図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(2の2)8人目の侍(中小公共図書館運営基準委員会)

 敗戦後15年が経っても、日本の公共図書館はまだ低迷したままでした。図書館を設置していた市町村は日本全体のおよそ20パーセント、貸出登録者は全国の人口の1パーセント未満、国民1人当りの年間貸出冊数は0.1冊にも届いていなかったのです。

 1950年代から60年代の初めにかけて、経済的には神武景気岩戸景気と言われた好景気を経験しましたのに、日本の公共図書館は(ごく一部の例外をのぞいて)戦後の焼け野原のような状態だったのでした。

 そこで立ち上がったのが日図協の有山事務局長で、1960(昭和35)年10月、協会に「中小公共図書館運営基準委員会」を設置します。図書館不振の原因は何か、どうすれば図書館が増え、役に立つ図書館になるか、それを調べ、研究し、対策を立てるためでした。この委員会が3年にわたって文部省の補助金を受けて全国の公立図書館の実態を調べ、徹底的な討論を重ねてまとめたのが『中小都市における公共図書館の運営』(日本図書館協会、1963年)(略称:『中小レポート』)でした。

 

 『中小レポート』の「序」によりますと、「この委員会は、わが国図書館界の第一線の若手を総動員したもので、7人の中央委員と49人の地方委員と3人の外国事情調査委員が参加した」ものでした。40代前半の清水正三氏(中央区京橋図書館長)を委員長とする中央委員7人の所属別構成は、区立図書館2人、市立図書館1人、都立・県立図書館3人、国立国会図書館1人で、東京都とその隣接県の大図書館の館員が過半数の4人を占めていました。

 49人の地方委員というのは、調査される図書館の地方(県内または近県)の図書館員から、あらかじめ中央委員たちが選んでおいた人たちのことで、中央委員と一緒に調査にあたりました。

 

 中央委員が初めて顔を合わせた委員会の席上、委員のひとりだった森博氏(大田区立洗足池図書館)が中小公共図書館とはどの範囲の図書館のことか、運営基準という言葉の運営とは何を指し、基準とは数値を指すのか考え方を指すのか、などと舌鋒するどく恒雄さんに迫りました。

 仕事を任せるときに細かいことを指示しないのが常だった有山局長はその場に出席しておらず、事務局から担当者として出ていた恒雄さんも、局長や清水委員長と事前の打合わせをしていなかったため、森委員の詰問に困惑します。

 会議終了後、有山局長に「ほんとに困りました」と報告しますと、「そんなことは、実際の図書館を見ればすぐに分かるよ」と一言で片づけられてしまいます。後年、恒雄さんは、初めに全体像を明確にしようとした森氏の問いかけはもっともだとしつつ、《現実を見ないで議論をしてもしようがない》という意味で、局長の判断が結果的に正しかった、と回想していました。

 

 1961(昭和36)年から委員会による地方図書館の実地調査が本格化します。まずわが国の中小公共図書館の実態を徹底的かつ多角的に捉えるために12の図書館が調査対象となり、それを補足するために、最終的には埼玉県下の14の図書館、および全国各地の45館の調査が追加されました。

 実地調査の原則は次のとおりでした。

 ①調査を行う人は、調査される図書館1館あたり中央委員1名、地方委員(実地調査委員)7名、前川恒雄。調査される図書館では、館長をはじめ主だった館員たちが協力。

 ②日程は3泊4日。

 ③調査対象となったのは、人口が5万人から20万人までの市にある全国各地の評判のよかった図書館。調査の最終年度には10館あまりの県立図書館をも確認調査。

 ④各館での調査内容は、管理、職員、資料費、資料の整理、利用者、サービス、施設など、図書館のほとんどあらゆる側面。

 ⑤調査する項目を中央と地方の委員、恒雄さんが分担し、毎日夕方から各自の報告をもとに議論。

 ⑥調査を終えた各図書館にかんする報告書を中央委員が執筆。

 

 では、調査と報告書作成にあたって、恒雄さんはどのような役割を果たしたのでしょうか。

 簡単に言えば、恒雄さんは、委員会の事務局担当者として裏方の仕事をすると同時に、《8人目の中央委員》の役割を果たしました。裏方の仕事とは、調査に向かう図書館やそこで協力してくれる地方委員との打合せと連絡、宿の手配、会計、事務的な記録などです。

 《8人目の中央委員》というのは、恒雄さんの言葉ではなく、インタビューで具体的な話を聞いた私の思いついた言葉に過ぎません。それは、次のような事実にもとづきます。

 ①同じ日に複数の図書館を調査するばあいを除き、恒雄さんはほとんどすべての調査に同行し、中央委員と同じ活動(調査、討論)をしました。その結果、どの中央委員よりもはるかに多くの図書館を実地調査した人となりました。

 ②『中小レポート』の原稿は7人の中央委員が分担で執筆しました。十分に話し合った上での執筆とはいえ、主張や表現に個性が出るのはやむを得ません。そこで、論理的な齟齬がないように、また、日図協の出版物とするには過激すぎると思われる部分などを(執筆者の了解をえて)書きあらためるなどして整えたのが、清水正三委員長と恒雄さんでした。中央委員でない恒雄さんがその仕事をできたのは、上記①の事情によると思われます。

 

 中央委員は全員が論客で、日本の図書館を何とか発展させようという使命感に燃えていました。したがって、中央委員の互選で委員長となった清水正三氏は、しばしば起こった意見の対立に際して、あいだを取るような疑似まとめをせず、とことん討論させました。

 たとえば、児童サービスを重視すべきか否かは激論を交わすにふさわしいテーマでしたけれど、委員たちが同じ用語を使いながら別の内容を考えているようなばあいもあって、そういうときには話がなかなかかみ合いませんでした。一例をあげれば《館外奉仕》という用語です。これには《資料の貸出》という意味と、読書会活動や移動図書館などの《図書館の外でのサービス》という意味とがあって、最初のうちはかなり時間を浪費してしまったのでした。

 

 そのような事情もあって、最初の会合で用語の定義にこだわった森博氏は、「こんなことで無駄な時間を過ごすのはごめんだ」と、1年間で辞任してしまいます。

 けれども、できあがった『中小レポート』を《金字塔》という言葉を使って評価したのが森氏なら、『中小レポート』の考え方を普及するための研究会に欠席したある地方委員(石塚栄二氏)を「『中小レポート』の普及に協力しなければだめじゃないか」と叱責したのも森氏、そして、『中小レポート』の「はしがき」に「種々ご指導下さった方」4人のひとりとして名前が挙げられたのも森氏でした。

 また、石塚氏は「初日から、分担した調査項目の報告会が夕食後に行われ,各委員の報告に具体的な調査漏れがないか、推定ではなく実際に確認したか、厳しくチェックされた。実態を正確に把握することの大切さを調査員に示し、図書館をめぐる地域状況も含めて捉えよう、という森博さんの姿勢に大変感銘を受けた」と語っています。(『図書館界』v. 69, no. 3, 2017.9)

 

 ついでに、委員会が徹底的に調べようとした実地調査でのエピソードをふたつご紹介します。

 ①ある図書館の貸出冊数の多くが移動図書館によるものとなっていたので、調査員たちが事実を確認するために「移動図書館に同行して実際を見せてほしい」と頼みましたけれど、館長が拒みつづけたために実行できませんでした。

 ②ある図書館の貸出冊数が平均より飛びぬけて多く、中央委員の石井敦氏(神奈川県立川崎図書館)が「どうもおかしい」と言い始め、恒雄さんとふたりで貸出票を数えてみましたところ、案の定、統計の数値と大きな差のあることが分かりました。これについての図書館側の説明は次のとおりでした。

 「貸出冊数は、ある日に貸し出した冊数ではなく、貸出状態にある冊数です。」

 だとすれば、ある人に2冊の本を1週間貸し出せば、2×7=14で、貸出冊数は2冊ではなく、14冊になるということです。

 

 日図協が本腰を入れて各地の図書館の実地調査をしただけでも、図書館界にそれなりの影響を及ぼしたはずですけれど、中小公共図書館運営基準委員会の目的は中小図書館の運営基準を示すことでした。そこで、実地調査と併行して、中央委員は運営基準づくりのためにくりかえし討議をします。東京や近県の安宿に泊り込んでの話合いは、実地調査のときと同じように、たいていは深夜に及びました。

 中央委員は1962(昭和37)年9月から報告原稿の分担執筆にとりかかります。

 おりしも、その年の8月下旬から約50日間、有山事務局長がヨーロッパへ出張し、デンマークとイギリスの図書館活動を視察しました。帰国して数日後、中央委員5人と恒雄さんが局長をかこんで両国の事情について質疑応答をします。デンマークとイギリスは図書館が市民に活用されている点で世界屈指でありましたから、その実状を知ることができたのは、原稿執筆中の委員にとってとても参考になり、大きな刺激にもなったのでした。

 執筆期間およそ7か月のあいだ、中央委員たちは原稿をもちよって2日、3日の合宿形式で議論をかさねます。いつも徹夜かそれに近い形になりますので、宿の仲居さんが「どうせ今日も徹夜になるんでしょ」といいながら、お茶をたっぷり用意してくれるかわり、夜具の用意をしてくれなくなったということです。

 

 『中小レポート』に盛り込まれた内容は、図書館界に大きな衝撃を与えました。当時の常識をくつがえすいくつもの提言が、《挑発》とも受け取れられかねないほどの自信に満ちた断言だったからです。いくつか例を挙げましょう。

 ①「資料提供という機能は、公共図書館にとって本質的、基本的、核心的なものであり、その他の図書館機能のいずれにも優先するものである」とし、《資料》には視聴覚資料を含み、《提供》には館内での閲覧と館外貸出を含むと説明しています。

 当時の図書館界では、《公共図書館は住民を教え導く機関である》という考えが根強く残っていて、多くの公共図書館が貧弱な蔵書と少ない職員体制で読書会運動や学習会などに力を注いでいました。それを否定する提言が、この《資料提供》だったのでした。

 ②大図書館と中小図書館との役割分担にかんしても、思い切った表現を使いました。すなわち、

「われわれは発足当初には予見もしなかった深い感慨を以て、つぎのことをはっきりと認識させられた。

 中小図書館こそ公共図書館の全てである。」

 「彼等{利用者}は実際に借{り}ることのできる一冊の本、生活上の疑問の解決にかけつけることのできる図書館さえ在れば、府県立図書館その他の大図書館については関知する必要はないと言ってよい。」

 では、『中小レポート』は、それまで中小図書館を指導する役割を担っていると考えられてきた府県立図書館の存在理由を、どのように捉え直したのでしょうか。

 ここでも、「大図書館は、中小図書館の後{ろ}楯として必要である」という見出しのもとに、「より大きな図書館は、それが利用者の近くに存在する中小図書館を、何らかの意味で援助し、後援してくれる確証があってこそ、その存在が公共図書館として是認される」としました。

 ③資料費については、人口50,000人の自治体の年間資料費は最低2,628,000円が必要だとして、次のように念を押します。

「これが最低限の額であることを、実地調査の結果確信をもつに至った。」「くり返して強調する、「この額は最低額である」と。」

 この数値は、机上の計算ではなく、国内図書館の綿密な調査、最新のイギリスなどの実態調査、委員による白熱した討論などによって導き出された結論ではありましたけれど、多くの図書館員の心を萎えさせ、反発を招きました。実態とかけ離れて高額だったからです。

 ④図書館の建物については、「土蔵づくりの頑丈な書庫と、環境のよい閲覧室が不可欠の要素と考えられてきた」けれど、「われわれは、本報告をまとめるにあたって、その考え方を根本的に否定した」と断言します。

 ではどうするかと言いますと、「館外奉仕を第一の課題とするために中小図書館の閲覧室は大きな書斎ではなく、短時間の調べ物をしたり、貸{⇒借}りていく図書の下調べをする部屋であると考えたい」と説明しています。

 

 『中小都市における公共図書館の運営』は、1963(昭和38)年3月に日本図書館協会から出版されました。

 日図協の機関誌である『図書館雑誌』はその年の6月号に、①有山事務局長が聞き手となって、3人の中央委員と恒雄さんが調査と報告書作成をめぐるざっくばらんに語る座談会、②恒雄さんによる『中小レポート』の内容解説、を掲載しました。その座談会の中で、清水委員長は『中小レポート』を「おおいにたたいてもらったらいい」と発言し、恒雄さんは解説の最後で、『中小レポート』が「あらゆる角度から批判され、討議されることによってより正しいより包括的なものになるであろう」と結んでいます。

 一般に、主張や立論が革新的であればあるほど、批判や反論の声が多く強くなります。革新的な主張は、伝統的な考え方を信じている人たちへの一種の異議申し立てだからです。委員たちの期待どおりと言うべきでしょうか、「読みながら体が震えた」ほど感動した人がいた一方で、『中小レポート』はさまざまに批判され、反論されます。それらの批判や反論には、報告書の革新的な主張を退けようとする例だけでなく、散見される大小の欠点に由来する例もありました。

 

 けれども、有山事務局長は、上にご紹介した座談会の終り近くで、次のように発言しています。

 「この報告書をテコにして図書館界の考え方が変わってくれればいいと思うんですけれども、それをどういうふうにして実現していくか……。」

 この発言に対して出席者はその場で誰も反応しませんでしたけれど、有山氏は次の一手に思いをはせていました。その思いは、数年後に日野市立図書館の誕生と躍進というかたちで現実のものとなり始めます。

 このようにして、全体として沈滞していた日本の公共図書館は、『中小レポート』が示した方向へ1960年代後半から急角度で転換し始め、地域住民に親しまれ、よく利用される図書館へと変貌していったのでした。この報告書が半世紀以上にわたって読み継がれてきた歴史的文書となったゆえんです。

 

 この委員会の活動には、次のような副次的な効用がありました。

 ①中央委員たちでさえ予想していなかった中小図書館の実態がつまびらかになり、その事実を図書館界が共有できたこと。

 ②調査にたずさわった中央と地方の委員たちにとって、よい勉強になったこと。

 とくに、中央委員と事務局担当の恒雄さんにとって、調査と討論、報告書作成などの一連の活動は、フィールドワーク、ゼミ形式の白熱討論、論文執筆を3年間にわたって共同で行なったようなものです。そこには指導教授役がいませんから、情熱と意気込みに溢れた選りすぐりの人たちが互いに鍛えあったということになるでしょう。

 中央委員の石井敦氏は先にご紹介した座談会で、「こんなにいい勉強になった仕事はない」という感想をもらし、恒雄さんは「日本の公共図書館の実態が肌で分かったこと、明確な意見の交換によって人を説得するすべを学んだこと、このふたつが、その後の私にとって財産になった」と話していました。