図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の2の1)日野市立図書館の躍進

 日野市立図書館は、1965(昭和40)年9月21日、移動図書館ひまわり号で貸出サービスを始めました。図書館と称する建物がなく、事務所(市役所の七生支所2階)と移動図書館車に蔵書が合わせて約3,000冊、職員は6人、サービスは本の貸出だけ、というささやかな出発でした。

 『中小レポート』の責任者だった清水正三氏は、日野市立図書館の開館式で、日本図書館協会を代表して述べた祝辞のなかで、「日野が日本の図書館の歴史を変えるだろう」と期待をこめて予想しました。けれど、後年、「本気で言ったのだが、100%の自信があってのことではなく、20%くらいの不安があった」と書いています(『図書館雑誌』v. 79, no. 6, 1985.6)。

 館長の恒雄さんは、開館2年後に『図書館雑誌』が日野市立図書館のはなばなしい登場を紹介した「これが公共図書館だ」という特集の座談会の席上、本の貸出だけという出発の仕方を「いざとなると理屈でわかっていてもこわかったですね」と言っています(『図書館雑誌』v. 61, no. 10, 1967.10)。

 

 恒雄さんは、転職のために日野市へ行く前に、日図協の有山事務局長から《傾斜経営》とか《重点経営》という考え方を教えられていました。これを日野市立図書館の運営にあてはめますと、最初は、図書館の最も基本的なサービスである個人への本の貸出に徹底的にこだわり、その実績を突破口にしてサービスの間口をひろげつつ、分館や中央館の設置へ結びつける、ということになります。なぜ貸出にこだわったかと言えば、『中小レポート』が「資料提供という機能は、公共図書館にとって本質的、基本的、核心的なものであり、その他の図書館機能のいずれにも優先するものである」という表現で、貸出を大きな柱のひとつと位置づけていたからでした。

 そのため、誕生したばかりの図書館は、①高額の図書費を確保し、②要望のあった場所へはできるかぎりサービスポイントを設け、③本を借りやすくするためのノウハウを注ぎこみました。かわりに断念せざるを得なかったのが、本を読んだり調べものをしたりする場所、利用者用の目録、調べものの相談に応じるレファレンスサービスなど、当時も今も図書館に不可欠とされる要素でした。

 このようなやり方は図書館先進国にも(たぶん)例がなく、『中小レポート』にも触れられていませんでした。というわけで、清水氏や前川館長がかかえていた一抹の不安は、若い館員たちの気勢をそがないために、それぞれの胸の奥に隠されていたのでした。

 

 幸いにも、移動図書館が37か所のサービスポイント(駐車場)を2巡、3巡するうちに、利用者と本の貸出は予想をはるかに上回って伸びてゆきました。物陰から様子をうかがっていた人も、本の貸出が無料だと知らなかった人も、移動図書館車に集まっている人を見て何だろうと思った人も、少しずつ本を借りるようになっていったからです。

 開館から2年半後に出た『業務報告 昭和40・41年度』(日野市立図書館、1967.3、非売品)には、「利用者はいた。駐車場はまたたく間に50カ所を数えるにいたった。利用者増加のテンポは、われわれの資料整理能力をこえんばかりで、当時の資料不足、人手不足がどうしてのりきれたのか、いま考えると不思議な気がする。たった6人(男3・女3)の職員で、翌日貸し出す資料を連日夜業で装備するなど、まさに自転車操業の時代だった」とあります。恒雄さんがイギリスの小さな町で目撃して衝撃をうけた「湧き出るような図書館利用者の群」は、日本の小都市、日野の移動図書館によっても短期間のうちに出現したのでした。

 

 就任間もない有山市長は図書館の自転車操業を放置しませんでした。車の運行開始から1か月あまり経った11月1日には、早くも職員1名が増員され、翌年4月に2名の増員、その後も7月、8月、10月に各1名が増員され、開館から1年で職員は6名から12名に倍増となりました。このような思い切った措置も、前代未聞ではないでしょうか。

 この件について、先にご紹介した座談会に出席していた有山氏は、次のように話しています。

 「僕は市長として、図書館に過重労働を強いてはいけないから、行政的な措置として、それに対応するような態勢をとっていく、これが僕の仕事ですよ。だから僕は市民サービスに必要ならどんどんひろげてください、もしサービスするために人が必要ならまわします。それだけサービスしていればね。ある課の人は変に思う人もありますよ。図書館だけがひろがっているとかね。だけど事実上市民が満足しているとか、そういう事実があるから強いですよ。そういう点で僕は人員増というようなことはあまり気にしないんです。ただあまり図書館の人員増をして図書館が市役所の機構の中で不利になることがありますので、これはできるだけ避けるようにしなければならないわけです。」

 

 1年間で増えた6人の職員の中に、矢野有(やの・たもつ)氏がいました。12人目の職員となった人で、今治市立図書館で児童サービスを担当していたところ、恒雄さんの誘いに応じて日野市へ移って来たのでした。のちに関千枝子氏のインタビューに答えて、矢野氏は次のように話しました(『図書館の誕生:ドキュメント・日野市立図書館の20年』日本図書館協会、1986年)。

 「日野でうれしかったのは、全員が仕事が大好きだったことですよ。みな、夢中で、意欲があって…。そして一騎当千の常識人ばかりだった。司書だけじゃないですよ。尚{たかし}君、植田君、みんなすごくよくやった。庶務の田窪さん。この人が事務能力がありましてね。」

 「とにかく、日本の図書館界を変えよう、と思っていた。熱気にみちていた。みなが思うことをやって、それで和がとれていました。全員が信頼しあっていた…。」

 ちなみに、日野市立図書館の誕生から20年後までを扱ったこの『図書館の誕生』は、多くの関係者にインタビューをして読みやすくまとめられた「日野のなしとげた壮大なロマン」(同書の「あとがき」)のルポルタージュです。

 

 では、具体的な利用状況はどうだったのでしょうか。

 まずサービスポイントについて、見てみましょう。基本方針は、市民が来てほしいと声をあげたところにサービスポイントを置き、求められないところへは行かない、というものでした。実際には、来てほしいという自治会や町内会が相次いだため、次のように増えてゆきました。

 1966(昭和41)年1月、サービスポイントは47に。

 1966(昭和41)年9月(開館1年後)、サービスポイントは55に。移動図書館車を2台に。

 1967(昭和42)年1月、サービスポイントは60に。

 次に登録者数と登録率、貸出冊数を、ふたたび『業務報告 昭和40・41年度』によって見てみますと、

 登録者(昭和42年2月25日現在)は、9,674名(成人6,036名、児童3,638名)。

 登録率(昭和42年2月1日現在の人口75,884名)は、12.6%。

 個人の貸出冊数(昭和41年4月~42年2月の11か月間で)は、201,619冊

 この貸出冊数20万冊あまりという数値(しかも11か月分)は、6大都市を含む全公共図書館のどことくらべても多くて日本一、登録率12.6%も日本一、住民1人当りの年間貸出冊数も日本一で、少なくとも貸出にかんする限り、図書館関係者がびっくり仰天する実績をあげたのでした。

 移動図書館を利用する人の多くは、主婦と子どもでした。主婦は小説と育児書などの実用書を借りることが多かったということです。

 

 以上が、日野市立図書館のスタートダッシュの結果でした。陸上の100メートル競走で、無名の選手がいきなり日本新記録を出したような感じでしょうか。けれども、同館は毎年のように記録を塗り替えて成長してゆきます。

 そして、当初の構想どおり、図書館は分館をつぎつぎに設置し(ただし、初めは分室ほどの狭い併設館)、評判のよい中央館を建て、第2代砂川雄一(すなかわ・ゆういち)館長時代の1980(昭和55)年には、図書館職員39名、登録者45,019人、登録率31.5%、貸出冊数106万冊あまり、住民1人当り年間貸出冊数7.39冊、という状況になっていました。

 中央館が開館した1973(昭和48)年4月以降は、それまで手をつけられずにいたレファレンス・サービス、レコードなど視聴覚資料の貸出、障がい者のための朗読サービス、子どものためのおはなし会などを相次いで始めることができました。

 

 1965年の開館から1980年まで、市の一般会計に占める日野市立図書館の図書館費は1%前後(0.85%~1.33%)で推移しました。

 1969(昭和44)年3月に有山市長が50代の若さで病死し、次期市長選挙に図書館評議会委員長をしていた古谷栄氏が立候補して当選します。『移動図書館ひまわり号』によりますと、古谷氏は選挙演説の中で、「市立図書館は一般会計予算のたった一パーセントしか使っておらず、しかも非常に大きな仕事をしています。私は市役所全体が、図書館のように効率の高い仕事をするようにしたいと思います」と、団地で移動図書館を利用していた人たちに訴えたということです。

 

 日野市立図書館の出現は、はじめのうち、図書館界のかなり多くの人からマイナスに評価されました。さまざまな批判の中でとりわけ手厳しかったのは、「日野市立図書館は、図書館ではない」という指摘だったでしょう。

 どのような心情から発せられたにせよ、開館して数年間の日野市立図書館にかんするかぎり、この指摘には的を射た面がありました。なぜなら、蔵書わずか3,000冊ほどでの開館、利用者用目録なし、閲覧室なし、レファレンス室なし、貸出以外のサービスなし、という《ないない尽くし》だったのですから。

 

 ◎けれども、1年経ち2年経つうちに、日野の貸出がうなぎ上りに増え、ほかの自治体から見学に行けば、嬉々とした利用者と生気に満ちた職員の姿を目の当たりにし、(まじめな見学者は)ていねいな説明を受け、プラスに評価する人が圧倒的に増えていったのでした。

 当時、東京の多摩地方にあった数少ない図書館の中では、府中市、町田市、調布市などの図書館が日野市立に刺激を受け、日野に追いつき追いこせという意気ごみで新たな努力を始めました。東京から遠く離れた置戸町(北海道)、大牟田市(福岡県)、玉名市熊本県)、高知市高知県)などでも、『中小レポート』や日野市立図書館の考え方を採り入れた図書館運営を始めます。

 さらに、日野市立図書館の快進撃は、図書館のなかった自治体の住民による図書館づくり運動に勇気を与え、東村山市(東京都)や松原市大阪府)をはじめ、多くの市や町での運動に拠りどころを提供するかたちとなったのでした。

 

 個人への貸出に資源と努力を集中して突破口をひらくという日野市立図書館のこころみは、結果的に日本の公共図書館を大きく転換させ、前進させ、発展させました。その理由のいくつかはここで触れましたが、次回は成功の要因と考えられる新機軸について触れようと思います。

 それらの新機軸の集合は、こころざし半ばでやまいに倒れた有山崧市長と前川恒雄館長を中心として、知識と知恵を総動員したものでした。その結果、若い図書館員がおしなべて奮い立ち、心をあわせ、生まれたばかりの小さな図書館が稀有の業績を生みだすに至ったのでした。