほとんど同時期に販売不振におちいり、20年後には《惨状》というほどに落ち込んでしまったのです。

 この事実を冷静に考えれば、1990年から1995年ごろにかけて、公立図書館の本の貸出とは無関係な要因が、代表的な3種の出版物である本・雑誌・新聞の販売不振に大きな影響を与え始めた、と思い至るでしょう。

根拠3

 2010年代に入って、公共図書館の貸出冊数または所蔵冊数と本の販売部数との因果関係について調査・研究した学術的な論文があいついで発表されました。《学術的な論文》と言いますのは、論文の執筆者が大学で教鞭をとる人たちで、計量経済学の手法によって調査研究した結果を紀要や専門誌に発表したからです。おもな論文の結論は、以下のとおりです。

 A. 中瀬大樹「公立図書館における書籍の貸出が売上に与える影響について」(『2011年度知財プログラム論文集』、2012年)

 中瀬氏は2種の調査を行ない、a. 2003年から2007 年の全国47都道府県単位の調査では、公共図書館の貸出が書籍の販売に与える影響は正とも負とも言えない、b. 2005年から2007 年の関東1都 6県の市町村単位の調査では、公共図書館の貸出が書籍の販売に与える影響は「有意に正の値が得られる」と結論づけています。

 《正の影響》とは、図書館の貸出が書籍の販売にプラスの影響をあたえるという意味で、《負の影響》は逆にマイナスの影響をあたえるという意味です。

 B. 浅井澄子「公共図書館の貸出と販売との関係」(InfoCom Review, no. 68, 2017)

浅井氏は貸出冊数が書籍販売(冊数ないし金額)に及ぼす影響について調査し、公共図書館の貸出が書籍の販売に「負の影響を与えるとは結論づけられない」としています。

 C. 貫名(かんめい)貴洋「図書館貸出冊数が書籍販売金額に与える影響の計量分析の一考察」(『マス・コミュニケーション研究』no. 90, 2017)

 貫名氏はこの論文の「まとめ」部分で、「図書館の貸出冊数増加により書籍の販売金額が減少するという仮説に対し、都道府県別のデータによる分析結果から、図書館貸出冊数と書籍販売金額には負の関係が見いだせないという結論を導き出すことができた」としています。

 同じ執筆者による次のD論文も結論部分は同じですけれど、こちらのC論文とは調査の対象とした期間やデータの種類に違いがあります。

 D. 貫名貴洋「都道府県別データを用いた図書館貸出冊数と書籍販売金額の相関分析」(『広島経済大学経済研究論集』v. 40, no. 1, 2017)

 ここでの貫名氏は、図書館貸出冊数と書籍販売金額の相関関係を考察するために、書籍販売金額がピークであった1996年から2014年までの都道府県別データを用いて分析しています。「まとめ」によれば、「図書館の貸出冊数増加により書籍の販売金額が減少するという仮説に対し、都道府県別のデータによる分析結果から、図書館貸出冊数と書籍販売金額には負の関係が見いだせないという結論を導き出すことができた」という結論になっています。

 E. 浅井澄子「公共図書館の貸出の書籍販売への影響」(『書籍市場の経済分析』の第4章、日本評論社、2019年)

 この論文が対象とした時期は、a. 第1期:1960年~1982年、b. 第2期:1984年~2014年で、「小括」に書かれている結論は、「集計データで分析する限り、公共図書館の貸出が、書籍販売に明確な負の影響を与えていることは見いだせなかった」というものです。

 F, 大場博幸「図書館所蔵と貸出の書籍市場への影響─2015年の文芸書ベストセラーをサンプルとして─」(『教育學雑誌:日本大学教育学会紀要』55号, 2019年)

 ここでの大場氏は、対象資料を2015年にベストセラーとなった文芸書の上位300タイトルにしぼり、「それらの2018年4月時点での日本全国の公共図書館の所蔵数および貸出数と、新刊としての売上冊数および古書価格との関係を調べた」としています。

 論文末尾の「考察」では、「全国公共図書館における所蔵数の多寡が、新刊書籍の売上部数に影響することが示された。しかしながら、貸出数のそれへの影響は不確実であった」としています。

 G. Displacement effects of public libraries / by Kyogo Kanazawa and Kohei Kawaguchi(Journal of the Japanese and International Economics, v. 66, Dec. 2022)

 金澤匡剛・川口康平両氏によるこの論考は、公共図書館の特定タイトルの所蔵冊数が本の販売に影響するか否かを調べたもので、図書館の貸出冊数と書店の販売冊数との影響関係を調べたものではないという点がひとつの特徴となっています。

 調査の対象は、2017年2月時点で入手可能だった一般書からランダムに選んだ300タイトルと、2014年から2016年までの各年のベストセラー上位50タイトルの合計150タイトル(50×3)です。

 その結果、次のようなことが分かったとしています。

 a. 上位6分の1のタイトルについては自治体の中での販売が平均で月に0.24冊減り、それ以外のタイトルについては影響が無視できること、b. ベストセラー本については影響がより大きく、販売が平均で月に0.52冊減ること。

 H. 大場博幸「公共図書館の所蔵および貸出は新刊書籍の売上にどの程度影響するか:パネルデータによる分析」(『日本図書館情報学会誌』v. 69, no. 2, 2023)

  この論文は「2019 年4 月~5 月に発行された一般書籍600タイトルのデータセットを用いて,公共図書館の所蔵と貸出による新刊書籍の売上への影響について検証」したもので、冒頭の「抄録」によりますと、「前月の所蔵1 冊の増加につき月平均で0.06 冊の新刊売上部数の減少、前月の貸出1 冊の増加につき月平均で0.08 冊の減少という推計値が得られた。このほか需要の減少や古書供給の増加もまた新刊書籍の売上冊数にマイナスの影響を与えていた。需要の高いタイトルに対する図書館による特別な影響は観察されなかった」という結論になっています。

 以上の8篇の論文の調査は、対象が一様ではありません。このばあいの対象とは、調査した図書館の範囲(全国か一部の地域か)、調査した図書館の実績(蔵書全体の貸出か蔵書の一部の貸出か、貸出か所蔵か)、調査した期間(年数や月数)、本の販売部数か販売金額か、などのことです。

 公共図書館の貸出または所蔵が本の販売にプラスの影響を及ぼすかマイナスの影響を及ぼすかについての結論も、次のように一様ではありません。

 A. 中瀬論文=a. 全国調査では、正とも負とも言えない結果、b. 関東一円の調査では、正と言える結果。

 B. 浅井論文=負の影響を与えるとは結論づけられない。

 C. D. 貫名論文=書籍の販売金額に負の影響が見いだせないという結論。

 E. 浅井論文=明確な負の影響を与えていることは見いだせなかった。

 F. 大場論文=図書館の所蔵数の多寡は本の売上げに影響するが、貸出数の影響は不確実。

 G. 金澤・川口論文=ポピュラーな本やベストセラー上位の本の図書館所蔵数は負の影響を及ぼす。

 H. 大場論文=図書館の所蔵数も貸出数も書籍の販売部数に対して弱い負の影響を与える。

 このように、調査手法が同じであっても、調査の対象や時期などの条件が異なれば、結論が異なるのは十分にあり得ることでしょう。また、8篇の論文が真逆の結論と中間的な結論とを含んでいるという事実は、《公立図書館の貸出数または所蔵数と、本の販売部数または販売金額》というわずかふたつの要素の分析・比較だけでは、前者の後者への影響関係を明確に導き出せないことを示唆しています。

根拠4

 本の販売不振にはさまざまな理由があります。ですから、影響する可能性のある多くの要素を脇に置いたままで、《本の販売不振》という現象を《公立図書館の貸出》または《公立図書館の所蔵》という面だけで調査・分析して結論を得ようとするのは、そもそも無理なのです。1990年代以降の本の販売不振に大きな影響を及ぼしてきたものだけでも、次の3点を指摘することができます。

 1. ICT(インターネット、通信技術、情報機器など)の発達と普及

 2. 出版社、出版取次店、書店などの出版界がかかえる課題

 3. 失われた20年とか30年と言われた日本経済の低迷

 これら3点は互いに絡み合って出版物の販売不振の要因を構成してきました。そのほか、人口減少と少子高齢化、子どもから高齢者までの余暇の過ごし方、小学校から大学までの教育のあり方、各種の図書館(とくに学校図書館大学図書館)の動向、図書館や読書にかんする法令の制定、などが本の売行きに影響します。

 より細かいことを挙げれば、本をよく買う人の年齢層、読んだ本について話し合える身近な人の存在、読み終わった本を古書店に売れる可能性、住いの中の書架を増やす余地、インターネットの図書館を自称して1997年に開館した無料の青空文庫、なども本の売行きに影響した可能性があります。要するに、本が売れたり売れなかったりするのは、複合的な要因によるということです。

 

参照文献

(1)能勢仁「増加一途の図書館貸出冊数:書籍販売の伸びおびやかす一要因」(『新文化』2000.4.20)

(2)楡周平「図書館栄えて物書き滅ぶ」(『新潮45』v. 20, no. 10, 2001.10)

(3)石井昂「図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す」(『新潮45』v. 34, no. 2, 2015.2)

(4)日本書籍出版協会図書館委員会著・編『2015年「図書館と出版」を考える:新たな協働に向けて』(書協図書館委員会、2016.2)

(5)書籍の販売部数は『出版年報 2023年』、公共図書館による個人への貸出冊数(点数)は『日本の図書館:統計と名簿』の各年版による。

社長・団体・作家の支離滅裂な非難

 人文・社会系の学術書を出版している未来社社長の西谷能英(にしたに・よしひで)氏は、同社のPR誌『未来』28号(1999.7)で次のように主張しました。

 「どんな本であろうと、市民に要望の多い本を揃えるのは公共図書館の役目であると思っている図書館司書は多いだろう。しかしこうしたベストセラー本が一過的な興味を引きつけるだけで、時間がたてば誰も見向きもしなくなっているという現実を経験している司書は多いのではないだろうか。にもかかわらず、当座の人気と要望に応えるのが図書館の使命だと考えるのだとすれば、やはり役人によくありがちな失点防止主義、ことなかれ主義だと言われても仕方ないだろう。読者はどうしても読みたければ、自腹を切って買って読むのがあたりまえではなかろうか。文句を言って税金で買わせるのが市民の権利だとでも思っているひとにおもねる必要がどこにあるのか。」(1)

 不平たらたらという感じのこれらの文章は、ベストセラー本、司書、地方公務員(役人)、図書館利用者を憂さ晴らしの標的にしています。けれど、一連の文章は、標的にされた人と物にかんする思い込みと曲解で成り立っています。

 市民からの要望が多い本は、公立図書館のウェブサイトにある貸出ランキングやベストリーダー(よく借りられた本や雑誌など)のリストで確認すれば、ほとんどが「どんな本であろうと」と言われる種類の本ではないと分かるでしょう。当ブログの「公立図書館でよく借りられている資料」は、そのささやかな確認作業のひとつです。

 多くの市民が公立図書館から借りて読みたいと思う本の中には、ベストセラーでない本もたくさんあります。ベストセラーほどには売れなかったのに、息長く読み継がれる本です。出版された本のごく一部にすぎないベストセラー本よりも、タイトル数にすればその種の本が圧倒的に多いのは明らかです。

    西谷氏の記事が『未来』誌上に発表された1999年、図書館問題研究会(略称:図問研=ともんけん)が全国34の公立図書館におけるベストセラーの購入状況を調査しました。高浪郁子氏(当時、柏市立図書館新富分館)によるその結果報告(2)によりますと、ベストセラーの中には、大きな公立図書館であっても1冊しか購入しない本や全く購入しない本が含まれています。

 「時間がたてば誰も見向きもしなくなっている」と西谷氏が主張するベストセラー本の多くは、前回の当ブログでご説明したとおり、10年単位の長い時間軸のなかでさまざまな形で再刊・復刊され、読み継がれてきました。たとえば、1946年から1960年までのベストセラーの10位以内にランクインした代表的な著者を年代順にピックアップしますと、次のようになります。(3)

 永井荷風 河上肇 太宰治 谷崎潤一郎 三木清 吉川英治 川端康成 菊田一夫 三島由紀夫  新村出(編) 石原慎太郎 原田康子 山崎豊子 五味川純平 井上靖 清水幾太郎 北杜夫

 それらの著作の多くは近年も複数の出版社から刊行されており、こころみにいくつかの大きな公立図書館の目録を検索しますと、かなりの頻度で貸出中だと分かります。出版社の社長がベストセラー本を目の敵にするあまりその読者の眼力をあなどれば、手厳しいしっぺ返しをくらうのではないでしょうか。

 「失点防止主義、ことなかれ主義」は、日本の小さなコミュニティから大きな組織にいたるまで、ありふれた事象です。とりわけ失点防止という点は、命にかかわる医療や交通の関連機関をはじめとして、あらゆる現場で大切にされています。本や雑誌をつくる出版社においても、内容や表現の誤り、誤植などの《失点》を極力なくすように努めているでしょう。失点防止の努力が「役人によくありがち」というのは、単なる思い込みに過ぎません。

 西谷氏は「どうしても読みたければ、自腹を切って買って読むのがあたりまえ」と書いていますけれど、人がどのようにして望みの本を手にするかは、他人がとやかく口出しする筋合いのものではないはずです。買うもよし、買いたくなければ(あるいは買えなければ)図書館で読むもよし、人から借りるもよし、ということです。特に気に入った本のばあい、人はその感動や喜びを家族、友人、同僚などと共有したくなって「貸してあげるから読んでみては」と、勧めることが珍しくありませんね。

 最近は、公立図書館だけでなく、大学図書館学校図書館でも市民に本を貸し出す例が増えてきているため、世の中に《公立図書館以外の図書館から借りて読むのもあたりまえ》というゆるやかな流れが広まりつつあります。

 「文句を言って税金で買わせる」とは、市民の行動がよこしまであるかのような印象を与えたいのかもしれませんけれど、現在の日本では、公立図書館の所蔵していない本を図書館を利用して読みたい住民は、リクエストをすることができるのが普通です。そのときの図書館の対応は、リクエストされた本を購入するか、他の図書館から借りて提供するか、まれに謝絶するか、です。リクエスト制度を設けているのは図書館ですから、その制度を利用する人は図書館に文句を言っているのでも無理強いをしているのでもなく、落ち度のない行為していることになります。外国の公立図書館でも採用されているこの方法を、西谷氏は「文句を言って税金で買わせる」と捻じ曲げています。

 図書館の対応が購入、他館からの借り受けのどちらであっても、図書館は住民に「おもねる」のではありません。「おもねる」とは、「へつらう」「ご機嫌をとる」「追従{ついしょう}する」などの意味だからです。というわけで、図書館が住民におもねるという指摘も曲解の例ということなります。

 

 1935年に創設された日本ペンクラブは、2001年に発表した「著作者の権利への理解を求める声明」(2001.6.15)の中で、次のように公立図書館を非難しました。

 「最近、こうした著作者等の権利を侵害する動きが顕著になっており、日本ペンクラブは深い憂慮の念をいだいている。問題は、新古書店と漫画喫茶の隆盛、公立図書館の貸し出し競争による同一本の大量購入、である。」

 「公立図書館の同一作品の大量購入は、利用者のニーズを理由としているが、実際には貸し出し回数をふやして成績を上げようとしているにすぎない。そのことによって、かぎられた予算が圧迫され、公共図書館に求められる幅広い分野の書籍の提供という目的を阻害しているわけで、出版活動や著作権に対する不見識を指摘せざるを得ない。」

 これはしかるべき団体の声明ですから、複数の関係者が文案を吟味したでしょうに、上記の引用部分は、次のとおりお粗末だと言わざるを得ません。

 ①公立図書館が貸出競争をしているという非難は、非難すべきでないことを非難しているという意味で、間違っています。なぜなら、公立図書館は、来館者と資料の貸出を増やすことによって図書館運営に投じた税金を有効に使おうとしているからです。また、公立図書館の貸出サービスを自治体間の《貸出競争》として非難するのなら、競争をともなう次のような地方自治体の事例も非難しなければならなくなるからです。

 たとえば自治体は、ふるさと納税制度を利用しての寄付金集め、子育て支援、企業誘致活動、経営が苦しくなった私立大学の公立化、観光客の誘致など、さまざまに知恵をしぼって競争をしています。首長や担当者に競争という意識がないとしても、結果として競争をしているということです。

 本を執筆する人たちも、出版とその販売にかかわる人たちも、同業者と競争をしている、あるいは競争せざるを得ない、という現実の渦中にいます。競争には勝敗がつきものですから、圧倒的な勝者(たとえば著書の累積発行部数が2023年4月に1億冊を超えたと伝えられた作家である東野圭吾氏)がいる一方、初版の発行部数が数千部のまま重版のかからない多くの作家がいます。著者の競争相手には、同時期の同じジャンルの著者だけでなく、国内外の古典の著者、近年のロングセラーの著者、他のジャンルや外国の著者がふくまれます。出版社、取次会社、書店も同じことで、莫大な利益をあげる会社、地道に生き抜く会社、経営に行き詰まる会社など、浮沈はさまざまです。

 ②「公立図書館の同一作品の大量購入は、利用者のニーズを理由としているが、実際には貸し出し回数をふやして成績を上げようとしているにすぎない。」

 この文章も事実を曲解している例です。利用者のニーズに対応する努力が成績の向上につながっていると理解すべきなのに、日本ペンクラブの声明のこの部分は、一方通行の道路を逆走しているような感じがします。

 税金で運営される公立図書館は、多くの人の需要・要望に応えることで、投入した費用を活かします。つまり、利用希望の多い本を優先的に購入するのは合理的なのです。

 アメリカのボストンで公共図書館が誕生したとき、市議会は「公共図書館の目的とそれを達成するための最善の方法」を報告するよう図書館の理事会に求めました。1852年7月に提出された報告書は、公共図書館に備えるべき図書について4点の指摘をしていて、その3番目が複本についてでした。曰く、

 「しばしば請求される図書(ときの通俗書のうち評判の高いもの)。これらについては、多くの人が閲読を望んでいるならば、同時におなじ著作を読み得るぐらいの数の複本を用意し、楽しい健全な読物を、それが新しくフレッシュで、関心を引いている時期に、すべての人に提供できるようにする。したがって、このグループに属する図書はどれでも、しきりに要求されるかぎりは、次々に複本を購入し続けるべきである。」(4)

 つづけて、著者の森耕一氏は次のように解説します。

 「新設される公共図書館では、大衆に読まれる通俗書(popular books)を、しかも充分に複本を備えようというのです。この方針は、ボストンはもちろん、その後アメリカのすべての公共図書館で採用されました。実際、要求のある、読まれる本を、そして、タイムリーに要求を満足できるくらい十分に複本を整えるということは、大事なことだと思います。日本の公共図書館では、それから一世紀以上を経た今日においても、依然として複本の購入は例外的なことに属しているようです。反省する必要があると思います。」

 複本の大量購入によって、「かぎられた予算が圧迫され、公共図書館に求められる幅広い分野の書籍の提供という目的を阻害しているわけで、出版活動や著作権に対する不見識を指摘せざるを得ない。」

 この文章は、ふたつのことを主張しています。第1は、複本を大量に買う公立図書館は幅広い分野の本を提供できていないこと、第2は、(「それが理由で」とは言わず、「公立図書館が」とも言わずに)「出版や著作権に対する不見識を指摘せざるを得ない」こと、です。

 この2点の主張が(何の調査もしない)単なる思い込みによる断言であることは、先にご紹介した高浪郁子氏による調査報告と2015年に松本芳樹氏(当時、ふじみ野市立大井図書館)が行なった調査結果(5)によって明らかです。このふたつの調査は、個々の公立図書館が購入したベストセラーの複本数、それに要した費用、ベストセラー購入費が資料費に占める割合などを調べたものでした。

 ベストセラー購入費の資料費に占める比率が最も高かったのは、前者(1999年調査)で目黒区立図書館の0.98%、後者(2015年調査)で豊田市中央図書館(愛知県)の0.87%でした。

 公立図書館の複本の購入にかんする実態調査は2003年7月にも行われました。調査をしたのは日本書籍出版協会日本図書館協会で、全国500の市区町村の図書館を対象とし、427自治体の679館から回答が寄せられました。回答率が85%と高かったのは、公立図書館の複本購入がマスコミにもとりあげられて社会的な関心が高まっていたこと、出版界と図書館界の代表的な団体による共同調査であったこと、個々の図書館名を伏せるという条件で回答をもとめたこと、などが要因だったのではないかと思われます。

 調査内容は、ベストセラーや各種の賞を受賞した著作80点の図書館での所蔵冊数、貸出冊数、調査時点での予約件数でした。結果の集計は、政令指定都市特別区、大規模市(人口30万人以上)、中規模市(人口10万人~30万人未満)、小規模市(人口10万人未満)、町、村ごとに行なわれたため、個々の図書館の数値は分りませんけれど、複本の所蔵冊数についてのまとめは次のようになっています。

 「ベストセラー作品の中でも、『五体不満足』『模倣犯』『ハリー・ポッター』の3タイトルは、図書館においては、別格の所蔵冊数を持つ。この3作品の平均的な一図書館あたり所蔵冊数は、4.78 冊であるが、これを除いた残りの18 タイトルの平均的な一図書館あたり所蔵冊数は、1.55冊となる。」(6)

 その結果、次のようなことが言えるでしょう。

 貸出予約者の増加に応じて複本を10冊、20冊、30冊と増やすことができる公立図書館は、おおむね自治体の人口(サービス対象者数)と資料費予算が多く、幅広い分野の本を提供できる図書館です。これに対して、人口の少ない自治体の図書館は、特定の本の貸出予約者が大きな都市とくらべて少なく、そもそも複本を10冊、20冊と増やしていく必要がありません。

 結論として、複本の購入が予算を圧迫して幅広い本の提供を阻害するとは言えないことになります。つまり、誰に対しての非難なのか明らかでない「出版活動や著作権に対する不見識を指摘せざるを得ない」という主張は、根拠がなく間違っているということです。

 

 芥川賞受賞作家の三田誠広(みた・まさひろ)氏も公立図書館におけるベストセラーの複本をくりかえし非難した作家のひとりです。たとえば、2002年、『論座』の「図書館が侵す作家の権利:複本問題と公共貸与権を考える」(7)で次のように書いています。

 イ. 「図書館では推理小説などのベストセラー本を何冊も購入しているのに、純文学や学術書など人気がなくても価値のある本が揃っていないことがある。」

 ロ. 「地味な純文学や学術書の類が、ベストセラーの複本のために、図書館の棚からしめ出される傾向にあることは、まぎれもない事実だろう。」

 翌2003年には『図書館への私の提言』という立派なタイトルの本の中で、氏は公立図書館の職員と蔵書構成に次のような難癖をつけました。

 ハ. 「図書館で借りることができるのは書店でも買えるベストセラー本ばかりで、純文学や学術書などの蔵書はきわめて貧困です。人気のある本さえ揃えておけば、それで図書館の役目は果たせると決め込んでいる館長や職員が多いのではないでしょうか。」(8)

   イとロは、同じ雑誌記事の中にある文章で、ほぼ同じ内容です。要するに、公立図書館はベストセラーの複本をたくさん買うから、純文学や学術書などの購入にまわすお金が減っていると言っています。

 けれども、先にご紹介したベストセラー購入にかんする高浪・松本両氏の調査報告によりますと、公立図書館のベストセラー購入費が資料費全体に占める割合は、調査対象となったすべての図書館で1パーセントに満たないということでした。年間の資料費予算が3,000万円の図書館なら、ベストセラーの購入費が30万円未満で、残りの2,700万円以上がベストセラー以外の本の購入に充てられていたわけです。三田氏の言は(意図的ではなかったにしろ)結果的に嘘になっています。

 ハの引用にはふたつの文章が含まれています。第1の文章は三田氏の公立図書館にかんする無知を示しています。なぜなら、公立図書館では貴重書や調べものをするための参考図書などをのぞいて、ほとんどすべての本を借りることができるからです。その根拠は、西谷能英氏への反論の⑤においてご説明したリクエスト制度です。

 次に、「純文学や学術書などの蔵書はきわめて貧困」と公立図書館を一律におとしめているのも腑に落ちません。誕生したばかりの図書館や自治体が財政難で苦しんでいるさなかの図書館なら、蔵書構成に偏りが出たりするかも知れませんけど、公立図書館では「純文学や学術書などの蔵書はきわめて貧困」と一般的に言うことはできません。

    ここで三田氏の主張を一歩すすめててみましょう。

 公立図書館で「純文学や学術書などの蔵書がきわめて貧困」であるならば、《公立図書館は純文学や学術的な著作の新刊をほとんど購入しておらず》、したがって《純文学や学術書の新刊の販売不振は公立図書館と無関係だ》ということになります。三田氏の論理は破綻しており、都合のいいように理屈をこじつける牽強付会(けんきょうふかい)の一例になっています。

 先に三田氏の『図書館への私の提言』が立派なタイトルだと書きました。タイトルにある《提言》のひとつをご紹介します。

 「これ{図書館が複本対策に協力してくれるか否か}についても、わたしには試案があります。先にわたしは、公共図書館の設置者が、年間資料購入費の五%程度の補償金を払うということを提案しましたが、ここに複本対策についての報奨制度を盛り込むのです。例えば、推理作家たちを満足させるような複本対策を実施している図書館は、本来五%のところを、〇・五%ほど減免するというかたちで、複本対策に積極的な図書館を支援するのです。

 どうしても複本を置くという図書館には、余分に費用を払っていただく。すべてを金銭で解決するというのは、あまり誉められたことではありませんが、こうでもしないと、図書館は動かないというのが、私の実感です。」(p. 214)

 この《提言》は、複本を置きたい図書館の設置者(=自治体)が年間資料費の5%を補償金として支払い、複本対策に協力する図書館の設置者には0.5%の値引きをするというものです。具体的な数字を示せば、年間資料費が3,000万円の図書館を運営する自治体は、ベストセラーなどの複本を蔵書とするとき、補償金として150万円を出版側に支払うということです。

 「こうでもしないと、図書館は動かないというのが、私の実感です」とありますから、《図書館の複本=著者と出版社の損害》という図式が氏の脳裏にこびりついていて、自分が間違っているかも知れないとは考えなかったのでしょう。なぜなら、この提案があまりにも手前勝手で強欲なものだからです。

 

参照文献

(1)西谷能英「図書館の役割はどう変わるべきか」(『未来』28号、1999.7)

(2)高浪郁子「ベストセラーの購入状況を調べてみました」(『みんなの図書館』275号、 2000.3)

(3)日本著者販促センターの「ベストセラー 年度別」(アクセス20230724)

(4)森耕一『図書館の話』第4版第16刷(至誠堂、1998年)

 引用部分の最後に「日本の公共図書館では、それから一世紀以上を経た今日においても、依然として複本の購入は例外的なことに属しているようです。反省する必要があると思います」とあるが、第4版第16刷が発行された1998年時点では「複本の購入は例外的なこと」ではなく、出版側のごく一部からではあるが非難・攻撃の的となるほど拡がっていた。

(5)松本芳樹「ベストセラーの購入状況を調べてみました:2015」(『みんなの図書館』462号、2015.10)

(6)日本図書館協会日本書籍出版協会『公立図書館貸出実態調査2003 報告書』(日本図書館協会日本書籍出版協会、2004年)

(7)三田誠広「図書館が侵す作家の権利:複本問題と公共貸与権を考える」(『論座』91号、 2002.12)

(8)三田誠広『図書館への私の提言』(勁草書房、2003年)

ショーウィンドーの役割を果たす図書館

 図書館員や元図書館員の皆さんは、職場での経験から「図書館はショーウィンドーの役割を果たしている」と主張しています。著作者や出版社の皆さんの中にもそれぞれの立場から同じように主張する人がいます。たとえば作家の佐藤亜紀氏は、ショーウィンドーという言葉を使ってはいませんけれど、「大蟻食の日記」(2004.6.27)の中で図書館の展示効果、広報効果を具体的に書いています。

 「全国二千幾つだかの図書館のうち、それなりの数が私の新刊を三ヶ月以内に購入し、図書館や自治体の広報で知らせてくれる。大抵は一行広告だが、読者の感想入りで紙面を割いてくれるところもある。図書館ではカバーや本体をショーケースに陳列してくれるところも多い。私鉄各線の車両に吊り広告が出る訳でもなく、書店の平積みとも無縁な作家にとって、これは結構な宣伝だと思うのだが、違うだろうか。」(1)

 2015年10月の全国図書館大会第13分科会の「実用書出版社と図書館」と題する報告の中で、新星出版社の富永靖弘社長は、ショールームという言葉を使って図書館が果たしている役割に言及しました。

 「書店店頭では十分に選ぶことが出来ないことや、ネットの情報だけでは内容が捉えられないものでもある。図書館で分かりやすい、使いやすい本と出会い、その本を所有したいという欲求が生じ書店で購入してもらう。結果として読者の「役に立った」という気持ちを引き出す。図書館をショールーム代わりに使ってもらい、結果として本の購買にも繋がる、といった姿があると非常に嬉しい。」(2)

 新刊書を蔵書に加えた公立図書館のショーウィンドー的な役割について少し補足しますと、おおむね次のようになります。ただし、実施していない項目が複数ある図書館も少なくありません。

 ①新たに入った本を館内の入り口付近に展示する。

 ②広報紙誌によって自治体内に情報を広める。

 ③メルマガなどによって希望者に新着本などの情報を定期的に配信する。

 ④オンライン目録で検索できるようにする。

 ⑤オンライン目録を県レベルで横断検索できるようにする。

 ⑥館内の開架書架に並べる。

 

 人が新刊書を買うきっかけは、次のようにいろいろあります。

 広告、書評、各種メディアが伝える受賞情報、ネット上の感想文、書店の店頭、身近な人(家族・友人・知人・同僚・先生など)との会話や推薦、読んでいる本の著者の推奨、ビブリオバトル、図書館の書棚、など。

 珍しい例としては、数日前(2023.4.13)に発売された村上春樹氏の『街とその不確かな壁』の全国紙5紙への発売当日の大きな広告と、『毎日新聞』を除いて同じ朝刊4紙に掲載された、これまた大きな記事があります。ほとんどの記事に著者近影と新刊の表紙写真が添えられていて、記事の長さと内容は似たり寄ったり。地方紙である『京都新聞』も同様でした。

 著者の村上春樹氏が「新聞社などの共同取材に応じた」と説明を加えた新聞がありましたので、記事が似たり寄ったりになるのは当然なのかも知れません。また、村上春樹氏はノーベル賞受賞を期待されるほどの作家である上に、今回の新著の成り立ちにも話題性があります。

 それにしても、発売当日、全国紙4紙が申し合わせたかのように大きな記事を掲載するとは、何とも異様な感じがしました。その理由は、意図したものでなかったとしても、特定の出版社と複数の新聞社との全国的な宣伝タイアップ作戦のように見えたからです。

 話は少しそれますが、『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』で世界的なベストセラー作家となったウンベルト・エーコは、ある対談で本の珍しい売り方についてのエピソードを披露しています。

 「本を読まない人たちに本を買わせるうまい方法を考えたのは、雑誌社の人たちでした。どんな方法でしょうか。これは、フランスではなく、スペインとイタリアでとられた手法です。日刊紙が、ごく低価格で、本やDVDを新聞の付録として付けたんです。こういうやり方は、書店主たちからは非難を浴びましたが、最終的には認められました。私の記憶しているところでは、『ラ・レプブリカ』紙が『薔薇の名前』を付録として無料配布したとき、同紙の二〇〇万部(ちなみに普段は六五万部)、つまり私の本は二〇〇万人の読者のもとに届いたんです。」(3)

 このように、本を買わせようとする手法や個人が本を買う動機がさまざまある中で、図書館の書架を前にして背表紙を眺め、本を拾い読みして、同じ本を買いたいと思うことがあるのは、図書館が本のショーウィンドーの役割をはたしているひとつの証拠です。

 ごく単純で分かりやすい例を挙げれば、画集や詩集があります。書架から持ち出し、閲覧席に坐ってページをめくっていくうちに、借り出して自分の部屋で絵画や詩の世界にゆっくりと浸りたくなることがあるでしょう。さらに一歩すすめば、同じ本を手に入れて何度でも眺めたり読んだりしたくなることもあります。優れた芸術作品には何度でもじっくり鑑賞したいと思わせる力強さがありますから。

 

書店の代替として役立つ図書館

 近年、日本では新刊書店が減っています。そのため、ある新刊書に興味をもった人が内容を確かめようとしても、それを書店で実行できるとは限りません。発行点数があまりにも多いため、中小規模の書店には取次会社から配本されない新刊書が多いだけでなく、運よく配本された書店でも、新刊点数の多さに見合うだけの店舗の広さがないばあいは、売れなかった本がたちまち返本の憂き目を見ることになります。「ぜひともこの本を確かめたい」と思う人以外は、見逃す恐れがあるわけです。

 書店にない本を買いたいとき、書店に注文すればだいたい取次を経由して取り寄せてもらえますが、買いたいとまで思っていない本の内容を確かめたいという理由で書店に取寄せを頼んでも、願いが叶うことはほとんどないでしょう。

 このような状況下にあって、書店の代りにショーウィンドーの役割を果たしてきた公立図書館の存在価値は大きくなっています。利用者の読みたい本を所蔵していない、または貸出中である図書館なら、リクエスト(予約)をすれば、購入するか他の図書館から取り寄せるかしてくれます。すなわち、目当ての本が図書館の書架に並んでいればもちろんのこと、並んでいなくても、利用者は買うべきか否かを確かめることができますし、著者や出版社の側からしても、図書館は文字どおりショーウィンドーの役割を果たしてくれるわけです。

 では、図書館があっても書店がない自治体に住んでいる人は、買いたい本が出てきたときにどうすればいいのでしょうか。ネット書店がありますね。最近のネット書店は送料無料サービスやポイント制を導入するなどして顧客をつかんでいます。ちなみに通販大手のアマゾンのサイトで『街とその不確かな壁』を調べますと、単行本の価格が書店と同じ2,970円、2日後にお届け、ポイントは108ポイント(4%)、無料配送は金額が2,000円以上の商品を購入する場合、とあります。

 

本を吟味できる図書館の貸出サービス

 書店に興味のある本が置いてあるとしても、買う値打ちのある本か否かがすぐに分からないばあいが少なくありません。本は原則として1点1点が異なる商品であり、一見して値打ちのわかる商品ではないからです。自分の好みに合うか、理解できるか、易しすぎないか、資料として価値があるか、調べたいことに役立つかなどを確認し、とくに馴染みのない著者の本を判断するのは短時間では無理なばあいが多く、当り外れのあることを覚悟しなければなりません。

 それが図書館にあれば、館内で閲覧するか借り出して確かめることができます。

 評価が定まっている古典的な作品や既刊本を読んだことがある著者の本などは、さほど時間をかけずに購入の可否を決められます。自分がふだん使っている辞書の改訂版が刊行されたばあいなども同じですね。むずかしいのは、無名の作家の小説やエッセイ、ふだんは読まない分野の本で、購入の可否の決定が容易ではありません。また、文豪・巨匠と言われるほどの作家の本でも、かつて何冊か読んだことのある著者の本であっても、いつも名著であるとは限りません。そのようなとき、自宅でゆっくり吟味するのが賢明な行動というものでしょう。

 参考書や問題集の内容を確かめたいとき、近くに書店があっても立ち読みでは中途半端で心もとない。図書館から借りることができれば、納得するまで吟味できるでしょう。

 家事や趣味のために使う実用書は、たとえ買うつもりであっても、事前に内容のちがう本を図書館から数点借り出してゆっくり比較検討するのが、お金を無駄遣いしない、あるいは上手に使う知恵というものです。

 幼児は、絵本や図鑑の好き嫌いがはっきりしています。嫌いとなれば見向きもしないかわりに、好きになれば「読んで」をくり返します。我が子が好まない本を買いたくない親は、図書館から何冊も借り出して子どもの興味と好き嫌いを確かめます。

 

本を通読しなくてもよい図書館の貸出サービス

 図書館から本を借り出す人は、借りた本を初めから終いまで読み通すとは限りません。何かを調べたり確かめたりするばあい、関連する本を数冊借りて、役に立つか否か、どの本がいちばん役立つかを、自宅で確かめることがあります。役に立たないと分かればご用ずみです。最近は多くの公立図書館が貸出冊数の限度を10冊前後としており、持ち運びの手間と比較検討のために必要な時間を厭わなければ、自宅でゆっくりと比べることができます。

 小説、エッセイ、評論、詩歌などの文学作品であっても、人はそれを通読するとは限りません。自分で買った本、図書館から借りた本、買ってもらった本、人から贈られたり借りたりした本、いずれのばあいでも通読するとは限りません。まれに目次に目を通しただけで本文を読まない例さえあります。

 本を通読しない理由は人によっていろいろあります。面白くない、期待外れ、好みに合わない、難しすぎる、易しすぎる、タイトルに騙された、など。

 とくに図書館から借りたばあいは、誰にも気兼ねをせずに《通読しない自由》を満喫することができます。これが図書館のショーウィンドー効果、《ごくらく》たる所以のひとつです。

 

参照文献

(1)佐藤亜紀『大蟻食の日記』2004.6.27(アクセス2023.4.16)

(2)富永靖弘「実用書出版社と図書館」in『2015年「図書館と出版』を考える:新たな協働に向けて』(日本書籍出版協会図書館委員会編・著・刊行、2016年)

(3)ウンベルト・エーコジャン=クロード・カリエール著、工藤妙子訳『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(阪急コミュニケーションズ、2010年)

無料貸本屋という空疎なレッテル

遅れていた貸出サービス

 1965(昭和40)年10月、東京都日野市に小さな事務室と1台の移動図書館車、蔵書はわずか3,000冊、サービスは貸出だけという、ないないづくしの市立図書館が誕生しました。ところが、この図書館は利用者の急増と貸出サービスの目覚ましい実績によって、日本の図書館関係者を驚嘆させます。ふつうは良い意味に使われる《目覚ましい》という言葉も、古語では「意外で気にくわない」という意味で使われるばあいが多かったと国語辞典にあります。

 ごく一部の人にとって、日野市とそれに追いつこうと努めた市立図書館群の活躍が《意外で気にくわない》ことだったらしく、1970(昭和45)年に出版された『市民の図書館』(日本図書館協会刊)に「貸出しは図書館が無料貸本屋になることではないか、という批判がある」と書かれています。けれども同書の次のページには、当時の日本の公立図書館の貸出冊数がとても少ないのだと、具体的な数字をあげて説明しています。

 「貸出しの量が多いことは質が悪いことだという意見もある。この意見にこたえる前に外国の図書館をみてみよう。英国では公共図書館が年間、人口の8.5倍の貸出しをしている。デンマークが6.3倍、ハンガリーが4.5倍、アメリカは4.4倍である。日本は0.1倍である。」当時の日本の公立図書館の貸出冊数は、イギリスの85分の1、デンマークの63分の1にしか過ぎなかったということです。

 このような実態を知らない人が無料貸本屋という新語を思いついて、貸出サービスを基本とする新しい流れに一石を投じたつもりだったのかも知れません。けれども、ささやかな流れは10年たち20年たつうちに奔流となりました。

 それは、日本の公立図書館が世界の先進的な国々に少しでも追いつこうとして貸出サービスに注力しつづけたからです。結果、21世紀の初めには、国民1人当りの貸出冊(点)数がトップグループ諸国の背中が見えるほどまで近づきました。日本の数値が2004(平成16)年現在で4.8だったのに対して、ほぼ同じ時期のトップグループ諸国は次のとおりです。(1)

フィンランド 20.0  デンマーク14.8

ニュージーランド12.5 オランダ10.7

エストニア10.0  スウェーデン9.2

イギリス8.7  スロヴェニア8.0

アイスランド7.5  アメリカとベルギー7.1

 1965年から現在まで、日本の公立図書館は世界のなかで特別な貸出サービスをしていたわけではありません。個々の図書館の蔵書の数量とその内容、貸出を受ける登録者の割合、個々の利用者が借りられる冊数と期間、貸出にともなう予約サービスなど、さまざまな面で図書館の先進諸国に追いつこうと頑張ってきただけです。

 というわけで、《無料貸本屋》という悪態は、結果として世界中の公立図書館に対する悪態になっています。また、その同じ時期に、貸出サービスが日本より優れていた国々の公立図書館が、出版界からいわれのない罵詈雑言を浴びせられた例は私の知るかぎりありませんでした。

 公立図書館を設置するのは都道府県、市区町村などの自治体(地方公共団体)です。設置と運営に直接かかわるのは、首長、教育委員会、行政の関連部署、議会の議員、図書館員、図書館協議会の委員などです。加えて、図書館に関心をもつ多くの住民(利用者、ボランティア、寄付・寄贈をする篤志家や企業)がいます。図書館に《無料貸本屋》という何の根拠もないレッテルを貼る人たちは、これらの関係者、支持者、支援者、利用者をも愚弄していることになります。たぶん気づいていないのでしょうけれど。

 

無料貸本屋というレッテルの具体例

 出版界と図書館界の20年論争中、公立図書館を非難するために《無料貸本屋》というレッテルを使った多くの例から、ふたつだけご紹介します。まず、このレッテルを出版界でいちばん早く使ったと思われる例です。

 A.「近所に公立図書館がなければ生きていけない人間」を自称する津野海太郎(つの・かいたろう)氏は、「市民図書館という理想のゆくえ」(『図書館雑誌』v. 92, no.5, 1998.5)の中で、「あえて暴言をはくならば」と予防線を張った上で次のように書いています。

 「書棚と貸し出しカウンター以外、なにもない。図書館というよりも親切な無料貸本屋みたい。

 という印象をうけたというのも、また、たしかなことなのだ。」

 氏は東京都杉並区から埼玉県浦和市(現在:さいたま市)に引っ越したとき、歩いて行ける範囲に県立、市立、分館あわせて4つの図書館があることを確認して安心します。けれど、本を読んだりノートをとったりする空間が貧弱すぎるように感じたのでした。

 近くに公立図書館がなければ生きていけないと自覚する人にとって、県立・市立・2分館が歩いて行ける距離にあるのは、これ以上望めないほどの環境でしょう。その意味で移住先の選択はお見事ですけれど、図書館の施設や設備が貧弱で不満なら、納税する住民として図書館に「何とかなりませんか」と相談をもちかけるのがよいのではないかと思います。なぜなら、住民のためのシステムである公立図書館は、住民の頻繁な利用とさまざまな声(要望、提案、忠告、苦情、感謝、激励など)によって育っていくからです。施設の拡充はすぐに対応してもらえないとしても、閲覧席を増やす程度であれば工夫次第で何とかなる可能性があるでしょう。

 つづいて津野氏は、書店がすぐに売れる本しか扱わなくなったことをとり上げ、公立図書館もよく売れる本を最優先に購入・貸出するようになったと嘆きます。施設・設備の次は図書館の蔵書への不満です。この件について氏が図書館員に苦情を言ったところ、議会や行政を納得させるためにも必要だと説明を受けます。けれども、津野氏は納得しません。

 「『失楽園』は十五人待ちです。

 この種の表示をロビーで目にするたびに、正直いって「へっ」と思う。「なにが公共図書館だよ、ただの貸本屋じゃないか」とつい感じてしまう。」

 「こうした図書館「無料貸本屋」化のはじまりには、おそらく、本の保存ではなく利用を正面にうちだした一九六〇年代、七〇年代の市民図書館運動があるのだろう。」

 ごらんのとおり、津野海太郎氏はよく利用した公立図書館について《親切な無料貸本屋みたい》という印象をもち、ベストセラーの予約者数の表示を館内で目にするたびに《ただの貸本屋じゃないか》と感じたのでした。

 ひとつ具体的な例を挙げましょう。

 2021年3月に発行されたカズオ・イシグロ氏の”Klara and the Sun”という小説があります。邦題は『クララとお日さま』となっており、AI(人工頭脳)を搭載したロボット(クララ)とひとりの少女との心あたたまる物語です。この本を日本の住民100万人以上の都市の図書館がどのていど所蔵しているかを調べますと、次のようになりました。

 福岡=17.9万人に1冊  広島=17.1万人に1冊

 札幌=10.9万人に1冊  仙台=10.0万人に1冊

 名古屋=9.3万人に1冊  横浜=8.4万人に1冊

 大阪=8.3万人に1冊  川崎=6.7万人に1冊

 京都=6.3万人に1冊  さいたま=5.3万人に1冊

 神戸=4.8万人に1冊

 この本の現在(2023.3.26)の利用状況はさまざまです。所蔵している『クララとお日さま』がすべて貸出中となっている図書館がある一方、所蔵数の半分ほどが閲覧・貸出可能な状態の図書館もあります。ちょうど2年前に発行された本がいまだに借りられているのです。

 この「よく売れる本」を住民4.8万人当り1冊から17.9万人当り1冊買って貸し出す図書館の貸出サービスのどこかに問題がありますかね? ためしにアメリカの比較的大きな都市(サンフランシスコ、ボストン、シアトル、マイアミ)の図書館がこの本をどのていど所蔵しているか検索してみますと、ほぼ住民1万人に1冊の割合でした。日本の大都市の5倍から18倍の所蔵冊数になります。

 

 B.林望(はやし・のぞむ)氏は「図書館は「無料貸本屋」か」(『文芸春秋』v. 78, no. 15, 2000.12)の中で、公立図書館がベストセラーを貸し出す状況について書いています。分かりやすくまとめますと、次のようになります。

 「ベストセラーのごときを、図書館で借りて読もうというような人は、決して本当の読書家ではない。まして娯楽のための読書であるなら、なおさらのことである。」

 一般論として「本は自分で買って読まなければ身につかない」という趣旨の主張をする人はときどきいます。たとえば哲学者の三木清は「正しく読もうというには先ずその本を自分で所有するようにしなければならぬ。借りた本や図書館の本からひとは何等根本的なものを学ぶことができぬ」と書いています。(2)林望氏のばあいは信念のようで、「図書館で借りた本の知識は、しょせん、「借りもの」の知識でしかない。自分が読みたい本は、原則として買って読み、読んで良かったと感じた本は、座右に備えておくべきだという立場です。」(3)

 けれども、おもに図書館で借りた本を読んで豊かな人間性をはぐくみ、立派な仕事をした人は枚挙にいとまがないほどたくさんいます。日本では初等・中等教育の教科書が無償で給与されますが、欧米の先進諸国では教科書が無償で貸与されています。このような国々の子どもたちは「知識が身につかず」、「借りものの知識」が身につくのでしょうかね? いずれにしろ、「本は自分で買って読まなければ身につかない」と決めつけるのは、視野が狭すぎると言わざるを得ません。

 「図書館は次第に無料貸本屋の様相を呈するようになった。実に情けないことである。

 出版の衰退は、本質的には、不景気よりもこういう構造の中に胚胎されていたとみる方がよろしいのである。」

 ここでも無料貸本屋というレッテルの説明はなく、公立図書館が「無料貸本屋の様相を呈するようになった」から出版が衰退したと断定しています。理屈も何もありませんので、《風が吹けば桶屋がもうかる》を想い起こさせる言い方ですね。

 「歴史的事実を書誌学的に検定したところでは、「ベストセラーの書物ほど滅びやすい」と断言することが可能である。つまり、付和雷同的に読んではみたけれど、それっきりで、再読三読などするものではない。」

 林望氏は、図書館からベストセラーを借りて読む人を「本当の読書家ではない」とけなします。ついで、利用者の予約待ち日数を短くしようとする図書館を無料貸本屋と非難します。あげくのはてに、あやしげな「書誌学的な検定」を持ち出して「ベストセラーの書物ほど滅びやすい」と決めつけ、ベストセラーを書いた著者と、それを刊行した出版社をあざけります。

 

ベストセラーとなった本は滅びやすいか

 津野海太郎氏は1997(平成9)年にベストセラーとなった渡辺淳一失楽園』(上下、講談社、1997年)が公立図書館での予約待ち人数が15人だという館内表示を見て、図書館を無料貸本屋だと思ったということでした。林望氏は公立図書館からベストセラーを借りて読む人を真の読書家ではないと見下し、ベストセラーの書物ほど滅びやすいと断言しました。

 本のばあい、ふつうは限られた期間によく売れた著作をベストセラーと言います。ただ、よく売れた期間と部数、その集計方法などが決められているわけではありません。たとえば、明治以降のベストセラーについて縦横に論じた澤村修治氏の『ベストセラー全史』(近代篇・現代篇の2冊)にある時代ごとの「歴代ベストセラーリスト」と、日本著者販促センターのウェブサイトにある明治以降の年度別ベストセラーリストとは、内容に違いがあります。(4)

 両者に共通して挙げられているデータをもとに、国立国会図書館の所蔵資料検索システム(NDL Online)と神奈川県の公共図書館等横断検索で調べてみた結果、「書誌学的に検討」したわけではなかったせいか、「ベストセラーの書物ほど滅びやすい」とは言えないことがわかりました。調査は、「書物が滅びる」という意味不明の言葉を「書物が発行されなくなる」または「書物が読まれなくなる/使われなくなる」と広く解釈し、明治・大正期のベストセラーが1945(昭和20)年から2023(令和5)年までに新たに発行されたか否かを調べたものです。その結果は次のとおりです。なお、外国人の著書の翻訳ものは無視しています。

 ①明治・大正期のベストセラーの大半が、昭和から令和にかけても再刊・復刊されています。出版のかたちは単行本、個人の全集や作品集、日本文学全集のたぐいへの収録、文庫化などさまざまです。加えて、現代語訳の出版、朗読によるオーディオブック出版、拡大文字による出版、視覚障碍者のためのDAISY(5)、漫画や紙芝居にしての出版、参考図書(調べものに使う図書)の改訂版発行など、時代の移り変わりを感じさせるかたちでの再生産があります。

 1945(昭和20)年以降に出版されなかったのは、村上浪六『当世五人男』『八軒長屋』、小栗風葉金色夜叉終篇』、三宅雄二郎(雪嶺)『世の中』、そのほか数点にすぎません。

 このように、ベストセラーの大多数が繰り返し出版されてきたということは、「ベストセラーの書物ほど滅びやすい」とは言えないひとつの証拠です。そして滅びへの歯止めとしての出版が国文学研究資料館国立国会図書館などの公的機関よりも、むしろ利潤を追求しなければならない民間の出版社によって担われているという事実は、50年前、100年前のベストセラーを読む読者がそれなりに存在しているあかしであり、「ベストセラーの書物ほど滅びやすい」とは言えないもうひとつの論拠だと言ってもよいでしょう。

 ②文豪と称された森鷗外、好きな作家のアンケートでしばしば上位にランクインする芥川龍之介、昭和以降に活躍したノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎などは、意外にも今回調べたベストセラーのリストに登場していません。

 明治・大正期に著作が1点だけベストセラーになった代表的な人は次のとおりです。

 石川啄木泉鏡花河上肇幸田露伴坪内逍遥中江兆民西田幾多郎中里介山二葉亭四迷

 一方、ベストセラーが4点以上ある著者には次のような人がいます。

有島武郎島崎藤村谷崎潤一郎徳富蘆花(健次郎)、夏目漱石福沢諭吉

 以上は、ベストセラーの有無やベストセラーになった点数とは無関係に、これからも読み継がれていくと思われる著者たちです。

 ③これらの事実から、次のように結論づけることができるでしょう。

 消滅せずにロングセラーとして読み継がれる著作は、ベストセラーになる、ならないにかかわらず、著作の内容の魅力や有用性、出版関係者と読者がもつ真贋をみきわめる力によって、生きながらえるということです。

 

 最後に、長く出版界で活躍された宮田昇ペンネーム内田庶=うちだ・ちかし)氏の公立図書館擁護論をご紹介しておきます。

 「図書館予算が削られていく状況を救うのは、公立無料貸本屋として非難を浴びようと、著作者や出版社側からの抵抗があろうと、図書館利用者による貸出しが増えることである。その市民の要求が自治体を動かし、図書館の充実が図られる。それは図書館の本来の役割として、著作者、出版社に望まれることではないだろうか。」

 「書籍の売上げ低下は、図書館のせいにしてはならない。図書館は「公立無料貸本屋」であってよいばかりか、いま、いっそうの充実を求められているインフラでもある。」

 「図書館は十分、読書の普及、著作のパブリシティの点で出版社、著作者の利益にかなっていると思う。その点を出版社も著作者も、見忘れてはならない。」(6)

 

参照文献・注

(1)ヨーロッパ各国の国民1人当り年間貸出冊数はLibEcon2000のウェブサイトにより、それ以外は各国の図書館協会のウェブサイトによった。

(2)三木清著『読書と人生』(新潮文庫、1979年)

(3)林望著『役に立たない読書』(集英社インターナショナル、2017年)

(4)澤村修治著『ベストセラー全史』(近代篇・現代篇、筑摩書房、2019年)には、時代別・年別の「歴代ベストセラーリスト」があり、解説や索引も充実している。

 日本著者販促センターというウェブサイト(有限会社eパートナー運営)に「ベストセラー 年度別」というリストがあり、そこには1866(慶応2)年から2022(令和4)年までの150年以上のベストセラーがリストアップされている。

(5)DAISY(デイジー)とは、Digital Accessible Information Systemの略で、おもに視覚障碍者が利用できる録音資料作成システムであると同時に、そのシステムでつくられた録音資料をも指す。

(6)宮田昇著『図書館に通う』(みすず書房、2013年)