図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(2の1)日本図書館協会での日常業務

 ◎七尾市立図書館時代は、気持ちのよい職場、地元の人たちとの相性のよさ、義母との同居から解放された妻と可愛い盛りの長男、家庭教師や海員学校の非常勤講師などによる余分の収入など、恒雄さんにとって、キャリアの中で《最も》と言ってもよいほど、こころ穏やかに過ごすことができた時期でした。

 そんな中、日本図書館協会(略して日図協=にっときょう)事務局への転職話が舞い込みます。東京での生活は図書館職員養成所時代に2年間経験してはいましたけれど、初めはふんぎりがつきません。すると、1960年(昭和35)年4月、日図協の有山崧(ありやま・たかし)事務局長が金沢の石川県中央図書館まで出向いて、じかに恒雄さんを勧誘します。

 日図協と言えば、日本のすべての図書館員の、いわば統括団体です。その実質的な責任者である事務局長が、地方にいる若く無名の図書館員を部下に迎えるべく口説きに来てくれるとは、びっくりしますよね。そこで恒雄さんはふんぎります、「ここで辞退するのは男じゃない」と。ということで、1960年5月から65年3月まで、恒雄さんは日図協の事務局職員として仕事をします。

 有山崧事務局長は、東京帝国大学文学部を卒業後、27歳のときに文部省の嘱託となって図書館行政と縁ができた人です。1946(昭和21)年、34歳で大日本図書館協会の総務部長兼指導部長に就任し、戦争で大きな痛手をこうむった協会の再建に尽力し始め、3年後に社団法人日本図書館協会の事務局長となりました。

 恒雄さんによりますと、有山氏は、「第1に、図書館だけでなく日本の社会全体に対する強い《使命感》をもった人、第2に、ものごとの理非と人間の良し悪しを的確に見分ける《見識》の人、第3に、重い荷物を一緒にかつぎたいと思わせる《指導力》の人」だったということです。

 当時の日図協事務局には20人ほどの職員がいて、局長を除いた職員の平均年齢は20代半ば、男女の割合もほどほどで、給料が安くてもみな張り切って仕事をしていました。そのような環境にあって、恒雄さんはおよそ5年間の仕事を通じて、日本の公共図書館の実情を広く深く知るにいたります。担当した仕事は、①月刊機関誌『図書館雑誌』の編集、②年刊の統計書『日本の図書館』のための調査と編集、③中小公共図書館運営基準委員会の事務局担当でした。

 あるとき、事務局長の有山氏から「前川君は要領が悪いから好きだ」と言われた恒雄さんは、「これでいいんだ」とホッとしたということです。このばあいの《要領が悪い》は《上手に立ち回らない》ことを意味しています。ときどきヘマをやらかしていた恒雄さんは、そのことも含めて認めてもらったと感じ、「ホッとした」のでした。

 ◎そのころの『図書館雑誌』は、館界の動きがよく分かる誌面構成になっていました。たとえば、国内の図書館界の出来事を地域ブロック別に紹介するページ、若手の図書館員に発言の機会をあたえる「生活と意見」欄、協会が力を入れている活動の解説、図書館職員養成所の恩師であった柿沼介氏による「海外ニュース」、事務局の動向など、です。

 編集委員長の鈴木賢祐(すずき・まさち)氏は、編集委員に徹底的に議論させ、校正刷りに必ず目を通しました。恒雄さんは「編集者としての自信をもてるようになったのは、鈴木氏のおかげ」だと思っていました。

 普段は細かいことを指図しない有山局長でしたけれど、恒雄さんは執筆者の原稿の扱いについて厳しく注意されたことがありました。「原稿は書いた人にとって子どものようなものだから、大事にしなさい。雑誌が出たあとでも、原稿を捨ててはいけない」と。

 ◎もうひとつの担当だった年刊『日本の図書館』は、個々の公立図書館・大学図書館国立国会図書館の統計数値、名簿としての住所、電話番号などを掲載するもので、全国的な傾向や個別の図書館の実情をつかむことができるものでした。

 この仕事は、毎年、全国の図書館に調査票を発送し、職員、蔵書、登録者、貸出、資料費などの数値を記入して送り返してもらうことから始まります。

 今ではコンピュータに数値を入力して自動的に集計ができますけれど、当時はソロバンを使って全国集計をしなければならず、とても手間のかかる仕事でした。もうひとつ大変だったのは、職員数や資料費などから考えて貸出冊数がアンバランスに多い図書館が散見されたことでした。事務局の職員が電話で確かめますと、「誤記です」とか「間違えました」という返答が多い中、恒雄さんたちは、その後、中小図書館の実地調査を進める過程で、一部の図書館によるいじましい《貸出冊数の水増し》が事実だと知るにいたります。