図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ゴルダ・メイア(Meir, Golda, 1898-1978)

 イスラエルの第5代首相ゴルダ・メイアは、ロシア帝国帝政ロシア)の生れです。生地はウクライナキエフ、生年は1898年、出自はユダヤ人でした。これらの条件が彼女の人生に大きな影響を与えます。

 と言いますのは、ロシアではポグロムというユダヤ人への襲撃・虐待が19世紀後半からくりかえされ、ゴルダがまだ幼い1905年前後に、ウクライナユダヤ人がたびたびポグロムの被害に遭ったからです。ために、他の多くのユダヤ人と同じように、ゴルダの一家もアメリカへ移住しました。初めに父親がウィスコンシン州ミルウォーキーへわたって生活の基盤を確かなものにし、3年後に母と娘3人がそこへ合流します。1906年、ゴルダが8歳の時でした。

 一家が住み着いたミルウォーキーには、当時、ドイツや東ヨーロッパからの移民が多く住んでいました。父の経営する食料品店は繁盛して生活が安定し、偏見や襲撃から解放されたゴルダは、すぐ新しい土地になじみ、順調に成長してゆきました。

 

 高等学校に入学するころに教師になりたいという考えをもっていた彼女が卒業後に進んだのはミルウォーキー師範学校でした。この学校はのちにウィスコンシンミルウォーキー大学となります。

 彼女は高校在学中から、ユダヤ人の国家をパレスチナに建設しようとするシオニズム運動に強い関心をもち、師範学校在学中からその組織活動(講演、集会の準備、基金の募集など)に取り組みました。20歳になっていない人が講演をするのはやや驚きですけれど、彼女は小学生のころから人前でスピーチをする自分の才能に気づいており、またシオニズムについてよく学んでもいたのです。

 

 19172月、ゴルダはミルウォーキー公共図書館の面接を受け、3月からそこで働き始めますが、わずか6か月間仕事をしただけで退職し、シカゴへ移ります。ところがシカゴ公共図書館をたった6週間で退職し、ミルウォーキー公共図書館に復帰しました。そこを19183月に退職しますと、以後、彼女が図書館で働くことはありませんでした。合わせて1年間ほどの図書館員生活となります。

 

 その間、高校生のときに出合ったモリス・マイヤーソンという青年から、ゴルダは結婚したいと迫られつづけていました。シカゴから戻った191712月、ゴルダはミルウォーキーでモリス青年と結婚します。ふたりの間には、お金を貯めてパレスチナへ行き、現地でシオニズム活動をする約束ができていました。それが実現したのはゴルダが若干20歳、19213月のことでした。

 

 パレスチナでのゴルダ・マイヤーソンは、約3年間のキブツ生活を経験します。キブツとは、イスラエル独特の農業共同体のことで、そこでは100人前後から1000人をこえる人びとがひとつの単位となってキブツを構成し、彼らは財産を共有し、農業を中心に平等に働き、育児を共同で行うなど、他に類を見ない暮らしをしていました。このキブツは(当初とはかなり性格を変えながら)現在も存在し続けています。

 

政治的な経験を積んだゴルダは、19485月にイスラエルが建国宣言を発表するときには、宣言の署名者のひとりに選ばれるほど、周囲の信頼を得ていました。さらに、新国家の誕生後、1948年に初代のソ連駐在大使、1949年に国会議員と労働大臣、1956年に外務大臣1963年に首相というふうに年を経るごとに重要なポストを任されるようになったのでした。

 イスラエルは、建国いらい、周囲のアラブ諸国4度の大規模な武力衝突をしました。中東戦争とかアラブ・イスラエル紛争とか言われているこの武力衝突のうち、第2次から第4次まで、ゴルダ・メイア外務大臣や首相としてかかわり、たびたびアメリカに支援を要請せざるをえませんでした。最後の大規模な武力衝突となった第4次では、勝利を得たものの、緒戦に喫した敗北の責任を取らされる形で、1974年に首相を辞任したのでした。

若いころからとても意志の強かったゴルダ・メイアという人は、長じてからも信念の人、鉄の宰相でありつづけたのだと思います。

 

参照:

1ゴルダ・メイア著、林弘子訳『ゴルダ・メイア回想録:運命への挑戦』(評論社、1980年)

2Goldie Mabowehz (Golda Meir), from the Milwaukee Public Library to Prime Minister of Israel / by MPL staff on Mar 15, 2017 (Milwaukee Public Libraryのウェブサイト20190214)

ローラ・ブッシュ(Bush, Laura Lane Welch, 1946‐)

 第43アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ氏の夫人として知られるローラ・ブッシュ氏は、1946年、テキサス州のミッドランドという町で生まれました。両親は彼女のあとにも何人かの子どもを授かりましたけれど、どの子も生まれて間もなく亡くなったため、彼女は一人っ子として育ちます。

 父は会社員として勤めるかたわら、彼女が物心ついたころから副業として住宅建築を手がけました。『ローラ・ブッシュ自伝』には、いくら頼まれても注文建築を断ったこと、建てたばかりでまだ売れていない家に引っ越しを繰り返したこと、などが書かれています。面白いお父さんだったのですね。

 母は読書が好きで、幼い娘が自分で本を読み始めるまでは、いつも読み聞かせをしてくれたのでした。本はミッドランドの郡庁舎の地下にあった図書館から借りてくることが多かったということです。

 

 両親のいつくしみに包まれて育った彼女は、中学・高校と学校が大好きで、成績のよい真面目な生徒でした。でも、いつも本が読みたくてたまらず、数学の授業では、机の上の教科書の中に隠した本を読んだことがありました。

生活を楽しむ点でも彼女に抜かりはありません。10代の前半からデートを始め、週末にはパーティや映画にでかけ、高校のフットボールの応援に行くなど、青春を謳歌する女の子だったように思われます。

 

ところが、17歳になったばかりのある日の夜、おそらく彼女にとって生涯でただひとつの痛恨事ともいうべき事件が起こります。女友だちを乗せて車を運転中に、話に夢中になっていた彼女は、一時停止の信号を見落とし、衝突事故を起こしてしまったのでした。自分たちはそれほど重傷でなかったのに、相手の車を運転していた同じ高校で仲良くしていた男の子が亡くなったのです。彼女は長いあいだこの件で悩みましたけれど、両親や親しい人たちの思いやりで少しずつ立ち直ることができたのでした。

 

 1964年、彼女はダラスにあるサザン・メソジスト大学に入学し、ここでも生活を満喫しながら教育学を学びました。けれども、周囲の多くの女子大生と同じく大学を卒業するまでに結婚するつもりでいて、彼女の気持ちは就職に向かっていません。

 ために、プールでの水泳コーチ、サマーキャンプでのカウンセラー、小学校の教員、証券会社の社員など、短期間にいくつもの仕事を経験します。たどり着いた結論は、司書になることでした。

 

 アメリカでの司書資格取得には、大学院で図書館学の講座を受講する必要があります。彼女が選んだのはテキサス大学オースティン校の図書館学スクールで、1973年に修士号を取得しました。

 彼女の司書としての最初の任地はヒューストンの公立図書館でした。

 「私が配属されたのは、ヒューストンのアフリカ系アメリカ人居住区にある、線路と産業ビルに挟まれたカシミア・ガーデンズ・ネイバーフッド図書館。ミステリー小説を探すビジネスマンではなく、本を探しに来る家族連れの面倒を見、学校が終わるやいなや図書館は、他に安全な行き場のない子供達であふれか{え}った。事実上、私は彼らの世話係になったのだ。子供達に読み聞かせをし、アクティビティを考え出し、教室に本を貸し出すために地元の小学校を訪れるようになっていた。図書館が静かな時間帯には本を読んだ。」(1

 

 でも、オースティンという町と学校という職場が懐かしくなった彼女は、1974年夏にヒューストンの公立図書館を退職し、オースティンで職探しを始めます。見つかった新しい職は、「モリー・ドーソン小学校の図書館司書としての仕事であり、そこは主にヒスパニック系が住む地域だった。一日の大半を子供と本に囲まれる日常に戻り、受け持つ授業は大好きなお話の時間となった。」

 結局、彼女は「一九六八年から、ジョージと結婚する一九七七年の十一月まで」「教師と図書館司書として働いていた」ことになります。

 

 1977年、ローラ・ウェルチ嬢は、友人の夫に紹介されたジョージ・ブッシュ氏と結婚します。当時のブッシュ氏は石油関連の会社員、その父親はのちに大統領となるジョージ・HW・ブッシュで、すでに下院議員やCIA長官を経験していました。

 息子のジョージは1979年の上院議員選挙に立候補して落選します。代わりというわけではありませんけれど、1981年、父親のジョージがロナルド・レーガン大統領に請われて副大統領に就任します。

 

 以後のおよそ10年以上、若いジョージは石油関連会社の立ち上げやプロ野球球団テキサス・レンジャーズの買収と共同経営など、事業面で成功をおさめる一方、父ブッシュの大統領選挙では妻とともに応援に駆けつけ、スピーチライターをこなすなどして、政治面でも力をつけていったのでした。

 息子ブッシュにとって機が熟したのでしょう、彼は1994年のテキサス州知事選挙に勝利し、翌1995年、知事に就任します。

 夫が大きな州の知事になったのに、ローラは妻としてずいぶん自由に過ごすことができたということです。家族の暮らしぶりも以前と変わらず、夕食はほとんど双子の娘と一緒に4人で食べることができたのでした。

 

 ところが、1998年、夫が州知事選で圧倒的な支持を得て再選されますと、(家庭的には)皮肉なことに、事情が変わってしまいます。あまりの圧勝ぶりに、彼が2年後に行われる予定の共和党大統領選挙の本命に浮上したからでした。以来、妻のローラも夫の選挙にさまざまな協力・貢献をし、2000年の大統領選挙でついに大接戦の末、ジョージ・ブッシュ氏は民主党のゴア候補に勝ったのでした。

 

 20011月、ローラ・ブッシュ氏はファースト・レディとなり、家族とともにホワイトハウスで暮らすようになります。ここに住めば、いわゆる主婦業はかなり軽減されますけれど、その代わり、ほとんど義務ともいえる公式行事への参加やパーティへの出席のほか、議論を二分しないようなテーマでの活動をしなければなりません。彼女が取り組んだテーマは教育、図書館、女性の権利向上などいろいろありますが、ここでは図書館に関係するものを2つご紹介して結びとします。

 

1)ローラ・ブッシュ米国図書館財団の設立

 ファースト・レディとなった彼女は、2002年、親しい友人の協力を得て財団を設立しました。そのウェブサイトによりますと、

 「国内をまわって学校と図書館を訪れ、多くの学校図書館の書架がからっぽで、蔵書と参考図書{調べものをするための本}がおそろしく時代遅れだと気づきました。それがローラ・ブッシュ米国図書館財団を設立した理由」だということです。(2

 この財団は毎年、学校図書館や読書の推進のためにさまざまな助成を続けて現在にいたっています。

 

2)ナショナル・ブックフェスティバルの開催

 アメリカ議会図書館の「ナショナル・ブックフェスティバル」に関するウェブサイトによりますと、このお祭りはローラ・ブッシュ氏の提案によって、彼女と当時の議会図書館長JH・バイリントンが協力して始めました。資金は個人の寄付とスポンサー企業の拠出金によっています。

このフェスティバルでは、さまざまなジャンルから多くの作家が参加して自著にサインをしたりスピーチをするほか、お祭りらしく、本の即売会や子どもが喜ぶイベントも開かれます。

 第1回は20019月に開催され、今年(2019年)も開催される予定で、2014年には参加者が20万人をこえたということです。(3

 

参照:

1)ローラ・ブッシュ著、村井理子訳『ローラ・ブッシュ自伝』(中央公論新社2015年)

2www.laurabushfoundation.com/ (20190210)

3www.loc.gov/bookfest/ (20190210)

遊びの場としての図書館

 公立図書館は、さまざまな催し(行事・イベント)を通じて住民を図書館に惹きつけようと努めています。催しの中には講演会や講座、相談会など、遊びや趣味の要素の少ないものもありますけれど、最近の催しの傾向としては、種類が増えている、遊びや楽しみの要素が色濃くなっている、と言えます。

 つまり、最近の公立図書館には、遊びの場、趣味の場、読書以外でも楽しめる場、いくつかの催しを組み合わせた祭りの場、となっている例が少なからずあるということです。ただし、図書館の催しは、展示などを除けば毎日行われているわけではなく、定番の子ども向けおはなし会などでも、週に1日がふつうです。

以下、いくつかのパターンに分けて、実例を挙げながらご紹介します。なお、以下の引用は各図書館のウェブサイトからで、時期は201901~02です。

 

見て楽しむ

◎マジック(手品)

 演じてみせるだけのばあいと、簡単なものを教えるばあいとがあります。

バルーンアート(風船を使う造形)

 マジックと同じく、見せるだけのばあいと、教えるばあいとがあります。

鉄道模型

 和泉市立シティプラザ図書館(大阪府)では、毎週日曜日の午前と午後の1回、各10 分間、「ジオラマ・トーマスが動きます。」

 

聴いて楽しむ

◎落語(寄席)

「新春」「恒例の」「真夏の」などという枕詞つきの落語会が各地の図書館で開かれています。なぜか、漫才はほとんどありません。

◎演奏会・コンサート

ミュージシャンやアーティストが生出演するものです。池田町図書館(岐阜県)ではカントリー・ミュージックやジャズのコンサートを開いてきました。

◎おはなし会

図書館のイベントの中で最もポピュラーな定番です。多くは乳幼児がターゲットですけれど、最近は「大人のための」とか「外国語の」などという枕詞つきのおはなし会が現れています。おはなし会はストーリーテリングとも言われていまして、話し手が物語を暗記しておいて語り聞かせるものです。

◎読み聞かせ

絵本や短いおはなしを読み聞かせます。朗読会も似たようなものですが、こちらはどちらかと言えば聞き手の年齢層が高くなります。中には「大人のための」と銘打った朗読会もあります。

ほかに、数は多くありませんけれど、講談、対談、昔話(民話)などを聞かせるプログラムもあります。クリスマス会ではハンドベルの演奏を聴ける図書館もあります。

 

視聴して楽しむ

◎紙芝居

図書館の児童サービスの定番のひとつです。紙芝居は日本独特のもので、かつては紙芝居屋さんが街を回っていました。

◎映画会

YouTubeなどの動画が気軽に見られるようになっても、相変わらず公立図書館でつづいている人気プログラムのひとつです。

◎パネルシアターやエプロンシアター

パネルシアターは、大きなパネルに人や物、動物などを貼りつけながら話を進めるものです。エプロンシアターは、パネルの代りに、演じる人が着けたエプロンに人や物、動物などを貼りつけながら話を進めるものです。いずれも節をつけたり歌を取り入れたりします。

◎人形劇

 立体的な人形が活躍する劇です。操り人形、指人形などがありますが、パネルシアターやエプロンシアターと比べると手間がかかります。それでも、旭川市図書館(北海道)、東京都の多くの区立図書館、大阪市立図書館、三木市立図書館(兵庫県)などで公演が行われています。

◎腹話術

 最近は、仙台市図書館(宮城県)や宮崎市立図書館で公演が行われました。

 

歌って楽しむ

 幼児が歌いながら手遊びをする催しは、各地の公立図書館で行われています。「むすんでひらいて」は誰でも知っていますよね。

変わった催しとしては次のような例があります。

 2017年12月、田原(たはら)市立図書館(愛知県)は、中央図書館15周年記念イベントで、「うたう図書館」というワークショップを催しました。これは、「音楽家野村誠さんと一緒にオリジナルの歌を作ります。中央図書館の中で、普段は出せない大きな声で歌ったり、自由に意見を出し合ったりして、みんなで楽しく遊びながら歌作り。作った歌は、12月23日(土)の「うたう図書館フェス!」で発表!」というものでした。

 

描いて楽しむ

 多くは教室という形をとっています。描くのは、まんが、イラスト、ぬり絵、絵本などです。

 珍しい例としては、2015年6月、札幌市中央図書館が開催した「タブレットPCでオリジナル絵本をつくろう!」というイベントがあります。対象は5歳から8歳くらいまでの子どもとその保護者です。絵を描き、録音(吹き込み)とプリント、製本までを自分たちで仕上げて、持ち帰ることができたそうです。

 その後、デジタル絵本づくりの催しは今年(2019年)まで札幌市のえほん図書館でつづけられています。

 

作って楽しむ

 公立図書館で何かを作る催しは、多種多様です。多くは工作教室とか科学教室(科学遊び)という形をとっていますけれども、イベントのひとつに組み込まれているばあいも少なくありません。よく作られているのは、次のようなものです。

◎本に関するもの

 絵本(紙・布・デジタル)、紙芝居用の舞台、しおり、製本、図書館バッグ、ブックカバー、豆本など。

◎おもちゃ

 折り紙、紙飛行機、かるた、切り絵、こま、人形、布の遊具、万華鏡など。

◎その他

 アクセサリー、(壁やツリーの)飾り、カレンダー、ケーキ、写真立て(フォトフレーム)、チョコレート、ラジオなど。

 とても珍しい物づくりとしては、三島市立図書館(静岡県)の紙堆朱(かみついしゅ)づくりがあります。紙堆朱というのは、色つきの画用紙を重ねて貼り合わせ、それを彫刻刀などで彫ってかわいらしい小物にするものです。2017年10月に催され、小学校の高学年生が対象でした。

 

組み立てて楽しむ

 積み木とレゴが、組み立てて楽しむありふれた遊びです。

 都農(つの)町民図書館(宮崎県)には「からからつみきコーナー」があります。ここでは宮崎の杉の木の「からからつみき」を使って、0歳から大人まで、また一人でも多人数でも楽しめるということです。「からからつみき」とは宮崎産の杉の細長い板状の積み木。

 

からだを動かして楽しむ

 手遊びや指遊び、リズム遊び(リトミック)は、幼い子どもを対象として、図書館でもよく行われてきたものです。

 あやとり、けん玉、玉入れ、羽根つき、福笑い、ヨーヨー、輪投げなどの昔懐かしい遊びが、図書館まつりやお正月のイベントなどで行われています。

ダンスは最近になって登場してきた図書館での遊び・楽しみです。たとえば、

大阪府立中央図書館は、2007年2月に第1回の「若者ダンス・カーニバル」を開催し、今年(2019年)までつづけています。出場チームは年度によって異なりますが、2019年度は49チームの予定となっています。午前・午後の審査時間中に「図書館紹介タイム」を設けて図書館のPRをしています。といいますのは、当初からの目的が、10代の若者にもっと図書館に来てもらうことだからです。

名護市立中央図書館(沖縄県)は2019年1月、「ハワイ出身のサラ先生と英語でしゃべりながらハワイアンフラを踊」る「ハワイアン・フラ」という、だれでも参加できる催しを開いています。

遊びや楽しみとは逸れますけれど、健康維持・病気予防を目的としたストレッチや体操をする催しがあちこちの公立図書館で開かれています。大和市立図書館(神奈川県)の「首と肩こり予防のお話と体操」、練馬区立図書館(東京都)の「お口すっきり体操講習会(ストレッチ)」、福岡市東図書館の「認知症予防~コグニサイズを体験してみよう~」などがその例です。

 

競って楽しむ

◎将棋・囲碁・オセロ

 和室やたたみコーナーのある公立図書館に将棋や囲碁のセットが鎮座している景色は、かなり以前から見ることができました。豊岡市立図書館本館(兵庫県)では囲碁3セット、将棋4セット、オセロ2セットを用意していて、「いこいの間」と「いこいの庭」で利用することができます。

ボードゲーム

最近では、各種のボードゲームが図書館に登場しています。たとえば、

大津町立おおづ図書館(熊本県)は2018年4月から18種類のボードゲームを用意していて、13種類は館外貸出可能、5種類は館内利用としています。対象年齢は、3歳以上から大人まで。

◎伝統的な遊び

 かるた、百人一首、すごろくなどが、公立図書館のイベントで行われています。かるたは、郷土かるた(ふるさとかるた)が伝わっている地方もあって、この3種の中ではいちばん人気があるように思われます。

◎その他

 クイズ、コンクール、ビブリオバトル、ビンゴ、チェスなどのうち、前の3種は図書館でときどき見かけます。後の2種のうち、チェスは(欧米の公共図書館では古くから親しまれてきましたけれど)日本の公立図書館で見かけないと言っても過言ではないでしょう。

 

非日常の体験を楽しむ

図書館を知ってもらうための企画には、図書館見学(探検)・図書館の仕事体験、1日図書館員などがあります。

体験型のイベントとしては、次のようなものがあります。

生け花、お化け屋敷、音読(教室)、蚕とのふれあい(糸取り)、影絵、ぬいぐるみお泊り会、フェイスペインティング、変身体験(物語などの登場人物の衣裳を着て写真撮影)など。

 

あれもこれも楽しむ

例1:大河原町駅前図書館(宮城県)は、2019年1月に「お正月の遊びとお話の会」を開催しました。遊びは、「ゴム鉄砲・おはじき・あや取り・カルタとり・羽子板・お手玉・ふくわらい・コマなどで、昔なつかしい遊びを体験してみませんか?」というものです。

 

例2:豊川市中央図書館(愛知県)の図書館まつり

 豊川市中央図書館(愛知県)では、2016年から春と秋の2回、図書館まつりを開催しています。2018年は6月と10月に各2日間(土曜・日曜)行われました。そのウェブサイトに掲載された写真から遊びの要素のある(または強い)ものをご紹介しますと、

 将棋会、生け花体験、英語で遊ぼう、エントランスイベント、本の修理見学会、落語、電子書籍体験会、読み聞かせ、工作体験ハロウィン、親子映画会、フェイスペインティングなど、盛りだくさんでした。

 また、同館の「図書館コラボイベント」(2018年度)は、図書館と市の他の部署とが協力して開催した多様なイベントです。ただし、こちらはターゲットが大人だけで、遊びや楽しみの要素が全く見当たりません。でも、試みとしてはとても面白いと思いましたので、ご紹介します。

図書館以外の部署とそのイベントは、財産管理課=ファシリティマネジメント講演会、商工観光課=創業ミニセミナー、子育て支援課=読み聞かせボランティアフォローアップ講座、カウンセリング室=「幼少期からの親子の対話の大切さ」講座、でした。ほかに愛知学泉短期大学=食育教育も加わっていました。

 

例3:ぶっくりモール in 飯塚 2018

 これは、飯塚市立図書館(福岡県)と同市の二つの商店街がコラボした「本のおまつり」で、2018年は3回目でした。開催は11月中旬の金曜から日曜までの3日間、会場は図書館とふたつの商店街。商店街との協力という点が珍しいですね。

 図書館会場での催しは地味なものがほとんどでしたけれど、商店街会場では「大人のぬり絵教室」「おはなしかい」「おもちゃすくい」「リサイクル市」「わくわく工作」など、ちょっと様子をのぞいてみたくなるような企画が並んでいました。

移動図書館(自動車文庫)

 公立図書館は、近くに図書館(中央館・地域館・分館・図書室など)がない地域住民のために、特製の自動車などに本を積んで巡回し、貸出・返却・予約、調べもの相談(レファレンス・サービス)などのサービスをしています。

 これを日本ではふつう移動図書館と呼んでいますが、自動車文庫と呼んでいる図書館もかなりあり、少数ですが自動車図書館、図書館バス、巡回文庫、動く図書館と呼んでいる図書館もあります。

 また、小学校や幼稚園・保育園に団体貸出をするための図書館車のことを巡回文庫と名づけている例も散見されますが、ここでは個人への貸出をするばあいの図書館車だけを取り上げています。

 

全国的な傾向

 全国の移動図書館車の台数は、文部科学省の社会教育調査の中の「図書館の自動車文庫の台数」(平成27年度=2015年度)で分かります。それによりますと、全国の486館が566台を保有していました。この486館は、全国3,331館の14.6%になります。

 保有台数の多いのは、岩手県(63台)、北海道(56台)、鹿児島県(28台)、大阪府(25台)などで、図書館数が圧倒的に多い東京都は9台です。保有台数の多寡の理由は一概に言えません。各自治体の地理的条件、公共交通の発達具合い、地域館・分館の充実度、自治体の財政状態、住民の図書館にたいする意識、教育委員会や図書館の考え、などが影響するからです。

 

自治体当りの車の台数

 移動図書館車をもつ自治体のほとんどすべてが、1台だけでサービスをしています。

2台を巡回させているのは、北海道(旭川市図書館)から九州の鹿児島県(鹿児島市立図書館・曽於市立図書館・南九州市立図書館)まで、いちおう全国に広がってはいますが、自治体数としては11市を確認できただけでした。

 台数がいちばん多かったのは鳥取市立図書館の5台です。この市立図書館は中央図書館と2図書館、6図書室からなりますが、中央図書館が3台、2図書館が各1台を運行し、ステーション(停車場所)は34か所です。巡回頻度はおおむね月に2回、停車時間はほとんど30分、鳥取環境大学鳥取大学へ行くのが珍しい点です。

 次いで台数の多かったのは、岡山市立図書館の4台。この市立図書館は中央図書館と8図書館、1図書室とからなりますが、ステーションは90か所です。積載冊数は600冊が2台、1,500冊が1台、3,000冊が1台。

 台数が3台だったのは、仙台市図書館(宮城県)、浜松市立図書館静岡県)、田辺市立図書館(和歌山県)、高松市図書館(香川県)でした。それぞれの特徴的な面は次のとおりです。

 仙台市図書館は、7館、10分室(市民センター内にあって蔵書13,000~21,000ほど)、せんだいメディアテークなどからなります。ここの特徴は、76ステーションの中に小学校が5校しか含まれていないことです。

 浜松市立図書館は館数が多い(中央とその1分室、ほかに22館)のに、自動車文庫が67か所のステーションを月に1回、巡回しています。

 田辺市立図書館(和歌山県)は3台の移動図書館車を走らせていて、それぞれを学校巡回用、一般ステーション巡回用、保育園・幼稚園巡回用と区別しています。1台の車に積める本の冊数が限られるわけですから、利用者層ごとに車を別にするのはgood ideaではないかと思います。

 高松市図書館(香川県)の移動図書館車は、2010年4月から市外の直島町へもステーション2か所を設けてサービスをしています。

 

ステーション(駐車場所・巡回地点)

 移動図書館車は、自治体内の小学校、幼稚園・保育園、公民館、公園、団地、集会所、福祉施設、神社など、利用者が集まりやすく駐車しやすい場所をステーションとしています。珍しいのは、先に挙げました大学のほかに、徳島市立図書館の移動図書館車は徳島大学の前に停まりますし、自衛隊の駐屯地・宿舎前に停まる例もいくつかあります。横浜市立図書館のステーションは21か所ですが、そのうちの17か所が公園です。

 ステーションの数が多い図書館は次の通りでした。

松山市立図書館(愛媛県)=165

名古屋市図書館(愛知県)=約120

長岡市立図書館(新潟県)=101

大阪市立図書館=100以上

富山市立図書館=99

長野市立図書館=92

 

積載冊数

 多くの移動図書館車は1,500~3,000冊の本を積むことができます。冊数がおよそ4,000冊だとしているのは、狭山市立図書館(埼玉県)と茨木市立図書館(大阪府)の車でした。逆に、北海道の町立・村立の図書館には、積載冊数が数百冊の車があります。

 

愛称

 ほとんどの移動図書館車には愛称がつけられています。利用者として多い子どもを意識してのことでしょう、平かな3~4文字からなる感じのよい名称が多いようです。きちんと調べたわけではありませんが、「ひまわり号」や「あおぞら号」、「ぶっくん」などが多かったように思います。もちろん漢字を使った愛称もありまして、長岡市立図書館の車の愛称は「米百俵号」で、ほほえましいですね。

 

巡回頻度と停車時間

 移動図書館車の巡回頻度は2週間ごとか1か月ごとが、ふつうです。

 停車時間は30分から1時間前後ですが、名古屋市図書館では2時間停車予定のステーションがかなりあります。

 

巡回の中止

 移動図書館車は、天候(大雨・大雪・台風など)や交通事情(道路工事)などを理由に運行を中止するばあいがあります。

 

珍しい試み

 最後に、変わったサービスの例をいくつかご紹介します。下記の③以外の情報源はそれぞれの図書館のウェブサイト、日付は201901~02です。

むかわ町立穂別図書館(北海道)

 「町立穂別図書館では、歩いて来館出来ない地域の子どもたちに、学校や保育所を通して、移動図書館による本の貸し出しを行っています。また、事情に応じて、病院・高齢者施設や個人宅にも出向いております。移動図書館の対象は全町です。ご希望がございましたら、お気軽にご相談下さい。」

 これは無料の宅配サービスを兼ねているのですね。

各務原(かかみがはら)市立図書館(岐阜県)の出前図書館

「出前図書館とは、市内企業の休憩時間や、団体の会合・セミナー・講演会などに移動図書館車が出向き、そこで利用カードの作成や本の貸出を行うサービスです。

 企業の事業内容や講演会のテーマに関連した本はもちろんのこと、人気のビジネス書や話題の人・物に関する本、歴史、旅行、趣味の本、女性社員のための料理、子育ての本などご希望のジャンルの本をのせて無料で出前します。」

十島(としま)村(鹿児島県)のセブンアイランド移動図書館

 「トカラ列島の、7つの有人離島を持つ十島村(鹿児島県)にはセブンアイランド移動図書館がある。島を巡航するフェリーに図書を積み込み、島から島へと本を受け渡していくものである。木箱に積み込まれた本は1か月から2か月ごとに島々を巡回していく。」(カレントアウェアネスE, no. 282, 20150604, 岡本真・ふじたまさえ)

沖縄県立図書館の空とぶ図書館

 沖縄県立図書館は「主に離島や北部地域の住民の皆様に読書機会を提供するため、町村教育委員会と連携し、空とぶ図書館(移動図書館)を開催しています。また、移動図書館の開催に合わせ、読み聞かせ会・読み聞かせスキルアップ講座などを開催し、読書活動の啓発を行っています。」

 また、「県立図書館は空路・海路・陸路を駆使して移動図書館を開催しています。」

 

講談社の「おはなし訪問隊」

 講談社は1999年7月、創業90周年記念事業として「おはなし訪問隊」の活動を始めました。これは、2台の車にそれぞれ550冊ほどの絵本を積み込んで全国を巡回し、学校、幼稚園・保育園、公立図書館、書店などを訪れるものです。

 1か所を訪問するのは1台の車で、次の2つを行います。

 ①訪問隊員が室内で紙芝居と絵本の読み聞かせ(30分)

 ②子どもが車に積んである絵本を自由に楽しむこと(30分)

 この「おはなし訪問隊」のウェブサイトではいつも「訪問希望」を募集しています。

 

 長岡市立図書館の「米百俵号」からこの「おはなし訪問隊」を思い出しまして、蛇足ですがご紹介しました。

授業よりも図書館通いをした人たち

 学校や大学の授業を欠席して図書館通いをした人たちがいます。その理由はさまざまで、

①経済的な理由で学校(または大学)へ通えなかった、②学校になじめない、学校へ通うのが苦痛だった、③読書(または研究)を優先せざるをえなかった、などがあります。

 以下、生年の早い順にご紹介していきます。

 

 数々の名作を書いたイギリスの作家チャールズ・ディケンズは、少年時代に家が貧しく、ろくに学校へ行かせてもらえませんでした。けれども、10代の初めころからいくつかの仕事を経験しながら、「大英博物館the British Museum)の読書室を利用できる満18歳になるや、すぐさま申請の手続きを」し、「ここを、いわば授業料無料の大学として、光熱費のいらない書斎として、また、誰からも邪魔されない私室として、思う存分活用」したのでした。(三ツ星堅三『チャールズ・ディケンズ創元社1995年)

 

 アメリカの発明家、トーマス・エジソンも短い学校生活しか送っていません。しかも、いつもクラスの中のビリで、劣等生だと自覚していました。けれども、彼は元教師をしていた母に助けられて、12歳のころからギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ヒュームの『イングランド史』、バートンの『憂鬱の解剖学』などを読むようになっており、ニュートンの『プリンピキア』を理解しようと努めたりもしました。

 また、暇があればデトロイト公共図書館で過ごし、主題を気にせずに本をつぎつぎと読んでいったのでした。(Edison: his life and inventions / by F. L. Dyer and T. C. Martin, N. Y., Harper, 1910

 

 博覧強記の民俗学者南方熊楠(みなかた・くまぐす)は、1884年、

「大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず。」と「履歴書」に書いています。

入学した大学予備門というのは、秀才の集まった第一高等学校の前身です。なのに、授業など心にとめず、上野図書館(当時の文部省所管の東京図書館の愛称)で読書三昧だったのですね。(「履歴書」in南方熊楠全集7:書簡 I平凡社1971年)

 

 1949年、中華人民共和国国家主席となった毛沢東は、湖南省立第一中学時代、教育内容や学校の規則に不満で、入学後6か月で退学しました。

 「六ヵ月ののちに私は学校をやめ、自分の教育予定表を作りましたが、それは毎日省立湖南図書館で読書することでした。私は非常に規則正しく、予定に忠実で、こうしてすごした半年は私にとり非常に貴重だったと考えます。私は朝図書館が開かれるとそこへ行きました。昼になると、私の毎日の昼飯である二つの餅を買って食べるだけの時間しか休みませんでした。私は図書館がおしまいになるまで図書館にいて読書しました。」(エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』筑摩書房1964年)

 これは典型的な「授業よりも図書館通い」の例ですね。

 

 日本の探偵小説の祖ともいうべき江戸川乱歩は、早稲田大学政治経済学部に在学中、アルバイトに追われて、学生らしい楽しみを味わういとまがありませんでした。それでも、

「小遣いがないので、図書館で本を読むのが唯一の楽しみだった。大学の図書館のほかに、上野、日比谷、大橋などの図書館へよくかよった。教室へはあまり出ず、経済学の本なども図書館で読んだ。『図書館卒業』の口である。学問の本のほかに、そのころポーやドイルなどの英語探偵小説を耽読した。」(江戸川乱歩『悪人志願』光文社文庫2005年)

 

 作家の宮本百合子(初めは中條{ちゅうじょう}百合子)は、東京女子師範学校の附属高等女学校に通っていたころの様子を、「学校の空気と学課が、自分をしっかりと掴えない。苦しく無意味に思える。そこで、上野の図書館へ行ってしまう。女学校の四年生になって、学校の比較的豊富な図書館がつかえるようになるまで、わたしの知識慾は、惨めな状態におかれた」と書いています。(「私の青春時代」 in宮本百合子全集 17新日本出版社1981年)

 また、ある本の「年譜」には、「よく学校へ行くのをやめたり早退けしたりして上野の図書館へ行った」とも書いています。

 

 『青い山脈』などの若者を主人公とする小説で人気のあった石坂洋次郎は、慶應義塾大学時代に授業よりも図書館での読書を優先した経験を次のように語っています。

 「慶應文科の予科時代、私は授業にはあまり出席せず、赤煉瓦の図書館にこもって文学書を乱読した。」

 1921年、病気で休学した彼は、学生結婚をしていた妻と一緒に弘前の家へ戻り、静養します。

翌年、ひとりで上京して復学しましたけれど、「相変らず図書館で気ままに本を読み、教室の講義にはあまり出席しなかった。そういう怠け学生の印象に残っている教授は、野口米次郎、戸川秋骨折口信夫、といった人々」だったそうです。(石坂洋次郎石坂洋次郎:わが半生の記』日本図書センター2004年)

 

 アイヌ言語学民俗学の研究者であった知里真志保(ちり・ましほ)は、1923年に入学した室蘭中学時代からとても優秀でしたのに、学校へ行くのが苦痛でした。当時はまだ人種的偏見が強かったからでした。というわけで、

 「記憶にのこっている私の中学時代は非常に欠席が多かったということである。これは教室で受ける白眼視にたえられなかったからで、決して学業を怠けようと思ったからではない。かといってあまり自慢にもならないことはもちろんである。

 欠席がちでしかも小遣い銭も乏しかった私の足は自然図書館に向って、坪内逍遙訳のシエクスピア全集を読破したり、厨川白村近代文学十二講や本間久雄の著書などに読みふけった。

 読書に興味が出たので、学校よりも図書館で独学したもののほうがほんとうに身についたように思う。」(「図書館通い:私の中学時代」『北海タイムス19550410

 結果、アイヌ語研究の先達である金田一京助の援助を受けながら、第一高等学校、東京帝国大学を経て、教師をしながら『分類アイヌ語辞典』全3巻などを完成させることができたのでした。

 

 作家の武田泰淳は、旧制中学を4年で修了して浦和高等学校文科甲類に入学した秀才でした。熱中することがたくさんあったからでしょうか、「「代返」で出席をかせぎ教室には殆ど顔をださず、もっぱら図書館にこもって国訳漢文大成本の『紅楼夢』や、魯迅胡適等の著作を読みあさり、また漢詩20篇ばかりを試作」していました。高校時代は「授業よりも図書館通い」だったのですね。

 その後、東京帝国大学文学部支那文学科に入りますが、こんどは左翼運動に熱中して、ほとんど授業には出ずに、中途退学してしまいました。(『現代文学大系 57武田泰淳集』筑摩書房1967年)

 

 日本では『華氏451度』や『火星年代記』で知られている作家のレイ・ブラッドベリは、200912月にメキシコのグアダラハラで開かれたブックフェアで、質問に答えて次のような主旨のことを語りました。

 父親が貧しかったため、学校に行けず、子ども時代を図書館で過ごした。

 若者は大学へ行かずに、図書館へ行ったほうがよい。

 『華氏451度』を書いたのは、知識と図書館を守るよう訴えたかったから。(AFP BB news 20091203

 

 アメリカの黒人解放運動の指導者だったマルコムXは、日本の中卒に相当する小学校8年を終えると、「それを機会に金儲けと結びつかないようなことはいっさい勉強すまいと思った。そして、世間に出ると、かつて学校で習ったことはみんな消えてしまった。動詞と名詞の区別もろくにつかなかった。」

 彼は、1946年、20歳の時に窃盗罪で懲役8~10年の判決をうけましたが、2年後、姉エラの努力によって、彼はマサチューセッツ州ノーフォークの犯罪者集団居住地(コロニー)に移ることができました。ほかの刑務所と比べれば天国のようなところです。そこには囚人たちが入れる立派な図書館がありました。

 刑務所には学校もありましたけれども、彼は読書に夢中になり、「図書館内よりも自分の部屋で読むほうが多かった。いったん読書家だとわかると、囚人は、貸出し制限数より多く借りることができた。私は自分の部屋で、完全な孤独のなかで読むのが好きだった。」

 後年、あるイギリス人作家が電話で彼の出身大学を訪ねたとき、マルコムXは「母校は本であり、いい図書館だ」と答えたということです。(マルコムX著、浜本武雄訳『完訳マルコムX自伝 上』中公文庫、2002年)

この人も図書館卒業だったのですね。

 

 宮田昇氏(ペンネーム内田庶{ちかし}、出版太郎でも著書あり)は、いくつかの出版社に勤めたあと、著作権関係の会社を設立する一方、出版と翻訳にかんする著作や児童書の翻訳を手掛けてきた方です。明治大学在学中の図書館通いを次のように振り返っています。

「戦後の三、四年が過ぎても、本を買う余裕がない私は、社会科学系の本や個人文学全集などをよむために、アルバイトのない日は、学校よりも上野の図書館に通うことが多かった。音を立てることさえはばかられるほど、全体が読書に熱中している空間に励まされて本を読んだ。言ってみれば、図書館こそ私の学校であった。」と書いています。(宮田昇著『図書館に通う』みすず書房2013年)

 

 エッセイを中心に紀行・小説などの執筆活動をした高田宏は、大学卒業後の約20年間、出版社の雑誌や企業のPR誌を編集していました。

 太平洋戦争後の数年間、石川県で中学生・高校生だった彼は図書館が好きで、日曜日、夏休み、冬休みにはたいてい町の図書館で過ごしていました。そして、京都大学へ進みますが、

 「大学でも、授業をさぼって図書館にいることが多かった。友達と会って廊下へ出て話し込むこともあったが、膨大な量の本に囲まれている時間は、教室での時間とは別の、宝の山にいる幸福感にひたれる時間でもあった。」(「図書館の時間」in『ことばのうみ:宮城県図書館だより』創刊号、19993月)

図書館で過ごすのが極楽だったのですね。

 

 和歌山県出身の作家、辻原登氏(1945‐)は高校時代を大阪市で過ごしました。そして、 「高校時代は特に不良生徒だったと思う。{大阪市の}此花区にあった親戚の家にお世話になったこともあったが、安治川から西区に渡るのに橋がなく、川底トンネルを利用するしかなかった。よく大型トラックと一緒にエレベーターで地下に降りたものだ。そこから学校へは行かず、中央図書館に入り浸ることもしばしばだった。」(日経新聞電子版 20170126

毛沢東(もう・たくとう 1893‐1976)

 中華人民共和国の創建にもっとも功績のあった毛沢東は、中国南部の湖南省湘潭(しょうたん)県の韶山(しょうざん)という村で、農家の3男として生まれました。ですが、兄ふたりが夭折したため、彼が実質的に長男でした。

理財に長けた父は、農地を買い増し、牛や豚を育てて売るなどして、着実に暮らし向きを豊かにしていました。そして、跡継ぎとして期待していた沢東に、幼いころから畑仕事や牧畜の手伝いをさせました。

沢東が8歳になりますと、父は彼を私塾に通わせ始めます。私塾に通ったのは、近辺に新しい教育をほどこす学校がまだなかったからで、彼は16歳になるまで数か所の私塾で勉強をつづけたのでした。

 

 1907年、父は、14歳だった毛沢東4歳年上の羅一秀という女性と結婚させます。けれども、息子は父親による押しつけ結婚に反抗し、妻と同居することは一度もなかったということです。

この若い妻はかわいそうに3年後に病死してしまいました。毛沢東江青の伝記などに江青を「3番目の妻」と書いてあったり「4人目の妻」と書いてあったりするのは、「本人が認めなかった結婚」をどう考えるかによるものと思われます。

 

 10代の後半からの数年、毛沢東の生活は半年間を一区切りとして、めまぐるしく変化します。

1910年秋、16歳になっていた毛沢東は、湖南省湘郷(しょうきょう)県にある県立東山小学堂という新式の学校に入学します。新式の学校というのは、それまで私塾で教えていた思想・歴史の古典だけでなく、英語や地理、科学などをも教える学校のことです。

②「半年後」の1911年春、彼は長沙(湖南省省都)にある湘郷駐省中学に入学します。東山小学堂のひとりの先生がその中学へ転勤するとき、毛沢東を連れていったからでした。

③その「半年後」の1911年秋、辛亥革命の発端となる武昌蜂起が起きますと、毛沢東は学業をなげうって長沙革命軍の志願兵となります。ところが、清朝最後の皇帝であった宣統帝が翌19122月に退位しましたので、毛沢東の軍隊生活は「半年で」終わりました。

 ④次に彼が選んだのは、湖南全省高等中学校への入学でしたが、その教育内容に不満で、ここにも「半年間」しか在籍しませんでした。

⑤軍隊に居場所がなく、自分で選んだ学校の教育に満足できず、毛沢東は何を始めたのでしょうか? 長沙にあった湖南省立図書館での読書を日課とするようになったのでした。計画的で勤勉な読書生活ではありましたけれども、仕事をせず、学校へ通わず、つぎつぎと行く先を変えるかのような息子に、父は仕送りをしないと決めました。また「半年」が経っていたのでしした。

 

思案の末に出した毛沢東の結論は、学業への復帰でした。1913年春、19歳のときに入学したのは学費の要らない湖南省立第4師範学校(翌年に第1師範学校に併合)で、この決断が功を奏しました。

功を奏した理由は、優れた教師に恵まれたことです。とりわけ毛沢東に大きな影響を与えたのは、倫理学を担当する楊昌済(19711920)という先生で、彼は日本の東京高等師範学校やイギリスの大学で学んだことがあり、数年後には北京大学の教授になった人です。

成功と失敗を繰り返した毛沢東が、広い国土と膨大な人口を擁する国で最終的に革命を成し遂げ、新しい国の形を創りえた理由のひとつには、楊先生が強調した訓えを彼が胸に刻みこんでいたからだと思えてなりません。

 

 師範学校で学ぶなかで、毛沢東は友人にも恵まれます。とりわけ在学中から卒業後までさまざまな機会に行動をともにしたのは、蕭子昇(しょう・ししょう)でした。その様子は、蕭が蕭瑜(シャオ・ユー)の名で出した回想録『毛沢東と私は乞食だった:その秘められた青春』(弘文堂、1962年)に書かれています。

このふたりが蔡和森(さい・わしん)ら学校の仲間と1918年に立ち上げた新民学会という学生団体は、初めのうち、個々人が品性を磨き、身を正して行動することを標榜するなど、政治的な色彩はほとんどありませんでした。ここにも恩師の楊先生の影響を見て取ることができます。

 

 19186月、毛沢東5年半にわたる師範学校生活を無事に終えたものの、この時点でも自分の進むべき道をはっきりと意識してはいませんでした。彼の尊敬する楊昌済はすでに北京大学の教授になっていて、人を介して毛沢東北京大学への入学を勧めていました。けれども、彼は進学にもフランスへの留学にも踏ん切りがつきません。選んだのは、とりあえず恩師のいる北京へ行くことでした。

 

 同じ1918年の10月、毛沢東は楊昌済の紹介で北京大学図書館に職を得ます。いくつかの証言をご紹介しましょう。

 「十月には楊昌済の紹介で、毛沢東は当時北京大学の図書館主任を勤めていた李大釗(り・だいしょう)と知り合った。李大釗は彼を図書館の助手にした。毎日の仕事は、掃除のほかには第二閲覧室で新着の新聞雑誌とやって来た閲覧者の氏名を登録し、十五種類の中国と外国の新聞を管理することであった。当時の北京大学の教授の給料はおおよそ二百から三百元であったが、毛沢東の給料は毎月八元でしかなかった。しかしこの仕事は彼にとってかなり満足できるもので、各種の新しい書籍や刊行物を閲読でき、有名な学者や志をもつ青年と知り合いになれた。」(1

 

有名な『中国の紅い星』の中で、著者エドガー・スノウのインタビューに答えた毛沢東は、北京大学図書館で仕事にありついたいきさつを次のように回想しています。

 「私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところ、かれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党創立者になりその後張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月八元の十分な俸給をもらっていました。

 私の地位が高級なものではなかったので、ひとびとは私に近よりませんでした。私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。」(2

 

 次は、G. パローツィ=ホルバートの『毛沢東伝』の一節です。

 「毛沢東の長沙時代の良き師であった楊教授はこのとき、国立北京大学で教鞭をとっていたので、彼は楊教授の援助で大学の図書館にささやかな仕事の口を与えられた。だが、それはまったく不満足な、恥ずかしいようなポストだった。蕭瑜によれば、毛沢東の仕事というのは図書館を掃除したり、本を整理したりすることだった。」(3

 

 最後に、スチュアート・シュラム著『毛沢東』による図書館員時代の毛沢東です。

 「図書館での彼の仕事は、きわめてつまらないものであり、仕事それ自体も生活の手段にすぎず、人や思想と接触する機会はほとんどなかった。彼は、図書館にくる指導的な知識人の何人かと話をしようとしたが、ほとんどの場合、「南方の方言をしゃべる図書館の助理員に耳をかすだけの時間をもっていない」ことがわかった。」(4

 

 毛沢東が身過ぎ世過ぎのための図書館員であった期間は、191810月から19193月末までの、「またしても半年間」でした。彼のいわゆる職歴は、1920年に長沙師範学校付属小学校長になり、2年後に教職を辞して終わりを告げます。

以後の毛沢東は、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』への寄稿、社会主義共産主義の地方組織づくり、共産党(一時期は国民党)の党務などを通じて、革命の実現にむけて歩み始めたのでした。

ちなみに、中国に共産党が誕生したのは、19217月、上海での中国共産党1回全国代表大会(創立大会)においてでした。そこには、陳独秀、李大釗、毛沢東など数十名が参加していました。

 

 以後の毛沢東の生涯は、成功と失敗の繰り返しでした。それでも最終的に革命を成し遂げて新しい国の形を創りえたのには、いくつかの理由があるように思われます。第1は信頼できる仲間がいたこと、第2はこころざしをしっかり保ったこと、第3は軍事戦略に秀でていたこと、です。

 

 けれども、1950年代半ば以降の約20年間、反右派闘争、農村の人民公社化、大躍進政策文化大革命の発動、天安門事件などで、毛沢東は深刻な誤りを犯し、国内の多くの人に飢えと苦しみ、失望を与えてしまいました。

 そして1976年、強いきずなで結ばれていたふたりの同志、周恩来朱徳が相次いで亡くなりますと、毛沢東も後を追うように亡くなったのでした。享年82でした。

 

参照文献:

1)金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝 上・下』(みすず書房1999, 2000年)

2エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』(筑摩書房1964年)

3G. パローツィ=ホルバート著、中嶋嶺雄訳『毛沢東伝』改訂版(河出書房新社1972年)

4)スチュアート・シュラム著、石川忠雄・平松茂雄訳『毛沢東』(紀伊国屋書店1967年)

公立の子ども図書館

 公立図書館は、乳幼児から高齢者まですべての住民にサービスをするのが基本ですから、ほとんどすべての公立図書館は乳幼児と児童生徒にもサービスを提供しています。このブログの「乳幼児とその親に対するサービス」では、そのような図書館の授乳室、赤ちゃんタイム、託児サービス(保育サービス)などをご紹介しました。一方、ふつうの図書館と施設面で切り離された、公立の子ども図書館が少しずつ増えています。

 

 確認できたのは、約60の自治体(市区町村)が設置している子ども図書館ですが、その中から特徴のあるものをいくつかご紹介しようと思います。なお、子ども図書館の名称としては、こども図書館、児童図書館、えほん図書館、まんが図書館、キッズライブラリーなどが使われています。

 

子育て支援という視点

 多くの子ども図書館が想定している利用者の中心は、乳児から小学生までの子どもとその親です。また、国と地方の行政があげて少子化対策にとりくむ状況を反映しているのでしょうか、館内の一角に「子育て支援コーナー」を設けたり、そのためのサービスを謳う子ども図書館が少なくありません。次のような例があります。(以下、「」内は、すべて当該図書館のウェブサイトからの引用です。)

石岡市立図書館の「こども図書館本の森」(茨城県) = 中央図書館と同じ住所にあるこの図書館は2017年4月1日のオープン。ここには「子育て応援コーナー」があって、「妊娠・出産・育児など子育てに関する大人向けの本を中央図書館からヨリぬきで持ってきています。」中央図書館にも絵本や児童書のコーナーがあります。

練馬区立南大泉図書館の分室である「こどもと本のひろば」(東京都) = 「乳幼児から小学校低学年までの子供たちとその保護者を対象とし、乳幼児や児童向けの図書、育児や料理などの図書を充実させるとともに、安心して読書や事業を楽しめる空間づくりを大切にしています。」

横浜市南区の「はぐはぐの樹子ども図書館」(神奈川県) = この図書館は、同区の地域子育て支援拠点である「はぐはぐの樹」にあり、絵本に関する相談も受けつけ、「子育てを側面からサポートする」としています。

富山市立図書館の「とやまこどもプラザ」 = これは、「こども図書館と子育て支援施設が一体となった施設です。親子で本を楽しんだり、子育てに関する相談や保護者同士が交流・情報交換などをしたりできる場となっています。」ここにはゲームコーナーもあります。

宗像市民図書館の「えほんのへや」という分室(福岡県) = 「0歳から6歳くらいまでの子ども向けの絵本を中心に、育児に関する大人用の本や雑誌も揃えています。週3日、読書相談員が、乳幼児の読書に関する質問や相談を受け付けています。」

 

珍しい資料

 子ども図書館の資料は、一般に絵本と児童書、紙芝居、CDやDVDが中心で、子どもを連れて行く親のための育児関係図書がそれにつづきます。

 資料面で特徴がある図書館のひとつが、板橋区(東京都)の「いたばしボローニャ子ども絵本館」で、ここは「北イタリアのボローニャから寄贈された世界約85か国、2万5千冊の絵本を所蔵している海外絵本の図書館です。小学校だった建物の一部を利用した木の温もりが感じられる懐かしい雰囲気の中で、世界各国の絵本をゆっくりとお楽しみいただけます。」

 そのほか、渋谷区立笹塚こども図書館(東京都)にも外国語の児童図書があります。

 広島市の「5‐Day’s こども図書館」(旧:広島市こども図書館)には、児童図書館設立のきっかけとなったハワード・ベル博士から贈られた「ベル・コレクション」という洋書約1,000冊があります。

 

 漫画を好むのは子どもだけではありませんが、漫画に特化した図書館もあります。無料で閲覧できる例を挙げますと、

広島市まんが図書館 = 蔵書15万冊以上(ほかに同館の「あさ閲覧室」に5.7万冊)

 貸出は10冊まで、2週間以内。

北九州市漫画ミュージアム(福岡県) = ミュージアム(博物館)の図書館部分で漫画の単行本約5万冊を読むことができ、そこには「漫画に関する問い合わせに応えるソムリエカウンターもあります。」

③湯前(ゆのまえ)まんが図書館(熊本県湯前町) = 規模が110㎡と小さいため、熊本市古書店から借りうける資料を適当に入れ替えながら約6,000冊を展示し、閲覧に供しています。

 

珍しい施設

剣淵町絵本の館(けんぶちまち・北海道) = 絵本(36,000冊)だけでなく、大人が読む一般書(閲覧室に28,500冊)もあり、靴をぬいで入館します。楕円形の館内には次のようなスペースが用意されています。

 「絵本のへや」には、ままごと遊びの「ごっこはうす」や「木のパズル」もあります。

 「たまごのへや」というたまご型の部屋には、「木の玉約10万個が入った「木の砂場」があります。大人も子どもも一緒に入って楽しめる大きさです。

 また、「中高校生や多くの大人の方々向けの一般書閲覧室と読書室を設けています。

 体験教室は、絵本の読み聞かせやおはなし会、工作教室、料理教室などの絵本体験や地域の文化学習活動に利用する多目的の部屋で、団体活動への利用貸出もします。」

 喫茶「らくがき」では、「剣淵町産野菜を使った軽食やジュースがお勧めです。 絵本や西原の里の芸術作品、地場産品の販売コーナーがあります。」

横須賀市児童図書館(神奈川県) = 中学生までを対象としているため、2階に閲覧室、読書室のほかに学習室も備えています。

一宮市立図書館の子ども文化広場図書館(愛知県) = 3階建ての本格的なもので、幼児からティーンズまでを主な対象としており、調べ学習室があります。同市には小規模な尾西児童図書館もあります。

尾道市立図書館のみつぎ子ども図書館(広島県) = コンピューターコーナー、ビデオ鑑賞コーナーのほか、未就学児が木のおもちゃなどで遊べるプレイルーム、授乳室があります。同市には向島子ども図書館もあります。

北九州市立子ども図書館(福岡県) = 2018年12月末に開館したこの図書館は18歳以下の子どもを対象にしています。地下1階、地上2階の3階建てで広さは2000㎡。

 地下1階には幼児閲覧室、おはなしコーナー、寝ころびスペース、メディアコーナー、子どもひろばなどがあり、1階には小・中・高生閲覧室、調べ学習コーナー、メディアコーナー、リフレッシュコーナーなどがあります。2階は大研修室、学習室、児童図書研究室などで構成されています。

 ついでにご紹介しますと、北九州市には「こどもと母のとしょかん」と名づけられた子ども図書館が5館あります。それらは市民センター、社会福祉センター、市役所の出張所などに併設されたものです。

武雄市こども図書館(佐賀県) = 2階建ての2階にフードコートやカフェテラスがあり、1階がおもな利用スペースになっています。そこには「知育玩具を使った遊びのイベントやものづくりワークショップを定期的に開催」するプレイ&ワークスペース、「お父さんもお母さんも靴を脱いでほっとできるような休憩室」である赤ちゃん休憩室、授乳室、ボランティアの仕事スペースである「おはなしラボ」、おはなし会をする「ひみつの部屋」など、盛りだくさんなスペースが準備されています。

 

珍しい立地

流山市(千葉県)の市立「おおたかの森こども図書館」 = おおたかの森小・中学校敷地内に併設されたこの図書館は流山市と隣接する4市の「だれもが利用できる施設」で、絵本や中学生までを対象とした児童書、子育て関連図書を約7,200冊所蔵(2015年4月1日現在)しています。」

江東区(東京都)の区立「白河こどもとしょかん」 = 1974年に設立されたこの図書館は、2010年に元加賀小学校の校舎1階に移転して開館しました。2017年3月末現在の蔵書は約3万冊、閲覧席は16席。赤ちゃんコーナー、おはなしの部屋、絵本コーナー、書庫、事務室などがあります。

高槻市立中央図書館(大阪府)の「ミューズ子ども分室」 = 関西大学高槻ミューズキャンパス内にあって、子ども向けの絵本や児童書を約2万冊そろえていて、月曜から土曜の10時から17時まで開館。そのほか関西大学の休校日には休館します。

 

その他の珍しい例

 北本市立こども図書館(埼玉県)には「赤ちゃんから小学校低学年向けの本を中心に、3万冊を超える蔵書があります。小学校高学年向きの読みものもあります。子育て支援の本や雑誌も所蔵しています。」

 そのウェブサイトの「これよんで」という項目には次のように書かれています。「フロアーにて、職員がいつでも絵本の読みきかせなどをいたします。「これよんで」のバッヂをつけた職員にお気軽にお声をおかけください。」

 いつでも読み聞かせの要望に応じてくれるのは、珍しいですね。

 

 広島市の「5‐Day’s こども図書館」 = 2017年8月末日までは、広島市こども図書館という呼称でした。蔵書は約19万冊。先に触れましたように、この図書館は1949年に「アメリカ合衆国からハワード・ベル博士を通じ、絵本等1,500冊受贈」したのが設立のきっかけでした。

 その後、1950年には、ロサンゼルス市南加広島県人会から児童図書館建設費(400万円)を受贈し、1953年には、広島青年会議所から館内設備(102万円)を受贈するなど、多くの人から支援をうけて発展してきました。設立の発端が珍しい例です。

 

 三原市広島県)の「ほんごう子ども図書館」は、そのウェブサイトによりますと、「全国でも珍しい、公設民営の子ども図書館です。三原市より建物をお借りして、ボランティアで運営をしています。」

 

 高知市の「高知こども図書館」は、そのウェブサイトによりますと、「全国で初めての特定非営利活動法人NPO法人)が運営する、子どもの本専門の図書館として1999年に開館しました。赤ちゃん絵本から中学生高校生の読み物、児童文学に関する様々な研究書などの貸し出しを基本としながら、読書案内、読み聞かせ、ブックトーク、情報の収集と発信、その他NPOならではの多彩な企画を、職員とボランティアと理事たちで行っています。」

 この図書館は、「施設は高知県から無償貸与されていますが、資金援助は受けていません。人件費、図書購入費、その他の運営に関わるすべての経費は、趣旨に賛同してくださる会員の会費と寄付金、事業のための助成金、及び自主事業収入で支えられています。」

 開館時間は午前10時から午後6時まで。貸出は5冊まで。建物は2階建てで、誰でも無料で利用できるとのことです。

 

大学(図書館)が設置・運営している子ども図書館

 地方自治体のほかに、国、大学、公益財団法人、一般社団法人、NPO、企業、個人などが子ども図書館を開設・運営しています。蛇足ですが、以下に大学が運営して地域の子どもや保護者に開放している子ども図書館をご紹介します。

北海道武蔵女子短期大学図書館(札幌市北区)の児童図書室 = 1976年に開室。毎週金曜日の午後に開室し、大人も利用できます。

②埼玉東萌短期大学附属図書館(埼玉県)の「こども図書館コーナー」 = 「長く読み継がれている本を中心に約5000冊の絵本と紙芝居、読み物などがあります。コーナー内は靴を脱いで上がるので、好きな場所に座って本を読むことができます。学生や職員が読み聞かせをすることもあります。」

日本社会事業大学附属図書館1階(東京都清瀬市)の子ども福祉図書館 = 「幼い頃から社会福祉に興味を持ってもらうことを目的に平成16(2004)年に開設しました。保護者の方向けの図書も用意しておりますので、ぜひご利用ください。」

山梨大学附属図書館(山梨県)の「子ども図書室」 = 「学内外、年齢問わず、どなたでも利用でき」、イベントも開催しています。

東海学院大学附属図書館(岐阜県各務原市)の「東海えほんの森」 =「地域の乳幼児や保護者、近隣幼稚園や保育所(園)の園児に「絵本に親しむ場」「交流の場」を提供しています。」

 また、「絵本、大型絵本、紙芝居など約1,800冊が並んでおり、保育の授業での使用や、ボランティアとしての絵本の読み聞かせなど、学生の「保育実践の場」としても運用されています。」

京都造形芸術大学京都市)の「ピッコリー」 = この子ども図書館は絵本や児童文学関係書約17,000冊を所蔵していて、開館は木曜日から日曜日まで。おもちゃで遊べるほか、工作をする場所も設けてあります。

奈良教育大学図書館(奈良県奈良市)内の「えほんのひろば」 = 「本学で保育者・教師をめざす学生が、絵本を通じて教育実践力を高めることを目的として、設置されました。古典的な絵本から最新の絵本まで、独自の視点で厳選された約3,000冊の絵本があります。2014年春に改装した室内は、カーペット敷で、リラックスして絵本を見たり、友達とワイワイ読みあったり、絵本のいろいろな楽しみ方ができます。

※えほんのひろばは図書館内の一施設として、学外の方でもご利用いただくことができます。

※えほんのひろばには授乳室・多目的トイレが隣接しているため、小さなお子さま連れの方でも安心してご利用いただけます。」

鳴門教育大学附属図書館(徳島県)の児童図書室 = 1987年に設立されたこの図書室は地域に開放され、学生やボランティアがストーリーテリング、読み聞かせ、人形劇などをしています。最近は授乳室もできました。蔵書約17,000冊は、絵本、児童図書、紙芝居など。通常期は水曜・土曜・日曜・祝日に開室。時間は午後1時から4時まで。大学の休業期は水曜日だけ開室。貸出は8冊まで3週間です。