図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

白居易(はく・きょい 772-846)と唐代の文人たち

 白居易は中唐の詩人で、字は楽天です。詩仙と称された李白が亡くなって10年後、詩聖と称された杜甫が亡くなって2年後の772年、鄭州(ていしゅう)新鄭県(今の河南省新鄭市)の小さな町で生まれました。祖父も父も科挙に合格しましたけれど、中央の官僚への道がひらける進士科ではなく、ふたりとも合格しやすい明経科だったため、地方でそれなりの地位についた役人でした。

 ここでご紹介するのは、唐代の宮中図書館で仕事をした経験のある白居易と、その他の文人や政治家です。その多くが、科挙の試験に合格した直後に、またはさほど年月を隔てることなく、宮中図書館の役所である秘書省で仕事をしたのでした。まず秘書省の位置づけについて簡単にご説明しておきましょう。

 

 唐代には、中央・地方ともに行政機構と官僚制度がかなり細かく整えられていました。中央には6つの省があり、これらの中央官僚組織を統括して天子(皇帝)を補佐したのが宰相で、ふつうは同時に数名がその任に当たっていました。

 中央6省のうち、中核をなした中書省門下省尚書省の概略は、次のとおりです。

 ①中書省=政策を立案して天子の意思としての詔勅を起草。

 ②門下省中書省が起案した詔勅を吟味。とうぜん、異議を申し立てる権限をもつ。また、さまざまな部署から上がってくる意見や提案、要望を天子にとりつぐ。

 ③尚書省門下省の関門をとおった政策を実行する六部(りくぶ)を統括。六部は、文字どおり6つの部が、官僚の人事(吏部)、祭祀(礼部)、財政(戸部)、国防(兵部)、司法(刑部)、土木(工部)などを分担。

 残りの3省は、④宮中の女官や宦官をあつかう内侍省、⑤天子の衣食住をあつかう殿中省、⑥宮中図書館に責任をもつ秘書省、でした。

 

 宮中図書館はいわば国立図書館で、唐代では秘書省、弘文館、集賢殿書院、史館、崇文院、司経局などで構成されて、秘書省が全体を統括していました。以下の5館にはそれぞれ役割があり、集賢殿書院では国内からひろく蔵書を集め、慎重に校勘・清書したものを原本(正本)として収蔵しました。校勘とは、同じ内容であるべき複数の写本や印刷本を突き合わせて、異同や正誤を調べ正すことです。よって、すべて原本とされる集賢殿書院の本は、内容が正確で文字も美しいものでした。それと比べますと、弘文館に置かれた副本(原本の写し)は質的にやや見劣りがしました。史館は歴史書を編纂するために設けられた図書館として、各時代・各王朝の史書や行政文書などが大部分を占め、崇文院と司経局は皇太子のための小規模な蔵書機関として存在しました。(1)

 秘書省では、時代によって違いはありますけれど、おおむね秘書監(長官)、秘書少監(副長官)、秘書丞、秘書郎、校書郎、正字など全部で10種類以上の官職からなる人たちが働いていました。キャリアの初期に校勘を任務とする校書郎として働いた人の多くが、のちに詩人や作家、書家や政治家となったのでした。たとえば、

 「宰相にいたる最も典型的なエリート・コースは、まず進士科の試験に合格し、秘書省校書郎(正九品上)から官界に入り、畿県の尉(正九品下)、御史台の監察御史(正八品上)、中書省門下省の拾遺(従八品上)、尚書省の員外郎(従六品上)、中書舎人(正五品上)、中書侍郎(正四品上)の諸官をへて、直ちに宰相に至るといわれたのである。」(2)

 「秘書省校書郎は官位は低いが、将来の高級官僚になるための順当なコースであった。宮中図書館の蔵書を自由に見ることができるし、なによりもたっぷり時間に恵まれる。将来性のある若手官僚に存分に勉強する時間を与えるべく仕組まれていたのだろう」ということです。(3)

 

 「たっぷり時間に恵まれる」校書郎としての勤務について、白居易は「常楽里閑居」という詩の中で次のように表現しました。「常楽里」は長安の町名、「閑居」は白居易が詩のタイトルの一部によく使った語で、のどかな暮しというほどの意味です。

  典校在秘書

  三旬両入省

 この2行は、「秘書省で典校の仕事をし、出勤するのは月に2日」という意味で、典校とは、先にご説明した校勘のことです。これは、古い文献をあつかう思想・文学・歴史などの研究者にとって、昔から最近まで学問への大切な入口でありつづけました。

 出勤日が月に2日とは、コロナ禍の昨今でもめずらしい勤務風景のように思われますけれど、訳者のみなさんはおおむね「月に2日」としています。たとえば、「一月に二日の登庁」(3)、「月に二度ばかり役所へつとめ」(4)、「月に二回だけ秘書省に顔を出す」(5)などです。一方、三旬とは30日、両は両旬の意味で20日のことだ、とする人もいます。(6)

 月に2日の出勤と20日の出勤とでは大違いですね。これは、思い切った誇張をいとわない漢詩の中での表現ですし、気にする必要のないことかも知れません。ところが、この詩をもう少し読み進めますと、自分の住いやそこにいる下僕、俸給や役所の人間関係などに満足していることを述べ、次のような句にいたります。

  蘭台七八人

  出処與之倶

  旬時阻談笑

  旦夕望軒車

 この4句の意味は、「役所の同僚は7、8人。いつも行動をともにする。なので、10日も談笑できないと、一日中誰か来ないか待つありさま」となるでしょう。ということで、やはり、月に2日あるいは数日だけの出勤と解するのが正しいのではないか、と思われます。

 

 白居易が初めての任官で校書郎となったのは、803年、32歳(以下、年齢はすべて数え年)のときでした。そこで気楽な務めと気の合う仲間との交わりを楽しんでいるうち、806年、例年の科挙の試験とはおもむきのことなる制挙という試験が実施されることになります。この試験は、天子が臨時に命令を発して人材を抜擢しようとするものでした。

 白居易は、同じ年に校書郎となった元稹(げん・しん)と一緒にこの難関試験にいどみ、ふたりとも上位の成績で合格します。なにしろ、両者は道教の寺院にこもって《模範回答集》まで作ったといいますから、意気込みが相当に強かったのでしょう。結果、ともに校書郎とは違う官職に任命されましたので、宮中図書館での勤務は3年だったということになります。その後、白居易と元稹は無二の親友となり、たいていは違う任地に住んでいましたのに、唱和というかたちで詩のやり取りをつづけたのでした。『広辞苑』によりますと、《唱和》とは、「一方がまず詩歌を作り、他方がそれに応じて詩歌を作ること」です。

 

 白居易が制挙にいどんだのは、行政官として活躍したいと思っていたからにほかなりません。初めは望みどおりに、天子の秘書のような仕事をする翰林学士、天子の誤りを正すために意見を具申する左拾遺など、重要な官職に就くことができた白居易でしたが、気持ちを萎えさせる3つの事態が起きます。30代後半から40代前半にかけてのことでした。

 ①白居易が左拾遺であったとき、職務に忠実なあまり、朝臣のありようを批判し、天子にも遠慮なく諫言した上、自分の思いを詩の題材としたため、朝廷の多くの人から反感をかってしまいます。

 ②白居易が官僚になるはるか前から、唐の朝廷では貴族出身者と科挙及第者とが勢力争いをしていました。808年、3人の科挙受験者が論文試験の解答のなかで時の政治を批判したことから、《牛李の党争》と呼ばれる両派の長い左遷合戦が始まります。白居易科挙出身者でしたけど、貴族出身者の中にも親しい人がいて、どちらにも加担しませんでした。《君子危うきに近寄らず》ですね。

 ③ところが、815年、宰相だった武元衡(ぶ・げんこう)が暗殺されたとき、皇太子の顧問のような閑職にあった白居易が「暗殺者と彼らを裏であやつった勢力を早急に究明すべきだ」と上奏したところ、越権行為だと一斉に非難され、左遷されてしまいます。当時は政治的なあやまちを犯せば実質的な仕事のない司馬という職名で遠くに追いやられました。白居易のばあいは江州(今の陝西省九江市)司馬として4年間を過ごすことになります。

 

 江州司馬として左遷されていたとき、白居易は親友の元稹にあてて「元九に与うる書」と題する手紙風の文章を書きます。815年、44歳のときでした。元九とは元稹のことで、内容は文学にかんする考えと自分の半生の詩作についてです。それによりますと、詩人としての彼は806年につくった「長恨歌(ちょうごんか)」によって全国的に有名になり、810年ごろの「秦中吟(しんちゅうぎん)」10首や「新楽府(しんがふ)」50首なども反響が大きかったと書いています。(7)

 それは白居易自画自賛には違いありませんけれど、元稹は白居易の文集『白氏長慶集』(824年)の「序」のなかで、次のように証言しています。

 「この二十年間というもの、宮廷、役所、道観、寺院、駅舎など、至るところに白楽天の詩が書き付けられていた。上は王侯貴族から下は車夫馬丁に至るまで、口の端にのぼさぬものはない。書写したり翻刻したりして、市場で売る者、酒や茶と交換する者、どこでも見られた。」(3)

 白居易の詩が広く受け入れられた理由は、その平易で具体的な表現と物語性にあるというのが、多くの評者の一致した意見です。また、さまざまな作品を収める「新楽府」50首のなかで「とくに目立つのは、政治の乱脈と社会の混迷とを諷刺批評したもの、ならびに人民の苦しみに同情した作品の多いことである」(8)ため、庶民に歓迎されたとも言えるでしょう。「人民の苦しみに同情した作品」には次のような人びとが描かれています。

 《宮中に招かれたのに寵愛をうけず、結婚もできずに老いた女性》

 《兵役を逃れるために自らの腕を折った老爺》

 《お上から無益なイナゴ獲りをさせられた農民》

 《作物が収穫できないのに例年どおりの納税を迫られる農民》

 《宮中の女性のために美しい織物をつくる貧しい女性》

 《寒い中で薄着の老人からはした金で炭を買う役人》

 これらの内容には、人民を苦しめる中央と地方の政治・行政に対する批判がこめられています。

 

 このように、文才と学識に自信と誇りをもっていた白居易は、早くからその結実としての詩や文章を後世に残そうとしていました。その始まりは、「元九に与うる書」を書いたのと同じ年の815年にみずから編んだ15巻から成る詩集で、次第に巻数を増やしてゆき、その終りは、死の前年の845年、74歳のときに5部作った『白氏文集』(はくしもんじゅう・はくしぶんしゅう)75巻でした。ここにはおよそ2,900首の詩歌だけでなく、職務として作った文書なども納めていて、著者自身の編集による個人全集のおもむきを呈しています。

 それらの保管方法は、3つの寺へ各1部を奉納、残りの2部を甥と孫に1部ずつ寄託、としたのでした。なかなか用心深いですね。

 詩人としての白居易にとって、詩作は、趣味であると同時に生き甲斐であり、交友にあたっての重要な手段であり、自分の詩論を根拠づけるための作業であり、意図していたか否かにかかわらず、日記や自叙伝に代わる記録を残すことでもあったのでした。ただし、「交友にあたっての重要な手段」である詩の唱和は、白居易にかぎらず唐代の詩人のありふれた遊戯のようなものでした。

 

 官僚としての白居易は、さまざまな地でさまざまな職務にたずさわりながら、慎重に争いごとを避け、生活を楽しみます。妻子を愛しながらの楽しみは、詩作や飲酒、友人との談話や詩の唱和、琴の演奏や魚釣りなどでした。そのような日常生活の楽しみや喜びを表現した詩を白居易は《閑適》と名づけたのに対して、先にご紹介した『新楽府』などの政治・社会批判の詩を《諷喩》と称しました。

 このようにストレスのない暮しをしていた白居易は、50歳にして中書舎人という官職を与えられます。中書舎人というのは、「ついにこのポストまで来たという感慨を覚えないものはいません。王言すなわち天子の詔勅の起草に責任を持つポストであり、学問文章によって官界に生きてきた人間としては、最高の栄誉なのです。」(9)

 中書舎人につづいて次々と異なる州の長官職(刺史)を命ぜられた白居易は、826年、55歳のときに、落馬による怪我や病気を理由にして長い休暇をもらいました。その翌年、秘書監(秘書省の長官)に任命された白居易は、そこでの勤務の様子をうかがわせる「秘書後庁」という七言絶句を残します。その後半の2句は次のとおりです。

  尽日後庁無一事

  白頭老監枕書眠

 言わんとするところは、「秘書省の奥の部屋では日がな一日なにごともなく、白髪の老長官が書物を枕に居眠りばかり。」

 そこには、30代のころに諷喩詩によって本領を発揮した詩人の面影はありません。この館長職が「ご苦労さま。少しゆっくり休みなさい」という意味を込めたご褒美だったからでしょうか。

 62歳になって洛陽に落ちついた白居易は、あいかわらず官歴を重ねますけれど、いずれも名誉職的な仕事で、仲の良かった友人・知人にあいついで先立たれた悲しみと愁いをいだきつつ、《閑適》と称するにふさわしい暮しをつづけることができました。亡くなったのが75歳ですから、当時としては大往生の部類に入るでしょう。

 

 白居易と同時代またはほぼ同時代の文人や官僚には、宮中図書館で仕事をした人がたくさんいました。その中で比較的有名な人をごく簡単にご紹介します。順序は生年の昇順です。

 以下に列挙する人たちのすべてまたは多くに共通する特徴は、次のとおりです。

 ①男性。

 ②文人(とくに詩人・文章家)として知られる人。

 ③科挙の試験に及第して秘書省の校書郎。

 ④中央と地方でさまざまな官職を経験。

 ⑤官歴のなかでしばしば左遷・失脚の憂き目。

張九齡(ちょう・きゅうれい 673?~740)

 702年に進士に及第し、校書郎を手始めに官吏の道へ。左遷にめげず、733年に宰相となり、唐の最盛期の治世である《開元の治》の実現に尽力。「学問にすぐれ、古今の経籍を収集・校勘する集賢院学士にも就いた。」(10)

顔真卿(がん・しんけい 709~785)

 書家。28歳で校書郎。信念にもとづく直言によって宰相や天子に煙たがられ、たびたび左遷。最後は、命によって反乱軍の説得に向かい、敵の懐柔を拒んで殺された。ために唐代一の忠臣とされた。「顔家は代々学問を伝えた家系。後に顔真卿の書は王義之と並ぶ二大潮流の一つと称された。」(10)

王建(おう・けん 766?~830?)

 詩人。秘書省で位の高い秘書丞を務めたが、それ以外の官職では目立った活躍をしなかった。詩人としては年齢の近い張籍、白居易、劉禹錫(りゅう・うしゃく)などと交友。楽府にすぐれていたため張籍とともに《張王楽府》と並称された。

崔玄亮(さい・げんりょう 768 ~833)

 803年の任用試験に白居易とともに合格して以来、終生の友人。秘書省では校書郎より上の秘書郎をつとめた。白居易・元稹・崔玄亮による『三州唱和集』がある。

張籍(ちょう・せき 768?~830?)

 詩人で楽府の名手。友人の王建とともに《張王楽府》と並称された。秘書省では校書郎より上の秘書郎として仕事。

劉禹錫(りゅう・うしゃく 772~842)

 図書館員生活は秘書省ではなく、東宮の太子校書として図書の校勘・整理を行なった。若いときは柳宗元と親しく、ともに政治改革運動に加わって失脚。30代半ばから長い地方生活を余儀なくされ、晩年には白居易と親しくなって多くの唱和詩を作った。

柳宗元(りゅう・そうげん 773-819)

 唐宋八大家のひとりで、散文家として名高い。装飾的な駢文(べんぶん)に反対し、古文に帰ることを主張して韓愈とともに古文運動を主導。20歳で進士に及第し、「26歳で宮中図書館の集賢殿正字に任官」した。(2)このように官吏としてのスタートは申し分なかったが、政治改革に関与して長安から遠く離れた地へ左遷され、47歳で亡くなった。

白行簡(はく・こうかん 776~826)

 白居易の弟。809年に校書郎。『李娃伝』(りあでん)という伝奇短篇小説がある。

元稹(げん・しん 779~831)

 白居易の無二の親友。同じ地に住んだ期間はさほど長くなかったものの、互いを高く評価し、つねに文学的に刺激しあって詩の唱和が多かった。たび重なる左遷にもかかわらず、822年に44歳で宰相となったが、半年も経たないうちに左遷された。

 白居易が「元九に与うる書」を書いたのは815年。元稹も同じ年に「詩を叙して楽天に寄するの書」を書いており、内容は「自伝とも言うべき前半と心境を記した後半とに分かれる。」(11)『元氏長慶集』60巻のほか、伝奇短篇小説『鶯鶯伝』(おうおうでん)を残した。

李紳(り・しん 780?~846)

 812年に校書郎。官歴では、浮沈をくり返して822年に中書舎人、842年に宰相となる。詩人としては『新題楽府』20首をつくり、親しかった元稹や白居易の新楽府に影響を与えた。

杜牧(と・ぼく 803~852)

 李商隠と同じく詩にも散文にもすぐれ、《李杜》と並称された。秘書省の校書郎ではなく、弘文館校書郎を経験したあと浮沈の激しい官僚生活を送ったが、最後は中書舎人となった。

段成式(だん・せいしき 803?~863)

 詩人で博覧強記の文筆家。当時の社会の様子を活写した随筆集『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)が有名。宰相で蔵書家だった父の段文昌のコネによって校書郎となり、秘書省の膨大な蔵書に接しえたことが文人生活に幸いした。

李商隠(り・しょういん 813?~858)

 詩人・文章家で駢文にすぐれていた。《牛李の党争》の両派と親密な関係にあったため、一方から裏切り者として恨まれ、官僚としては生涯にわたって不遇だった。28歳のとき秘書省の校書郎。

 

 そのほか、上記の人たちと同じころの校書郎などの経験者は、以下のとおりです。

楊炯(よう・けい 650?~695?) 詩人。校書郎。

賀知章(が・ちしょう 659~744) 詩人、書家。秘書監。

張說(ちょう・えつorちょう・せつ 667~730) 詩人、宰相。太子校書郎。

王昌齢(おう・しょうれい 698?-755?) 詩人、大歴十才子のひとり。校書郎。

銭起(せん・き ?-782?) 詩人。校書郎。

李端(り・たん 732-792) 詩人、大歴十才子のひとり。校書郎。

楊巨源(よう・きょげん 770?~???) 詩人。校書郎。

李徳裕(り・とくゆう 787-850) 政治家。《牛李の党争》の李派の旗頭。校書郎。

朱慶餘(しゅ・けいよ 797?~???) 詩人。校書郎。

 

参照文献

(1)邱五芳著「中国古代の蔵書事業」in呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)

(2)礪波護著『唐の行政機構と官僚』(中公文庫、1998年)

(3)川合康三著『白楽天:官と隠のはざまで』(岩波新書、2010年)

(4)アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳『白楽天』(みすず書房、1959年)

(5)平岡武夫著『白居易:生涯と歳時記』(朋友書店、1998年)

(6)高木正一注『白居易 下』(岩波書店、1958年)

(7)静永健著「白居易の諷諭詩」in『白居易の文学と人生 II』(勉誠社、1993年)

(8)高木正一注『白居易 上』(岩波書店、1958年)

(9)下貞雅弘著『白楽天の愉悦:生きる叡智の輝き』(勉誠出版、2006年)

(10)尾崎雄二郎ほか編『中国文化史大事典』(大修館書店、2013年)

(11)金在乗著「白居易と元稹」in『白居易の文学と人生 II』(勉誠社、1993年)