イスラエルの第5代首相ゴルダ・メイアは、ロシア帝国(帝政ロシア)の生れです。生地はウクライナのキエフ、生年は1898年、出自はユダヤ人でした。これらの条件が彼女の人生に大きな影響を与えます。
と言いますのは、ロシアではポグロムというユダヤ人への襲撃・虐待が19世紀後半からくりかえされ、ゴルダがまだ幼い1905年前後に、ウクライナのユダヤ人がたびたびポグロムの被害に遭ったからです。ために、他の多くのユダヤ人と同じように、ゴルダの一家もアメリカへ移住しました。初めに父親がウィスコンシン州のミルウォーキーへわたって生活の基盤を確かなものにし、3年後に母と娘3人がそこへ合流します。1906年、ゴルダが8歳の時でした。
一家が住み着いたミルウォーキーには、当時、ドイツや東ヨーロッパからの移民が多く住んでいました。父の経営する食料品店は繁盛して生活が安定し、偏見や襲撃から解放されたゴルダは、すぐ新しい土地になじみ、順調に成長してゆきました。
高等学校に入学するころに教師になりたいという考えをもっていた彼女が卒業後に進んだのはミルウォーキー師範学校でした。この学校はのちにウィスコンシン・ミルウォーキー大学となります。
彼女は高校在学中から、ユダヤ人の国家をパレスチナに建設しようとするシオニズム運動に強い関心をもち、師範学校在学中からその組織活動(講演、集会の準備、基金の募集など)に取り組みました。20歳になっていない人が講演をするのはやや驚きですけれど、彼女は小学生のころから人前でスピーチをする自分の才能に気づいており、またシオニズムについてよく学んでもいたのです。
1917年2月、ゴルダはミルウォーキー公共図書館の面接を受け、3月からそこで働き始めますが、わずか6か月間仕事をしただけで退職し、シカゴへ移ります。ところがシカゴ公共図書館をたった6週間で退職し、ミルウォーキー公共図書館に復帰しました。そこを1918年3月に退職しますと、以後、彼女が図書館で働くことはありませんでした。合わせて1年間ほどの図書館員生活となります。
その間、高校生のときに出合ったモリス・マイヤーソンという青年から、ゴルダは結婚したいと迫られつづけていました。シカゴから戻った1917年12月、ゴルダはミルウォーキーでモリス青年と結婚します。ふたりの間には、お金を貯めてパレスチナへ行き、現地でシオニズム活動をする約束ができていました。それが実現したのはゴルダが若干20歳、1921年3月のことでした。
パレスチナでのゴルダ・マイヤーソンは、約3年間のキブツ生活を経験します。キブツとは、イスラエル独特の農業共同体のことで、そこでは100人前後から1000人をこえる人びとがひとつの単位となってキブツを構成し、彼らは財産を共有し、農業を中心に平等に働き、育児を共同で行うなど、他に類を見ない暮らしをしていました。このキブツは(当初とはかなり性格を変えながら)現在も存在し続けています。
政治的な経験を積んだゴルダは、1948年5月にイスラエルが建国宣言を発表するときには、宣言の署名者のひとりに選ばれるほど、周囲の信頼を得ていました。さらに、新国家の誕生後、1948年に初代のソ連駐在大使、1949年に国会議員と労働大臣、1956年に外務大臣、1963年に首相というふうに年を経るごとに重要なポストを任されるようになったのでした。
イスラエルは、建国いらい、周囲のアラブ諸国と4度の大規模な武力衝突をしました。中東戦争とかアラブ・イスラエル紛争とか言われているこの武力衝突のうち、第2次から第4次まで、ゴルダ・メイアは外務大臣や首相としてかかわり、たびたびアメリカに支援を要請せざるをえませんでした。最後の大規模な武力衝突となった第4次では、勝利を得たものの、緒戦に喫した敗北の責任を取らされる形で、1974年に首相を辞任したのでした。
若いころからとても意志の強かったゴルダ・メイアという人は、長じてからも信念の人、鉄の宰相でありつづけたのだと思います。
参照:
(1)ゴルダ・メイア著、林弘子訳『ゴルダ・メイア回想録:運命への挑戦』(評論社、1980年)
(2)Goldie Mabowehz (Golda Meir), from the Milwaukee Public Library to Prime Minister of Israel / by MPL staff on Mar 15, 2017 (Milwaukee Public Libraryのウェブサイト20190214)