図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ルイス・キャロル(Carroll, Lewis, 1832-1898)

  不思議の国のアリス』によって知られている作家ルイス・キャロルは、1832年にイングランドのダーズベリーという緑ゆたかな村で、牧師の長男として生まれました。のちにルイス・キャロルという筆名を使うこのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンには、ふたりの姉、8人の弟と妹がいました。

 子どものころのチャールズは牧師館をとり囲む自然との触れ合いを楽しむ一方、多くのきょうだいを楽しませる人形劇を書いたり、家庭内で読んでもらう雑誌を編集ししたりしていました。このころから、幼い子どもたちを喜ばせるのが好きだったのですね。

 

 1846年、14歳になったチャールズは、パブリック・スクール(名門私立中等学校)であるラグビー校に入学し、4年後の1849年末に卒業します。パブリック・スクールはエリートの養成を目的とする全寮制の学校で、卒業生の多くがオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学していました。

 当時のラグビー校にもご多分にもれずいじめがあったりして、のちにチャールズは学校が楽しくなかったと書いていますけれど、学業では好成績をおさめて首尾よくオックスフォード大学に合格します。

 

 ジャン・ガッテニョ『ルイス・キャロル』(1)などによりますと、チャールズが在籍したころのオックスフォード大学のありようは、ほぼ次の通りでした。

 所在地 = イングランド南東部のオックスフォード。

 構成員(およそ) = 学生1,400人、特別研究員500人、教授20人、合計2,000人。

 構成単位 = 独立性と個性の強い20の学寮(カレッジ)。

 学寮が共用する建物 = 図書館、博物館、教会、印刷所、講義・式典用ホールなど。

 授業担当者 = おもに各学寮に所属する特別研究員。

 

 チャールズ・ドジソンは18505月にオックスフォード大学のクライスト・チャーチ学寮への入学を許可され、翌年の1月に入寮して学生生活を始めます。あいかわらず優秀な学生だった彼は、とりわけ数学で何度も第1級の成績をおさめ、学生でありながら特別研究員となる例外的な栄誉に浴しました。

 ただ、クライストチャーチ学寮の特別研究員であるためには、いくつかの条件がありました。①独身であること、②学士号または修士号を取得すること、③学寮にとどまるばあいは聖職につくこと、などです。チャールズの父はクライスト・チャーチ出身の聖職者でしたけれど、結婚という選択によって特別研究員にとどまれなかったということです。

 そのかわり、「望まなければ教えなくともよいし、出版するとかそのほかの顕著な業績をあげることは必ずしも期待されてはいなかった。もしそう願うなら、彼は安楽椅子にゆったりと腰かけ両足をゆうゆうと暖炉にかざし、クラレット(フランス産の赤ワイン)を飲み、パイプをくゆらしながら残りの人生を過ごしてもよかった」のでした。(2

 

 チャールズ・ドジソンは怠惰な暮らしをするような人ではありません。真面目に学生を教え、学寮の事務的な仕事を引き受け、数学の論文・著作を発表し、当時はまだ珍しかった写真撮影の趣味を楽しみ、子どものためのファンタジーを書きながら、死ぬまでクライスト・チャーチ学寮で暮らしたのでした。申すまでもなく、長い休暇には親やきょうだいのいる家に戻り、リフレッシュしていました。

 彼が学部を卒業してすぐに課せられた事務的な仕事は、学寮図書館の司書補としての職務でした。数学の教師として学生を教えるかたわら、「時間が来ると彼は図書館を監督しに回り、本の目録を作るのが仕事だった」(3)ということです。この仕事は、18552月、彼が23歳のときに始まり、2年後の18572月までつづきました。

 

 チャールズが図書館での仕事を割り振られた1855年、クライストチャーチに新任の学寮長としてヘンリー・ジョージ・リデルが着任しました。チャールズより20歳ほど年長の新学寮長が連れてきた家族(妻、長男、3人の娘)のうちの次女が、のちに『不思議の国のアリス』のヒロインのモデルとなるアリスでした。

 1856年、チャールズ・ドジソンは当時まだ珍しかったカメラを手に入れ、写真撮影に熱中してゆきます。イギリスのルイス・キャロル協会による30項目ほどのごく簡略な「チャールズ・ドジソンの生涯」に、カメラを入手した18563月と撮影をやめた1880年が記載されるほど、チャールズと写真撮影は切り離せない関係にあったのでした。

 

 上司である学寮長リデルやその家族と親しくなったチャールズは、やがてリデル家を訪れたり、自分の住いに子どもたちとその家庭教師を招いたりするようになります。チャールズが子どもたちと外出するときは、「家庭教師が狙いだ」というような疑いをかけられないように、自分のきょうだいや親友のダックワースを誘うのが常でした。

 

 「夏の休暇が始まっていた186274日の午後、ドジソン、ダックワース、3人の少女が借りた船で川をさかのぼった。3人の娘たちがお話をねだった。ドジソンが話し始めると、ダックワースまでが喜んだ。登場人物の多くは実在の人物で、{アリスのふたりの姉の}ロリーナとイーディスはインコとワシ、ダックワースはアヒル、ドジソンはドードー

 その晩、帰ってきたとき、アリスが突然振り向いて、「あっ、ドジソンおじさん、私のためにアリスの冒険を書いてほしいわ」といった。ドジソンは書くことを約束した。彼はその本のために自分で絵を描いた。」(4

 このようないきさつで2年あまりかかって誕生したのが、チャールズがひとりの少女のために書き、世界に1冊しかない、手書きの文字と挿絵の本、『地下の国のアリス』でした。アリスたちを喜ばせたこの本は、やがてリデル家の客間のテーブル上に置かれて訪問者の目に触れ、正式の出版を勧められるまでになりました。

 結果、チャールズが『地下の国のアリス』の内容を膨らませ、挿絵をプロの画家にお願いし、タイトルを『不思議の国のアリス』と変えた本が、1865年に出版されました。出版にいたる過程で、著者ルイス・キャロルは、何度も挿絵の描きなおしを求めて、画家ジョン・テニエルを困らせたということです。また、初版の装幀が気に入らなかった著者が本を回収させ、別の装幀で再発行したという話も伝わっています。初めて著書を出す人の意気込みとこだわりが窺われますね。

なお、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがルイス・キャロルという筆名を使い始めたのは、1856年に『汽車』という雑誌に詩を発表したときで、数学や論理学の論文・著書では終始、本名を使いつづけました。

 『不思議の国のアリス』は多くの読者に迎えられ、批評家たちにもおおむね好評で、それが続篇ともいうべき『鏡の国のアリス』の出版(1872年)につながりました。

 

 このようにしてルイス・キャロルは有名人になりましたけれど、その生涯をたどってみますと、有名になる、高い地位につく、お金持ちになる、といった野心とは無縁の人だったと思わずにいられません。中庸をわきまえ、誠実に職務と向きあい、穏やかな暮らしを望みつづけた人だったからです。

 

参照文献

1)ジャン・ガッテニョ著、鈴木晶訳『ルイス・キャロル』(法政大学出版局1988年)

2モートンN・コーエン著、高橋康也監訳『ルイス・キャロル伝 上』(河出書房新社1999年)

3)デレック・ハドスン著、高山宏訳『ルイス・キャロルの生涯』新装版(東京図書、1985年)

4)ロジャー・ランスリン・グリーン著、門馬義行・門馬尚子訳『ルイス・キャロル物語』(法政大学出版局1997年)