図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

授業よりも図書館通いをした人たち

 学校や大学の授業を欠席して図書館通いをした人たちがいます。その理由はさまざまで、

①経済的な理由で学校(または大学)へ通えなかった、②学校になじめない、学校へ通うのが苦痛だった、③読書(または研究)を優先せざるをえなかった、などがあります。

 以下、生年の早い順にご紹介していきます。

 

 数々の名作を書いたイギリスの作家チャールズ・ディケンズは、少年時代に家が貧しく、ろくに学校へ行かせてもらえませんでした。けれども、10代の初めころからいくつかの仕事を経験しながら、「大英博物館the British Museum)の読書室を利用できる満18歳になるや、すぐさま申請の手続きを」し、「ここを、いわば授業料無料の大学として、光熱費のいらない書斎として、また、誰からも邪魔されない私室として、思う存分活用」したのでした。(三ツ星堅三『チャールズ・ディケンズ創元社1995年)

 

 アメリカの発明家、トーマス・エジソンも短い学校生活しか送っていません。しかも、いつもクラスの中のビリで、劣等生だと自覚していました。けれども、彼は元教師をしていた母に助けられて、12歳のころからギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ヒュームの『イングランド史』、バートンの『憂鬱の解剖学』などを読むようになっており、ニュートンの『プリンピキア』を理解しようと努めたりもしました。

 また、暇があればデトロイト公共図書館で過ごし、主題を気にせずに本をつぎつぎと読んでいったのでした。(Edison: his life and inventions / by F. L. Dyer and T. C. Martin, N. Y., Harper, 1910

 

 博覧強記の民俗学者南方熊楠(みなかた・くまぐす)は、1884年、

「大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず。」と「履歴書」に書いています。

入学した大学予備門というのは、秀才の集まった第一高等学校の前身です。なのに、授業など心にとめず、上野図書館(当時の文部省所管の東京図書館の愛称)で読書三昧だったのですね。(「履歴書」in南方熊楠全集7:書簡 I平凡社1971年)

 

 1949年、中華人民共和国国家主席となった毛沢東は、湖南省立第一中学時代、教育内容や学校の規則に不満で、入学後6か月で退学しました。

 「六ヵ月ののちに私は学校をやめ、自分の教育予定表を作りましたが、それは毎日省立湖南図書館で読書することでした。私は非常に規則正しく、予定に忠実で、こうしてすごした半年は私にとり非常に貴重だったと考えます。私は朝図書館が開かれるとそこへ行きました。昼になると、私の毎日の昼飯である二つの餅を買って食べるだけの時間しか休みませんでした。私は図書館がおしまいになるまで図書館にいて読書しました。」(エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』筑摩書房1964年)

 これは典型的な「授業よりも図書館通い」の例ですね。

 

 日本の探偵小説の祖ともいうべき江戸川乱歩は、早稲田大学政治経済学部に在学中、アルバイトに追われて、学生らしい楽しみを味わういとまがありませんでした。それでも、

「小遣いがないので、図書館で本を読むのが唯一の楽しみだった。大学の図書館のほかに、上野、日比谷、大橋などの図書館へよくかよった。教室へはあまり出ず、経済学の本なども図書館で読んだ。『図書館卒業』の口である。学問の本のほかに、そのころポーやドイルなどの英語探偵小説を耽読した。」(江戸川乱歩『悪人志願』光文社文庫2005年)

 

 作家の宮本百合子(初めは中條{ちゅうじょう}百合子)は、東京女子師範学校の附属高等女学校に通っていたころの様子を、「学校の空気と学課が、自分をしっかりと掴えない。苦しく無意味に思える。そこで、上野の図書館へ行ってしまう。女学校の四年生になって、学校の比較的豊富な図書館がつかえるようになるまで、わたしの知識慾は、惨めな状態におかれた」と書いています。(「私の青春時代」 in宮本百合子全集 17新日本出版社1981年)

 また、ある本の「年譜」には、「よく学校へ行くのをやめたり早退けしたりして上野の図書館へ行った」とも書いています。

 

 『青い山脈』などの若者を主人公とする小説で人気のあった石坂洋次郎は、慶應義塾大学時代に授業よりも図書館での読書を優先した経験を次のように語っています。

 「慶應文科の予科時代、私は授業にはあまり出席せず、赤煉瓦の図書館にこもって文学書を乱読した。」

 1921年、病気で休学した彼は、学生結婚をしていた妻と一緒に弘前の家へ戻り、静養します。

翌年、ひとりで上京して復学しましたけれど、「相変らず図書館で気ままに本を読み、教室の講義にはあまり出席しなかった。そういう怠け学生の印象に残っている教授は、野口米次郎、戸川秋骨折口信夫、といった人々」だったそうです。(石坂洋次郎石坂洋次郎:わが半生の記』日本図書センター2004年)

 

 アイヌ言語学民俗学の研究者であった知里真志保(ちり・ましほ)は、1923年に入学した室蘭中学時代からとても優秀でしたのに、学校へ行くのが苦痛でした。当時はまだ人種的偏見が強かったからでした。というわけで、

 「記憶にのこっている私の中学時代は非常に欠席が多かったということである。これは教室で受ける白眼視にたえられなかったからで、決して学業を怠けようと思ったからではない。かといってあまり自慢にもならないことはもちろんである。

 欠席がちでしかも小遣い銭も乏しかった私の足は自然図書館に向って、坪内逍遙訳のシエクスピア全集を読破したり、厨川白村近代文学十二講や本間久雄の著書などに読みふけった。

 読書に興味が出たので、学校よりも図書館で独学したもののほうがほんとうに身についたように思う。」(「図書館通い:私の中学時代」『北海タイムス19550410

 結果、アイヌ語研究の先達である金田一京助の援助を受けながら、第一高等学校、東京帝国大学を経て、教師をしながら『分類アイヌ語辞典』全3巻などを完成させることができたのでした。

 

 作家の武田泰淳は、旧制中学を4年で修了して浦和高等学校文科甲類に入学した秀才でした。熱中することがたくさんあったからでしょうか、「「代返」で出席をかせぎ教室には殆ど顔をださず、もっぱら図書館にこもって国訳漢文大成本の『紅楼夢』や、魯迅胡適等の著作を読みあさり、また漢詩20篇ばかりを試作」していました。高校時代は「授業よりも図書館通い」だったのですね。

 その後、東京帝国大学文学部支那文学科に入りますが、こんどは左翼運動に熱中して、ほとんど授業には出ずに、中途退学してしまいました。(『現代文学大系 57武田泰淳集』筑摩書房1967年)

 

 日本では『華氏451度』や『火星年代記』で知られている作家のレイ・ブラッドベリは、200912月にメキシコのグアダラハラで開かれたブックフェアで、質問に答えて次のような主旨のことを語りました。

 父親が貧しかったため、学校に行けず、子ども時代を図書館で過ごした。

 若者は大学へ行かずに、図書館へ行ったほうがよい。

 『華氏451度』を書いたのは、知識と図書館を守るよう訴えたかったから。(AFP BB news 20091203

 

 アメリカの黒人解放運動の指導者だったマルコムXは、日本の中卒に相当する小学校8年を終えると、「それを機会に金儲けと結びつかないようなことはいっさい勉強すまいと思った。そして、世間に出ると、かつて学校で習ったことはみんな消えてしまった。動詞と名詞の区別もろくにつかなかった。」

 彼は、1946年、20歳の時に窃盗罪で懲役8~10年の判決をうけましたが、2年後、姉エラの努力によって、彼はマサチューセッツ州ノーフォークの犯罪者集団居住地(コロニー)に移ることができました。ほかの刑務所と比べれば天国のようなところです。そこには囚人たちが入れる立派な図書館がありました。

 刑務所には学校もありましたけれども、彼は読書に夢中になり、「図書館内よりも自分の部屋で読むほうが多かった。いったん読書家だとわかると、囚人は、貸出し制限数より多く借りることができた。私は自分の部屋で、完全な孤独のなかで読むのが好きだった。」

 後年、あるイギリス人作家が電話で彼の出身大学を訪ねたとき、マルコムXは「母校は本であり、いい図書館だ」と答えたということです。(マルコムX著、浜本武雄訳『完訳マルコムX自伝 上』中公文庫、2002年)

この人も図書館卒業だったのですね。

 

 宮田昇氏(ペンネーム内田庶{ちかし}、出版太郎でも著書あり)は、いくつかの出版社に勤めたあと、著作権関係の会社を設立する一方、出版と翻訳にかんする著作や児童書の翻訳を手掛けてきた方です。明治大学在学中の図書館通いを次のように振り返っています。

「戦後の三、四年が過ぎても、本を買う余裕がない私は、社会科学系の本や個人文学全集などをよむために、アルバイトのない日は、学校よりも上野の図書館に通うことが多かった。音を立てることさえはばかられるほど、全体が読書に熱中している空間に励まされて本を読んだ。言ってみれば、図書館こそ私の学校であった。」と書いています。(宮田昇著『図書館に通う』みすず書房2013年)

 

 エッセイを中心に紀行・小説などの執筆活動をした高田宏は、大学卒業後の約20年間、出版社の雑誌や企業のPR誌を編集していました。

 太平洋戦争後の数年間、石川県で中学生・高校生だった彼は図書館が好きで、日曜日、夏休み、冬休みにはたいてい町の図書館で過ごしていました。そして、京都大学へ進みますが、

 「大学でも、授業をさぼって図書館にいることが多かった。友達と会って廊下へ出て話し込むこともあったが、膨大な量の本に囲まれている時間は、教室での時間とは別の、宝の山にいる幸福感にひたれる時間でもあった。」(「図書館の時間」in『ことばのうみ:宮城県図書館だより』創刊号、19993月)

図書館で過ごすのが極楽だったのですね。

 

 和歌山県出身の作家、辻原登氏(1945‐)は高校時代を大阪市で過ごしました。そして、 「高校時代は特に不良生徒だったと思う。{大阪市の}此花区にあった親戚の家にお世話になったこともあったが、安治川から西区に渡るのに橋がなく、川底トンネルを利用するしかなかった。よく大型トラックと一緒にエレベーターで地下に降りたものだ。そこから学校へは行かず、中央図書館に入り浸ることもしばしばだった。」(日経新聞電子版 20170126

毛沢東(もう・たくとう 1893‐1976)

 中華人民共和国の創建にもっとも功績のあった毛沢東は、中国南部の湖南省湘潭(しょうたん)県の韶山(しょうざん)という村で、農家の3男として生まれました。ですが、兄ふたりが夭折したため、彼が実質的に長男でした。

理財に長けた父は、農地を買い増し、牛や豚を育てて売るなどして、着実に暮らし向きを豊かにしていました。そして、跡継ぎとして期待していた沢東に、幼いころから畑仕事や牧畜の手伝いをさせました。

沢東が8歳になりますと、父は彼を私塾に通わせ始めます。私塾に通ったのは、近辺に新しい教育をほどこす学校がまだなかったからで、彼は16歳になるまで数か所の私塾で勉強をつづけたのでした。

 

 1907年、父は、14歳だった毛沢東4歳年上の羅一秀という女性と結婚させます。けれども、息子は父親による押しつけ結婚に反抗し、妻と同居することは一度もなかったということです。

この若い妻はかわいそうに3年後に病死してしまいました。毛沢東江青の伝記などに江青を「3番目の妻」と書いてあったり「4人目の妻」と書いてあったりするのは、「本人が認めなかった結婚」をどう考えるかによるものと思われます。

 

 10代の後半からの数年、毛沢東の生活は半年間を一区切りとして、めまぐるしく変化します。

1910年秋、16歳になっていた毛沢東は、湖南省湘郷(しょうきょう)県にある県立東山小学堂という新式の学校に入学します。新式の学校というのは、それまで私塾で教えていた思想・歴史の古典だけでなく、英語や地理、科学などをも教える学校のことです。

②「半年後」の1911年春、彼は長沙(湖南省省都)にある湘郷駐省中学に入学します。東山小学堂のひとりの先生がその中学へ転勤するとき、毛沢東を連れていったからでした。

③その「半年後」の1911年秋、辛亥革命の発端となる武昌蜂起が起きますと、毛沢東は学業をなげうって長沙革命軍の志願兵となります。ところが、清朝最後の皇帝であった宣統帝が翌19122月に退位しましたので、毛沢東の軍隊生活は「半年で」終わりました。

 ④次に彼が選んだのは、湖南全省高等中学校への入学でしたが、その教育内容に不満で、ここにも「半年間」しか在籍しませんでした。

⑤軍隊に居場所がなく、自分で選んだ学校の教育に満足できず、毛沢東は何を始めたのでしょうか? 長沙にあった湖南省立図書館での読書を日課とするようになったのでした。計画的で勤勉な読書生活ではありましたけれども、仕事をせず、学校へ通わず、つぎつぎと行く先を変えるかのような息子に、父は仕送りをしないと決めました。また「半年」が経っていたのでしした。

 

思案の末に出した毛沢東の結論は、学業への復帰でした。1913年春、19歳のときに入学したのは学費の要らない湖南省立第4師範学校(翌年に第1師範学校に併合)で、この決断が功を奏しました。

功を奏した理由は、優れた教師に恵まれたことです。とりわけ毛沢東に大きな影響を与えたのは、倫理学を担当する楊昌済(19711920)という先生で、彼は日本の東京高等師範学校やイギリスの大学で学んだことがあり、数年後には北京大学の教授になった人です。

成功と失敗を繰り返した毛沢東が、広い国土と膨大な人口を擁する国で最終的に革命を成し遂げ、新しい国の形を創りえた理由のひとつには、楊先生が強調した訓えを彼が胸に刻みこんでいたからだと思えてなりません。

 

 師範学校で学ぶなかで、毛沢東は友人にも恵まれます。とりわけ在学中から卒業後までさまざまな機会に行動をともにしたのは、蕭子昇(しょう・ししょう)でした。その様子は、蕭が蕭瑜(シャオ・ユー)の名で出した回想録『毛沢東と私は乞食だった:その秘められた青春』(弘文堂、1962年)に書かれています。

このふたりが蔡和森(さい・わしん)ら学校の仲間と1918年に立ち上げた新民学会という学生団体は、初めのうち、個々人が品性を磨き、身を正して行動することを標榜するなど、政治的な色彩はほとんどありませんでした。ここにも恩師の楊先生の影響を見て取ることができます。

 

 19186月、毛沢東5年半にわたる師範学校生活を無事に終えたものの、この時点でも自分の進むべき道をはっきりと意識してはいませんでした。彼の尊敬する楊昌済はすでに北京大学の教授になっていて、人を介して毛沢東北京大学への入学を勧めていました。けれども、彼は進学にもフランスへの留学にも踏ん切りがつきません。選んだのは、とりあえず恩師のいる北京へ行くことでした。

 

 同じ1918年の10月、毛沢東は楊昌済の紹介で北京大学図書館に職を得ます。いくつかの証言をご紹介しましょう。

 「十月には楊昌済の紹介で、毛沢東は当時北京大学の図書館主任を勤めていた李大釗(り・だいしょう)と知り合った。李大釗は彼を図書館の助手にした。毎日の仕事は、掃除のほかには第二閲覧室で新着の新聞雑誌とやって来た閲覧者の氏名を登録し、十五種類の中国と外国の新聞を管理することであった。当時の北京大学の教授の給料はおおよそ二百から三百元であったが、毛沢東の給料は毎月八元でしかなかった。しかしこの仕事は彼にとってかなり満足できるもので、各種の新しい書籍や刊行物を閲読でき、有名な学者や志をもつ青年と知り合いになれた。」(1

 

有名な『中国の紅い星』の中で、著者エドガー・スノウのインタビューに答えた毛沢東は、北京大学図書館で仕事にありついたいきさつを次のように回想しています。

 「私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところ、かれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党創立者になりその後張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月八元の十分な俸給をもらっていました。

 私の地位が高級なものではなかったので、ひとびとは私に近よりませんでした。私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。」(2

 

 次は、G. パローツィ=ホルバートの『毛沢東伝』の一節です。

 「毛沢東の長沙時代の良き師であった楊教授はこのとき、国立北京大学で教鞭をとっていたので、彼は楊教授の援助で大学の図書館にささやかな仕事の口を与えられた。だが、それはまったく不満足な、恥ずかしいようなポストだった。蕭瑜によれば、毛沢東の仕事というのは図書館を掃除したり、本を整理したりすることだった。」(3

 

 最後に、スチュアート・シュラム著『毛沢東』による図書館員時代の毛沢東です。

 「図書館での彼の仕事は、きわめてつまらないものであり、仕事それ自体も生活の手段にすぎず、人や思想と接触する機会はほとんどなかった。彼は、図書館にくる指導的な知識人の何人かと話をしようとしたが、ほとんどの場合、「南方の方言をしゃべる図書館の助理員に耳をかすだけの時間をもっていない」ことがわかった。」(4

 

 毛沢東が身過ぎ世過ぎのための図書館員であった期間は、191810月から19193月末までの、「またしても半年間」でした。彼のいわゆる職歴は、1920年に長沙師範学校付属小学校長になり、2年後に教職を辞して終わりを告げます。

以後の毛沢東は、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』への寄稿、社会主義共産主義の地方組織づくり、共産党(一時期は国民党)の党務などを通じて、革命の実現にむけて歩み始めたのでした。

ちなみに、中国に共産党が誕生したのは、19217月、上海での中国共産党1回全国代表大会(創立大会)においてでした。そこには、陳独秀、李大釗、毛沢東など数十名が参加していました。

 

 以後の毛沢東の生涯は、成功と失敗の繰り返しでした。それでも最終的に革命を成し遂げて新しい国の形を創りえたのには、いくつかの理由があるように思われます。第1は信頼できる仲間がいたこと、第2はこころざしをしっかり保ったこと、第3は軍事戦略に秀でていたこと、です。

 

 けれども、1950年代半ば以降の約20年間、反右派闘争、農村の人民公社化、大躍進政策文化大革命の発動、天安門事件などで、毛沢東は深刻な誤りを犯し、国内の多くの人に飢えと苦しみ、失望を与えてしまいました。

 そして1976年、強いきずなで結ばれていたふたりの同志、周恩来朱徳が相次いで亡くなりますと、毛沢東も後を追うように亡くなったのでした。享年82でした。

 

参照文献:

1)金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝 上・下』(みすず書房1999, 2000年)

2エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』(筑摩書房1964年)

3G. パローツィ=ホルバート著、中嶋嶺雄訳『毛沢東伝』改訂版(河出書房新社1972年)

4)スチュアート・シュラム著、石川忠雄・平松茂雄訳『毛沢東』(紀伊国屋書店1967年)

公立の子ども図書館

 公立図書館は、乳幼児から高齢者まですべての住民にサービスをするのが基本ですから、ほとんどすべての公立図書館は乳幼児と児童生徒にもサービスを提供しています。このブログの「乳幼児とその親に対するサービス」では、そのような図書館の授乳室、赤ちゃんタイム、託児サービス(保育サービス)などをご紹介しました。一方、ふつうの図書館と施設面で切り離された、公立の子ども図書館が少しずつ増えています。

 

 確認できたのは、約60の自治体(市区町村)が設置している子ども図書館ですが、その中から特徴のあるものをいくつかご紹介しようと思います。なお、子ども図書館の名称としては、こども図書館、児童図書館、えほん図書館、まんが図書館、キッズライブラリーなどが使われています。

 

子育て支援という視点

 多くの子ども図書館が想定している利用者の中心は、乳児から小学生までの子どもとその親です。また、国と地方の行政があげて少子化対策にとりくむ状況を反映しているのでしょうか、館内の一角に「子育て支援コーナー」を設けたり、そのためのサービスを謳う子ども図書館が少なくありません。次のような例があります。(以下、「」内は、すべて当該図書館のウェブサイトからの引用です。)

石岡市立図書館の「こども図書館本の森」(茨城県) = 中央図書館と同じ住所にあるこの図書館は2017年4月1日のオープン。ここには「子育て応援コーナー」があって、「妊娠・出産・育児など子育てに関する大人向けの本を中央図書館からヨリぬきで持ってきています。」中央図書館にも絵本や児童書のコーナーがあります。

練馬区立南大泉図書館の分室である「こどもと本のひろば」(東京都) = 「乳幼児から小学校低学年までの子供たちとその保護者を対象とし、乳幼児や児童向けの図書、育児や料理などの図書を充実させるとともに、安心して読書や事業を楽しめる空間づくりを大切にしています。」

横浜市南区の「はぐはぐの樹子ども図書館」(神奈川県) = この図書館は、同区の地域子育て支援拠点である「はぐはぐの樹」にあり、絵本に関する相談も受けつけ、「子育てを側面からサポートする」としています。

富山市立図書館の「とやまこどもプラザ」 = これは、「こども図書館と子育て支援施設が一体となった施設です。親子で本を楽しんだり、子育てに関する相談や保護者同士が交流・情報交換などをしたりできる場となっています。」ここにはゲームコーナーもあります。

宗像市民図書館の「えほんのへや」という分室(福岡県) = 「0歳から6歳くらいまでの子ども向けの絵本を中心に、育児に関する大人用の本や雑誌も揃えています。週3日、読書相談員が、乳幼児の読書に関する質問や相談を受け付けています。」

 

珍しい資料

 子ども図書館の資料は、一般に絵本と児童書、紙芝居、CDやDVDが中心で、子どもを連れて行く親のための育児関係図書がそれにつづきます。

 資料面で特徴がある図書館のひとつが、板橋区(東京都)の「いたばしボローニャ子ども絵本館」で、ここは「北イタリアのボローニャから寄贈された世界約85か国、2万5千冊の絵本を所蔵している海外絵本の図書館です。小学校だった建物の一部を利用した木の温もりが感じられる懐かしい雰囲気の中で、世界各国の絵本をゆっくりとお楽しみいただけます。」

 そのほか、渋谷区立笹塚こども図書館(東京都)にも外国語の児童図書があります。

 広島市の「5‐Day’s こども図書館」(旧:広島市こども図書館)には、児童図書館設立のきっかけとなったハワード・ベル博士から贈られた「ベル・コレクション」という洋書約1,000冊があります。

 

 漫画を好むのは子どもだけではありませんが、漫画に特化した図書館もあります。無料で閲覧できる例を挙げますと、

広島市まんが図書館 = 蔵書15万冊以上(ほかに同館の「あさ閲覧室」に5.7万冊)

 貸出は10冊まで、2週間以内。

北九州市漫画ミュージアム(福岡県) = ミュージアム(博物館)の図書館部分で漫画の単行本約5万冊を読むことができ、そこには「漫画に関する問い合わせに応えるソムリエカウンターもあります。」

③湯前(ゆのまえ)まんが図書館(熊本県湯前町) = 規模が110㎡と小さいため、熊本市古書店から借りうける資料を適当に入れ替えながら約6,000冊を展示し、閲覧に供しています。

 

珍しい施設

剣淵町絵本の館(けんぶちまち・北海道) = 絵本(36,000冊)だけでなく、大人が読む一般書(閲覧室に28,500冊)もあり、靴をぬいで入館します。楕円形の館内には次のようなスペースが用意されています。

 「絵本のへや」には、ままごと遊びの「ごっこはうす」や「木のパズル」もあります。

 「たまごのへや」というたまご型の部屋には、「木の玉約10万個が入った「木の砂場」があります。大人も子どもも一緒に入って楽しめる大きさです。

 また、「中高校生や多くの大人の方々向けの一般書閲覧室と読書室を設けています。

 体験教室は、絵本の読み聞かせやおはなし会、工作教室、料理教室などの絵本体験や地域の文化学習活動に利用する多目的の部屋で、団体活動への利用貸出もします。」

 喫茶「らくがき」では、「剣淵町産野菜を使った軽食やジュースがお勧めです。 絵本や西原の里の芸術作品、地場産品の販売コーナーがあります。」

横須賀市児童図書館(神奈川県) = 中学生までを対象としているため、2階に閲覧室、読書室のほかに学習室も備えています。

一宮市立図書館の子ども文化広場図書館(愛知県) = 3階建ての本格的なもので、幼児からティーンズまでを主な対象としており、調べ学習室があります。同市には小規模な尾西児童図書館もあります。

尾道市立図書館のみつぎ子ども図書館(広島県) = コンピューターコーナー、ビデオ鑑賞コーナーのほか、未就学児が木のおもちゃなどで遊べるプレイルーム、授乳室があります。同市には向島子ども図書館もあります。

北九州市立子ども図書館(福岡県) = 2018年12月末に開館したこの図書館は18歳以下の子どもを対象にしています。地下1階、地上2階の3階建てで広さは2000㎡。

 地下1階には幼児閲覧室、おはなしコーナー、寝ころびスペース、メディアコーナー、子どもひろばなどがあり、1階には小・中・高生閲覧室、調べ学習コーナー、メディアコーナー、リフレッシュコーナーなどがあります。2階は大研修室、学習室、児童図書研究室などで構成されています。

 ついでにご紹介しますと、北九州市には「こどもと母のとしょかん」と名づけられた子ども図書館が5館あります。それらは市民センター、社会福祉センター、市役所の出張所などに併設されたものです。

武雄市こども図書館(佐賀県) = 2階建ての2階にフードコートやカフェテラスがあり、1階がおもな利用スペースになっています。そこには「知育玩具を使った遊びのイベントやものづくりワークショップを定期的に開催」するプレイ&ワークスペース、「お父さんもお母さんも靴を脱いでほっとできるような休憩室」である赤ちゃん休憩室、授乳室、ボランティアの仕事スペースである「おはなしラボ」、おはなし会をする「ひみつの部屋」など、盛りだくさんなスペースが準備されています。

 

珍しい立地

流山市(千葉県)の市立「おおたかの森こども図書館」 = おおたかの森小・中学校敷地内に併設されたこの図書館は流山市と隣接する4市の「だれもが利用できる施設」で、絵本や中学生までを対象とした児童書、子育て関連図書を約7,200冊所蔵(2015年4月1日現在)しています。」

江東区(東京都)の区立「白河こどもとしょかん」 = 1974年に設立されたこの図書館は、2010年に元加賀小学校の校舎1階に移転して開館しました。2017年3月末現在の蔵書は約3万冊、閲覧席は16席。赤ちゃんコーナー、おはなしの部屋、絵本コーナー、書庫、事務室などがあります。

高槻市立中央図書館(大阪府)の「ミューズ子ども分室」 = 関西大学高槻ミューズキャンパス内にあって、子ども向けの絵本や児童書を約2万冊そろえていて、月曜から土曜の10時から17時まで開館。そのほか関西大学の休校日には休館します。

 

その他の珍しい例

 北本市立こども図書館(埼玉県)には「赤ちゃんから小学校低学年向けの本を中心に、3万冊を超える蔵書があります。小学校高学年向きの読みものもあります。子育て支援の本や雑誌も所蔵しています。」

 そのウェブサイトの「これよんで」という項目には次のように書かれています。「フロアーにて、職員がいつでも絵本の読みきかせなどをいたします。「これよんで」のバッヂをつけた職員にお気軽にお声をおかけください。」

 いつでも読み聞かせの要望に応じてくれるのは、珍しいですね。

 

 広島市の「5‐Day’s こども図書館」 = 2017年8月末日までは、広島市こども図書館という呼称でした。蔵書は約19万冊。先に触れましたように、この図書館は1949年に「アメリカ合衆国からハワード・ベル博士を通じ、絵本等1,500冊受贈」したのが設立のきっかけでした。

 その後、1950年には、ロサンゼルス市南加広島県人会から児童図書館建設費(400万円)を受贈し、1953年には、広島青年会議所から館内設備(102万円)を受贈するなど、多くの人から支援をうけて発展してきました。設立の発端が珍しい例です。

 

 三原市広島県)の「ほんごう子ども図書館」は、そのウェブサイトによりますと、「全国でも珍しい、公設民営の子ども図書館です。三原市より建物をお借りして、ボランティアで運営をしています。」

 

 高知市の「高知こども図書館」は、そのウェブサイトによりますと、「全国で初めての特定非営利活動法人NPO法人)が運営する、子どもの本専門の図書館として1999年に開館しました。赤ちゃん絵本から中学生高校生の読み物、児童文学に関する様々な研究書などの貸し出しを基本としながら、読書案内、読み聞かせ、ブックトーク、情報の収集と発信、その他NPOならではの多彩な企画を、職員とボランティアと理事たちで行っています。」

 この図書館は、「施設は高知県から無償貸与されていますが、資金援助は受けていません。人件費、図書購入費、その他の運営に関わるすべての経費は、趣旨に賛同してくださる会員の会費と寄付金、事業のための助成金、及び自主事業収入で支えられています。」

 開館時間は午前10時から午後6時まで。貸出は5冊まで。建物は2階建てで、誰でも無料で利用できるとのことです。

 

大学(図書館)が設置・運営している子ども図書館

 地方自治体のほかに、国、大学、公益財団法人、一般社団法人、NPO、企業、個人などが子ども図書館を開設・運営しています。蛇足ですが、以下に大学が運営して地域の子どもや保護者に開放している子ども図書館をご紹介します。

北海道武蔵女子短期大学図書館(札幌市北区)の児童図書室 = 1976年に開室。毎週金曜日の午後に開室し、大人も利用できます。

②埼玉東萌短期大学附属図書館(埼玉県)の「こども図書館コーナー」 = 「長く読み継がれている本を中心に約5000冊の絵本と紙芝居、読み物などがあります。コーナー内は靴を脱いで上がるので、好きな場所に座って本を読むことができます。学生や職員が読み聞かせをすることもあります。」

日本社会事業大学附属図書館1階(東京都清瀬市)の子ども福祉図書館 = 「幼い頃から社会福祉に興味を持ってもらうことを目的に平成16(2004)年に開設しました。保護者の方向けの図書も用意しておりますので、ぜひご利用ください。」

山梨大学附属図書館(山梨県)の「子ども図書室」 = 「学内外、年齢問わず、どなたでも利用でき」、イベントも開催しています。

東海学院大学附属図書館(岐阜県各務原市)の「東海えほんの森」 =「地域の乳幼児や保護者、近隣幼稚園や保育所(園)の園児に「絵本に親しむ場」「交流の場」を提供しています。」

 また、「絵本、大型絵本、紙芝居など約1,800冊が並んでおり、保育の授業での使用や、ボランティアとしての絵本の読み聞かせなど、学生の「保育実践の場」としても運用されています。」

京都造形芸術大学京都市)の「ピッコリー」 = この子ども図書館は絵本や児童文学関係書約17,000冊を所蔵していて、開館は木曜日から日曜日まで。おもちゃで遊べるほか、工作をする場所も設けてあります。

奈良教育大学図書館(奈良県奈良市)内の「えほんのひろば」 = 「本学で保育者・教師をめざす学生が、絵本を通じて教育実践力を高めることを目的として、設置されました。古典的な絵本から最新の絵本まで、独自の視点で厳選された約3,000冊の絵本があります。2014年春に改装した室内は、カーペット敷で、リラックスして絵本を見たり、友達とワイワイ読みあったり、絵本のいろいろな楽しみ方ができます。

※えほんのひろばは図書館内の一施設として、学外の方でもご利用いただくことができます。

※えほんのひろばには授乳室・多目的トイレが隣接しているため、小さなお子さま連れの方でも安心してご利用いただけます。」

鳴門教育大学附属図書館(徳島県)の児童図書室 = 1987年に設立されたこの図書室は地域に開放され、学生やボランティアがストーリーテリング、読み聞かせ、人形劇などをしています。最近は授乳室もできました。蔵書約17,000冊は、絵本、児童図書、紙芝居など。通常期は水曜・土曜・日曜・祝日に開室。時間は午後1時から4時まで。大学の休業期は水曜日だけ開室。貸出は8冊まで3週間です。

憩いと癒しの場としての図書館

 かつての図書館は堅苦しい印象が強く、「図書館」と聞くだけで腰の引ける人もいましたけれど、最近の公立図書館は多くの人にとって気軽に行ける憩いや癒しの場となっています。

 なぜでしょうか? それは、最近の図書館には、次のような例が増えてきたからだと思います。

 

1)身近になってきた図書館

 独立した立派な建物が多かった昔の公立図書館を、敷居が高いと感じる人がいたとしても不思議ではありません。ところが、最近では便利な場所の複合施設の一部となるばあいが増えています。また、地域館・分館が増えて気軽に行けることや、口コミ情報に惹かれて行ってみた図書館を身近に感じる人が増えたのも、大きかったのではないでしょうか。

 図書館が複合施設の一部となることについては賛否両論があります。図書館が複合施設に入る利点は、次のとおりです。

 ①おおむね交通の便が良く、図書館へも行きやすいこと。

②複合施設の各構成部分が人を集め、住民は「ついでに」用をたせること。

③その結果、図書館の敷居を低く感じてもらえること。

 よく見かける複合施設のあり方は、生涯学習センターや文化センター、役場・役所、博物館や文書館、スーパーマーケットなどの商業施設、などと公立図書館との併設です。

 

2)本などの資料によるウェルカム態勢

 公立図書館は住民に資料(本、雑誌、新聞、CDDVD電子書籍など)を提供することが第1の存在理由です。ですから、幼児から高齢者までの利用者が求めるであろう資料を集め、その図書館にない資料を要求されれば、他の図書館から借りたり、新たに購入したりして提供します。

 

 図書館の書架の前で、自分の望む本を探しながら背表紙のタイトルを眺めている人は、棚から抜き出した本に、たちまち惹きつけられることがあります。これは発見の喜び、望みがかなえられた喜びですね。あるいは、漱石の『虞美人草』で甲野さんが妹の藤尾に言った言葉、「驚くうちは楽(たのしみ)がある」の一例かもしれません。

そのことは同時に、その本の著者と出版社にとっても、その本を図書館の蔵書に加えようと選んだ館員にとっても、喜ばしいことに違いありません。図書館は、本を読んでほしい人と読みたい人との、幸せな出会いの場なのです。

 この幸せな出会いが多ければ多いほど、訪れる人の気持ちがなごみ、図書館は憩いと癒しの場となってゆきます。

 

3)職員によるウェルカム態勢

 かつて、東京図書館帝国図書館国立国会図書館でいやな思いをした経験を書き残している人がいます。たとえば、

 初めて行った上野の図書館は「いかにもお役人風なところばかり」で、若い出納係の男がいやに威張って人の顔を見るので腹を立てた宮本百合子(『日記』1913年)。

上野の図書館へひと夏で紅葉全集を読み通すつもりで行ったけれども、1日目か2日目でいやになってしまったのは吉屋信子 (『処女読本』1936年)。なぜなら、「小使みたいな人まで官僚的でゐばってゐるよう」だったから。

そこの食堂が「おかしな官僚ぶり」をもっていると書いた 徳永直(『光をかかぐる人々』1943年)。

国立国会図書館をひどい図書館だと思ったのは 井上ひさし(『本の運命』1997年)。なぜなら、借りるのに手間と時間がかかり、コピーに制限があり、館員が威張っていて、自分にあらぬ疑いをかけたりするから。

 

今の公立図書館のだいじな原則は、誰でも、開館時間中ならいつまでも、1日になんどでも、利用者を歓迎することです。そのため、館員はおおむね親切で、館内が利用者にとって居心地のよい場であるように気を配っています。

 

つい先日の『読売新聞』に次のような主旨の投書が載っていました(20181218朝刊の「気流」欄)。書いたのは奈良県宇陀市の主婦で自営業をしている高岡成子さん。

自宅近くの公立図書館が期間限定で開館時間の延長をしたので、何度か行ってみたところ、「夜はすいていて何とも落ち着く」「不思議なことに、多くの方が受付で職員さんと短い会話をされている。「ここに来るのが一番幸せ」という言葉も聞こえてきて、私も幸せな気持ちになれる」ということでした。

 

私がときどきお世話になっている京都市の小さな図書館では、入館者に対してカウンターの館員が必ず「おはようございます」か「こんにちは」と声をかけています。私も同じ言葉を返します。この簡単な挨拶ひとつで、尖ってもいない私の気持ちがいっそうなごむのですから、不思議なものですね。

 

4)いろいろなことができる館内

 今の公立図書館の多くは、暑さ寒さをしのぎやすい冷暖房、現代風のインテリア、タイプの異なる椅子、目的別のさまざまなスペースなどによって、館内を居心地のよい空間にしています。

 公立図書館にあるのは、次のようなスペースです。ただし、どの図書館にも下記のすべてがあるわけではありません。

 閲覧スペース 児童用のスペース 学習スペース

 展示スペース 行事用のスペース 視聴覚スペース

 休憩・飲食・談話のスペース たたみスペース カウンター

 それぞれのスペースで、利用者が何かをしています。飽きたり疲れたりすれば、別のスペースへ移るもよし、いったん館外へ出るもよし、自由自在です。

 

 このように、公立図書館は、一定の属性をもった人たちだけが行くところではなく、その地域の老若男女が集う場となっています。ために、そこは、にぎわっていても静かなところ、動きの少ない人でも神経を集中しているところ、表情に出さなくても人が楽しんでいるところ、それらの人びとのかもし出す雰囲気の中で、心を休ませられるところ、元気を取り戻せるところなのです。

 

 作家の田山花袋は、20歳のころからの数年間、週に23度は上野の図書館へ行き、5銭を出して特別閲覧室で本を読んだり空想にふけったりしました。彼には図書館へ行くもうひとつの理由がありました。そこに彼の好きな先輩が必ずいて、食堂へ行って話をするのが楽しかったのです。そして、こう結んでいます。「過ぎ去った昔よ、なつかしい昔よ。」(田山花袋上野の図書館in『東京の三十年』講談社文芸文庫1998年)

 

 公立図書館は、住民の身近にあって、適切な資料とスペースがあり、ウェルカムの気持ちをもった職員がいれば、利用者が増えてゆき、地域のみんなでつくりあげる憩いと癒しの空間に育ちます。

グリム兄弟(Grimm, Jacob Ludwig Carl, 1785-1863)(Grim, Wilhelm Carl, 1786-1859)

 グリム兄弟は、イソップやアンデルセンと並んで、世界中で親しまれてきた童話の作家として有名ですね。日本では、今世紀に入っても、ふたりの童話集や個別の童話が出版されつづけています。

 1歳違いのヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、ドイツ中部のハーナウという町で生まれました。長兄が夭折したため、次男のヤーコプは残ったきょうだいの最年長者となります。

 1796年、シュタイナウという村に移住していた子沢山のグリム家に、父が病死するという悲劇が起こります。この窮地を救ってくれたのは、カッセルで宮廷女官長をしていた伯母(母の姉)でした。彼女はヤーコプとヴィルヘルムをカッセルの古典語高等中学へ入学させ、家庭教師をつけてラテン語とフランス語を習わせてくれたのでした。

 

 このころから大学卒業までの兄弟ふたりの親密な関係について、兄のヤーコプが次のように書いています。

 「学校時代には、私たちは一つのベッドに寝、一つの小さな部屋を使用しましたが、その部屋では同じ一つの机で勉強しました。次いで、大学時代には同じ部屋に二つのベッドと二つの机が置かれました。その後の生活でも依然として同じ部屋に二つの勉強机が置かれ、しまいには最後まで、隣り合う二つの部屋に、常に一つの屋根の下で、各人の手近に置かれていなくてはならないために二重に買われた僅かな物を除き、私たちの持ち物と書籍を、文句を言われたり、邪魔されたりすることなく、完全に共有し続けました。」(1 以下、「」内はすべて同じ文献からの引用です。)

 

 ふたりは順調に成長し、1802年と3年に相次いでマールブルク大学法学部に入学し、これまた順調に卒業して、母のいるカッセルに戻ります。ただし、弟のヴィルヘルムはいつも持病の喘息と心臓病に悩まされていました。

 失業していた1807年、ヤーコプはカッセルの公共図書館に就職できるのではないかと考えました。理由はふたつ。第1は写本の読解に習熟していたこと、第2は独学で文学史に親しんでいたことです。

 でも、望んでいた地位は得られないばかりか、1808年、失業中の二十歳を過ぎたばかりの若者に、母の死という悲劇が襲いかかります。きょうだいの最年長者でありながら、経済的に何もできないこの時期は、ヤーコプにとって人生の危機だったといっても過言ではないでしょう。

 

 ほどなく幸運が訪れます。1809年、ヤーコプは、ヴェストファーレン王国(首府カッセル)の王ジェロームボナパルト(ナポレオンの弟)から直接に、文庫の司書を本務とする参事院の法務官に任命されたのでした。

 「その上、司書官としての私の職務は決して厄介なものではなく、文庫又は官房に二、三時間だけいればよく、その間も、新たに登録すべきものを処理した後は、落着いて自分のための読書や抜書きをすることができた。図書や図書による調べものを王から求められることはめったになく、それに、他の人には全く貸出しはされなかった。残りの時間はすべて自分のものであり、私はほとんど気にすることなくそれを古いドイツの文学と言語の研究に使った。」

 また、弟ヴィルヘルムにとっても、1809年は「私の病気の治癒が始まった転回点と考えることができる」良い年となりました。

 

 このように、研究時間をたっぷりと確保できた兄と、健康を回復した弟とは、1810年代に入って次つぎと調査・研究の成果を発表してゆきます。あるときは協力作業の結果として、あるときは独自の研究の結果として。

 兄弟の本領は言語学にありますが、彼らの名を世界中に知らしめた協力作業の成果『グリム童話』(正確には『子どもと家庭のメルヒェン集』または『子どもと家庭の童話』)は1812年に第1巻、1815年に第2巻が刊行されました。この著作は、兄弟による創作というよりは、ドイツ各地に伝わっていたおとぎ話を収集したものです。「白雪姫」や「赤ずきん」、「ヘンゼルとグレーテル」など、日本でも多くの人が一度は読んだり読んでもらったりしたことがあるのではないでしょうか。

 

 弟のヴィルヘルムは1814年にカッセルの図書館で「図書館書記の肩書を有する地位」につくことができました。兄と同じ職場で働きたいと願っていた彼は、次のように書いています。

 「翌一八一五年に{図書館長の}シュトリーダーが亡くなった後、私の昇進もあったであろうが、私にとっては昇進よりも、{略}兄がその地位に就けるかもしれないという希望の方が価値があったのである。私たちはそれまで一度も離れて暮らしたことがなく、私たちの力の及ぶ限り長く、一緒のままでいようと決心していたのであるが、このような一緒の官職はそうした私たちの心からの願いをかなえるものであった。ほとんど予想に反して、この願いは聞き入れられた。」

このようにして、「私たちは時間どおりに運営されるこの役所で好ましい、ためになる仕事を見出し、その上、研究といくつかの文学上の計画の実行のための暇も見出したのである。」

また、「私は図書館に一四年おり、そして一般的な慣習に従ってフランスによる占領時代を加算すれば、二一年在職したこととなり得たであろう。図書館にはこの時期、私が就職した当時にいた職員は皆亡くなっていた。一八二九年一一月二日、私は図書館の職を辞した。」

 

 兄ヤーコプも同じ時期のことを次のように書いています。

「この時{一八一六年の中ごろ}から、私の人生で最も穏やかな、最も勤勉な、そして最も実りゆたかであるかもしれない時期が始まる。シュトリーダーが亡くなった後、私は以前から望んでいたカッセルの図書館における地位をついに手に入れた。この図書館には、{弟の}ヴィルヘルムが一年前から勤めていた。私はフランクフルトの連邦議会における公使付き書記官の勤め口を断固として辞退していた。私はこうして次席司書官となり(一八一六年四月一六日)、引き続きそれまでの六〇〇ライヒスターラーの給料を維持し、フェルケルが首席司書官に昇進した。図書館は毎日三時間開かれ、残りの時間はすべて気の向くままに研究に充てることができた。ほかに、主に私に割り当てられた検閲官の職務のように小さな副次的職務があったが、大して負担にはならなかった。同僚のフェルケルとは友好的な関係にあり、私と弟に対する妥当な、正当な昇給さえあれば何の不足もなく、私たちにはその点で望み事はほとんどなかったであろう。すばやく年が過ぎ去っていった。」

 自分の成し遂げたいことを抱えながら宮仕えをする人たちにとって、これは何ともうらやましい図書館員生活だったのではないでしょうか。

 

 兄弟がまだカッセルの図書館で働いていた1829年の夏、ふたりをゲッティンゲン大学へ招くという朗報が届きます。ヤーコプを正教授兼司書官、ヴィルヘルムを助教授兼副司書官にするというもので、ふたりは翌18301月に就任しました。

 

 ところが、1837年、グリム兄弟はゲッティンゲン7教授事件に連座して大学を追われ、カッセルに亡命せざるをえなくなりました。翌1839年、ふたりは『ドイツ語辞典』の編纂に着手しますが、この辞典が完結したのは何と着手から1世紀以上経った1961年でした。大学図書館で洋書の整理を担当していた経験から申しますと、ドイツには、このように気の遠くなるような辛抱強い刊行物が時たまあるような気がします。

 1841年、兄弟はプロイセン国王に招かれてベルリン大学の教授となり、亡くなるまでベルリンで暮らしました。

 

参照文献:

1ヤーコプ・グリムヴィルヘルム・グリム著、山田好司訳『グリム兄弟自伝・往復書簡集』(本の風景社2002年)

図書館の本を隠す人たち

 かつて図書館の本を隠す人たちがいましたし、今もいます。その理由はさまざまで、方法もさまざまです。隠す人の大部分は図書館の利用者ですが、たまに図書館の職員も本を隠します。以下、隠す理由ないし目的ごとにご紹介しましょう。

 

特定の本を読ませないようにするため

 本吉理彦「カナダにおける「図書館の自由」への圧力」によりますと、1988年にカナダの公共図書館を対象に行われた検閲に関する調査では、「約10%の図書館が蔵書の紛失、盗難、汚損、切り取り、破損などのうち、他人に当該資料を見せないようにする試みと疑える事例を経験していた」ということです。(カレントアウェアネス833、19921020)

 

 2007年8月、メイン州アメリカ)で「ある女性利用者が、この図書{性教育に関する図書}を児童向けコーナーに置いていた2つの公共図書館から借りたまま、返却を拒否するという事件が発生しました。この利用者は「内容が子どもに不適切」だとして、資料の代金(20.75ドル)が記された小切手とともに、図書館に抗議する文書を送りました。」

 図書館は彼女に小切手を返し、意見を出すように求めましたが、返事がなく、「この事件が新聞等で報じられたことから、両館にはこの図書へのリクエストが殺到し、両館は新たに2部ずつ購入することにしたそうです。」(カレントアウェアネスR、20070925)

 

 つづいて図書館員が本を隠した例です。

 1973年8月、新築開館したばかりの山口県立山口図書館で、開架書架にあった約50冊の本が、段ボール箱入りで書庫の奥に隠されているのが発見されました。ある職員が何気なく箱を開けてみますと、「最上部に破損本が数冊載せてある下に、共産党関係、社会主義運動、教科書問題、在日朝鮮人問題、仁保事件、反戦平和運動などの、破損本でない資料が収められていた」のでした。

 これがマスコミの知るところとなり、館長以下の幹部職員が弁明しましたが、説明が一貫せず、「年末には館長以下3名が県教育委員会より「県民の疑惑と不信を招いた」として行政処分を」受けました。(1)

 

 次は、正当な理由もなく職員が図書館の本を捨ててしまった例です。

 2001年8月、「船橋市西図書館に勤務していた司書資格を持つ職員Aは、「新しい歴史教科書をつくる会」やこれに賛同する者等の著作107冊を、他の職員に指示して手元に集め、コンピューターの蔵書リストから除籍する処理をして廃棄」しました。

 この事実を2002年4月に『産経新聞』が報じて問題が明るみに出ますと、5月になってその職員は、自分が廃棄したことを認める上申書を船橋市教育委員会委員長に出し、処分を受けました。

 ところが、廃棄された本の著者8人と「新しい歴史教科書をつくる会」は、「著作者としての人格的利益等を侵害されて精神的苦痛を受けたとして、船橋市に対して国家賠償法1条1項に基づき、また職員Aに対して民法715条に基づき、慰謝料の支払を求めて東京地裁に提訴」しました。

 裁判は最高裁判所までつづき、2005年7月、最高裁第1小法廷は原告の請求を認めて控訴審判決を破棄し、高裁に差し戻しました。要するに、船橋市と職員A氏は敗訴したわけです。(2)

 

 フィクションの登場人物の中にも、図書館の本を隠す人たちがいます。有川浩図書館戦争』や『図書館内乱』、ウンベルト・エーコ薔薇の名前』などで図書館の本が隠されます。いずれもミステリー的な要素のある作品ですが、とくに『薔薇の名前』では、修道院の図書館にある1冊の本が、あからさまに書かれていない攻防の焦点となっています。

 

戦火から守るため

 戦争や内乱が起きますと、人の命だけでなく、由緒ある建造物、貴重な美術品や蔵書なども、危険にさらされることがあります。図書館のばあい、建物や蔵書全体を避難させることはむずかしいので、貴重な本を選んで別の場所に移さざるをえません。そのため、戦火を免れるために本を隠す努力が昔からつづいています。

 

 太平洋戦争の末期、日本の各地がアメリカ軍の空襲にさらされ、多くの人命と住居を失う中、図書館の貴重な蔵書が僻地に隠されて焼失をまぬがれました。

 1943年12月22日、文部省が都道府県の中央図書館長らを集めた会議で、貴重な図書の疎開をすすめるよう指示を出しました。これに先立つ1943年11月、帝国図書館の13万冊以上の貴重な資料が県立長野図書館に移されていました。

 日本で図書館蔵書の疎開が本格的になったのは終戦の年の1945年で、県立図書館と大きな市立図書館が降伏宣言のまぎわまで疎開作業をしたのでした。また、東京帝国大学明治大学などの図書館でも蔵書の疎開を行いました。

 

 第二次世界大戦では、激戦の舞台となった外国でも同じことでした。イギリス、ドイツ、フランスで国立図書館などの貴重な資料を中心に疎開が行われました。今世紀に入ってたびたび戦場となったイラクでは、空爆から本を守るためおよそ3万冊の本を自宅に隠して守りとおしたバスラという町の女性図書館員が絵本に描かれています。(3)

 

危険をおかしても図書館の本を読むため

 ここでは、非常事態におちいった人たちが秘密の図書館をつくり、危険におびえながら本を読んだふたつの例をご紹介します。

 最初は、アントニオ・G・イトゥルベ著、小原京子訳『アウシュヴィッツの図書係』(集英社クリエイティブ、2016年)に書かれている極小図書館の実話です。

場所は、第二次大戦下のポーランドにあったアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所。本を隠してあるのは、アウシュビッツで唯一子どもを収容している31号棟。この棟の責任者である青年ヒルシュの個室の床下に掘った小さな穴が、いわば書庫です。

本は地図帳、『幾何学の基礎』、『世界史概観』、『ロシア語文法』、『精神分析入門』など、全部で8冊しかありません。これらの本を収容所内の「授業」で使うため、毎日、衣服の内側に隠して出し入れする図書係が必要でした。その危ない係を任せてほしいと申し出たのは、ディタという名の14歳の少女でした。

 収容所内に本を持ちこむことは禁じられていましたので、もし監督する親衛隊(SS)に見つかれば、ヒルシュにしろディタにろ、「一巻の終り」となります。

 けれども、秘密は漏れることなく、本は収容されている子どもたちにとって「鉄条網も恐怖もない暮らしの象徴」となっていったのでした。

 著者は「あとがき」に書いています。イスラエルに住んで80歳になっていたディタと会って話を聞いた「この物語は事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉付けされている」と。

 

 次は、デルフィーヌ・ミヌーイ著、藤田真理子訳『シリアの秘密の図書館』(東京創元社、2018年)に書かれている、これも実話です。

秘密の図書館が誕生したのは、いつ果てるとも知れない内戦がつづくシリア、首都ダマスカス近郊の町ダラヤ。時は2013年初め、アサド政権下のこの町に図書館はありません。

 青年アフマドは、友だちに応援を頼まれます。爆撃で破壊された建物のがれきの下から本を取り出そうというのです。

 「学生、活動家、反逆者など、全部で四十人ほどのボランティアが飛行機が沈黙する隙を狙って残骸を掘りに行った。一週間で六千冊の本を救い出した。すごいじゃないか! 一カ月後、集められた本は一万五千冊になった。」

 相談した結果、集めた本で秘密裡に運営する公共図書館を立ち上げることになりました。「名前もつけられず、看板も出さない。レーダーも砲弾も届かない地下の空間で、そこの利用者が集まってくる。」だから、「秘密の公共図書館」なのでした。

彼らは本棚をつくり、汚れを落とした本をテーマ別に並べ、地上の窓ぎわに砂袋を積みました。発電機が地下の暗闇に灯りを届けてくれます。そして、それぞれの本の「最初のページにもとの持ち主の名前がていねいに手で書き込まれた。」死んでしまった人もいますけれど、「戦争が終わったら、それぞれの持ち主が取り戻せるように」したかったからです。

 残念なことに、2016年8月、著者とメールで連絡をとりあっていた青年アフマドから、ダラヤを脱出するというメッセージが届きました。最後の補給源だった隣町に通じている道路が封鎖され、ダラヤが孤立したからです。若者たちの心に希望と潤いをもたらしていた小さな図書館の本は、その後、政府軍の兵士の盗みによって消え失せてしまったのでした。

 

参照文献:

(1)日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会編『図書館の自由に関する事例33選』(日本図書館協会、1997)

(2)山家篤夫「船橋市西図書館の蔵書廃棄事件について(対応報告)」(日本図書館協会図書館の自由委員会のウェブサイト、報告の日付は20070520)

(3)ジャネット・ウィンター絵と文、長田弘訳『バスラの図書館員―イラクで本当にあった話』(晶文社、2006年)

 マーク・アラン・スタマティ著、徳永理砂訳『3万冊の本を救ったアリーヤさんの大作戦』(国書刊行会、2012年)

デジタルアーカイブ

 日本には、史学の専門家でさえ見たことのない古い図書・文書・記録・絵図のたぐいがたくさんあります。それらはおもに大学図書館、公立の図書館や文書館、博物館、歴史館などに眠っています。中には旧家が個人的に保存してきたものもあります。

 この宝の山をデジタル化して(外国を含めた)誰でもが読めるようにすれば、日本史学にとってはもちろん、日本の古い時代の出来事やありように興味をもっている一般市民にも大いに役立つのは言うまでもないでしょう。

 そのような試みのうち、ここでは公立図書館が主導している例をご紹介します。

 なお、日本のデジタルアーカイブについては、アンドラの「Digital Archives」というサイトが、公立図書館に限らない最も網羅的と思われるリストを作成・更新しつづけていて、それぞれにアクセスできるようにしています。

 

名称

公開されているデジタル化資料群には、データベースを運営する機関によってさまざまな名称がつけられています。公立図書館で最も多いのはデジタルアーカイブで、ほかにデジタルライブラリー、デジタル図書館、電子図書館(システム)、・デジタルコレクションなどがあります。

 

内容

 今のところ、公立図書館のデジタルアーカイブに含まれるおもなコンテンツは、古書・古文書・古地図・絵図・絵画(浮世絵)・絵はがき・書簡・写真などです。中には比較的新しい図書や絵本、動画(映像)が含まれているばいもあります。

 公立図書館が自治体の地域関連資料(郷土資料)を収集することは、図書館運営上の重要な柱のひとつです。その努力の結晶である所蔵資料の古い文献や地図などの多くは、それぞれの機関で貴重資料扱いになっています。ですから、それらのデジタル化と公開には、貴重資料そのものを利用する際の手続きの煩雑さと資料の損傷を避けるという意味合いもあるのですね。

 

都道府県レベルのデジタルアーカイブ

 すべての都道府県立図書館がデジタルアーカイブを運営・公開しています。以下に、その中の特徴的なものをご紹介します。「」内の情報は2018年12月時点の各ウェブサイトによっています。

 

(1)北方資料デジタル・ライブラリー(北海道立図書館)

参加館は、北海道立図書館のほか、道立文書館、道立埋蔵文化センター、3つの市町立図書館(旭川市北見市立・滝上町)ですが、ほかに北海道内4市(札幌・帯広・函館・小樽)の図書館のデジタルライブラリーへのリンクが張られています。

このデジタルアーカイブには、市立図書館のコンテンツを同時に検索して閲覧できるという特徴があります。

 

(2)ふじのくにアーカイブ静岡県立図書館+4市立図書館)

「当館のデジタルライブラリーは、当館の資料だけでなく、県内市町立図書館が所蔵するデジタル化資料の一部を閲覧できるようになりました。

 現在の参加図書館は富士市立図書館、静岡市立図書館、袋井市立図書館、磐田市立図書館の全4館で、公開点数は全部で597タイトルになります。今後は参加館や公開点数も増えていく予定です。

 今回のリニューアルにより、当館のデジタルライブラリーは県内図書館の合同デジタルアーカイブの性格を持つことになりましたので、名称も「静岡県立図書館デジタルライブラリー ふじのくにアーカイブ」となりました。」

 特徴は北海道と同じですが、こちらはより積極的に「県内図書館の合同デジタルアーカイブの性格を持つ」としています。

 

(3)信州デジくら(県立長野図書館・県立歴史館など)

 「県立歴史館、県立長野図書館、信濃美術館・東山魁夷館が所蔵する作品、歴史的な資料のほか、地域の祭りなど今を記録した動画などがあります。この他、県民の皆様から寄せられたお住まいの地域の魅力ある文化、次世代に伝えたい画像や動画も順次公開していきます。」

 「長野大学は、長野県と連携し、{略}長野県デジタルアーカイブ推進事業を協働して進めています。」(長野大学のウェブサイト)

 このデジタルアーカイブの特徴は大学や県民個人が協力している点です。

 

(4)信州地域資料アーカイブNPO長野県図書館等協働機構)

 NPO長野県図書館等協働機構は、「長野県図書館協会を母体として平成25年2月に設立され、事業に賛同する学識者、専門家、市民等が参加して、県立図書館はじめ、市町村図書館、県立歴史館、文書館、博物館等と連携、協働して事業を推進しています。」

 「貴重な地域史料をデジタル化し公開するものです。高精細画像でご覧いただけるとともに、1点ずつ現代訳、翻刻・読み下し、解説が付いていますので、誰でも読むことができます。また、キーワード検索もできます。」

  原資料の所蔵先は、県立長野図書館のほか7市の図書館、県や市の博物館、歴史館、文書館、資料館のほかに、毎日新聞社、個人などです。

 このデジタルアーカイブの特徴は、個人を含む県を挙げての事業である点、一部の資料に現代語訳がついている点などです。

 

(5)愛知県関係地域資料ポータル(愛知県図書館)

 愛知県図書館の貴重和本・絵図の世界・絵はがきコレクションのほか、以下の機関にリンクが張られています。

 県内の公共図書館=名古屋・安城・岡崎・豊橋・大府の各市ほか1件。

 県内の大学図書館=愛知県立・名古屋・愛知教育・愛知学院椙山女学園・南山・藤田保健衛生の各大学。

 その他=県内の博物館・美術館・県の行政機関。

 このデジタルアーカイブの特徴は、名称に「ポータル」とあるように、県内の公共図書館大学図書館、行政機関のデジタル資料のポータルサイトとなっている点です。

 

(6)岡山デジタル大百科の郷土情報ネットワーク(岡山県立図書館)

 「郷土岡山に関するデジタル情報(ビデオ、写真、音声、Webページなど)をインターネットへ公開しています。

県立図書館が所蔵するデジタル情報だけでなく、さまざまな行政機関、大学などと連携しながら、コンテンツを充実させています。

また、県民参加型の「郷土情報募集事業」を通して、岡山の観光スポットや岡山の歴史を紹介した映像・ホームページなど、数多くのデジタル情報を提供しています。」

このデジタルアーカイブの特徴は、行政機関や大学図書館、県民が協力している点です。

 

(7)とくしま電子図書館徳島県立図書館

「{徳島県内の}各機関が作成公開しているデジタルデータのポータルサイト」で、郷土関係の音源・動画(映像)を含んでいます。和古書には、県立図書館のほか2大学附属図書館(徳島・鳴門教育)・2市立図書館(阿波・美馬)の所蔵するものが含まれています。

このデジタルアーカイブの特徴は、愛知県図書館と同じくポータルサイトとなっている点です。

 

(8)沖縄情報統合検索システム(沖縄県立図書館)

沖縄県立図書館のほか県立公文書館、歴史博物館、琉球大学附属図書館を中心に、県外の3大学の図書館等(大阪経済大学の日本経済史研究所、鹿児島大学附属図書館、神戸女子大学古典芸能研究センター)の沖縄関連のデジタル化情報を集めています。

 このシステムの特徴は、県外の大学等からの情報を含んでいる点、全体を一括または個別に検索できる点などです。

 

市立図書館等のデジタルアーカイブ

(1)光丘(こうきゅう)文庫デジタルアーカイブ山形県酒田市立図書館)

 「当文庫は、山形県指定文化財「両羽博物図譜」、酒田市指定文化財「松平武右衛門叢書」などのほか、酒田の歴史資料と江戸時代の国文学資料、酒田に縁のある文化人等による寄贈図書など、21万点を超える資料を所蔵しており、中世から明治期に至るまで酒田がいかに経済的発展を遂げたかを証明する酒田の文化的遺産です。」

 

(2)デジタル資料コーナー(東京都練馬区立図書館)

和装本練馬区貫井図書館)と昆虫資料(練馬区立稲荷山図書館)などがあります。

公共図書館では珍しく昆虫コーナーがあり、昆虫資料は約6,000点、昆虫標本は約3,200点所蔵しています。この度、当館が所蔵しています貴重な資料をデジタル化しました。」

 

(3)知多市の古文書(愛知県知多市立中央図書館)

 「知多市立中央図書館では知多市内(旧知多郡松原村)で代々庄屋をしておられた小島家に伝わる古文書を、現当主様のご厚意でお借りしデジタル化して発信しております。保管されている古文書はほぼ200年前まで遡って当時の記録をたどることができます。この時代は幕藩体制の崩壊、大飢饉、さらには諸外国から開国を迫られる渦中で数々の出来事や事件が起こっています。」

 

(4)越国文庫コレクション(福井県福井市立図書館)

 「福井市立図書館は、松平家より寄贈された多くの貴重書を、特別コレクション「越國文庫(えっこくぶんこ)」として所蔵しています。原資料さながらに再現された画像を、時空を超えてお楽しみください。」

 なお、福井市立郷土歴史博物館も別にデジタルアーカイブを運営・公開しています。

 

(5)はりまふるさとアーカイブ:播磨圏域中枢都市圏関連事業(兵庫県姫路市立図書館)

 姫路市・太子町・宍粟市(しそうし)・市川町・神河町たつの市赤穂市の古資料のアーカイブで、4市3町の協力という点で特徴的です。

 

(6)『往来本』デジタルアーカイブ広島県三次(みよし)市立図書館)

「往来本とは、一般には「往来物」と呼ばれ平安後期から明治初期にかけて寺子屋等で用いられた教科書の総称です。」

寺子屋などの教科書の電子資料という点がとても珍しいですね。原文のほかに、読みやすくするために漢字を平仮名にした「釈文」(しゃくもん)もあります。