図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Leibniz, Gottfried Wilhelm, 1646-1716)

 ライプニッツは、17世紀の後半から18世紀の初めにかけて、哲学と数学の分野で歴史にのこる業績をあげた人です。それだけでなく、彼は、とりたててくれた領主の命による仕事でも、みずから関心をよせて努力した仕事でも、活動の幅がとても広い人でした。そのひとつが40年にわたる図書館員としての仕事でした。

 彼はライプツィヒ大学教授フリードリヒ・ライプニッツの息子としてライプツィヒで生まれました。彼が生まれたとき、異母兄と異母姉がひとりずついて、2年後に妹が生まれましたけれど、父親はライプニッツが6歳のときに4人の子どもを残して病死してしまいます。

 少年ライプニッツは学校へ通うかたわら、家では父親の残したギリシア語やラテン語の蔵書に親しみました。哲学、法学、自然科学関係の本などを興味のおもむくままに読み進めたということです。

 およそ8年にわたってニコライ学院という学校に通ったライプニッツは、1661年、法律を学ぶために15歳でライプツィヒ大学に入学し、順調に学士、修士の学位を得ました。ところが博士号のために書いた論文が、その内容によってではなく、彼の年齢が若すぎるという口実によって、受理されませんでした。憤慨したかどうか定かではありませんが、彼はニュルンベルク近くのアルトドルフ大学に転学し、そこで博士号を授与されます。1667年2月、弱冠20歳でした。そのときライプニッツは、当地の文部大臣から教授職への就任を打診され、辞退しています。就職先とされた大学がライプツィヒ大学のような伝統校でなかったからではなく、(その後の彼の生きざまからして、)そもそも大学教授職に興味がなかったからだと思われます。

 

 仕官を目指していたライプニッツは、1667年、ニュルンベルクで幸運な出会いに恵まれます。相手は、マインツ選帝侯国の宰相を経験した40代半ばの政治家、ヨハン・クリスティアン・フォン・ボイネブルクでした。ライプニッツにとって幸運な出会いだったという理由は、次のような事実によります。

 ①ボイネブルクがすでに有力な政治家だったこと。ために、20歳そこそこのライプニッツマインツ選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンに推挙してくれ、若者の宮廷への仕官という望みがかないました。

 ②ボイネブルクが自分の蔵書の管理を任せてくれたこと。そのときの経験が、のちの宮廷図書館への任官と実務に役立ったのでした。

 ライプニッツが手がけた仕事はとても多岐にわたりました。その全貌は簡単には分かりません。領邦の顧問官という職掌は君主へのさまざまな献策を含んでおり、ライプニッツはそれらの提案の実現に主体的に関与しています。あるときは法律家として、あるときは外交官として、ときには技術者や歴史家として、長期にわたって図書館員として、というぐあいです。

 それらの中から主なものを簡単にご紹介しますと、次のようになるでしょう。

エジプト計画

 1672年3月、ライプニッツは、マインツ選帝侯国の宰相に復帰したボイネブルクの代理としてパリへ行き、フランス王ルイ14世がトルコとエジプトに対して戦いを起こすべく献策します。ボイネブルクは、何度フランスに請求しても支払ってもらえなかった債権を片づけるという重要な用件を、あわせてライプニッツに託したのでした。

 フランス王の目をヨーロッパの外へ向けることでドイツの安全を図ろうとした虫のいい提案が「エジプト計画」と呼ばれているもので、フランスからはとうぜん相手にされませんでした。なにしろ交渉の当事者は大国の重臣や国王です、ほろ苦い外交デビューはやむを得ませんね。20代半ばの若者にとっては荷が重すぎたのでしょう。

 

パリ滞在中の成果と挫折

 1672年12月と翌年2月に、ライプニッツのよき理解者だった宰相のボイネブルクとマインツ選帝侯があいついで亡くなります。当時のドイツでは雇用主である君主が亡くなれば、その後継者がひきつづき雇用してくれる保証はありませんでした。

 若いライプニッツは、学問的刺激に満ちたパリにとどまります。中でも彼に大きな影響を与えたのは、1672年にパリで知りあったオランダ人のクリスティアンホイヘンスという科学者でした。彼は数学、物理学、天文学に通じ、フランスの科学アカデミーが1666年に創立されたとき、22名の会員にただひとり外国人会員として選ばれたほどの人でした。新しい数学をほとんど学んでいなかったライプニッツが、アイザック・ニュートンと優先権争いをすることになる微積分法を1675年に確立できたのは、すでに求積法にかんする論文を書いていたホイヘンスとの交流のおかげだと言ってもよいようです。

 4年半に及んだパリ滞在中、ライプニッツは四則演算(加減乗除)のできる計算機を作ることに成功し、1675年、フランスの財務相コルベールが、王と王立天文台財務省のために3台の高価な計算機をライプニッツに注文してくれました。

 ライプニッツがパリに長く滞在した理由のひとつは、フランスの科学アカデミーの外国人会員になりたかったことでした。彼は1673年、イギリスの科学者の団体である王立協会に会員として迎えられていましたから、あながち無謀な望みではありません。さらに、自分に最新の数学の手ほどきをしてくれたホイヘンスという理解者は、フランスの科学アカデミー設立に際して、外国人でありながら真っ先に相談をもちかけられた人物のひとりでしたし、計算機を3台も買ってくれたコルベールは科学アカデミー創設の発案者でもあったからです。

 けれど、その望みがかなえられることはありませんでした。

ハノーファー公爵国での仕事の始まり

 パリで学究生活に励んでいたライプニッツを図書館員兼顧問官として招こうとした君主がいました。ハノーファーの君主ヨハン・フリードリヒ公爵でした。気の進まなかったライプニッツも、熱心な招請に根負けして1675年初めに承諾し、なおぐずぐずした末に1676年の暮れに着任します。

 以後、ライプニッツは北ドイツの公爵国で3代の君主に40年間にわたって仕えます。最初の君主はヨハン・フリードリヒ、その次が実弟のエルンスト・アウグスト、最後にその息子のゲオルク・ルートヴィヒでした。

 ヨハン・フリードリヒはライプニッツに宮廷図書館を任せたかったため、新任図書館長の着任と同時に図書館内に彼の住居をあてがいました。ライプニッツの方は図書館長だけでは不満で、枢密顧問官の職務を希望し、その望みがかなえられた1677年末以降は、君主に対してさまざまな献策を行ないます。そのひとつがハルツ鉱山の排水計画でした。

ハルツ鉱山の排水計画

 ハノーファーには鉄、錫、亜鉛、銀などを産出するハルツ鉱山がありました。領邦の経済をうるおす宝の山というわけですね。年間を通じて鉱石の産出量を安定させるために、従来の水流を動力源とする装置に加えて、風力を使って地下水を排水するのが得策だとライプニッツは考えました。鉱山を管轄する部署の根強い懸念や反対はありましたけれど、君主ヨハン・フリードリヒの了解をとりつけた彼は、1679年から1685年まで風車の試作と試運転をつづけ、結局、思わしい結果が得られないため、代替りした君主によって中止を命じられたのでした。

 その間、ライプニッツは自分の提案した企画に自信があったのでしょうか、君主と鉱山当局とともに、自分もかなりの費用を負担しました。ただし、その見返りとして、成功したあかつきに多額の年金が支給されるよう要望しています。ライプニッツの名誉のために申し添えますと、彼がお金を欲しがったのは贅沢な暮しをするためではなく、社会に役立つと思っていた多くの事業を推進する資金を得たかったからなのでした。

科学アカデミーの創設

 ライプニッツは若いころに思いついてみずから《素晴らしいアイディア》と呼んだ普遍的な言語の実現をつねに望み続けていました。「発音ではなく概念のもとになる要素を表現する特別な「アルファベット」を探し出そう。そんなアルファベットに基づく言語があれば、表現されたそれぞれの文が正しいかどうか、文と文とのあいだにどんな論理関係があるか、記号に対する計算操作によって決定できるのではないか。アリストテレスに魅せられたライプニッツは、このヴィジョンを終生にわたって堅持し続けた」(1)のでした。特別なアルファベットとは要するに記号のことで、その関連で、たとえば漢字や古代エジプトヒエログリフのような表意文字にも、彼は興味をもったのでした。

 そのような大掛りな構想は、天才といえどもひとりではとうてい実現できません。多くの賛同者・協力者が不可欠なことは、しばしば楽観的過ぎると言われたライプニッツも承知していました。彼がヨーロッパの国王や領邦の君主に科学アカデミーの創設を勧めたのは、たんに学術の振興を図るだけでなく、協賛者や協賛機関を増やそうという動機もあったからだと思われます。

 ライプニッツが科学アカデミー創設の候補地として王侯に働きかけたのは、ドレスデン、ウィーン、ベルリン、ペテルブルクなどで、その中でベルリンが彼の存命中の1700年に科学協会を誕生させ、ライプニッツが初代の会長になりました。これは、数学や哲学などの学問的な業績以外で、彼がまがりなりにも成し遂げた数少ない社会的な業績と言ってもよいでしょう。

カトリックプロテスタントの教会統合

 ライプニッツは、20代の前半から晩年まで、キリスト教の新旧両派に分かれた教会が統合されるべきだと考えていました。単に考えているだけでなく、行動を起こすのがライプニッツです。

 彼自身は新教徒でしたけれど、彼を見出して初めて重用してくれたボイネブルク男爵は旧教徒でした。このように、新教徒であることは実生活上ほとんど障害にならず、また聖職者でもないのに、なぜライプニッツは新旧両派の教会の再統合にこだわったのでしょうか。

 ライプニッツが生まれた1646年、ドイツは30年戦争(1618年-1648年)の舞台となって疲弊しきっていました。その戦争のきっかけは、ドイツ国内のひとつの領邦でのキリスト教新旧両派の争いでした。古来、内戦は外国の軍事介入の呼び水になってきました。このばあいもご多聞に漏れず、途中からヨーロッパのいくつかの国が陰に陽に介入して、複雑な利害のからむ国際戦争になってしまったのでした。

 内戦をしている国は国力と軍事力がおとろえ、外国はどちらか一方を助けるという名目を立てやすく、本音を隠して漁夫の利を得た例が多いのですね。30年戦争では、ヨーロッパのキリスト教国の多くが直接間接にかかわったため、ライプニッツ誕生の2年後の1648年にようやくヴェストファーレン条約ウェストファリア条約)が締結された講和会議には、神聖ローマ帝国(ドイツ)とその70近くの領邦からの代表、直接の交戦国だったデンマークスウェーデン、スペイン、オランダ、フランスの代表などのほか、交戦国でなかった多くの国の代表も出席しました。

 30年にわたって戦場となったドイツは、人口が大幅に減り、国土をかすめ取られ、経済が壊滅的な打撃をうけ、人心が荒廃し、社会が混乱し、復興には長い年月が必要でした。ライプニッツが人びとの対立の種となったキリスト教会の分裂に心を痛め、社会を《予定調和》にふさわしい状態にすべく粘り強く行動したのは、このような時代背景があったからだと思われます。彼の行動はおもに、身近にいる有力者(ボイネブルクやヨハン・フリードリヒなど)に行動を起こすよう依頼すること、神学者や司教などと手紙のやりとりをしたり直接会ったりして自説を理解してもらうこと、でした。

 けれど、この問題は長期間にわたって両派が入り乱れて憎み合い殺し合った根深いものだけに、彼の努力は徒労に終わりました。

ヴェルフェン家史の調査と執筆

 多額の資金をつぎこんだハルツ鉱山の排水装置改良計画が中止に追い込まれた1685年、ライプニッツは君主エルンスト・アウグストが喜びそうな企画を提案します。君主の家系調査です。過去にさかのぼれば、君主のヴェルフェン家は神聖ローマ帝国の名門エステ家にたどりつく可能性があるから調査をやらせてほしい、というわけです。

 さいわい、ライプニッツは心置きなく調査に専念できるようになりました。「君主は一六八五年八月一〇日に正式文書をもってこの提案を承認した。この新たな任務を受諾することになった結果、彼は宮廷官房の通常の任務を免じられるとともに、終身枢密顧問官の地位と称号を得て、旅費と専属の秘書とを与えられることになった」からです。(2)

 ライプニッツの調査旅行は2年半余りにおよび、彼はドイツとイタリアにある王侯貴族や修道院の図書館をめぐりました。その結果、最終的にはドイツとイタリアでエステ家と(ブラウンシュヴァイクリューネブルク一門に属する)ヴェルフェン家とが血縁関係にあった確かな証拠を発見することができました。

 ただし、ライプニッツはその調査結果を編年史体で書物化する許可を君主から得ていましたのに、諸事にまぎれて存命中に第1巻しか出版できませんでした。原稿は、「一八三四年ハノーファー王立図書館司書G・H・ペルツによって出版されるまで、ライプニッツの遺稿中に埋もれていた」(3)ということです。

ライプニッツと図書館

 博士号を取得したばかりのライプニッツは、マインツ選帝侯の前首相だったクリスチアン・フォン・ボイネブルク男爵と知り合って、彼の招きに応じて男爵邸で蔵書の管理をすることになりました。1667年春、20歳でした。

 ボイネブルクの蔵書は1万冊近くあったため、必要な書物を手際よく探し出せるように、ライプニッツはそれらを15の項目に分類するとともに、主題で検索できる目録(現在の図書館用語で件名目録と言われるもの)を整備しました。そのときに参考にしたのが、かつてドイツの書誌学者ゲオルク・ドラウドが使っていた区分法だったということです。ただし、ライプニッツがボイネブルク男爵の命にしたがってパリに行っているあいだに男爵が亡くなりましたので、目録は完成しませんでした。(4)

 ほぼ4年間のパリ滞在中、ライプニッツは、ハノーファー君主のヨハン・フリードリヒ公爵から自分の宮廷で仕事をしてほしいと熱心に招聘されていました。パリの科学アカデミーに未練のあったライプニッツは、さんざん迷ったあげく、「一切の雑用から免除される自由な研究職であること、君主に仕えるのではなく、君主が彼の研究を喜び、それを実現してくれることを要望し」て、提示された「顧問官の称号、図書館司書の地位、400ターラーの年俸」という条件をを受け入れます。(3)

 1676年、30歳で着任したライプニッツは、亡くなる1716年までの40年間、ハノーファーの顧問官と図書館長を兼任しつづけました。「ライプニッツは{ハノーファーの}ヘレンハウゼン宮殿の中の図書館に住むことになった。」「その後も図書館が移転するたびに、一緒に動いているところからすると、かなり気に入っていたのかもしれない。最高の職住接近であるが、やや公私混同の感も否めない」(5)ということです。

 上司がヨハン・フリードリヒ公のときは図書費も潤沢で、重要な分野の書物は広く集めなければならないという考えのもとに、ライプニッツは有名な個人蔵書が売りに出されるという情報を得れば、みずから買い付けに出向いたこともありました。

 けれども、ヨハン・フリードリヒ公が1679年に亡くなりますと、あとを継いだエルンスト・アウグスト公は図書館にあまり興味を示さなかったため、図書費が一気に減額されます。代わりに新君主はライプニッツの提案を受けて、ヴェルフェン家の家系調査に必要な資金をふんだんに出したほか、ライプニッツを終身枢密顧問官にしてくれたのでした。

 また、エルンスト・アウグスト公は、ライプニッツの家系調査に役立ちそうだということで、彼をヴォルフェンビュッテル図書館へ連れてゆき、1691年、彼がそこの館長をも兼任することを認めました。というわけで、1691年から死去する1716年まで、ライプニッツはふたつの図書館の館長だったということになります。

 「かれは、{ヴォルフェンビュッテル}図書館の蔵書の体系的な配列のために一〇の主要グループに分かれた実際的な分類図を作成し、カード目録で実験した。図書館を「あらゆる時代・民族の最も偉大な精神の集大成」とよんだライプニッツも、図書館で、蔵書を利用したばかりでなく、利用条件の改善にも目を向けながら、偉大な精神の持ち主として働いた」のでした。(6)

 

 生涯にわたって仕事に明け暮れたライプニッツは、絶えず複数の仕事と研究テーマを同時に進行させていたように思われます。実務面で多くの企画が挫折したのは、構想が大きすぎたことに加えて、範囲を広げ過ぎたことも一因だったのでしょう。

  彼は結婚しませんでしたので、成人してからは家族との団欒などがなく、親しい友人と言えば、君主エルンスト・アウグストの妻だったゾフィと、その娘のゾフィ・シャルロッテくらいしかいませんでした。

 君主の家系を調べるためにヨーロッパ大陸の各地を巡ったときには、まれに城郭見物なども楽しんだようですけれど、かなり詳しい彼の伝記にも、趣味、息抜き、憂さ晴らしのたぐいがまったく記述されていません。

 とくに晩年は、約束した金を払ってくれない君主(ゲオルク・ルートヴィヒ選帝侯)と、行く先を秘密にして許可なく旅行したりするライプニッツとの関係は相互不信の頂点に達してしまいます。1716年、孤立無援のうちに亡くなったライプニッツの葬儀には、「宮廷からひとりの参列者もなかった」ということです。(7)

 ただし、次の事実は、寂しく世を去りながら、後世《万能の天才》と謳われたライプニッツの真価を示すのではないでしょうか。

 (1)新しいライプニッツ研究が1900年にドイツの国家的事業として始められた。

 (2)「ハノーファーミュンスターポツダム、ベルリンの四箇所に設置された編集所で、各分野を分担し、編集、刊行が鋭意進められている。」

 (3)その結果はアカデミー版の全集として編集・刊行されている。

 (4)「一巻を上梓するのに平均四年を費やし、予定の一〇二巻が完結するのは二二世紀になるかもしれない。」(3)

 

参照文献

(1)マーティン・デイヴィス著、沼田寛訳『万能コンピュータ:ライプニッツからチューリングへの道すじ』(近代科学社、2016年)

(2)E. J. エイトン著、渡辺正雄・原純夫・佐柳文男訳『ライプニッツの普遍計画:バロックの天才の生涯』(工作舎、1990年)

(3)酒井潔著『ライプニッツ』(清水書院、2008年)

(4)World Encyclopedia of Library and Information Services, 3rd ed. (Chicago, American Library Association, 1993)

(5)佐々木能章著『ライプニッツ術:モナドは世界を編集する』(工作舎、2002年)

(6)ゴットフリート・ロスト著、石丸昭二訳『司書:宝番か餌番か』(白水社、2005年)

(7)下村寅太郎著『ライプニッツ』(みすず書房、1983年)