図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

読書する場としての図書館

今日も図書館で、老若男女が何かを読んでいます。世の中はどんどん変わってきたけれど、図書館での読書は数千年前から変わらない光景のひとつでしょう。読んでいるのは、本や雑誌、新聞です。

居住まいをただし、食い入るように本を読んでいる人がいれば、椅子の背もたれに身をゆだね、くつろいだ姿で新聞をながめる人がいます。文字を読めない幼い子どもたちは、図書館の職員やボランティア、あるいはお母さんが読んでくれるお話に耳をかたむけ、絵本に目を輝かせます。

 

リルケの『マルテの手記』に次のような一節があります。パリの安アパートの5階に住んでいる若いマルテが国立図書館へ行ったときの述懐です。「僕は図書館にすわって詩人の作品を読んでいる。広間には多くの人がすわっているが、ほとんどそれを感じさせないほど静かである。だれも本に読みふけっている。ときどきここかしこでページを繰る人が、夢から夢へ移るときに寝がえりをするように身動きするのみである。ああ、読書をしている人々にかこまれているのは、なんと快いことだろう。」

 

私もかつて、土曜日の昼下がりに、ある図書館で新聞の縮刷版に目を通していて、「読書をしている人々にかこまれているのは、なんと快いことだろう」という、湧き上がるような感慨をおぼえた経験があります。

多くの人が本を読んでいるのに、それを感じさせないほど静かなのは、皆が黙読しているからですね。ちなみに、日本での黙読(声を出さずに読むこと)の習慣は、明治時代からで、それ以前は音読でした。

 

図書館の中で読書をするきっかけや理由は、人さまざまです。

むかしは、貸出をしない図書館や貸出に料金を徴収する図書館が多かったため、ほとんどの人は図書館から本を借り出さず、館内で本を読んでいました。

図書館が無料で本を貸し出すのがあたりまえの今でも、貸出をしてくれない本がありますし、借りる前にざっと内容を確かめたい場合もあります。

大きくて重い画集や写真集は、借りて持ち帰るのがおっくうだという人もいるでしょう。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』には、巨人の国ブロブディンナグの王室図書館でガリヴァーが左右に動く階段を使って本を読む様子が書かれています。「大は小を兼ねる」と言われますが、本があまりにも大きいのは困りますよね。

また、森谷明子氏の『花野に眠る』(東京創元社2014)は、市立図書館をおもな舞台とする物語ですが、その第1話「穀雨」では、図書館内で本を読まざるを得ない少年のエピソードがでてきます。東京に住んでいる中学生が秋庭市に住む祖父母の家に来ていて、散歩の途次に市立図書館に入ります。何気なく本を取り上げていると、若い女性司書が「それ面白いよ」と声をかけ、「よかったら読んでみて」とすすめます。少年が市外から来たので借りられないというと、「中で読むだけなら何も問題ないわ」と、さらにすすめます。

少年は読み始め、昼食をとるために祖父母の家にいったん帰りますが、つづきを読みたくて食後すぐに図書館へ行き、夕方までかかって読み終えるというものです。

 

館内で読書をした例をいくつか挙げてみましょう。

幸田露伴は、中学校を中退した14歳のころからお茶の水東京図書館に通いました。柳田泉の『幸田露伴』(中央公論社1942)によれば、露伴は弁当を持って閲覧料の安いその図書館に通い、中国の古典や日本の歴史・文学などの本を手当たり次第に読んだということです。

長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)は、歴史家になろうと思っていたころ、上野の図書館に通って内外の多くの歴史書を読みすすめるうち、記憶力の弱さに気づいて新聞記者になろうと方向転換しました。午前中は学校へ行き、午後は上野の図書館通いを常として、歴史や文学の本を読んで暮らしました。冬のあいだ、暖房用の太い鉄管に足をのせて本を読むのが気持ちよかったと述懐しています。(『ある心の自叙伝』講談社学術文庫1984

 

樋口一葉は、明治24年から26年にかけてのほぼ3年間、しばしば東京図書館へ通いました。『日記』によれば、たいていは一人で開館する時刻を目指して出かけ、午後は眠くなることが多いのを我慢して古典に読みふけっていました。時には時間の経つのも忘れるほど読むのに熱中し、気がつくと夕暮れ近くになっていて、驚いて図書館を後にしたこともありました。

当時の一葉は母と妹との3人暮らしで、妹とともに和裁の注文やその他の内職で糊口をしのぎ、小説の原稿料でわずかな収入を得ていました。生活は苦しく、一時は駄菓子屋を経営して忙しくなるものの、利益の少ない商いなので、しばらくして閉店します。ために一家はほとんどいつも借金をかかえ、質屋と仲良くなり、家に1銭の金さえない日が少なくありませんでした。

『にごり江』が評判となって小説の注文が増え、『たけくらべ』が森鴎外幸田露伴に激賞されるにいたり、ようやく文名が高くなったところで日記は終わり、その3年後、わずか24歳半で一葉の生涯は終りをつげました。

 

新聞王といわれる人は何人かいますが、その中の一人ジョゼフ・ピューリッツァーは、17歳のときにハンガリーから移民船でアメリカに渡りました。英語を一言も話せず、金もなく、知人もいませんでした。

彼はセントルイス簡易宿泊所に泊まっていたとき、女主人ミセス・オーガスタスからいろいろとアドバイスを受けます。そのひとつが図書館へ行くことでした。商業図書館へ行ってみると、館員から図書館が自由に閲覧できることを教えられます。そこは「読み物、研究資料、特殊文献などの広範囲にわたる蒐集をそなえて」いました。そこでジョゼフは、1日に2時間だけ弁護士事務所で雑用をして生活費をかせぎ、その他の時間は図書館で読書と法律の勉強に費やします。その後、材木置き場の簿記係になってからも、図書館通いをつづけました。

逆境を乗り越えた彼は、やがて新聞記者としての腕を見込まれて編集長となります。その姿勢はつねにふつうの人びとの味方、権力と金力に不屈、そして不正を許そうとしませんでした。結局、新聞の取材・編集・経営の面で新聞事業のパイオニアとなったジョゼフは、複数の新聞社を所有するにいたりました。新聞王と言われるゆえんです。

参照文献:アイリス・ノーブル『世界の新聞王:ジョゼフ・ピューリッツァー伝』(大日本雄弁会講談社1955)本書は小説。