図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(5)甲南大学教授と大阪商業大学図書館相談役

 1991(平成3)年3月に滋賀県立図書館を定年退職した恒雄さんは、翌4月から甲南大学文学部の教授になりました。司書課程の担当です。前年の秋に甲南大学の教授や旧知の森耕一氏など3人が会いに来て勧誘されたときは、特任教授という条件で承諾していました。ところが4月に受け取った辞令には、身分が正規・専任の教授、給与も聞いていた額よりはるかに高額で、びっくりします。

 

 恒雄さんは1968(昭和43)年いらい東洋大学(3年間)や実践女子大学(3年間)などいくつかの私立大学で司書講習の非常勤講師を経験していました。また、図書館関係の研修会や講習会での講師の経験も豊富で、大勢の人の前で話すことには慣れていました。けれども、初年度の数か月間は、ふたつの不安を抱えていたということです。

 ひとつは、「立っている場所がなくなったような不安」でした。ある日、デパートへ行ったとき、何のはずみか、不安の理由に気づきます。「公務員としての仕事を離れて、立っている場所がなくなったような感覚、それが不安の原因なのだ」と。(録音20130524)

 もうひとつの不安は、担当した週に4コマの講義ノートをきちんと練り上げることができなかったことでした。

 

 恒雄さんは週に2日、講義のために出校しました。教授会への出席と入学試験の監督以外にこれといった義務がなく、終の棲家とするつもりで建てた家が滋賀県野洲にあって、大学が遠く、出勤を原則として2日だけにしたのでした。とは言え、司書課程の教授はひとりだけなので、課程全般への目配りや非常勤講師の手配などには、責任をもたなければなりません。また、大学の教員は研究をすることも大事な仕事ですから、論文の執筆が義務のようなもので、そのため毎年度、定額の研究費(使途は本や物品の購入、旅費など)が支給されます。

 甲南大学の司書課程では、1科目あたり(年度によって上下しますけれど)100人前後の受講生がいました。まじめな学生が多く、出欠を確認しなくても欠席する学生はほとんどいなかったということです。

 

 やがて、恒雄さんは次のような感慨をもつにいたります。

 「大学教授になってみて、こんな職業が世の中にあるのか、と思った。休みが長く、出勤は週に2日ほど。上司や部下がいなくて独立している。給料はそこそこ、知らない人は偉いと思ってくれる。」(録音130524)

 

 甲南大学在職中、恒雄さんは図書館長を兼任するよう要請されました。最初は理工学部長が学長の意向を伝えに来て断りますと、学長から呼び出されて「先生のおっしゃることを聞きますから、ぜひ引き受けていただきたい」と言われます。学長の口から「言うことを聞きますから」という文言が出たのは、いろいろと改革する必要のあった図書館を、経験と実績の豊かな恒雄さんに何とかしてほしかったからです。

 けれども、恒雄さんは「教育と図書館長の両立という芸当はとても無理です」ということで、お断りしたのでした。《芸当》というやや不穏当な言葉は私のインタビューに答えるときに使ったもので、学長に対して発したかどうかは知りません。(録音130503)

 たしかに、日本では教授が図書館長を兼任するのが普通になっていて、図書館の専門家(司書)が大学図書館長に就任する例がほとんどありません。それは、大学の図書館職員に適任者がいないからではなく、たんに前例を踏襲しつづけてきた結果だと私は思っています。

 

 ある日、経済学部の高橋哲雄教授が「前川さんが甲南の教授になることを知って、とても嬉しかった」と恒雄さんに声をかけてくれました。氏は以前から図書館に関心があり、恒雄さんの著書『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)を読んで、日野市まで図書館を見に行ったことがあったのでした。

 高橋教授は経済学以外の本もいろいろ書いていて、その中に『ミステリーの社会学』という新書(中公新書、1989年)があります。これはミステリーを縦横に論じた労作で、著者の渉猟ぶりと現実の事件現場などにも足を運ぶフットワークの軽さにも驚かされる本です。

 甲南大学での恒雄さんは、この高橋教授を介して、熊沢誠(経済学部)、山内昶(ひさし・文学部)の両教授、文学部長だった松村昌家教授などと親しくなりました。松村教授とは学術的な話題よりも、くだけた話をすることが多かったということです。たとえば、

 「松村さんが電車に乗っていると、自分は明治天皇の兄弟の子孫だという男が話しかけてきた。「証拠を見せるから自宅に来ませんか」というので、松村さんはついて行った。すると、その男の野洲の自宅には、菊のご紋章のついた品々が所狭しと飾ってあった。松村さんが「あれはほんとですかね」と言うので、野洲に住んでいた私が役場の偉い人に聞いたら、「そんな人はぜんぜん知りません」とにべもない返事をされた。」(録音130524)

 たわいない話ですけれど、利害関係のない教授たちとの交わりの一例なのでしょうね。

 

 未刊の回想録『思い出から』(注1)には、「甲南大学の八年間は実に幸せな年月だった」と書かれています。健康面では大きな手術を受けるなどの試練がありましたけれど、仕事面では重圧と緊張から解放された気楽さがあったようです。たとえば、「教授会の大事な議題にかんすることはほとんど記憶にないのに、脇道の話を覚えている」と言って、次の例を披露してくれました。

 「学内にKnowledge Factory Centerとかいうものを新設するという話があり、イギリス人の教員が「英語にそんな言葉はありません。略すとKFCですね」と言い、みんなが声をあげて笑った。」(録音130524)

 振り返ってみますと、恒雄さんが気持ちよく仕事をできたのは、七尾市立図書館員時代、日野市の部長時代、そして甲南大学教授時代でした。ここには、日本の図書館史に残る大きな仕事をなしとげた日本図書館協会の事務局職員時代、日野市立図書館長時代、滋賀県立図書館長時代が入っていません。

 

 1999(平成11)年3月、恒雄さんは定年によって甲南大学を退職し、4月から大阪商業大学図書館の(館長)相談役に就任します(在職期間は2年)。数年前に甲南大学を退職して大阪商業大学の教授・図書館長に就任していた高橋哲雄教授から請われてのことでした。

 図書館の改善、とくに職員の教育を依頼されましたけれど、出勤は原則として週に1日、それで満足な結果を得られるかを案じていました。ところが懸案となっていた新図書館の建築が具体化し始め、恒雄さんは「これで救われた」「責任を果たせる」と思ったいうことです。

 恒雄さんが甲南大学を退職する1か月前の年3月1日、私が勤務していた京都産業大学図書館を、恒雄さんを含む5人の見学者が訪れました。『京都産業大学図書館年報 1999』の「見学者」欄に、「甲南大学前川教授と大阪商業大学高橋哲雄氏ほか3名」と記録されています。つまり、その時点で大阪商業大学は図書館の新館建設を視野に入れていたということになります。

 その後、東畑設計事務所大阪商業大学図書館の高橋館長、前川相談役は頻繁に設計のための協議を重ね、恒雄さんの意見がいろいろ採用された6階建ての新図書館は、2002(平成14)年9月30日にオープンしました。

 

(1)

 当ブログでは、前川恒雄さんの未刊の回想録『思い出から』を、数回にわたって情報源として引用してきました。このたび、『思い出から』を中核部分とする本が出版されましたので、ご紹介しておきます。『未来の図書館のために』(夏葉社、2020年12月25日発行、定価:本体1,800円+税)です。

 発行から1か月が経っても夏葉社のウェブサイトの「刊行書籍」欄に情報が出なかったため同社にメールで問い合わせましたところ、2月5日発売予定との回答を得ました。「業務過多で更新に手がまわっていない」のが同社のウェブサイトに情報が載っていなかった理由だそうです。

 同書は、「日野市立図書館がめざしたもの」、「一図書館人の思い出」、「みんなで賢くなろう」という3つの部分からなっています。このうちの「一図書館人の思い出」が(くわしく突き合わせてはいませんけれど)『思い出から』とほぼ同じ内容だと思われます。つまり、日本図書館協会事務局に就職してから甲南大学教授退任までの回想が『思い出から』とほぼ同じ内容で、そこへその後の転居や図書館とのかかわりの手短な記録が添えられています。

 3つ目の「みんなで賢くなろう」は、『点』(発行:滋賀の図書館を考える会)の創刊号(2014年9月)から終刊号(2020年9月)までに恒雄さんが寄稿した比較的短い文章から成っています。

 なお、本書が「市場に流通する数は3、400部と少ない」そうです。