ドイツの作家ゲーテは、詩、劇曲、小説、評論、紀行、従軍記、自叙伝など、文学の幅広い分野で一級品の著作を書きました。また、植物学、地質学、光学その他、自然科学をも幅広く研究し、論文を発表しています。
それら学術面の多岐にわたる活動の一方で、彼は二十代の半ば以降、初めはほぼ休むことなく、のちには短期・長期の休暇をはさみつつ、行政官として自国に貢献しつづけました。
日本にはゲーテより1世紀ほど前に活躍した新井白石という人がいますが、このふたりにはいくつかの共通点があります。幼少から才知に長けていたこと、幅広い分野におびただしい著作があること、国の元首に信頼されて重用されたこと、自叙伝を書いたこと、などです。
ゲーテのばあい、彼を信頼した元首は、ザクセン・ワイマール・アイゼナハ公国のカール・アウグスト公爵でした。この公国は、小国の集合体である「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の中にあって、面積が大阪府とほぼ同じ、人口が11万人足らず、文字どおりの小国でした。江戸幕府の藩のようなものだと思えば分かりやすいかもしれません。
ゲーテは弁護士をするかたわら、戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年に自費出版)を書き、1774年に出版した小説『若きウェルテルの悩み』によって一躍ヨーロッパ中で有名になりました。
1775年、まだ18歳だったカール・アウグスト公は、フランクフルトをおもな拠点として文名の高まっていた26歳のゲーテをワイマールに招きます。その後の約10年間、ふたりは公私にわたる接触によって強いきずなで結ばれてゆきました。ゲーテは若い公爵に対して兄のように接する一方、公爵は早くからゲーテに重要な地位を与え、ゲーテはその負託に全身全霊をもって応えたからでした。
1779年9月、ゲーテは大臣に相当する枢密顧問官に任命されます。彼の行政官としての特徴のひとつは、鉱山経営、軍事、道路工事、財政、外交など、ここでも幅広い分野を引き受けたことです。もっとも、枢密顧問官は数名しかいませんでしたから、複数分野の担当は無理からぬことではありました。
もうひとつの特徴は、高い地位にあるにもかかわらず、大きな机を前にして椅子にふんぞり返っているのではなく、しばしば現場へ足を運んで指揮・監督を行ったことです。
1815年、ナポレオン戦争の戦後処理を決めたウィーン会議によって、ザクセン・ワイマール公国は大公国になりました。これを機に枢密院は内閣に改められ、ゲーテは長年の功績によって筆頭大臣に任命されましたが、自ら望んで「ワイマール・イェナ学問芸術直轄施設監督庁」を担当することになり、それ以降、死ぬまでその職にとどまりました。
元ドイツ国立図書館長だったゴットフリート・ロストによりますと、ゲーテと図書館とのかかわりは、次のようなものでした。
カール・アウグスト公は1797年末、ふたりの枢密顧問官ゲーテとフォークトに公共図書館の指揮監督をまかせるようになります。1819年には、イェナ大学図書館も国務大臣となっていたこの両名にまかせられました。
「ゲーテは件名目録の考えを力説したばかりでなく、目録にするにはどんな紙を、どんなふうに切り揃え、どんなふうに罫線を入れて使用したらいいか、そんなことまで取り決めた。かれは読者にたいしても秩序感覚と徹底性を示した。土地の人の利用を規制し、他所の人の貸出し申し込みには鷹揚であった。そして期限どおりに返却することをやかましくいった。督促は大公にも宮廷人にも、そして五〇〇冊の本を「一〇年間自宅で利用した」ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダーにたいしてもなされた。」(1)
また、国立国会図書館員を経て作家となった渋川驍も、ゲーテの現場への強いこだわりについて書いています。
「ゲーテの両図書館{ワイマール図書館とイェナ大学図書館}の監督は、ただ時々の報告を聞くといったようないい加減のものではなく、両図書館の事実上の館長ともいえるような、こまかい注意をもって行われていた。彼はどちらの図書館にも日誌をつけさせ、それを定期的に提出させたのである。この日記には毎日の天気、訪問客のことはもちろんのこと、その日に到着した図書やその他の品物、また日々進捗した業務の模様を記載しなければならなかった。」(2)
ゲーテは、経験と年齢を重ねた後半生においても、図書館や劇場とのかかわりに際して、若い日と同じ生真面目さと責任感に満ちた生きざまを貫いたのでした。
参照文献
アルベルト・ビルショフスキ著、高橋義孝・佐藤正樹訳『ゲーテ:その生涯と作品』(岩波書店、1996年)
カール・オットー・コンラーディ著、三木正之ほか訳『ゲーテ:生活と作品』上・下(南窓社、2012年)
(1)ゴットフリート・ロスト著、石丸昭二訳『司書:宝番か餌番か』(白水社、2005年)
(2)渋川驍『書庫のキャレル』(制作同人社、1997年)