図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(2の1)日本図書館協会での日常業務

 ◎七尾市立図書館時代は、気持ちのよい職場、地元の人たちとの相性のよさ、義母との同居から解放された妻と可愛い盛りの長男、家庭教師や海員学校の非常勤講師などによる余分の収入など、恒雄さんにとって、キャリアの中で《最も》と言ってもよいほど、こころ穏やかに過ごすことができた時期でした。

 そんな中、日本図書館協会(略して日図協=にっときょう)事務局への転職話が舞い込みます。東京での生活は図書館職員養成所時代に2年間経験してはいましたけれど、初めはふんぎりがつきません。すると、1960年(昭和35)年4月、日図協の有山崧(ありやま・たかし)事務局長が金沢の石川県中央図書館まで出向いて、じかに恒雄さんを勧誘します。

 日図協と言えば、日本のすべての図書館員の、いわば統括団体です。その実質的な責任者である事務局長が、地方にいる若く無名の図書館員を部下に迎えるべく口説きに来てくれるとは、びっくりしますよね。そこで恒雄さんはふんぎります、「ここで辞退するのは男じゃない」と。ということで、1960年5月から65年3月まで、恒雄さんは日図協の事務局職員として仕事をします。

 有山崧事務局長は、東京帝国大学文学部を卒業後、27歳のときに文部省の嘱託となって図書館行政と縁ができた人です。1946(昭和21)年、34歳で大日本図書館協会の総務部長兼指導部長に就任し、戦争で大きな痛手をこうむった協会の再建に尽力し始め、3年後に社団法人日本図書館協会の事務局長となりました。

 恒雄さんによりますと、有山氏は、「第1に、図書館だけでなく日本の社会全体に対する強い《使命感》をもった人、第2に、ものごとの理非と人間の良し悪しを的確に見分ける《見識》の人、第3に、重い荷物を一緒にかつぎたいと思わせる《指導力》の人」だったということです。

 当時の日図協事務局には20人ほどの職員がいて、局長を除いた職員の平均年齢は20代半ば、男女の割合もほどほどで、給料が安くてもみな張り切って仕事をしていました。そのような環境にあって、恒雄さんはおよそ5年間の仕事を通じて、日本の公共図書館の実情を広く深く知るにいたります。担当した仕事は、①月刊機関誌『図書館雑誌』の編集、②年刊の統計書『日本の図書館』のための調査と編集、③中小公共図書館運営基準委員会の事務局担当でした。

 あるとき、事務局長の有山氏から「前川君は要領が悪いから好きだ」と言われた恒雄さんは、「これでいいんだ」とホッとしたということです。このばあいの《要領が悪い》は《上手に立ち回らない》ことを意味しています。ときどきヘマをやらかしていた恒雄さんは、そのことも含めて認めてもらったと感じ、「ホッとした」のでした。

 ◎そのころの『図書館雑誌』は、館界の動きがよく分かる誌面構成になっていました。たとえば、国内の図書館界の出来事を地域ブロック別に紹介するページ、若手の図書館員に発言の機会をあたえる「生活と意見」欄、協会が力を入れている活動の解説、図書館職員養成所の恩師であった柿沼介氏による「海外ニュース」、事務局の動向など、です。

 編集委員長の鈴木賢祐(すずき・まさち)氏は、編集委員に徹底的に議論させ、校正刷りに必ず目を通しました。恒雄さんは「編集者としての自信をもてるようになったのは、鈴木氏のおかげ」だと思っていました。

 普段は細かいことを指図しない有山局長でしたけれど、恒雄さんは執筆者の原稿の扱いについて厳しく注意されたことがありました。「原稿は書いた人にとって子どものようなものだから、大事にしなさい。雑誌が出たあとでも、原稿を捨ててはいけない」と。

 ◎もうひとつの担当だった年刊『日本の図書館』は、個々の公立図書館・大学図書館国立国会図書館の統計数値、名簿としての住所、電話番号などを掲載するもので、全国的な傾向や個別の図書館の実情をつかむことができるものでした。

 この仕事は、毎年、全国の図書館に調査票を発送し、職員、蔵書、登録者、貸出、資料費などの数値を記入して送り返してもらうことから始まります。

 今ではコンピュータに数値を入力して自動的に集計ができますけれど、当時はソロバンを使って全国集計をしなければならず、とても手間のかかる仕事でした。もうひとつ大変だったのは、職員数や資料費などから考えて貸出冊数がアンバランスに多い図書館が散見されたことでした。事務局の職員が電話で確かめますと、「誤記です」とか「間違えました」という返答が多い中、恒雄さんたちは、その後、中小図書館の実地調査を進める過程で、一部の図書館によるいじましい《貸出冊数の水増し》が事実だと知るにいたります。

前川恒雄さんの仕事(1)小松市立と七尾市立の図書館員

 図書館界に限っての話ではありますけれど、前川恒雄さんは多彩な職歴の持ち主でした。すなわち、

  ①市立図書館2館の館員、②日本図書館協会の事務局職員、③市の教育委員会職員、④市立図書館長、⑤市の助役と部長、⑥県立図書館長、⑦私立大学の教授、⑧私立大学図書館の図書館長相談役、です。

 このうち、最初の小松市立図書館への就職以外は、すべて招請または上司の命令に応じての就任でした。それは、人間として信頼され、司書としての熱意と力量を見込まれ、それまでの実績が評価されたからに他ならないでしょう。

 以下、私がインタビューしたときに恒雄さんが語ったエピソードを交えながら(時にはエピソードだけで)、恒雄さんの職歴をたどってみます。

 

小松市立図書館(石川県)の館員(1953年4月~1956年5月)

 辞令をもらうまで、恒雄さんは「図書館が市役所の一部だということが頭に入っていなかった」ということです。このように、恒雄さんには《世事に疎い》面がありました。

 小松市立図書館の閲覧室では、利用者が書架の本を自由に手に取ることができませんでした。と言いますのは、本を並べてある書架の利用者側に金網が張られていて、利用者はまず係員に声をかけ、読みたい本を指で押し、係員がそれを抜き出して手渡してくれるという、なんとも面倒なやり方だったからです。当時の日本の図書館では、セミオープン式(準開架式)というこの方法が普通だったのでした。

 恒雄さんが職員になって初めて採用された提案は、今と同じように利用者が自由に本に触れられるようにすることでした。蔵書が1万冊足らず、職員は館長を含めて6人でしたから、作業としては取り立てて言うほどのことではありませんけれど、利用者にとってはありがたかったでしょう。

 ◎ここでの仕事は、購入する本の選択とその整理(分類と目録作成)でした。コンピュータが使えなかった当時の目録は手書きで、本1冊につき同じカード目録を、原則として少なくとも3枚は作る必要がありました。著者名、書名、分類記号のどれからでも探せるようにするためです。

 ある日、ひとりの市会議員が図書館の書架に《赤い本》が混じっているとねじ込んできました。マルクスの『資本論』を見つけたのでした。恒雄さんは新米図書館員なのに選書を任されていましたけれど、選書結果のリストは館長が決済していました。図書館には《赤い本》も《白い本》も《黒い本》も必要なのだと館長が議員に説明しなかったため、恒雄さんは図書館の本のそろえ方について何も知らない人たちから《赤いレッテル》を貼られてしまいます。

 ある日、市の教育委員会に届いた匿名の投書を館長が読ませてくれました。そこには恒雄さんのやっていないことを、やったと書いてあり、内容が根も葉もない中傷なので、書いた人の手がかりは見つかりませんでした。

 このようにして、図書館にとって具合の悪いことが恒雄さんのせいにされるようになり、恒雄さんは館内で孤立してゆきます。愚痴に耳を傾けてくれたのは新婚の孝(たか)夫人と、図書館問題研究会(略称:図問研=ともんけん)の研究例会などを通じて親しくなった県内の図書館員たちでした。

 

七尾(ななお)市立図書館(石川県)の館員(1956年6月~1960年4月)

 1956(昭和31)年春、以前から職場にかんする愚痴を聞いてくれていた七尾市立図書館長の梶井重雄氏が「席が空いたから来るかい?」と声をかけてくれます。孝夫人にも異存がなかったので、恒雄さんは喜んでこの誘いに乗ります。

 それまで恒雄さんが暮らしたことのある町は、小松、金沢、浦和、東京などでしたけれど、七尾の人たちがいちばん性に合いました。「初めは壁があってとっつきにくいが、いったん親しくなると兄弟のようになれた」ということです。

 恒雄さんは図書館の2階で、整理の仕事と、利用者の相談に応じるレファレンスを担当していました。この係は恒雄さんを入れてふたりいて、計算上は整理の1週間分の仕事を2日でこなすことが可能でした。また、レファレンスの依頼はまれで、読書会の世話や手伝いも毎日の仕事ではないため、恒雄さんは、空いた時間に図書館関係の勉強をし、参考図書の中身や特徴を頭に入れることができました。

 読書会活動に熱心だった梶井重雄館長は、率先して昼間の読書会指導に出かけ、図書館に顔を見せないことがたびたびありました。恒雄さんは、この館長を「天馬空を行くという感じの、とてもおおらかな人柄だったので、気持ちよく仕事をさせてもらった。私の恩人のひとり」だと回想していて、梶井氏が100歳を超えても連絡をとりあっていました。

 恒雄さんは小松時代に図書館が主導する読書会に見切りをつけていましたけれど、七尾では岩波新書の『昭和史』(遠山茂樹ほか著)をテキストとした「歴史を学ぶ会」という読書会の世話役をやったことがありました。メンバーが少なく、館長が留守勝ちだったので、ときどき館長室を会場とさせてもらったということです。やはりおおらかな館長だったようですね。

 この図書館には、まじめで快活な好青年、笠師昇氏という主任司書がいて、日常の仕事のほかに図書館関係の雑誌によく投稿したり、研修会で発表もしていました。ちょうど油がのりきった感じのこの先輩は、折にふれて恒雄さんに的確なアドバイスをしてくれました。館長と主任司書だけでなく、ほかの職員も好意をもって接してくれ、七尾の図書館は恒雄さんにとってとても居心地のよい職場となったのでした。

 ◎ある土砂降りの日、閉館後の図書館で恒雄さんを含めた4人の館員がマージャンをしていて、トイレに立ったひとりが、床が水浸しになっているのに気づきました。4人いたのが不幸中の幸いで、みなが急いで書架の一番下の棚にある本を上に移して大切な本を濡らさずに済んだのでした。翌朝、マージャンのことを知らない館長から「よくやった」と褒められたということです。

 ◎1959(昭和34)年、国立七尾海員学校で英語の非常勤講師をするアルバイトの仕事が、恒雄さんに舞い込みます。出講は図書館が休館日の月曜に1時限だけ、教科書は高校レベルの英会話が中心で、恒雄さんは英語の堪能なイタリア人神父に英会話を習いながら授業を進めます。文字どおり泥縄式のこの経験が、数年後にイギリスでの研修生活で役立つことになります。

恩を忘れず、中傷をバネに

 まだ10代の後半だった前川恒雄さんは、家族5人で暮らす金沢の狭いわが家をときどき訪れていました。恒雄さんが第四高等学校(略して四高=しこう)の理科甲類、金沢大学工学部の学生だったころで、ちょうど10歳年下の私は小学生でした。恒雄さんは私の父母の甥、正確に言えば、恒雄さんの母と私の父とが姉弟、恒雄さんと私とは従兄弟、という関係です。

 私自身はあまり覚えていませんけれど、金沢に住んでいる姉によりますと、叔父・甥のふたりは、電灯を消して寝床に入ってからも話しつづけることがあったそうです。

 後年、恒雄さんは私に「お父さんにはとてもお世話になった」と何度も言っていました。安月給の数学教師だった父が、話し相手、相談相手となる以外にお世話というほどのことをしたかどうか、私は知りません。父から聞いたのは「恒雄は家からの仕送りなしで頑張っとるがやぞ」など、いつも褒め言葉でした。

 四高を受験するとき、前日からわが家に泊まっていた恒雄さんは、試験当日の朝、「受験票は持っているな」と父に声をかけられ、持っていないことに気づいて一瞬うろたえました。父がすぐ四高に電話をかけて甥を安心させたということです。これは、私が恒雄さんの自伝執筆をサポートするために、聞き取りをしていたときに聞いた話です。

 受験と言えば、私が大学入試に合格した直後、たまたま(だと思いますが)わが家にやって来た恒雄さんが「お祝いを買ってあげよう。何か欲しい物はあるかな」と言ってくれました。当時の私は、『吾輩は猫である』の登場人物、バイオリンを弾く寒月君が好きで、いつかバイオリンを弾きたいと考えていて、「近くの古道具屋に、いつまでも売れないバイオリンがあるから、それを買って」と頼みました。でも、「そんな高い物は買えないよ」と一蹴され、代わりにフランス語の辞書を買ってもらったのでした。

 恩知らずはたいがい嫌われますけれど、恒雄さんは忘恩の徒が人一倍嫌いな人でした。とうぜん彼自身は恩義を人一倍強く感じる人だったと思います。「ありがたかった」「お世話になった」「応援してくれた」「その一言で救われた」「力を与えられた」「信頼してくれた」「その人がいなければ、どうなっていたか判らない」などと、事例を挙げて何度聞いたかわかりません。

 仕事面に限ってその理由を考えれば、何かを成し遂げようと努力する過程で、しばしば無知・無理解・誤解・曲解・嫉妬などによる中傷にさらされた恒雄さんは、自分を理解し信頼してくれた人たちの小さな親切や温かい言葉が身にしみてうれしかったに違いありません。

 一般に、未熟だと自覚する人が大きな責任のともなう仕事を任されたとき、その負託に応えるべく必死に努力すること自体、自分を選んでくれた人の信頼や恩に報いようとする意味合いがあります。また、批判や中傷、偏見や冷遇などの標的にされた人が、それをバネにして成長する例も少なくありません。

 野村胡堂のエッセイ集『胡堂百話』の中に「忘れられない人達」という小篇があります。作家として歩み始めたころに注目してくれた人、銭形平次を誕生させるきっかけを作ってくれた人、雑誌に連載を書けるようにしてくれた人などを、実名をあげて紹介したあとに、次のように書いています。

 「どうにか食えるようになるまでには、無数の嘲笑と、悪罵と、陥穽の中をくぐり抜けなければならなかった。その中にあって、心からの好意というものは、それが、どんなにささやかなことでも、忘れがたいものである」と。

 童話作家アンデルセンの『自伝』には著者の敵や批判者が数多く登場し、彼は「それらの人たちをまとめて阿呆年鑑ができる」という意味のことを書いています。敵や批判者がたくさんいた恒雄さんではありますけれど、自伝を書いていれば、阿呆年鑑の代りに恩人年鑑ができていたことでしょう。

奇妙な訃報

 2020年4月10日に前川恒雄さんが亡くなって数日後、新聞にその訃報が載りました。すぐさま金沢に住む私の姉が電話をかけてきて、「あんなに偉い人だとは知らなかったわ。あんたもショックやろ」ということでした。姉が「あんなに偉い人」と言いましたのは、彼女の目にした『朝日新聞』と地方2紙の訃報が恒雄さんの業績を的確に表現していたからです。

 京都に住んでいる私も新聞数紙の訃報を確認し、つづけて図書館関係団体のウェブサイトを探しましたところ、日本図書館協会図書館情報学橘会が訃報を掲載していました。

 ところが、このふたつの訃報には、新聞各紙の訃報とは大きな違いがありました。新聞各紙が的確に伝えた前川恒雄さんの《肝心かなめの業績》に、これらの訃報が触れていない点です。書かれていることに誤りはないとしても、いちばん大事なことが全くと言ってよいほど書かれていません。前者(日本図書館協会)の訃報は、前川恒雄さんと協会との関係だけにしぼっていて、後者(図書館情報学橘会)の訃報は職歴だけにしぼっているのです。

 では、前川恒雄さんの《肝心かなめの業績》とは何だったのでしょうか。それを丁寧に説明すれば1冊の本ができあがります。《肝心かなめの業績》がたくさんあるからです。

 図書館界やマスコミでしばしば使われた前川さんの枕詞には、《先駆者》や《リーダー》があり、図書館を見下していた感のある佐野眞一氏は、『だれが本を殺すのか』の中で前川さんを《カリスマ》と呼んでいます。前川さんの死去から2週間ほど経ったとき、「天声人語」の筆者は「戦後日本の図書館のありようを大転換してくれた先人」と表現しています。言い得て妙ですね。

 その大転換のきっかけをよく理解できるのが、前川恒雄著『移動図書館ひまわり号』という本で、これは図書館関係という枠をこえた、日本の名著と言ってよいドキュメンタリーです。まだお読みでない方には、強くお勧めしたいと思います。

公立図書館でよく借りられている資料

この調査について

目的

 現在、日本の公立図書館で、どのような資料がよく借りられているかを具体的に調べること。

調査対象

 全国95自治体の図書館。

 その地区別の内訳は、北海道・東北=14、関東=19、中部=18、近畿=11、中国・四国=19、九州・沖縄=14。

 その市区町村別の内訳は、72市、1区、21町、1村。

情報源

 情報源は、各図書館がウェブサイトに掲載している「貸出ランキング」と「貸出ベスト」です。そこには、一定期間内の貸出回数が多かった順に、著者・タイトル・出版社などのほかに貸出回数が示されていて、図書館によっては、その資料の所蔵冊数(点数)や貸出可能な状態か否かなどの情報を加えているばあいもあります。

 ほかにも「ベストリーダー」という貸出ランキングを示す情報源がありますけれど、できるだけ同じ条件でランキングを調べるため、今回は情報源として採用しませんでした。

 同じ条件と言いますのは、次の3点です。

 ①すべての資料種別を対象としていること。

 ②貸出期間を「3か月」に設定できること。

 ③貸出回数の上位10件だけをカウントの対象にすること。

 また、できるだけ全国各地をまんべんなく調べられるように努めましけれど、上記①と②が妨げとなって、必ずしも目論見どおりにはいきませんでした。

調査時期

 2020年3月13日から20日まで。

 

資料について

(1)貸出ベストテンにランクインしていた資料の傾向

 ベストテン入りした資料の総数は95館×10=950となるはずのところ、資料以外をランキングに含めている例が4件あったため、以下の合計は946件となっています。

  ①児童書=419回(44.3%)

  ②小説=374回(39.5%)

  ③雑誌=57回(6.0%)

  ④視聴覚資料(AV資料)=36回(3.8%)

  ⑤エッセイ=32回(3.4%)

  ⑥実用書=28回(3.0%)

 いわゆる本が全体の約90%、雑誌と視聴覚資料が合わせて約10%を占めています。

 児童書には、絵本、まんが、子ども向けの読み物や図鑑などを含めています。

 大人の読む本を小説・エッセイ・実用書などに分けたのは、小説の占める割合を知りたかったからで、各図書館が貸出ランキングで「実用書」と区分している例はありません。その結果、(この調査にかんする限り)図書館で借り出される全資料のおよそ40%が小説だとわかりました。

(2)特徴のある貸出ベストテンの例

⦿いろいろな種類の資料がベストテンを構成していた図書館

 上記(1)では、資料を6種類に分けています。そのうちの5種類によってベストテンが構成されていたのは次の3館です。

  気仙沼市図書館(宮城県)=小説4+エッセイ1+児童書1+雑誌2+AV資料2

  松田町図書館(神奈川県)=小説3+エッセイ3+実用書2+児童書1+AV資料1

  隠岐の島町図書館(島根県)=小説1+エッセイ1+実用書1+児童書6+AV資料1

 4種類の資料によってベストテンが構成されていたのは次の21館でした。

  由利本荘市図書館(秋田県)  角田(かくだ)市図(宮城県

  南陽市立図書館(山形県)  瑞穂町図書館(東京都)

  加賀市立図書館(石川県)  都留市立図書館(山梨県

  高山市図書館(岐阜県)  川越町あいあいセンター図書室(三重県

  川上村立図書館(奈良県)  新宮市立図書館(和歌山県

  美咲町立図書館(岡山県)  安来(やすぎ)市立図書館(島根県

  安芸高田市立図書館(広島県)  善通寺市立図書館(香川県

  美馬市立図書館(徳島県)  四万十市立図書館(高知県

  田野町立図書館(高知県)  多久市立図書館(佐賀県

  時津町立時津図書館(長崎県)  西之表市立図書館(鹿児島県)

  那覇市立図書館(沖縄県

 ⦿児童書が貸出ベストテンの1位から10位を独占した図書館は以下の8館

  つくばみらい市立図書館(茨城県)  高崎市立図書館(群馬県

  匝瑳(そうさ)市立図書館(千葉県)  立川市図書館(東京都)

  池田町図書館(岐阜県)  瀬戸市立図書館(愛知県)

  和泉市立図書館(大阪府)  神埼市立図書館(佐賀県

⦿児童書が貸出ベストテン中で9点を占めた図書館は以下の11館

  福島市立図書館(福島県)  深谷市立図書館(埼玉県)

  津幡町立図書館(石川県)  甲府市立図書館(山梨県

  舞鶴市立図書館(京都府)  橋本市図書館(和歌山県

  大山(だいせん)町立図書館(鳥取県)  鏡野町立図書館(岡山県

  徳島市立図書館(徳島県)  西条市立図書館(愛媛県

  日田市立図書館(大分県

⦿小説が貸出ベストテンの1位から10位を独占した図書館は以下の6館

  常陸大宮市立図書情報館(茨城県)  川口市立図書館(埼玉県)

  豊中市立図書館(大阪府)  猪名川(いながわ)町立図書館(兵庫県

  豊後大野市図書館(大分県)  芦北町立図書館(熊本県

⦿小説が貸出ベストテン中で9点を占めた図書館は以下の3館

  市立米沢図書館(山形県)  妙高市図書館(新潟県

  島原市立図書館(長崎県

⦿雑誌が貸出ベストテンの1位から10位を独占した図書館は次の1館

  柳井(やない)市立柳井図書館(山口県

⦿雑誌が貸出ベストテンの過半数を占めた図書館は以下の2館

  砺波市立図書館(富山県)6点

  時津(とぎつ)町立時津図書館(長崎県)6点

⦿視聴覚資料がベストテンの過半数を占めた図書館は次の1館

  大泉町立図書館(群馬県)6点

(3)貸出ベストテンに10回以上ランクインした本

 下記の6人による9著作のうち、7著作が小説、エッセイと絵本が各1著作です。小説がよく借りられていたことが分かりますね。

  21回 東野圭吾『希望の糸』(講談社、2019年)

  19回 恩田陸蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、2016年)

  14回 瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋、2018年)

     東野圭吾『沈黙のパレード』(文藝春秋、2018年)

  12回 恩田陸『祝祭と予感』(幻冬舎、2019年)

     かがくい・ひろし『だるまさんが』(ブロンズ新社、2010年)

  11回 今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版、2019年)

  10回 樹木希林『一切なりゆき』(文藝春秋、2018年)

     東野圭吾『魔力の胎動』(KADOKAWA、2018年)

     湊かなえ『落日』(角川春樹事務所、2019年)

(4)貸出ランキングでベストテン入りした雑誌は20誌

 その20誌には女性が関心・興味をもつ雑誌が多く、貸し出されたのはすべて最近(2019年11月から2020年2月まで)に刊行された号でした。3回以上ベストテン入りしたのは次の9誌です。

  7回=『文藝春秋』(文藝春秋

  6回=『アニメージュ』(徳間書店アニメ雑誌)(1図書館で6回)

  5回=『ESSE』(扶桑社の女性向け生活情報誌)

  4回=『婦人公論』(中央公論新社

        『クロワッサン』(マガジンハウスの生活情報誌)

     『すてきにハンドメイド』(NHKの番組テキスト)

      3回=『オレンジページ』(オレンジページの生活情報誌)(1図書館で3回)

       『トライアングル』(山口県タウン情報誌)(1図書館で3回)

       『ゆうゆう』(主婦の友社の女性向け情報誌)

(5)貸出ランキングでベストテン入りしたエッセイ

 10人の著者の14著作がベストテン入りしました。10人の著者のうち7人が女性、3人が男性です。ベストテン入りの回数が多かったのは次の4点です。

  10回=樹木希林『一切なりゆき』(文藝春秋、2018年)

  4回=樹木希林樹木希林120の遺言』(宝島社、2019年)

     矢部太郎『大家さんと僕』(新潮社、2019年)

  3回=佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』(小学館、2016年)

 

貸出ランキングでベストテン入りした本の著者・作者

 ベストテン入りした著者・作者の総数は218人でした。共著のばあいは代表者だけをカウントし、団体名らしい著者名も1人と数えた結果です。情報源に著者名が記載されていないばあいは、あえて調べませんでした。

(1)ベストテンに5回以上ランクインした著者は37人

  74回=東野圭吾

  63回=原ゆたか

  58回=トロル

  33回=恩田陸

  21回=宮部みゆき

  20回=島田ゆか

  19回=かがくい・ひろし

  16回=湊かなえ  樹木希林  藤子・F・不二夫

  14回=瀬尾まいこ

  12回=斉藤洋  ヨシタケ・シンスケ

  11回=今村夏子  ゴムドリco.

  10回=辻村深月

  9回=いわい・としお  わかやま・けん

  8回=中山七里

  7回=浅田次郎  小川糸  内館牧子

     佐伯泰英  堂場瞬一  馬場のぼる

  6回=相原和則  安西水丸  ぎぼ・りつこ

     畠中恵  村田紗耶香  エウゲーニー・M. ラチョフ

  5回=エリック=カール  佐野洋子  せな・けいこ

     平山和子  洪在徹(ほん・じぇちょる)  又吉直樹

(2)1著作だけでベストテンに10回以上ランクインした著者とその著書

  瀬尾まいこ=『そして、バトンは渡された』だけで14回

  今村夏子=『むらさきのスカートの女』だけで11回

(3)著作5点以上がベストテンにランクインした著者

 13人中、10人が児童書の著者・作者です。以下の表記は、著者名=ベストテン入りの回数(その対象となった作品点数)となっています。

  東野圭吾=74回(11点)

  原ゆたか=63回(かいけつゾロリシリーズ34点)

  トロル=58回(おしりたんていシリーズ17点)

  宮部みゆき=21回(5点。『この世の春』上・下を1点として)

  島田ゆか=20回(バムとケロのシリーズ5点)

  藤子・F・不二夫=16回(ドラえもんシリーズ14点)

  斉藤洋=12回(おばけずかんシリーズの6点)

  ヨシタケ・シンスケ=12回(7点)

  ゴムドリco. =11回(かがくるbookシリーズの9点)

  佐伯泰英=7回(居眠り磐音シリーズの4点と新・酔いどれ小藤次の1点)

  相原和則=6回(ポケモンをさがせシリーズの5点)

  ぎぼ・りつこ=6回(しずくちゃん・シリーズの6点)

  洪在徹=5回(サバイバル・シリーズの5点)

 

調査によって分かったこと

(1)よく借りられた本の著者のほとんどが現在活躍中の日本人で、外国人の著者は(DVDやCDなどの視聴覚資料を除いて)4人しかいませんでした。いずれも児童書の著者(エリック=カール、ゴムドリco.、洪在徹、エウゲーニー・M. ラチョフ)です。

(2)よく借りられた一般書(小説・エッセイ・実用書)の初版の発行年は、ほとんど2015年以降でした。

(3)それに対して、よく借りられた児童書の発行年は、1970年代にさかのぼります。

たとえば、1970年代には『ドラえもん』、『はらぺこあおむし』、『100万回生きたねこ』、『11ぴきのねこ』が発行され、1980年代には『しろくまちゃんのホットケーキ』、『くだもの』などが登場して、今も読み継がれている作品が少なくありません。

(4)図書館ごとの貸出ランキングに着目しますと、やはり児童書と小説のランクインの多さが目立ちますけれど、いろいろの種類の資料がまんべんなく借りられている図書館も少なからずあって、全体としては、それなりに多様であることが分かります。

(5)「貸出ランキング」「貸出ベスト」「ベストリーダー」は、多くのばあい「予約ランキング」とセットになって公立図書館のウェブサイトに掲載されていて、よく読まれている本や人気のある著者のガイドの役割を果たしていると思われます。

 

 

 

 

 

 

図書館へ本を寄贈する人たち(6)小さな団体の継続的な寄贈

 設立の基本的な理念に「社会貢献」や「社会奉仕」を掲げる団体は、日本にもたくさんあります。その多くは国際的な団体で、その末端の構成単位はそれぞれ独自の社会貢献活動を展開しています。ここでは、構成単位が比較的長期間にわたって図書館に本を寄贈している例を取り上げます。本の購入資金を寄付しているばあいは、とりあげていません。

 

(1)ライオンズクラブ

 1917年にアメリカで創設されたライオンズクラブは、現在、200以上の国と地域で約46,000のクラブ(構成単位)の約140万人がさまざまな分野で活動している世界最大の奉仕団体です。日本には2,950のクラブがあり、会員数は11万人余りです(2020年1月末のデータ)。

 クラブ名にあるライオンズは、猛獣のライオンを意味するのではなく、発足当初に掲げたスローガンであるLiberty, Intelligence, Our Nation’s Safetyの頭文字をつなげたものです。いくつか例を挙げますと、

⦿会津若松ライオンズクラブ福島県) ⇒ 会津若松市会津図書館

  1970年度から50年間にわたって本を寄贈。

⦿下関ライオンズクラブ山口県) ⇒ 下関市立図書館

 1972年から48年間にわたって本を寄贈し、累計約2,800冊。

⦿福島信夫ライオンズクラブ福島県) ⇒ 福島県立図書館

 1976年度から35年間にわたって児童図書を寄贈。

⦿森ライオンズクラブ(北海道) ⇒ 森町図書館

  1983年から37年間にわたって大型絵本などを寄贈し、累計約700冊。

 

(2)ロータリークラブ

 1905年にアメリカで創設されたロータリークラブは、2017年現在、200以上の国と地域にある約36,000のクラブと120万人の会員がさまざまな分野で活動している団体で、その目的のひとつに社会奉仕をかかげています。日本には、2016年8月末現在で、2,274クラブに89,302人の会員がいます。(『ロータリーの友』のウェブサイト)

 この団体にはいくつかの特徴があります。①ひとつのクラブの会員は1業種から1名しか選ばれないこと、②毎週ひらかれる定例会に原則として必ず出席しなければならないこと、③年会費が高めなこと、などです。

⦿古川ロータリークラブ宮城県) ⇒ 大崎市図書館

 1961年度からほぼ60年間にわたって大活字本を寄贈。

⦿光ロータリークラブ山口県) ⇒ 光市立図書館

 1982年から38年間にわたって本を寄贈。図書館にロータリー文庫のコーナーあり。

⦿長崎南ロータリークラブ長崎県) ⇒ 長崎市立図書館

 1989年から30年間にわたって本を寄贈。

 

(3)国際ソロプチミスト

 1921年アメリカで初めて結成されたソロプチミストクラブは、現在、「4つの連盟(アメリカ連盟、ヨーロッパ連盟、グレートブリテンアイルランド連盟、サウスウェストパシフィック連盟)で構成され、約130ヶ国に3,000のクラブ、80,000人の会員を有する、女性の世界的な奉仕団体」となっています。

 「ソロプチミストという語は、”soror ソロ(姉妹)”と”optimaオプティマ(最良)”という2つのラテン語から作られたもので、「女性にとって最良のもの」という意味」だそうです。(同団体の「アメリカ日本中央リジョン」のウェブサイト、20200303)

 日本には5つのリジョンに495のクラブがあり、10,800人余りの会員がいます(20180430現在)。

⦿国際ソロプチミスト水戸(茨城県) ⇒ 茨城県立図書館

 1979年から40年間にわたって本を寄贈。累計で15,000冊以上。

⦿国際ソロプチミスト福島(福島県) ⇒ 福島県立図書館

 1979年度から40年間にわたって児童図書を寄贈。累計3,000冊以上。

⦿国際ソロプチミスト堺(大阪府) ⇒ 堺市立中央図書館

 1990年度から30年間にわたって外国語の絵本を寄贈。累計1,000点以上。図書館には「国際ソロプチミスト堺文庫」のコーナーあり。

⦿国際ソロプチミスト徳山(山口県) ⇒ 周南市立中央図書館

 2003年から16年間にわたって外国語の本を寄贈。

⦿国際ソロプチミスト米子(島根県) ⇒ 米子市立図書館

 1990年から30年間にわたって児童書を寄贈し、累計約2,000冊。図書館の児童図書室には「国際ソロプチミスト寄贈図書コーナー」あり。

 

(4)ゾンタクラブ

 1919年にアメリカで最初につくられたゾンタクラブは、徐々にアメリカ以外の国にも拡がってゆき、1930年の世界大会で正式に「国際ゾンタ」(Zonta International)という連盟になりました。Zontaという語は、アメリカのスー族が話していた言葉にあるもので、「正直で信頼できる」という意味だということです。

 このクラブは、長いあいだ専門職・管理職にある女性だけのクラブでしたけれど、最近では男性も会員になれるようになりました。

 名古屋SORAゾンタクラブのウェブサイトによりますと、「現在、68ケ国に1,200以上のクラブ{があって}33,000名の会員がいます。会員の職業は100余種に分類され、クラブ入会は一業種数名を原則とし、国際ロータリーに匹敵するもの」だそうです。現在、日本では46のクラブに約1,000人の会員が活動しています。

⦿鳴門ゾンタクラブ(徳島県) ⇒ 鳴門市立図書館

 1999年から20年間にわたって大活字本を寄贈。累計は1,365冊。

⦿国際ゾンタ福島ゾンタクラブ(福島県) ⇒ 福島県立図書館

 1997年度から20年以上、ほぼ毎年、児童図書を寄贈。

 

(5)図書館友の会

 図書館友の会や図書館サポーターズにも、公立図書館に本を寄贈している例があります。たとえば、

 ⦿芦別市立図書館(北海道)の図書館友の会ピーターパンは1996年に発足し、現在の会員が7名と小粒ながら、「毎年主催の古本市では売上げで児童書を購入し、今までに946冊寄贈して」います。(同館の『図書館ニュース』2018.3)

 ⦿1998年に発足した小平図書館友の会(東京都)は、年1回開催のチャリティ古本市で、市民から寄付された本を販売し、純益金で買った新刊本を小平市立図書館に寄贈しています。2019年のばあい、「古本を寄付してくださった方350人以上、寄付本の数24,400冊、来場者数1,440人、売上冊数9,600冊、売上金329,000円、小平市立図書館への寄贈本252冊」だということです(同会のブログ、20200207)。年に1回の催しとはいえ、なかなか盛大ですね。

 ⦿根室市図書館(北海道)の古本市実行委員会・図書館ボランティアは、2019年6月、第47回古本市で市民から提供された14,190冊の本を3,587冊販売、その収益金310,900円によって児童書を購入、古本市実行委員会が図書館に寄贈することになりました。(同館の『図書館ニュース』2019.6)

 同館の2013年から2018年の『図書館ニュース』6・7月号にはいつも古本市がトップニュースになっていて、市民から提供された本の冊数、売れた本の冊数、収益金額などが、2019年の実績を上回っています。ニュースの見出しどおり、毎年「大盛況」のようです。

 また、2019年度に同館へ寄せられた10件以上の本の寄贈者には、匿名で45年間にわたって寄贈をつづけている「ミセス・クロース」さんと、同じく匿名で20年間にわたって寄贈をつづけている「夢さん」が含まれています。

 

(6)法人会

 日本には、中小企業や個人経営者でつくる法人会という地域団体(公益社団法人・一般社団法人)があります。その全国組織である全国法人会総連合の会員企業は約80万社、構成単位である各地の法人会は440にのぼっています。

 この団体の活動は税制にかんするものが中心ではありますけれど、「地域社会への貢献」も含まれていて、災害復興支援、献血、清掃などとともに図書館への本の寄贈が行われています。たとえば、

 ⦿青森法人会青森県)は2000年から青森市民図書館に継続して本や紙芝居を寄贈しています。2019年までの累計で本が523冊、紙芝居が739巻に達したそうです。

 ⦿佐世保法人会長崎県)は2002年度から「毎年、佐世保市川棚町波佐見町東彼杵町小値賀町の1市4町の中学校に図書の寄贈を続けており、10年間の寄贈合計は図書5492冊(877万円相当)と書架31セット(85万円相当)」になったということです。

⦿益田法人会島根県)は2010年に益田市立図書館へ児童図書を寄贈し始め、2017年には累計596冊になりました。図書館には「益田法人会文庫」 コーナーが設けられています。

図書館へ本を寄贈する人たち(5)個人による大量の蔵書の寄贈

 個人がまとまった蔵書を図書館に寄贈した例は、無数と言ってよいほどにあります。寄贈者の多くは作家や学者ですけれど、ほかにも実業家、政治家、軍人、官僚、宗教関係者、在野の研究者・専門家、(古)書店主、愛書家、旧家の当主、コレクター(地図・写真・レコード・書画)などとその遺族・関係者がいます。

 生きているうちに個人が図書館にまとまった蔵書を寄贈するばあい、生まれ育った地やゆかりの地、それらの土地でよしみを通じた人びとへの「恩返し」の気持ちが、しばしば底流にあります。たとえば、

 

 19世紀後半に活躍してわずか44歳で亡くなったロシアの小説家・劇作家アントン・チェーホフ1860年-1904年)は、十代の後半に一家が破産して経済的な苦境に立たされます。ところが、1876年、チェーホフが16歳のとき、住んでいたタガンローグに市立図書館ができ、彼は貧しくて買えなかった本を図書館で読むことができるようになったのでした。その利用には保証金が必要でしたが、不都合なことが何もなければ夏休みの前に返金してもらえました。

 後年、短篇小説と戯曲によって文名の高まったチェーホフは、社会福祉活動に資金を投じ、3つの学校の建設費を負担したりしました。その中のひとつが、生まれ育ったタガンローグの図書館への本の寄贈で、手元には必要な本だけを残し、市長には送り主を伏せておくように頼んだ上で、1894年から98年まで、10回以上にわたって寄贈をつづけたのでした。(1)

 

 国語学者金田一春彦(1913年-2004年)は、高校卒業時と晩年の少なくとも2度、図書館に本を寄贈しています。

 最初は、1927年3月、旧制浦和高校を卒業して東京帝国大学への進学が決まったとき、「大学は授業が始まるのが遅いので、四月十日すぎまで浦和の三上家にいた。私は私を幸せにしてくれた埼玉県に感謝の気持ちで、持っていた本を相当量埼玉図書館に寄贈した」のでした。(2)

 2度目は1998年、彼が山荘を建てていた山梨県大泉村八ヶ岳大泉図書館に、方言に関する蔵書およそ22,000冊を寄贈したものです。それが2004年に北杜市立図書館に含まれる「金田一春彦記念図書館」の一角、「金田一春彦ことばの資料館・日本の方言コーナー」として残され、利用されるようになりました。「ここには先生が生前収集された蔵書・資料などが、約2万8千点あり、先生の直筆の原稿などが約100点収められている展示コーナーなど」があるということです。(北杜市立図書館のウェブサイト、20200115)

 

 次に、太平洋戦争終結直後に、西北研究所の所員の発案で、中国・天津(てんしん)にいた日本人の本を天津図書館に寄贈した、奇妙な例をご紹介します。

 西北研究所というのは、1944年にモンゴルの張家口(ちょうかこう)という町に設立された研究機関でした。所長は今西錦司、副所長は石田英一郎、研究員には藤枝晃、磯野誠一・富士子夫妻、梅棹忠夫など、のちに生態学民族学文化人類学東洋史学などの分野で立派な仕事をした人たちがいました。けれども、研究所としての活動は、1944年春から翌45年夏までの、1年余りに過ぎませんでした。理由は、日本の敗戦です。

 広島に原爆が投下され、その数日後にソ連が参戦したとき、ソ連軍と外モンゴル軍が張家口に入ってくることを恐れた研究所の人たちは、天津へ避難しました。以後のいきさつは、当時まだ正式の研究所員でなかった梅棹忠夫の後年の回想(3)によります。

 到着した天津の町は平和で、居留民団や軍からの放出物資が豊かでした。各地から天津に避難してきた日本人のための収容所は、出入りが自由で、所内に学校ができ、映画会や演芸会も開かれました。天津にいる人たちの引揚げが近づきますと、多くの人が故国に持って帰れない身の回りの品々を売り始めました。帰国時の荷物に制限があったからです。そのような状況下、藤枝晃という30代半ばの研究所所員が「古本屋」を開業しました。店の要領は次のとおりです。

 発案:藤枝晃所員。

 目的:日本人の持っている「文化財」を、中国(天津の図書館)に寄贈すること。

 資金:在留日本人が提供し、総領事館を経て支出。

 商品:「低俗な読み物から、高級な学術書まで」。

 売買:本は売らずに、客が持参した本を現金で買うだけ。

 買値:「一律に定価の一〇倍」。

 店員:「大番頭」=藤枝晃、「店長と会計係」=総領事館関係者、「手代」=梅棹忠夫

 首尾:大繁盛。

 なお、発案者の藤枝晃研究所員は、西北研究所の所員となる前に、京都の東方文化研究所で短期間ながら図書室勤務の経験がありました。

 

 「文化財」や「古本屋」で思い出すのは、日本近代文学館(公益財団法人)に寄せられた多くの寄贈の第1号です。日本近代文学館のウェブサイトにある「文庫・コレクション一覧」のトップに記載されているのが、ひとりの古書店主による1,200回にわたる寄贈だからです。

 1963年に設立されたこの団体は、作家、研究者、出版社、新聞社などの協力によって維持・運営されてきた、日本の「近代文学に関する総合資料館、専門図書館」でもあります。そこは「現在、図書や雑誌を中心に、数々の名作の原稿も含め、120万点の資料を収蔵」していて、個人による寄贈の文庫とコレクションは2018年末で164件に上っています。その中には著名な作家の原稿や書簡、日記や愛用していた日用品などが数多く含まれていて、それらはまさしく「文化財」にほかなりません。

 また、ここは専門図書館を自称するだけあって、15歳以上が利用でき、館内での閲覧(1日300円)やコピー(モノクロ1枚100円)などのサービスを受けられますが、貸出はしていません。

 寄贈の第1号といいますのは、1963年に始まった品川力(しながわ・つとむ)という古書店主による寄贈でした。「文庫・コレクション一覧」の「概要」によりますと、「26,801点。寄贈回数は1,200回を超す。内村鑑三原稿、織田作之助書簡などの肉筆のほかポー、ホイットマン文献など稀覯書多数」ということです。ご子息の品川純氏は「日本の古本屋」のメールマガジン(20130917)で次のように書いています。「父の持論で、貴重な文献類は自分一人で死蔵せず、また散逸しないように駒場日本近代文学館にせっせと愛車の自転車で運んでは寄贈していました。」

 寄贈回数が1,200回を超えたのは、自転車で運んだからなのですね。

 

 昔から洋の東西を問わず、図書館を支援する寄付者・寄贈者が何らかの条件をつける例が少なくありませんでした。たとえば、

 民俗学者柳田国男(やなぎた・くにお)は、1947年、大量の蔵書とともに自宅で民俗学研究所を開設しましたけれど、10年後の1957年に閉鎖のやむなきにいたりました。そのとき蔵書の移管を引き受けたのは成城大学でした。仲介の労をとったのは柳田に師事していた今井富士夫教授、引き受けた図書館長は柳田と同郷の池田勉教授ということで、さらに都合のよいことには、大学が新しい図書館を建設中でした。

 正式に寄託に合意するとき、「この本を使用されていた{柳田}先生は、移管して後も直ちにそのまま継続して使用できることが第一条件だった」ということです。また、「晩年まで関心を持ち続けた南島研究については、自分の収集した文献を基にして、さらに推し進めるように本学{成城大学}に要望した」のでした。その要望に応えて、成城大学の文芸学部には文化史コースが設立されています。

 その後、柳田国男が亡くなりますと、遺言によって蔵書はすべて大学に寄贈され、1973年には成城大学民俗学研究所が創設されています。なお、同大学に寄贈された柳田文庫の蔵書は、「和漢書約15,500冊、洋書約1,500冊、逐次刊行物約1,500種」だということです。(成城大学のウェブサイト、20200203)

 

 公立図書館や大学図書館にまとめて寄贈された本は、ほとんどのばあい、旧蔵者や遺贈の労をとった人の満足できる結果になりますけれど、ごくまれに寄贈する側の期待が裏切られることもあります。たとえば、

 14世紀イタリアの詩人で、ルネサンスの先駆者のひとりとされるフランチェスコ・ペトラルカは、公共図書館を創設するために自分の蔵書をヴェネチアに寄贈しました。彼は交換条件として住まいの提供をもとめ、その条件は満たされたものの、いつまでも図書館はつくられることなく、彼の死後、その蔵書はヨーロッパ各地に散らばってしまいました。

 2017年、日本でも、桑原武夫京都大学名誉教授の遺族が京都市図書館に寄贈した約1万冊の本が廃棄される例がありました。図書館は、受け取った本を段ボール箱およそ400箱に入れたまま6年間放置し、あげくの果てに古紙回収に出したのでした。いろいろな意味で、何とも残念です。

 

参照文献:

(1)佐藤清郎『チェーホフの生涯』(筑摩書房、1966年)

(2)金田一春彦『わが青春の記』(東京新聞出版局、1994年)

(3)梅棹忠夫『回想のモンゴル』(中公文庫、1991年)