図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

筆写する場としての図書館

かつて多くの人が図書館で本や雑誌、新聞を書き写していました。その理由は、便利なコピー機がなかっただけでなく、図書館が資料を貸し出してくれなかったり、貸し出してくれても有料だったりという時代もあったからです。今でも、図書館が貸し出さない(貸し出せない)資料は少なくありません。

 

また、本の一部を書き写すのは好ましくないと考える人もいます。

たとえば、渡部昇一のベストセラー『知的生活の方法』(講談社新書、1976年)には、「読んだことで興味をひいたことは書きとめておくのがよいと言われるが、それは限られた目的のほかは、かえって害がある場合が多い。というのは、ちょっとしたことをカードにとるだけでも、非常な精神的努力と実際のエネルギーがいる。だいいち、読書が中断される。そして書き記したことと言えばほとんど頭に残らないのが常である」と書かれています。

 

ですが、私は、時間と労力の要る筆写という行為には、自分のノートなどに記録をのこす以外に、いくつかの副次的な効用があると思っています。立派な仕事をなしとげた人たちの証言をご紹介しましょう。

 

 字書三部作(『字統』『字訓』『字通』)で有名な白川静19102006)は、甲骨文などを筆写してこれらを自家薬籠中のものにしました。昭和2年の秋、病気になった彼は、働いていた大阪から一時的に郷里に帰り、かつての恩師から朱子の『詩集伝』を借りて、「その年の暮れまでに「小雅」の終わりあたりまで写しました。写すことが、身につけるのにいちばんよいと思ったからです。」(白川静『回思九十年』平凡社2000

 

 英文学者の福原麟太郎は、20歳のころに寄宿舎の図書室で夜な夜な文学関係の本を読みながら「書き抜き」をしていたと回想しています。そして、「この写し取るということは、記憶理解の上に、また文章修練としても、すぐれた方法であって、必ずしも時間の浪費ではない。何ということを、どういうふうに書いてあったかを、確かめるためにも忘れないためにもなかなか役立つのである」と、その効用を挙げています。(『読書と或る人生』新潮選書、1967

 

 作家の伊藤整(いとう・せい)は、大部分が事実に即しているとされる自伝小説『若い詩人の肖像』のなかで、散歩の道すがら梶井基次郎が次のように言うのに、心の中で反発します。「僕は志賀直哉のものを原稿用紙に書き写して見たんだ。するとね、書いてる人の息づかいが、よく分るんだ。ここで力が尽きて文章を切ったとか、ここで余力があって次へ伸びて行っている、というようなことが分るんだ。」ところが伊藤はすぐに自分も数年前から同じようなことをしていることに気づきます。(伊藤整『若い詩人の肖像』新潮文庫1958

 

 ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、高校時代にアメリカ文化センターの図書館でエドガー・アラン・ポーの詩をこっそり書き写した経験を書いています。「大きくて豪華な本の並ぶ棚にエドガー・アラン・ポーの一冊本の全集があったんです。子供が読む本じゃない、と日本人の館員がうるさいので、かれがいないときにこっそりあけて、その幾つかの詩をノートに鉛筆で写しました(図書室は万年筆の持ち込みは、当然のことに禁じられていました)。松山でその時代、英語の詩集を買うことはできませんでしたから。」

 また、読んだ本の大事な部分をカードに筆写する習慣についても触れています。「戦争に敗れたのが十歳の時、新しい憲法が施行され、新制中学が村にできたのが十二歳の時で、それからの三年間に、本を「読む人間」としての私の人生は始まりました。

 この三年間のうちに自分のものにしたことでいまに続いている私の習慣は、読んだ本について「カードをとる」ことです。{略}本を読んで、ここは面白い、あるいは大切だと思うことを鉛筆で書き写し、もう一つの箱に移すというやり方でした。」(大江健三郎『読む人間:読書談義』集英社2007

 

 図書館での筆写が驚くべき量にのぼったのは、2017年に生誕150周年をむかえた博物学者、南方熊楠(みなかた・くまぐす)ではないでしょうか。彼はアメリカのミシガン州立農学校で、授業にはあまり出席せずに図書館で本からの筆写に励みました。

 イギリスにわたった熊楠はロンドンの大英博物館6年ばかり通い、「そのあいだ抄出また全文を写しとりし日本などでは見られぬ珍書五〇〇部ばかりあり。中本大の五三冊一万八〇〇頁に渉り、それをとじた鉄線がおいおい錆びるにはこまりきりおり候。」(南方熊楠「履歴書」(南方熊楠全集7:書簡I平凡社1971年)

 

 『アウトサイダー』が日本でもベストセラーとなったイギリスの作家コリン・ウィルソン大英博物館へ通って筆写した人でした。「素材はいくらでもあった。もう何年も前から、日記をつけて、自分の読んだ本の中で興味を惹かれた部分を片端から写しつづけ、「アウトサイダー」文献に属するさまざまな作品と私自身の体験とを一つに関連づけようとしてきたからだ。」(コリン・ウィルソンコリン・ウィルソンのすべて 上下』(河出書房新社2005

 

 ほかにも証言はたくさんありますが、長くなりますので、これくらいにしておきます。

 最近はほとんどすべての公立図書館にコピー機が置かれていて、筆写が全盛の以前とは様子が一変しました。また、日本でも外国でも、デジタルカメラや携帯電話を、図書館の本などの撮影に使える例が出てきています。