図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館へ本を寄贈する人たち(4)図書館から図書館への寄贈

 図書館は本の寄贈を受けるだけでなく、さまざまな機会に他の図書館へ本の寄贈をしてきました。

 その中で、最近まで多かったのは、図書館が自館の刊行物(年報、要覧、報告書、紀要、蔵書目録など)を他館へ寄贈するというパターンでした。けれども、それらの刊行物をインターネット上に掲載する傾向が強まった今では、物理的な形の寄贈が以前とくらべてかなり少なくなっています。

 

パターン1:蔵書のまるごと寄贈(または移管)

 明治から大正にかけて日本各地に多くの私立図書館ができ、やがてそれらが寄贈や移管というかたちで町立・市立の図書館となりました。時代が昭和に下ってからもわずかながら例があります。

 1939年にまだ20代だった浪江虔(なみえ・けん)という人がたった一人で創設した私立南多摩農村図書館の蔵書の一部が、私立鶴川図書館と名称を変えるなどの曲折をへて、1990年に町田市立鶴川駅前図書館に収められました。この人は10代の中ごろに日曜学校図書館をつくったほど図書館に強い関心をもち、全国の農村に図書館をひろげる理想を追いながら、晩年には長く日本図書館協会の常務理事としても活躍しました。

 

 もうひとつ例を挙げますと、2018年に高知県立図書館と高知市民図書館が一緒になってオープンしたオーテピア高知図書館には、「塩見文庫」というコーナー(13,000冊)があります。この文庫のもとになったのが、高知県選出の国会議員だった塩見俊二・和子夫妻が1966年(高知市)に設立した私立図書館です。

 ふたりは、毎月、合わせて3万円を本の購入に充て、後には有志の協力も得て私立「塩見文庫」を開設したのでした。その後、財団法人による小津図書館となり、1991年に財団法人の解散にともなって土地、建物、蔵書が県に寄贈されたというわけです。

 なお、このオーテピア高知図書館は、県立図書館と市立市民図書館とがオーテピアという建物に共存し、共通の利用カードで利用できるようになっている、とても珍しい例です。

 

 これも最近の例ですが、2007年に豪日交流基金オーストラリア図書館が閉館したとき、その蔵書がまるごと追手門(おうてもん)学院大学図書館大阪府茨木市)へ寄贈されました。

 豪日交流基金は、オーストラリアと日本の交流を促進する目的でオーストラリア政府によって1976年に設置された機関で、現在は外務貿易省の傘下で活動しています。この機関が管理・運営してきたのが在日大使館内にあったオーストラリア図書館でした。そこではオーストラリアにかんする本や雑誌に加えて、視聴覚資料や電子資料も利用することができました。

 この図書館が2007年の5月いっぱいで閉館するとき、蔵書の寄贈先として選ばれたのが追手門学院大学図書館でした。この大学にはオーストラリア研究所があるなど、40年にわたってオーストラリア研究に取り組んできた歴史があったからです。同年10月に寄贈された蔵書は、約15,000点(洋書10,000冊、和書3,000冊、視聴覚資料ほか2,000点)で、追手門大学図書館の3階にある「オーストラリアライブラリー」で利用に供されています。

 

 最後は、図書館からではなく、図書館をもたなかった学会から、図書館へ蔵書をまるごと寄贈した例です。

 1948年に創立された日本考古学協会(一般社団法人)は、全国の会員や歴史関係の学会、自治体の教育委員会、歴史博物館などから図書や調査報告類の寄贈を受けてきて、その資料は万単位に膨れ上がりました。けれども、協会として図書館(室)を持ったことがなく、2000年からはそれらを埼玉県内の貸倉庫に保管していました。ために、貴重な資料をほとんど利用できないだけでなく、保管料もかさみます。

 そこで、公的機関に一括で寄贈することになり、最終的に決まった寄贈先が2013年に公募に応募した奈良大学図書館でした。奈良大学には文化財学科があり、図書館のほかに博物館をも備えていて、適格だと判断されたものです。

 同館の森垣優輝氏によりますと、「所蔵資料の1割強は一般社団法人日本考古学協会から受贈した資料群である。登録冊数は6万1,799冊(図書4万4,312冊、逐次刊行物1万7,487冊)で、発掘調査報告書がこのうち3万6,515冊あり、中にはガリ版刷りで流通量が少なく貴重な報告書も含まれている。2014年末から当初3年計画で受入を開始し、約半年間の延長を経て2017年10月に受入を完了した」ということです。(「奈良大学図書館における日本考古学協会図書の受贈事業について」カレントアウェアネス、no. 339, 20190320)

 なお、日本考古学協会は、その後に寄贈を受けた資料も奈良大学図書館に寄贈しつづけています。

 

パターン2:不要資料を活用してくれる図書館への寄贈

 ジェトロ・ビジネスライブラリーは、日本貿易振興機構ジェトロ独立行政法人)が運営する貿易関係専門の図書館(東京・大阪)でしたが、2018年2月いっぱいで閉館することになりました。その理由は、「長年にわたり、海外ビジネスに関する書籍資料やデータベースによる情報提供を行って」きたけれども「資料の電子化やインターネットの普及による技術進歩など情勢の変化などを踏まえ、書籍資料の閲覧・利用による情報提供業務を終了する」ことになったからでした。(ジェトロのウェブサイト、20200206)

 閉館にともなって所蔵資料を寄贈するとの情報(国立国会図書館のカレントアウェアネス専門図書館協議会のウェブサイト)がありましたので、その寄贈先や寄贈冊数の概数をアジア経済研究所図書館にメールで問い合わせましたところ、次のような内容の回答を得ました。(20200204)

 ①寄贈情報については、機構として公開していない。

 ②所蔵する資料のバックナンバーは、従来より長年定期的に寄贈先を募って、寄贈を行ってきた。

 ③ビジネスライブラリ―が所蔵していた資料のうち、ジェトロ出版物と途上国関連資料は、アジア経済研究所図書館が引き継いでいる。

 というわけで、どれほどの図書館等がどれほどの量の寄贈を受け入れたかは分かりませんけれど、このばあいは、ひとつの図書館が複数の図書館に本や継続出版物を寄贈した例になるようです。

 

 次は私立大学図書館協会の寄贈資料搬送事業です。

 私立大学図書館協会は1938年に創立された4年制私立大学の全国的な協力組織で、現在は私立大学のおよそ9割、524校が加盟しています。協会全体、東地区と西地区に分けた部会、西地区を5区分した地区協議会がさまざまな活動をしている中で、加盟図書館の寄贈資料搬送事業は、協会の委員会のひとつである国際図書館協力委員会が担当して、1995年から取り組んでいるものです。その方法は次のとおりです。

 ①国際図書館協力委員会は、年に2回、加盟図書館による海外の大学図書館等への資料寄贈の申込みを受けつける。

 ②加盟図書館はあらかじめ寄贈先と打合せをした上で、資料の内容、数量を添えて申し込む。

 ③委員会が申込みを審査し、問題がなければ寄贈先への費用を協会として負担する。

 この協会には国際図書館協力基金という特別会計があり、毎年、原則1口5万円で寄付金を集め、国際図書館協力委員会のいくつかの事業のために使っています。その事業のひとつが寄贈資料搬送事業というわけです。

 ここ数年の寄贈先は、台湾、ラトビアザンビアスリランカ、ガーナ、ミャンマーキルギスなど、アジア、アフリカの大学(図書館)と国立図書館でした。冊数は40冊ほどから500冊、600冊以上など、さまざまです。

 なお、2018年度に協力基金を支援した企業には、大学図書館とかかわりのあるカルチャージャパン、紀伊国屋書店、キャリアパワー、極東書店、図書館流通センターナカバヤシ、日本ファイリング、丸善雄松堂が挙がっています。(同協会のウェブサイト、20200130)

 この私立大学図書館協会のばあいは、加盟している大学図書館が、不要になった資料を海外の図書館に寄贈している例ということになります。

 

パターン3:自国の理解促進のための寄贈

 このパターンは、当ブログでご紹介した前回の例と趣旨は同じですけれど、図書館から図書館への寄贈という点で異なりますので、ここでご紹介することにしました。

 中国では、上海図書館が海外の図書館に新刊本を寄贈して、中国の文化や歴史を理解してもらおうとしています。

 「上海の窓」(上海ウィンドウ)と名づけられたそのプロジェクトは2003年に始まりました。カレントアウェアネス(CA-E、20070523)の紹介記事によりますと、内容は、「通常、上海図書館と対象館とが3年の契約を結び、1年目には300〜500冊程度の図書が、2年目、3年目には各100冊の図書が上海図書館から寄贈される。寄贈を受けた館では、「上海ウィンドウ」と書かれたプレートとともに図書を専用閲覧室または専用書架に開架すること、また、寄贈を受けたことを周知し、図書を適切に保存、整理、貸出することが求められている」ということです。

 2018年10月末までに、このプロジェクトは72か国の168機関に12万冊の本を寄贈しました。日本で寄贈を受けたのは、大阪府立中央、長崎県立、富山県立、沖縄県立などの図書館です。

 ほぼ同じ目的で、中国国家図書館も「中国の窓」(中国ウィンドウ)の名のもとに2006年から外国の国立図書館大学図書館に本を寄贈してきました。日本では国立国会図書館東京大学京都大学の附属図書館、アジア経済研究所などが寄贈を受けています。

 

 次に、韓国国立中央図書館の「韓国資料室(Window on Korea)」をご紹介します。

 同館のウェブサイトには「協力活動」というページがあり、その中の「国際協力」のひとつWindow on Korea (WOK)によって、2007年に始まったこの事業の概要を知ることができます。(20200210)

 目的は、韓国の歴史と文化について、理解と関心を促進すること。

 プロジェクト名は、「韓国の窓」(Window on Korea)。

 ターゲットとする機関は、海外の図書館。

 支援するのは、設備と韓国資料のコスト。

 設備は、コンピュータ、机と椅子、サイン板など。

 設置する資料は、最初の年に1館あたり1,500~3,000冊、つづく5年間は年に200冊ずつで合計1,000冊{総計は2,500~4,000冊}の韓国関連図書。

 ということで、2019年末までに韓国国立中央図書館は25か国の29館に資料の寄贈をつづけてきました。寄贈先の地域はアフリカと南米をのぞいて世界各地に及んでいて、図書館の種類は大学図書館が3分の2、国立図書館が3分の1となっています。

 このプロジェクトの特徴は、寄贈資料の中に映像資料や録音資料が含まれていることです。

図書館へ本を寄贈する人たち(3)国際的な文化交流や理解促進のための寄贈

 日本では、国際的な文化交流や海外の理解を促進する手立てのひとつとして、さまざまな機関・団体が外国の図書館や大学、研究機関などに本を寄贈しています。

 国際交流基金のプレスリリース(20191008)によりますと、2018年度調査(暫定)で、日本語教育を実施している国は142か国、日本語教育機関は約18,600、教師は約77,100人、学習者は約385万人に上っているそうです。ということは、今後10年も経てば、外国で日本語を学んだ人が今より1,000万人以上増えているかも知れません。

 日本から海外への寄贈本は日本語で書かれたものとは限りませんけれど、より多くの人たちが日本に興味をもち、日本語を理解してくれるのは、ありがたく喜ばしいことだと思いますので、おもな例をいくつかご紹介します。

 

(1)国際交流基金独立行政法人)の「図書寄贈プログラム」

 国際交流基金は1972年10月に外務省所管の特殊法人として設立され、それまで外務省が担当してきた全世界を対象とした幅広い文化交流事業を引き継ぎました。図書寄贈プログラムはそのごく一部分に過ぎません。2003年に現在の独立行政法人となってからも、この事業はつづけられています。そのウェブサイト(202001)によりますと、

 「国際交流基金(ジャパンファウンデーション)図書寄贈プログラムは、海外における日本に関する理解・研究の促進に寄与するために、日本に関する研究・教育を行なう海外の研究・高等教育機関及び公共図書館に、日本関係図書等の寄贈を行なうプログラム」で、図書の送付先は、世界各国の大学とその図書館、日本研究センター、日本研究所、公共図書館などです。

 ただ、同基金の「事業実績」によりますと、多くの国の大学や図書館に少部数ずつ本を寄贈していたものを、2007年ころから「図書寄贈プログラムの寄贈対象を主に日本研究機関に限定する方向で重点化し、大幅に縮小」するとして、2010年代に入って寄贈先が毎年、数機関に減っています。

 

(2)日本財団(公益財団法人)の「現代日本理解促進のための図書寄贈事業」

 日本財団の前身は、1962年に設立された日本船舶振興会(財団法人)で、2011年に公益財団法人となり、それまで通称だった「日本財団」を正式名称としました。この財団がつづけてきた多彩な社会貢献活動のひとつに、海外の個人や団体への本の寄贈があります。

 同財団のウェブサイト(20200128)によりますと、内容は次のとおりです。

 このプログラムを始めたのは2008年で、目的は海外のオピニオンリーダーや日本研究の専門家でない知識層に現代日本の実情を理解してもらうこととしていますけれど、実態としては、「海外の個人や公共図書館、文化団体などを中心に現代日本に関する100冊の書籍を無償で提供するプロジェクトになり、これまでに世界127カ国の967の施設や団体に計6万1,000冊以上の書籍を寄贈している」ということです。

 寄贈する本(すべて英語)の内容は、日本の歴史、政治、文学、芸術、社会、経済などと幅広く、福沢諭吉の『福翁自伝』や新渡戸稲造の『武士道』のような古典を含んでいる一方、スーザン・ネイピアの『現代日本のアニメ』(中公叢書)の英文原著なども入っています。

 

(3)日本科学協会(公益財団法人)の「日中未来共創プロジェクト」

 日本科学協会の前身は1924年大正13年)に設立された財団法人科学知識普及会で、1944年(昭和19年)に日本科学協会と合併して、財団法人日本科学協会となりました。現在の公益財団法人となったのは2012年のことです。

 この協会が実施している日中未来共創プロジェクトのひとつの活動が、中国の大学図書館への本の寄贈です。特徴は、①寄贈先を中国の大学図書館に限定していること、②寄贈する本が、日本の個人、企業、公共機関、団体から協会が寄贈を受けた本(その多くは古書と思われる)であること、③これまでに寄贈した冊数が380万冊を超えて膨大であること、④日本財団の支援をうけていること、などです。

 1999年に始まったこの寄贈事業の実績は、寄贈先の大学が78校、寄贈冊数が約383万冊です。20万冊以上の本を受贈した大学が5校ありますけれど、「中国では500以上の大学に日本語学部があり、日本語を学ぶ学生数も世界最多を誇りますが、図書館では日本に関する図書がまだまだ不足している」(同協会のウェブサイト、20200112)とのことです。

 なお、日本財団の現会長である笹川陽平氏の10年以上前のブログ(笹川陽平ブログ、20060812)には、

「このプログラム{中国の大学への図書寄贈}は、1999年以前はパイロット・プロジェクトとして日本財団が行っていた。」

「最近は、古い図書より出版から10年以内の新しい図書を要望されるようになってきた。」

「そこで、出版社、新聞社に新刊図書の寄贈をお願いしている。」

などとあり、新刊を寄贈してくれた出版社とその冊数のベストテンがリスト化されています。社名だけを列挙しますと、創文社(約26,100冊)、中央公論新社、千倉書房、旺文社、筑摩書房、海竜社、ぎょうせい、丸善出版事業部、三修社、白鳳社(約2,900冊)です。

 

(4)出版文化産業振興財団(一般財団法人、JPIC)の「JAPAN LIBRARY」

 1991年に出版業界(出版社・出版取次会社・印刷会社・書店とその各業種の全国組織)の横断的な非営利団体として設立された出版文化産業振興財団は、30年近くにわたって出版と読書に関するさまざまな活動をつづけています。そのひとつが内閣府に協力して実施している本の寄贈です。

 同財団のウェブサイト(202001)によりますと、2015年に始まったJAPAN LIBRARYというこの事業は、日本のノンフィクションの優れた著作を英訳出版し、海外の大学図書館公共図書館、研究機関などに寄贈するものです。

 2019年末までに出版された56タイトルの分野は、歴史、政治、文化、美術・デザイン、建築、宗教、科学、伝記・自伝など多岐にわたり、これらは50か国、1,000以上の図書館と研究機関に寄贈されました。

 同財団の肥田美代子理事長の2020年の年頭あいさつによりますと、「JPICには、複数の協力事業の申し入れがあります。今後、こうした事業を実現・育成できれば、世界中の読者・研究者に優良出版コンテンツを届け、著者・出版社には出版コンテンツの二次・三次利用による収益還元を図れるものと考えています」ということです。

 また、上記(2)でご紹介した日本財団(公益財団法人)の「現代日本理解促進のための図書寄贈事業」には、この出版文化産業振興財団が事務局として参加しています。

 

(5)日本出版販売(株式会社)などの中国国家図書館への寄贈

 これは、出版取次会社である日本出版販売株式会社(略称:日版)の主導のもと、国内の150の出版社が協力して、中国の国立図書館である中国国家図書館に新刊書を寄贈しつづけている例です。

 始まりは1983年(契約は1982年)で、5年を1期として現在は8期目に入っていますから、40年近くつづいていることになります。方法は次のとおりです。

 ①中国国家図書館が、日本の主要150出版社の出版物から寄贈を受けたい本を選ぶ。

 ②日本からは3か月ごとに本を送付する。

 ③中国国家図書館はそれらを「日本出版物文庫閲覧室」で利用に供する。

 日版の「ニュースリリース」(20170615)によりますと、「これまで日販が出版社の協力のもと、7期35年間にわたって中国国家図書館に寄贈した図書は約31万冊、11億円相当にのぼっています」とのことです。ということは、1年平均1万冊近くを寄贈してきたことになりますね。この事業に付随して、研修生の受入れなどの人事交流も行われています。

 

(6)国際文化フォーラム(公益財団法人、The Japan Forum=TJF)の図書寄贈事業

 1987年に設立された国際文化フォーラムは、2011年4月に公益財団法人に移行し、企業6社(王子製紙講談社大日本印刷凸版印刷日本製紙三菱UFJ銀行)からの出捐金(しゅつえんきん)を運用して財団法人としての事業を展開しています。この財団法人は、児童・青少年の教育と国際的な相互理解をめざすとしていて、その事業のひとつが外国への図書寄贈です。

 『ことばと文化:相互理解をめざして:国際文化フォーラム10周年記念』(財団法人国際文化フォーラム、1997年、非売品、ネット上で閲覧可能)によりますと、設立当初からの「10年間で合計74ヵ国・地域、3,157件、81,529冊の日本関連図書を海外の教育・研究機関、公共図書館などに寄贈しました」ということです。

 2014年度以降の事業報告によりますと、寄贈先は中国が中心となり、日本語科があって日本語学習者の多い大学、寄贈本を提供したのは講談社、冊数は毎年1万冊あまり、というふうに様子が変わってきています。

 

 ほかにも、アメリ国務省の「アメリカンシェルフ・プロジェクト」が日本の大学図書館や公立図書館などに英文の本200冊前後を寄贈している例、アジア図書館ネットワークというNPO法人がアジアの数か国に古書を寄贈している例、などがあります。

図書館へ本を寄贈する人たち(2)珍しいアイディアによる寄贈

(1)福島県立図書館の「県民のくらし応援文庫」

 福島県立図書館は、「県民のくらし応援文庫」と名づけた図書を寄贈してもらう制度を2016年度からつづけています。方法は次のとおりです。(同館のウェブサイト、20200115)

 テーマは、県民の地域づくりや暮らしを応援するためのものにしぼり、「育児活動支援」「健康長寿支援」「まちづくり支援」「防災活動支援」の4つとしています。

 寄贈をお願いするのは個人、企業、団体となっていますが、これまでの実績では企業と団体しか応募していないようです。1口5万円なので、個人は二の足を踏むのかもしれませんね。

 寄贈する本は新品でなければならず、事前に書名や冊数などを図書館と相談し、ばあいによっては図書館から希望リストを提示することになっています。

 寄贈された本は普通の書架に並べるほか、1回に6口以上(30万円以上)の寄付をすれば特設コーナーを設けてもらうこともできます。

 これまでに11の企業と団体が寄贈者となっていて、中で目立つのが毎年20口分の本を寄贈している一般財団法人ふくしま未来研究会です。福島県立図書館の資料費予算は、この制度を採り入れた2016年度で約2340万円なので、その数パーセントに相当する額の本を寄贈してもらえるのは、このアイディアが成功している証しではないかと思われます。

 

(2)神栖市立図書館(茨城県)のボンデリング事業への協力

 図書館は寄贈の申し出のあった本をすべて受け入れられるわけではありません。すでに所蔵している本や収集範囲からはずれる本は、多くのばあい「受け取れません」とお断りせざるをえないからです。この問題を解決する手段のひとつとなっているのが、ボンデリング事業への寄付です。

 ホンデリング事業とは、全国被害者支援ネットワーク(公益社団法人)のウェブサイトによりますと、寄贈本の売却代金を犯罪被害に遭った人とその家族・遺族の支援活動に役立てる事業のことです。各都道府県の被害者支援センター(ほとんどが公益社団法人)がこの事業に協力していて、全国被害者支援ネットワークが2018年度にホンデリングで受け取った寄付(44センター分を含む)は、102,781冊、6,448,750円だったということです。

 公立図書館がこの事業に協力するまれな例のひとつが神栖市立図書館(茨城県)です。同館では、2014年1月の全館ミーティングで「図書館へ寄贈申し出があった図書のうち、図書館で受け入れしない本については、ホンデリングへの協力にあてると決定」しました。2019年12月までに寄付につながった14回の金額が、同館のウェブサイト(20200106)に載せられています。金額は1回の最高額が11,500円余りとさほど大きくはありませんけれど、この仕組みは、寄贈者、図書館、被害者支援センター(=被害者など)の三方良しになっていますね。

 なお、宇治田原町立図書館(京都府)にはボンデリング用の図書回収箱が設置されており、伊丹市立図書館(兵庫県)はボンデリング関係のイベントを開催しています。

 

(3)横浜市による不要本活用のリユース文庫

 横浜市では資源循環局が中心となって家具・食器・本などの再利用を図っています。本のばあい、市内18区のすべての図書館がその活動に組み込まれています。ただし、リユース文庫の設置は図書館だけでなく、区役所、地区センター、資源循環局の事務所などを合わせて50か所ほどにのぼっています。

 資源循環局のウェブサイト(20200111)によりますと、リユース文庫は「家庭で不要になった本をリユース(再使用)することにより、資源の有効活用とごみの減量を図るもの」ということです。方法は次のとおりです。

 ①市民が本をリユース文庫(書架やブックトラック、回収ボックス)に持参する。

 ②それらの本は、欲しい人が10冊を限度として持ち帰ることができるほか、図書館・地区センターの寄贈図書となるばあいもある。

 このリユース文庫は、大都市をあげての取組みという点でユニークな例ですね。横浜市の都築図書館でリユース文庫を始めたのが2011年度、港南図書館のリユース文庫に持ち込まれた本が2018年度で7,500冊以上、などという事実から、このアイディアが成功裡に進行中だと考えてよいと思われます。

 

(4)名古屋市図書館(愛知県)の「なごやほんでキフ倶楽部」

 名古屋市図書館(愛知県)は、2016年度から「なごやほんでキフ倶楽部」と名づけた本または物品の寄贈依頼をつづけています。『名古屋市立図書館年報 平成29年度』や同館のウェブサイトによりますと、実施方法は次のとおりです。

 ①寄贈の意志をもつ個人または法人が、寄贈する本や物品について図書館と相談する。

 ②寄贈者の意向をふまえて、図書館が寄贈候補リストを提案する。

 ③合意した内容の本または物品を寄贈者が購入して図書館に寄贈する。

 ④図書館がそれらを利用者サービスに使用する。

 実績は次のとおりです。

 2016年度 件数:15件(個人7件、団体8件) 資料点数:1,772点

 2017年度 件数:22件(個人12件、団体10件) 資料点数:4,247点

 2018年度 件数:24件(個人15件、団体9件) 資料点数:2,835点

 物品としては図書装備用品や紙芝居用の舞台などが寄贈され、2017年度の資料点数には少数の地形図、CD、DVDが含まれています。

 この名古屋市図書館の方法は、上記(1)の福島県立図書館の「県民のくらし応援文庫」と似ていますけれど、金額の下限を決めていないこと、物品の寄贈をもお願いしていることが違っています。

 

(5)尼崎市立図書館(兵庫県)のブックオーナーズ制度

 多くの公立図書館が雑誌スポンサー制度を導入していることは、当ブログの「資金調達」でご紹介しました。それは、図書館が継続して受入れ中の雑誌の代金を、個人、企業、団体などに肩代わりしてもらう制度です。尼崎市立図書館のブックオーナーズ制度は、このやり方を絵本を中心にした児童書に適用するもので、2015年に始まりました。手順は次のとおりです。(同館のウェブサイト、20200109)

 ①図書館が子どもたちに提供したい絵本や物語のリスト(平均8冊ほどで1パック)を作成する。現在ウェブ上で14パックの書名が掲載されており、そのうちの12パックが絵本、2パックが物語で構成されている。

 ②寄贈する意思のある個人や企業、団体は、そのパックの中から選択する。

 ③図書館が納入業者に発注し、業者が納品する。

 ④納入業者は寄贈者に代金を請求し、寄贈者が支払う。

 これまでの寄贈者は、個人、NPO法人、企業、ロータリークラブなどで、このうち苅田建設工業という会社が792冊を寄贈しています。

 

(?)尾鷲(おわせ)市立図書館(三重県)の寿文庫

 この図書館への寄付は現金によりますので、今回の「本そのものの寄贈」の枠に収まらない例ではありますけれど、とても珍しいケースなので、ご紹介しておきます。珍しいケースと言いますのは、市民に対して、風習として定着していた厄落しや長寿の祝いを簡素化して、図書館の本の購入資金に回してほしいと呼びかけていることです。

 その結果、1966年に始まったものが55年間もつづいていて、「過去54年間で6,214人の方々から2,331万5,478円の寄付をいただき、12,298冊の図書を購入し、「寿文庫」として市民の皆さまに活用していただいております。」(同館のウェブサイト、20200121)

 半世紀以上つづいてきたこの図書館への本の寄贈方法は、尾鷲の新たな風習として定着しつつあると言っても差し支えないかもしれません。なお、寿文庫については、ウィキペディアの「尾鷲市立図書館」に要領よくまとめられています。

図書館へ本を寄贈する人たち(1)全国の図書館への寄贈

 2017年12月2日、『日本経済新聞』の「ベストセラーの裏側」という欄に、西野亮廣(あきひろ)氏の『革命のファンファーレ:現代のお金と広告』という本についての記事が掲載されました。西野氏が全国の公立図書館にその本を1冊ずつ寄贈し、図書館での貸出が本の販売促進につながることを証明したという内容です。

 もう少し詳しい情報は「キンコン西野のブログ」(20171015)によって知ることができました。すなわち、

「僕は、

文藝春秋さんや新潮社さんとは考えが違って、図書館や「本の貸し出し」は、書籍の売り上げに圧倒的に貢献してくれていると考えています。

図書館で借りた本の感想をTwitterで呟く人もいれば、ブログで書評を書いて、最後にAmazonの購入ページを添付してくださる方もいます。

図書館の貸し出しは、書籍の売り上げに直結します。

しかし、このままだと「理想論だ!」「綺麗ごとだ!」と言われそうです。

 というわけで、

図書館の「貸し出し」が書籍の売り上げに貢献してくれていることを証明する為に、『革命のファンファーレ ~現代のお金と広告~』を全国5500館の図書館に自腹で寄贈することに決めました。」

 結果は、2017年12月の『日本経済新聞』の記事で「11万部のヒット」と書かれていたものが、ほぼ1年後の西野氏のブログ(20181114)では17万部となっており、氏の目論見どおりとなっています。私の住む京都市の図書館では、現在13館が同書を所蔵し、13冊の状態は、貸出中が6冊、利用可が4冊、取置中が2冊、搬送中が1冊となっています(20200116)。発行後2年たっても、あいかわらず読まれているのですね。

 このばあいの図書館への寄贈の特徴は、①著者個人による全国の公立図書館への寄贈であること、②販売促進をもくろんでいたこと、③図書館による貸出が書籍の売上げに貢献していることを事実で証明しようとしたこと、などです。

 

 次に、全国の公立図書館と大学図書館に本を寄贈している例をご紹介します。大同生命国際文化基金(公益財団法人)による翻訳出版事業です。

 この法人は、アジア各国の文学作品(小説、詩、随筆、戯曲、評論)を日本語に翻訳し、それらを30年以上にわたって日本の全公立図書館と大学図書館に寄贈しつづけています。同法人のウェブサイト(20200114)によりますと、この事業は「アジアの国々の今日の姿をそれぞれの国が生んだ文芸作品を通じて理解することを目的として」います。1986年から現在までに13か国の73点が「アジアの現代文芸」シリーズとして翻訳出版されました。

 中国や韓国の文学作品はよく日本語に翻訳出版されていますけれど、この2国以外の翻訳はなじみが薄いので、ありがたいことですね。

 この国際文化基金は、「ジャパニーズ・ミラーズ」シリーズと名づけた、日本の文芸作品・文献をアジア各国語へ翻訳し出版する事業も行っています。「日本の政治・経済・歴史・環境問題・人物伝等日本の辿ってきた道を参考に、あるいは戒めとして、アジア諸国の日本研究者、一般市民等へ情報を提供し、アジア諸国において「日本」という国のより一層の理解を進めることを意図したもの」ということです。

現在までに44点の作品を翻訳・出版して8か国の学校や図書館に寄贈しています。本の著者には、梅棹忠夫佐和隆光、保坂正康、美智子皇后本田宗一郎黒柳徹子芥川龍之介乙武洋匡中島敦太宰治池田晶子日野原重明宮沢賢治などの皆さんが含まれています。

 

 つづいて、大阪国際児童文学振興財団(一般財団法人)が主催し、日産自動車株式会社が協賛して、「日産童話と絵本のグランプリ」というコンテストの最優秀作品を全国の公立図書館に寄贈している例です。

 このコンテストも、1984年の始まりから現在まで、やはり30年以上にわたる息の長い事業です。その目的は、①才能ある{童話・絵本}作家の育成、②子どもたちに良書を届けること、とされています。

 大賞を受賞した作品は出版・販売されるほか、全国の公立図書館約3,500館と各地にある日産の事業所近くの幼稚園・保育園約800園にも寄贈されています。

 

 最後に、岡山県鏡野町にある山田養蜂場という会社による小学校への本の寄贈をご紹介します。この会社は、養蜂とはちみつを原点として、健康食品や化粧品、自然食品などの製造・販売をも手掛けている会社です。

 1999年から毎年、この会社は小学校へ本を寄贈する「みつばち文庫」というプロジェクトをつづけています。自然や環境、命の尊さなどについて考えるための本(年によって違いはありますが、平均10冊)をセットにして、寄贈先に届けるものです。

 寄贈先は新聞やウェブサイトで公募し、応募校から抽選で寄贈先を決定、2019年(第21回)は1セット10冊、1,825校に寄贈、という結果でした。

 なお、「これまでに延べ61,532校、684,962冊を寄贈して」きたということです。(同社のウェブサイト、20200115)

 

 企業はさまざまな方法で文化や芸術を支援するメセナ活動を行っています。ここでご紹介したのはその一部である図書館に関する活動の、ごく一部にすぎません。地域の中小企業や商店、病院などが身近な図書館や学校に本を寄贈する例は無数と言ってよいほどあり、図書館の資料を買うためのお金を寄付する例も同様です。

 この「図書館へ本を寄贈する人たち」では、図書館資料としての本そのものを寄贈する例に限定して、いくつかのパターンに分けてご紹介していく予定です。

フィリップ・アーサー・ラーキン(Larkin, Philip Arthur, 1922-1985)

 フィリップ・ラーキンは、1950年代から60年代にかけて発表した詩集によって高く評価されたイギリスの詩人です。

 彼は、オックスフォード大学を卒業直後に就職した小さな公共図書館を皮切りに、63歳で死去するまで、切れ目なく3つの大学図書館に勤めました。けれども、詩人としての栄光が華々しかっただけに、まじめに責任を果たしつづけた図書館員としての姿は、影が薄い印象を否めません。

 1940年、生まれ故郷コヴェントリーがドイツ軍の爆撃によって大きな損害をこうむる数か月前、ラーキンはオックスフォード大学のセント・ジョンズ・カレッジで英語英文学を学び始めていました。翌1941年に受けた徴兵検査で、彼は視力が兵役に耐えられないという理由で不合格となります。

 

 1943年、大学を優秀な成績で終えたラーキンは、11月からイングランド中西部にあるウェリントンという小さな町で、図書館員として働き始めました。「フィリップ・ラーキン協会」のウェブサイトにあるエッセイ(1)によりますと、その図書館は蔵書およそ4,000冊、そのうち3,000冊がフィクション、職員1名(ラーキンの前任者は70歳代の人)、勤務は午前9時から午後8時半まで、あいだに数回の休憩時間、という恐るべきものでした。でも、兵士として戦っている同年代の若者のことを思えば、文句は言えませんね。

 と、彼自身が考えたかどうかはともかく、図書館について何も知らなかったラーキンは、本の購入、分類と目録づくり、貸出、書架の整頓、質問への回答などに加えて、「ボイラーに火をたくことや、蝋引き灯心でガス灯に火を灯すこと」もやり、必要に迫られてon the job trainingを実践したのでした。

 

 蔵書や貸出冊数が彼の在職中に倍増したとしても、スタートしたのがミニ図書館ですから、司書の資格を得るための勉強をつづけながら仕事に慣れてくれば、彼にとっては大した苦労ではなかったでしょう。

 事実、1946年9月に次の職場へ移るまでに、ラーキンは初めての詩集『北の船』を出版し、小説の処女作『ジル』を完成させることができたほか、熱心に図書館通いをしていた5歳年下のルース・ボウマンという女性と相思相愛の仲になっていました。ただし、それらの詩集も小説も成功作とは言えず、ルースとはのちに婚約したものの、結婚するには至りませんでした。(2)

 結局、ウェリントン公共図書館での勤務は3年弱ということになります。

 

 ラーキンが次の就職先であるレスターのユニヴァーシティ・カレッジ図書館の求人情報を見つけたのは、最初のばあいと同じく新聞の広告によってでした。新たな就職先となる図書館の館長ローダ・ベネットは、彼を採用する条件として、通信教育によって図書館の専門職資格を得るための勉強を提案し、それに応じたラーキンはイギリス図書館協会の試験に合格し、1949年にその準会員になったのでした。

 このカレッジは学生わずか200人、図書館員わずか4人。というわけで、ここでもラーキンはさまざまな仕事をこなす必要がありましたけれど、カレッジ全体のアットホームな雰囲気や思いやりのある上司にも恵まれて、仕事面は順調でした。

 一方、私生活面では、1947年に出版した小説『冬の少女』の評判が期待外れ、1948年の父の死去、婚約の解消、出版をめざした詩集がつぎつぎと出版社に断られるなど、順調とはほど遠い状態でした。

 ラーキンのこの図書館の在職期間はまる4年でした。

 

 1950年10月、28歳になったばかりの図書館員ラーキンの第3ステージが始まります。舞台は北アイルランドベルファストにあるクイーンズ大学図書館で、彼は職員数20人ほどをまとめる副館長になったのでした。とはいえ、管理的な仕事ばかりでなく、カウンターで貸出やレファレンス・サービスをし、閲覧室と書架への目配りなど、それまで経験してきた図書館ほんらいの仕事もこなしていました。

 このように、ラーキンが気に入っていたベルファストの町での暮らしがつづいた4年半ほどのあいだ、彼は小説の執筆をあきらめ、もっぱら詩作に励むようになりましたけれど、まだ芽が出るには至りません。その代りというわけではありませんが、3人の女性と仲良くなります。

 初めは、クイーンズ大学図書館の新入職員ウィニフレッド・アーノットという女性、ついで彼が亡くなるまで付き合うことになるモニカ・ジョーンズという女性、最後に、人妻だったパトリシア・ストラングという女性でした。

 ラーキンがこの図書館を辞めて次の任地であるハル大学図書館に移ったのは、1955年3月でした。そのきっかけは、クイーンズのJ. J. グラネーク館長が、ハル大学図書館長の募集広告をラーキンの机の上に置いてくれたことでした。副館長の仕事ぶりに満足していた館長は、あえてラーキンを次のステージに送り出そうとし、推薦までしてくれたというわけです。(1)

 ということで、彼のクイーンズ大学図書館での在職期間は4年5か月ほどでした。

 

 図書館員ラーキンの最終第4ステージとなったハル大学図書館で、彼は亡くなる1985年12月までの30年9か月間、館長を務めました。その間、教授館長や著名な作家館長としてでなく、図書館の専門職資格をもった実務経験のある館長として、職責を果たしたのでした。

ハル大学図書館の退職者たちはおしなべて、ラーキン館長が優れた図書館員で世話好きなボスだったと証言していたとのことです。具体的には、①新入職員に目をかけ、困っている人の相談に応じていた、②図書館協会の試験を受けようとしている職員にボランティアで教えていた、③知的能力が抜きん出ていて、才能は多方面に及んでいた、④皆が彼を支えようとした、などです。(1)

 ハル大学とその図書館は1960年代から1975年代の半ばまで順調に成長し、財政規模が拡大してゆきます。ラーキンが図書館長になった1955年時点で12人だった図書館職員は、1974年には90人を超えていました。この成長期に学長だったサー・ブリンモア・ジョーンズは、在任中に図書館長ラーキンの支持者でありつづけたため、恩義に報いようとしたラーキンの提案で、ハル大学図書館は1967年にブリンモア・ジョーンズ図書館という名称に変わりました。このように貢献者の個人名を冠する図書館は、欧米の大学には無数と言ってよいほどあります。

 貢献といえば、ラーキンはイギリスの文学と図書館にかんする一風変わった貢献をしています。つねづね彼は、当時の英国作家の生の原稿や文書がほとんどアメリカの大学図書館に落札されていくのを見過ごせないと考えていました。そこで、イギリスの「国立図書館および大学図書館の常設委員会」(SCONUL)のメンバーとなったのを機に、この件で警告を発します。その結果、芸術協議会が「現代詩人の{のちに「現代作家の」}原稿コレクション」活動を始め、ラーキン自身が1972年から79年までその議長をつとめたのでした。いかにも作家と図書館員とを両立させた人らしい発想が実現させた功績ではないでしょうか。

 

 詩人としてのラーキンは、1955年に出版した詩集『欺かれること少ない者』によって認められ始めます。翌年、有力紙『ガーディアン』に定期的に詩の書評を書き、1961年から71年まで『デイリー・テレグラフ』紙に毎月1回ジャズ評論を寄稿しつづけます。ジャズを聴くことは、彼の若いときからの趣味だったのでした。

 1964年、久々に出した詩集『精霊降誕祭の婚礼』も前著と同じく好評を博しただけでなく、「詩歌のための女王金メダル賞」を受賞し、彼の詩人としての評価を確かなものにします。

 その後も、ラーキンは文学関係の賞をいくつも受賞し、名誉博士号をいくつも与えられ、文学賞の審査委員長や団体の会長などもつとめました。1984年には、イギリスの詩人にとって最高の名誉ともいえる桂冠詩人となるチャンスを与えられたにもかかわらず、「一般公衆からの称賛やその地位に関するメディアの注目を受け入れがたい」(3)として、それを辞退しました。イギリスの桂冠詩人は、一時期にひとりしか存在させない制度で、原則として、現任者が死去しななければ後任が選ばれることはありません。

 

 20代の中ごろに父を亡くしたラーキンは、以後ずっと母親のエヴァを大切にし、彼女が91歳で亡くなる数年前まで同居しつづけ、彼自身は結婚をしませんでした。何人もの女性と交際した中で、ラーキンが出会いから自分が死ぬまで付き合ったのはモニカ・ジョーンズという知的な女性でした。彼女が病気になった1982年、彼はモニカを自宅に引き取って一緒に暮らしましたけれど、1985年にラーキンが先に亡くなってしまいました。

 死後、ラーキンの意志によって、彼の日記は勤務先の図書館の秘書が館内で裁断・焼却しました。けれども、『ラーキン書簡選集』(1992年)とアンドリュー・モーション著『フィリップ・ラーキン:ある作家の生涯』(1993年)が相次いで出版されるや、全くと言ってよいほど知られていなかったラーキンの私生活が明るみに出、女性蔑視や人種差別を思わせる発言が物議をかもしました。(2)

 ともあれ、ラーキンの生涯は、高名な詩人がキャリアを通じて図書館員でありつづけた稀有の例でした。

 

参照文献

(1)My particular talents : Philip Larkin's 42-year career as a Librarian / by Richard Goodman (The Philip Larkin Societyのウェブサイト、アクセス20191205)

(2)ラーキンの個々の詩と女性関係については以下の2点に詳しい。

  1. 高野正夫著『フィリップ・ラーキンの世界』(国文社、2008年)
  2. 高野正夫著『フィリップ・ラーキン:愛と詩の生涯』(春風社、2016年)

(3)Philip Larkin Biography / by James L. Orwin (The Philip Larkin Societyのウェブサイト、アクセス20191205)

司馬遷(しば・せん BC145?-BC86?)

 司馬遷は、『史記』という歴史書を書いた人として有名ですね。けれども、彼の生きた時代が2000年以上前ですから、その人物像については分からないことがたくさんあります。

 司馬遷の伝記的なことがらについての唯一と言ってよい手がかりは、『史記』「列伝」の最後にある「太史公自序」です。これは、序文と内容説明を兼ねたもので、『史記』を書くに至ったいきさつや全体のおおまかな構成、著者である自分とその父司馬談(しば・たん)について書かれています。

 

 司馬遷は夏陽県(今の陝西省韓城県)で紀元前145年または紀元前135年に生まれたとされています。「太史公自序」には「10歳で古文を暗誦した」と書かれていますので、太史令(たいしれい)として仕事をしていた父の薫陶をうけた優秀な子どもだったのでしょう。

 20歳になりますと、足かけ3年にわたって、彼は漢の版図を広く巡ります。旅の目的は定かではありませんけれど、そのときの見聞や資料収集が、のちの執筆活動に役立ったことは間違いないと思われます。

 

 長い旅行から戻った司馬遷は、宮中を守る郎官という職の中でいちばん下の位の郎中という役人になります。紀元前124年から108年までの15年間の郎中職在任中、彼は時の天子である武帝行幸随行したり、みずから使者として西南の異民族の地へ行ったりすることもありました。徐々に皇帝の信頼を得ていったのでしょうね。

 紀元前110年、太史令という役人だった父の談が亡くなり、その3年後に息子の遷がその職を継ぎました。前漢時代の太史令と言いますのは、暦の作成と祭祀・儀礼に加えて、歴史的なことがらの記録をおもな仕事としていました。それらの職掌との関連で、太史令が国の文書や書物の管理も担っていたとする研究書が少なくありません。たとえば、

 

 バートン・ワトソン『司馬遷』は、「百年ほどのあいだに、失われずに残っていた書物・過去のことを記した記録は、例外なくすべて太史公によって収集された。太史公は父子相継いでその職に当った」と「太史公自序」の当該部分を訳しています。(1)

 この部分は、たとえば小川環樹ほか訳『史記列伝 5』では次のような文章になっています。「百年ほどのあいだに、天下の遺文と故事の記録は、ことごとく太史のもとへ集められた。太史公は父子あいついでその職務をひきついだ。」(2)

 伊藤徳男『『史記』と司馬遷』は、「武帝期の太史令の職掌をまとめると、主務として天文暦法を司り、祭祀典礼の準備とそれへの奉仕にあたり、読み書きの試験を掌る職務があった。そのほかに、史官としての職務もあったのだろうか。一口に史官といっても、歴史上の事実を記録すること、それを整理管理すること、その記録によって史書を書くことなど、大きく区分しても三事となる」としています。(3)

また、藤田勝久『司馬遷とその時代』は、太史令の職務を5つ挙げるなかに「王朝図書の整理」を含めており、太史令だった「司馬談は、官吏になる人々の教育と、図書の整理にかかわる役所で勤務していた」と書いています。(4)

 岡崎文夫『司馬遷』では、「太史令は秩六百石、下大夫というから、決して高い官位ではない。その職掌は専ら星暦を掌ったと称せらるるが、それのみでなく宮廷の図書を掌る事もその重なる任であったらしい」となっています。(5)

 

 「失われた」文書や書物が100年ほどのあいだに集められたというのは、秦の始皇帝による焚書や楚漢戦争などによって焼失・散逸した書物や記録を、漢の初代皇帝高祖(劉邦)以降に集めたということです。集めた場所は、長安の宮中などにあったいくつもの書庫で、中には特別に貴重な資料をおさめるための、石造の書庫や金属製の箱もありました。

 焚書坑儒によって悪名の高い始皇帝を弁護した人が日本にもいました。桑原隲藏(じつぞう)という東洋史学者です。その「秦始皇帝」には、もちろん書物を焼くことは悪いことには違いないけれども、多くの古い書物が失われた責任は、秦の首都だった咸陽(かんよう)の宮殿を一挙に焼き尽くした楚の項羽や、官府の藏書の保護を怠つた劉邦や蕭何(しょうか)らのほうが始皇帝よりも重いという論旨が展開されています。また、「坑儒事件に就いては、始皇の暴戻を責めんより、むしろ諸生の卑怯を憫むべきことと思ふ」としています。(6)

 

 司馬遷の父の談は、紀元前110年に亡くなりますが、駆けつけた遷に対して、「自分の後を継いで太史になり、自分が果たせなかった歴史書の執筆をやりとげてほしい」と遺言します。

 司馬遷が太史令だったのは、父の死後3年目の紀元前108年から、李陵事件で獄に下った紀元前98年までの足かけ11年でした。その間、武帝行幸に2年つづけて随行したほか、太史令の本来の職務である暦の改定にも従事しました。

 ということは、彼が王朝の書庫に蔵書を充実させ、資料を整理・管理しながら、それらを活用していたのは11年間ということになります。当時はまだ紙が発明されたかされなかったかという時期でしたから、書物にするような内容が書かれた材料は、簡牘(かんとく=木簡・竹簡)のうち、とくに竹簡でした。同じ大きさ(標準の形は、長さ約23センチ、幅1~2センチ、厚さ2~3ミリ)にそろえられた簡牘には、毛筆と墨で文字が記され、丈夫な紐でつなぎ合わされたものが書物になったのでした。(7)

 このような書写材料の時代、書物は現在の紙の書物とは比べようもないほど、かさばる物でした。また、それらを読み、メモをとり、文章を書くに際しては、現在とは比べようもないほどの手間や時間、記憶力や集中力が必要だったに違いありません。

 

 司馬遷が『史記』の執筆を始めたのは紀元前104年、太史令となって5年目のことでした。佐藤武敏司馬遷の研究』によりますと、漢代の官僚は勤務期間中は官舎に住み、5日に1日あたえられる休日にだけ帰宅できました。だとすれば、公務の余暇に自宅で『史記』の執筆をできるはずがなく、「司馬遷は太史令として官庁保存の各種資料を読み、太史の官庁にあって『史記』執筆にあたったものということになるであろう」と、著者は結論づけています。(7)大量の資料が必要な歴史関係の調査・研究・執筆には、参照できる資料が傍らにあることが(とりわけ当時としては)不可欠でしょう。著者のこの説には説得力があると思われます。

 

 順調に進んでいた『史記』の執筆がとつぜん中断するのは、司馬遷が紀元前99年に李陵の事件で罪を問われ、下獄せざるを得なくなったからでした。この史実を素材にして中島敦が「李陵」という短篇を書いていますので、この一件をご存知の方も多いと思います。事件のいきさつは次のとおりです。

 紀元前99年、武帝に命じられて将軍李広利が兵をひきいて匈奴単于(ぜんう=君主)の軍に対して出撃します。そのとき李陵は後方で物資を補給する任務を与えられましたが、自分も出撃したいと願い出て武帝に許されました。李陵軍5,000は単于軍30,000に対して善戦しましたけれど、最後に包囲されて投降しました。それを知った武帝は怒り、臣下も同調した一方で、司馬遷だけが李陵を弁護したとき、武帝の怒りの矛先が司馬遷に向かったのでした。

 司馬遷は刑吏によって死刑の判決を下されました。しかし、父の遺言に従って『史記』を完成させなければならないと考えていた司馬遷は、恥を忍んで宮刑(去勢)を願い出ました。望みどおり命は助かりましたけれど、彼はなお獄中で数年を過ごさねばなりませんでした。

 

 紀元前96年の大赦によって出獄した司馬遷は、中書令という職を拝命します。その職務については諸説があって、はっきりしていません。ただ、出獄後の司馬遷は、武帝行幸随行したことがあり、『史記』の残りの部分を書きつづけてもいましたので、大赦によって許されたばかりか、むしろ晩年の武帝に尊重され、厚遇されていたようです。

 このようにして紀元前90年ごろに完成した膨大な歴史書に、著者の司馬遷は『太史公書』のタイトルをつけました。それが、のちに『史記』と呼ばれるようになったのでした。

 『史記』が対象とした期間は、紀元前2500年ごろとされる黄帝から漢の武帝までのおよそ2,400年、その内容を記述に沿って大別すれば、本紀(ほんぎ)12巻、表10巻、書8巻、世家(せいか)30巻、列伝70巻、合わせて130巻、文字数は52万6,500字です。

 

参照文献

(1)バートン・ワトソン著、今鷹真訳『司馬遷』(筑摩書房、1965年)

(2)司馬遷著、小川環樹ほか訳『史記列伝 5』(岩波文庫、1975年)

(3)伊藤徳男『『史記』と司馬遷』(山川出版社、1996年)

(4)藤田勝久『司馬遷とその時代』(東京大学出版会、2001年)

(5)岡崎文夫『司馬遷』(研文社、2006年)

(6)桑原隲藏「秦始皇帝」in『桑原隲藏全集 1:東洋史説苑』(岩波書店、1968年)

(7)冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代:書記の文化史』(岩波書店、2003年)

(8)佐藤武敏司馬遷の研究』(汲古書院、1997年)

ロラン・バルト(Barthes, Roland Gérard, 1915-1980)

 20世紀後半に活躍した評論家・記号学ロラン・バルトは、1915年にフランス北西部のシェルブールという港町で生まれました。当時32歳の海軍中尉だった父親のルイは、長男バルトがまだ1歳にならないうちに戦死してしまいます。22歳の母親アンリエットは、パリに住んでいた裕福な自分の両親を頼らず、夫の両親が住んでいた、スペインとの国境に近い町バイヨンヌで暮らし始めます。内気な幼児ロランはここで9歳まで過ごすうち、叔母にピアノを教えられ、それが終生の趣味のひとつとなりました。

 1924年、母とともにパリに移住したロランは、モンテーニュ高等中学校とルイ=ル=グラン高等中学校で学びました。この2校では、フィリップ・ルベロールという同級の秀才と仲良くなり、のちに図書館の就職口を紹介されたりします。

 ロランが10代のころの生活は、経済的には苦しいものでした。母のアンリエットが製本の仕事を習い覚え、かろうじて生計を立てていたからです。けれども、ロランの学業は優秀で、長期休暇になるとバイヨンヌの祖父母の家へ出かけて、ピアノや読書を楽しむことができました。

 

 ところが、1934年、18歳のとき、ロランは結核にかかり、以後12年にわたって、高地での療養とパリ大学での途切れがちな学業とを繰り返します。彼が療養生活を送った施設のひとつが、フランス南東部のイゼール県にある学生サナトリウムでした。そこには、学生患者の暇つぶしにおあつらえ向きの図書室があり、年かさであったためか、ロランはその管理を任されます。

 「図書室は非常に充実していた。彼はサルトルの『嘔吐』、『壁』、のちには『存在と無』を読む。とりわけミシュレを読みながら、小さなカードにメモを取り、彼が生涯にわたって実行することになる仕事のやり方を完成する。{1文略}

 ロランは図書室の管理を任されていて、すぐれた実務能力を発揮する。ある書物はほとんど借り手がないのに、他の書物は非常に多いことに注目して、彼のいわゆる《回覧制》なるものを設ける。つまり、もっとも多く借り出される本はリストに挙げられ、特別に分類され、別扱いされる。それらの本は絶対に二週間以内に返却しなければならないが、他の本については期限はない。そうすることによって、人気のある本の迅速な回転を確保しようというのである。」(1)

 これがロラン・バルトの最初の、そして真面目な「図書館員」体験というわけです。

 結局、彼が結核にかんして病院やサナトリウムから解放されるには、1945年の胸の手術を経て、1946年2月まで待たなければなりませんでした。

 

 さて、元気にはなったものの、30歳になって高等中学校の臨時教員の職歴しかなかったロラン・バルトに救いの手を差し伸べたのが、尊敬しあう仲でありつづけたフィリップ・ルベロールでした。彼は外務省職員としてルーマニアの首都ブカレストにあるフランス学院に勤めていて、そこの付属図書館員のポストが1年後に空く予定だと知らせてくれただけでなく、いくばくかの生活費を送ってくれたのでした。

 1947年12月、母アンリエットを伴なってブカレストに赴いたロラン・バルトは、3万冊以上の蔵書のあるフランス学院図書館の運営にたずさわるかたわら、フランス語を教え、講演をします。

 ところが、バルトがブカレストへ着任した年末にルーマニアの王政が崩壊し、代わって共産党政権が成立しました。これを機に、ルーマニア政府当局がフランスと距離をとり始め、1年後の1949年1月にはフランス学院が閉鎖を命ぜられます。ほとんどの職員が追放の憂き目に遭うなか、「バルトは何人かの職員とともにあとに残る。彼はなお三カ月のあいだ、この見捨てられた建物のなかで、書類を整理し、日常の業務をさばき、迅速に処理する。…図書館の本をフランスびいきのルーマニア人たちに分け与えようとするが、彼らは用心して受け取らない。そこで彼は、解決策を探し求め、大学図書館に寄贈しようとするが、いたるところで無関心と皮肉の壁のようなものに突き当たる。」(1)

 バルトは1949年9月末までブカレストにとどまりましたので、ここでの図書館員の経験は、1年10か月ほどだったことになります。

 

 以後のバルトは、若い日の病魔との長い闘いが報いられるかのように、運命が好転します。

 1952年、国立科学研究センター(CNRS)から給費をうけて、研究に打ち込めるようになります。

 1953年、母方の裕福な祖母が亡くなり、遺産を相続した母子の生活が安定し、バルトの初めての著書である『零度のエクリチュール』が新聞・雑誌などの書評欄でおおむね好評を博します。

 1957年、以前に雑誌に連載した社会時評をまとめた『神話作用』が一般読者にも受け入れられ、ロングセラーとなります。

 1960年、44歳で国立高等研究院(フランス国立高等研究実習院)の研究主任となり、その2年後には研究指導教授に昇格します。

 1966年、招かれて日本を訪れ、引きつづき1968年初頭までに2度訪日し、日本で得た印象をユニークな著書『表徴の帝国』(別の日本語訳では『記号の国』)として1972年に出版します。

 1975年、一種の自伝である『彼自身によるロラン・バルト』を出版します。「一種の」と言いますのは、全編が断章から成っていて、自伝らしからぬ風変わりな書き方がされているからです。

 1977年、フランスの研究者にとって最高の名誉であるコレージュ・ド・フランスの教授となります。バルトがこの職につくことができたのは、先に教授になっていたミシェル・フーコーの応援を得てのことでした。また、この年に発行された『恋愛のディスクール・断章』は売れ行きの好調な著作のひとつとなりました。

 

 国立高等研究院でもコレージュ・ド・フランスでも、ロラン・バルトセミナーはとても人気がありました。また、彼は講演や対談、インタビューや寄稿などの依頼に積極的に応じたほか、少なくとも年に1冊は著書を出しつづけました。

 1980年2月25日、昼食会に招かれた帰途、歩いて道を横切ろうとしたバルトは、小型トラックにはねられて重傷を負い、3月26日、入院先の病院で息を引き取ります。64歳でした。独身を通した彼がいつも一緒に暮らし、分身のように大切にしていた母アンリエットは、1977年に84歳で亡くなっていました。

 

 なお、『ロラン・バルト著作集』全10巻(みすず書房、2003~2017年)や『ロラン・バルト講義集成』全3巻(筑摩書房、2006年)のほか、それらに含まれていない多くの著作が日本で翻訳刊行されています。死後20年以上経ってから著作集や講義録が刊行されたという事実は、根強い支持者が日本にいるという証しなのでしょう。

 

参照文献

(1)ルイ=ジャン・カルヴェ著、花輪光訳『ロラン・バルト伝』(みすず書房、1993年)