図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(2の3)イギリスでの研修

 日本図書館協会の有山事務局長は、1962(昭和37)年秋にヨーロッパへ出張した際、イギリスの図書館協会およびブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会)と交渉し、日本の若い図書館員を留学させることで大まかな合意をとりつけていました。これが具体化したのが翌63(昭和38)年の梅雨のころでした。

 研修に派遣するのは2名、期間は6か月、往復の旅費は日本図書館協会の負担、先方での滞在費はブリティッシュ・カウンシルの負担、研修生の指導はイギリスの図書館協会の責任、というありがたい条件です。

 派遣する若手の図書館員の人選が大急ぎで行われ、鈴木四郎氏(埼玉県立図書館)と恒雄さんとが選ばれました。鈴木氏は中小公共図書館運営基準委員会に2年目から加わった俊英で、県立図書館に勤務していた関係で、イギリスのカウンティの図書館を中心に学び、恒雄さんは人口3万人から5万人の小都市の図書館で研修することになります。日程と訪問先はあらかじめ英国図書館協会とブリティッシュ・カウンシルが決めておいてくれましたので、ふたりはその計画に従えばよいのでした。期間中、ふたりは同じランカシャー州内で別々に研修し、ときどき会って情報交換をする予定になっていました。

 

 恒雄さんは1963年10月から64年4月までの6か月間、イギリスで研修生活を送りました。出発に先立って『図書館雑誌』の編集委員長をしていた鈴木賢祐(すずき・まさち)氏がひとりで歓送会をしてくれたとき、中華料理店で受けた次のような忠告を恒雄さんは折に触れて思い出しました。

 「中国人は、伸びようとする人がいるとその人を押し上げ、その人とのつながりで自分も伸びようとするが、日本人は、伸びようとする人がいると足を引っぱろうとする。君は図書館界のリーダーになる人だと思う。十分注意するように。」

 温厚な鈴木氏のこのような言葉に恒雄さんは驚きましたけれど、その後、何度も氏の言葉の正しさを思い知らされたのでした。それにしても、鈴木氏も恒雄さんの資質を見抜いていたのですね。

 ちなみに、当時の鈴木氏は東洋大学で教鞭をとっていましたが、図書館関係の職歴が恒雄さんと同じようにとても多彩な人で、その中に上海や満州での図書館員生活が含まれています。

 

 イギリスでの研修生活の第一歩は、マンチェスター近くのスウィントン・アンド・ペンドルベリーという人口45,000人ほどの町でした。そこでの2週間の研修期間中、40がらみの独身者だった図書館長のジェラルド・コットン氏が、自宅の一室を恒雄さんに提供してくれました。

 氏は恒雄さんに、図書館内での仕事、移動図書館車への同乗、市議会、図書館委員会などあらゆる場面に立ち会わせてくれました。イギリスの図書館委員会は、数名の市議会議員によって構成される組織で、館長をはじめとする図書館職員の任免権をもっているほか、図書館の管理運営にかんして館長に協力します。

 また、コットン氏は、勤務時間外や休日に、コンサート、映画鑑賞、サッカー観戦、近隣の人たちのパーティへの出席など、地球の裏側からやってきた若者が少しでもイギリスの文化と言葉に慣れるよう取り計らってくれました。

 後年、恒雄さんは「私の研修留学に実りがあったとすれば、何よりもまずコットン氏のおかげだと思っている」と話していました。それは、異国の進んだやり方を必死に吸収しよとする恒雄さんの心構えが通じたのでしょうし、コットン氏にすれば、イギリスが初めて受け入れた日本人研修生の最初のホストとして、研修制度を成功裡にすすめるよういろいろと配慮したとも言えるでしょう。

 

 ◎次に向かったエクルズ市立図書館の館長ジョン・F・W・ブライアン氏も、恒雄さんの目を開いてくれたという意味で、忘れがたい人になりました。氏はとりわけ日本の図書館の状況を知りたがり、恒雄さんが持参した統計書『日本の図書館』の数字を示しながら説明しますと、その貧しさが信じられないというように頭を左右に振って、たずねました。

 「日本の図書館で、何か自慢できることはありませんか。」

 恒雄さんはかいつまんでPTA母親文庫の話をします。これは、日本の読書運動の中でも高い評価を得ていた活動で、PTAの会員を4人1組として、学校にある本を会員の親子でまわし読みするものです。

 氏は、非難するような口調で言いました。

 「イギリスでそんなことをすれば、母親は子どもが学校から持ってきた本を窓から放り投げるでしょう。」と。

 『中小レポート』は読書運動をかならずしも否定してはいませんでした。イギリスの小さな図書館で、湧き出てくるような利用者の群れを目撃し、ブライアン館長の読書運動を全否定する確信にみちた言葉を聞いて、恒雄さんは日本の図書館の真の姿を理解した気持ちになれたのでした。

 ブライアン氏は日本の図書館にいちばん興味をもってくれた館長で、帰国後のお礼状に対して心のこもった返事をくれ、以後、長く文通することになったということです。

 

 当時のイギリスの公共図書館が日本の公共図書館と大きく異なっていた点を、恒雄さんが帰国後に『図書館雑誌』(58巻~、1964年~)に発表した数回の報告文から読み取ってみますと、ほぼ次のようになるでしょう。

 ①イギリスの図書館界には、利用者が求める資料を徹底的に提供すべきだという共通認識があったと考えられます。さもなければ、以下に示すような事実の説明ができません。

 また、求められた資料を確実に提供するための方策を、広い視野で考えていました。それは、複数の館種がいくつもの分野で協力をしていることから見て取れます。

 ②イギリスではみごとな図書館間の協力体制が整えられていました。その支柱となっているのが全国に張り巡らせた地域図書館システム(Regional Library System)で、10地域(スコットランドを入れて11地域)ごとに公共・大学・専門図書館が参加して、資料の分担保存、総合目録の作成、図書の図書館間貸借を行なっていました。ただし、組織や協力のありかたには地区ごとに個性があって、一様ではなかったということです。

 ③図書館間の協力は資料面でも利用面でも行なわれていました。

 資料面では、各図書館が何らかの分野で収集と保存に責任をもち、大きな図書館は広い分野(たとえば東洋思想)を、小さな図書館は狭い分野(例えば馬)を、担当します。それぞれの館は蔵書を新鮮に保つために古い不要な資料をかかえこまずに廃棄しますけれど、その前にそれを必要としている図書館がないかを確かめる仕組みをつくっていました。方法は次のとおりです。

 ある館が不用図書の払出しをするばあい、(a)その目録カードの裏に「汚れている」「製本済み」などの状態を書きこみ、地域事務局に送る、(b)地域事務局は、該当する分野の収集保存館にそのカードを送る、(c)送られた館は、「必要」「不要」などをカードに書いて、払出しをする館に送る、(d)払出しをする館は該当本を必要とした館に送る。

 利用面では、協定を結んで近隣自治体の住民にも貸出を行なっているほか、図書館間の相互貸借も盛んです。

 ④以上の事柄を可能にしているのが、図書館への専門職(司書と司書館長)の配置だと思われます。イギリスでは図書館協会(Library Association)が司書の認定に責任をもっており、図書館が館長や主任司書を採用するときは、全国から公募するのが一般的でした。

 ⑤このようにして、住民(利用者)と図書館職員とのあいだには信頼関係ができています。なぜなら、図書館には専門職集団がいて、図書館界がこぞって利用者の資料・情報の要求に応えようとし、職員が歓迎の気持ちと姿勢で利用者に接し、貸出の手続きを簡略にし、利用者のプライバシーを守っているからです。

 

 帰国が近づいた1964(昭和39)年3月、恒雄さんは「英国でのお願い2つ」という文章を『図書館雑誌』に送ります。それが掲載された4月号によりますと、要旨は次のとおりです。

 ・渡英直前、ブリティッシュカウンシルは日本の図書館員を研修生として受け入れつづける用意があると聞いた。これは日本の図書館界にとって非常にありがたい提案である。

 ・渡英するまでの自分は、語学力、生活習慣の差、英国人の日本観など、いろいろ心配していたが、今では大きな問題ではなかったと感じている。

 ・読者のみなさんへのお願いの第1は、勤務する図書館の問題解決を真剣に追い求めている人こそ渡英してほしいこと。

 ・お願いの第2は、そのような意欲をもった若者の周囲にいる方々(とくに館長さん)は、その人を励まし助けてほしいこと。

 前川恒雄という人は、キャリアを通じて私利私欲なくアピールする《訴える人》でありつづけましたけれど、この「英国でのお願い2つ」はその例のひとつと言ってよいでしょう。

 

 恒雄さんの帰国から半年ほどたった1964(昭和39)年10月、有山局長がアメリ国務省の招待を受け、夫妻で同国の図書館を2か月にわたって視察しました。氏はこれによって、ヨーロッパの2か国(デンマークとイギリス)に加えてアメリカの図書館をみずからの眼で確かめたことになります。

 すでに『中小レポート』には、日本の公共図書館が惨状から抜け出す道筋が描かれていました。そこで有山氏は、《これが図書館だ》と言える図書館をどこかで始めてもらおうと考え、全国の自治体の市長、議員、教育委員に読んでもらうためのパンフレットを作ります。題して『市立図書館:その機能とあり方』(日本図書館協会、1965年9月)、30ページほどのものでした。イギリスと日本の図書館との大きな違いに気落ちしていた恒雄さんを奮い立たせる意味もあったのでしょうか、氏はこの小冊子の作成を恒雄さんに相談し、手伝わせます。

 挿絵入りの読みやすいものに仕上がったパンフレットを、まとめて大部数注文してくれる市もありましたけれど、積極的に動く市は期待に反して現れませんでした。

 『中小レポート』は多くの図書館員を勇気づけ、『市立図書館:その機能とあり方』は市長や議員、教育委員会の人たちに呼びかけました。それでもどこかが動き始める気配はありません。けれども、《使命感の人》有山局長は、恒雄さんの退職の申し出を思いとどまらせるときに「自分も考えるから」と言ったとおり、次の一手としてある企てを考えていたのでした。