図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の4)『市民の図書館』への貢献

 15年ほど前になりますか、ある大学で非常勤講師をしている現職の図書館員をたずねたことがありました。授業を終えたその人が持っていた数冊の本の中の1冊が『市民の図書館』で、驚いたのは、使いこんだ証しを示すその本の傷と汚れでした。

 『市民の図書館』(初版1970年、増補版1976年)は、図書館界で長く《バイブルのようだ》と言われてきた本です。たとえば、府中市立図書館長だった朝倉雅彦氏は、退職後に受けたあるインタビューで、「わしの日比谷時代から『中小レポート』と『市民の図書館』は、バイブルみたいにいわれてきた」と話していました。氏は1966(昭和41)年から1970(昭和45)年まで日比谷図書館にいましたから、その記憶が正しければ、1970年に刊行された『市民の図書館』はすぐさま《バイブル》だと言われ始めたことになりますね。(1)

 また、『中小都市における公共図書館の運営』(略称:『中小レポート』)の中央委員のひとりだった石井敦氏は、恒雄さんの古稀記念論集の「序文」で、恒雄さんが「市立図書館運営のバイブルともいうべき『市民の図書館』をまとめあげた」と書いています。(2)

 

 この本の「はじめに」には、「本書の原案執筆に当られた前川恒雄(日野市立図書館長)」とあり、「まとめと補筆に加わられた」人として8人の市立・区立の図書館長名が記されています。(3)ただし、恒雄さんは「児童へのサービスについては、私よりはるかに高い識見と経験をもっている清水正三に書いてもらった」と『移動図書館ひまわり号』に書いています。

 恒雄さんは、この本の誕生のきっかけとなった公共図書館振興プロジェクト(1968年から1970年まで、日本図書館協会の事業)の初めから終りまで、菅原峻(すがわら・たかし)氏(日図協事務局総務部長)とともに中心人物としてかかわりました。

 

 ◎『市民の図書館』は、ふつうに読めば2~3時間ほどで読み終えることができる本です。易しい言葉で、焦点をしぼって、迷いなく明確に、公立図書館の運営について解説しているからです。『中小レポート』は内容が衝撃的でしたけれど、『市民の図書館』は『中小レポート』が示した道筋に沿って、日野市立図書館の成功体験を下敷きにしているため、さほど衝撃的ではありません。

 「焦点をしぼって」の意味のひとつは、本文中の見出しのひとつ、「いま、市立図書館は何をすべきか」が示すとおり、「とりあえず」「さしあたって」何をすべきかに焦点を当てていることです。「焦点をしぼって」のもうひとつの意味は、貸出サービスについては付随する予約サービスや読書相談などにも触れているのに対して、レファレンスサービスなど貸出以外の図書館の大事なサービスについてほとんど触れていないことです。

 この本が市立図書館の当面の最重点目標としたのは、次の3点でした。

 「(1)市民の求める図書を自由に気軽に貸出すこと。

 (2)児童の読書要求にこたえ、徹底して児童にサービスすること。

 (3)あらゆる人々に図書を貸出し、図書館を市民の身近かに置くために、全域サービス網をはりめぐらすこと。」(4)

 このように、サービスについては焦点をしぼった代り、本書は、規程・規則、分類・目録、サービス網としての移動図書館・分館・中央館、計画と統計など、仕事の進め方についてはまんべんなくノウハウを示しています。図書館運営のマニュアルたるゆえんです。

 

 『市民の図書館』は新書判で151ページ(増補版で168ページ)の本で、図や表のほかにイラストもところどころに挿入されていて、理解を助ける工夫がなされています。また、できるかぎり明瞭な表現をこころがけて、曖昧さがありません。べつの言い方をすれば、書き手の確信が伝わってくる本になっています。

 いくつか例を挙げましょう。

 「一回の貸出冊数制限はない方がよい。無制限にしてもだいたい平均3~5冊、多くても8冊くらいに落ちつく。制限をする場合は冊数が多いほどよい。貸出冊数1冊とか2冊というのはあまりにも少なすぎる。」とうぜんですよね。

 「複本を置いておかねば需要に応じきれない図書は、複本を買うべきである。」現在、複本をまったく買わない図書館はなくなったでしょうけれど、1970年にはそのように書かなければならなかったのでした。

 図書費の少ない図書館は、多くの市民にとっていちばん切実な貸出サービスで実績をあげることによって、「自信をもって2倍、3倍の図書費を要求しなければならない。」「この要求が市民の要求に裏打ちされたものである限り、必ず実現する」と断言します。その実例として、府中市立、町田市立、七尾市立、高知市立の図書費の推移を紹介しています。

 

 『中小レポート』は、多くの図書館員が参加したフィールドワークと討論によって、日本の公立図書館の惨状とその原因を突き止め、そこから脱却するために何をしなければならないかを説きました。一方、『市民の図書館』は、日野市立図書館を初めとする先進的な公立図書館の実例をまとめて、《やればできる》ことを証明しようとしました。

 この本は、貸出を伸ばすために、児童サービスを拡げるために、図書館網をきずくために、何をどのようにするのがよいか、なぜそうしなければならないか、などを丁寧に説明しています。というわけで、本書は、図書館員にとって理論的な裏付けの書、頼りになるマニュアル、読めば勇気を与えてくれる《バイブルのような本》となったのでした。

 公立図書館の職員たちがおのおの『市民の図書館』を1冊ずつ買って勉強会、研究会を開いた話はたくさんありますし、1960年代後半ごろから全国各地に拡がっていった図書館づくり運動の担い手たちにとっても恰好の参考書となりました。中には、この本をまとめ買いして自分の市の関係者に配った人もいたのでした。

 《バイブルのようだ》というたとえ方が適当かどうかはともかく、『市民の図書館』が1970年代以降の公立図書館の発展に大きく貢献したことは間違いありませんし、『中小レポート』と並ぶ重要な歴史的文献、記念碑的な本となったことも否定のしようがない事実です。

 

公共図書館振興プロジェクトについて

 1968(昭和43)年、日本図書館協会は、『中小都市における公共図書館の運営』刊行以後の公共図書館界の好ましい変化をいっそう進めるために、「公共図書館のすぐれた活動や経験を交流し、その成果をひろく全国に普及し、わが国公共図書館の水準をたかめる」プロジェクトを実施することにしました。(5)

 当時、日図協の実務をとりしきる事務局には叶沢清介(かのうざわ・せいすけ)局長や菅原峻総務部長がいて、日野市立図書館長の恒雄さんは『図書館雑誌』の編集委員に名をつらねるほか、『現代の図書館』の編集委員長をつとめていました。ということで、かねてこの両者とは親しく、とくに菅原氏とは図書館職員養成所の同期生、かつて日図協事務局の同僚という関係でもありました。

 1967(昭和42)年に菅原氏から相談をうけた恒雄さんは、日野市立図書館と、それにつづいた三多摩をはじめとするわずかな点でしかなかった、新しい考え方にもとづく公立図書館を全国に広める必要性を痛感していましたので、渡りに船とばかりプロジェクト案に賛同します。

 

 1968(昭和43)年、『図書館雑誌』7月号の紙上で「公共図書館振興プロジェクト実施要項」が発表されました。2年後の『市民の図書館』刊行へとつながる部分の概要は次のとおりです。

 1.目的は、市区町村の図書館のすぐれた活動や経験をもちよって交流し、その成果をひろく全国に普及する。

 2.プロジェクトの内容は、

 ①プロジェクトへの参加館5館を公募する。

 ②参加館の経験の交流と運営研究のため、3日間の研究会を開催する。

 ③この研究会の報告書を全国の公共図書館に無償配布する。

 ④参加館は昭和44、45年度の具体的な計画を提出する。

 3.参加を希望する図書館は、6項目の条件のうち少なくとも3項目を充たしていなければならない。6項目の条件には、館長の司書資格、司書有資格職員数、人口1人当りの図書購入費、館外貸出登録者の人口に占めるパーセント、運営改善計画などが含まれています。

 

 選ばれた参加館は、上田市立図書館(長野県)、七尾市立図書館(石川県)、日野市立図書館(東京都)、平塚市立図書館(神奈川県)、防府市防府図書館(山口県)の5館でした。

 このプロジェクトで最初に作られた報告書である『市民の図書館:公共図書館振興プロジェクト報告1968』によりますと、「プロジェクトに参加した5つの図書館は、必ずしもすべてが「進んだ図書館」ではな」く、「むしろこの5つの図書館は、さしあたりの目標として多くの図書館にとってより身近かな存在ですらあるだろう」ということでした。

 共同討議は、1968(昭和43)年11月28日から3日間、長野県上田市近郊の塩田町で実施されました。参加者は、参加5館から9名、特別参加者として渡辺進氏(高知市立市民図書館長)、森耕一氏(大阪市天王寺図書館長)、浪江虔(なみえ・けん)氏(私立鶴川図書館長)のほか、建築の専門家である大阪市立大学の栗原嘉一郎氏と中村恭三氏が加わっていました。

 そのほか、オブザーバー2名と日図協事務局の3名を入れますと、総勢19名ということになります。

 討議は、参加5館が事前に提出していた報告書にもとづいて自館の歴史、現状と問題点、将来計画を説明し、その中から次の4つの問題が総括討議に採りあげられました。

 ①公共図書館の第1の仕事である貸出を飛躍的に増大させるための方策。

 ②注力しなければならない児童サービスの位置づけ。

 ③全域サービスの目標設定と分館計画。

 ④職員の専門性の明確化と図書館協会の任務。

 

 けれども、このプロジェクト方式ではインパクトが弱く、新しい運営方法による拠点図書館を全国に広げることがおぼつかないと判断した恒雄さんと菅原氏は、業務の手引きをつくるべく方針を転換します。『移動図書館ひまわり号』によりますと、恒雄さんは次のようなマニュアルにしようと考えました。

 「1.公共図書館の本質から具体的な仕事のしかたまで、一貫した考え方でとおす。

 2.いま何をすべきかを示し、一種の作戦の書にする。

 3.あれこれの方法を概論風に列挙するのではなく、最も優れた方法、手順をはっきりと書く。

 4.読みやすいように、できるだけコンパクトな大きさにし、表現も分りやすくする。」(6)

 できあがった原稿は、「公共図書館振興プロジェクト地域別研究会」(1969年11月に浦和市、12月に山口市)での共同討議と、翌1970年2月のまとめのための討議を経て、『市立図書館の運営:公共図書館振興プロジェクト報告1969』(日本図書館協会、1970年3月25日)として実を結びます。

 その2か月後、この報告書の装いを新たにして刊行されたのが『市民の図書館』でした。変更は、大きさをコンパクトな新書判に、タイトルを短く、でした。

 このように、1968年7月に始まった公共図書館振興プロジェクトは、当初、ゴールを『市民の図書館』の刊行に置いていたのではありませんでした。また、『プロジェクト報告1968』は参加5館の報告が大部分を占めていて、『プロジェクト報告1969』とは内容が全く違います。

 私が恒雄さんの頑張りに感心しますのは、この日図協の公共図書館振興プロジェクトと、前回の当ブログでご紹介した東京都の図書館振興対策プロジェクトとが時期的にかなり重なる部分がありますのに、その重要なメンバーとしてふたつのプロジェクトを成功に導いたことです。

 その間の恒雄さんは、日野市立図書館を順調に成長させつつ、日図協の『図書館雑誌』の編集委員、『現代の図書館』の編集長をもつとめていました。働き盛りの40歳前後とは言え、あるいは、40歳になるかならぬかの若さで、見事な仕事ぶりですね。

 しかも、少し時期をさかのぼって、『中小レポート』を生んだ中小公共図書館運営基準委員会や日野市立図書館の立上げから驚異的な躍進までを含めて考えれば、前川恒雄さんは多くの優秀な図書館員とともに、図書館界におけるこれらの歴史的な事業を成し遂げた人だったのです。

 

参照文献:

(1)『ず・ぼん 10』「朝倉雅彦ロングインタビュー:東京の図書館振興を体現した人」(ポット出版、2004年)

(2)前川恒雄先生古稀記念論集刊行会編『いま、市民の図書館は何をすべきか』(出版ニュース社、2001年)

(3)『市民の図書館』(日本図書館協会、1970年)

(4)『市民の図書館』増補版(日本図書館協会、1976年)

(5)『市民の図書館:公共図書館振興プロジェクト報告1968』(日本図書館協会、1969年)

(6)前川恒雄『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房、1988年)

前川恒雄さんの仕事(3の3)東京都の公立図書館の振興

 1967(昭和42)年4月、美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)氏が東京都知事選挙で勝利し、知事に就任しました。その後、氏は3期12年にわたって知事職をつとめますが、初めは「敵陣に落下傘で降り立つ」覚悟だったということです。と言いますのは、東京都で初めての革新知事であったこと、「都庁の役人は面従腹背と聞いていた」こと、などが理由でした。(1)

 そこで知事は、都庁の幹部職員として外部からつぎつぎと人材を登用します。その中に、都立日比谷図書館長に就任したフランス文学者の杉捷夫(すぎ・としお)氏がいました。杉氏は立教大学教授だったため、1969(昭和44)年1月1日付で就任したときは嘱託館長で、4月から正規・専任の館長となります。

 知事が杉館長に期待したのは、①建設計画ができていた都立中央図書館の体制と運営を確かなものにすること、②都内に小さな図書館をたくさんつくるという知事の公約の実現に協力すること、③文化政策全般について知事にアドバイスをすること、などでした。

 当時、日比谷図書館の庶務課長という立場で杉館長を補佐していた佐藤政孝氏によりますと、杉館長は「都庁の局長以上の幹部で組織する都庁議への出席が求められていました。日比谷図書館長が都庁首脳の会議のメンバーとされること自体極めて異例のこと」だったということです。(2)

 そのような中、1969(昭和44)年10月初めの都庁議で、美濃部知事がいきなり「図書館振興政策について調査研究するプロジェクトチームを発足させたい」という趣旨の発言をします。《いきなり》と言いますのは、杉館長が事前に何も聞いていなかったからでした。そのときの様子を佐藤氏は次のように書いています。

 「杉先生の方がこの知事の突然の発言には驚かれたようで、都庁議から帰られるや私を館長室に呼んで、知事発言の要旨を伝えて下さるとともに、先生は私にこうおっしゃいました。「私の経験ではこの種のプロジェクト研究が成功した例がない。この困難な時期に調査のために労力をさく余裕はない。明日にでも知事にお会いして、図書館プロジェクトの事は断念していただくようお願いしてきます。」」(2)

 けれども、佐藤氏は、知事自身の発言で取り組む政策課題だから、次の条件をととのえれば必ずうまくいくと説明して、杉館長の説得に成功します。

 ①メンバーに図書館の実務家を加える。

 ②プロジェクトの事務局を日比谷図書館で担当する。

 ③検討の過程に直接でなくとも杉館長が関与する。

 そして、杉館長は知事や関係部局と折衝してこれらの条件をすべて実現したのでした。

 この動きを受けて、東京都公立図書館協議会は会長である杉館長を通じて知事との対話を申し入れ、1969(昭和44)年11月28日、対話集会(懇談会)が実現します。出席者は、都庁側と都内の市立・区立図書館側とあわせて41名でした。そこでの美濃部知事は、集会冒頭の発言と、図書館側の説明や訴えに耳を傾けたあとの見解表明とで、次のような内容を述べました。

 ①都政の中では文化政策が非常に遅れている。

 ②本の貸出は図書館にとって中心的任務だが、文化的役割をも演ずるべきである。

 ③図書館を文化センターとし、集会活動の場を提供してもよいのではないか。

 ④「集会所、図書館、保育園、児童公園などを一緒にした福祉会館のようなものを作ることにしてはどうか。」

 ⑤そのためのプロジェクトチームをつくって、体系的な図書館の整備計画案をまとめ、教育委員会の検討を経て成案としたい。(3)

 知事の発案による図書館振興対策プロジェクトチームは、12月3日に発足しました。「企画調整局、総務局、財務局、教育庁などから参事・課長クラスが参加し、図書館関係者は北御門憲一(都立八王子図書館館長)、清水正三中央区京橋図書館館長)、前川恒雄(日野市立図書館館長)、常田正治(都立日比谷図書館副館長)および佐藤政孝(都立日比谷図書館庶務課長)が加わり、16名の委員で構成された。チームリーダーは広田宗三(教育庁社会教育部長)があたり、事務局は都立日比谷図書館庶務課が担った。」(4)

 このプロジェクトチームは、翌1970(昭和45)年4月末までの5か月間で『図書館政策の課題と対策:東京都の公共図書館の振興施策』と題する報告書をまとめ、6月の都民生活会議(都庁の局長会議)で承認されるにいたります。チームの図書館側の中心人物のひとりだった清水正三氏は、後年、これら一連の動きを《電光石火の早業》と表現しました。(5)

 報告書をまとめる過程で目につくのが、幅広い関係者から意見を聴く会の多さです。報告書に掲載されているその種の会合は、次の通りです。

 ①都立日比谷図書館協議会 2回

 ②公立図書館長代表の意見聴取会 2回

 ③図書館専門家の意見を聴く会(5名) 1回

 ④都政モニターの意見をきく会 30名にアンケート+意見聴取会(18名)

 ⑤公立図書館の利用者の意見をきく会 1回(区立・市立から35名)

 ⑥公立図書館職員の意見をきく会 2回(合計65名)

 上記③の「図書館専門家の意見を聴く会」で意見を述べた5名は、国立国会図書館の関口隆克、小田泰正、東洋大学教授の岡田温(おかだ・ならう)、流通経済大学図書館司書長の森博、日本図書館協会事務局の菅原峻(すがわら・たかし)の諸氏でした。この中で、日野市立図書館で講演をしたことがあった小田氏はのちにミスター・ジャパンマーク(Japan MARC)と言われた人、岡田氏は帝国図書館長と図書館短期大学学長の経験者、森氏と菅原氏はプロジェクトチームのメンバーだった清水・前川両氏と親しかった人で、「意見を聴く会」当時、公立図書館で仕事をしていた人はひとりもいません。けれども、これらの専門家の高説は、プロジェクトチーム内の都庁幹部、ひいては対話集会で図書館側の思惑と異なる考えを披歴した知事を翻意させる一助になったのではないかと思われます。

 上記⑤の「利用者の意見をきく会」は1970年2月18日に開かれ、利用者が「こもごも語るひと言ひと言が聞く者の胸を打ち、この日からプロジェクトの空気は一変した。思い切った政策を積極的に立案しよう」ということになったのでした。(6)

 その立案のためにプロジェクトチーム内に小委員会(5名)と専門委員会(3名)がつくられ、清水正三(区立)、前川恒雄(市立)、佐藤政孝(都立)の3氏がともに両委員会に属して何度も会合を開き、立案に従事しました。

 清水、前川、佐藤の3氏が執筆した『図書館政策の課題と対策:東京都の公共図書館の振興施策』と題する67ページからなる報告書のおもな内容は次のとおりです。

 I.図書館の現状と問題

 「東京の図書館は1年間で都民1人当りわずか0.26冊貸出したにすぎない。」

 「東京の図書館は都民1人当りわずかに0.23冊しかもっていない。」「図書の大部分は古くて使えない図書」である。

 「現在の東京の図書館は図書の貧弱さで、都民にあきらめられ、見放されている。」

 「全国の図書館に比べて、東京の図書館の最大の弱点は職員である。」「司書の資格をもった職員はわずかに25%にすぎない。」

 東京都には61の図書館しかなく、大多数の都民は図書館がどこにあるかすら知らない状態であり、東京の大部分は図書館の空白地帯である。

 「三多摩地域には17市、15町村の自治体があるが、図書館をもっているのは7市1町にすぎない。」

 「都立図書館は区市立図書館とあまり変らない活動をしている。」

 II. 都民のための図書館づくり

 1.くらしの中へ図書館を

 「区市立図書館は、都民の求める資料の貸出しと児童へのサービスを当面の最重点施策とする。」「図書館は{略}自主的な集り、集会活動を援助し、このために必要な集会室、資料を提供する。」

2.都民の身近かに図書館を

 「都民の身近かに数多くの図書館を造り、誰でも使えるようにする。」

 「地域の状況により、移動図書館による積極的なサービスを展開する。」

 「都立図書館は区市町村立図書館の活動を、書誌、調査、資料の貸出によって援助することを基本的な機能として運営する。」

 3.図書館に豊富な図書を

 蔵書は多ければよいのではなく、「問題はその新鮮さである。」

 「市区町村立図書館の蔵書は人口1人当り2冊を目標に充実をはかる。この蔵書は最近5カ年間に発行された図書が中心でなければならない。」

 資料の収集、保存、貸出などについて「都内の図書館の協力組織を作りあげなければならない。」

 4.司書を必ず図書館に

 「司書として一生仕事にうちこめる人を採用し、専門職種の一つとして位置づけ、昇格できる制度を確立しなければならない。」

 5.都民に役立つ図書館への道{略}

III. 東京都が果すべき行政課題

 三多摩地域については、区部との格差を是正するため、おおむね次のような措置をとるべきだとしました。

 ①図書館未設置の10市、人口4万人以上の町、開発の進んでいる町、などに対して図書館を設置するよう行政指導を行うこと。

 ②多摩の市町村が新たに図書館を建設するときは、建設費の2分の1を都が補助すること。

 ③既設・新設を問わず、1図書館に対して3年間の期限つきで図書購入費の2分の1を都が補助すること。

 ④青梅、立川、八王子の都立図書館は、市への移譲を進めること。

 区部の図書館振興策としては、おおむね次のような措置をとるべきだとしました。

 ①区の図書館は、運営効率を考慮した地区館、中央館の計画的設置がなされるよう行政指導をすること。

 ②図書館職員の定数基準には問題が多いので、利用状況やサービス活動に即した基準に改定すること。

 ③区立図書館には都の職員が配属されているが、都の職制の中に司書、司書補を設け、区立図書館に司書有資格者を専門的職員として採用できるようにすること。

 ④将来的には、司書職制度を東京都の専門職制度の一環として確立すること。(7)

 1969(昭和44)年12月に『東京都中期計画1970』に盛りこまれた報告書の補助金制度は1971(昭和46)年度から予算化され、都による図書館建設費の補助が1975(昭和50)年度まで、図書費の補助が1976(昭和51)年度までつづけられました。補助金制度が10年計画の途中で打ち切られたのは、都の財政が悪化してしまったからでした。

 結果はどうなったのでしょうか。

 1976(昭和51)年度までに21の自治体が補助を受けて31の図書館を建設し、187の図書館が補助金によって約85万冊の新しい本を買うことができました。この間、都内では、市民による図書館設置運動の盛り上がりなどもあって、補助金を受けずに図書館を建て、蔵書を増やした自治体も少なくありませんでした。その結果、東京都全体として、利用者と貸出冊数が以前とくらべて数倍になり、いちじるしく普及した公立図書館は都民にとって身近な存在になり始めたのでした。

 ◎ところが、『東京都中期計画1970』の図書館にかんする部分は、翌年の『東京都中期計画1971』の中で後退するように書き換えられてしまいます。いきさつは次のとおりです。

 東京都教育庁の社会教育部は、図書館の整備充実のためにできた計画を公民館にまで拡張しようとしました。その理由として考えられるのは、①もともと公民館は図書館とともに社会教育部の守備範囲であること、②美濃部知事が図書館長たちとの対話集会で、市民の集会活動のための文化センターなどに言及していたこと、です。報告書『図書館政策の課題と対策』は市民の集会活動などに触れてはいますけれど、それはあくまでも図書館という枠内での集会活動でした。

 図書館長たちに相談なく書き換えられた1970年版から1971年版への変更は、「市町村立図書館建設補助」が「市町村立図書館・市民集会施設の建設補助」へ、「中心館と地区図書館をあわせて整備」が「都民が文化活動を展開する総合的な市民文化施設として、図書館・市民集会施設を併設する」へ、というものでした。「このように、図書館整備事業であったはずのものに公民館・区民センターが乗っかった格好になってしまった」ということです。(8)

 これに対して、三多摩地区の図書館長たちは恒雄さんを先頭に、当初の計画どおりの施策を行うよう要望書の提出や陳情を繰り返します。就任いらい一貫して都の公立図書館のために尽力してきた杉捷夫日比谷図書館長は、この件にかんしても尽力を惜しまず、都の幹部職員との仲介役をし、時には副知事や局長への陳情に同行しました。『移動図書館ひまわり号』によりますと、ほぼ2年近くの粘りづよい運動の末、「補助金は図書館のために使われることになり、完全ではないが、政策は一応、「課題と対策」の線で実行された」ということです。

 ◎美濃部知事の発案から始まった東京都の公立図書館振興政策には、プロジェクトチームを構成した都庁の幹部職員から、区立・市立の図書館をよく利用していた市民まで、じつに多くの人がかかわりました。日本図書館協会や図書館問題研究会は側面から応援し、図書館を設置していなかった多摩地区の多くの教育長たちは陳情に同行しました。

 ここまで、私は都立日比谷図書館長の杉捷夫氏についてあまり触れませんでした。けれども、杉氏に深く信頼された恒雄さんや日ごろからよく杉氏と接していた佐藤政孝氏は、杉氏が都の教育庁や財政当局との折衝に際していかに苦労したかを、いくつもの事例を挙げて書き残しています。後年の恒雄さんは私のインタビュー(2013.04.19)に答えて、杉捷夫館長について次のように話しました。

 「あのころの図書館史で名前を残す人は何人かいるが、杉先生をはずしてはいけないと思う。図書館振興策をやったのは東京都内だが、全国に大きな影響を与えたのだから。影響のひとつは、滋賀県を含めていくつかの県が図書館振興策をつくったこと、もうひとつはこの一件で社会教育がかなり変わったこと。」ここでは、杉氏の果たした役割の大きさを言外に含めています。

 恒雄さんは文章や講演で杉捷夫氏をかならず《杉先生》と呼んでいました。言及する人すべての敬称を略した『移動図書館ひまわり号』でも、杉氏だけは《杉先生》です。また、尊敬する人を私が尋ねたとき、最初に挙がったのは「有山さんと杉先生」で、「《尊敬》は、ちょっと違う。そんなもんじゃない、それでは足りない」ということでした。そして、「自分は無神論者だけど、死んだらこのお二人とは会えるような気がする。たぶんお二人は褒めてくれるだろうな、と思う」とつけ加えました。

 

参照文献

(1)美濃部亮吉都知事12年』(朝日新聞社、1979年)

(2)佐藤政孝「東京都の図書館政策を実現」(『みんなの図書館』no. 166, 1991.3)

(3)「東京都の図書館政策、その軌跡」(『現代の図書館』v. 10, no. 4, 1972.12)

(4)松尾昇治「東京の公共図書館政策の一考察:1970年代における美濃部都政の図書館政策(1)」(『図書館界』v. 57, no. 6, 2006.3)

(5)清水正三「杉館長の時代」(『みんなの図書館』no. 166, 1991.3)

(6)前川恒雄『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房、1988年)

(7)図書館振興対策プロジェクトチーム『図書館政策の課題と対策:東京都の公共図書館の振興施策』(1970年4月)

(8)松尾昇治「東京の公共図書館政策の一考察:1970年代における美濃部都政の図書館政策(2)」(『図書館界』v. 58, no. 1, 2006.5)

前川恒雄さんの仕事(3の2の2)日野市立図書館の新機軸

 日野市立図書館の出現が日本の図書館界を驚かせたのは、図書館という施設がなかったのに、当時の水準をはるかに超える資料費を得て、移動図書館1台による貸出だけのサービスによって、だれも予想しなかった利用者数と貸出冊数の多さを実現したからでした。しかも、開館当初の物珍しさや熱気による一過性の実績にとどまらず、ほぼ毎年のようにそれらの数値を大幅に伸ばしていったからでした。

 奇跡的と言ってよいほどのその実績は、なぜ成し遂げられたのでしょうか。それを納得するには、よく考えられた戦略や新機軸を知る必要があります。

 

1.奇抜で理にかなった戦略

◎小規模でのスタート

 日野市立図書館の創設は、移動図書館車が1台、蔵書がおよそ3,000冊、職員が6人、サービスを本の貸出に限定、という具合に何もかもが小規模でした。このやり方には、①役所や議員の反感・抵抗が小さく、スタートを切りやすい、②万一失敗しても軌道を修正しやすい、などのメリットがありました。何しろ未だかつてない試みです、小さく産んで大きく育てようとしたのですね。

◎突破口としての本の貸出

 これが有山氏の教えによる《傾斜経営》だということは前回触れました。『移動図書館ひまわり号』には、次のように書かれてています。

 「どんな施策でもそうだが、最初から理想的な図書館を実現することは不可能である。まず最も基本的な、将来の発展の基礎固めとなりうるサービスに、すべての力を集中しなければならない。与えられた予算や人員を一点に投入し、そこからサービスを拡大して、予算や人員の拡大につないでいく。その繰り返しによって、点を面にひろげ、さらに面を立ちあがらせて一個の強固な立体にしてゆく。移動図書館はその一点である。」

 具体的な考え方は、次のようになるでしょう。

 ①本の貸出は図書館の最も基本的かつ最低限のサービスである。

 ②移動図書館の機動力によって多くの市民への貸出を可能にする。

 ③サービスを貸出に限定すれば、予算に占める図書費の割合を大きくできる。

 ④多額の図書費によって新鮮な本を大量に準備できる。

 ⑤多くの人が利用すれば、市民や議員が図書館を支持するようになる。

 ⑥その結果、予算の増額が認められやすくなる。

◎施設も小から大へ

 上記の脈絡は、「中小公共図書館こそ公共図書館の全てである」という『中小レポート』の思い切った断言を、ひとつの小都市である日野市にあてはめたとも考えられます。第1段階は、住民の身近に、施設ではないサービスの拠点(サービスポイントとしての駐車場)を設けます。それはまた、一時的な多額の出費によって市の財政を圧迫することなく、多くの市民を裨益するサービスの浸透によって、少しずつ図書館にかんする費用を捻出しやすくするという戦略でもあります。

 第2段階は、要望の出てきた場所に分館を置いてゆき、最後の第3段階で中央図書館が建てられました。

 

2.多額の資料購入費

 『中小レポート』は、中小図書館のあまりにも少ない資料費を嘆き、「図書館の生命は資料であり、図書館予算の中核は資料費である」と強調し、とぼしい資料費や中途半端な資料費は住民の失望を招くから、そのような図書館はむしろ存在しないほうがましであるとも主張しています。

 図書館を創設するとき、まず中央館を建てるのが常道ではありますけれど、そのためには大きな出費が必要です。そこで、日野市立図書館は初めに中央館も分館も省略しました。というわけで、建設費や大きな建物ではたらく職員の人件費の幾分かを資料購入費に回した勘定になります。

 このように考えれば、ふつうなら創設時に中央館にそろえる数万冊の蔵書を、とりあえず移動図書館用の3,000冊ほどに抑え、数年間は様子を見ながら新しい本を買い足していったのだと分かります。べつの言い方をしますと、創設以降の数年間は、建設費と人件費の幾分かを資料費に回した結果としての《莫大な図書費》であったわけです。

 ところが、移動図書館の利用者数と貸出冊数は事前の想定をはるかに上回りました。ために、新しく大量の本を買いつづけ、その装備と整理をするために連日のように時間外勤務をしなければならなくなり、わずか1年で職員を倍に増やさなければならなくなったのでした。

 

3.本を借りやすくする工夫

◎多くのサービスポイント

 『中小レポート』には「日本のように図書館が市の片隅でヒッソリ存在している状態では、その発展のために“自発的に来館しない大衆”の手元まで本を接近させることが大切である」と書かれています。この指摘にしたがい、日野市立図書館は1965(昭和40)年9月の開館にあたって37か所の移動図書館サービスポイントを用意しました。それは1か月もたたないうちに40か所に、3か月後には47か所に増えました。市内のどこに住んでいても、望む人がいれば「本を接近させ」ようとした結果です。

 その後、つぎつぎと分館ができても移動図書館のサービスポイントは増えつづけ、開館から10年以上経った1978(昭和53)年には、65か所に達していました。すでに砂川雄一氏が第2代館長となっていたころです。

◎登録と貸出にかんする簡単な手続き

 ①日野市立図書館は、本の貸出に必要な登録の手続きを簡略にしました。当時は保証金や保証人を必要とする例はさすがに少なくなっていましたけれど、いくつかある登録手続き方法の中でいちばん簡単な、印鑑さえも要らない方法を採用したのでした。

 ②貸出の手続きとしては、恒雄さんがイギリスで学んだブラウン方式を採用しました。このやり方のよいところは、貸す方にとっても借りる方にとっても時間を節約でき、誰が何を借りたかという記録が他の利用者の目に入らないことです。面倒な手続きがなく、プライバシーが守られれば、安心して借りることができます。

 ただし、貸借のときに時間を節約できるかわり、本を買った後、本にポケットを貼りつけるなど、装備にはそれなりの手間をかけなければなりませんでした。

◎親しみやすい応対

 館長としての恒雄さんは、新任の職員に対して、利用者と接するときの心構えと具体的な言動のあり方について、必ず注意を与えました。たとえば、つねに謙虚であるべきこと、貸出・返却の手続きだけのときでも何かひとこと声をかけること、できるだけ利用者の名前を覚えること、などです。その結果、利用者は歓迎されていると感じ、職員に気軽に要望を伝えたり、ねぎらいの声をかけたりするようになっていったのでした。

 

4.読書意欲に応える工夫

◎貸出冊数の上限を4冊に

 日野市立図書館は貸出冊数の上限を成人4冊、児童2冊とし、小学生以下の幼児は親のカードで借りることにしました。今では驚くほど少ない冊数ですけれど、当時は新機軸といってよいほど多い冊数だったのでした。『移動図書館ひまわり号』には、

 「当時の公共図書館は貸出冊数1冊がふつうで、2冊貸すところはまれだった。日野が4冊まで貸すというニュースは、他の館に一種の衝撃として伝わった。一冊から四冊というのは単なる数字の差ではなく、貸してやる館から借りてもらう館への飛躍、本が少ないから貸せない館から、貸せるだけの本を用意できる館への転換であった。だから、そのころは、貸出冊数を一冊から二冊にするにも、相当の抵抗を覚悟しなければならなかった」とあります。

 また、『中小レポート』にも、「図書は2冊以上貸したい」「2冊までは貸すべきである」との文言があります。

◎需要に応える蔵書:児童書・複本

 日野市立図書館は、上から目線で選んだ《読ませたい本》ではなく、《需要に応える本》をそろえるように心がけていました。とくに児童用の本の需要が多かったことから、全蔵書に占める児童書の割合が最初の数年間45~50パーセントを占め、全国的に見て飛びぬけて大きかったのでした。

 また、利用の集中する児童書やベストセラーになった小説は、ためらうことなく複本を用意しました。ものによっては、数十部の複本をそろえた児童書があったということです。それは、貸出実績を挙げるという功名心によるものではなく、「利用者の要求する図書は万難を排し、提供するよう努める」「要求によっては、充分な複本を用意する」という当初の方針に沿った措置であり、長期間待たせて利用者を失望させないための方策だったのです。

◎リクエストサービス

 リクエストサービスは予約サービスとも言い、ケースとしては、①貸出中の本を読みたいばあい、②図書館に所蔵していない本を読みたいばあい、に行なわれます。

 恒雄さんは、高知市立市民図書館長の渡辺進氏がかかげていた「いつでも、どこでも、だれにでも」本を貸すというスローガンに「何でも」を加えて、日野市立図書館のスローガンとしました。上のケース②のばあいでも、利用者の必要とする資料を万難を排して提供しようとする決意・約束をスローガンの一部としてかかげたわけです。

 「貸出中であろうが蔵書になかろうが予約を受け付け、蔵書になければ買い、それもできなければ他の図書館から借りてでも貸し出すという、本当の意味の予約(リクエスト)サービスを始めたのは、日野が最初であった。」(『移動図書館ひまわり号』)

 恒雄さんは「他の図書館から借りてでも貸し出す」と、あっさり言っていますけれど、初めのうち、貸してくれた図書館はごくわずかでした。国立国会図書館も東京都立日比谷図書館も手続きなどで面倒な条件をつけるため、やむなく、親しい人が勤務している府中市立図書館、中央区立図書館、神奈川県立川崎図書館などに頼んで貸出を受けられるようになり、その後、貸してくれる図書館が少しずつ増えていきました。図書館間の本の貸し借りを相互貸借と言いますが、これを積極的に拡げていったのも、日野市立図書館の新機軸のひとつだということになります。

 この図書館の貸出が急速に増えていった要因のひとつは、リクエストサービスだったということです。リクエストの大部分が新たに本を買うことで解決したからです。

 

5.前川館長のリーダーシップ

◎納得ずくで激務に挑んだ館員たち

 先に触れた渡辺進氏は、日野市立図書館の実地調査を終えて次のように書いています(『図書館雑誌』v. 61, no. 10, 1967.10)。

 「日野市立図書館を訪れてまず感ずることは、その生気に満ちは{た}職場の雰囲気である。そこには、活動している館だけがもっている職場の活気があり、誇りがあり、明るさがある。」

 少なくとも開館後の数年間は激務の連続であったにもかかわらず、前回ご紹介した関千枝子氏による『図書館の誕生』のインタビューに登場する館員は、仕事をする喜びを「充実感がありました」「こんなうれしいことはなかった」「熱気にみちていた」などと話しています。

 これは、利用者である市民のプラスの反応を実感し、仕事の成果が数字でわかり、たびたびマスコミにとりあげられ、館員の志気が向上していったからに違いありませんけれど、その根本には、明確な方針と目標を示してみなを励ましつづけた責任者、恒雄さんの存在があったことを忘れてはならないでしょう。

◎図書館の全職員が移動図書館でサービス

 館長としての恒雄さんは、自分を含めてすべての館員が移動図書館車に乗ってサービスするようにしました。このようなやり方には、次のようなメリットと理由があります。

 ①貸出サービスの大切さを全員に納得させる効果がある。

 ②市民の喜びや感謝の気持ちを全員が肌で感じることができ、モチベーションの向上につながる。

 ③全員が同じ仕事をすることで、連帯感が強まる。

 ④全員が利用者の需要と資料について具体的に知ることができる。この事実は貸出サービス以外の担当業務にも生きてくる。

 ⑤急病などで乗務できない人が出たときに交代要員を確保しやすい。ひとつのサービスポイントで1時間足らずのうちに数百冊を貸し出すこともある移動図書館サービスでは、臨時の交代要員の確保が重要である。

 ⑥誰が利用者と応対しても、ほぼ同質のサービスができるようになる。

◎図書館の全職員が最低ひとつの仕事の責任者

 日野市立図書館の『業務報告 昭和40・41年度』(1967年3月、非売品)は、職員組織の特徴のひとつとして「職員の一人一人がある仕事の責任をもっている」ことを挙げています。その利点は、①各自がいつでも別の仕事を手伝うことができること、②各人が自らを高めようとする意欲をもつこと、だとしています。

 その結果、『業務報告 昭和40・41年度』の執筆は職員全員の分担によって完成し、1973(昭和48)年に建てられた中央図書館の設計案を検討するときも、全館員がグループに分かれて要望をまとめたのでした。

これらには、いちばんよく分かっている現場の職員に任せた意味合いと、各自が歴史に残る仕事の一端を担ったという誇りをもてるように配慮した意味合いとがあると思います。

 

6.『業務報告 昭和40・41年度』

 開館して1年半後の1967(昭和42)年3月、日野市立図書館は『業務報告 昭和40・41年度』を出しました。非売品ではありますけれど、現在は同館のウェブサイトで読むことができます。

 この報告書は、日野市と日野市民への報告であると同時に、全国の図書館関係者への報告にもなっています。「あとがき」に恒雄さんは次のように書いています。

 「図書館界の方々には、私たちの描いた図書館像に異論を唱える方々も多いとは思いますが、ひとつの明確なイメージを執抑{拗}に追い続ける過程としての図書館づくり、図書館サービスの原点から計画した最も単純な方法を全力を注入して実行した傾斜経営の姿を読みとっていただきたいのです。」

 ここにも《訴える人》恒雄さんの面目を見ることができます。図書館運営の方針、その特色、業務ひとつひとつの処理方法の選択と実際、その結果としての成功例と失敗例ないし問題点、統計などを記録し、率直な情報公開によって、この報告を公共図書館界の参考にしてもらおうとしたからです。

 その目論見はみごとにあたりました。たとえば、府中市立図書館の館長補佐だった嵩原安一(たけはら・やすかず)氏は、この異色の『業務報告』について、次のように証言しています。

「新しい図書館活動を模索する他の図書館にとって、貴重な参考書であった。これほど役に立った業務報告書は、今までになかった。そして、これほど情熱的で、心をゆさぶる報告書は、その後もないのではなかろうか。

 試行錯誤をしつつ図書館活動をすすめていたわれわれにとって、日野市立図書館の実践と報告は表裏一体となって、貴重な指針を与えてくれた。」(「日野市立図書館が果たした社会的役割」『図書館雑誌』v. 68, no. 6, 1974.6)

 というわけで、この報告書も、かつてなかった新機軸のひとつだと言ってよいでしょう。

 

7.図書館建築のモデルとなった中央図書館

 日野市立図書館は、開館翌年の1966(昭和41)年6月の高幡図書館を皮切りに、つぎつぎと分館を設置してゆきます。そのほとんどは市の施設の一部を使うかたちの、ごく小規模なものでした。

 念願だった中央図書館が開館したのは1973(昭和48)年4月です。有山市長の死去にともなう1969(昭和44)年の市長選にのぞむとき、当選することになる古谷栄(ふるや・さかえ)氏は中央図書館の建設を公約にかかげていました。ところが、あてにしていた東京都からの建設補助金の雲行きが怪しくなり、市長は4年間の在任中に公約を実現しなければ、と考えます。

 図書館を建てる土地と設計者の選定、建物の広さを決める過程などについて面白いエピソードがいくつもありますけれど、省略します。

 新機軸という点では、次のような事実がありました。

 ①それまでほとんどまたはまったく書かれなかった公共図書館の設計の方針を、恒雄さんが建築計画書というかたちで文章化し、設計をお願いする鬼頭梓(きとう・あずさ)氏に提示したこと。簡単に言えば、どのような図書館をつくりたいかを、かなりくわしく書いたもので、それを土台にして議論がすすめられたのでした。

 ②施設の内容では、閲覧室をつくらず、レファレンス室と職員休憩室、郷土資料や行政資料を提供する市民資料室などをつくったことが、それまでの図書館とは違っていました。

 ③設計をまとめる過程で、恒雄さんを中心とする図書館と鬼頭氏を中心とする設計者とが、熱い議論を重ねました。そのあたりの事情を鬼頭氏が書き残しています。

 まず共同設計者として佐藤仁(さとう・ひとし)氏と山田弘康氏の名前を挙げ、「こうしてこの設計は二氏の能力と情熱に深く負っているのだが、じつはそれ以上に、私たちグループと図書館との、特に前川館長との共同によるところがきわめて大きかった。私たちの仕事は一日移動図書館に同乗し、その活動を身を以って体験するところから始まり、幾日も幾日もの前川館長との討論がそれに続いた。それはさながら真剣勝負にも似て、時に両々相譲らず、議論は深更に及んだ。わたしたちはそれを通じて無数のことを教わった。それは片々たる知識ではなく、先駆者のみの持つ情熱と苦闘の歴史であり、そこから生まれた確乎とした思想と信念であった。だからこの建物の設計者の筆頭には、前川恒雄氏の名前が隠されているのである。」(鬼頭梓「土地と人と建築と」 in『新建築』v. 48, no. 8, 1973.8)

 これはまた、何というすばらしい誉め言葉でしょうか。司書として20年、30年働いたとしても、図書館の新築にかかわる幸運は、めったにありません。恒雄さんは、その数少ない機会をとらえて館員の先頭に立ち、モデルとなるような図書館をつくるべく全力を尽くしたのでした。

 

8.日野市にかんする情報の収集と提供

 『中小レポート』では、郷土資料について、ほとんど利用されない「古記録や近世資料」にかたよった収集をするよりも、「現在の市民生活に直接むすびついた、市民生活に有用な資料がその主力である」としました。

 これを実現するため、日野市立図書館は、開館当初から新聞の切抜きと記事のコピーを取りつづけて郷土資料として蓄積しました。新聞を9紙購読し、日野市にかんする全国紙の記事はコピーをとってファイルし、全国紙の地方版については切り取って保存するというものでした。(『業務報告 昭和40・41年度』)

 また、1973(昭和48)年に開館した中央図書館に市民資料室をもうけ、行政資料を積極的に収集し始め、当然のことながら、市民にも公開・情報提供をしました。これが市庁舎内に移って市政図書室と名称を変え、いっそう本格的なサービスを提供するようになったのが1977(昭和52)年12月のことでした。

 池谷岩夫(いけや・いわお)氏による「日野市立図書館市政図書室の活動」(『図書館雑誌』v. 74, no. 3, 1980.3)によりますと、その様子はおおむね次のようなものでした。

◎基本的性格

 ①サービス対象は、市民、議員、理事者、職員。

 ②位置づけは、日野の郷土資料、行政資料のセンター図書館。

 ③市民への市政情報の公開。

 ④重要な資料は永久保存。

◎市政図書室になるときに集めた資料

 ①東京都および都内市町村の刊行物。

 ②購入資料は、六法、法令解説、行財政関係図書、統計書、福祉や都市問題関係図書。

 ③日野市企画課資料室の所蔵資料のほぼすべて。

 ④各部課が廃棄しようとしていた資料(段ボール箱60箱分)。

◎職員

 1980年現在、職員3名(うち常駐は交替で2名)、臨時職員1名(午後のみ)。

◎所蔵資料

 1980年現在、約20,000点。

◎サービス

 貸出、コピー、レファレンス、『市政調査月報』と『新聞記事速報』の発行。

 レファレンスは月平均約80件。うち、市の職員が約6割。

 『市政調査月報』は1975(昭和50)年7月に創刊した雑誌のコンテンツサービスで、行政関係誌50誌の最新号の目次を印刷製本したもの。配布先は議員、理事者、職員(各課に1~2部)で、要求があれば貸出またはコピーサービス。

 『新聞記事速報』は、「当日の新聞(朝、毎、読、サン、東、日経)の日野市に関する記事、地方行政に関する記事を切り抜き、そのうちから市行政の参考になりそうな記事を編集して台帳に貼り、30部ほどコピーし、部長以上の職員に毎朝直接配布している。各部長は読了後各課長に回覧する。日野市では現在各部課の新聞購入を一部を除いて廃止しているため、この速報は非常に好評である。」

 市民がみずから考えみずから判断する力をつけるためには、必要な情報を手軽に入手できる必要があります。その意味で、公立図書館が住民に対して地域にかんする情報の収集と提供を行なうのは大切なことです。日野市立図書館はそのことをいち早く実行したのでした。

 

9.コンピュータの導入

 日本の図書館における機械化(コンピュータを利用した業務処理)は、1960年代の後半に大学図書館で始まりました。公立図書館では少し遅れて、多摩市立図書館が1977(昭和52)年6月に目録のコンピュータ化に踏み切り、日野市立図書館が同じ年の1月に貸出・返却をコンピュータで処理し始めたのが嚆矢となりました。

 日野のばあいは、2台の移動図書館、6分館、中央館で1日の貸出と返却の平均処理数があわせておよそ8,000件に達していたため、その機械化のメリットを最も期待できるとして、貸出・返却のコンピュータ化を優先したのでした。その結果、「窓口における作業能率を飛躍的に高め、利用者の待ち時間を大幅に短縮すること」ができたということです。

当時の状況とその後の計画は、砂川雄一館長の「本の受け入れから貸し出しまで:電算機が活躍する日野市立図書館」に簡潔にまとめられています(『教育と情報』no. 241, 1978.4)。

前川恒雄さんの仕事(3の2の1)日野市立図書館の躍進

 日野市立図書館は、1965(昭和40)年9月21日、移動図書館ひまわり号で貸出サービスを始めました。図書館と称する建物がなく、事務所(市役所の七生支所2階)と移動図書館車に蔵書が合わせて約3,000冊、職員は6人、サービスは本の貸出だけ、というささやかな出発でした。

 『中小レポート』の責任者だった清水正三氏は、日野市立図書館の開館式で、日本図書館協会を代表して述べた祝辞のなかで、「日野が日本の図書館の歴史を変えるだろう」と期待をこめて予想しました。けれど、後年、「本気で言ったのだが、100%の自信があってのことではなく、20%くらいの不安があった」と書いています(『図書館雑誌』v. 79, no. 6, 1985.6)。

 館長の恒雄さんは、開館2年後に『図書館雑誌』が日野市立図書館のはなばなしい登場を紹介した「これが公共図書館だ」という特集の座談会の席上、本の貸出だけという出発の仕方を「いざとなると理屈でわかっていてもこわかったですね」と言っています(『図書館雑誌』v. 61, no. 10, 1967.10)。

 

 恒雄さんは、転職のために日野市へ行く前に、日図協の有山事務局長から《傾斜経営》とか《重点経営》という考え方を教えられていました。これを日野市立図書館の運営にあてはめますと、最初は、図書館の最も基本的なサービスである個人への本の貸出に徹底的にこだわり、その実績を突破口にしてサービスの間口をひろげつつ、分館や中央館の設置へ結びつける、ということになります。なぜ貸出にこだわったかと言えば、『中小レポート』が「資料提供という機能は、公共図書館にとって本質的、基本的、核心的なものであり、その他の図書館機能のいずれにも優先するものである」という表現で、貸出を大きな柱のひとつと位置づけていたからでした。

 そのため、誕生したばかりの図書館は、①高額の図書費を確保し、②要望のあった場所へはできるかぎりサービスポイントを設け、③本を借りやすくするためのノウハウを注ぎこみました。かわりに断念せざるを得なかったのが、本を読んだり調べものをしたりする場所、利用者用の目録、調べものの相談に応じるレファレンスサービスなど、当時も今も図書館に不可欠とされる要素でした。

 このようなやり方は図書館先進国にも(たぶん)例がなく、『中小レポート』にも触れられていませんでした。というわけで、清水氏や前川館長がかかえていた一抹の不安は、若い館員たちの気勢をそがないために、それぞれの胸の奥に隠されていたのでした。

 

 幸いにも、移動図書館が37か所のサービスポイント(駐車場)を2巡、3巡するうちに、利用者と本の貸出は予想をはるかに上回って伸びてゆきました。物陰から様子をうかがっていた人も、本の貸出が無料だと知らなかった人も、移動図書館車に集まっている人を見て何だろうと思った人も、少しずつ本を借りるようになっていったからです。

 開館から2年半後に出た『業務報告 昭和40・41年度』(日野市立図書館、1967.3、非売品)には、「利用者はいた。駐車場はまたたく間に50カ所を数えるにいたった。利用者増加のテンポは、われわれの資料整理能力をこえんばかりで、当時の資料不足、人手不足がどうしてのりきれたのか、いま考えると不思議な気がする。たった6人(男3・女3)の職員で、翌日貸し出す資料を連日夜業で装備するなど、まさに自転車操業の時代だった」とあります。恒雄さんがイギリスの小さな町で目撃して衝撃をうけた「湧き出るような図書館利用者の群」は、日本の小都市、日野の移動図書館によっても短期間のうちに出現したのでした。

 

 就任間もない有山市長は図書館の自転車操業を放置しませんでした。車の運行開始から1か月あまり経った11月1日には、早くも職員1名が増員され、翌年4月に2名の増員、その後も7月、8月、10月に各1名が増員され、開館から1年で職員は6名から12名に倍増となりました。このような思い切った措置も、前代未聞ではないでしょうか。

 この件について、先にご紹介した座談会に出席していた有山氏は、次のように話しています。

 「僕は市長として、図書館に過重労働を強いてはいけないから、行政的な措置として、それに対応するような態勢をとっていく、これが僕の仕事ですよ。だから僕は市民サービスに必要ならどんどんひろげてください、もしサービスするために人が必要ならまわします。それだけサービスしていればね。ある課の人は変に思う人もありますよ。図書館だけがひろがっているとかね。だけど事実上市民が満足しているとか、そういう事実があるから強いですよ。そういう点で僕は人員増というようなことはあまり気にしないんです。ただあまり図書館の人員増をして図書館が市役所の機構の中で不利になることがありますので、これはできるだけ避けるようにしなければならないわけです。」

 

 1年間で増えた6人の職員の中に、矢野有(やの・たもつ)氏がいました。12人目の職員となった人で、今治市立図書館で児童サービスを担当していたところ、恒雄さんの誘いに応じて日野市へ移って来たのでした。のちに関千枝子氏のインタビューに答えて、矢野氏は次のように話しました(『図書館の誕生:ドキュメント・日野市立図書館の20年』日本図書館協会、1986年)。

 「日野でうれしかったのは、全員が仕事が大好きだったことですよ。みな、夢中で、意欲があって…。そして一騎当千の常識人ばかりだった。司書だけじゃないですよ。尚{たかし}君、植田君、みんなすごくよくやった。庶務の田窪さん。この人が事務能力がありましてね。」

 「とにかく、日本の図書館界を変えよう、と思っていた。熱気にみちていた。みなが思うことをやって、それで和がとれていました。全員が信頼しあっていた…。」

 ちなみに、日野市立図書館の誕生から20年後までを扱ったこの『図書館の誕生』は、多くの関係者にインタビューをして読みやすくまとめられた「日野のなしとげた壮大なロマン」(同書の「あとがき」)のルポルタージュです。

 

 では、具体的な利用状況はどうだったのでしょうか。

 まずサービスポイントについて、見てみましょう。基本方針は、市民が来てほしいと声をあげたところにサービスポイントを置き、求められないところへは行かない、というものでした。実際には、来てほしいという自治会や町内会が相次いだため、次のように増えてゆきました。

 1966(昭和41)年1月、サービスポイントは47に。

 1966(昭和41)年9月(開館1年後)、サービスポイントは55に。移動図書館車を2台に。

 1967(昭和42)年1月、サービスポイントは60に。

 次に登録者数と登録率、貸出冊数を、ふたたび『業務報告 昭和40・41年度』によって見てみますと、

 登録者(昭和42年2月25日現在)は、9,674名(成人6,036名、児童3,638名)。

 登録率(昭和42年2月1日現在の人口75,884名)は、12.6%。

 個人の貸出冊数(昭和41年4月~42年2月の11か月間で)は、201,619冊

 この貸出冊数20万冊あまりという数値(しかも11か月分)は、6大都市を含む全公共図書館のどことくらべても多くて日本一、登録率12.6%も日本一、住民1人当りの年間貸出冊数も日本一で、少なくとも貸出にかんする限り、図書館関係者がびっくり仰天する実績をあげたのでした。

 移動図書館を利用する人の多くは、主婦と子どもでした。主婦は小説と育児書などの実用書を借りることが多かったということです。

 

 以上が、日野市立図書館のスタートダッシュの結果でした。陸上の100メートル競走で、無名の選手がいきなり日本新記録を出したような感じでしょうか。けれども、同館は毎年のように記録を塗り替えて成長してゆきます。

 そして、当初の構想どおり、図書館は分館をつぎつぎに設置し(ただし、初めは分室ほどの狭い併設館)、評判のよい中央館を建て、第2代砂川雄一(すなかわ・ゆういち)館長時代の1980(昭和55)年には、図書館職員39名、登録者45,019人、登録率31.5%、貸出冊数106万冊あまり、住民1人当り年間貸出冊数7.39冊、という状況になっていました。

 中央館が開館した1973(昭和48)年4月以降は、それまで手をつけられずにいたレファレンス・サービス、レコードなど視聴覚資料の貸出、障がい者のための朗読サービス、子どものためのおはなし会などを相次いで始めることができました。

 

 1965年の開館から1980年まで、市の一般会計に占める日野市立図書館の図書館費は1%前後(0.85%~1.33%)で推移しました。

 1969(昭和44)年3月に有山市長が50代の若さで病死し、次期市長選挙に図書館評議会委員長をしていた古谷栄氏が立候補して当選します。『移動図書館ひまわり号』によりますと、古谷氏は選挙演説の中で、「市立図書館は一般会計予算のたった一パーセントしか使っておらず、しかも非常に大きな仕事をしています。私は市役所全体が、図書館のように効率の高い仕事をするようにしたいと思います」と、団地で移動図書館を利用していた人たちに訴えたということです。

 

 日野市立図書館の出現は、はじめのうち、図書館界のかなり多くの人からマイナスに評価されました。さまざまな批判の中でとりわけ手厳しかったのは、「日野市立図書館は、図書館ではない」という指摘だったでしょう。

 どのような心情から発せられたにせよ、開館して数年間の日野市立図書館にかんするかぎり、この指摘には的を射た面がありました。なぜなら、蔵書わずか3,000冊ほどでの開館、利用者用目録なし、閲覧室なし、レファレンス室なし、貸出以外のサービスなし、という《ないない尽くし》だったのですから。

 

 ◎けれども、1年経ち2年経つうちに、日野の貸出がうなぎ上りに増え、ほかの自治体から見学に行けば、嬉々とした利用者と生気に満ちた職員の姿を目の当たりにし、(まじめな見学者は)ていねいな説明を受け、プラスに評価する人が圧倒的に増えていったのでした。

 当時、東京の多摩地方にあった数少ない図書館の中では、府中市、町田市、調布市などの図書館が日野市立に刺激を受け、日野に追いつき追いこせという意気ごみで新たな努力を始めました。東京から遠く離れた置戸町(北海道)、大牟田市(福岡県)、玉名市熊本県)、高知市高知県)などでも、『中小レポート』や日野市立図書館の考え方を採り入れた図書館運営を始めます。

 さらに、日野市立図書館の快進撃は、図書館のなかった自治体の住民による図書館づくり運動に勇気を与え、東村山市(東京都)や松原市大阪府)をはじめ、多くの市や町での運動に拠りどころを提供するかたちとなったのでした。

 

 個人への貸出に資源と努力を集中して突破口をひらくという日野市立図書館のこころみは、結果的に日本の公共図書館を大きく転換させ、前進させ、発展させました。その理由のいくつかはここで触れましたが、次回は成功の要因と考えられる新機軸について触れようと思います。

 それらの新機軸の集合は、こころざし半ばでやまいに倒れた有山崧市長と前川恒雄館長を中心として、知識と知恵を総動員したものでした。その結果、若い図書館員がおしなべて奮い立ち、心をあわせ、生まれたばかりの小さな図書館が稀有の業績を生みだすに至ったのでした。

前川恒雄さんの仕事(3の1)日野市立図書館の開館まで

 日本図書館協会の有山崧(ありやま・たかし)事務局長が出身地の東京都日野市で社会教育委員会議長を委嘱されたのは、1964(昭和39)年の秋のことでした。氏はさっそく社会教育委員会の中に、公民館と図書館の設置にかんする特別委員会を設けます。

 特別委員に選ばれたのは、公民館と図書館の設置に前向きな考えをもっている人たちで、文部省と東京都教育庁から社会教育畑の人がひとりずつと図書館関係者3人の、合計5人でした。

 図書館関係者3人は、①『中小レポート』などを通じて有山氏の信頼が厚かった森博氏、②日野市の近くで若いころから私設図書館をひとりで運営してきた浪江虔(なみえ・けん)氏、③半年ほど前にイギリスから帰国して日本図書館協会の事務局で働いていた恒雄さん、でした。

 特別委員会は、公民館と図書館を新設すべきこと、図書館は中央館と複数の分館からなる組織構成とすべきこと、などを提言しました。

 

 翌1965(昭和40)年3月、恒雄さんは有山局長から日野で図書館づくりをしないかと言われます。有山家が日野市きっての名家であり、有山氏は当時の古谷太郎(ふるや・たろう)日野市長とは気心の知れた仲でありましたから、図書館ができることに不安はありません。けれども、『中小レポート』の示した方向に沿った図書館の運営は、図書館界地方自治体、一般市民の常識とはかけ離れています。よほど上手にやらなければ、公共図書館の発展はおろか、古い体質の図書館の温存につながってしまうでしょう。

 有山氏が恒雄さんを信頼していた以上に、恒雄さんは有山氏の慧眼と実行力を深く信頼していました。日野市の試みはふたりにとって《伸るか反るか》の勝負であり、結果的には『中小レポート』の正しさを証明できるか否かという意味でも《伸るか反るか》の勝負となったのでした。

 

 ◎1965(昭和40)年4月、図書館の開設準備のため、恒雄さんは日野市の教育委員会職員として着任します。準備期間は、移動図書館が走り出す9月下旬まで6か月ありましたけれど、法律的な裏づけとして必須だった図書館設置条例の案と資料費などの予算案が市議会で認められたのが6月、恒雄さんを含めて6人が図書館職員の辞令を受け取ったのが7月1日、というわけで、実質の準備期間は3か月しかなかったのでした。小さな市の図書館とは言え、そのような短期間で開設にこぎつけたのは、前代未聞どころか、その後の展開を考えれば空前絶後でしょうね。

 開設を半年か1年先延ばししないで、なぜそのような無茶をしたかは、次のような理由によると思われます。

 ①3月の市議会に提出された図書館設置条例案が認められず、継続審議になっていたこと。

 ②4月1日、教育委員会職員の辞令を受け取った恒雄さんが、最初に挨拶に行った総務部長から「市は図書館をつくらない。都立図書館を日野市に誘致すればよい」という意味の言葉を放たれたこと。

 ③その後、ひとりの幹部職員が(どういうわけか)恒雄さんの自宅にやってきて、「市長が図書館をつくらないと言っている。条例案も取り下げになる」と言ったこと。

 つまり、議会や市役所の空気が必ずしもかんばしいものではないと感じた恒雄さんは、有山氏と相談して、当初予算とスタートまでの日数がいちばん少なくて済む《移動図書館での出発》という思い切った結論で勝負に出たということです。

 結論の骨子は次のとおりで、現実はそのとおりに推移していきました。

 ・当初のサービスを移動図書館による本の貸出に集中する。

 ・市民の求める本は何でも貸し出す。

 ・市の全域に移動図書館のサービスを行き渡らせる。

 ・成否を左右する図書購入費を充分に確保する。

 

 図書館法はその第10条で「公立図書館の設置に関する事項は、当該図書館を設置する地方公共団体の条例で定めなければならない」と定めています。1965(昭和40)年3月の市議会で継続審議となっていた日野市立図書館の設置条例案が内容的に不十分だと判断した恒雄さんは、案を改めました。図書館が中央館と複数の分館からなること、図書館法施行規則の最低基準を下回ってはならないこと、職員は館長1名、副館長1名、専門職員と事務職員それぞれ若干名からなることなど、元の案になかった項目を加えたのです。

 このような具体的な事項を条例に盛りこみますと、変更するときに市議会の承認を得なければなりません。日野市のばあいは、容易に変更できない重要事項であるという決意表明をしたことになるでしょう。

 予算案では、図書費を500万円としました。市立図書館の図書費は200万円でも多いと思われていた時代ですから、とうぜん財政課は首を縦に振りません。押し問答の末に財政課長が市長と相談しに行き、図書館の他の費目を削ることなく500万円の図書費が認められることになりました。恒雄さんの『移動図書館ひまわり号』には「古谷市長のこの決断が、日野市立図書館の将来を決定した」と書かれています。

 図書館設置条例案と予算案は6月の定例市議会で可決され、いよいよ図書館開設のための具体的な準備に入りました。

 職員は10人を希望して6人、3人(館長前川恒雄、副館長の鈴木喜久一氏、新卒の女性)が司書資格をもち、3人が事務職員でした。鈴木氏は茨城県で村立図書館長をしていて、移動図書館によるサービスの経験のある人でした。

 与えられた事務所は市民集会所兼小学校体育館の控室のひとつで、広さ30㎡ほど、電話なし、湯沸し場なし、トイレなしの小部屋でした。私には《ものすごい冷遇》のように思われますが、そこで若い6人の職員が《ものすごい頑張り》をみせます。

 以下は、6人が3か月間にやり遂げた仕事です。

 (1)本を買う書店の決定

 市内にあった3つの書店に平等に本を発注し、早く確実に納品すれば注文が増えるというやり方は、書店主に歓迎されました。図書館は毎年、大量の本を買ってくれる上に支払いが確実ですから、書店にとってはありがたい上得意というわけです。

 (2)規則づくり

 利用のための規則(運用規則)と仕事を遂行するための規則(処務規則)の案をつくり、教育委員会で承認を得ました。当時の教育長は鹿児島県の教育長を経験した永野林弘(ながの・りんこう)氏で、「永野さんは初めから終いまで自分を信頼してくれた」と恒雄さんは回想しています。

 (3)選書

 時間的な余裕がない中、『選定図書速報』(週刊、日本図書館協会発行)を全職員に回覧して本を選び、館長が決済しました。そのほか、新聞広告などを選書ツールとしたのは言うまでもありません。

 (4)受入れと装備

 納品された本のすべてについて、発注したとおりの本か、汚れや落丁がないか、請求書にあやまりがないかなどを確かめます。そのあと、個々の本について10種類ほどの作業をしますが、煩雑になりますのでここでは省略します。移動図書館によるサービスがスタートするときの蔵書はおよそ3,000冊でしたけれど、この受入れと装備に加えて、選書、分類、目録を3か月でこなすのは、並大抵ではありません。

 『移動図書館ひまわり号』によりますと、「私たちは毎日毎日残業が当り前になっていたが、誰も不平を言わなかった。新しい図書館を作るのだという意気ごみが、図書館のことを全く知らない職員をまで巻きこんで、苦労をもすすんでかってでるような雰囲気が作られていった」ということです。

 (5)分類と目録づくり

 分類と目録づくり、それに目録カードのカードケースへの繰りこみも手間のかかる仕事です。ただし、当初はできるだけ手間をはぶく方法によって繁忙期を乗り切ろうとしました。

分類では、子ども向けの本、小説や文庫本を分類せず、目録カードは、本を購入する書店の費用負担で日本図書館協会から買う方法もとりいれたのでした。

 (6)移動図書館

 移動図書館車は、マイクロバスや小型トラックを改装して使います。そのため、図書館はあらかじめ細かいところまで要望をまとめて改装業者と話し合い、工事が始まってからも時には工場へ足を運ばなければなりません。

 8月末に納品されたマイクロバス改装の移動図書館車は、積載量1,500冊で、車内の書架には絵本やマンガを含む子ども向けの本、車外の書架には成人用の本を積むことにしました。

 車の改装と併行してやるべき大切なことは、巡回場所(駐車場所、サービスポイント)の決定です。恒雄さんは市民が来てほしいというところへ行くと決め、市の広報紙で募集しました。最初に決まったのは37か所、いずれも2週間に1度の訪問、駐車時間は50分としました。

(7)市民へのPR

 市の広報紙をPRに使うのは当然として、移動図書館の巡回日程表や利用案内のビラを町内で回覧してもらい、各種の会合で図書館の利用方法を説明しました。開館前に移動図書館が巡回路を試走したことも少しはPRに役立ったことでしょう。

 

 1965(昭和40)年6月、東京都議会が黒い霧事件で解散したのを機に、関係のなかった日野市出身の古谷栄議員が引退したため、日野市長だった古谷太郎氏が空席をうめる都議選に立候補して当選しました。次は空席となった日野市長選挙ということになり、周囲に推されて立候補した有山崧氏が当選します。日野市立図書館の開設を1か月後にひかえた8月下旬のことでした。

 有山市長の誕生は、恒雄さんにとって思いがけない幸運となりました。ということは日野市立図書館にとって、ひいては日本の公立図書館の発展にとって、同じように思いがけない幸運となったということになります。

前川恒雄さんの仕事(2の3)イギリスでの研修

 日本図書館協会の有山事務局長は、1962(昭和37)年秋にヨーロッパへ出張した際、イギリスの図書館協会およびブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会)と交渉し、日本の若い図書館員を留学させることで大まかな合意をとりつけていました。これが具体化したのが翌63(昭和38)年の梅雨のころでした。

 研修に派遣するのは2名、期間は6か月、往復の旅費は日本図書館協会の負担、先方での滞在費はブリティッシュ・カウンシルの負担、研修生の指導はイギリスの図書館協会の責任、というありがたい条件です。

 派遣する若手の図書館員の人選が大急ぎで行われ、鈴木四郎氏(埼玉県立図書館)と恒雄さんとが選ばれました。鈴木氏は中小公共図書館運営基準委員会に2年目から加わった俊英で、県立図書館に勤務していた関係で、イギリスのカウンティの図書館を中心に学び、恒雄さんは人口3万人から5万人の小都市の図書館で研修することになります。日程と訪問先はあらかじめ英国図書館協会とブリティッシュ・カウンシルが決めておいてくれましたので、ふたりはその計画に従えばよいのでした。期間中、ふたりは同じランカシャー州内で別々に研修し、ときどき会って情報交換をする予定になっていました。

 

 恒雄さんは1963年10月から64年4月までの6か月間、イギリスで研修生活を送りました。出発に先立って『図書館雑誌』の編集委員長をしていた鈴木賢祐(すずき・まさち)氏がひとりで歓送会をしてくれたとき、中華料理店で受けた次のような忠告を恒雄さんは折に触れて思い出しました。

 「中国人は、伸びようとする人がいるとその人を押し上げ、その人とのつながりで自分も伸びようとするが、日本人は、伸びようとする人がいると足を引っぱろうとする。君は図書館界のリーダーになる人だと思う。十分注意するように。」

 温厚な鈴木氏のこのような言葉に恒雄さんは驚きましたけれど、その後、何度も氏の言葉の正しさを思い知らされたのでした。それにしても、鈴木氏も恒雄さんの資質を見抜いていたのですね。

 ちなみに、当時の鈴木氏は東洋大学で教鞭をとっていましたが、図書館関係の職歴が恒雄さんと同じようにとても多彩な人で、その中に上海や満州での図書館員生活が含まれています。

 

 イギリスでの研修生活の第一歩は、マンチェスター近くのスウィントン・アンド・ペンドルベリーという人口45,000人ほどの町でした。そこでの2週間の研修期間中、40がらみの独身者だった図書館長のジェラルド・コットン氏が、自宅の一室を恒雄さんに提供してくれました。

 氏は恒雄さんに、図書館内での仕事、移動図書館車への同乗、市議会、図書館委員会などあらゆる場面に立ち会わせてくれました。イギリスの図書館委員会は、数名の市議会議員によって構成される組織で、館長をはじめとする図書館職員の任免権をもっているほか、図書館の管理運営にかんして館長に協力します。

 また、コットン氏は、勤務時間外や休日に、コンサート、映画鑑賞、サッカー観戦、近隣の人たちのパーティへの出席など、地球の裏側からやってきた若者が少しでもイギリスの文化と言葉に慣れるよう取り計らってくれました。

 後年、恒雄さんは「私の研修留学に実りがあったとすれば、何よりもまずコットン氏のおかげだと思っている」と話していました。それは、異国の進んだやり方を必死に吸収しよとする恒雄さんの心構えが通じたのでしょうし、コットン氏にすれば、イギリスが初めて受け入れた日本人研修生の最初のホストとして、研修制度を成功裡にすすめるよういろいろと配慮したとも言えるでしょう。

 

 ◎次に向かったエクルズ市立図書館の館長ジョン・F・W・ブライアン氏も、恒雄さんの目を開いてくれたという意味で、忘れがたい人になりました。氏はとりわけ日本の図書館の状況を知りたがり、恒雄さんが持参した統計書『日本の図書館』の数字を示しながら説明しますと、その貧しさが信じられないというように頭を左右に振って、たずねました。

 「日本の図書館で、何か自慢できることはありませんか。」

 恒雄さんはかいつまんでPTA母親文庫の話をします。これは、日本の読書運動の中でも高い評価を得ていた活動で、PTAの会員を4人1組として、学校にある本を会員の親子でまわし読みするものです。

 氏は、非難するような口調で言いました。

 「イギリスでそんなことをすれば、母親は子どもが学校から持ってきた本を窓から放り投げるでしょう。」と。

 『中小レポート』は読書運動をかならずしも否定してはいませんでした。イギリスの小さな図書館で、湧き出てくるような利用者の群れを目撃し、ブライアン館長の読書運動を全否定する確信にみちた言葉を聞いて、恒雄さんは日本の図書館の真の姿を理解した気持ちになれたのでした。

 ブライアン氏は日本の図書館にいちばん興味をもってくれた館長で、帰国後のお礼状に対して心のこもった返事をくれ、以後、長く文通することになったということです。

 

 当時のイギリスの公共図書館が日本の公共図書館と大きく異なっていた点を、恒雄さんが帰国後に『図書館雑誌』(58巻~、1964年~)に発表した数回の報告文から読み取ってみますと、ほぼ次のようになるでしょう。

 ①イギリスの図書館界には、利用者が求める資料を徹底的に提供すべきだという共通認識があったと考えられます。さもなければ、以下に示すような事実の説明ができません。

 また、求められた資料を確実に提供するための方策を、広い視野で考えていました。それは、複数の館種がいくつもの分野で協力をしていることから見て取れます。

 ②イギリスではみごとな図書館間の協力体制が整えられていました。その支柱となっているのが全国に張り巡らせた地域図書館システム(Regional Library System)で、10地域(スコットランドを入れて11地域)ごとに公共・大学・専門図書館が参加して、資料の分担保存、総合目録の作成、図書の図書館間貸借を行なっていました。ただし、組織や協力のありかたには地区ごとに個性があって、一様ではなかったということです。

 ③図書館間の協力は資料面でも利用面でも行なわれていました。

 資料面では、各図書館が何らかの分野で収集と保存に責任をもち、大きな図書館は広い分野(たとえば東洋思想)を、小さな図書館は狭い分野(例えば馬)を、担当します。それぞれの館は蔵書を新鮮に保つために古い不要な資料をかかえこまずに廃棄しますけれど、その前にそれを必要としている図書館がないかを確かめる仕組みをつくっていました。方法は次のとおりです。

 ある館が不用図書の払出しをするばあい、(a)その目録カードの裏に「汚れている」「製本済み」などの状態を書きこみ、地域事務局に送る、(b)地域事務局は、該当する分野の収集保存館にそのカードを送る、(c)送られた館は、「必要」「不要」などをカードに書いて、払出しをする館に送る、(d)払出しをする館は該当本を必要とした館に送る。

 利用面では、協定を結んで近隣自治体の住民にも貸出を行なっているほか、図書館間の相互貸借も盛んです。

 ④以上の事柄を可能にしているのが、図書館への専門職(司書と司書館長)の配置だと思われます。イギリスでは図書館協会(Library Association)が司書の認定に責任をもっており、図書館が館長や主任司書を採用するときは、全国から公募するのが一般的でした。

 ⑤このようにして、住民(利用者)と図書館職員とのあいだには信頼関係ができています。なぜなら、図書館には専門職集団がいて、図書館界がこぞって利用者の資料・情報の要求に応えようとし、職員が歓迎の気持ちと姿勢で利用者に接し、貸出の手続きを簡略にし、利用者のプライバシーを守っているからです。

 

 帰国が近づいた1964(昭和39)年3月、恒雄さんは「英国でのお願い2つ」という文章を『図書館雑誌』に送ります。それが掲載された4月号によりますと、要旨は次のとおりです。

 ・渡英直前、ブリティッシュカウンシルは日本の図書館員を研修生として受け入れつづける用意があると聞いた。これは日本の図書館界にとって非常にありがたい提案である。

 ・渡英するまでの自分は、語学力、生活習慣の差、英国人の日本観など、いろいろ心配していたが、今では大きな問題ではなかったと感じている。

 ・読者のみなさんへのお願いの第1は、勤務する図書館の問題解決を真剣に追い求めている人こそ渡英してほしいこと。

 ・お願いの第2は、そのような意欲をもった若者の周囲にいる方々(とくに館長さん)は、その人を励まし助けてほしいこと。

 前川恒雄という人は、キャリアを通じて私利私欲なくアピールする《訴える人》でありつづけましたけれど、この「英国でのお願い2つ」はその例のひとつと言ってよいでしょう。

 

 恒雄さんの帰国から半年ほどたった1964(昭和39)年10月、有山局長がアメリ国務省の招待を受け、夫妻で同国の図書館を2か月にわたって視察しました。氏はこれによって、ヨーロッパの2か国(デンマークとイギリス)に加えてアメリカの図書館をみずからの眼で確かめたことになります。

 すでに『中小レポート』には、日本の公共図書館が惨状から抜け出す道筋が描かれていました。そこで有山氏は、《これが図書館だ》と言える図書館をどこかで始めてもらおうと考え、全国の自治体の市長、議員、教育委員に読んでもらうためのパンフレットを作ります。題して『市立図書館:その機能とあり方』(日本図書館協会、1965年9月)、30ページほどのものでした。イギリスと日本の図書館との大きな違いに気落ちしていた恒雄さんを奮い立たせる意味もあったのでしょうか、氏はこの小冊子の作成を恒雄さんに相談し、手伝わせます。

 挿絵入りの読みやすいものに仕上がったパンフレットを、まとめて大部数注文してくれる市もありましたけれど、積極的に動く市は期待に反して現れませんでした。

 『中小レポート』は多くの図書館員を勇気づけ、『市立図書館:その機能とあり方』は市長や議員、教育委員会の人たちに呼びかけました。それでもどこかが動き始める気配はありません。けれども、《使命感の人》有山局長は、恒雄さんの退職の申し出を思いとどまらせるときに「自分も考えるから」と言ったとおり、次の一手としてある企てを考えていたのでした。

前川恒雄さんの仕事(2の2)8人目の侍(中小公共図書館運営基準委員会)

 敗戦後15年が経っても、日本の公共図書館はまだ低迷したままでした。図書館を設置していた市町村は日本全体のおよそ20パーセント、貸出登録者は全国の人口の1パーセント未満、国民1人当りの年間貸出冊数は0.1冊にも届いていなかったのです。

 1950年代から60年代の初めにかけて、経済的には神武景気岩戸景気と言われた好景気を経験しましたのに、日本の公共図書館は(ごく一部の例外をのぞいて)戦後の焼け野原のような状態だったのでした。

 そこで立ち上がったのが日図協の有山事務局長で、1960(昭和35)年10月、協会に「中小公共図書館運営基準委員会」を設置します。図書館不振の原因は何か、どうすれば図書館が増え、役に立つ図書館になるか、それを調べ、研究し、対策を立てるためでした。この委員会が3年にわたって文部省の補助金を受けて全国の公立図書館の実態を調べ、徹底的な討論を重ねてまとめたのが『中小都市における公共図書館の運営』(日本図書館協会、1963年)(略称:『中小レポート』)でした。

 

 『中小レポート』の「序」によりますと、「この委員会は、わが国図書館界の第一線の若手を総動員したもので、7人の中央委員と49人の地方委員と3人の外国事情調査委員が参加した」ものでした。40代前半の清水正三氏(中央区京橋図書館長)を委員長とする中央委員7人の所属別構成は、区立図書館2人、市立図書館1人、都立・県立図書館3人、国立国会図書館1人で、東京都とその隣接県の大図書館の館員が過半数の4人を占めていました。

 49人の地方委員というのは、調査される図書館の地方(県内または近県)の図書館員から、あらかじめ中央委員たちが選んでおいた人たちのことで、中央委員と一緒に調査にあたりました。

 

 中央委員が初めて顔を合わせた委員会の席上、委員のひとりだった森博氏(大田区立洗足池図書館)が中小公共図書館とはどの範囲の図書館のことか、運営基準という言葉の運営とは何を指し、基準とは数値を指すのか考え方を指すのか、などと舌鋒するどく恒雄さんに迫りました。

 仕事を任せるときに細かいことを指示しないのが常だった有山局長はその場に出席しておらず、事務局から担当者として出ていた恒雄さんも、局長や清水委員長と事前の打合わせをしていなかったため、森委員の詰問に困惑します。

 会議終了後、有山局長に「ほんとに困りました」と報告しますと、「そんなことは、実際の図書館を見ればすぐに分かるよ」と一言で片づけられてしまいます。後年、恒雄さんは、初めに全体像を明確にしようとした森氏の問いかけはもっともだとしつつ、《現実を見ないで議論をしてもしようがない》という意味で、局長の判断が結果的に正しかった、と回想していました。

 

 1961(昭和36)年から委員会による地方図書館の実地調査が本格化します。まずわが国の中小公共図書館の実態を徹底的かつ多角的に捉えるために12の図書館が調査対象となり、それを補足するために、最終的には埼玉県下の14の図書館、および全国各地の45館の調査が追加されました。

 実地調査の原則は次のとおりでした。

 ①調査を行う人は、調査される図書館1館あたり中央委員1名、地方委員(実地調査委員)7名、前川恒雄。調査される図書館では、館長をはじめ主だった館員たちが協力。

 ②日程は3泊4日。

 ③調査対象となったのは、人口が5万人から20万人までの市にある全国各地の評判のよかった図書館。調査の最終年度には10館あまりの県立図書館をも確認調査。

 ④各館での調査内容は、管理、職員、資料費、資料の整理、利用者、サービス、施設など、図書館のほとんどあらゆる側面。

 ⑤調査する項目を中央と地方の委員、恒雄さんが分担し、毎日夕方から各自の報告をもとに議論。

 ⑥調査を終えた各図書館にかんする報告書を中央委員が執筆。

 

 では、調査と報告書作成にあたって、恒雄さんはどのような役割を果たしたのでしょうか。

 簡単に言えば、恒雄さんは、委員会の事務局担当者として裏方の仕事をすると同時に、《8人目の中央委員》の役割を果たしました。裏方の仕事とは、調査に向かう図書館やそこで協力してくれる地方委員との打合せと連絡、宿の手配、会計、事務的な記録などです。

 《8人目の中央委員》というのは、恒雄さんの言葉ではなく、インタビューで具体的な話を聞いた私の思いついた言葉に過ぎません。それは、次のような事実にもとづきます。

 ①同じ日に複数の図書館を調査するばあいを除き、恒雄さんはほとんどすべての調査に同行し、中央委員と同じ活動(調査、討論)をしました。その結果、どの中央委員よりもはるかに多くの図書館を実地調査した人となりました。

 ②『中小レポート』の原稿は7人の中央委員が分担で執筆しました。十分に話し合った上での執筆とはいえ、主張や表現に個性が出るのはやむを得ません。そこで、論理的な齟齬がないように、また、日図協の出版物とするには過激すぎると思われる部分などを(執筆者の了解をえて)書きあらためるなどして整えたのが、清水正三委員長と恒雄さんでした。中央委員でない恒雄さんがその仕事をできたのは、上記①の事情によると思われます。

 

 中央委員は全員が論客で、日本の図書館を何とか発展させようという使命感に燃えていました。したがって、中央委員の互選で委員長となった清水正三氏は、しばしば起こった意見の対立に際して、あいだを取るような疑似まとめをせず、とことん討論させました。

 たとえば、児童サービスを重視すべきか否かは激論を交わすにふさわしいテーマでしたけれど、委員たちが同じ用語を使いながら別の内容を考えているようなばあいもあって、そういうときには話がなかなかかみ合いませんでした。一例をあげれば《館外奉仕》という用語です。これには《資料の貸出》という意味と、読書会活動や移動図書館などの《図書館の外でのサービス》という意味とがあって、最初のうちはかなり時間を浪費してしまったのでした。

 

 そのような事情もあって、最初の会合で用語の定義にこだわった森博氏は、「こんなことで無駄な時間を過ごすのはごめんだ」と、1年間で辞任してしまいます。

 けれども、できあがった『中小レポート』を《金字塔》という言葉を使って評価したのが森氏なら、『中小レポート』の考え方を普及するための研究会に欠席したある地方委員(石塚栄二氏)を「『中小レポート』の普及に協力しなければだめじゃないか」と叱責したのも森氏、そして、『中小レポート』の「はしがき」に「種々ご指導下さった方」4人のひとりとして名前が挙げられたのも森氏でした。

 また、石塚氏は「初日から、分担した調査項目の報告会が夕食後に行われ,各委員の報告に具体的な調査漏れがないか、推定ではなく実際に確認したか、厳しくチェックされた。実態を正確に把握することの大切さを調査員に示し、図書館をめぐる地域状況も含めて捉えよう、という森博さんの姿勢に大変感銘を受けた」と語っています。(『図書館界』v. 69, no. 3, 2017.9)

 

 ついでに、委員会が徹底的に調べようとした実地調査でのエピソードをふたつご紹介します。

 ①ある図書館の貸出冊数の多くが移動図書館によるものとなっていたので、調査員たちが事実を確認するために「移動図書館に同行して実際を見せてほしい」と頼みましたけれど、館長が拒みつづけたために実行できませんでした。

 ②ある図書館の貸出冊数が平均より飛びぬけて多く、中央委員の石井敦氏(神奈川県立川崎図書館)が「どうもおかしい」と言い始め、恒雄さんとふたりで貸出票を数えてみましたところ、案の定、統計の数値と大きな差のあることが分かりました。これについての図書館側の説明は次のとおりでした。

 「貸出冊数は、ある日に貸し出した冊数ではなく、貸出状態にある冊数です。」

 だとすれば、ある人に2冊の本を1週間貸し出せば、2×7=14で、貸出冊数は2冊ではなく、14冊になるということです。

 

 日図協が本腰を入れて各地の図書館の実地調査をしただけでも、図書館界にそれなりの影響を及ぼしたはずですけれど、中小公共図書館運営基準委員会の目的は中小図書館の運営基準を示すことでした。そこで、実地調査と併行して、中央委員は運営基準づくりのためにくりかえし討議をします。東京や近県の安宿に泊り込んでの話合いは、実地調査のときと同じように、たいていは深夜に及びました。

 中央委員は1962(昭和37)年9月から報告原稿の分担執筆にとりかかります。

 おりしも、その年の8月下旬から約50日間、有山事務局長がヨーロッパへ出張し、デンマークとイギリスの図書館活動を視察しました。帰国して数日後、中央委員5人と恒雄さんが局長をかこんで両国の事情について質疑応答をします。デンマークとイギリスは図書館が市民に活用されている点で世界屈指でありましたから、その実状を知ることができたのは、原稿執筆中の委員にとってとても参考になり、大きな刺激にもなったのでした。

 執筆期間およそ7か月のあいだ、中央委員たちは原稿をもちよって2日、3日の合宿形式で議論をかさねます。いつも徹夜かそれに近い形になりますので、宿の仲居さんが「どうせ今日も徹夜になるんでしょ」といいながら、お茶をたっぷり用意してくれるかわり、夜具の用意をしてくれなくなったということです。

 

 『中小レポート』に盛り込まれた内容は、図書館界に大きな衝撃を与えました。当時の常識をくつがえすいくつもの提言が、《挑発》とも受け取れられかねないほどの自信に満ちた断言だったからです。いくつか例を挙げましょう。

 ①「資料提供という機能は、公共図書館にとって本質的、基本的、核心的なものであり、その他の図書館機能のいずれにも優先するものである」とし、《資料》には視聴覚資料を含み、《提供》には館内での閲覧と館外貸出を含むと説明しています。

 当時の図書館界では、《公共図書館は住民を教え導く機関である》という考えが根強く残っていて、多くの公共図書館が貧弱な蔵書と少ない職員体制で読書会運動や学習会などに力を注いでいました。それを否定する提言が、この《資料提供》だったのでした。

 ②大図書館と中小図書館との役割分担にかんしても、思い切った表現を使いました。すなわち、

「われわれは発足当初には予見もしなかった深い感慨を以て、つぎのことをはっきりと認識させられた。

 中小図書館こそ公共図書館の全てである。」

 「彼等{利用者}は実際に借{り}ることのできる一冊の本、生活上の疑問の解決にかけつけることのできる図書館さえ在れば、府県立図書館その他の大図書館については関知する必要はないと言ってよい。」

 では、『中小レポート』は、それまで中小図書館を指導する役割を担っていると考えられてきた府県立図書館の存在理由を、どのように捉え直したのでしょうか。

 ここでも、「大図書館は、中小図書館の後{ろ}楯として必要である」という見出しのもとに、「より大きな図書館は、それが利用者の近くに存在する中小図書館を、何らかの意味で援助し、後援してくれる確証があってこそ、その存在が公共図書館として是認される」としました。

 ③資料費については、人口50,000人の自治体の年間資料費は最低2,628,000円が必要だとして、次のように念を押します。

「これが最低限の額であることを、実地調査の結果確信をもつに至った。」「くり返して強調する、「この額は最低額である」と。」

 この数値は、机上の計算ではなく、国内図書館の綿密な調査、最新のイギリスなどの実態調査、委員による白熱した討論などによって導き出された結論ではありましたけれど、多くの図書館員の心を萎えさせ、反発を招きました。実態とかけ離れて高額だったからです。

 ④図書館の建物については、「土蔵づくりの頑丈な書庫と、環境のよい閲覧室が不可欠の要素と考えられてきた」けれど、「われわれは、本報告をまとめるにあたって、その考え方を根本的に否定した」と断言します。

 ではどうするかと言いますと、「館外奉仕を第一の課題とするために中小図書館の閲覧室は大きな書斎ではなく、短時間の調べ物をしたり、貸{⇒借}りていく図書の下調べをする部屋であると考えたい」と説明しています。

 

 『中小都市における公共図書館の運営』は、1963(昭和38)年3月に日本図書館協会から出版されました。

 日図協の機関誌である『図書館雑誌』はその年の6月号に、①有山事務局長が聞き手となって、3人の中央委員と恒雄さんが調査と報告書作成をめぐるざっくばらんに語る座談会、②恒雄さんによる『中小レポート』の内容解説、を掲載しました。その座談会の中で、清水委員長は『中小レポート』を「おおいにたたいてもらったらいい」と発言し、恒雄さんは解説の最後で、『中小レポート』が「あらゆる角度から批判され、討議されることによってより正しいより包括的なものになるであろう」と結んでいます。

 一般に、主張や立論が革新的であればあるほど、批判や反論の声が多く強くなります。革新的な主張は、伝統的な考え方を信じている人たちへの一種の異議申し立てだからです。委員たちの期待どおりと言うべきでしょうか、「読みながら体が震えた」ほど感動した人がいた一方で、『中小レポート』はさまざまに批判され、反論されます。それらの批判や反論には、報告書の革新的な主張を退けようとする例だけでなく、散見される大小の欠点に由来する例もありました。

 

 けれども、有山事務局長は、上にご紹介した座談会の終り近くで、次のように発言しています。

 「この報告書をテコにして図書館界の考え方が変わってくれればいいと思うんですけれども、それをどういうふうにして実現していくか……。」

 この発言に対して出席者はその場で誰も反応しませんでしたけれど、有山氏は次の一手に思いをはせていました。その思いは、数年後に日野市立図書館の誕生と躍進というかたちで現実のものとなり始めます。

 このようにして、全体として沈滞していた日本の公共図書館は、『中小レポート』が示した方向へ1960年代後半から急角度で転換し始め、地域住民に親しまれ、よく利用される図書館へと変貌していったのでした。この報告書が半世紀以上にわたって読み継がれてきた歴史的文書となったゆえんです。

 

 この委員会の活動には、次のような副次的な効用がありました。

 ①中央委員たちでさえ予想していなかった中小図書館の実態がつまびらかになり、その事実を図書館界が共有できたこと。

 ②調査にたずさわった中央と地方の委員たちにとって、よい勉強になったこと。

 とくに、中央委員と事務局担当の恒雄さんにとって、調査と討論、報告書作成などの一連の活動は、フィールドワーク、ゼミ形式の白熱討論、論文執筆を3年間にわたって共同で行なったようなものです。そこには指導教授役がいませんから、情熱と意気込みに溢れた選りすぐりの人たちが互いに鍛えあったということになるでしょう。

 中央委員の石井敦氏は先にご紹介した座談会で、「こんなにいい勉強になった仕事はない」という感想をもらし、恒雄さんは「日本の公共図書館の実態が肌で分かったこと、明確な意見の交換によって人を説得するすべを学んだこと、このふたつが、その後の私にとって財産になった」と話していました。