図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

青木昆陽(あおき・こんよう 1698‐1769)(書物奉行:その1)

 青木昆陽はサツマイモが日本全国に普及するきっかけを作った人として有名ですね。

ところが、『言海』という国語辞典を編纂した大槻文彦は、「青木昆陽先生に就て」という評伝の中で、彼には洋学(西洋の学問)の先駆者という、もうひとつ重要な貢献があると書いています。

つまり、青木文蔵(文蔵は通称)の門人が前野良沢、その門人が杉田玄白、前野・杉田両者の門人が大槻玄沢大槻文彦の祖父)、その門人の中に緒方洪庵福沢諭吉がいてと、教科書に載る人たちを列挙しています。(1

 

さて、文蔵は江戸日本橋の魚問屋の息子でしたが、1719年(享保4年)、20歳を過ぎてから京都の儒学者である伊藤東涯の門をたたきます。1922年(享保7年)に江戸へ戻ったとき、すでに父は廃業しており、昆陽は八丁堀に移り住んでいた一家の住いで塾を開き、弟子を指導するようになりました。

 数年後、昆陽は父母をやまいのために相次いで失いますが、病身の親の面倒をよくみた様子や、親の死後にそれぞれ3年間喪に服したことなどが孝養の見本として近所の評判となりました。

 幸運なことに、昆陽の住いの地主だった与力の加藤枝直(えなお)という人が、心優しくて学のある昆陽を、上司の町奉行大岡忠相(ただすけ、大岡裁きで有名な越前守)に推挙してくれました。1733年(享保18年)、昆陽が36歳の時でした。

 このとき求めに応じて昆陽の提出したのが、農作物の不作を補うためにサツマイモを栽培すべきだと説く『蕃薯考』(ばんしょこう)です。これを8代将軍吉宗が認めるところとなり、1735年(享保20年)、本の形で出版されるとともに、昆陽は薩摩芋御用掛をおおせつかり、種芋が全国に配布されて、サツマイモが普及したのでした。

 その後、1739年(元文4年)に御書物御用達を拝命して以降、昆陽は書物と学問に関連した役を与えられながら昇進してゆきます。仕事の内容は、オランダ語の学習、関東一円の古書と古文書の調査、評定所儒者書物奉行などです。書物奉行というのは、江戸幕府の文庫(今の図書館)の管理運営を担当する役職です。

 その間、御書物御用達を拝命する数年前から、大岡越前守のはからいで幕府の図書館である紅葉山文庫の書物を利用することを許されたこともあり、多くの本を書きました。

昆陽が書物奉行になったのは1767年(明和4年)、病死したのは2年後の1769年なので、在任期間が短く、文庫関係でこれといった業績は残さなかったようです。

 

 このブログでは、あとふたりの書物奉行をご紹介する予定なので、「書物奉行」と彼らの職場だった「紅葉山文庫」について、ごく簡単に触れておきます。

 

 紅葉山文庫とは、江戸城内の紅葉山のふもとに設けられた幕府の文庫のことです。この文庫のもとになったのは、書物を集めるのに熱心だった徳川家康が城内の富士見亭につくった文庫です。それを3代将軍家光が火災に遭いにくい紅葉山に移転させたのでした。

 蔵書は少しずつ増えてゆき、幕末には11万冊以上になりました。内容は、大きく分けて3種類で、漢籍が約75,000冊、国書(日本で書かれた本)が約12,000冊、そのほか幕府の歴史や記録などが約26,000冊でした。(2

 これらの資料を利用できたのは、将軍や老中をはじめとする幕府の高官、大名、それらの人たちに覚えのめでたい儒者、文庫を管理する書物奉行などに限られていました。儒学者である荻生徂徠は「本はあらかじめ目を通しておかなければ急には役に立たない。いくら書庫に集めても、読む人がいなければ反故同然だ。だから、御文庫の書物は借りたい儒者に貸すべきだ」という意味のことを『政談』に書いています。(3

とりわけ熱心な利用者として伝えられているのは8代将軍吉宗で、借りた本を長く返さなかったことがあったため、30日という返却期限が設けられ、実際に将軍も返却の督促を受けたことがあったということです。(4)(5

 書物奉行生殺与奪の権を握っているはずの将軍に対しても発する「返却伺い」制度は、紅葉山文庫の充実に熱意をもっていた吉宗公と書物奉行との信頼関係を物語るエピソードのような気がします。

 

 (御)書物奉行という役職が初めて設けられたのは3代将軍家光のとき、1633年(寛永10年)でした。以降、江戸時代の末までに90名が任命されました。そのうち、他の分野で大きな業績をあげた書物奉行には、青木昆陽近藤守重(重蔵)、高橋景保といった人がいます。

 書物奉行の定員は時代によって異なりますが、おおむね3名から5名でした。在職年数は人によって1年から33年までと幅広く、平均すると10年前後です。

 1662年(寛文2年)以降、書物奉行若年寄支配下に入って、身分が確定します。部下には書物方同心が徐々に増えて最終的に21名、ほかに同心世話役などがいました。

 書物奉行は当初、将軍や幕府高官の呼び出しに応じて登城していましたが、1734年(享保19年)から、複数名のうちの1名が交代で紅葉山文庫に常駐する詰番制度になりました。

 

 その仕事は、ひと言でいえば文庫の運営管理ですが、具体的にはかなり多岐にわたっていました。たとえば、次のような事柄です。

○所蔵していない蔵書の収集(写本作成を含みます)

○目録の作成と改訂(蔵書が増えれば改訂版を作らなければなりません)

○蔵書の調査(利用者からの質問に備えるため、目録で確認しておきます)

○貸出と返却

○虫干し(虫害やカビの予防のため、暑い時期に蔵書を日や風に当てます)

 

参考文献:

1大槻文彦青木昆陽先生に就て」in帝国教育会編『六大先哲』(弘道館1909年)

2)「将軍のアーカイブズ:国立公文書館所蔵資料特別展」(国立公文書館のウェブサイト)

3小野則秋『日本文庫史』(教育図書、1942年)

4)新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房2017年)

5森潤三郎『決定版 紅葉山文庫書物奉行(鷗出版、2017年)

出久根達郎『御書物同心日記』(講談社1994年)=小説