図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804)

 イマヌエル・カントは18世紀の哲学者で、その生地はプロイセン王国ケーニヒスベルク。この都市にはバルト海に面する港があり、人口は5万数千人、ドイツ人以外にもいろいろな民族が定住していました。

 父が馬具職人、母が馬具職人の娘で、両親はイマヌエルの教育に熱心でした。その点について晩年のカントは、ある手紙に次のように書いています。「私の両親は(職人階級の出であるが)誠実で、道徳的にきちんとしていて、規律正しいという点で模範的だった。両親は私に財産を残さなかった(しかも借金も残さなかった)。その両親が私に教育を授けてくれた。」(1)

 少年イマヌエルは6歳から救貧学校で読み・書き・算数をまなび、8歳からは寮のあるフリードリヒ学院で本格的な勉強を始めます。ただし、彼は入寮せず、朝7時から夕方4時までの授業を受けるために、月曜から土曜まで自宅から通学しました。この学校はキリスト教敬虔派の運営で、卒業後に《自立》できるための勉強と同時に、《自律》の精神をはぐくむことを教育の目標としていました。

 「誠実で、道徳的にきちんとしていて、規律正しいという点で模範的だった」両親の訓えと、自律の精神をはぐくむ学院の教育とが、哲学者イマヌエル・カントの人格形成に大きな影響を及ぼしたことは間違いないと思われます。カントの一生は、質素な日常生活においても道徳にかんする信条においても、《自律》を地で行ったからです。

 

 フリードリヒ学院を優秀な成績で卒業したカントは、16歳でケーニヒスベルク大学の哲学部に進みます。けれども、その間にカント家に不幸な出来事がつづきました。

 ①イマヌエルが10歳にならない1733年、父の仕事が以前ほどにはうまく回らなくなり、家計の苦しさから、一家は母方の祖母の家へ引っ越さざるを得なくなります。

 ②イマヌエルが13歳のとき、母が40歳の若さで亡くなります。その2年前、彼女の最後の子どもが誕生していました。

 ③イマヌエルが20歳のとき、父が脳卒中で倒れ、2年後に亡くなります。残された子ども5人のうち20歳以上だったのは5歳上の姉と学生のイマヌエルだったので、母方のおじがイマヌエルの学費をふくめて一家の面倒をみてくれました。

 父の死後、1746年にケーニヒスベルクを去ったイマヌエル・カントは、生地から数十キロ離れたいくつかの地で、牧師や軍人の息子たちの家庭教師をして暮らします。短い旅行は何度かしましたけれど、カントがケーニヒスベルク以外の地に住んだのは、この家庭教師時代だけでした。

 彼が生れ故郷に戻ったのは30歳になったばかりの1754年、東プロイセンきっての名門貴族であるカイザーリンク伯爵家の家庭教師となるためでした。ここでカントは、伯爵夫妻の信頼をえて、夕食時にはいつも伯爵夫人の隣席をあてがわれ、招待された名士たちとの社交を楽しみました。カントの生きざまをたどりますと、貧しい中で少しずつ力をたくわえ、時間をかけて望みどおりのものを手にした印象があります。伯爵家の家庭教師職とそこで受けた厚遇は、そのようなカントの品性を象徴するひとつの例ではないかと思われます。

 

 カントの望みは母校ケーニヒスベルク大学の哲学部の正教授になることでした。手始めはマギスター(修士)の学位と学生に講義をする資格をとることで、いずれも論文を書いて審査に合格しなければなりません。このハードルを彼は1755年、31歳のときにクリアし、すぐに私講師として講義を始めます。

 私講師という制度は、大学の講座の一部として講義をするものの、給料が大学から支給されるわけではなく、場所(教室)を自分で準備し、聴講を希望する学生からの謝礼だけが収入となるものでした。これは言わば大学の暖簾を借りての個人営業のようなもので、生計を立てるためには多くの学生が集まる講義をする必要がありました。

 初めのうち、カントは週に平均16時間の講義をしました。科目は論理学、形而上学、自然学、数学でした。カントのいくつかの伝記によりますと、彼の講義は人気があって、講義室がいつも満員、早く行かなければ坐ることができなかった、ということです。哲学者と言えば、謹厳実直の見本のように思われがちですけれど、カントは授業中にしばしば学生を笑わせる講師でした。

 

 謹厳実直といえば、カントにはその暮しぶりや人となりに面白みがないという評判が定着していたようで、私もずっとそのように思い込んできました。たとえばドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは次のように書いています。

 「カントはドイツの東北の国境にある古い町ケーニヒスベルクの、しずかなへんぴな横町で、千ぺん一律の、ほとんど抽象的な独身生活をおくった。あの町の中央寺院の大時計でも、やはりその町にすむイマヌエル・カントほど冷静に規則正しく表面的な日々のつとめをはたしたとは思われない。起床、コーヒーを飲む、著述、講義、食事、散歩と万事がきまった時刻になされた。イマヌエル・カントが灰いろの燕尾服をきて、籐の杖をにぎり、住居の戸口から出てぼだい樹のささやかな並木道へぶらぶらあるいていくのを見ると、となり近所の人たちは知ったのである。今ちょうど午後三時半だと。そのぼだい樹の並木道はカントにちなんで、今日も「哲人の道」とよばれている。カントはその並木道を、どの季節でも八度だけ往復した。」(2)

 たしかに、カントは規則正しい生活をし、恋愛も結婚もせず、物見遊山の旅をせず、趣味らしい趣味をもたず、スキャンダルがなく、健康に留意しつつ信頼できる友人に蓄財をまかせ、授業と読書と執筆の日々を送ったのでした。

 けれども彼は会話・座談・講義の名手で、彼と接した学生や友人、哲学者仲間の多くがその事実を伝えています。時計のように正確に一日を刻むだけの人、むずかしい話を好むだけの人が、講義でしばしば学生の笑いを誘い、貴族や軍人、実業家や行政官たちと何年、何十年にわたって親しく交わることはありえません。杓子定規のような人生であっても、カントの昼食はいつも誰かと一緒、散歩も誰かと一緒、夕食には市内の誰彼が競うように招待をしてくれました。なぜなら、皆さん、カントの人柄を好もしく感じ、話をするのが楽しかったからでしょう。

 

 1750年代の後半から、カントにたびたび就職のチャンスが訪れます。大学の教授職については、次の6回でした。

 ①②1756年と58年、ケーニヒスベルク大学哲学部の論理学・形而上学の教授職 ⇨ 前者は応募したあと、国の財政ひっ迫のため募集自体が取りやめ。後者は応募して不採用。

 ③④1762年と64年、ケーニヒスベルク大学哲学部の詩学教授職 ⇨ 両方とも辞退。

 ⑤1769年、エアランゲン大学の論理学・形而上学の教授職への招聘 ⇨ いったん承諾するものの、翻意して2か月後に辞退。

 ⑥1770年、イェナ大学から哲学教授職への就任の打診 ⇨ 辞退。

 これらの応募と辞退の様子から、カントが《ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学を担当する教授》にこだわったことがわかります。ちなみに、当時のケーニヒスベルク大学の教授には定年制度がなく、原則として死ぬまでその職にとどまることができ、空席を埋めたい人は現職の教授が亡くなるのを待つしかありませんでした。

 一度は招聘に応じようとした上記⑤のエアランゲン大学のばあい、招聘の労をとった同大学のズッコウ教授に宛てた、次のような文言をふくむカントの手紙が残っています。日付は1769年12月15日です。

 「こちらで近々欠員ポストが生じるであろうという見込みも出てきました。生まれ故郷の町への愛着もあります。知人や友人の輪もかなり拡がりました。しかし、一番大きいのは、私の体質が病弱であるということです。これらのことが、私の心の中で、今回の計画に対して強力に立ちはだかりました。そのため、私は、この地でしか今後も心の平安が得られないだろうと思っています。」(3)

 これらのいきさつを少し補足しますと、カントには次のような事情もあったのでした。

 ①私講師のほかに、1758年からケーニヒスベルクを占領したロシア軍の将校たちに個人授業を行ない、1762年にロシア軍が撤退するとプロシアの将校たちに教えるなど、副収入を得るようになっていた。

 ②1765年、ケーニヒスベルクで貿易の仕事をしていたジョセフ・グリーンというイギリス人と知り合って生涯の親友となった。グリーンは激動する世界情勢にかんする最新の情報をいちはやくカントに提供しただけでなく、カントのわずかな投資金を着実に増やし、そして何よりも重要なのは、学問的な対話でも恰好の相手となった。

 ③カントは1766年からケーニヒスベルクの王宮図書館で副司書の仕事にありついた。週に2回、半日ずつの勤務であるために年俸は高額ではなかったが、生計にゆとりができ、図書館の本を利用するにも都合がよかった。

 

 カントの王宮図書館勤めについては、多くの人がさまざまな書き方をしていて、細部が少しずつ違っています。その中から比較的くわしく書かれている3つの例をご紹介しておきます。

第1の例

 {城内図書館の副司書が引退したとき、カントは応募して就職した。}

 「城内図書館といっても、実質的には大学図書館であったが、この図書館はあまり頻繁には利用されていなかった。カントは一七六五年一一月にこの職に応募し、一七六六年二月に採用された。給与は年間六二ターラーであった。{原注略}図書館の開館は週二日、水曜日と土曜日の午後一時から四時であった。前任の副司書が退職したとき、図書館はひどく乱雑な状態にあった。カントと、上司であるフリードリヒ・ザムエル・ボックは、まず蔵書を整理して、目録と照合しなければならなかった。これだけでもかなり面倒で、気の遠くなるような仕事であった。そのうえ図書館内の部屋には冬季でも暖房が入らなかったので、作業はなおさら困難になった。このようにして、副司書としてのカントは、一週間に六時間という、一年間にすればかなり多くの時間を、「手は凍え」「インクが凍りつき」読み書きもままならない暗い室内に座って過ごした。ケーニヒスベルクの冬は長い。この季節には図書館を利用する人もほとんどいなかったけれども、カントは職場に詰めていなければならなかった。だがその一方で、新しい定額の給与によって、カントの「きわめて乏しい生計」は改善されたのである。」(1)

第2の例

 {カントは}「翌々年{1766年}、ケーニヒスベルク王立図書館司書の職を得た。少ないながらも俸給があり、私講師の授業と両立できて、図書の管理のかたわら、学問をつづけられる。冬場の図書館の寒さには閉口したが、ほかはほぼ不足のない職場であって、カントは図書館勤めを五年つづけた。」

 「宮廷図書館司書時代のことを少しくわしく話すとしよう。前任者の年金入りにともなうもので、年収六十二ターレル。宮廷図書館とはいえ、ほぼ大学関係者のみが利用していて、水曜と土曜の午後一時から四時まで開館。カント自身、その図書館の常連であって、さして利用されていないことをよく知っていた。司書は二人で、人間的な煩わしさもない。

 さっそく応募してみたところ、運よく採用ときまった。定収入を確保して、落ち着いて研究に専念できる。そのはずだったが、見込みちがいがなくもなかった。前任の老人がサボっていたものだから、整理すべき本がたまっていて、目録作りに時間をとられた。また図書館は暖房がなく、長い冬は「凍ったインク」と「こわばった指」に悩まされた。利用者はまるでなくても司書は仕事場にいなくてはならず、部屋が暗くて読書も執筆もままならない。

 その点はともかく、カントにとって定収の確保はやはりうれしいことだった。」(4)

第3の例

 「哲学者イマヌエル・カントは1765年、大学教員資格を取得して10年後に、「まことに不如意な物質生活を楽にする一助として」、ケーニヒスベルク王宮図書館の下級司書の口を国王に願い出た。そして1766年に雇われたが、それは館内秩序に気を配るためだった。「ことに、本を好き勝手に引っ張り出したり、図書室を一般の遊歩道がわりに使用するなど、以前からあつかましい振る舞いの絶えない無作法な若者たちがたむろしたときに」。カントは「まったくなじみのない、いやな分野に」勤めたことに気づき、哲学の正教授として、1772年職を退いた。」(5)

 この3例のうち、第1と第3の著者は、カントが図書館員として仕事をしたのは1766年から1772年までの6年間、第2の著者は「5年間つづけた」としています。また「1770年5月まで」とする別の著者もいて、そのばあいは4年間になります。

 このように私講師と図書館員をしながら、いくつもの教授職に応募したり辞退したりしていたカントは、1770年3月、ついに念願のケーニヒスベルク大学哲学部で論理学・形而上学を教える教授職に就任します。46歳でした。けれど、王宮図書館副司書を辞めたのが1772年5月なので、教授になってからも2年余りは図書館の仕事を兼ねていたことになります。

 また、上の例で図書館勤めが《薄給》であると書かれていますけれど、週に半日(3時間)が2回で年俸62ターラーの図書館勤めと、週に半日(2時間または3時間)が6回で年俸160ターラー+アルファの教授職とを比べれば、《薄給》と言うほど安くはなかったと分かります。

 

 カントをカントたらしめる著作が現れるのは、1780年代に入ってから、彼の年齢が50代の半ばをすぎて以降のことでした。とくに大学教授となってからの約10年は、これといった著書と論文の発表がほとんどありません。《沈黙の10年間》と言われたほどでした。

 その長い沈黙を破って現われたのが『純粋理性批判』(1781年刊)です。この書物は、カントが親しくしていた哲学者の中にも「理解できない」と言う人がいたほか、刊行後の数年間はさまざまに批判されました。そのため、同書をより分かりやすくした『プロレゴーメナ』という要約書を1783年に出さなければなりませんでした。先に引用した本の中で、ハイネは、『純粋理性批判』ほど「重要なものはほかにない」と評価する一方、それが認められるまでに8年を要したのは「おそらくこの書物の異様な形式とまずい文体によるのであろう。まずい文体といえば、カントほど非難さるべき哲学者はほかにあるまい」と指摘しています。(2)

 日本でも旧制高校生のときに『純粋理性批判』に挑戦して挫折した人が何人もいました。たとえば、長じて哲学者となる西田幾多郎は、四高の図書館に「マックス・ミューラ訳のカントの『純理批評』があった。それらを借りて来て読んで見たが、当時はとても分りそうになかった」と書いています。(6)

 

 カントの著書で有名なのは、『純粋理性批判』に『実践理性批判』(1788年)と『判断力批判』(1790年)を加えたいわゆる三批判書ですけれど、世界に大きな影響をおよぼした『永遠平和のために』という晩年の著書も見逃せないでしょう。

 カントの生きた18世紀は、肯定的に《啓蒙の世紀》と言われるばあいが多い反面、とくにヨーロッパを中心に《戦争の世紀》でもありました。カントが生涯を過ごしたプロイセンの国王は、啓蒙専制君主として有名なフリードリヒ2世でしたけれど、軍備を増強しながら周辺諸国と戦いをつづけた国王でもありました。この国王が死去する2年前、体力と知力の衰えを自覚する中でカントの出版したのが『永遠平和のために』(7)です。

 この本はヨーロッパ列強国の植民地政策を批判し、戦争を起こさないためにはどうすればよいかを説いたもので、パンフレットほどのページ数の本ということもあって、多くの読者に歓迎されました。

 主張の要点は、平和を維持するために、それぞれの国が次のことを実現する必要があるというものです。①民主化すること、②常備軍をもたないこと、③他国の内政に干渉しないこと、④国家連合組織をつくること、などです。このうち最後に挙げた国家連合組織は、第1次世界大戦後に国際連盟として実現しています。

 

 晩年のカントは、亡くなる10年以上前からゆっくりと心身が衰えてゆきました。《心》の方は記憶や発話などに認知症の兆候があらわれ、《身》の方はまず歩行に困難がともなうようになり、最晩年にはそこへ長期の食欲不振や睡眠障害などが加わったのでした。

 それでも40年にわたって身の回りの世話をしてくれた召使のランペとその後任のカウフマン、料理人の女性、かつての教え子で口述筆記などもしていたE. A. C. ヴァシャンスキ、介護のために呼び寄せられた妹のカタリーナなどの助けを受けながら生きながらえたカントは、あと2か月で80歳というときに老衰のためになくなりました。ヴァシャンスキは遺言執行人に指名され、のちにカントの伝記を書いた人でもありました。

 カントの葬儀は、彼が望んでいた《簡略な葬儀》とはならず、16日間つづいて数千人が参加したと言われています。(8)

 

参照文献:

(1)マンフレッド・キューン著、菅沢龍文ほか訳『カント伝』(春風社、2017年)

(2)ハインリヒ・ハイネ著、伊東勉訳『ドイツ古典哲学の本質』(改訳版、岩波文庫、1973年)

(3)イマヌエル・カント著、北尾宏之ほか訳『カント全集 21:書簡 1』(岩波書店、2003年)

(4)池内紀(おさむ)著『カント先生の散歩』(潮出版社、2013年)

(5)ゴットフリート・ロスト著、石丸昭二訳『司書:宝番か餌番か』(白水社、2005年)

(6)『西田幾多郎随筆集』(岩波文庫、1996年)

(7)イマヌエル・カント著、池内紀訳『永遠平和のために』(綜合社、2007年)

(8)菅沢龍文ほか著「カント年譜」in 有福孝岳ほか編『カント事典』(弘文堂、1997年)