図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

すれ違いの論争

きっかけは出版物の販売不振

 太平洋戦争終結後、順調に復活・成長してきた日本の出版業界は、1996(平成8)年をピークとして本と雑誌の売上げ(販売額)を減らし始めました。不況知らずだったはずの出版業界がその原因探しをする中で、一部の人たちが「公立図書館による大量の貸出と、店舗を急速に増やしてきた新古書店の営業が、本の売れない原因だ」と思いつきます。新刊書店での本の売れ行きが落ちてきたのは、公立図書館が同じ本を大量に買って貸出サービスに力を入れた結果、本を買って読んでいた多くの顧客が本を買わなくなった、というわけです。

 《同じ本を大量に買い込む》とは、ひとつの自治体の図書館が、貸出予約の集中する本を数十冊、大都市の図書館ではそれ以上も買うことがあるという意味です。図書館では、同じ本(著者、著作、出版社、版が同じ本)を複数冊所蔵するとき、それを《複本》と言います。

 複本をそろえるのは公立図書館だけではありません。学校図書館では修学旅行の事前学習用などの目的で大量の複本をそろえる例が少なくなく、大学図書館でも、教師が授業の進行にあわせて受講生に少しずつ読ませる指定図書という複本制度があります。

 図書館界はとうぜん反論します。すると、公立図書館を批判・非難する言葉遣いが乱暴になる人、図書館の利用者を悪口の標的にする人、ベストセラーとなった本には価値がないかのような物言いをする人、などが現われます。

 このばあい、公立図書館を批判・非難した出版界の人たちは、著者、出版社・取次会社の社長や重役、書店経営者が中心で、個人だけでなく、日本ペンクラブのような著作者の団体などは声明を発したりシンポジウムを開催したりしました。それらに反論した図書館界の人たちは、現役および退職した図書館員、大学に勤務する学者・研究者たちが中心でした。その間、著者を含む出版界に「公立図書館の貸出を非難するのは間違いだ」とする人がいた一方、図書館界にも出版界の主張に理解を示す人がいました。出版界からの公立図書館非難にはこれといった根拠がなく、《論》に値しないものが多いのに対して、図書館界からの反論はおおむね客観的な根拠を挙げて冷静に非難者を説得しようとしたものでした。タイトルを「すれ違いの論争」としたのは、以上のようないきさつによります。

 この論争は1998(平成10)年から(数度の無風状態の期間をはさみながら)2018(平成30)年までつづきました。ここ数年、公立図書館とその利用者への非難は鳴りを潜めているようですけど、今後また蒸し返しがあるかも知れません。

 

社会的事象の因果関係

 社会的な事象の因果関係は、関連する要素が多ければ多いほど複雑であり、「Aという事象はBという事象に起因する」と単純に結論づけられる例は稀ではないかと思います。何かの原因・理由となる事象は、BのほかにC、D、Eなど、複数あるのが普通だからです。分かりやすい例は平均寿命が延びたり縮んだりする現象でしょう。戦争やパンデミック、長引く飢餓や大規模な自然災害、医学の発達、医療保険や福祉制度、人びとの食生活や健康志向など、大きな要素だけでもたくさんあります。

 では、本が売れないという事象に関係する要素には、どんなものがあるでしょうか。

まず20年論争中の日本に限定して、書籍販売不振と無関係だった要素として、次のようなものがあります。

識字率と高等教育の普及

 日本は江戸時代から寺子屋の普及によって識字率の高い国で、その傾向は明治以降、現在に至るまでつづいています。

 現在、高等学校への進学率は95パーセントを越えています。一方、大学への進学率はゆるやかに増加しつづけてはいますけれど、OECD諸国とくらべれば高いとは言えません。

②学術の水準

 学問・芸術の水準の高低は、おおむね出版の盛衰と関係があると言ってよいでしょう。なかでも、娯楽としての読書の多くの部分は文学作品によって支えられてきました。とくに江戸時代以降、庶民も貸本屋を頼りにして読み物を楽しみました。それが現代では図書館を頼りにして小説やエッセイが広く読まれています。小説などが広く読まれるから作家をこころざす人が増えるわけで、好循環現象がつづいています。

③社会の安定度

 他国と戦争状態にあったり、国内が内乱状態に陥ったりすれば、その国の出版活動は停滞しがちになります。分かりやすい例は太平洋戦争でしょう。日本は多くの人命と住い、物資を失い、敗色が濃くなるにつれて教育機関がほとんど機能しなくなりました。本や雑誌を発行するために不可欠な紙がいちじるしく不足し、出版物が売れるか売れないかより、そもそも出版することすらおぼつかなくなったのでした。

④検閲

 本の検閲とは、公権力が本の内容を調べて、不適当だと判断したばあいに発行や発売を禁止することで、読書の歴史は検閲の歴史でもあると言われるほど、いつの時代にも世界のあちこちで行なわれていたのでした。

 たとえば、日本文庫協会(のちの日本図書館協会)は1924(大正13)年、文部大臣の諮問「国民思想の善導に関して図書館の採るべき方策」に対して、次のような答申を行ないました。「国民必読の書を選定し、全国の図書館でその普及に努めること」が必要であり、その実現のために「わが国の出版物の検閲取締法を望む。内務省と協力して徹底的な取締法を講ずることを望む」というものです。

 近年の検閲は、出版物のほかにも映画や放送、演説など幅広い表現行為に及んでいましたけれど、さいわい、現在は日本国憲法第21条に「検閲の禁止」が含まれています。

⑤タブーとしての読書

 日本国憲法は、国民の基本的人権法の下の平等、思想と良心の自由、信教の自由、言論・出版などの表現の自由職業選択の自由、学問の自由、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、教育を受ける権利と受けさせる義務、などを保障し定めています。

 家族などのごく小さなコミュニティでは、いまだに女性の読書をタブー視する例が皆無だとは言えませんけれど、その偏見や差別が(個々人の心の中に残ってはいても)社会的現象として表面化することはほとんどなくなりました。というわけで、日本は読書をタブー視する風潮が消えていると言ってもよいでしょう。

⑥出版マーケットの基盤としての人口

 日本の人口は2008(平成20)年がピークで、それ以降はほぼ一貫して減りつづけています。けれども、1998年から2018年までの出版界・図書館界の論争時点では、(読書人口の増減はあったとしても)出版市場の根幹をゆるがすほどの人口増減があったわけではありません。

 日本の人口が世界で10番目に多いという事実は、出版マーケットが規模的にしっかりしていることを意味します。人口が数百万や数千万の国とくらべれば、著者や出版社、書店にとって条件がはるかに有利だということです。

 

出版物の販売不振と関係のあった要素

 20年論争中の日本で、本の販売不振と関係があった要素には次のようなものがあります。出版界がかかえている課題は次回以降に考えますので、以下の①~⑥には出版社、取次店、新刊書店などが直接的にかかわっている事項を省いています。

①景気の悪化(不況)

 景気の良し悪しは雇用のありようや賃金に影響し、本の売れ行きだけでなく、ほとんどすべての商品の売れ行きに影響します。20年論争中の日本はおおむね景気が悪く、人びとの財布の紐はかたくなっていきました。

②老後の生活不安

 中年以上の年代の人にとって、老後の生活設計を考えておくことは大切です。少子高齢化核家族化がすすみ、子どもに頼れない、または頼りたくない人が増えてくれば、老後の備えとしての貯蓄は大切です。また、平均寿命が確実に延びつづけている状況を加味すれば、老後のために少しでも多くお金を残そうとするのは、これといった資産のない人にとって賢明かつ自然の成り行きでしょう。

 加えて、かつて銀行などの預金金利は5%から6.0%ほどありましたのに、20年論争の始まった1998年には0.5%を下回り、以降、超低金利と言われるほどになってしまいました。この事実も、庶民の消費マインドを冷えさせる要因のひとつとなっています。

③教育の内容

 効果があるとされて多くの学校で実施されている朝読書、図書館の本と司書などの職員を活用する授業、学校図書館と公立図書館との連携などが、子ども向けの本の売れ行きと関係します。

 大学教育については、1991(平成3)年に「大学設置基準の一部を改正する省令」が公布・施行され、これをきっかけに教養部を廃止する大学が増えて行きました。学生に多くの分野の本を読むチャンスを与える教養部の廃止は、読書へのいざないを弱めるマイナス効果をもたらした可能性があります。

④インターネットと新しい情報機器の普及

 インターネットは1990年代に広く普及し始め、通信の高速化を実現しながら、信頼できるウェブサイトとコンテンツを増やしていきました。社会が情報社会に突入するにあたって、先行したコンピュータと並んで最も重要なファクターとなったのがインターネットと、手ばなすことが難しくなっていった携帯電話、その発展形であるスマートフォンスマホ)の普及です。

 身近で確実な情報源だったラジオとテレビ、新聞・雑誌・本、これらが伝えていたかなりの部分をスマホ、パソコン、アイパッドiPad)などの情報機器が代行するようになりました。それが本や雑誌の売れ行きに大きな影響を与えています。

 インターネットのさまざまなコンテンツとサービスは、ほぼすべての世代の多くの人びとを魅了するようになりました。人びとの自由に使える時間=余暇は、ますますインターネットのコンテンツとサービスに消費されるようになっています。

⑤新刊書の宣伝・広告

 1998年から2018年までの論争期間中、新聞(一般紙)の発行部数が減りつづけました。その傾向はなお進行中であり、発行部数が減れば、新刊書の宣伝・広告が読者の目につく頻度も減ることになります。

 一般紙は土曜日か日曜日に読書欄を設けて、書評を掲載しています。書評はプラス評価の新刊書を採り上げるのが常ですから、自社の新刊書が書評の対象となることを期待する出版社は、新聞社の学芸部や文化部に刊行直後の新刊書を贈ります。新聞の発行部数減少は、その点でも出版社にとって痛手となっているのです。

⑥公立図書館の貸出サービス

 公立図書館を非難した人たちは、非難と注文を少しずつ変化させましたけど、次の点だけは終始一貫、変えませんでした。ごく簡単に要約しますと、

 「公立図書館は、ヒットしつつある文学作品を大量に買い込んで貸し出しており、その分、本が売れなくなる。それはとりもなおさず著者と出版社、取次店、書店などに経済的な損失を与えていることになる。けしからん」というわけです。

 一方、それに反論した人たちは、「図書館のおかげで本を読む人が増えた」「図書館はショー・ウィンドーの役割を果たしている」などと主張しました。

 この⑥を「出版物の販売不振と関係のあった要素」に入れてはいますけれど、《出版側の主張を鵜吞みにすれば》という条件つきの話です。私見は、「公立図書館の貸出サービスは出版物の販売不振とほぼ無関係で、要因は別にある」というものです。

 

 2018年以降、出版側から非難や注文が出なくなったように思われます。その理由は分かりませんけれど、次回から次の点について考えていく予定です。

 ①公立図書館への批判・非難とは具体的に何だったのか。

 ②本と雑誌の販売不振の要因(おもな原因)は何だったのか。

 ③出版界のかかえる問題とは何か。

 ④公共貸与権(公貸権)に代わるひとつの解決策として、出版界・図書館界が協力して投げ銭システムを構築・運用することは可能か。

 注:公共貸与権(Public lending right)は33か国(うち29か国がヨーロッパの国)で実施されている著者・出版社等への補償制度で、公共図書館の特定の本の貸出数または蔵書数に応じて補償金が支払われるものです。その実態があまりにもばらばらなので、くわしく説明しようとしますと論文になってしまいます。日本でも20年論争中に出版側がその必要性を主張しましたけれど、実現にはいたっていません。