図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

田中克己(たなか・かつみ 1911-1992)

 日本が太平洋戦争に敗れた翌年の7月、ひとりの詩人が奈良県天理図書館に赴任しました。詩人とは、その年の2月に戦地から帰還した田中克己です。

 彼は1932年に創刊された詩誌『コギト』の創刊同人のひとりとして詩を発表する一方、第2次『四季』などにも加わっていました。雑誌に発表した作品や個人で出した詩集が、堀辰雄三好達治萩原朔太郎保田與重郎など、詩壇の主だった人たちに評価され、1941年には『楊貴妃クレオパトラ』の出版によって第5回北村透谷記念文学賞を受賞するなど、1930年代の半ばから40年代の半ばまで、詩人として絶頂期にありました。

 

 彼の就職した天理図書館は、天理外国語学校の開校と同じ年の1925年に開設された一種の学校図書館で、翌1926年から一般に開放されました。その後、学校が天理大学となって以降も大学附属図書館として一般開放の方針が維持されています。もうひとつの特徴は、宗教、アジア史、地理、日本文学、言語学などの分野の貴重な資料を数多くそろえていたことです。

 

 田中克己天理図書館への就職のいきさつを「半自叙伝」(1)に書いています。旧友たちに帰還の報告をはがきで出したところ、

 「杉浦正一郎が佐賀からたよりをよこして、その旧の勤め先の天理図書館で、東洋学関係の司書を探してゐるが、君行かないかとあるのにわたしはすぐ返事を出し、勤め先の解散したことや、東京の食糧事情をのべて、ゆく気のあることをいったのであらう。親切な杉浦はすぐ先方に連絡して、話がはじまったのである。」

 「予測し覚悟したはずの餓死が目前に迫った時、主食配給のある奈良県の、本のよめる場所への就職をすすめられたのである。わたしが「よろしくたのむ」と返事したのは当然であらう」と弁解めいて書くのは、次のような事情があったからでした。

 ①恋女房と幼い3人の子どもたちを養う立場だったこと

 ②出征前の勤め先だった亜細亜文化研究所が解散したこと

 ③東京の食糧事情が悪かったこと

 ④親しかった東京の詩友が疎開していたこと

 ⑤使いたい東京の図書館が資料疎開中や休館中だったこと

 

 この求人情報を教えてくれた杉浦正一郎は、大阪高校、東京帝大文学部で田中克己と同窓で、詩誌『コギト』を創刊した仲間のひとりでもありました。

 天理図書館との交渉は、「月収は450円位。借間の件は服部氏が世話してくれる」という図書館からの第1信で始まります。借家を世話するとされた服部氏とは、田中克己と高校・大学を通じて同窓、『コギト』同人という点でも前述の杉浦と同じで、当時、天理外国語学校の教員をしていた服部正己のことでした。

 

 ここからは、彼が毎日欠かさずつけていた日記(2)をおもな情報源としています。そこには、出かけた場所と時刻、会った人物と聞いた話、自分の具体的な仕事、買った商品と価格、贈ったり贈られたりした品物、貸したり借りたりしたお金や物、ごく簡単な感想などがこまごまと書かれています。それらは、この詩人の人となりや、敗戦直後の庶民の暮らしを知るうえで参考になりますけれど、ここでは図書館にかかわることにしぼります。なお、引用文の後の( )内は日記の年月日です。

 

 天理図書館での田中克己は、司書研究員という立場でした。着任してほぼ2か月経ったときの記述に、「登館。研究員会、年報係となる」(19460912)とあります。けれども、図書館の仕事と研究とのはっきりした区分(時間配分や職務分掌、服務規程など)がなかったか曖昧だったことは疑問の余地がありません。たとえば、

 「父の家にゆけば寺島氏よりききしとて館長の不満二点、仕事せず、勉強のみす、服装ルーズと。」(19470811)

 これによって富永牧太館長が田中克己の勤務ぶりに不満をもっていたことがうかがえますが、詩人のほうも不満をかかえて出勤していたのでした。

 「一日みなサボタージュ」「怠けて殆ど何もせず」「出勤。無為」「疲れてゐねむりせしのみ」といった記述がときどき見られますし、汽車に乗り遅れての大幅な遅刻、出勤前の散髪に加えて、知人宅に寄って将棋を指すことなどもありました。退勤の時刻も日によってばらつきがあります。

 

 司書としての田中克己が担当していたおもな仕事は、漢籍・洋書・和書の整理(分類とカード目録づくり)でした。日記にまれに書かれている仕事としては、できあがった目録カードのカードケースへの繰り込み、本の移動、出納(貸出と返却)の手伝い、ふたり一組で本の所在を確認する検書、和紙を使った古い本を害虫からまもるための曝書などがありました。

 そのほか、来客の案内・説明役、日直、月に2回の大掃除などでも特別扱いを受けることはありませんでした。

 

 陰で館長から悪しざまに言われた「勉強」はどうだったでしょうか。図書館とは関係のない個人的な読書、自分の著作として出版するつもりの『聊斎志異』やハイネの翻訳、論文の執筆、自著の校正作業などを、彼は勤務時間中にしていました。これらが「研究員」として認められていたか否かはわかりません。

 天理図書館では読書会、茶会、句会、輪読会などが行われていて、田中克己はそこへ出席したり欠席したりしていました。また、彼は命じられて講演をし、書物の解題講義をしたこともありました。

 

 その当時の天理図書館では、館員にとって大切な仕事がありました。畑仕事です。どこへ行ってもひどい食糧難の時代に、勤務先で農作業をして収穫した穀物・野菜を分配してもらえるのは、むしろ恵まれていたと言えるかも知れませんね。

 天理図書館の職員たちは、畑をたがやし、たねや苗を植え、肥料をやり、水汲みをし、雑草を抜き、収穫をしました。収穫したのは、ジャガイモ、サツマイモ、小豆、大豆、そら豆、えんどう豆、玉葱、人参、大根などです。田中克己の日記に「出勤の途、服部に寄り将棋四番」「出勤すれば草とり終り皆一寸怒る」という一節があります。(19470721)

 

 田中克己が図書館のありようや館員の言動について日記に「不快」と書き始めるのは、着任3か月後からです。館長の訓示が「不快」とか、「午後職員組合規約委員会、不快」など、不快になった理由の分かるばあいもありますけれど、「館内不快いつもの如し」(19470903)「館内いよいよ不快」(19490708)のように理由の分からないばあいも少なくありません。

 

 もともと給料が安いと思っていた上に、図書館内で何かと不満を募らせていった彼に、1948年1月からいくつかの転職話が舞い込みます。

 初めは愛知大学図書館の板倉鞆音(いたくら・ともね)からの誘いで、月給4,000円の図書館員、しばらく経ってドイツ語教員を兼ねて月給5,000円。けれども、この話は親友の服部正己にゆずります。

 以後も、大学の恩師である和田清、大学の先輩である石浜純太郎、年の近い友人・知人である羽田明(はねだ・あきら)、服部正己、外山軍治(とやま・ぐんじ)、藤枝晃といった東洋史の専門家を中心に、十指に余る人たちが彼の新しい就職口のために動いてくれました。けれども、条件が合わなかったり、踏ん切りがつかなかったりするうちに、およそ2年の歳月が流れます。

 

 彼の1949年11月3日の日記に「天理を去るの心いよいよ決す」との一文があり、その直後から事態が大きく進み始めます。

11月5日、愛知大学服部正己から、同大学の漢文教授にどうか、とのはがき。

12月2日、京大人文研の藤枝晃から、翌春に滋賀県立短期大学に昇格する予定の彦根高等女学校の校長に会うようにと電話で連絡。

年明けの1月12日、名古屋大学文学部に就職する予定の神田喜一郎から、中国文学の助教授の誘い。

 そして彼にとってありがたいことに、1950年3月中旬には、名古屋大学滋賀県立短期大学とが田中克己の争奪戦を演じます。結局、田中克己が選んだのは、先に話のあった滋賀県立短期大学教授の職でした。転職は1950年4月、彼が39歳のときで、天理図書館の在職期間は3年8か月ということになります。

 

 すったもんだの末に就職した短大でしたが、彼はそこをわずか1年で依願退職し、帝塚山学院短期大学(在職6年)、東洋大学文学部(在職1年)を経て、1959年4月に最後の落ちつき場所となる成城大学文芸学部に教授として就任します。

 なお、田中克己は、天理図書館への就職直前から退職までに、次のような図書館勤めの経験者とかかわりをもちました。氏名につづく( )内は勤めたことがある図書館ですが、図書館プロパーで活躍した人(天理図書館仙田正雄や高橋重臣など)は省いています。

中村幸彦天理図書館の同僚) = 近世文学研究。九州大・関西大等の教授

杉浦正一郎(天理図書館) = 俳諧研究。北海道大・九州大で助教

板倉鞆音愛知大学図書館) = ドイツ文学研究。愛知大・大阪市大教授

神田喜一郎宮内省図書寮) = 書誌学者。台北帝大・大谷大・大阪市大等の教授

藤枝晃(京大東方文化研究所の図書係) = 東洋史研究。京大人文研教授

 

参照文献:

(1)田中克己「半自叙伝」in『田中克己文學館』(中嶋康博氏のウェブサイト)

(2)田中克己「日記」in 『田中克己文學館』(同上)

注:

 『田中克己文學館』は、岐阜女子大学図書館の館員だった中嶋康博氏が管理運営するウェブサイト『四季・コギト・詩集ホームページ』に含まれているサイトで、氏は自らも2013年に『中嶋康博詩集』(潮流社)を出しておられます。