図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

マルセル・プルースト(Proust, Marcel, 1871-1922)

 20世紀のフランスで最高の小説家といわれるマルセル・プルーストは、1871年にパリ郊外のオートゥイユにて生まれました。父親は優れた医師で、医学アカデミーの会員、衛生局総監、パリ大学医学部教授などを歴任した人でした。

 家族の愛情をうけて幸せな幼年時代を過ごしていたマルセルは、10歳になったある春の日、とつぜん喘息の発作におそわれます。これが宿病となり、死ぬまで彼を苦しめました。ために、中学生の時には学校の欠席日数が多くなったり、留年したりせざるをえませんでしたが、成績は優秀でした。

 

 早くから文学に関心をもち、高校生になるころには級友と同人雑誌を創ってそこへ文章を発表するようになります。パリ大学法学部と政治学院に進学してからも、彼は仲間とべつの同人雑誌を創り、創作や書評を書いていました。文学への思いが断ち切れなかったのですね。

文学志向のマルセルが法学や政治学を学んだのは、名士であった父との妥協の結果でした。父親は長男であるマルセルが自分と同じく上級官僚になることを期待し、そのキャリアにふさわしい素養を身に着けるよう、息子に強く勧めたのでした。

 

 学業を終えたマルセルは、1895年、父の望みと作家活動をしたいという自分の望みに、うまく折り合いをつけます。それがフランスの国立図書館であったマザリーヌ図書館への就職でした。就職と言いましても、ポストは無給の助手、勤務はアルバイト並み、長期の休暇願はいつも許可という、ほとんど実態のないものでした。

 「一日の勤務時間は五時間であり、出勤日は最低週に二日、最高五日ということになっていた。プルーストは、三つの空席をうめるための面接試験を{1895年の}五月二十八日に受け、六月二十九日、三番の成績で、つまりビリでえらばれた。それから四カ月ほどは、ときどき気がむけば、あるいは身体の工合がよくてそうできる状態であれば、そしてまた彼が休暇をとっていなければ(それは実際のところまれだった)、彼は図書館に顔を出して、忙しくはあるが親切な同僚たちとお喋りしたり、枢機卿{訳注:マザランのこと。この図書館はもともとマザランの個人的蔵書から出発したもの}の本をぱらぱらめくってみたりするのだった。」(1)

 

 「一種の遠慮から、彼は自分の研究のためにマザリーヌ図書館を使うことさえ差し控えていたのであった。つまりパリの図書館でその閲覧室に彼が一歩も足を踏み入れなかった唯一の図書館は、まさしく彼が職員として在籍していたそれなのであった。毎年十二月になると彼は馬鹿げた形式的な届を書くために図書館に足を運ぶのだったが、その理由といえば、{父親である}プルースト博士が、自分の長男は曲りなりにも職についていると信じこめるようにということだけなのであった。一八九九年になってマザリーヌ図書館の監査がおこなわれた。三人の無給館員のひとりが、何年もまえからただの一度も出勤していないというのはいかにも奇妙なことに思われた。そして一九〇〇年二月十四日、マルセルはただちに復職せよという命令を受けとった。彼はその命令に服さなかった。三月一日、彼は辞職したものと見なされ、こうして彼の図書館員としての幻の経歴は終りを告げた。」(1)

 

 このように、マルセル・プルーストのほとんど名目だけの図書館員生活は、1895年8月から1900年2月末までの4年半でした。でも、その間に彼はたゆまずに執筆活動をつづけ、1896年に短篇小説や詩を収めた『楽しみと日々』を発表して、作家として認められる足掛かりをつかんだのでした。

 プルーストがジェームズ・ジョイスフランツ・カフカと肩を並べて20世紀最大の作家と称されるのは、まずもって大作『失われた時を求めて』によります。

 

参考文献:

(1)ジョージ・D・ペインター著、岩崎努訳『マルセル・プルースト:伝記 上』(筑摩書房、新装版、1978年)

(2)ミシェル・エルマン著、吉田城訳『評伝マルセル・プルースト』(青山社、1999年)