図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

大学図書館などとの連携・協力

大学図書館の地域住民への開放

 現在、日本の大学・短大・高専の図書館の多くが地域住民に開放されています。その傾向は1990年代後半から加速しました。

 私が2003年に4年制大学の図書館の住民への開放状況をウェブサイトによって調べたところ、全国689の大学・大学院図書館の中で、(a)地域住民に閲覧・複写・貸出を認めている図書館は228館、率にして33.1%でした。(b)地域住民が閲覧・複写のサービスだけを受けられる図書館は152館、率にして22.1%で、(a)(b)を合わせると半数を超えていました。

とくに、両者の合計が100%だったのは岩手県秋田県鳥取県愛媛県佐賀県沖縄県で、これらの県はいずれも大学(図書館)数が少ないという特徴がありました。

 2008年ごろに同じ調査をしたところ、全国の大学図書館の66%が閲覧や複写の市民サービスを行い、およそ42%が貸出までのサービスを実施するようになっていて、高等専門学校の図書館はほぼ100%が市民に開放されていました。

 ただし、貸出サービスをうけるばあい、500円から3,000円くらいまでの年間登録料を徴収する大学図書館が少なからずあり、現在でもその傾向がつづいています。

調査時点からほぼ10年が経っている現在、市民への開放の数値はより大きくなっていると思われます。中でも、福井県、愛知県と和歌山県大学図書館等が地域住民への開放に積極的な印象を受けました。

 以下は、2016~2017年に公立図書館のウェブサイトを調べた結果(例示する個別図書館については、2018年12月上旬にもう一度確認しました)ですが、多くの大学図書館が公立図書館とは無関係に地域住民の利用を認めていますので、次のようなばあいは省略しています。

 ①公立図書館とは無関係に、大学図書館が地域住民に開放されている。

 ②公立図書館の利用者カードをもっていれば大学図書館が利用を認める。

 ③公立図書館と大学図書館が協定を結んではいるが、ウェブサイトだけでは公立図書館の果たす役割が明確でない。

 ④住民が公立図書館を通じて大学図書館の本を借りることができても、送料を負担しなければならない。

 

公立図書館 ⇔ 大学図書館 = 互いに貸出・返却の窓口

一般市民が公立図書館を介さずに大学図書館の本を自分で借りることができれば、それが最善のように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。公立図書館が住まいの近くにあって大学図書館が遠い人にとって、(急がなければ)公立と大学とがお互いの窓口となるこの方式は、ありがたいはずです。いくつかの実例をご紹介しましょう。

いわき市福島県)の「いわき図書館サービスネットワーク(通称「I-TOSS(アイトス)」)の参加館は、いわき市立図書館、いわき明星大学図書館、東日本国際大学いわき短期大学昌平図書館、福島工業高等専門学校図書館です。

いわき市立図書館の巡回車が、毎週、市内の大学・高専図書館を回ります。予約図書の受け渡しや返却窓口として、お使いいただけます。また、図書館を通して、大学・高専図書館の資料を無料で借り受けることができます。」

茨城県民は茨城大学図書館の本を茨城県立図書館に取り寄せてもらって借りることができます。

 ③神奈川県立の図書館(2館)は県内の複数の大学図書館と相互貸借の協力をしています。県立図書館が取り寄せた本を県民が自宅で利用できるのは、横浜国立・東京工業・総合研究大学院・桐蔭横浜・県立保健福祉の各大学図書館、県民が自宅ではなく県立の図書館で利用できるのは、神奈川・鶴見の2大学図書館です。また、「県立の図書館貸出カードをお持ちの方は、専修大学図書館で貸出カードの発行が可能」です。

 ④「平成20年12月17日(水)、{福井}県内高等教育機関福井県立大学福井工業大学仁愛大学仁愛女子短期大学敦賀短期大学福井医療短期大学福井工業高等専門学校計7校)と福井県立図書館は、図書館活動に関する協定を締結し、幅広い連携・協力を行うこととしました。」

内容は、(a)「県内高等教育機関の蔵書と県内公共図書館の蔵書約547万冊をまとめて検索できるようになります。」(b)「県立図書館の既存の物流システムを利用した図書館間相互貸借等の実施。」これにより、県民は学術専門書約143万冊を身近な図書館を通じて利用でき、「学生・教職員は県立図書館の蔵書を教育機関の各附属図書館を通じて利用可能と」なります。(c)「各図書館の所蔵資料を活用したレファレンス協力等、その他図書館事業の連携協力。」などです。

この相互協力は2009年1月から始まりました。

 ⑤広島市立図書館は、広島市立大学附属図書館および広島大学図書館と連携・協力し、利用者の求めに応じて両大学から資料を借り出しています。方法は、住民が市立図書館の窓口で申し込み、同じ窓口で借りるというものです。

 ⑥山陽小野田市立図書館(山口県)の利用者は、「山口東京理科大の図書館においても、山陽小野田市立図書館の本が受け取れます。また、山口東京理科大の本も借りることができます。」

 ⑦山口大学山口県立大学の教職員・学生は、山口県立図書館で借りた本を自分の所属する大学の図書館で返却することができます。県立図書館と両大学図書館との相互協力協定によります。

 ⑧鳴門市立図書館(徳島県)は2007年3月に鳴門教育大学附属図書館と相互連携・協力に関する覚書を交わし、両者で次のようなサービスをしています。

 「鳴門教育大学附属図書館で借りられた資料を鳴門市立図書館で返却できます。

鳴門市立図書館で借りられた資料を鳴門教育大学附属図書館で返却できます。

鳴門教育大学附属図書館の資料を取り寄せて鳴門市立図書館で貸出することができます。(ただし、貸出ができる資料に限ります。)」

 

公立図書館 ⇔ 大学図書館 = 集荷・配送をする巡回車

 公立図書館と大学図書館は、同じ館種どうしはもちろん、公立・大学間(異館種間)でも資料の貸し借りをしています。これを図書館間相互貸借といいますが、日本では異館種間の相互貸借が活発だとは言えません。

 相互貸借には資料の移動がつきもので、方法として郵送、宅配便のほか、おもに都道府県立図書館がひきうけている巡回車による集荷・配送があります。この車は搬送車、連絡車、連絡協力車、支援協力車などとも名づけられていて、図書などの資料のほかに文書類を運んだり、図書館員を運んだりもします。車は都道府県内の公立図書館を中心にくまなく巡回するため、いくつかに分けた地域・コースを週に1回ていど走るのがふつうです。

 以下はその例で、=記号の右は巡回される大学等です。

福島県立図書館(協力車) = 福島大学福島県立医科大学

②埼玉県立図書館(連絡車) = 埼玉大学

群馬県立図書館(市町村支援協力車) = 大学図書館

④千葉県立図書館(3館)(協力車) =5大学の図書館(平成27年度「要覧」)

⑤「新潟大学附属図書館と新潟県立図書館・新潟市立図書館・佐渡市立図書館との連携事業により、各館との間で巡回便(めぐるくん・わたるくん)を運行し、相互に図書の貸借を行っています。

新潟大学の在学生・教職員が}新潟県立図書館・新潟市立図書館・佐渡市立図書館で所蔵する図書を利用したいときは、無料で取り寄せることができます。」

富山県立図書館(連絡車) = 富山県立大学富山大学高岡法科大学などの図書館

京都府立図書館(連絡協力車) = 府内の7大学図書館

 ⑧鳥取県立図書館(資料搬送車) = 鳥取大学など3大学の図書館

 ⑨島根県立図書館は、 週3回、宅配等により、貸出資料の配送・回収を往復県費負担で実施しています。また、県内大学、高専、高校、特別支援学校の図書館との、貸出資料の搬送も実施しています。

⑩「平成22年3月23日、香川大学図書館と香川県立図書館の相互協力に関する協定が締結されました。」「この協定により、県立図書館と香川大学図書館の間に、平成22年4月から、週1回、資料搬送便が運行されることになり、県立図書館を通して、送料の負担なく、香川大学図書館が所蔵する人文科学、社会科学、ライフサイエンス、ものづくりといった 幅広い分野の学術専門書の取寄せができるようになりました。」

 このサービスは、県立図書館を利用する人なら誰でも申し込むことができ、送料は無料です。

 

公立図書館 + 大学図書館 = 目録の横断検索システム

 都道府県ごとに公立図書館と大学図書館とが協力し、お互いの目録を横断検索(一括検索)できるシステムは、図書館利用者にとってありがたいものです。

 公立図書館と大学図書館は、2018年12月現在、少なくとも37の都府県で両者の資料を同時に検索できる横断検索システムを運用しています。全体として、大学数の多い都道府県では大学側の参加がとても少なく、公立図書館と大学図書館の横断検索システムの運用が低調です。

 逆の傾向をもつ例もあります。たとえば「福島県内図書館蔵書横断検索」には、8大学、2短大、1高専、1大学学部の図書館が参加していますが、公立図書館は県立のほか3市立に過ぎません。また、「鹿児島県内図書館横断検索」には、6大学、4短大、1高専など県内にあるすべての高等教育機関の図書館と、県立と43市町村中の29市町の図書館が参加しています。

 公立図書館だけで目録の横断検索を実現しているのは、北海道、宮城県茨城県新潟県、愛知県、大分県です。

 

 珍しい例としては、次のようなものがあります。

 ①宮城県には公立図書館だけの「宮城県内図書館総合目録」がありますが、そのほかに「学都仙台オンライン目録」という仙台市内11大学と宮城県立図書館、仙台市図書館、仙台文学館3館の総合目録が運用されています。

 ②山梨県立図書館のウェブサイトからは、県内の公立図書館と大学図書館が別々に横断検索できるようになっています。県内大学図書館の横断検索は「山梨大学附属図書館提供」と注記されています。

 ③名古屋市図書館(愛知県)のウェブサイトによりますと、「「まるはち横断検索」とは、名古屋市内の公共図書館専門図書館大学図書館の資料をひとまとめに検索することができるものです。名古屋市民の方、学生の方、および図書館利用者の方向けに、幅広く調査研究に役立つことを目的としています。」

これによって、名古屋市図書館と愛知県立図書館、12大学の図書館、9専門図書館が一括検索できます。

 

レファレンス協同データベース事業 = 全館種

 レファレンス協同データベースとは、「国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベース」のことで、目的は次の2つです。

①全国のすべての種類の図書館が、利用者の調べものの援助をするレファレンスサービスに役立てること。

②図書館の利用者自身が、調べものをするときに参考にすること。

 

この事業に参加しているのは、主導している国立国会図書館のほか、公共・大学・学校・専門の図書館です。2018年12月現在の参加館総数は789館で、内訳は次のとおりです。

国立国会図書館=13館(本館1と支部図書館12)

公共図書館=461館(都道府県立から村立まで)

大学図書館=190館(短期大学と高等専門学校の図書館を含む)

学校図書館=58館(団体やグループを含む)

専門図書館=58館(企業や法人、博物館、地方議会などの図書室)

そのほかに「アーカイブズ」という括りで9つの(公)文書館や資料室が参加しています。

 

 データベースには次の4種類があります。

 ①レファレンス事例=図書館へ寄せられた質問とその回答の記録集

 ②調べ方マニュアル=特定のテーマやトピックの調べ方

 ③特別コレクション=個別参加館の特殊な資料群の内容や規模など

 ④参加館プロファイル=個別参加館の特色や沿革など

 

 日本では、館種の異なる図書館が連携・協力してひとつの事業を成し遂げる例がきわめてまれでしたが、このレファレンス協同データベース事業は、そのまれな一例でしょう。

 データベースと言えば、かなり多くの公立図書館が地域資料(郷土資料)を電子化して公開しています。これについては、あらためてこのブログでご紹介する予定です。

 

都道府県単位の図書館協会

 少なくとも12の都県で公立図書館と大学図書館を含む協会が組織されています。中には学校図書館を含むもの、個人単位で構成するもの、施設・個人・団体で構成するものなど、組織のあり方はさまざまです。

 会議の記録や協会報を見るかぎり、ほとんどが総会や研修会の開催と協会報の発行ていどの活動しかしていません。ほかには数か所で実態調査や図書館員の研究助成が行われています。

 12の都県以外のほとんどは、公立図書館だけの協(議)会と大学図書館だけの協(議)会が併存しています。

 

その他の珍しい試み

 静岡産業大学磐田図書館のウェブサイトには、「磐田市立図書館の本を貸出します」というお知らせがあり、「磐田市立図書館の本を学生さんと図書館員で選びました」ということで、選んだ127冊の本のリストを添えています。これは珍しいですね。

 

 松江市立図書館(島根県)の移動図書館車「だんだん号」は、島根大学松江キャンパスをも巡回しています。利用登録をしていない学生・教職員はその場で利用登録して本を借りることができます。返却は大学の付属図書館まで。2018年度の巡回は、長期休業中を除いて月に1回です。移動図書館が大学を巡回場所(ステーション)とするのは、とても珍しいことです。

近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう 1771-1829)(書物奉行:その2)

 江戸時代後期の北方探検家として知られる近藤重蔵は、本名を守重(もりしげ)、号を正斎(せいさい)または昇天真人といい、重蔵というのは通称です。この人に言及するときによく使われているのは「重蔵」ですが、たまには「守重」を使っている例があり、190506年(明治38~39年)に出版された全集のタイトルは『近藤正斎全集』となっています。

 彼は江戸駒込幕臣の子として生まれ、6~7歳で孝経をそらんじたほど賢く、数え年17歳で仲間とともに白山義塾という私塾を開きました。自身、立派な体躯で剣の修行もしていたので、塾では文武両道を教えたということです。(1

 

 1790年(寛政2年)、父の引退をうけ、重蔵は先手組(さきてぐみ)与力という父の仕事を受け継ぎます。先手組は、江戸市中で今の警察のような仕事をしていました。これが重蔵の長い幕臣生活の始まりで、以後ほぼ10年ごとに人生の節目をむかえながら、本領を発揮してゆきます。

 1794年(寛政6年)、彼は第2回の学問吟味を受験して及第しました。幕末までつづいたこの学問吟味は、中国の科挙制度にならった筆記試験で、成績の良かった人の多くが幕府に任用されたのでした。

 その翌年から約2年間、重蔵は長崎奉行の配下として働くかたわら、日本の外交や漂流民のことなどを調べ、数冊の著作を書きます。1797年(寛政9年)、江戸に戻った重蔵は、幕府が蝦夷地(北海道)を直接統治することで外国の侵略に備えるべきだという意見書を幕府に上呈します。

 

 翌1798年(寛政10年)が重蔵の人生のひとつの節目でした。最終的には5回を数える重蔵の蝦夷地調査の第1回がこの年だったのです。第5回の利尻島調査は1807年(文化4年)でしたが、その間に重蔵はぐんぐんと出世を果たします。1803年(享和3年)には旗本役である小普請方(こぶしんかた)に昇進し、年末には「永々御目見以上」の格式を将軍から認められました。御家人の息子が旗本の役職についただけでなく、代々にわたって将軍に御目見えできる家格を得たわけですから、破格の出世と言ってもよいのではないでしょうか。(2

 この時期に書いた著作に、千島諸島の地誌である『邾弗加島考(ちゅぶかとうこう)』や北方の地理書である『辺要分界図考(へんようぶんかいずこう)』などがあり、これらは幕府に献上されました。

 

 ところが、1808年(文化5年)、重蔵は書物奉行紅葉山文庫の管理運営をつかさどる職)への転役を命じられます。これがまた彼の人生の節目のひとつでした。彼はこの職に1819年(文政2年)まで、足かけ12年間とどまり、この期間にも立派な業績をあげます。(書物奉行紅葉山文庫については、当ブログの「青木昆陽」で簡単に説明してあります。)

 その最たるものは、紅葉山文庫の蔵書を詳しく調べ、重要な書物の由来や内容、評価などを『右文{ゆうぶん}故事』や『好書故事』という著作としてまとめたことです。

 小野則秋の『日本文庫史』では、「特に近藤守重は『書籍考』、『右文故事』、『好書故事』等書誌学上の好著があり、書物奉行中出色の存在である」としています。

また、「将軍のアーカイブズ:国立公文書館所蔵資料特別展」というウェブサイトに「書物奉行に聞く」というQA形式の解説がありまして、そこでは、90名いた書物奉行の中でとくに功績が大きかったのが近藤重蔵だとして、その理由を次のように述べています。

 「近藤重蔵は、和漢の御書物を精力的に研究して紅葉山御文庫の蔵書の来歴を明らかにしたばかりでなく、研究によって得られた豊富な知識をもとに貴重書を鑑別し、その保存の仕方や取扱いを改善した。すなわち紅葉山御文庫の貴重書が今日なお良好な状態で保存されているのは、近藤の功績に負うところが大きい。」

 

 重蔵にとって最後となった人生の節目は、1819年(文政2年)3月、大坂弓奉行への転役でした。この仕事は幕府として大切な役どころでないばかりでなく、重蔵のそれまでの経歴とほとんど関係がありません。転落の始まりです。

 実績を挙げつづけた重蔵でしたが、異例の出世をしたこともあってか、左遷による恨みつらみがつのったせいか、はたまたその両方のもたらした結果か、重蔵には勝手気ままな、または身分不相応なふるまいが目立ってきます。

 ついに、1821年(文政4年)4月、「御役不相応」を理由に小普請入(こぶしんいり)となり、江戸へ戻されました。近藤家の身分は永々御目見から永々小普請入へと急落し、幕府の仕事が与えられなくなってしまったのでした。

 

 転落はさらに続きます。

重蔵はかねて江戸の槍ケ先というところに土地を買っていました。ところが売り主だった百姓の半之助という人と、土地の境界をめぐって争いが起こります。争いは裁判に持ち込まれ、重蔵が勝訴しました。けれども、気持ちの収まらない半之助は、土地の管理をしていた重蔵の息子である富蔵と悶着を起こします。怒り狂った富蔵は、当事者である半之助だけでなく、その家族など合わせて5人を殺してしまいました。1826年(文政9年)5月のことでした。

さすがにこの一件は「斬捨て御免」とはならず、富蔵は八丈島への遠島(島流し)、重蔵もいつわりの証言をしたかどで大溝藩(今の滋賀県高島市)にお預けとなり、18272月から1829年(文政12年)6月に病死するまで、そこで幽閉生活を送りました。

 

 近藤重蔵は今なお研究や伝記の対象になっていますが、小説の主人公としても描かれています。たとえば、久保田暁一『近藤重蔵とその息子』(PHP研究所、1991年)や逢坂剛「重蔵始末」シリーズ(講談社文庫、2001~17年)などです。

 

参考文献:

1長田権二郎『近藤重蔵(裳華書房、1896年)(国立国会図書館デジタルコレクション、 20181130

2   谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社2014年)

青木昆陽(あおき・こんよう 1698‐1769)(書物奉行:その1)

 青木昆陽はサツマイモが日本全国に普及するきっかけを作った人として有名ですね。

ところが、『言海』という国語辞典を編纂した大槻文彦は、「青木昆陽先生に就て」という評伝の中で、彼には洋学(西洋の学問)の先駆者という、もうひとつ重要な貢献があると書いています。

つまり、青木文蔵(文蔵は通称)の門人が前野良沢、その門人が杉田玄白、前野・杉田両者の門人が大槻玄沢大槻文彦の祖父)、その門人の中に緒方洪庵福沢諭吉がいてと、教科書に載る人たちを列挙しています。(1

 

さて、文蔵は江戸日本橋の魚問屋の息子でしたが、1719年(享保4年)、20歳を過ぎてから京都の儒学者である伊藤東涯の門をたたきます。1922年(享保7年)に江戸へ戻ったとき、すでに父は廃業しており、昆陽は八丁堀に移り住んでいた一家の住いで塾を開き、弟子を指導するようになりました。

 数年後、昆陽は父母をやまいのために相次いで失いますが、病身の親の面倒をよくみた様子や、親の死後にそれぞれ3年間喪に服したことなどが孝養の見本として近所の評判となりました。

 幸運なことに、昆陽の住いの地主だった与力の加藤枝直(えなお)という人が、心優しくて学のある昆陽を、上司の町奉行大岡忠相(ただすけ、大岡裁きで有名な越前守)に推挙してくれました。1733年(享保18年)、昆陽が36歳の時でした。

 このとき求めに応じて昆陽の提出したのが、農作物の不作を補うためにサツマイモを栽培すべきだと説く『蕃薯考』(ばんしょこう)です。これを8代将軍吉宗が認めるところとなり、1735年(享保20年)、本の形で出版されるとともに、昆陽は薩摩芋御用掛をおおせつかり、種芋が全国に配布されて、サツマイモが普及したのでした。

 その後、1739年(元文4年)に御書物御用達を拝命して以降、昆陽は書物と学問に関連した役を与えられながら昇進してゆきます。仕事の内容は、オランダ語の学習、関東一円の古書と古文書の調査、評定所儒者書物奉行などです。書物奉行というのは、江戸幕府の文庫(今の図書館)の管理運営を担当する役職です。

 その間、御書物御用達を拝命する数年前から、大岡越前守のはからいで幕府の図書館である紅葉山文庫の書物を利用することを許されたこともあり、多くの本を書きました。

昆陽が書物奉行になったのは1767年(明和4年)、病死したのは2年後の1769年なので、在任期間が短く、文庫関係でこれといった業績は残さなかったようです。

 

 このブログでは、あとふたりの書物奉行をご紹介する予定なので、「書物奉行」と彼らの職場だった「紅葉山文庫」について、ごく簡単に触れておきます。

 

 紅葉山文庫とは、江戸城内の紅葉山のふもとに設けられた幕府の文庫のことです。この文庫のもとになったのは、書物を集めるのに熱心だった徳川家康が城内の富士見亭につくった文庫です。それを3代将軍家光が火災に遭いにくい紅葉山に移転させたのでした。

 蔵書は少しずつ増えてゆき、幕末には11万冊以上になりました。内容は、大きく分けて3種類で、漢籍が約75,000冊、国書(日本で書かれた本)が約12,000冊、そのほか幕府の歴史や記録などが約26,000冊でした。(2

 これらの資料を利用できたのは、将軍や老中をはじめとする幕府の高官、大名、それらの人たちに覚えのめでたい儒者、文庫を管理する書物奉行などに限られていました。儒学者である荻生徂徠は「本はあらかじめ目を通しておかなければ急には役に立たない。いくら書庫に集めても、読む人がいなければ反故同然だ。だから、御文庫の書物は借りたい儒者に貸すべきだ」という意味のことを『政談』に書いています。(3

とりわけ熱心な利用者として伝えられているのは8代将軍吉宗で、借りた本を長く返さなかったことがあったため、30日という返却期限が設けられ、実際に将軍も返却の督促を受けたことがあったということです。(4)(5

 書物奉行生殺与奪の権を握っているはずの将軍に対しても発する「返却伺い」制度は、紅葉山文庫の充実に熱意をもっていた吉宗公と書物奉行との信頼関係を物語るエピソードのような気がします。

 

 (御)書物奉行という役職が初めて設けられたのは3代将軍家光のとき、1633年(寛永10年)でした。以降、江戸時代の末までに90名が任命されました。そのうち、他の分野で大きな業績をあげた書物奉行には、青木昆陽近藤守重(重蔵)、高橋景保といった人がいます。

 書物奉行の定員は時代によって異なりますが、おおむね3名から5名でした。在職年数は人によって1年から33年までと幅広く、平均すると10年前後です。

 1662年(寛文2年)以降、書物奉行若年寄支配下に入って、身分が確定します。部下には書物方同心が徐々に増えて最終的に21名、ほかに同心世話役などがいました。

 書物奉行は当初、将軍や幕府高官の呼び出しに応じて登城していましたが、1734年(享保19年)から、複数名のうちの1名が交代で紅葉山文庫に常駐する詰番制度になりました。

 

 その仕事は、ひと言でいえば文庫の運営管理ですが、具体的にはかなり多岐にわたっていました。たとえば、次のような事柄です。

○所蔵していない蔵書の収集(写本作成を含みます)

○目録の作成と改訂(蔵書が増えれば改訂版を作らなければなりません)

○蔵書の調査(利用者からの質問に備えるため、目録で確認しておきます)

○貸出と返却

○虫干し(虫害やカビの予防のため、暑い時期に蔵書を日や風に当てます)

 

参考文献:

1大槻文彦青木昆陽先生に就て」in帝国教育会編『六大先哲』(弘道館1909年)

2)「将軍のアーカイブズ:国立公文書館所蔵資料特別展」(国立公文書館のウェブサイト)

3小野則秋『日本文庫史』(教育図書、1942年)

4)新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房2017年)

5森潤三郎『決定版 紅葉山文庫書物奉行(鷗出版、2017年)

出久根達郎『御書物同心日記』(講談社1994年)=小説

学校と学校図書館の支援

 公立図書館については貸出サービスがクローズアップされがちですが、自治体内の学校(図書館)との連携や支援も、多くの公立図書館が行っている重要なサービスのひとつとなっています。そのばあい、対象となっているのは小学校と中学校が中心です。

 専任の職員や司書がいない学校図書館が少なくなかったため、以前から公立図書館が手を差し伸べる例はありましたが、連携・支援の勢いを加速させた全国的な出来事は次の4つです。

 

 ①学校図書館司書教諭の必置化

 1997年に改正された学校図書館法は、2003年4月1日以降、12学級以上の学校に学校図書館司書教諭を必ず置かなければならないと定めました。それに伴い、全国の司書教諭の発令状況は小中高校ともに100%近くになっています。(文部科学省による平成28年度「学校図書館の現状に関する調査」)

 ②「子どもの読書活動の推進に関する法律」の公布

 2001年12月12日に公布・施行された「子どもの読書活動の推進に関する法律」は、国と地方自治体が子どもの読書活動を推進するために総合的・計画的に施策をうちだし、「学校、図書館その他の関係機関及び民間団体との連携の強化その他必要な体制の整備に努めるものとする」と定めています。

 ③学校図書館支援センターの試行

 文部科学省は、2006年度から年間およそ2億円の予算によって学校図書館支援センターのテストを始めました。センターには支援スタッフを配置して、学校図書館を支援するという目論見で、このテストは2006年度に36地域で行われ、2009年度までつづきました。 これを受けて全国各地にできた学校図書館支援センターは、公立図書館内に置かれるばあいと教育委員会の図書館以外の部署に置かれるばあいとがあります。

 ④「学校図書館法の一部を改正する法律」の公布

 2014年6月27日、学校図書館法が改正・公布されました。この改正は、学校での読書活動や調べ学習などを充実させるためには、学校図書館に学校司書を置くことを努力義務と定めたものです。

 

よくある連携と支援の例

(1)団体貸出

調べ学習用、朝の読書活動用の本を学校(図書館)に貸し出している公立図書館がたくさんあります。ただし、公立図書館の団体貸出は、多くの自治体で学校以外のさまざまな団体(住民の読書会、福祉施設、病院など)をも対象としています。

貸出には学校への配本が伴います。横芝光町立図書館(千葉県)、東大和市立図書館(東京都)、白山市松任図書館(学校間の相互貸借分を含む)、吹田市立図書館(大阪府)などのウェブサイトにはその旨が記載されています。

(2)職場体験学習

 公立図書館は、自治体内の中学生を中心に、図書館の簡単な仕事を体験する小学生から高校生までを受け入れています。ほかに、職場インタビューを受け付けたり、仕事ガイドをする図書館もあります。静岡県浜松市立図書館は、職場体験の生徒を全22館で各2名から6名、受け入れています。

 蛇足ですが、大学・短期大学の司書課程の学生を実習生として受け入れている公立図書館もたくさんあります。児童・生徒の職場体験が1日~数日なのに対して、大学生の図書館実習は期間が長くなっています。

(3)出張事業

「出前」「おでかけ」などとも言われる出張サービスには、おはなし会・ブックトークストーリーテリングや図書館の紹介などがあり、多くの公立図書館が学校に職員を派遣しています。

(4)図書館見学の受入れ

 これはクラス単位で公立図書館の見学を受け入れるもので、「校外学習」とか「図書館訪問」と呼ばれる例もあります。

(5)学校図書館へのアドバイス

多くの公立図書館が学校図書館からの相談に対応し、情報の交換と提供、アドバイスなどを行っています。定期的に学校へ出向くばあいや複数の学校と情報交換の場を設けるばあいなどがあります。さほど多くはありませんが、学校の教職員やボランティアのために公立図書館が研修を実施する例(読み聞かせ講座、本の補修法の指導など)もあります。

(6)読書活動の支援

 多くの学校で朝の読書活動や夏休みに課題図書を読む活動が行なわれるようになっており、それらを支援する公立図書館がかなりあります。支援の内容は、図書のセット貸出(貸出文庫)、読書の動機づけ指導、読書指導員の配置などです。

(7)公立図書館での調べ学習

 学校によっては、クラス単位で公立図書館へ行き、そこで生徒が調べ学習をするばあいがあります。

 

珍しい連携と支援の例

①蔵書の横断検索

 公立図書館と学校図書館の目録を同時に検索できるようにしている例は、次の自治体で見られます。(20181118確認)

 有田川(ありだがわ)町(和歌山県)=町立と小中学校

 印南(いなみ)町(和歌山県)=公民館図書室と小中学校

 奥出雲町図書館(島根県)=町立の2図書室と小中学校

 北谷(ちゃたん)町(沖縄県)=町立と小中学校

 浦添(うらそえ)市(沖縄県)=市立と小中学校

学校図書館の図書購入のとりまとめ

神栖(かみす)市立中央図書館(茨城県)は、「学校図書館の図書購入のとりまとめについて、平成28年度から中央図書館へ移管しました。これにより,年に1回だった図書購入が年3~4回できるようになり,年度途中でのリクエストや買い替えに対応できるようになります。」(20170315)

③保護者やボランティア向けの支援・サービス

 学校の教職員向けサービスを意図的に行っている公立図書館は少なくありませんが、生徒の保護者や学校図書館のボランティア向けに支援やサービスを行っている公立図書館はまれだといってもよいでしょう。横浜市立図書館では、学校向けサービスの柱のひとつが「保護者・ボランティア向けサービス」となっています。(20170316)

また、東久留米市立図書館(東京都)では、学校図書館での活躍をめざすボランティアの研修を実施しています。(20170315)

④リンク集やウェブ・コンテンツの提供

 大阪府立図書館は「YA!YA!YA! べんりやん図書館」で「中学生・高校生向けに、図書館の使い方、おすすめの本、本を探す方法などを紹介しています。」「調べ方ガイドを使い、e-レファレンスを利用し、リンク集も使えます。」(20170317)

 大阪市立図書館の「市立図書館活用の手引き:市立小学校・中学校などの先生方へ 第7版」の第1章「ネットで図書館、便利です」は、ネットからの情報活用法を22ページにわたって紹介しています。(20170317)

 宮若市立図書館(福岡県)はインターネットを使った調べ学習に役立つ「キッズリンク集」を作ってウェブサイトで公開しています。(20170316)

 

連携・支援が充実していると思われる例

ウェブサイトの情報が具体的または豊富な連携・支援の例は次のとおりです。

①神栖(かみす)市立中央図書館内(茨城県)の学校図書館支援センター

横浜市立図書館(神奈川県)

白山市松任図書館(石川県)の学校図書館支援センター

大阪市立図書館(大阪府

⑤吹田(すいた)市立図書館(大阪府

図書館外のサービスポイント

 公立図書館は、ふつう、分館(地域館)をつくったり、自動車文庫を走らせるなどして、地域によるサービス格差を小さくします。それを貸出・返却の面で実現しようとするのが、自治体内のあちこちに設ける図書館外のサービスポイントです。多くは公民館、役所とその支所などの公的施設ですが、中にはコンビニやスーパーマーケット、ホテル、書店などが協力している例もあります。

 そのありようは、①予約資料の受取りと借りた資料の返却ができる、②借りた資料の返却だけができる、③「配本所」などと名づけられたサービスポイント、の3種類に分けることができます。以下にいくつかの例をご紹介します。

 

(1)予約資料の受取りと返却ができる例

所沢市立所沢図書館(埼玉県) = 市内のファミリーマート7店舗、ミニストップ1店舗、公民館分館1館。

横須賀市立図書館(神奈川県) = 京浜急行線の7駅とJR線の1駅に返却ポスト。また、2つのコミュニティセンターと市役所の市政情報コーナーも同じ。

横浜市立図書館(神奈川県) = サービスポイントは行政サービスコーナーや地区センター、コミュニティハウスなど9施設。

紀宝町立鵜殿図書館(三重県) = 紀宝町役場と生涯学習センター『まなびの郷』。

高槻市立図書館(大阪府) =公民館6館・樫田支所。これは公民館に図書館の支所のような役割をもたせる「まちごと図書館」事業のひとつ。

鳥取県米子市では、平成13年度から現在まで、「市役所の既存の業務として公用車による文書の配送(市内小中学校・公民館等に公用車が巡回)を行っていて、そのシステムに、米子市立図書館から、市内小・中学校図書館へのリクエスト貸出図書を加えることにより、効率的に図書が学校へ配送するシステムが確立されました。市役所担当課、市立図書館、市内小・中養護学校が連携しながら、現在も継続して行われています。平成16年度より学校間のリクエスト貸出も加わり、米子市立図書館を中継にしてこのシステムで配本・回収しています。」

高松市図書館(香川県) = 市内のコープかがわ(7店舗)は返却ボックスのみ。白洋舎郷東町本店、高松シティホテルは返却ボックスの設置のほか貸出も。

串間市立図書館(宮崎県) = 市内のファミリーマート3店舗。

 

(2)返却だけができる例

 流山市立図書館(千葉県) = 市内各所の鉄道駅(流鉄流山線東武野田線、JR、つくばエクスプレスなど)に返却ボックス。

 海老名市立図書館(神奈川県) = 東柏ケ谷小学校市民図書室、市役所、海老名駅TSUTAYA、ローソン3店舗など、9か所に返却場所。

 川崎市立図書館(神奈川県) = 4か所の行政サービスコーナーなどに返却ポスト

平塚市図書館(神奈川県) = 7公民館など9施設を返却場所に。

甲府市立図書館(山梨県) = 図書に限り8公民館(南西・北・東・北東・南・西・遊亀・中道)でも返却可能。

 橿原(かしはら)市立図書館(奈良県) = 近鉄駅前(8駅)、スーパーマーケットの駐車場、銀行の出張所前、市営住宅案内図前など全部で市内12か所に返却ポスト

 和歌山市民図書館(和歌山県) = 市政の窓口である41の支所・連絡所その他でも返却が可能。

 明石市民図書館(兵庫県) = 書店2店、高齢者ふれあいの里4などを含む13か所の返却場所。

水俣市立図書館(熊本県) = コンビニ(ローソン)や市役所に設置したブックポスト。

鹿児島市立図書館(鹿児島県) = 市役所の支所前、電停前など、市内13か所に設置されたブックポスト。

 

(3)配本所などのサービポイント

 滝上(たきのうえ)町図書館(北海道)は、住民の身近な場所に配本所を設けていましたが、2016年9月から新たに「小さな図書館」と称する「濁川郵便局、滝西郵便局にも設置」しました。本は数十冊の実用書や小説で、毎週金曜日に入れ替えられます。(20170312)

 また、「こども園、中学校、交流センターぴあ、スポーツセンターなど町内の各施設にも本の貸出をしております。ご希望があれば、配本所・配本コーナーを設置します。ご相談ください。」(20181114)

 浦安市立図書館(千葉県)には「順天堂病院の入院患者の方にご希望の本をお届けするサービスがあります。リクエストの受け取りは、図書館から司書が病室まで伺い、本をお届けします。浦安市民以外の方も、入院中はご利用できます。」

 また、東京ベイ浦安市川医療センターには図書館の本を利用した「図書コーナー」を設置しています。(20161002)

 稲城市立図書館(東京都)は、稲城市立病院内に「病院配本所」を設けており、月曜日から金曜日の13時から16時まで開館しています。入院患者が対象の配本所です。(20161229)

 杉並区立図書館(東京都)は「地域・家庭文庫の活動を支援しています。」

対象となる文庫は「自宅などで、自宅の周辺に住んでいる児童等を対象に無償で図書の閲覧及び貸出を行うほか、これに付随する活動を行う個人及び団体」で、登録後に区立図書館から受けられる支援は「図書の貸与など」となっています。(20181114)

 山梨県中央市立玉穂生涯学習館(山梨県)は、「山梨大学医学部小児科に「ミニ子ども図書館」を開設して、毎月本の入れ替えを行なっています。」(20170112)

 枚方(ひらかた)市立図書館(大阪府)では、「自動車文庫が、市立ひらかた病院と星ヶ丘医療センターへ2週間に1回巡回し、本の貸出を行っています。また、病児保育所などへ団体貸出を行っています。」(20170120)

 川西市立中央図書館(兵庫県)は、「2009年2月より、市立川西病院の入院病棟3-5階の面会コーナーと、外来2階小児科待合に、図書館のリサイクル本を設置しています。定期的に配本していますので、ご自由に利用してください。」(20170125)

 鳥取県の南部町立図書館(鳥取県)は、「毎月一回、西伯病院に町立図書館の本の出前」をします。返却は、西伯病院玄関内にある本の返却ポストへ。(20160801)

 徳島市立図書館(徳島県)は、図書館や移動図書館を利用しにくい市民のために、「地区の公民館や市周辺部の小学校など69か所(平成29年4月1日現在)の配本所に配本」をしています。リストによれば、配本所は幼稚園、小学校、児童館、公民館、コミュニティセンター、高齢者集合住宅、病院などです。

 指宿(いぶすき)市(鹿児島県)の指宿図書館では、「幼稚園・保育園や校区公民館など希望の団体に対し、鹿児島県立図書館の貸出文庫を活用して配本。」また、同市の山川図書館では、一坪図書館と称して、「公民館や一般家庭に、鹿児島県立図書館から借りた本をミニ文庫として配置しています。誰でも借りる事ができます。」(20160922)

枕崎市立図書館(鹿児島県)には、5か所の公民館のほか、健康センター、児童館、児童センターなどの配本所があります。定期的に本を入れ替えていて、入れ替える冊数は400~500冊です。(20181114)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Goethe, Johann Wolfgang von, 1749-1832)

 ドイツの作家ゲーテは、詩、劇曲、小説、評論、紀行、従軍記、自叙伝など、文学の幅広い分野で一級品の著作を書きました。また、植物学、地質学、光学その他、自然科学をも幅広く研究し、論文を発表しています。

 それら学術面の多岐にわたる活動の一方で、彼は二十代の半ば以降、初めはほぼ休むことなく、のちには短期・長期の休暇をはさみつつ、行政官として自国に貢献しつづけました。

 日本にはゲーテより1世紀ほど前に活躍した新井白石という人がいますが、このふたりにはいくつかの共通点があります。幼少から才知に長けていたこと、幅広い分野におびただしい著作があること、国の元首に信頼されて重用されたこと、自叙伝を書いたこと、などです。

 ゲーテのばあい、彼を信頼した元首は、ザクセン・ワイマール・アイゼナハ公国のカール・アウグスト公爵でした。この公国は、小国の集合体である「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の中にあって、面積が大阪府とほぼ同じ、人口が11万人足らず、文字どおりの小国でした。江戸幕府の藩のようなものだと思えば分かりやすいかもしれません。

 ゲーテは弁護士をするかたわら、戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年に自費出版)を書き、1774年に出版した小説『若きウェルテルの悩み』によって一躍ヨーロッパ中で有名になりました。

 1775年、まだ18歳だったカール・アウグスト公は、フランクフルトをおもな拠点として文名の高まっていた26歳のゲーテをワイマールに招きます。その後の約10年間、ふたりは公私にわたる接触によって強いきずなで結ばれてゆきました。ゲーテは若い公爵に対して兄のように接する一方、公爵は早くからゲーテに重要な地位を与え、ゲーテはその負託に全身全霊をもって応えたからでした。

 1779年9月、ゲーテは大臣に相当する枢密顧問官に任命されます。彼の行政官としての特徴のひとつは、鉱山経営、軍事、道路工事、財政、外交など、ここでも幅広い分野を引き受けたことです。もっとも、枢密顧問官は数名しかいませんでしたから、複数分野の担当は無理からぬことではありました。

 もうひとつの特徴は、高い地位にあるにもかかわらず、大きな机を前にして椅子にふんぞり返っているのではなく、しばしば現場へ足を運んで指揮・監督を行ったことです。

 1815年、ナポレオン戦争の戦後処理を決めたウィーン会議によって、ザクセン・ワイマール公国は大公国になりました。これを機に枢密院は内閣に改められ、ゲーテは長年の功績によって筆頭大臣に任命されましたが、自ら望んで「ワイマール・イェナ学問芸術直轄施設監督庁」を担当することになり、それ以降、死ぬまでその職にとどまりました。

 元ドイツ国立図書館長だったゴットフリート・ロストによりますと、ゲーテと図書館とのかかわりは、次のようなものでした。

 カール・アウグスト公は1797年末、ふたりの枢密顧問官ゲーテとフォークトに公共図書館の指揮監督をまかせるようになります。1819年には、イェナ大学図書館国務大臣となっていたこの両名にまかせられました。

 「ゲーテは件名目録の考えを力説したばかりでなく、目録にするにはどんな紙を、どんなふうに切り揃え、どんなふうに罫線を入れて使用したらいいか、そんなことまで取り決めた。かれは読者にたいしても秩序感覚と徹底性を示した。土地の人の利用を規制し、他所の人の貸出し申し込みには鷹揚であった。そして期限どおりに返却することをやかましくいった。督促は大公にも宮廷人にも、そして五〇〇冊の本を「一〇年間自宅で利用した」ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダーにたいしてもなされた。」(1)

 また、国立国会図書館員を経て作家となった渋川驍も、ゲーテの現場への強いこだわりについて書いています。

 「ゲーテの両図書館{ワイマール図書館とイェナ大学図書館}の監督は、ただ時々の報告を聞くといったようないい加減のものではなく、両図書館の事実上の館長ともいえるような、こまかい注意をもって行われていた。彼はどちらの図書館にも日誌をつけさせ、それを定期的に提出させたのである。この日記には毎日の天気、訪問客のことはもちろんのこと、その日に到着した図書やその他の品物、また日々進捗した業務の模様を記載しなければならなかった。」(2)

 ゲーテは、経験と年齢を重ねた後半生においても、図書館や劇場とのかかわりに際して、若い日と同じ生真面目さと責任感に満ちた生きざまを貫いたのでした。

 

参照文献

アルベルト・ビルショフスキ著、高橋義孝・佐藤正樹訳『ゲーテ:その生涯と作品』(岩波書店、1996年)

カール・オットー・コンラーディ著、三木正之ほか訳『ゲーテ:生活と作品』上・下(南窓社、2012年)

(1)ゴットフリート・ロスト著、石丸昭二訳『司書:宝番か餌番か』(白水社、2005年)

(2)渋川驍『書庫のキャレル』(制作同人社、1997年)

マルセル・プルースト(Proust, Marcel, 1871-1922)

 20世紀のフランスで最高の小説家といわれるマルセル・プルーストは、1871年にパリ郊外のオートゥイユにて生まれました。父親は優れた医師で、医学アカデミーの会員、衛生局総監、パリ大学医学部教授などを歴任した人でした。

 家族の愛情をうけて幸せな幼年時代を過ごしていたマルセルは、10歳になったある春の日、とつぜん喘息の発作におそわれます。これが宿病となり、死ぬまで彼を苦しめました。ために、中学生の時には学校の欠席日数が多くなったり、留年したりせざるをえませんでしたが、成績は優秀でした。

 

 早くから文学に関心をもち、高校生になるころには級友と同人雑誌を創ってそこへ文章を発表するようになります。パリ大学法学部と政治学院に進学してからも、彼は仲間とべつの同人雑誌を創り、創作や書評を書いていました。文学への思いが断ち切れなかったのですね。

文学志向のマルセルが法学や政治学を学んだのは、名士であった父との妥協の結果でした。父親は長男であるマルセルが自分と同じく上級官僚になることを期待し、そのキャリアにふさわしい素養を身に着けるよう、息子に強く勧めたのでした。

 

 学業を終えたマルセルは、1895年、父の望みと作家活動をしたいという自分の望みに、うまく折り合いをつけます。それがフランスの国立図書館であったマザリーヌ図書館への就職でした。就職と言いましても、ポストは無給の助手、勤務はアルバイト並み、長期の休暇願はいつも許可という、ほとんど実態のないものでした。

 「一日の勤務時間は五時間であり、出勤日は最低週に二日、最高五日ということになっていた。プルーストは、三つの空席をうめるための面接試験を{1895年の}五月二十八日に受け、六月二十九日、三番の成績で、つまりビリでえらばれた。それから四カ月ほどは、ときどき気がむけば、あるいは身体の工合がよくてそうできる状態であれば、そしてまた彼が休暇をとっていなければ(それは実際のところまれだった)、彼は図書館に顔を出して、忙しくはあるが親切な同僚たちとお喋りしたり、枢機卿{訳注:マザランのこと。この図書館はもともとマザランの個人的蔵書から出発したもの}の本をぱらぱらめくってみたりするのだった。」(1)

 

 「一種の遠慮から、彼は自分の研究のためにマザリーヌ図書館を使うことさえ差し控えていたのであった。つまりパリの図書館でその閲覧室に彼が一歩も足を踏み入れなかった唯一の図書館は、まさしく彼が職員として在籍していたそれなのであった。毎年十二月になると彼は馬鹿げた形式的な届を書くために図書館に足を運ぶのだったが、その理由といえば、{父親である}プルースト博士が、自分の長男は曲りなりにも職についていると信じこめるようにということだけなのであった。一八九九年になってマザリーヌ図書館の監査がおこなわれた。三人の無給館員のひとりが、何年もまえからただの一度も出勤していないというのはいかにも奇妙なことに思われた。そして一九〇〇年二月十四日、マルセルはただちに復職せよという命令を受けとった。彼はその命令に服さなかった。三月一日、彼は辞職したものと見なされ、こうして彼の図書館員としての幻の経歴は終りを告げた。」(1)

 

 このように、マルセル・プルーストのほとんど名目だけの図書館員生活は、1895年8月から1900年2月末までの4年半でした。でも、その間に彼はたゆまずに執筆活動をつづけ、1896年に短篇小説や詩を収めた『楽しみと日々』を発表して、作家として認められる足掛かりをつかんだのでした。

 プルーストがジェームズ・ジョイスフランツ・カフカと肩を並べて20世紀最大の作家と称されるのは、まずもって大作『失われた時を求めて』によります。

 

参考文献:

(1)ジョージ・D・ペインター著、岩崎努訳『マルセル・プルースト:伝記 上』(筑摩書房、新装版、1978年)

(2)ミシェル・エルマン著、吉田城訳『評伝マルセル・プルースト』(青山社、1999年)