図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ジョン・エドガー・フーヴァー(Hoover, John Edgar, 1895-1972)

 ジョン・エドガー・フーヴァーは、アメリカ合衆国のFBI(Federal Bureau of Investigation=連邦捜査局)の初代長官だった人です。FBIやその捜査官については、映画や小説などでよく取り上げられてきましたので、ご存知の方が多いのではないかと思います。

 FBIは1908年に司法省内のごく小さな組織である捜査局(Bureau of Investigation)として発足し、徐々に権限と規模を拡大して、1935年に連邦捜査局という現在までつづく名称に変わりました。フーヴァーは1917年に司法省に入職してから1972年に亡くなるまで、一貫して捜査局と連邦捜査局の中枢で活躍した人です。

 

 エドガー少年は首都ワシントンDCの政府職員の4人きょうだいの末っ子として生まれ、小学校から高校まで優等生で通しました。とくに高校生時代には、弁論部や学生軍事教練隊で活躍し、父親が病気がちになるとスーパーマーケットの配達アルバイトをするなど、勉強に精を出すだけではありませんでした。

 高校生のエドガーには《スピード》というニックネームがつけられていました。本人は配達アルバイトを駆け足でこなしたのがその由来だと話していたようですが、ある伝記作者は次のような級友の証言を記録しています。「われわれがフーヴァーに《スピード》という渾名をつけたのは、早口だったからだ。口の回転も頭の回転も非常に速い男だった……。」(1)

 

 1913年、高校を卒業したフーヴァーは、父の健康がすぐれず、兄と姉の経済的支援も期待できない状況で、徒歩通学をできるジョージ・ワシントン大学の夜間法学部に入学します。その大学の利点は、公務員のための夜間クラスがあり、昼は仕事につけることでした。というわけで、まず公務員にならなければなりません。さいわい、遠縁の男性が、これまた徒歩通勤できる議会図書館を紹介してくれました。

 アメリカの議会図書館は、機能的には日本の国立国会図書館とほぼ同じ存在で、そのウェブサイトには「世界最大の図書館」とあります。また、現在の館長は同館初の女性館長、同館初のアフリカ系アメリカ人館長だと紹介されています。

 フーヴァーが議会図書館に就職したとき、身分は発注部門の見習(ジュニア・メッセンジャー)で、初任給は年俸360ドルでした。同じポジションにいた1年後には年俸が420ドルに上がり、さらに1年経った1915年には、働きぶりが評価されて事務職員(クラーク)に昇進します。(2)

 のちに司法省の捜査局に入ったフーヴァーが大量の情報をカードやファイルにして活用したことから、フーヴァー伝の著者の中には彼が議会図書館の目録部門で働いた経験があるかのように書いている人がいますけれど、議会図書館の記録やメモを丹念に調べた上記のレダール氏は次のように否定しています。

 ①フーヴァーの担当していた仕事では、カード目録の仕事を身につけることができない。②フーヴァーのいた発注部門は、目録部門と分類部門と隣り合わせになっていた。③よって、彼がカード目録のシステムに親しんだという可能性は十分にある。

 フーヴァーは議会図書館で働きながら、ジョージ・ワシントン大学ロースクール修士課程)まで進み、無事に司法試験に合格しました。次の職場である司法省への就職が1917年7月からと決まると、彼はすぐに図書館を退職しました。結局、フーヴァーは、議会図書館の利用者とは直接に触れることのない発注部門で、1913年から17年までの4年間、見習職員・事務職員として働いたことになります。

 

 司法省でのフーヴァーは、若いときのニックネームどおり、目覚ましい《スピード》で昇進してゆきます。そのステップは次のとおりです。

 ①最初の職場は地味な郵便室でしたけれど、有能な仕事ぶりを上司にみとめられて、1917年の末に22歳の若さで特別捜査官に任命されます。

 ②1年後の1918年11月、23歳で特別検察官に昇進して年俸2,000ドル。

 ③翌1919年春、司法長官に就任したA. ミッチェル・パーマーが24歳のエドガーを特別補佐官に任命し、「革命分子グループや過激派集団」についての証拠を集めるために新設された課の課長にします。(1)

 この《革命分子グループ》の証拠集めには、次のような事情がありました。

 第一次世界大戦の終わる前年の1917年、参戦した主要国のひとつであるロシアで革命が起こり、11月に社会主義ソビエト政権が樹立されました。その革命の主導者だったレーニンは、同じ考え方による革命を世界各国に拡げるために、1919年3月にモスクワで開かれた共産主義者の国際会議で、第三インターナショナル共産主義インターナショナル)の創立を宣言しました。当時のアメリカでは共産主義社会主義が脅威というほどに一般に浸透してはいませんでしたけれど、政府としては警戒するに越したことはない、ということだったのでした。

 

 ここでフーヴァーの議会図書館員時代の知見が活かされます。左翼思想の持ち主にかんする情報をひとりずつカードに記録し、それを複数枚つくって、氏名、住んでいる地名、属するグループなど、数種類の手がかりから探し出せるようにしたのでした。とくに重要と思われる人物については、別にファイルを作りました。コンピュータのなかった、あるいは発達していなかった時代にあって、このシステムは十分に威力を発揮したわけです。

 以後、フーヴァーの索引カードとファイルはさまざまな属性の人たちを対象として範囲をひろげ、量も膨大になってゆきました。対象とされた人たちは、FBIが警戒・内偵・捜査する個人とグループ・団体・組織でした。

 たとえば、KKK団、ギャング、誘拐犯、マフィア、過激派集団、共産党員とそのシンパ、労働組合員、公民権活動家などのほか、大統領選挙の候補者、上下両院議員、知事、市長などの政治家が含まれていて、第二次世界大戦時には敵国となったドイツ、イタリア、日本などの出身者である一般庶民までが調査対象となりました。

 捜査局の大量の情報カードとファイルを管理する責任者は、1918年からフーヴァーのフルタイムの専属秘書として勤務したヘレン・ガンディという女性でした。彼女はフーヴァー長官が死去・退職するまで忠実かつ有能な秘書でありつづけ、彼の業績に多大の貢献をしたことになります。

 もうひとり、秘書のガンディ嬢とならんでフーヴァーの生涯に欠くことのできない人物が、1928年に捜査局の特別捜査官として採用され、フーヴァー長官がなくなるまで公私にわたって行動をともにしたクライド・アンダーソン・トルソンでした。

 フーヴァーと彼より5歳年下のトルソンには、次のようにいくつかの共通点がありました。

 ①ジョージ・ワシントン大学夜間法学部の出身。

 ②明晰な頭脳と精力的な仕事ぶり。

 ③前職(フーヴァーは議会図書館、トルソンは陸軍省)でも捜査局でも異例のスピード出世。

 ④実地捜査の経験なし。

 ⑤生涯、独身。

 フーヴァーは母親が1938年に亡くなるまで彼女とふたりだけで同居し、以後も独身を通しましたので、トルソンとはしばしば食事をともにし、週末や少し長めの休暇にはフロリダやカリフォルニアで一緒にすごすなどしました。トルソンを1931年(30歳)に部長、1947年(46歳)に副長官に任命したフーヴァーにとって、自分とよく似たところのあるトルソンは、秘密を共有できる無二の側近であり、頼りになるボディガード的な存在でもありました。

 

 フーヴァーの快進撃はつづきます。20代前半の若さで戦時緊急事態部、過激派部などのトップをつとめ、20代後半に入った1921年には26歳で捜査局次長、1924年には29歳で捜査局の長官代行に就任します。この間、司法長官(大臣)はつぎつぎと交代していますから、フーヴァーの昇進が特定の上司に信頼されただけではなく、すべての上司の期待にたがわぬ働きをした結果だと分かります。

 捜査局長官代行に就任したエドガー・フーヴァーは、組織運営面と業務執行面で矢継ぎ早に改革を実行します。ワシントンDCの本部と全国53の支局とが緊密に連絡をとりあって全体として風通しのよい組織とする一方、勤務査定制度や監察制度を導入して捜査官たちの引き締めを図りました。

 業務遂行面では、支局ごとに異なっていた書類のファイリング・システムを統一して、だれがどこへ異動しても違和感をもたないようにし、電話や郵便による報告は、捜査局共通の書式によって最終的に記録させました。(3)

 フーヴァーは、捜査官たちの水準を向上させるためにも手を打っただけでなく、外見にかんする規律を徹底させました。たとえば、手入れした頭髪、スーツにネクタイなど、身だしなみなみや振舞いにも厳しく、テレビドラマの刑事コロンボはFBIの捜査官ではありませんけれど、あのような風采は潜入捜査などの例外をのぞいて、FBIではご法度でした。

 FBIの人事権はフーヴァー長官が握っていて、規律違反や怠慢が彼に知られてしまった捜査官は、しばしば転勤命令をうけ、逆鱗に触れればただちに解雇されました。捜査機関の職員が厳しい規律をまもるのは当然だとしても、フーヴァーは若いときの《スピード》というニックネームどおりに、スピーディに物事を処理したのでした。

 

 1930年代に入りますと、不況下にあって社会が安定しなかったアメリカでは、州の枠を越えた捜査を必要とする重大事件が増えてきました。たとえば、大西洋横断飛行に成功したチャールズ・A. リンドバーグの子どもの誘拐、アル・カポネらによる暗黒界での抗争、ジョン・ディリンジャーによる中西部を中心とした一連の銀行強盗、全国の大都市を拠点にして麻薬密売などで勢力をのばしてきた秘密結社マフィアなどです。

 その種の社会の敵と闘うため、アメリカでは連邦議会によって多くの法律が制定され、「州境を越える犯罪の定義と施行範囲が定められた」のでした。内容は、捜査官の拳銃携帯、逮捕権限、連邦警察と地方警察の共同作業、犯罪州間委員会(ICC)の設立、職員選考基準などでした。(4)

 連邦議会は1934年、「電話の傍受とその内容開示を禁止する法律」を制定しました。けれども、フーヴァーは、傍受で得た情報を法廷で証拠として使わなければ盗聴は違法ではない、という法解釈をして、以後、「FBIはフーヴァーの認可があればいつでも盗聴を行うようになった。電話傍受、盗み聞き、侵入は一九三〇年代以降、FBIの諜報作戦における三位一体の手段となった」のでした。(5)

 

 関連法規がととのえられ、守備範囲と権限が明確化された1935年7月、捜査局は連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation=FBI)となります。その裏付けには、捜査局の整備、犯罪捜査の実績、さまざまな情報の蓄積がありました。フーヴァー長官によるマスコミを利用した巧みな宣伝、連邦議会への雄弁な説明なども、効果があったものと思われます。

 犯罪捜査にさいして有効だったのは、次の3つの試みでした。

 ①指紋登録制度

 FBIは全国の警察が採取した指紋を保管するようになり、「エドガー{・フーヴァー}が死んだときには、大幅にコンピューター化された指紋照合では、ごく短時間で一億五千九百万人の指紋をチェックできるようになっていた」(1)ということです。

 ②犯罪{科学}研究所

 FBIが1932年に創設した犯罪研究所は、各分野の専門家を擁して科学的な手法による捜査を可能にしました。現在はたんにFBI研究所(FBI Laboratory)という名称になっています。

③警察訓練学校

 FBIが1935年に設立した警察訓練学校(Police Training School)は、毎年、全国各地の警察組織から推薦された警察官を訓練してきました。訓練生たちは科学捜査の技術や最新の機器の使い方、法律の知識を12週間にわたって教え込まれ、年を経るにつれてこの企てが合衆国の警察の水準向上と捜査の標準化に寄与したのは言うまでもありません。加えて任地にもどった優秀な修了者たちの多くが警察署長や刑務所長に昇進し、FBIにとって心強い協力者となりました。現在のFBIではナショナル・アカデミーと名称を変え、外国からも訓練生を受け入れるようになっています。

 

 1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、すぐさまフランスとイギリスがドイツに宣戦布告します。有史いらい最大規模となった戦争、第二次世界大戦の始まりでした。アメリカは外交面での努力をしながら戦争に巻き込まれる備えをしていましたけれど、1941年12月、日本によるハワイの真珠湾攻撃をうけて参戦します。日本は日独伊3国協定を結んでいたため、ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告をし、アメリカは否応なく世界大戦に巻き込まれるかっこうになりました。

 なにしろ、アメリカは日本による奇襲攻撃の数日後には、国内にいた膨大な数の日本人・ドイツ人・イタリア人を拘束したと言いますから、武器や兵士の備えだけでなく、情報面の備えも十分にできていたのでした。第一次世界大戦のときに捜査局が担っていた合衆国内に在留する仮想敵国の人にかんする調査は、連邦捜査局に引き継がれていたわけです。

 当時、アメリカ議会図書館で日本語部門の課長だった坂西志保氏も拘束され、収容所に入れられたひとりでした。彼女はアメリカのミシガン大学大学院で博士号を取得し、カレッジの助教授をつとめたあと、議会図書館に移って仕事をしていたのでした。(連邦)捜査局はときどき《一網打尽》方式で人びとを拘束し、そのあとで嫌疑の有無を調べるというやり方をしていましたが、このときは奇襲攻撃をうけた緊急事態でしたから、その手法を使ったものと思われます。彼女は翌年に日本へ送還され、終戦後は評論家として活動しつつ、日米双方のために多方面で活躍しました。

 

 ジョン・エドガー・フーヴァーは若いときから全国的な人気者、有名人になっていました。数々の実績とFBIの機構改革や綱紀の引き締めがその主な理由ではありますけれど、新聞やラジオ、テレビ、書籍出版などを利用した彼の宣伝の巧みさを見逃すわけにはいきません。たとえば、フーヴァー長官の最側近のひとりだったウィリアム・C・サリヴァンは、退職後に書いた著書の中で次のように書いています。

 「FBI本部の主な仕事は、捜査ではなく、PR活動であった。」

 「FBIを支えていたものは、捜査活動ではなく、PRと、フーバーを褒め称えるプロパガンダであった。FBIで働く者全員が責めを負わなければならないが、とくにフーバーの回りにいたわれわれ高官の罪が大きかったと言えよう。」

 「フーバーのPR作戦では、手紙が有力な武器であった。{略}アメリカの歴史の中で、FBIほどたくさんの手紙を書く政府機関はかつてなかっただろう。」

 「フーバーのPR作戦、世論を操作しようとする大掛りな試みは、今日もなおつづいており、FBIの諸悪の根源となっている。」(6)

 1956年の暮れにドン・ホワイトヘッドというAPの記者が『FBI物語』という本を出版したとき、その取材から販売促進にいたるまで、FBIが全面的に協力しました。この本がベストセラーになったのに気をよくしたサリヴァンは、国内の共産主義といかに闘うべきかに焦点をしぼった本『大ペテン師たち』を上司フーヴァーの著書として出版しようと提案し、5名ほどの捜査員による分担執筆によって完成、FBIの販売キャンペーンによってベストセラー、というふうに狙いを的中させました。その後もFBIはフーヴァーの著書という触れ込みで2冊の本を出版しましたけれど、売行きはいずれも数万部にとどまりました。

 

 ここでFBIが実行した調査活動から特徴的なものを3点ご紹介します。

(1)図書館警報プログラム

 このプログラムの英語表記は、Library Awareness Serviceです。図書館界では、利用者への情報提供サービスの一部をカレント・アウェアネス・サービス(current awareness service)というばあいがあります。新たに入った本の情報を知らせたり、イベントなどの予定を紹介したりするもので、利用者が特定の分野・テーマをあらかじめ申し込んでおけば、該当する本などが入ったことを、定期的に個人にメールで通知してくれる図書館もあります。

  FBIの図書館警報プログラムは、利用者の中にまぎれこんでいる物騒かもしれない人物(おもなターゲットはソ連のスパイ)を、図書館員の協力を得てあぶり出そうとするものです。1962年から秘密裡に実施されてきたこのプログラムは、1987年9月、『ニューヨーク・タイムズ』紙が実態を報じて騒動に発展しました。図書館員が利用者の情報を捜査機関にもらせば、市民の知る自由やプライバシーの侵害になり、図書館員の倫理規定にも反するということで、当該地域だったニューヨークの図書館協会やアメリカ図書館協会が抗議し、連邦議会でも司法長官が弁明せざるを得なくなったのでした。

 この件が長く明らかにならなかったのは、図書館員としてあるまじき行為だと知っていた協力者たちの口が堅かったからか、ほとんど成果があがらなかったからでしょう。司法長官の言い訳どおり、図書館員たちの「自発的な協力」(6)だった可能性もあるかもしれません。

 

(2)性的逸脱プログラム

 このプログラムの英語表記は、Sex Deviates Programです。簡単にご説明しますと、1937年、フーヴァーの率いるFBIがゲイにかんする情報を組織的に集め始めます。これが少しずつエスカレートして性的逸脱プログラムと名づけられたのが1950年ごろでした。内容は、おもにゲイの人たちをターゲットとして、彼らを連邦・州の政府機関、高等教育機関、法執行機関から締め出そうとしたものでした。(5)

 FBIがこのプログラムによってつくった個人のファイルは、合計30万ページとも35万ページとも言われています。その膨大なファイルの中でOCファイルと呼ばれるものがありました。OCはOfficial and Confidential(公式かつ機密)の略で、その「ファイルは、エドガーの執務室の、錠がかかるファイルキャビネットに厳重に保管されていて、その鍵は、エドガーの秘書ヘレン・ガンディが、毎日、自宅に持ち帰っていると伝えられていた。このエドガーのファイルに入っていた卑劣な情報は、大部分、セックスに関係した性質のものだった。」(1)

 『大統領たちが恐れた男』の著者サマーズが《卑劣な情報》と表現する理由は3つあります。①情報を入手するために、しばしば違法な手段(たとえば盗聴)を用いたこと、②犯罪者でも容疑者でもない人たちの性的傾向はプライバシーであるにもかかわらず、公的な捜査機関があえて情報をさぐり、集めたこと、③フーヴァー長官がそれらの情報を政治的に利用したこと、です。たとえば、大統領選挙の候補者の性的情報(不倫など)を現職の大統領に密かに伝えたり、FBIやフーヴァー長官に批判的な議員の口封じのために当人の性的情報をマスコミにリークする、などです。

 というわけで、性的逸脱プログラムを実行させたフーヴァー長官は、自らの身をまもるため、政治の動向に影響をあたえるため、プライバシー情報を利用する《倫理的逸脱プログラム》を実行してしまったのでした。

 今でもLGBTQ(性的少数者)の人たちは必ずしも市民権を得ているとは言えませんけれど、2020年のアメリカ大統領選挙のとき、民主党候補に名乗りをあげたピート・ブティジェッジ氏は、ゲイであることを公表していました。彼は29歳でインディアナ州サウスベンド市の市長に当選していましたから、とくにLG(レズビアンとゲイ)の人たちが白眼視されていたフーヴァーのFBI長官時代とくらべれば、文字どおり隔世の感を禁じえませんね。

 

(3)対敵諜報プログラム(コインテルプロ)

 このプログラムの英語表記は、Counter Intelligence Programです。始まりは1956年、発案はFBI幹部のウィリアム・C・サリヴァン、当初の目的は仮想敵国スパイの諜報活動の防止、でした。

 アメリカにとっての仮想敵国は、ソ連や中国などを中心とする共産主義国社会主義国でした。その背景には、アメリカも国連軍の主力として参戦した朝鮮戦争(1950~53年)、アメリカの喉元といわれたキューバでの革命の芽生え(1953年のフィデル・カストロ武装蜂起)などがありました。このような国際情勢によって、アメリカでは大統領から一般庶民の多くにまで共産主義の脅威が浸透し、1954年には同国内では共産党が非合法とされていたからです。

 スパイはスパイであることを隠して情報の受け渡しをしますから、誰が敵国のスパイか簡単に分かりません。そこで、FBI捜査官たちは、《かも知れない人》を対象に大雑把な網を張ります。初めのうち、網を打たれた人たちとそのグループは、共産党社会主義団体、労働組合公民権運動団体などに限られていました。それが徐々に範囲をひろげ、黒人・学生・フェミニストの団体やグループも捜査・監視の対象になります。

 というわけで、初めのうち共産主義をターゲットとしていた対敵諜報プログラムは、国の政治的・社会的安定を損なう恐れがあるとFBIがみなした各種の活動団体にターゲットを拡げたのでした。

 順調だったかに見える対敵諜報プログラムは、1971年3月、小さな事件がきっかけで大きな打撃を受けました。いきさつは次のとおりです。

 まず、ペンシルヴェニア州メディアにあったFBIの事務所に泥棒が入り、多くの書類が盗まれます。犯人はつかまりませんでした。

 次いで《FBIを調査する市民委員会》と名乗る犯人たちが、書類のコピーをマスコミや政治家に送ります。それらの書類にはFBIがコインテルプロの一環として学生・政治的な過激派・黒人などを監視している証拠となる内容が含まれていました。

 議会やマスコで批判と非難の声が強まりますと、フーヴァー長官はFBIの事務所のほとんどを廃止し、コインテルプロの終了を命じました。それだけでなく、彼は遺言書を書き直し、FBI本部にある膨大なファイルを、保存しても大丈夫なものと廃棄すべきものとに区分けする作業を始めざるをえませんでした。いつも強気だったフーヴァー長官がそこまで追い詰められたのは、当時のリチャード・ニクソン大統領が彼を解任しようと決心していながら、いざとなると何度も翻意していた事実が影響したかもしれません。

 「フーヴァーはいま、自分が自分のファイルの究極の被害者、囚われ人になっているのに気づいただろう。ほんとうに恐ろしい敵は、ウィリアム・「ワイルド・ビル」・ドノヴァン{CIAの前身の戦略諜報局を創設した人}でも、{FBIの部下だった}三人の裏切者でもなければ、敵の誰かでもなく、自分のファイルだった。ファイルだけが権力の源であるという、あれほど慎重に生み育ててきた神話の罠に落ちたフーヴァーは、ファイルを破棄することができなかった。ファイルの検討を始めて二週間もたたないうちに、彼は仕事を放棄した。」(7)

 ジョン・エドガー・フーヴァー長官は、1972年5月2日の朝、自宅で亡くなっているのを発見されました。前日の彼はふつうに勤務していたため、念のためふたりの医師が別々に検屍をした結果、謀殺死や事故死ではなく、自然死だと判断されました。

 長官が亡くなって3年あまり経った1975年11月、アメリカ上院はFBIにかんする公聴会を開き、「FBIの過去を掘り返して屈辱的な話をいくつか明るみに出した。マーティン・ルーサー・キング盗聴、米国人に関する国内治安ファイル五十万ページの整備、「コインテルプロ」キャンペーンにおける市民的自由侵害、捜査権限を政治闘争の武器に使うなどの職権濫用である。

 FBIは、正当な理由なしに米国人に対してスパイを働いていた――それが上院委員会の結論だった。」(8)

 

 《自由の国》と言われてきたアメリカ合衆国は、国民や州政府にさまざまな自由をみとめてきた多様性に富む国でもあります。そのような国にあって、生涯を通じて主義主張がぶれず、好悪がはっきりしていたフーヴァー長官は、半世紀におよぶ在任中、異質な少数者の抑え込みや排除を通して、社会の安全と同質性を担保しようと努めたのでした。

 ただし、フーヴァー長官には、国のために多大な貢献をした《巨人》(ニクソン大統領の追悼演説)という一面と、人びとの個性や違いを容認しない《不寛容な人》という一面があったように思われます。

 

参照文献:

(1)アンソニー・サマーズ著、水上峰雄訳『大統領たちが恐れた男:FBI長官フーヴァーの秘密の生涯』(新潮社、1995年)

(2)J. Edgar Hoover: The Crimebuster and the Catalogers / by Cheryl Lederle(Blog in LC, March 27, 2012)

(3)カート・ジェントリー著、吉田利子訳『フーヴァー長官のファイル 上』(文藝春秋、1994年)

(4)ロードリ・ジェフリーズ=ジョーンズ著、越智道雄訳『FBIの歴史』(東洋書林、2009年)

(5)ティム・ワイナー著、山田侑平訳『FBI秘録:その誕生から今日まで 上』(文藝春秋、2014年)

(6)W. サリバン、B. ブラウン著、土屋政雄訳『FBI:独裁者フーバー長官』改版(中公文庫、2002年)

(7)カート・ジェントリー著、吉田利子訳『フーヴァー長官のファイル 下』(文藝春秋、1994年)

(8)ティム・ワイナー著、山田侑平訳『FBI秘録:その誕生から今日まで 下』(文藝春秋、2014年)