図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

フランツ・グリルパルツァー(Grillparzer, Franz, 1791-1872)

 19世紀に活躍したオーストリアの劇作家フランツ・グリルパルツァーは、首都ウィーンで5人兄弟の長男として生まれました。弁護士だった父親は内向的な性格で、あまり人付き合いをせず、音楽が大好きだった母親は、幼いフランツにピアノ演奏の手ほどきをしました。

 彼は、小学校レベルまでおもに家庭教師に教えられ、以後は、エリートを養成するギムナジウム(中等学校)を経て、ウィーン大学で哲学と法律を学びました。その間、彼の関心は戯曲の執筆にもひろがり、10代のうちに2篇の喜劇を書いています。

ところが、大学在学中の1809年11月、フランツが18歳のときに、父ヴェンツェルが亡くなってしまいます。幸いにも、大学の恩師の口ききによって条件の良い家庭教師先にめぐまれ、彼は窮状をしのぐことができました。

 

 家庭教師をつづけながら、1813年3月、彼はウィーンの宮廷図書館に無給実習生として入ります。『グリルパルツァ自伝』によりますと、「どうやってこの両者{家庭教師と図書館実習生}のやりくりをしたのかわからない」(1)ということです。けれども、図書館での様子は少し詳しく書いています。

 「その間わたしは宮廷図書館において熱心だと言ってもよい程忙しく働いた。当時この役所では熱心などということはあまり見られなかった。ほとんどとても人が好い役人たちは兵器庫にいる負傷兵か乾草の傍らの犬のごとく振舞い、{略}図書館の体系的な仕事など話にもならなかった。

 だが、まさにこれがわたしの好みだったのだ。わたしは自分の興味を感ずるものを読み、また研究した。」

   「勉強の邪魔をされないために、わたしたちは図書館の写本の蒐集室に行き、さまざまな便宜に囲まれて、ギリシアの作家のものを読んだ。しばらくの間こんな状態が続いたが、遂にこの図書館の司書長がこの蒐集室へ入るのを禁止してしまった。」

 初めのうちは「熱心だと言ってもよい程忙しく働いた」けれど、内情が分かってくると、不熱心な人たちと同じように振る舞ったということでしょう。

 結局、フランツ・グリルパルツァーは、1813年の3月中旬から12月中旬までの9か月間、宮廷図書館の実習生として働き、同僚とふたりでギリシア語などの勉強をしたことになります。転職のきっかけは、彼の父を尊敬していたヘルベルシュタインという伯爵が「財務の方に入りたいなら、収入の点の心配はわたしが責任を負いましょう」と勧めてくれたことでした。

 

 役所勤めによって安定した収入を得るようになったフランツは、発表する戯曲の評判がよく、20代中ごろから一気に文名が高まります。たとえば、

 1817年 『祖先の女』=初めて彼を有名にした作品の初演。

   1818年 『サッフォー』=観客の熱狂的な歓迎、数か国語への翻訳。

     また、宮廷劇場付きの作者に任命される。

 1821年 『金羊皮』=劇評家の評価が高かった作品。

 これらの作品はすべて日本でも翻訳・刊行されています。

 

 一方、フランツが28歳になった1819年1月、母親アンナが亡くなります。彼の『自伝』によりますと、病気がちだった母の症状が悪化し、周期的に精神錯乱を起こすようになってきたある日の明け方、母の面倒を見ていた下女が、ベッドに入ろうとしない母を何とかしてほしいと、フランツを起こしに来ました。行ってみますと、下女のもつ灯りに浮かんだ母は壁にもたれて立っており、呼びかけても返事をしません。抱きかかえてベッドへ連れ戻そうとした息子は、母が息をしていないことに気づいたのでした。

 これが『自伝』に書かれている顛末のあらましですけれど、訳者の注によりますと、「母親の死亡検案書には縊死となっていた」ということです。ほかの情報源でも、この件は「自殺」となっています。グリルパルツァーは母の死因を意図的に隠したのでしょうか。彼の名誉のためにつけ加えますと、次のような事実があります。

 1.彼はウィーン科学アカデミーの度重なる要請によって、自伝を書き始めた。

 2.家族、恋人、友人、同僚などにかんする言及が、皆無に近いほど少ない。

 3.これは1836年(45歳)までの前半生の記録で、その後を書き継いでいない。

 4.記録として大切な年・月をていねいに確認していない部分が多い。

 5.1853年に書かれた自伝原稿は、1872年の没後、遺稿の中から見つかった。

 だとすれば、彼は自伝を世に出すつもりがなかった、少なくとも発見された状態で原稿を人目にさらすつもりはなかった、ということになります。

 

 さて、順調に作品を発表して文名の高まったグリルパルツァーでも、オーストリアの検閲には気を使わざるを得ませんでした。彼が1826年に書いた戯曲『主人の忠実なる下僕』は1829年に初演され、観客の評判は上々でした。ところが、皇帝フランツ1世は、高名な著者と正面衝突することを回避する意図だったのでしょう、上演・印刷を禁止する目的を隠しながら、この作品の買い上げを求めました。皇帝の代理として交渉にあたった警視総監の言い草は次のとおりです。

 「あなたにもとの原稿を譲っていただき、劇場からは台本と詳しい目録が召し上げられ、これらはすべて陛下の個人図書館に収められることになります。この芝居が大変お気に召したので、お一人でこれに関するものを皆お持ちになりたいとおっしゃるのです。あなたには、ほかの劇場で上演したり、また印刷に付したりすることから生ずる筈の利益は全部補償されるでしょう。」

 これに対して、グリルパルツァーは、すでに劇場関係者が原稿を何度も書き写していて、写しはひそかに売られている、などと言って難を逃れ、印刷の許可をもらうことができたのでした。

 

 最後に、グリルパルツァーが知遇を得たベートーベンおよびゲーテとの、楽しい出会いと悲しい別れをご紹介します。

 

 楽聖と呼ばれるベートーベンは、グリルパルツァーより20歳ほど年長でした。

 1823年のある日、グリルパルツァーは、オペラの台本を書いてもらいたいというベートーベンの依頼を、人を介して受け取ります。それまでオペラの台本を書いたことのなかったグリルパルツァーは、依頼に応えるか悩んだ末、内容についてベートーベンと打合せをせずに『メルジーナ』と題する台本を届けました。

 その後、ふたりが顔を合わせたとき、ベートーベンはオペラが出来上がっていると(筆談で)言いましたけれど、その楽譜は死後にも見つかりませんでした。(2)

 4年後の1827年3月、ベートーベンがウィーンで亡くなったとき、求められて弔辞を書いたのは、上のようないきさつがあったグリルパルツァーでした。

 

 1826年の8月下旬から10月初めまで、グリルパルツァーはドイツへ旅行しました。その旅の一番の楽しみは、40歳ほど年長のゲーテに会うことでした。5日間のワイマール滞在中に、彼はゲーテに4度会っています。2度目は昼食に招かれての訪問でした。『自伝』によりますと、

 「わたしの心の奥底が感動し始めた。そして、食事となり、わたしにとってはドイツ文学の化身であり、はかり知れないほど遠く離れたところにいるほとんど神秘的な存在になっていたこの人が、手を取って食堂に案内してくれたときには、突然、子供の時代に戻ったような気持になって、涙がどっと溢れてきた。」

 ゲーテは、グリルパルツァーの帰りぎわに翌日の訪問を促します。気に入った人物の肖像画を専属の絵師にコンテで描かせていたゲーテは、グリルパルツァーをその仲間に入れようとしたのでした。この3度目の訪問の際に描かれた絵は、ゲーテもグリルパルツァーも満足できるものでした。

 宿に戻った彼は、宰相ミュラーから、その日のうちにもう一度ゲーテを訪ねるよう勧められます。けれども彼は、「一晩ずっとゲーテと二人だけでいることに畏怖を感じて、さんざんためらった末、行くのを止めてしまった」のでした。気おくれしたのですね。

 

 グリルパルツァーの後半生は、1832年から1856年まで宮廷の公文書室長を務め、結婚はしませんでしたけれど、年金を受けながら、かつて婚約を解消したことのあるカタリーナ・フレーリヒという女性と、同じ家で長く暮らしました。

 

参照文献

(1)フランツ・グリルパルツァ著、佐藤自郎訳『グリルパルツァ自伝』(名古屋大学出版会、1991年)

(2)松村國隆「グリルパルツァーの 「リブレット」 をめぐって」(『人文研究:大阪市立大学文学部紀要』第15巻第3分冊、1991年)