図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

公立図書館の無料宅配サービス

 公立図書館で、「図書館の利用に障害のある人」に対するサービスが広がっています。広がっているのは、サービスを実施している自治体、サービスの種類と対象者です。

   その中で、かつて肉体的に何らかの障がいをもつ人たちに限っていた無料の宅配サービスは、高齢者、妊産婦、子育て中の人、病気やけがのために自宅で療養している人、自宅で家族を介護している人など、対象者の範囲をどんどん広げつつあります。これらの人たちをひとくくりに表現しますと、「図書館の利用に障害のある人」ということになります。

 

 ここでは、すでに当り前のサービスとなっている感のある身障者へのサービスや有料サービスの例を省き、「図書館の利用に障害のある人」に対する無料の宅配サービスを取り上げます。

 例によって、「」内は各図書館のウェブサイトからの引用です。また、宅配が無料サービスだと判断できても、対象者を「来館が困難な方」などとする一般的な表現のばあいは、採りあげませんでした。

 

名称

 宅配サービス、配達サービス、配送サービス、配本サービスという言い方が多く見られます。そのほか、家庭配本サービス、移動図書館車の戸別訪問サービス、宅送サービスなども散見されます。

 

内容と頻度

 サービスを希望する人に、図書館の本などを届け、回収(返却処理)をも行います。

 ほとんどすべての図書館は、サービス利用の申込みを受けつけますと、対象者の資格があることを事前に確認します。

 宅配の頻度は、隔週に1回(月に2回)と月に1回が最も多く、週に1回、週に2回、月に1~2回もあります。配達したときに前回配達分の返却を受けつけます。

 

宅配の担当者

 図書館の職員や業者委託などとする図書館は少なく、多いのはボランティア(グループ)です。

 

対象者別に見た無料宅配 A:高齢者

 下記の例では、ほとんどのばあい、「(ひとりでは)来館が困難」という条件がついています。

旭川市図書館(北海道)=65歳以上

札幌市中央図書館(北海道)=おおむね65歳以上

斜里町立図書館(北海道)=65歳以上

市立名寄図書館=在宅の高齢者

新冠(にいかっぷ)町(レ・コード館)図書プラザ=満65歳以上の在宅高齢者

美唄市立図書館(北海道)=65歳以上

栃木市図書館(栃木県)=高齢等

邑楽(おうら)町立図書館(群馬県)=高齢者

大泉町立図書館(群馬県)=65歳以上

太田市立中央図書館(群馬県)=満70歳以上

新座(にいざ)市立図書館(埼玉県)=高齢者

蓮田(はすだ)市図書館(埼玉県)=高齢者

清瀬市立図書館(東京都)=高齢者

国立市くにたち図書館(東京都)=高齢者

新宿区立図書館(東京都)=高齢者

調布市立図書館(東京都)=高齢者

豊島区立図書館(東京都)=高齢者

東久留米市立図書館(東京都)=高齢者(75歳以上)のみの世帯の人

町田市立図書館(東京都)=「高齢等で来館が困難、かつ代理の来館者が」いない人

大磯町立図書館(神奈川県)=65歳以上のひとり暮らしの人

藤沢市図書館(神奈川県)=65歳以上

山形村図書館(長野県)=75歳以上の高齢者

内灘町立図書館(石川県)=80歳以上の人(近くの公民館までの配達)

かほく市立中央図書館(石川県)=「75歳以上の高齢者のみの世帯」

白山市立図書館(石川県)=高齢者

伊豆の国市立図書館(静岡県)=高齢者

おおぶ文化交流の杜図書館(愛知県)=75歳以上の高齢者

知多市立中央図書館(愛知県)=「65歳以上で一人暮らしまたは高齢者のみの世帯」の人

多賀町立図書館(滋賀県)=高齢者。ただし、「居住地近くの施設への配送や宅配」

明石市民図書館(兵庫県)=高齢者(65歳以上)

稲美町立図書館(兵庫県)=高齢者

播磨町立図書館(兵庫県)=高齢者

海士(あま)町中央図書館(島根県)=図書館に足を運べない高齢者

筑後市立図書館(福岡県)=在宅高齢者

国東(くにさき)市立図書館(大分県)=在宅の高齢者(70歳以上)

佐伯市立佐伯図書館(大分県)=原則70歳以上

豊後高田(ぶんごたかだ)市立図書館(大分県)=75歳以上

出水(いずみ)市立図書館(鹿児島県)=高齢・交通等の事情で図書館に行けない市民

志布志(しぶし)市立図書館(鹿児島県)=高齢者

 

対象者別に見た無料宅配 B:妊産婦と育児中の人

新冠町(レ・コード館)図書プラザ(北海道)=妊婦または1歳未満の乳児のいる人

美唄市立図書館(北海道)=妊娠中や、子どもが小さくて外出が困難な人

栃木市図書館(栃木県)=妊娠、育児により来館が困難な人

邑楽町立図書館(群馬県)=妊産婦(産前産後8週以内)

大泉町立図書館(群馬県)=出産等で一時的に来館できない人

調布市立図書館(東京都)=出産前後で一定期間来館できない人

狛江市立図書館(東京都)=妊娠や出産で来館がむずかしい人

岐南(ぎなん)町図書館(岐阜県)=妊娠、出産により安静を要する人

宝塚市立図書館(兵庫県)=満1歳未満の乳児を養育する人(月に1回、無料郵送貸出)

播磨町立図書館(兵庫県)=育児中で来館が困難な人

綾川町立図書館(香川県)=「妊娠中または乳幼児を養育する」人

筑後市立図書館(福岡県)=「子育て中」の人

 

対象者別に見た無料宅配 C:自宅療養者(病人・怪我人)

斜里町立図書館(北海道)=長期在宅療養者

深川市立図書館(北海道)=「けがや介護などで外出ができない」人

邑楽町立図書館(群馬県)=一時的な自宅療養者

大泉町立図書館(群馬県)=一時的な自宅療養者

太田市立中央図書館(群馬県)=骨折などで一時的に来館できない人

新座市立図書館(埼玉県)=一時的に身体が不自由になった人

我孫子(あびこ)市民図書館(千葉県)=寝たきりの高齢者、長期に自宅療養している人、一時的な障がいで来館が困難な人

東金市立図書館(千葉県)=「独居寝たきり老人」「長期在宅療養者」

流山(ながれやま)市立図書館(千葉県)=自宅で1か月以上療養している人

野田市立図書館(千葉県)=長期間の自宅療養者

狛江市立図書館(東京都)=ケガなどで来館がむずかしい人

新宿区立図書館(東京都)=病気やケガなどで来館が困難な人

調布市立図書館(東京都)=「ケガなどで、一定期間来館できない」人

八王子市図書館(東京都)=「高齢による寝たきり等の理由で在宅生活」をしている人

目黒区立図書館(東京都)=病気や身体が不自由など、障害があるため図書館に来ることが困難な人(配達は自宅または勤め先)

新潟市立図書館(新潟県)=寝たきり等で来館が困難な人

白山市立図書館(石川県)=長期自宅療養者

 

対象者別に見た無料宅配 D:自宅で介護や看病をしている人

深川市立図書館(北海道)=「けがや介護などで外出ができない」人

狛江市立図書館(東京都)=「家族の看病・介護のため外出ができない」人

調布市立図書館(東京都)=「自宅で常時介護をしていて、外出が困難な」人

宝塚市立図書館(兵庫県)=「要介護度3以上(重度)の人を在宅介護」する人(無料で郵送貸出)

綾川町立図書館(香川県)=「自宅で常時介護をしている」人

 

対象者別に見た無料宅配 E:図書館への交通が不便な人

富士見町図書館(長野県)=交通手段がない人

山形村図書館(長野県)=交通手段がない高齢者など

赤穂市立図書館(兵庫県)=市内の一部地域の全住民

綾川町立図書館(香川県)=遠隔地に住んでいる人

筑後市立図書館(福岡県)=交通手段がない人

出水(いずみ)市立図書館(鹿児島県)=交通事情等で図書館へ行けない市民

 

対象者別に見た無料宅配 F:入院患者や社会福祉施設への入所者

邑楽町立図書館(群馬県)=社会福祉施設に入所している人

大泉町立図書館(群馬県)=社会福祉施設に入所している人

浦安市立図書館(千葉県)=順天堂病院の入院患者(浦安市民以外も可)

調布市立図書館(東京都)=市内の病院に長期入院している人

西東京市図書館(東京都)=市内の施設に入院中の人

港区立図書館(東京都)=区内の高齢者施設等の入所者

新潟市立図書館(新潟県)=市内の病院・施設に長期入院・入所している人

 

珍しい無料配達の例

    湧別町図書館(北海道)は、絵本の定期宅配サービス「絵本くらぶ」を実施しています。「ロングセラーの名作絵本を中心に、ご家庭で読んでいただきたい良書をバランスよく選定した「5冊セット本」を毎月」希望者の自宅まで届けるもので、対象は0歳~3歳の子どもがいる家庭です。図書館が選んだ絵本を届けるという点で、とても珍しい例です。

 

 あきる野市図書館(東京都)の「郵送・宅配サービス」は、「病気や怪我などで図書館への来館が困難な方にも資料をご利用いただけるよう、ご自宅まで資料をお届けするサービスです。資料の返却も郵送や宅配で行うことができます。」

 このサービスの珍しい点は、図書館からの配達と利用者による返却を、郵送と宅配のどちらかに限定していないことです。利用は無料です。

 

 茅ヶ崎市立図書館(神奈川県)の家庭配本サービスは、「図書館まで来館するのが困難で、かつ、図書館の利用に際し、代理に図書館まで行ってくれる家族などがいない方のご自宅へ、株式会社ジェイコム湘南の職員が図書を配送・回収するサービスです(ただし、茅ヶ崎市民に限る)。」「利用者の自宅(老人ホーム等の施設は除く)に限り、金曜日の午後にジェイコム湘南の担当者が配送します」ということです。

 J:COMのウェブサイトによりますと、「この配本サービスにより、茅ヶ崎市は、市および利用者の金銭的な負担なく、図書館資料を配本することができます。また、J:COM 湘南は、J:COM湘南のスタッフが配本を担い、高齢者や体の不自由な方とのふれあいや安否確認などを通じることで、地域社会へ貢献することができます。」

とのことで、企業が自らの負担で公立図書館のサービスを代行している点が、とても珍しいですね。

 

 高森町図書館(長野県)では移動図書館の巡回に合わせて希望者の自宅や職場(町内限定)へ資料を届けるサービスを行っています。利用者は電話やホームページを通じて貸出の予約をし、届けてもらいます。次の巡回日までの2週間が貸出期間で、自分で図書館に返却してもよいことになっています。

 このサービスが珍しいのは、町内なら職場にも資料を届けてくれること、移動図書館車が立ち寄ってくれること、です。

 

 富士見町図書館(長野県)の「宅配サービス」は、ボランティアが担っています。「本を読みたいけれど交通手段がない方、視力が落ちてご自分で読めない方に本をお届けします。本を読んで差し上げることもしています。ご希望の方はご連絡ください。」

 ということで、「本を読んであげる」というのが、とても珍しいですね。

 

 御坊市立図書館(和歌山県)は、「御坊市社会福祉協議会の住民参加型「家事援助サービス」花まるごぼう派遣事業と協力して、図書館へ来ることの難しい方へ本を宅配するサービス」をしています。

 この事業は提供会員(サービスを提供する会員で年会費500円)、利用会員(サービスを利用する会員で年会費500円)、協力会員(資金等の支援をする会員で年会費1,000円)の3種類の会員で構成されています。対象者は、「御坊市内在住で、日常生活を送る上で手助けが必要な、65歳以上の方、障がいのある方、産前、産後の方」です。

 利用する人は年会費500円を払いますので、無料とは言えませんけれど、参考になる珍しい事例ではないかと思います。

 

 海士(あま)町中央図書館(島根県)は、「本の宅配便」(移動図書館サービス)をしています。これは、「中央図書館まで足を運べない高齢者を対象にした図書館サービスです。健康福祉課による各地区を巡回する健康相談にあわせて、本の宅配便を実施しています。(全4地区を2ヶ月に1回)。」

 この宅配便で珍しいのは、健康福祉課と協力して、巡回健康診断のときに図書館の本を高齢者の自宅へ届ける点です。

 

 西米良(にしめら)村のあさよむ図書館(宮崎県)は、基幹集落センターの2階にあり、開館は午前8時半から午後4時半までです。「希望の図書がありましたら、下記アドレスまでお知らせください。宅配車でご自宅まで配達します」ということで、

 この宅配サービスが異色なのは、全村民が対象者となっている点です。ちなみに、2019年4月1日現在、村の人口は1,126人、高齢化率は約50%、面積のほとんどすべてが山林です。

 

 志布志市立図書館(鹿児島県)の宅配サービスは、対象者が「高齢の方か身体的都合により図書館までの交通手段のない方」で、募集は「最大10人」、宅配方法は「移動図書館車にて宅配」です。

 この図書館のばあい、人数を限定している点と、移動図書館車での配本という点が珍しいですね。

 

配慮の行き届いた無料配達の例

 狛江市立図書館(東京都)は、「歩行がむずかしい、寝たきり、家族の看病・介護のため外出ができない方、妊娠や出産、ケガなどによって、医療関係者から安静を指示されているなど、来館することがむずかしい方に、図書館職員が資料を狛江市内のご希望の場所直接お届けします。録音資料、点字資料も宅配サービスの対象です。」宅配は原則として週に2日で、火曜日と土曜日となっています。

 

 調布市立図書館(東京都)は、市内在住の次のような人にも無料で資料の宅配サービスをしています。市内の病院に長期入院している人、「高齢・病気などで、来館が困難または重い本を持ち帰るのが難しい」人、「出産前後やケガなどで、一定期間来館できない」人、「自宅で常時介護をしていて、外出が困難な」人。「宅配協力員(ボランティア)の協力により、市内11館すべての図書館で実施しています。」

 

 筑後市立図書館(福岡県)の無料の宅配サービスは、「なかなか図書館に行けない、家を出られない、交通手段がない…。子育て中、在宅高齢者、身体障害者など、図書館へ一人で来館することが出来ない筑後市民なら、どなたでもご利用できます!」

 というサービスで借りられる資料は、本・雑誌10冊まで、ビデオ・DVD2点まで、宅配時間は「火曜日から金曜日の午後3時から午後6時」、返却は「期限になりましたら、図書館からお電話いたします。その際、延長や貸出本などのご希望がありましたらおっしゃってください。返却のみに伺うことはできません。」「一般の利用カードで、無料でご利用いただけます。」

森鷗外とふたりの親族(もり・おうがい 1862-1922)

 ここでは、森鷗外と弟の潤三郎、長女茉莉(まり)の夫だった山田珠樹をご紹介します。

 

(1)森鷗外

 森鷗外は、本名林太郎、父は津和野藩(現:島根県)の御典医だった静泰(明治維新後に静男と改名)、母は峰子というしっかり者の女性でした。林太郎が生まれたのは1862年文久2年)ですけれど、のちに東京医学校の予科に入学するとき、2歳の年齢不足をいつわって1860年(万延元年)生まれとし、以来、表向きはそれで通しました。

 と言いますのも、林太郎少年は医学校予科へ入学願書を提出する時点で、四書五経オランダ語、ドイツ語を学んでいて、学力は十分すぎるほどについていたからでした。

彼が藩の儒者について四書の素読を始めたのは満4歳、その後も藩校などで漢学をつづけ、家に帰れば母の監督下で復習をしました。満8歳になりますと、父や父と同業の藩医からオランダ語を学び、1872年(明治5年)、満10歳のときに林太郎は父とともに上京し、私塾でドイツ語を学びます。「栴檀は双葉より芳し」の典型だったのですね。

 

 1877年(明治10年)、15歳のとき、東京医学校が東京大学医学部となり、林太郎はその本科生となります。同級には、終生の友となる賀古鶴所(かこ・つるど)や軍医として同じ道を歩んだ小池正直(こいけ・まさなお)がいました。このころの寄宿舎生活をもとにして書かれた『ヰタ・セクスアリス』には、語り手の「僕」をいつも小僧呼ばわりする同室の学生が、古賀という名前で登場します。賀古鶴所は林太郎より7歳年長、寄宿舎ではじっさいに同室、古賀は賀古の文字順の入れ替えというわけで、鷗外はこの人物のモデルは賀古ですよ、と示唆しているのですね。

 

 1881年明治14年)、19歳で首尾よく大学を卒業した林太郎は、しばらく父の経営する医院で診療にあたったあと、数か月後に医官・軍医としておもに衛生制度の研究に従事します。4年後の1885年(明治18年)、林太郎に飛躍のチャンスが訪れました。官費によるドイツへの留学です。使命は、陸軍の衛生制度調査と衛生学研究、師とすべきはライプツィヒのホフマン、ミュンヘンのペッテンコーファー、ベルリンのコッホでした。この3人は世界一流の医学者で、衛生学や細菌学の権威でした。

 林太郎は1888年までの4年間、陸軍の高官から指示されたとおり研究に従事しつつ、西洋の文学や美術にも親しみます。

 

 帰国の翌年から、林太郎は堰を切ったように医学関係の文章を発表する一方、鷗外という筆名で小説、評論、翻訳を発表し始めます。とくに1889年(明治22年)からの5年間ほどは、医学雑誌2誌と文学雑誌1誌を創刊し、その他の雑誌にも寄稿するなど、健筆をふるいました。その中で、彼を有名にしたのは、「舞姫」にはじまる文学関係の著作でした。この作品は、古い文体でありながら、今でも高等学校の国語の教材として幾種類かの教科書に採用されています。1892年(明治25年)には、「舞姫」「うたかたの記」「文つかひ」のほか、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカ、スペインなど世界各国の小説の翻訳を収めた『美奈和集』を出版して、文名を不動のものとしました。

 

  一方、医学の分野での林太郎は、学界が企てた一大イベントを批判して、主筆を任されていた『医事新誌』という雑誌を追われ、それに対抗してすぐさま『医事新論』という雑誌を創刊して批判をつづけるなどの波乱はあったものの、それが陸軍内での昇進のさまたげとはなりませんでした。

 また、1889年(明治22年)から数年間、東京美術学校の専修科で美術解剖学の講師をつとめ、1892年(明治25年)からは慶應義塾大学で審美学の講師をつとめています。

 ということは、20代後半から30歳ころまでの鷗外・林太郎は、軍医、作家、大学講師の3足のわらじを履いていたということになります。

 

 軍医である森林太郎は、日清・日露の戦争に従軍しました。日清戦争に出征するにあたって、彼は2種類の雑誌『しがらみ草紙』と『衛星療病志』を廃刊とします。万が一に備えた身辺整理だったのでしょうか。

 日露戦争(1904年=明治37年)のときには、出征する前に雑誌『万年艸』を廃刊し、遺言を書いています。これも万が一をおもんぱかった措置のようですけれど、全7項からなるその遺言には際立った特徴があります。要旨は、

 第1項:自分の死後の財産は、長男森於菟と自分の母の森峰子で2等分すること。

 第2項:その条件は、長男於菟が相続する分によって、自分の祖母、妻志げ、弟潤三郎、長女茉莉の生活費や結婚費用をまかなうこと。

 第3項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んだばあい、於菟の財産は妻志げに管理させず、自分の弟の篤次郎と妹の小金井喜美子に管理させること。

 第4項:この第3項の条件が自分に遺言を書かせる動機なので、その理由を明らかにしておく。すなわち、森志げは長男於菟(林太郎の先妻の息子)と同居して1年以上になるのに、正当な理由なく彼と言葉を交わさず、正当な理由なく自分の母の峰子、弟の潤三郎との同居をつづけることを拒み、この3人に対して悪意をもっているから、自分の遺族の安否を託すことができないのである。

 第5項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んで、遺族恩賜金や寡婦孤児扶助料を受けるばあい、たとえ受取人が森志げとなっていても、それらの金は第3項に示した管理者に管理させて遺族全体の安全をはかることを望む。

 第6項:この遺言証書は母の森峰子に管理させる。

 第7項:遺言の執行は冨塚玖馬氏と自分の妹婿である小金井良精に委任する。(1)

 際立った特徴とは、森林太郎の母親への信頼・尊重に対して、妻への不信・冷遇が一目瞭然だということです。しかも、妻にかんする言葉は、あからさまで具体的です。なぜこのような遺言を書いたかを勘ぐれば、いくつかの可能性が思いつきますけれど、長くなりそうなので省きます。

 

 以後も林太郎・鷗外は陸軍軍医と作家活動の両面のほか、文部省の美術審査委員会や臨時仮名遣調査委員会、文芸委員会などで委員をつとめ、あいかわらず精力的に仕事をつづけます。作家としては、以前と異なるジャンルに軸足を移す趣きを見せて、和歌や歴史小説、戯曲や漢詩などを多作します。

 軍医としては、1907年(M40年)に陸軍軍医の最高ポストである陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任したものの、3年後に軍医の人事権をめぐって陸軍次官らと対立しはじめ、辞職の申し出と慰留による翻意をくりかえした末、1916年(大正5年)に依願退職を果たします。

 

 ところが、退職から1年半余りが経って、林太郎は宮内省が所管する帝室博物館と図書寮(ずしょりょう)のトップへの就任を打診され、1917年(大正6年)12月、勇躍これを受け容れます。帝室博物館のトップは総長、図書寮のトップは図書頭(ずしょのかみ)と言いました。

 図書寮は律令制の時代から日本にありましたけれど、林太郎がトップに就いたころの図書寮は1884年明治17年)に宮内省に設置されたもので、おもに皇室にかかわる記録を編集・作成し、関連する書物などとともに保存する部署でした。

 帝室博物館は東京、京都、奈良の3つの国立博物館からなり、総長はふつう東京の博物館に出勤します。林太郎のばあい、月・水・金の3日は午前8時から午後4時まで博物館で勤務し、火・木・土の3日は午前8時から午後1時まで図書寮で勤務しました。出退勤の時刻をきちんと守ろうとするのが林太郎の常で、軍医高官時代にはそれが新聞種になるほどでした。結局、博物館総長と図書頭との兼務は、1918年1月から死去するまでの4年半だったことになります。

 

 ここでは森林太郎の図書頭としての業績をふたつご紹介します。

①『天皇皇族実録』の編修

 『天皇皇族実録』の編修は1915年(大正4年)に始まり、その後の4年間でわずか4名の皇族分を仕上げただけでした。森図書頭は、就任するや、計画を立て直し、担当職員を増やし、服務規程を定めて膨大な事業の推進を図りました。

②『帝諡考』(ていしこう)の執筆・刊行

 帝諡とは、天皇崩御後に送る称号のうち、人格をほめたたえる意味をもつもののことです。

 林太郎が「図書館に就任した当時、図書寮では帝諡考を編輯するや否やが問題になってゐたさうであるが、兄は就任後直に編輯する事に決定した。これは歴代天皇諡号の出典を考察したもので、自ら筆を執って僅一年半で完成し、今回完成されるに至ったのである。」(2)

 つづいて林太郎は『元号考』の執筆にとりかかり、大化から大正までの元号について、改元の時期と理由、典拠とされた文献などを調べ始め、この努力は死の数日前までつづけられましたけれど、完成には至りませんでした。

 

 腎臓と肺をわずらって体力が衰えつつあった林太郎は、妻の志げや子どもたちが頼んでも、親友の賀古鶴所が勧めても、医師の診察を受けようとしません。

 そして1922年(大正11年)7月6日、亡くなる3日前に、最後の遺言を口述して枕元の賀古鶴所に代筆してもらいます。要旨は、

 一切の秘密なく交際した友人に{遺言を}代筆してもらう。誰も口出しをしてはならない。

 どのような官憲威力であっても、死という重大事件には反抗できないと信ずる。

 自分は石見の人、森林太郎として死にたい。

 だから、縁故のある宮内省や陸軍の栄典は絶対にやめてもらいたい。

 また、墓には「森林太郎墓」以外に1字たりとも彫ってはならない。(1)

 

 この遺言にも際立った特徴があります。似たような言葉をくり返して「絶対に思いどおりにしてほしい」と訴えているからで、何人もの人がこの遺言の意図を推測ないし憶測しています。一例を挙げますと、評論家の山室静は次のように書いています。

 「その{遺言の}はげしい語気は、まるで彼が一生その禄を食んできた陸軍省宮内省の官憲に対して満腔の憤りと不平をぶちまけたかのようで、言わば死を盾にとって絶縁を宣言しているのである。そこにはたしかに怨恨のようなものが鋭く深く篭められているとも言える。とにかく陸軍省宮内省関係の人々が読めば、かなり不快な遺言であったに相違ない。」(3)

 

 でも私には、この遺言が、憤りや怨恨に根ざした陸軍省宮内省への絶縁宣言だとは思えません。

 森林太郎・鷗外は、長男として、家長として、細やかな気遣いをもって森家を守り支えた人でした。衛生学者として、陸軍の軍医・高官として、(時には大きな判断ミスをおかしつつも)軍と国民の健康増進のために励んだ人でした。文部省や宮内省から声がかかれば、喜んで要請に応じた人でした。自発的な創作・翻訳だけでなく、新聞や雑誌の求めに応じて、文芸関係の執筆を厭わない人でした。そして、死期の近いことを自覚する中、あえて脚を引きずりながら博物館と図書寮に通いつづけた人でした。

 というわけで、森林太郎・鷗外にとっての死は、自らが選んだ浮世の「しがらみ」や「くびき」からの解放だったと考えられます。よって、この遺言は、「最期だけはわがままを通したい」「かみしもを脱いで旅立ちたい」という、自らの解放宣言だと解釈するのが妥当ではありますまいか。言外に、「世のため人のため、人事は尽くした」という自負があるのは言うまでもありません。

 

(2)森潤三郎(もり・じゅんざぶろう 1879-1944)

 森鷗外(林太郎)にはふたりの弟(篤次郎・潤三郎)とひとりの妹(喜美子)がいて、森潤三郎はきょうだいの末っ子でした。鷗外と潤三郎には17歳の年齢差があります。

 1901年(明治34年)、東京専門学校(今の早稲田大学)史学科に入学した潤三郎は、在学中に『朝鮮年表』(春陽堂、1904年)を刊行します。

 

 早稲田大学を卒業した潤三郎は、東京帝国大学史料編纂掛として史料解読の仕事をしていましたけれど、あいかわらず朝鮮への関心やみがたく、1908年(明治41年)、「わたくし{潤三郎}は、京都帝国大学教授上田敏博士の推薦で京都に赴任した。わたくしは始め朝鮮に赴く希望であったが、身体の弱いのを案じて許してくれなかった兄{鷗外}は、京都は親友上田博士の推薦である為に許してくれたのであった。」(2)

 

 赴任先は京都府立図書館、在職期間は1909年(明治42年)から1917年(大正6年)まで、足かけ9年でした。その間、彼は仕事のかたわら歴史の研究をつづけ、兄鷗外が歴史小説を書くときなどに、調査の依頼に応じています。たとえば、

 「{兄が}「伊澤蘭軒」を書き出してからは、京都に関係する事に就いて屡わたくしに照会あり、又気の付いた事をお互に知らせ合って、その都度本文に書き加へてある」ということです。また、潤三郎が東京へ戻ったとき、鷗外の執筆中の作品について夜遅くまで語り合ったこともありました。

 

 1912年(明治45年)3月、彼は米原思都子という女性と結婚します。彼女は、鷗外が4歳のときに四書の素読をならった儒者米原綱善の長女でした。津和野で行われた結婚式に、なぜか長兄の鷗外は出席していません。彼は生まれ故郷に決して戻ろうとしなかった人というのが定説となっていますけれど、かわいがっていた弟とお世話になった旧師の長女との晴れの日にも、津和野に足を踏み入れなかったのでした。

 

 森家の4きょうだいのうち、林太郎(鷗外)、篤次郎(三木竹二)、小金井喜美子は文学に手を染めていますけれど、潤三郎だけは一貫して文献の調査と研究をつづけた人でした。京都府立図書館を退職したあとも、東京帝国大学伝染病研究所の図書室に勤めるなどしていますから、歴史研究や文献調査がよほど性に合っていたのでしょう。

 

 なお、森潤三郎の著作には、兄鷗外についての『鷗外遺珠と思ひ出』(昭和書房、1933年)、『鷗外森林太郎伝』(昭和書房、1934年)『鷗外森林太郎』(丸井書房、1942年)などのほか、図書館関係の『決定版 紅葉山文庫書物奉行』(鷗出版、2017年)があります。

 

(3)山田珠樹(やまだ・たまき 1893-1943)

 山田珠樹は、森鷗外の女婿にあたる人です。つまり鷗外の長女である茉莉(1903-1987)の夫で、ふたりは鷗外が存命中の1919年(大正8年)に結婚しています。夫婦の年齢差は10歳、茉莉は高等女学校を卒業したばかりの16歳でした。

 

 山田珠樹は、1917年(大正6年)、中学時代からの同窓生で2歳下の鈴木信太郎らと同人誌『ろざりよ』を創刊します。この雑誌を介して、彼は5歳年長の辰野隆(たつの・ゆたか)とも親しくなり、のちに3人とも東大でフランス文学を教えることになりました。

 この仲良し3人組に共通するのは、東京生まれ、実家が裕福、一高・東大出身、専門がフランス文学、愛書家、といったところでしょうか。いちばん年かさの辰野隆によりますと、「親友山田珠樹、鈴木信太郎の両君が正に此種の天狗のカテゴリイに属する豪の者」(4)だそうで、「此種の天狗のカテゴリイ」とは、珍本、稀覯書、豪華版などを追い求める人たちのことです。

 

 山田珠樹は、留学させてやろうという親のありがたい申し出にしたがって、フランスへ渡ります。長男の爵(じゃく)が誕生した翌年の1920年(大正10年)のことでした。渡仏するときには心理学を学んでくるつもりでしたけれど、同時期にパリに滞在していた辰野隆内藤濯(ないとう・あろう)らと親しく交わるうちに、関心がフランス文学へ移っていきました。

 

 渡仏2年後の1923年(大正12年)8月に帰国しますと、待っていたかのように起こったのが9月1日の関東大震災でした。このときの地震とそれにともなう建物の倒壊、津波、火災などによって、東京府と神奈川県を中心に10万人以上が亡くなりました。

 山田珠樹の母校、東京帝国大学も大きなダメージを受け、とくに附属図書館はほぼ全焼してしまいます。このときの図書館長は日本図書館協会創立者のひとりである和田萬吉教授でした。彼は1897年(明治30年)から30年間にわたって図書館長の職にあった人でしたけれど、不慮の災難の責任を取る形で、翌年に辞任せざるをえませんでした。

 その後任は宗教学が専門の姉崎正治(あねさき・まさはる)教授で、山田珠樹はたまたま姉崎教授に就職口の世話をお願いしてあったため、教授は翌1924年1月に彼を附属図書館事務取扱、4月に文学部の助教授にしてくれたのでした。

 

 1925年(大正14年)、山田珠樹は司書官に昇進します。司書官というのは、1908年(明治41年)に公布された「帝国大学事務官、帝国大学司書官帝国大学司書特別任用令」にもとづく職名で、帝国大学の図書館に勤務する上級専門職員のことです。

 余談になりますが、近年ベストセラーとなった『君たちはどう生きるか』の著者吉野源三郎は、司書官ではありませんでしたが、東京帝国大学卒業後の数年間、母校の附属図書館員だったことがありました。

 

 遊学から帰国後の数年、山田珠樹はめでたく就職が決まり、罹災した図書館のために姉崎館長を補佐するかたわら、仏文科で講義を担当するなど、仕事の面では30歳を過ぎたばかりの司書官に追い風が吹いていました。

 また、司書官に昇進した年には次男の亨(とおる)が誕生して、家庭的にもうまくいっているようでした。けれど、1927年(昭和2年)、珠樹・茉莉の夫婦は離婚します。後年、妻の茉莉が書くところによりますと、「私と、夫だった人{珠樹}とは真から底から駄目になっていたので、二人には会話が皆無だった。」「ほんとうに駄目な夫婦は、会話が無くなる」状態がつづいていたのでした。(森茉莉『紅茶と薔薇の日々』ちくま文庫、2016年)

 

 結局、山田珠樹は1924年大正13年)から1930年(昭和5年)までの足かけ7年、東京帝国大学附属図書館で働きました。以後、仏文科で辰野隆鈴木信太郎らとともに教育に専念したのでした。惜しいことに、1934年(昭和9年)、肺結核のために東大を休職せざるをえず、2年後に退官して療養につとめましたけれど、1943年(昭和18年)に50歳で亡くなりました。

 

参照文献:

(1)『日本の名随筆 別巻17:遺言』(作品社、1992年)

(2)森潤三郎『鷗外森林太郎』(丸井書店、1942年)

(3)山室静『評伝森鴎外』(実業之日本社、1960年)

(4)辰野隆「書狼書豚」 in 井伏鱒二編『読』(日本の名随筆36、作品社、1985年)

逃避や避難の場としての図書館

 2015年、学校の夏休みが終わろうとするころ、鎌倉市図書館のツイッターに「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」「逃げ場所に図書館も思い出してね」という趣旨の文章が載り、大きな反響を呼びました。リツイートや返信の中に、「自分は図書館へ逃げ込んだことがある」という経験を書いた人もいましたね。

 

 私の手元にある1冊の講演録で、講演者の竹内悊(たけうち・さとる)氏が、事故や自殺にかんする質問に対して、アメリカの図書館のポスターを紹介しています。そのポスターの構成は、大量の本を目の前にした人が右手のピストルを自分のこめかみに当てている絵と、その下のキャプションから成っています。

キャプションに曰く、「もし貴方が自殺しようと思うのなら、おやめなさい。その代わりに、図書館へおいでください。」(竹内悊『これからの図書館員のみなさんへ』図書館問題研究会宮城支部2001年)

 この講演録の表紙にも、同じ絵と、本文よりも短いキャプション「ちょっと待って! 自殺はやめて図書館へ」が印刷されています。

 ちなみに講演者の竹内悊氏は、図書館情報大学教授や日本図書館協会理事長などを歴任された方です。

 

 たしかに、図書館は何かからの逃げ場所、避難場所となることがありました。いくつかの例をご紹介しましょう。

 

 『放浪記』を書いた作家の林芙美子が通った尾道市立高等女学校には、運動具などが転がっている小さな図書室がありました。両親が近くの町や村へ行って雑貨を売り歩いていたため、彼女は誰もいない家へ帰りたくありません。かと言って仲のよい友だちもなく、女学校を卒業するまでの4年間、彼女はほとんどその図書室で暮らしていたのでした。学校の図書室は、孤独な少女にとって逃避の場であると同時に、寂しさを紛らしながら、読書によって作家の素地をはぐくんだ場でもあったのですね。(林芙美子「文学的自叙伝」in林芙美子随筆集』岩波文庫2003年)

 

日本初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹は、京都府立第一中学校へ入学してから、以前に増して無口になりました。友だちとつきあわなかったわけではなく、頑なに自分を守ろうとする内面世界が開かれただけでした。向かったのが静思館と名づけられた学校の図書館で、少年は時間を見つけては「自分だけの世界にとじこもる最良の方法」として読書にふけったのでした。(湯川秀樹『旅人:湯川秀樹自伝』角川ソフィア文庫1960年)

 

 日本でも20冊ほどの著書が翻訳出版されているフランスの歴史家ジャック・ル・ゴフは、オックスフォード大学へ留学していたとき、流暢に英会話ができませんでした。また、それを本気で勉強する気にもなれなかったため、学寮にいる学生たちとあまりつきあわず、もっぱら図書館で過ごし、孤独な生活を送っていました。自分で「孤独な生活」と言ってはいますけれど、彼のばあいは研究に没頭するために図書館へ「逃避」していたように思われます。(ジャック・ル・ゴフ著、鎌田博夫訳『ル・ゴフ自伝:歴史家の生活』法政大学出版局2000年)

 

 図書館はまた、家業の手伝いから逃れるための隠れ蓑となることがあります。

 大野晋(おおの・すすむ)は一時、日本語はタミル語と同根であるという説を唱えた国語学者で、『日本語練習帳』がベストセラーとなって一般に知られるようになりました。

彼の父は東京の下町で砂糖の商いをしていたものの、あまり商売上手ではありません。おまけに政府の緊縮財政なども影響して売り上げが落ち、店の半分でパンの販売を始めます。当時開成中学校へ通っていた晋少年は、人通りの多い街頭で宣伝ビラを配ったり、店番することを命じられました。多感な年ごろの少年にとって、これは困ったことですね。

 「そのうちに、日暮里の学校からの帰り途に「清澄公園前」で市電を降りてしまい、二銭払って「深川図書館」に寄るくせがついた。夜九時の閉館まで図書館で遊んですごす。それから家へ歩いて帰ればもはや店番に出されることはな」く、「学校の宿題で」と言えば、「図書館行きは決してとがめられない聖域となった」のでした。(大野晋『日本語と私』河出文庫2015年)

これは家業の手伝いからの逃避の例になるでしょう。

 

 イギリスの作家コリン・ウィルソンは、若いころ徴税事務所に就職して「案の定、税金関係の職は退屈だった。通勤日には、まず「予定表A」という用紙に記入する仕事があったが、それを済ませてしまうと、あとはすることが殆どなかった。」「私は近くの角を曲がってすぐのところにあるレスター中央図書館に逃避したものだが、その回数は大目に見られるよりもずっと多かった。その上、用紙記入の仕事がない時には、就労時間中にでも読書を許された。『戦争と平和』を読んだのは、そういう時だったのである。」(コリン・ウィルソン著、中村保男訳『コリン・ウィルソンのすべて』上下、河出書房新社2005年

これは職場からの一時的な逃避の例になります。

 

 哲学者の木田元(きだ・げん)は太平洋戦争が終わる4か月ほど前の19454月、16歳で江田島海軍兵学校に入学しました。敗戦によって、生徒たちは8月下旬から汽車で帰宅し始めましたが、著者の家族や親戚はみな満洲にいて、彼の帰っていく家はありません。日本のどこにどのような親戚がいるかもわからず、困り果てていますと、彼の分隊付き教官だった今泉という人が「佐賀にある自分の実家へ行け」と勧めてくれます。教官の今泉氏はまだ江田島に残っていて、佐賀の町外れにあった今泉家には、東京から疎開してきた姉一家や復員してきた弟などもいました。居候の木田元は、食料の乏しい時期の大家族にまぎれこんで、、肩身の狭い思いをします。

「することもないので、毎日図書館にいって本を読んでいたが、これからどうしたらいいのか思いあぐねるばかり、九月七日に一七歳になったところだった。」(木田元『私の読書遍歴』岩波現代文庫2010年)

このばあいは、のちに立派な学者になる居候が、いたたまれずに図書館へ逃げ込んだ例ですね。

 

 ノーベル賞を受賞した大江健三郎氏は、1950年、できたばかりの高等学校に入学しますと、「そこでかなり苦しい目にあった。いまでいえば、運動部の連中の組織的なイジメの対象にされたのです。」そこでやむなく「図書室に入りびたって、世界文学全集を読んでいました。」見かねた先生たちのお世話で、彼は2年生から松山東高校編入学します。(大江健三郎『読む人間:読書談義』集英社2007年)

 このばあいは、学校でのいじめからの逃避ですね。

 

 アイヌ言語学者民俗学者である知里真志保(ちり・ましほ)が学校での白眼視を逃れるために図書館通いをしたという話は、当ブログの「授業よりも図書館通いをした人たち」に書きました。アイヌ出身ということが偏見の理由だったのですね。

 

 情勢がかなり変化しつつあるとは言え、性的少数者LGBTQ)もいまだに偏見や差別の対象になることがあります。

 たとえば、1993年に公開されたアメリカ映画『フィラデルフィア』は、エイズとそれに対する偏見が主題となっている作品です。HIV感染が原因で解雇されたある若い男性弁護士は、彼を解雇した弁護士事務所と闘うために図書館で調査を行います。ところが、彼をエイズ患者だと見抜いた館員が、いんぎんに個室の利用を勧めます。この館員は、ほかの利用者が嫌がることを懸念して、若い弁護士に個室の利用を勧めたのではないかと思われます。

 2008年に翻訳が出版された『場としての図書館』には、「コミュニティにおける安全な場としての図書館」という1節が含まれています。ここでは、性的少数者たちが公立図書館で「他者に知られずに蔵書に出会うこと、匿名で蔵書に出会うこと」ができるため、そこは「避難所あるいは安全なスペース」でありうるのだと主張しています。(ジョン・E・ブッシュマン、グロリア・J・レッキー編著、川崎良孝ほか訳『場としての図書館』京都大学図書館情報学研究会、2008年)

 

 そのほかにも次のような例があります。

①暑さ寒さを逃れて図書館へ行く。

この傾向は、とくに近年になって顕著になりました。熱中症で死者が出るほど夏場の気温が上がったこと、行政が省エネ・節電のためのクールシェアを呼びかけたことなども影響しているのでしょう。

②暴力を逃れて図書館へ行く。

アメリカのカリフォルニア州オークランド公共図書館では、「夏休みに入ると学校が閉まってしまうために、両親が仕事で不在の子どもや治安の悪いストリートから安全な場を求めて逃げてきた子どもが、館内で一日中過ごすケースが見られた」ということです。(カレントアウェアネスE1448、菊池信彦「公共図書館が子どもにランチを提供:夏の読書プログラムで」)

次もアメリカの話ですけれど、「国際ユダヤ人女性」Jewish Women Internationalという団体は、家庭内暴力を受けている女性のためのシェルターをつくる活動をもしています。ところが、避難する女性と子どもがほとんど荷物を持たないまま身を寄せる例が少なくありません。そこで、滞在期間が長期化する人とその子どもたちのために、団体はシェルター内に児童図書館を設置しつづけています。この団体のウェブサイトによりますと、シェルターに図書館があるのは48か所、ないのは25か所です。

このばあいは、図書館が避難の場ではなく、避難の場に図書館があるという例です。

③災害時に図書館へ避難する。

図書館の建物は、被災者の避難所となることを想定して建てられてきませんでした。ために、長期間の避難所としては役に立ちません。けれども、住民の要望で短期間の避難所として利用される例は過去にも最近でもありました。

 

 逃避とか避難という言葉には消極的なイメージがありますけれど、「図書館への逃避」や「図書館への避難」となりますと、ニュアンスが少し変わります。文字どおり何かから逃げたり何かを避けたりするだけでなく、その表現の裏に、上に見たとおり、図書館で何かの目的を達成するための口実や現実がひそんでいる例が多いからです。

 たとえば、永井荷風が「大掃除なり。塵埃を日比谷図書館に避く」と日記に書くとき、ただ塵埃や騒音から逃れただけでなく、散歩の道すがら季節の移ろいを感じ、図書館の静けさに包まれて、未見の書物の中に何かを発見しているかもしれないのです。

李大釗(り・たいしょう 1889‐1927)

 李大釗は、中国共産党の創設を主導した思想家のひとりです。また、北京大学の図書館長や教授でもありました。

 彼は1889年、河北省楽亭県の大黒沱(だいこくた)村の農家に生まれ、幼くして両親を亡くします。孤児を育てたのは、孫に教育を受けさせるだけの財力があった祖父母でした。4歳になりますと、大釗は村の私塾で四書五経などの勉強を始め、順調に成長してゆきます。

 大釗が11歳になりますと、祖父は農村の慣習にしたがって、彼を同じ村の17歳の娘と結婚させます。当時は、親が決めた結婚を認めない毛沢東のような息子が少なくなかったのですが、李大釗のばあいは夫婦仲がよく、妻は夫の祖父母にかわいがられ、近所の人たちとも上手につきあったのでした。それにしても、11歳で結婚とは驚きますね。

 

 1905年から7年まで、李は永平府の中学で旧来の学科のほかに西洋風の新しい科目をも学び、ついで1907年から13年までの6年間、天津にあった北洋法政専門学校で経済学を中心にして政治や法律、日本語や英語をも学びます。

 専門学校を卒業後、李大釗は早稲田大学政治経済学科に留学します。早稲田大学は中国からの留学生を積極的に受け入れるため、1905年から「清国留学生部」を設けていましたけれど、李大釗が留学した時にはすでに廃止されていました。

 ちなみに、李大釗とほぼ同時代に日本へ留学した経験をもち、のちに中国の政界や学界で活躍した人に、楊昌済(教育者、毛沢東の岳父)、陳独秀中国共産党の初代総書記)、魯迅(作家)、蒋介石(政治家・軍人)、周恩来(政治家)などがいます。

 

 李大釗が早稲田大学に留学する前から、故国では国をゆるがす出来事が頻発していました。彼がとくに心を痛めたのは、清朝を倒して中華民国を建設した孫文に代わって大統領に就任した袁世凱(えん・せいがい)の動きでした。

 李大釗は1916年、28歳のとき、早稲田大学を卒業しないまま帰国し、ペンの力で袁世凱政府を打倒しようとします。方法は、雑誌や新聞を創刊し、自ら筆を執って精力的に記事・論説を書くことでした。

 

 19182月、李は国立北京大学の図書館主任に招かれます。推薦したのは陳独秀、受け入れたのは自由主義思想をもった蔡元培学長でした。森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)によりますと、

 「彼は図書館制度自体についても相当の研究をしたらしい。一九一九年に行なったある講演で、彼は図書館の任務にかんする自分の考えを述べ、図書館と社会教育の密接な関係、大学に図書館学科を置く重要性を強調したことが明らかにされている。彼は綿密にプランを練り実行に移した。そして、旧来の北京大学第三院、理科の片隅にあった古びた書庫を、一九一八年八月に新築された第一院、文科の建物に移し、その一階全部を新図書館に充て、十四の書庫と五つの閲覧室を置いた」ということです。(1

また、呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)の「序論」には、より詳しく李の図書館にかんする業績が列挙されています。(2

「李大釗は中国共産党の主要な創始者1人で、北京大学図書館長も務め、図書館にも以下のような大きな貢献をした。(1北京大学図書館をマルクス主義を普及させる拠点とした。(2)自ら図書館学の授業を担当した。北京女子高等師範学院、朝陽大学、中国大学などで「史学思想史」、「社会学」、「図書館学」などの授業を担当している。(3)図書館学を深く研究し、「多くの図書館を設立する」と主張した。(4)図書館員の養成と研修を重視した。(5)北京図書館協会の設立を積極的に推進した。191812月に同協会が設立され、李大釗は中文書記に推薦された。こうした数々の業績によって、李大釗は現代図書館事業の創始者1人として確固たる地位を占めるにいたった。」

 一方、図書館主任室(館長室)とそれに隣接する会議室は、1918年の暮れごろから急進的な北京大学学生のたまり場となり、「北京大学図書館長室はまもなく「紅楼」、すなわち「紅い部屋」として知られるに至った」ということです。(3

 19219月、李大釗は図書館長の職を辞し、教授職と蔡元培学長の秘書とを兼ねるようになったため、彼の図書館勤務は約3年半で終わりました。

 

 その間、李大釗の考えは徐々にマルクス主義へ傾いていきました。その端的なあらわれが1919年に雑誌『新青年』に発表した「私のマルクス主義観」です。これは、中国で初めてマルクス主義を本格的に紹介した論文だということになっています。

 この1919年は、中国にとっても李大釗にとっても、重要な年となりました。いきさつは次のとおりです。

第一次世界大戦の講和会議が1月からパリで始まり、敗戦国ドイツがもっていた山東省の権益を戦勝国のひとつであった日本が継承すると主張したのに対して、同じ戦勝国だった中国はそれを断りました。

 容易に決着がつかない中、54日、これに抗議する北京の学生数千人がデモを行いますが、指導したのが李大釗でした。やがてこれが全国の大都市の労働者や商店のストにまで広がり、のちに五・四運動(ごしうんどう)と呼ばれるようになったのでした。

 

 旗幟を鮮明にした李大釗は、1920年、陳独秀などと共産党の創立に動き出します。このふたりは中国共産党創立の中心人物ということになっていますけれど、19217月の創立大会には、都合がつかなかったので出席していません。

 その後、急速には党勢を拡大できなかった中国共産党は、国民党との協力、いわゆる国共合作を目指します。国内の軍閥や事あるごとに内政干渉する諸国に力を合わせて対抗するためでした。このとき李大釗は孫文と面会して、共産党員が党籍をもったまま国民党員になるという条件を認めさせ、自分は共産党の中央委員でありながら、1924年には国民党の中央執行委員にも選ばれたのでした。

 19253月の孫文の死去以降、混迷を深めつつあった政情の中で、李大釗は相変わらずストライキを指導し、デモを組織し、執筆活動をつづけていました。

 けれども、192746日、逮捕を逃れるために住み込んでいたロシア大使館で、李大釗は張作霖の軍と警察によって逮捕され、428日、死刑判決が出たその日に絞首刑を執行されました。まだ37歳でした。

 

参考文献:

1)森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)

2)呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)

3M. メイスナー著、丸山松幸・上野恵司訳『中国マルクス主義の源流:李大釗の思想と生涯』(平凡社1971年)

図書館を創った人たち(2‐2)

 公立や大学の図書館建設に際して多額の寄付をした人は、日本にもたくさんいます。ここでは、建設費の全額または大半を寄付した個人、グループ、企業、財団法人などの例をご紹介します。「多額」と確認できなかった例や、大学図書館については原則として省きました。例示は図書館名の五十音順になっています。

 情報源を記載していないばあいは、それぞれの図書館のウェブサイトによっていて、それらのアクセス時期は201902~03です。

 

(2)多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち(つづき)

飯塚市立図書館(福岡県)

飯塚市は、1941年(昭和16)年に図書館を開設しました。これは、実業家だった麻生太賀吉(あそう・たかきち)が、みずからの結婚を記念して寄付した土地と、建物の建設費3万円、蔵書の購入費用1万円によって実現したものでした。(麻生グループのウェブサイト「麻生の足跡」20190302)

 

伊那市創造館(長野県)

 上伊那に図書館を作ろうという動きは1921年(大正10年)、学校の先生たちから起こりました。先生たちは資金集めの努力をしましたけれど、関東大震災や冷害のため寄付がなかなか集まりません。

 そこへ武井覚太郎(たけい・かくたろう)という実業家が名乗りをあげます。ヨーロッパやアメリカへ何度も行って、図書館や社会教育の必要性を感じていた覚太郎は、「上伊那図書館建設の費用全額、14万円(現在の貨幣価値にして7億円)を私財の中から支払いました。」

 このようにして1930年(昭和5年)に開館した上伊那図書館が、現在の伊那市創造館に発展しました。

 

臼杵(うすき)市立臼杵図書館(大分県

 「臼杵市臼杵図書館は、臼杵市出身の財界人である荘田平五郎{しょうだ・へいごろう}氏が三菱を退社するに際して、郷土の文化の向上を願い、図書館建設を発案、私費を投じ建設に着手し、大正7年「財団法人臼杵図書館」として開館したのが始まりである。工事総額26,493円58銭、運営資金には、若松港株・東京海上株の配当金が充てられた。

 現在の図書館は、昭和44年、臼杵鉄工所が創立50周年を迎えるにあたり、鉄工所創立者田中豊吉氏がその記念事業として、臼杵市に新図書館の寄贈を申し出て建設、昭和45年に開館し現在にいたっている。」(国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の参加館プロフィール)

 

越前市立図書館(福井県

 「1922年(大正11年)山本甚三郎氏から図書館寄贈の申し出があり、石造書庫3階、閲覧室2階建ての図書館建設着工。総工費約1万5千円。」

 山本甚三郎は越前府中(現在の越前市)出身の実業家でした。

 

恵那市中央図書館(岐阜県

 2007年(平成19年)、新しい恵那市中央図書館(伊藤文庫)が開館しました。鉄筋コンクリート2階建て、延床面積約2,650㎡の立派な建物で、この建設費用10億円と蔵書およそ23,000冊は、財団法人伊藤青少年育成奨学会が寄付したものでした。同財団法人のウェブサイトによりますと、「恵那市への図書館の寄贈」は理事長である田代久美子氏の永年の夢だったということです。

 

愛媛県立図書館

 愛媛県立図書館は、1902年(明治35年)に仮開館した愛媛教育協会の図書館が1935年(昭和10年)に県に移管され、愛媛県立図書館として設立認可されたものです。

 その2か月後に、伊予鉄道電気株式会社(同社社長である井上要の引退記念事業として建築)が寄贈した新築の館舎が落成します。

 

大阪府中之島図書館

 大阪府中之島図書館は、住友家第15代当主・住友吉左衛門友純(ともいと)からの寄付をもとに建設されました。友純は1897年(明治30年)に欧米諸国を訪問し、富豪が公共施設の整備などに私財を出すのに感銘を受け、自らも公共施設の建設に協力したいと考えるようになったのでした。

 1899年(明治32年)、大阪府が図書館の建設計画を発表しますと、友純は、建設費15万円と図書購入費5万円の計20万円(現在の価値で10億円)の寄付を申し出ました。この寄付金をもとに建設が開始され、1904(明治37)年に「大阪図書館」(1906年に「大阪府立図書館」と改称)が開館しました。

 なお、住友グループ広報委員会のウェブサイトによりますと、

 「興味深いのは、図書館建設の資金を提供するのではなく、図書館そのものを建築して寄贈したことだ。おそらくは、商都大阪に文化的施設を建てるのだという使命感に加え、欧米視察で“本物”を目の当たりにしてきたことで、ぜひとも自らが施主となって、その美意識を注ごうとしたのであろう」ということです。

 

岡山市立図書館(岡山県

 岡山市立図書館は、石炭貿易や輸送業で財を成した山本唯三郎(やまもと・たださぶろう)から建設資金の寄付を受けて、1918年(大正7)年に開館しました。

 「山本は、自身の財産を惜しむことなく多くの社会事業に寄付しました。岡山市立図書館のほかにも、同志社の図書館、山陽英和女学校(のちの山陽学園)の校舎、そして故郷の鶴田村には山本農学校の建設のための資金を提供したほか、後藤新平の勧めもあって鎌倉時代の絵巻物の傑作「佐竹本三十六歌仙絵巻」を一時買い支えるなどしています。」

 岡山市立図書館の開館式で来賓として出席した山本唯三郎は、教育は学校だけで行われるのではなく、図書館もあずかって力がある、だから図書館を寄付した、という意味の挨拶をしたということです。

 

喜多方市立図書館(福島県

明治33年(1900)、喜多方町は、図書館を設立するための基本金として毎年10万円余を蓄積することを可決しました。けれども、図書館はなかなか設置されませんでした。それをもどかしく思った喜多方町長の原平蔵は、自分で図書館を創ってしまいます。

 まず土地は自分の所有地、蔵書は自分と有志の寄贈、町費の補助で1913年(大正2年)に私立図書館として開館、というわけです。

 この図書館は1923年(大正12年)に喜多方町に移管され、喜多方町立通俗図書館となりました。

 

京都市図書館(京都府

 1970年代の後半、京都市は日本で人口が5番目に多い大都市で、文化都市を標榜していましたのに、なぜか市立の図書館がありませんでした。ただし、1950年から巡回文庫を走らせており、翌年に社会教育会館内に図書室を設置してはいました。

 そこへ1977年(昭和52年)、実業家の富田保治が図書館建設資金として1億円を京都市に寄付しました。寄付は以後5回におよび、総額が4億円となります。最初の寄付から4年後の1981年4月に京都市初の図書館が開館し、以後、各区に地域館が設置されていきました。

 

新発田(しばた)市立図書館(新潟県

 1927年(昭和2年)、新発田町出身の実業家、坪川洹平(つぼかわ・かんぺい)は、郷里に図書館を建てて寄贈すると町長に申し出ました。町長も議会もこの申し出を受け容れ、翌1928年秋に建設費16,000円をかけた図書館が完成します。閲覧室や書庫、事務室のほかに学習室も備えた建物だったということです。

 坪川洹平は若いころ、サラ・K・ボルトンの『貧児立身伝』に含まれているジョージ・ピーボディの伝記を読んで、自分も同じように頑張り、財を成したあかつきには彼にならって慈善事業をしようと考えたのでした。その結実のひとつが図書館の建設・寄贈だったということです。(新発田市のウェブサイト「坪川洹平:新発田図書館の寄贈者」、20190303)

 なお、ピーボディはアメリカの実業家で、生存中にかなりの数の博物館、図書館、大学を創設しています。

 

裾野市立鈴木図書館(静岡県

 裾野市立図書館には、日本ではとても珍しく、「鈴木」という個人名が入っています。それは、現在の図書館の基となったのが、同地出身の発明家でもあり実業家でもあった、鈴木忠治郎の寄付によって建てられた財団法人裾野町鈴木育英図書館だからです。

 いきさつは、次のとおりです。

 1965年(昭和40年)、鈴木忠治郎は、「勉学の志がありながら進学することのできない町民の子弟のために」1億円を基金として育英事業を始めます。事業のひとつが、設立を希望する町民が多かった図書館の新設でした。図書館の開館は1968年、名称は財団法人裾野町鈴木育英図書館、蔵書は町民や出版社の寄付・協力を受けて約6,000冊、でした。

 1990年(平成2年)、財団法人が解散するにあたり、図書館を市に寄付することになり、鈴木忠治郎の遺徳をたたえて、市は1991年から「裾野市立鈴木図書館」としたのでした。

 

◎西宮市立図書館(兵庫県

 西宮市立図書館は1928年(昭和3年)、清酒「白鹿」で知られる辰馬本家酒造(株)の社長だった第13代辰馬吉左衛門(たつうま・きちざえもん)の寄付によって建物ができました。会社のウェブサイトにある年表には、1927年(昭和2年)に「市庁舎および図書館建築費として西宮市に寄付」とあります。

 また、市立図書館のウェブサイトにある「図書館のあゆみ」には、1955年(昭和30年)、「辰馬本家酒造(株)から寄付を受け、閲覧室、書庫を増築するとともに、初めて開架式を採用」とあります。

 

沼津市立図書館(静岡県

 沼津市立図書館の始まりは1888年明治21年)にできた沼津尋常小学校の文庫(図書館)でした。その後、1952年(昭和27年)に小さな図書室ができますけれど、本格的な市立図書館はあと10年待たなければなりませんでした。1962年(昭和37年)、岡野喜太郎の4,000万円の寄付により、沼津市は鉄筋コンクリート3階建ての図書館を建設・開館し、名称を市立駿河図書館にしたのでした。

 名称に「駿河」と入っているのは、建設費を寄付した岡野喜太郎駿河銀行の会長だったからです。

 

萩市立明木(あきらぎ)図書館(山口県

 明木図書館は、1906年明治39年)、明木尋常高等小学校内に、村立としては国内最古の図書館として発足しました。その後この図書館は、1928年(昭和3年)に瀧口吉良(たきぐち・よしなが)から資金の寄付と図書の寄贈を受けて新築されます。

 彼は地方議会で長く活躍したあと、衆議院議員や銀行の頭取などを歴任した人で、ほかにも郡立図書館を萩中学校(現:萩高等学校)に創立しています。(「萩の人物データベース」20190307)

 

函館市立図書館(北海道)

 函館市立図書館の歴史は、中央図書館のウェブサイトにある「はこだての図書館」に要領よくまとめられています。図書館の建設に貢献した人たちの情報を補足しますと、次のようになります。

 明治の末ごろ、北海道の函館区に岡田健蔵というろうそく製造販売業者がいました。その地には、『函館毎日新聞』への投稿者がつくった「緑叢会」というグループがあり、そこに属していた岡田は、図書館をつくろうと提案して賛同を得ます。

 会員の協力によって1907年(明治40年)、岡田の自宅兼店舗の一角に「函館毎日新聞緑叢会付属図書室」が設けられました。これが函館市立図書館の前史となるはずでしたのに、数か月後、函館を襲った大火によってほとんどすべて焼失してしまいます。

 図書館とその蔵書の大切さを分かっていた岡田は、再び立ち上がります。函館公園内にあった公立の協同館を借り、多くの人の協力によって、2年後の1909年(明治42年)に図書館の開館にこぎつけました。名づけて私立函館図書館、運営は市民有志、建物は木造で、閲覧室、書庫のほかに食堂もあり、パン、紅茶、サイダーなどを提供していたということです。

 かねてより耐火建築の必要性を痛感していた岡田は、1916年(大正5年)、知り合いの銀行家相馬哲平に寄付を頼んで鉄筋コンクリート造りの書庫を完成させます。

 「その後小熊幸一郎{おぐま・こういちろう}の多額の寄付もあり、鉄筋コンクリート造りの図書館本館が建設され、私立函館図書館はその全てを市に移管し、昭和3(1928)年7月17日、市立函館図書館が開館しました。私立函館図書館の開館以来執事、嘱託として実質的に図書館を支えてきた健蔵は、昭和5(1930)年、正式に図書館長に就任しました。」

 小熊幸一郎は越後(新潟県)出身の漁業家でしたけれど、第2の故郷である函館のためにさまざまな公共事業に資金援助を行った人です。

 

弘前市立図書館(青森県

 弘前市立図書館は、1906年明治39年)、斎藤主(さいとう・つかさ)など5人の篤志家によって新築の図書館が市に寄付されて始まりました。蔵書は、1903年明治36年)に小学校の職員有志たちの弘前教育会が設立した私立弘前図書館から引き継いだほか、津軽古書保存会の蔵書や津軽家の文書が加えられていました。

 ちなみに、斎藤主は弘前出身の測量技師・土木技師で、図書館を新築・寄贈したのと同じころ、凶作に苦しむ西目屋村を救うために、開拓、植林、観光などの事業に手を染めています。

 

山梨県立図書館(山梨県

 山梨県立図書館は、1900年(明治33年)の山梨教育会付属図書館の開設をその始まりとしますが、30年後に独立の建物を得ます。それは、江戸時代末に甲斐国(今の山梨市)に生まれて、鉄道王と呼ばれるほど多くの鉄道会社とかかわりをもった根津嘉一郎(初代)が、1930年(昭和5年)、「鉄筋コンクリート2階建、一部3階塔屋付、総坪209坪」の図書館を寄付したからでした。

 彼は株式投資で財産をきずき、根津育英会を創設して旧制武蔵高校を創立したほか、衆議院議員をも務めました。

 

結城市のゆうき図書館(茨城県

 結城市は1992年に図書館建設検討委員会を立ち上げ、1997年に基本的な構想をまとめますと、翌1998年、同市出身の新川和江(しんかわ・かずえ)氏から図書館建設のための寄付の申し出がありました。

 図書館が開館したのは2004年(平成16年)、建物は地上4階と地下1階(駐車場)、図書館部分の面積は4,100㎡余りと、立派なものです。

 なお、新川氏は図書館の開館と合わせて詩にかんする図書約1万冊を同館に寄贈し、2004年に名誉館長となっています。

 

四日市市立図書館(三重県

 明治期、四日市の図書館は、当時の公立図書館の多くと同じように、小学校内に付設されていました。それが独立の木造建築を経て鉄筋2階建てに変わったのは、1929年(昭和4年)のことでした。地元の実業家である熊沢一衛(くまざわ・いちえ)が、昭和天皇即位の記念事業として建設し、図書2,000冊と一緒に同市へ寄贈したからでした。

 熊沢一衛は、四日市銀行頭取や伊勢電気鉄道社長を歴任した人でした。

図書館を創った人たち(2‐1)

 前回は「自らが中心となって図書館を創った人たち」でした。今回は「多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち」です。このばあいもいろいろなケースがありますので、特徴的な例によって動機を考えてみたいと思います。

 

2多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち

 最初は、ニューヨーク公共図書館の基となるアスター図書館を創ったジョン・ジェイコブ・アスター1763-1848)です。

 彼は、ドイツのハイデルベルクに近い村で生まれました。16歳になるまで彼は肉屋をしていた父の店で働き、ついでロンドンにいた兄と合流し、叔父の工場で4年間雇われていました。20歳を目前にした1783年、アメリカへ渡ります。

 その航海中に知り合った毛皮商に勧められて、アスターはニューヨークで毛皮ビジネスを始めます。インディアンから直接毛皮を買い、それを自ら売ることで、ロンドンその他で大きな利益を得たのです。その商売を勧めてくれた船上の人よりも意欲と商才があったのでしょうか、彼の交易はヨーロッパだけでなく、中国やインドにも及び、結果、莫大な財産を築きます。その準備として、1811年、彼は、アストリアと名づけた貿易の中継基地を太平洋岸のコロンビア川河口に設けていました。

 その後、アスターは毛皮貿易から手を引き、ニューヨークのマンハッタンの不動産投資に財力を注ぎ、この事業でも成功しました。「毛皮王」転じて、「不動産王」の誕生です。

 さて、莫大な財を成したアスターは、1833年、公共のために役立てたいと考えていた数十万ドルの具体的な使途について、親しくしていた20歳あまり年下のジョゼフ・グリーン・コグスウェルという人物に相談しました。彼は教育者、書誌学者で、ハーヴァード大学で図書館員を経験していて、アスターに図書館の設立を強く勧め、アスターはこの勧告を受け容れ、計画の具体化がすすめられます。

 この企ての相談に、もうひとり有名な人が加わります。『リップ・ヴァン・ウィンクル』や『スリーピー・ホローの伝説』、短篇集『スケッチ・ブック』などが日本でも翻訳出版されている作家のワシントン・アーヴィングです。彼はアスターから深く信頼されていて、貿易の中継基地アストリア実現までの困難な道のりを本にしてほしいと、翌1934年から1年をかけて懇願されたのでした。その本『アストリア』2巻は1936年に出版されています。(1

 結局、図書館を建設するとアスターが公表したのは1838年、図書館の建物が完成したのは1853年、一般に公開されたのは1854年、ただし貸出をしない図書館でした。ということは、資金を出したアスターは、図書館の完成とオープンを見ることなく亡くなったということになります。

 このアスター図書館は、1895年、レノックス図書館と合併されて(建物は別ですけれど)ニューヨーク公共図書館となりました。レノックス図書館も、富豪の息子だったジェームズ・レノックスが建てたものでした。

 ジョン・ジェイコブ・アスターのばあい、親しい人に勧められて公共のために図書館を創ったことになります。

 

 次は、鉄鋼王と言われたアメリカの富豪、アンドリュー・カーネギー18351919です。

 彼はスコットランドのダンファームリンという町で生まれました。そこは麻織物で栄えた町で、住民の大部分が織物業を営んでいて、アンドリューの父親も織物業でした。ところが、彼が物心つくころには機械織機が手織り機を駆逐し始め、家業がかたむいていきます。そこで、勉強が嫌いではなかったのに、彼は親に遠慮して8歳になるまで学校に行きませんでした。

 面白いことに、アンドリューの父ウィリアム・カーネギーは、本を買うためのお金を共同で出資するようダンファームリンの職工仲間たちを説得し、そのようにして集まった蔵書がその町で最初の貸出図書館になったということです。ベンジャミン・フランクリンよりは少し遅れましたけれど、スコットランドにも同じ発想をした人がいたのですね。(2

 貧しさに追い詰められたカーネギー家(43歳の父ウィリアム、34歳の母マーガレット、13歳のアンドリュー、5歳の弟トム)は、1848年、アメリカへ渡ります。落ちついたのはピッツバーグにほど近いアレゲニー市。そこには母方の親戚がいましたけれど、父の稼ぎだけで一家が暮らしてはいけません。母は内職をし、アンドリューも週給1ドル20セントで働き始めます。仕事は夜明け前から日の暮れるまで、生活は苦しく、アンドリューは一冬、夜学に通っただけで、学業はおしまいとなりました。

 「自分で勉強して教養を積むなどという時間はほとんどないし、また家族が貧しかったから本を買うお金もなかった」ところへ、「天からの恵みが私の上に下されて、文学の宝庫が私のために開かれた」のでした。(3

天の恵みをもたらした奇特な人は、アレゲニーに住むアンダーソン大佐で、町で働いている「青年は誰でも、土曜日に一冊借り出し、つぎの土曜日に他の本と交換して持ち帰ることができる」という夢のような話です。その個人蔵書は400冊あったということです。

アンドリュー・カーネギーは、その自伝に次のように書きます。

「自分の若いころの経験に照{ら}して、私は、能力があり、それを伸ばそうとする野心をもった少年少女のためにお金でできる最もよいことは、一つのコミュニティに公共図書館を創設し、それを公共のものとして盛り立ててゆくことであると確信するようになった。」3

 彼は、あるエッセイの中で「慈善活動に最適の分野」を7つリストアップして、①大学、②図書館、③医療センター、④公園……などとしています。また、死後に見つかったカーネギーのメモによりますと、1868年、33歳のときすでに、彼は収入の余剰分を他人のために役立てようと計画していました。そして、計画は(少なくとも図書館にかんする限り)見事に実行に移されまました。

 彼が個人として、また、死ぬまでトップであり続けたカーネギー財団として、図書館にかんして行った寄付は、英語圏の国々(アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなど)の図書館の建築費です。「建築費」といいますのは、寄付を受けるコミュニティが土地と図書館の運営費を用意すれば、建物の費用を出すという条件だったからです。

その数、何と2,509館。うち、アメリカ合衆国では1,679公共図書館です。(4

以上、カーネギーの幅広い慈善活動のうち、ここでは図書館建設のための寄付についてのみご紹介しました。その動機としては、次のようなことが考えられるでしょう。

父親が貸出図書館を発案して仲間と協力して実現したのを誇らしく思ったこと、アンダーソン大佐の寛大な個人蔵書開放を心の底から有難く感じたこと、能力とやる気のある子どもには図書館が最適かつ必要だと確信したこと、などです。

 

参考:

1)齋藤昇『ワシントン・アーヴィングとその時代』(本の友社、2005年)

2World Encyclopedia of Library & Information Science. 3rd ed. (Chicago, American Library Association, 1993)

3アンドリュー・カーネギー著、坂西志保訳『カーネギー自伝』(中央公論新社2002年)

4Andrew Carnegie’s StoryCarnegie Corporation of New Yorkのウェブサイト20190301

図書館を創った人たち(1)

 王侯や貴族、僧侶など特権階級の人ではなく、ふつうの人が図書館を創ろうとした動機は何だったんでしょうか。特徴的な例によって、それを考えてみたいと思います。

 

1自らが中心となって図書館を創った人たち

 18世紀の後半に活躍したアメリカの政治家・科学者であるベンジャミン・フランクリン17061790)は、凧をあげて稲妻が電気放電によるものだと証明したことで有名ですね。

一読、とても面白い彼の『フランクリン自伝』ですが、残念なことに53歳までのことしか書かれていません。その本によりますと、学校へは8歳のときに入ったラテン語学校に1年足らず通っただけなのに、彼は書物に親しみ、独学で識見をたくわえました。そして、文才と説得術とが有力者を次々と味方にしていくのに役立ち、勤勉と倹約とが経済的な成功をもたらしたのでした。

 仲間と集まって議論をし、論文を書いたりしているうちに、24歳のころ、彼は妙案を思いつきます。

みんなの書物を集めて共同図書館を作っておけば、われわれに一つところにまとめておくつもりがある限り、その間はめいめい他の会員全部の本を使用する権利がえられ、めいめいが全部の本を持っているのとほとんど変らず有益だろう」と。

この案は実行に移されたものの、本の管理がうまくできず、1年後には共同図書館は解散となりました。でもベンジャミンは諦めません。

 「さて私は初めて公共の性質をおびた計画に手を出した。すなわち、組合図書館の計画である。私が草案を作り、この町で著名な公証人ブロックデンに頼んで定款に作成し、ジャントー・クラブの友達の援助によって五十名の組合員をえた。組合員は最初に一人につき四十シリング、以後は組合が存続する予定である五十年間、毎年十シリングずつ出す規則であった。その後、組合員が百名に増加したので、法人にする許可をえた。これが今日各地に行われている北アメリカ組合図書館の元祖である。私たちの図書館そのものも大したものになったばかりか、なおも膨脹しつづけている。アメリカ人全体の知識水準を高め、平凡な商人や百姓の教養を深めて諸外国のたいていの紳士に劣らぬものに仕上げたのは、これらの図書館である。また思うに、全植民地の住民がその権益を擁護するためにあのようにこぞって抗争に立ち上ったのも、幾分かはこれが影響によるものであろう。」(1

 これは、自分たちが勉強するために本やお金を持ちよって図書館を創った例です。現在の公立図書館の原型と言ってもよいでしょう。

 

 イギリスの評論家・歴史家だったトーマス・カーライル17951881)も、仲間を集めて図書館を創った人です。彼のおもな著書は『衣装哲学』、『英雄崇拝論』、『過去と現在』などで、日本では全集(9巻)や選集(6巻)が発行されています。

 カーライルは、執筆のために必要な文献のかなりの部分を大英博物館の図書に頼っていましたが、利用するときの不便さにいつも困っていました。資料を探す手掛かりの目録が不備であり、ようやく見つけても貸出をしてもらえず、しばしば座席が見つからないために梯子の段に腰かけなければならない、といった具合だったからです。

 そこで彼は、1838年の冬、影響力のある友人に呼びかけて、本を借り出すことができる私立の会員制図書館をつくるキャンペーンを始めました。結果、1840年に「ロンドン図書館企画委員会」ができ、委員には、大学教授や貴族にまじってチャールズ・ディケンズのような作家も名を連ね、委員長にはカーライルが就任しました。

 このキャンペーンが功を奏し、ロンドン図書館は18415月に開館します。当初の会員は500名で、そのうち女性は15名にすぎませんでした。

 カーライルは直接にロンドン図書館の業務に従事したわけではありません。けれど、生きているあいだは何らかの形で運営に参画し、1870年に初代の理事長が亡くなると、実務をしないという条件で後任の理事長職を引き受けました。(2

 このばあいは、利用していた図書館の使い難さに業を煮やした人が、より使い勝手のよい図書館を創った例ですね。

 

 日本にも自分で図書館を創った人たちがいました。

まず、越後(今の新潟県長岡市)出身の大橋佐平(18361901)です。彼は家業の材木商の手伝い、酒屋の経営、明治新政府の地方役人、新聞の発行などを経験し、1887年(明治20年)に東京で博文館という出版社を立ち上げます。

博文館は数種類の大衆的な雑誌の発行によって経営基盤をかため、つづく教養書のシリーズ発刊と合わせて業績を急速に伸ばしていきました。事業が軌道に乗った1893年(明治26年)、佐平は欧米へ視察旅行に出かけて、出版や図書館の実態を目の当たりにします。以来、図書館の設立が、若いころから教育や読書に強い関心をもっていた佐平の念願となりました。

 けれども、財団法人大橋図書館を創設すると発表した1901年、佐平は胃癌におかされていて、11月に亡くなってしまいます。佐平の遺志は、博文館の経営を継いでいた3男の新太郎が全うし、木造2階建ての図書館、レンガ造りの3階建ての書庫が19026月に竣工したのでした。

 その後、この図書館は紆余曲折(たとえば関東大震災、復興、博文館の廃業、東京都庁による自発的解散の勧告など)を経て、1953年にその経営権が西武鉄道に譲渡されました。

 大橋佐平のばあいは、文化の進んでいる欧米と比べて日本には図書館の数が少なすぎるという認識が、図書館設立の動機になったと思われます。

 

次は、一般にはあまり知られていない本間一夫(19152003)という人です。

 彼は1915年(大正4年)、北海道の増毛に生まれました。経済的にはとても恵まれた家で育ちましたけれど、5歳のころ脳膜炎が原因で失明し、13歳まで学校に通うことはありませんでした。その間、家で読み聞かせをしてもらいましたので、本が大好きになります。13歳で入学した函館盲唖院(現在の北海道函館盲学校)で点字図書と出会い、外国には点字図書館があることも知りました。

 1939年に関西学院大学の専門部英文科を卒業した本間は、東京にあった視覚障碍者の施設「陽光会」で『点字倶楽部』という雑誌の編集に従事しました。

 1940年、25歳を目前にした彼は、豊島区雑司が谷にあった自宅(借家)に日本盲人図書館を創設します。「点字図書700冊、書棚4本からのスタートでした。」(3

 戦争中、本間は日本盲人図書館の蔵書と一緒に茨城県、北海道へと疎開し、1948年(昭和23年)、東京に戻って日本点字図書館と改名して仕事を再開します。以後、図書館が順調に発展するにつれて、この図書館は全国に生まれてきた点字図書館の中心的な役割をになうようになりました。また、本間自身、点字図書の普及や点字図書館の発展のパイオニアとして数々の賞を受ける栄誉に浴したのでした。

 本間一夫のばあいは、点字図書と点字図書館の必要性を身に染みて感じた行動力のある人が、同じ境遇にある人のために、(それはまた自分のためでもあったはずですが)率先して図書館を創った例になると思います。

 

 最後は劇作家・小説家の井上ひさし19342010です。彼は山形県川西町の生まれで、父親を5歳のときに亡くし、経済的には苦しい子ども時代を過ごしました。それでも、上智大学国語学部に在学中から台本作家、放送作家として活躍し始めます。その後、彼はさまざまな文学ジャンルに手を広げ、1972年の時代小説『手鎖心中』による直木賞のほか、全部で20ばかりの賞を受賞しました。

 自分の蔵書によって図書館を創るに至ったいきさつは、彼の著書『本の運命』にかなり詳しく書かれています。図書館を創る動機としては、

小説や戯曲を書く際に当面のテーマに沿った大量の本を買ったこと、

そのために自宅に本が増えすぎて困ったこと、

けれども「ある時から、本はもう一冊も処分すまいと決心」したこと、

故郷の若い人たちが本を読みたがっているのを知ったこと、

「本は全部、故郷の若い人たちに差し上げたらいいんじゃないか」と思いついたこと、

「本というのは、必要な人の手に取られることが一番幸せ」だと思ったこと、

などが挙げられるでしょう。(4

さいわい、時の町長が町の施設である農村生活改善センターの2階を図書館のために使うようにと提案してくださり、図書館づくりが具体化します。川西町の若い人たちが蔵書を引き取りに来て、開館したのは1987年、蔵書7万冊、名前は遅筆堂文庫でした。井上ひさしは筆の遅いことで有名で、自認してもいましたので、名称に遅筆堂と入れたのでした。

その後、いわゆる「ふるさと創生事業」という追い風が吹き、1994年、遅筆堂文庫は町立図書館と芝居専用の劇場とともに、美しい複合施設「川西町フレンドリープラザ」に入ることになりました。蔵書は20万冊を超えているそうです。

 

参照:

1ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫1957年)

2ジョン・ウェルズ著、高島みき訳『ロンドン図書館物語』(図書出版社、1993年)

3)「図書館の歴史:本間一夫と日本点字図書館」(社会福祉法人日本点字図書館のウェブサイト、20190222

4井上ひさし『本の運命』(文藝春秋1997年)