図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

阿倍仲麻呂(あべ・の・なかまろ 698?-770)

 2004年4月に中国の西安市(かつての長安)でひとりの日本人の墓誌が発見され、それが「公、姓は井、字は真成、国は日本と号す」で始まるため、埋葬されたのが井真成(せい・しんせい)という遣唐留学生ではないかということで、日中の関係者の関心を集めました。

 翌年1月末、井真成墓誌研究のための日中国際学術シンポジウムと市民セミナーが日本で開かれ、そこに参加した研究者の論考を中心として、1冊の本が出版されました。タイトルは『遣唐使の見た中国と日本:新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』です。墓誌の発見から本の出版までわずか1年半の出来事でした。両国の古代史研究者や歴史ファンが色めきたったような感じがするのですが、いかがでしょうか。(1)

 ただし、唯一の情報源である墓誌から分かったことは、唐での名前が井真成という日本人、没年の開元22年(734年)、享年の36歳、そこから逆算しての生年、学業に精励中の客死、などでした。それらのことから、彼が阿倍仲麻呂吉備真備(きびのまきび)らと一緒に唐にわたった遣唐留学生だっただろう、というのが結論でした。

 

 阿倍仲麻呂奈良時代の遣唐留学生で、唐の玄宗皇帝に能力を見込まれていくつかの官職をあたえられ人です。ただ、なかなか帰国の願いを聞き入れてもらえず、ようやく望みがかなって乗り込んだ帰国船が思わぬ遠方に漂着し、かろうじて戻った唐でふたたび官途につき、客死した人でもありました。

 阿倍仲麻呂については、よりどころとなる記録の存在しない期間が長く、文献があっても、研究者が推測や推定をせざるをえない事項が少なくありません。よって、ここでは専門家の皆さんの見解が分かれる部分は、両論併記というかたちで示すにとどめます。

 

 阿倍仲麻呂の正式の名前は、阿倍朝臣仲麻呂です。阿倍と仲麻呂のあいだにある朝臣は、「あそん」または「あそみ」と読み、当時8種類あった貴族や豪族の姓(かばね)のひとつで、ふつうは省略されていました。彼は中流の貴族だった阿倍船守(ふなもり)の息子、生年は不確かで698(文武 2)年または701(大宝元)年のいずれかだとされています。

 仲麻呂の幼少年時代のことは何もわかっておらず、「日本の大学に通って学んだ可能性が高い」という説(2)と、「日本の大学には行っていなかったと解するのがよいであろう」という説(3)があります。いずれにしろ、さほど身分の高くない貴族の息子でありながら、弱冠20歳(または17歳)で遣唐使節団の留学生にえらばれましたので、学業や人柄の面で優れていたのだと思われます。

 仲麻呂が加わったのは、717年(養老元)年の遣唐使節団で、総勢550人あまりが4隻の船に分乗しました。大使、副使、随行員、通訳のほかに、技術者、船員、留学生などが乗り込み、洋上の長旅に欠かせない食糧と飲料水を大量に積んでおかなければなりません。交通手段が当時とはくらべものにならないほど発達した現代でも、一度に550人もの使節団はめったに見られない光景でしょうね。

 この一大国家事業には、①大国である唐との友好関係をたもち、②その文化や行政のあり方を学び、③日本では珍しい文物を持ち帰る、などの目的がありました。使節団員のほとんどが約1年の滞在で718年に帰国する中、留学生だった阿倍仲麻呂吉備真備、留学僧の玄昉(げんぼう)などは次の遣唐使が来るまで長安に残って学ぶことになっていました。

 

 長期留学生の仲麻呂らは唐の官吏養成機関である太学で、四書五経などの経書を学びました。その期間は分かっていません。また、唐では、名前を朝衡(ちょう・こう)または晁衡(ちょう・こう)と改めましたが、いつ改名したかも分かっていません。

 王巍「阿倍仲麻呂玄宗楊貴妃の唐長安」(4)には、中国の古典『唐語林』が典拠であることを示して、仲麻呂太学時代について次のように書かれています。

 「当時、太学館では三千人以上が学んでおり、新羅や日本からの留学生(るがくしょう)もここで勉学に励んでいた。入唐後、仲麻呂は中国文化をこよなく愛し、中国で引き続き造詣を深めることを決めた。彼は第八回遣唐使団の帰国船には乗らず、長安太学館に残って勉強を続けたのである。仲麻呂は聡明にして勤勉で、成績優秀であった。」

 その後、仲麻呂科挙に応試したか否か、その及第者だったか否かについても、大きく分けて2説がありますけれど、残念ながらどちらも強い説得力をもつ根拠を示していないように思われます。

 

 さて、仲麻呂の唐における官歴の始まりは、左春坊(東宮)司経局校書でした。これを現代風に言いかえますと、《皇太子の御所にある司経局という図書館の職員》になります。時期は、721(唐の開元9)年から727(開元15)年のあいだ、いつからいつまでという期間は不明です。そのおもな仕事は、内容が同じであるはずの複数の書物を比較して、異同や誤りを調べ、正すことでした。唐よりもはるかに書物の少ない国からやってきた向学心の旺盛な仲麻呂のような若者にとっては、ありがたい仕事だったでしょう。

 近年は世界のあちこちで日本人が図書館員をしていますけれど、唐で図書館員になった阿倍仲麻呂は、現段階で分かっているかぎり、日本で初めて外国で図書館員になった人ということになります。

 

 その後、仲麻呂は、天子のあやまりを諫めることが職務である左拾遺や左補闕(さほけつ)に任命されるなど、玄宗皇帝に厚く信頼され、玄宗を継いだ粛宗、その次の代宗の時代を合わせますと、唐では10種類以上の官職につきました。その中に、宮中図書館の長官である秘書監という職があります。当ブログの「白居易」では、「秘書後庁」という七言絶句で、居易が自分の気楽な執務ぶり(というよりは暇をもてあます様子)を歌うのをご紹介しました。

 綿密な考証によって定評のある杉本直治郎著『阿倍仲麻呂傳研究:手沢補訂本』によりますと、日本への帰国を予定していた朝衡(阿倍仲麻呂)と河清(藤原清河)がほぼ同時期に秘書監だったという文献を手掛かりとして、「最初より{唐を}離れることを予想して、そのため単なる名義上の優遇のつもりで、かかる官名{秘書監}が与へられたに過ぎぬと見るべきものであらう」と結論づけています。(5)

 

 異国でしっかり学び、皇帝の近くで仕事を与えられ、文人たちと親しく交わることができた仲麻呂ではありましたけれど、故国を懐かしく思わなかったわけではありませんでした。そこで、渡唐の16年後、次の遣唐使が4隻の船でやって来て734年に帰国するとき、仲麻呂は自分も帰国したいと願い出ます。ところが、ちょうど親王の補佐役である儀王友という官職を命ぜられたころで、皇帝の信任がもっとも厚かった時期でもあり、仲麻呂は帰国の許しを得ることができませんでした。

 彼が乗船を望んだ帰国船4隻のうち、ほぼ順調に日本に着いたのは1隻だけで、ほかの3隻は①漂流して唐に逆戻り、②行方不明、③今のベトナムあたりに漂着し、疫病や戦闘によって生き残ったのが数人、という惨憺たるありさまでした。

 それからほぼ20年後の752年、藤原朝臣清河(ふじわらのあそみきよかわ)を大使とし、かつて仲麻呂とともに唐に渡った吉備真備を含む2名の副使に率いられた遣唐使がやってきました。翌753年、すでに50歳をすぎていた仲麻呂は、ようやく帰国を許されます。

 帰国船団は今回も4隻で、第1船には大使の藤原清河や仲麻呂、第2船には副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)と何度も日本へ渡ろうとして果たせなかった唐僧の鑑真(がんじん)、第3船には吉備真備、第4船にはその他の人たちが乗っていました。

 

 長安を離れるとき、詩人で朝廷の高官でもあった王維は、「秘書晁監の日本国に還るを送る」と題する送別詩を贈ってくれました。《秘書晁監》の《晁》は、仲麻呂が唐で晁衡(ちょう・こう)とも名乗っていたからです。王維の友情あふれる詩とその序文に対して、仲麻呂も王維と同じ五言排律というかたちで漢詩のお返しをしています。(6)

 また、出航をひかえた船で仲麻呂が詠んだとされる望郷の歌が小倉百人一首に入っています。この歌は『古今和歌集』に収録され、『土佐日記』にも「天の原」をなぜか「あをうなばら」と変えて紹介されていますので、ご存知の方も多いでしょう。この和歌を収載している文献によって漢字の使い方はいろいろですけれど、郷愁をおびた歌は次のとおりです。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

 さて、帰国船4隻のうち3隻は漂流や船の火災などの苦難をのりこえて帰国を果たしましたが、第1船だけが安南(今のベトナム)に漂着してしまいました。なお災難はつづき、現地の人たちの襲撃によって藤原清河や仲麻呂ら数名が生き残る中、乗員のほとんどは亡くなるか行方不明になってしまいます。

 仲麻呂が亡くなったという誤報を受けた詩人の李白は、「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭す」と題する七言絶句を書きました。晁衡のあいだにある《卿》は、仲麻呂が秘書監と兼務していた衛尉卿(えいいけい)という官職を指しており、《哭す》は《泣き叫ぶ》という意味です。名月のような輝かしい人だった晁衡君が青い海に沈み、白い雲が愁いの色を帯びて南の空いっぱいに拡がっているという内容の詩で、李白の友情と哀悼を示すものとされています。

 初めに中国の西安市井真成墓誌が発見されたエピソードをご紹介しましたが、その西安市内の興慶公園に「阿倍仲麻呂記念碑」があります。6メートルを越える高さの石塔には、李白の「晁卿衡を哭す」と仲麻呂の「望郷の詩」とが、それぞれ一面を使って刻まれています。「望郷の詩」にある《東の空》《奈良》《三笠山》《明るい月》を意味する語が「天の原」の和歌を思い起こさせるため、この漢詩が先にできたという説と、「天の原」の和歌が先にできたという説とがあります。

 かろうじて唐に戻った清河と仲麻呂は、また唐朝で仕事を与えられ、ともに異国で亡くなりました。河清(か・せい)と改名した清河の没年は不明ですが、仲麻呂の没年は770年(日本の宝亀元年、唐の大歴5年)でした。

 

 このように、阿倍仲麻呂はいまだに歴史の濃い霧の中にいます。本人がほとんど何も書き残していませんし、人生の大半を過ごした唐での暮しは、断片的な情報から推し量ることができるに過ぎないからです。けれど、その乏しい情報からだけでも、彼が、生れ故郷よりはるかに進んだ大国にあって、皇帝、朝廷の要人、文人たちから信頼されつづけたことを確認できます。

 阿倍仲麻呂や藤原清河らが唐朝で重用されていたことは、日唐両国の文化交流と相互理解を推し進め、友好関係を保つのに役立ったという意味で、高く評価されてしかるべきではないか思います。

 

参照文献:

(1)専修大学・西北大学共同プロジェクト編『遣唐使の見た中国と日本:新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』(朝日新聞社、2005年)

(2)上野誠著『遣唐使阿倍仲麻呂の夢』(角川学芸出版、2013年)

(3)森公章(きみゆき)著『阿倍仲麻呂』(吉川弘文館、2019年)

(4)王巍著「阿倍仲麻呂玄宗楊貴妃の唐長安」in遣唐使船再現シンポジウム編『遣唐使船の時代:時空を駆けた超人たち』(角川学芸出版、2010年)

(5)杉本直治郎著『阿倍仲麻呂傳研究:手沢補訂本』(勉誠出版、2006年)

 本書は、1940年に育芳社から出版された『阿倍仲麻呂傳研究』に著者自身が手書きの補訂を加え、それを98%に縮小撮影して刊行されたもの。

(6)豊福健二「阿倍仲麻呂唐詩人の交遊詩」{講演録}in『武庫川女子大学生活美学研究所紀要』no, 29, 2019.