図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館を創った人たち(2‐1)

 前回は「自らが中心となって図書館を創った人たち」でした。今回は「多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち」です。このばあいもいろいろなケースがありますので、特徴的な例によって動機を考えてみたいと思います。

 

2多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち

 最初は、ニューヨーク公共図書館の基となるアスター図書館を創ったジョン・ジェイコブ・アスター1763-1848)です。

 彼は、ドイツのハイデルベルクに近い村で生まれました。16歳になるまで彼は肉屋をしていた父の店で働き、ついでロンドンにいた兄と合流し、叔父の工場で4年間雇われていました。20歳を目前にした1783年、アメリカへ渡ります。

 その航海中に知り合った毛皮商に勧められて、アスターはニューヨークで毛皮ビジネスを始めます。インディアンから直接毛皮を買い、それを自ら売ることで、ロンドンその他で大きな利益を得たのです。その商売を勧めてくれた船上の人よりも意欲と商才があったのでしょうか、彼の交易はヨーロッパだけでなく、中国やインドにも及び、結果、莫大な財産を築きます。その準備として、1811年、彼は、アストリアと名づけた貿易の中継基地を太平洋岸のコロンビア川河口に設けていました。

 その後、アスターは毛皮貿易から手を引き、ニューヨークのマンハッタンの不動産投資に財力を注ぎ、この事業でも成功しました。「毛皮王」転じて、「不動産王」の誕生です。

 さて、莫大な財を成したアスターは、1833年、公共のために役立てたいと考えていた数十万ドルの具体的な使途について、親しくしていた20歳あまり年下のジョゼフ・グリーン・コグスウェルという人物に相談しました。彼は教育者、書誌学者で、ハーヴァード大学で図書館員を経験していて、アスターに図書館の設立を強く勧め、アスターはこの勧告を受け容れ、計画の具体化がすすめられます。

 この企ての相談に、もうひとり有名な人が加わります。『リップ・ヴァン・ウィンクル』や『スリーピー・ホローの伝説』、短篇集『スケッチ・ブック』などが日本でも翻訳出版されている作家のワシントン・アーヴィングです。彼はアスターから深く信頼されていて、貿易の中継基地アストリア実現までの困難な道のりを本にしてほしいと、翌1934年から1年をかけて懇願されたのでした。その本『アストリア』2巻は1936年に出版されています。(1

 結局、図書館を建設するとアスターが公表したのは1838年、図書館の建物が完成したのは1853年、一般に公開されたのは1854年、ただし貸出をしない図書館でした。ということは、資金を出したアスターは、図書館の完成とオープンを見ることなく亡くなったということになります。

 このアスター図書館は、1895年、レノックス図書館と合併されて(建物は別ですけれど)ニューヨーク公共図書館となりました。レノックス図書館も、富豪の息子だったジェームズ・レノックスが建てたものでした。

 ジョン・ジェイコブ・アスターのばあい、親しい人に勧められて公共のために図書館を創ったことになります。

 

 次は、鉄鋼王と言われたアメリカの富豪、アンドリュー・カーネギー18351919です。

 彼はスコットランドのダンファームリンという町で生まれました。そこは麻織物で栄えた町で、住民の大部分が織物業を営んでいて、アンドリューの父親も織物業でした。ところが、彼が物心つくころには機械織機が手織り機を駆逐し始め、家業がかたむいていきます。そこで、勉強が嫌いではなかったのに、彼は親に遠慮して8歳になるまで学校に行きませんでした。

 面白いことに、アンドリューの父ウィリアム・カーネギーは、本を買うためのお金を共同で出資するようダンファームリンの職工仲間たちを説得し、そのようにして集まった蔵書がその町で最初の貸出図書館になったということです。ベンジャミン・フランクリンよりは少し遅れましたけれど、スコットランドにも同じ発想をした人がいたのですね。(2

 貧しさに追い詰められたカーネギー家(43歳の父ウィリアム、34歳の母マーガレット、13歳のアンドリュー、5歳の弟トム)は、1848年、アメリカへ渡ります。落ちついたのはピッツバーグにほど近いアレゲニー市。そこには母方の親戚がいましたけれど、父の稼ぎだけで一家が暮らしてはいけません。母は内職をし、アンドリューも週給1ドル20セントで働き始めます。仕事は夜明け前から日の暮れるまで、生活は苦しく、アンドリューは一冬、夜学に通っただけで、学業はおしまいとなりました。

 「自分で勉強して教養を積むなどという時間はほとんどないし、また家族が貧しかったから本を買うお金もなかった」ところへ、「天からの恵みが私の上に下されて、文学の宝庫が私のために開かれた」のでした。(3

天の恵みをもたらした奇特な人は、アレゲニーに住むアンダーソン大佐で、町で働いている「青年は誰でも、土曜日に一冊借り出し、つぎの土曜日に他の本と交換して持ち帰ることができる」という夢のような話です。その個人蔵書は400冊あったということです。

アンドリュー・カーネギーは、その自伝に次のように書きます。

「自分の若いころの経験に照{ら}して、私は、能力があり、それを伸ばそうとする野心をもった少年少女のためにお金でできる最もよいことは、一つのコミュニティに公共図書館を創設し、それを公共のものとして盛り立ててゆくことであると確信するようになった。」3

 彼は、あるエッセイの中で「慈善活動に最適の分野」を7つリストアップして、①大学、②図書館、③医療センター、④公園……などとしています。また、死後に見つかったカーネギーのメモによりますと、1868年、33歳のときすでに、彼は収入の余剰分を他人のために役立てようと計画していました。そして、計画は(少なくとも図書館にかんする限り)見事に実行に移されまました。

 彼が個人として、また、死ぬまでトップであり続けたカーネギー財団として、図書館にかんして行った寄付は、英語圏の国々(アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなど)の図書館の建築費です。「建築費」といいますのは、寄付を受けるコミュニティが土地と図書館の運営費を用意すれば、建物の費用を出すという条件だったからです。

その数、何と2,509館。うち、アメリカ合衆国では1,679公共図書館です。(4

以上、カーネギーの幅広い慈善活動のうち、ここでは図書館建設のための寄付についてのみご紹介しました。その動機としては、次のようなことが考えられるでしょう。

父親が貸出図書館を発案して仲間と協力して実現したのを誇らしく思ったこと、アンダーソン大佐の寛大な個人蔵書開放を心の底から有難く感じたこと、能力とやる気のある子どもには図書館が最適かつ必要だと確信したこと、などです。

 

参考:

1)齋藤昇『ワシントン・アーヴィングとその時代』(本の友社、2005年)

2World Encyclopedia of Library & Information Science. 3rd ed. (Chicago, American Library Association, 1993)

3アンドリュー・カーネギー著、坂西志保訳『カーネギー自伝』(中央公論新社2002年)

4Andrew Carnegie’s StoryCarnegie Corporation of New Yorkのウェブサイト20190301