図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(4の2)滋賀県立図書館の再生(2)

 恒雄さんは1980(昭和55)年7月1日に滋賀県立図書館長に就任しました。あと数か月で50歳、図書館関係のほかに市役所の中枢でも経験と実績を積み、さまざまな機会に新たな知友を得ることができました。日野市の元市長だった古谷太郎氏に別れの挨拶に行きますと、「君は琵琶湖の龍になる」とフライング気味の励ましの言葉をかけられて、四高(第四高等学校)の漢文教授だった赤井直好氏が授業中に呼びかけた、次のような戒めの言葉を想い出します。

 「君たちはいずれ指導者になると思いますが、指導者にとっていちばん大事なのは廉恥心をもちつづけることです。」『広辞苑』によりますと、廉恥心とは「心が清らかで、恥を知る心のあること」です。

 話は横道にそれますけれど、恒雄さんの記憶によれば、赤井教授は和服で授業にのぞみ、風呂敷にテキストの『孟子』とその他の資料を包み、ページの代りに「枚」という語を使うなど英語を避ける傾向があり、代返の多いクラスにもかかわらずその件について苦言は洩らさなかったということです。

 私の記憶によりますと、若いころの恒雄さんは風呂敷包みを小脇に抱え、風采などを気にしない様子で飄々と歩いていました。また、『孟子』にある君子三楽の、「仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは、二楽なり」をモットーのように話したこともありましたから、ひょっとすると恒雄さんは赤井教授にあこがれていたのかも知れません。

 

 県立図書館がほんらいの役割をまっとうするには、県の図書館界がふたつの条件を満たしている必要があります。ひとつは、県立図書館の足腰が強く、運営の進路がしかるべき方向に向いていること、もうひとつは、市町村に図書館が普及していることです。恒雄さんが滋賀県立図書館長に就任したとき、いずれの条件も不十分でした。どちらか一方を先に手がけていては時間がかかりすぎますので、両方を同時に進める必要がありました。

 今回は、そのうちの滋賀県立図書館の再生についてご説明します。

 

職員の成長と結束を図る

 図書館の建物は完工直後でピカピカではありましたけれど、新任館長は着任前に短時間の検分をしただけで、無駄な空間の多いことや使いにくさに気づきました。建物以外でも、蔵書の質と量、サービスの種類と力点の置き方、利用状況など、いずれにも問題があります。

 問題に対処するのは職員です。恒雄さんは、基本的な方針について機会をとらえては職員に《かくあるべし》を話すだけでなく、日野市立図書館でのみずからの成功体験を援用することで、滋賀県でも職員の意識改革に成功しました。方法は、①みんなで考える、②みんなで同じ仕事に取り組む、③館長がカウンターに出て範を示す、の3つです。

 いくつかの例を挙げてみましょう。

 ①予算案をつくるとき、恒雄さんは全職員に予算書のコピーを配布し、必要だと思われる経費を考えた者が、それを書いて提出するよう指示しました。すると、最初は副館長と総務課長が、「私たちはいったい何をするのでしょう」と言ってきます。返答の要旨は次のとおりでした。

 「必要な経費は仕事をしている者がわかっていますから、彼らの考えをまず聞いてから案を作るべきです。副館長や総務課長は、できた予算案をできるだけ獲得するため、また決定した予算を現場の職員が使いやすいように執行するために頑張ってください。」

 ②利用規則やマニュアルの改正作業にもすべての館員が参加することになりました。その結果、貸出カードの有効期限を3年に延長し、貸出冊数を5冊に増やし、期間を3週間に延ばすことになりました。また、市町村立図書館への貸出を「協力貸出」として規則に盛り込み、日曜日の開館を隔週から毎週に変更するときも同じ手順を踏んだのでした。

 このようなやり方によって、普段は立場や職務の違いから意見の交換などをあまりしない人たちが、会議での討論などをつうじて意思を確かめ合い、課題について共通認識をもつようになります。図書館という職場にだけ有効なやり方ではありませんね。

 滋賀県立図書館では1981(昭和56)年5月から県内の公共図書館支援のための協力車を運行し始めました。協力車とは、都道府県立図書館が管内の市町村立図書館の資料要求に応えるために、一定期間ごとに巡回する車のことで、「連絡車」「配本車」など別の言い方をするところもあります。巡回に際しては、資料のやりとりだけでなく、書類の受け渡しや顔をあわせての情報交換も大切で、協力車の運行が県内図書館のネットワークを活性化させます。

 運行を始めるにあたり、恒雄さんは職員会議で次のような方針を示しました。

 1.係長以上の職員全員が交替で同乗すること

 2.行き先の図書館長に会い、問題の有無や援助してほしいことを聞くこと

 3.それを職員会議で報告して、全職員で何をすべきかを考えること

 これに対して、奉仕課以外の部署から「担当でない者は行かなくてもよいのではないか」という意見が出ます。

 この当然とも思える疑問に対する恒雄さんの返答は、「県内の図書館に対する援助は県立図書館全体の任務なのだから、全員が担当すべきなのです」というものでした。

 館長の方がやや強引な感じではありますけれど、県立にとっても市町村立にとっても、とりわけ意思疎通の面で、結果的にはこの方針が正しかったようです。

 ③県立レベルの図書館では、館長がカウンターへ出なくても困らない職員体制をもっているのが普通ですけれど、恒雄さんはあえてサービスの最前線に立つようにしました。カウンターで利用者と触れ合う仕事の大切さと、その際のあるべき態度について範を示すのが目的で、後に「何より効果があったと思う」と話していました。

 

 ◎神戸市立図書館の伊藤昭治氏も出席していたある座談会で、恒雄さんは次のように話します。

 「私がこちら{滋賀県立}に来て、伊藤{昭治}さんの最初の反応は「滋賀県立に電話をかけたら職員の応対が変わった。館長が代わるとあそこまで変わるのか」と言ってくれたんです。これは私のせいではなく職員のせいなんですけれどもね。」(1)

 ただ、新館の見学者への応対が増え、県内市町村の図書館が増えるにつれて、恒雄さんがカウンターへ出る機会は減っていきました。奉仕課の中島千恵子課長が率先してカウンターで範を示してくれていたので、案ずる必要がなかったのでした。

 

 ある年、図書館外の職場で課長補佐を経験した人が昇格人事で図書館に配属されてきました。課長補佐時代には、挨拶をしても横を向いたまま「フン」という感じだったので、恒雄さんは内心「困ったな」と思っていましたところ、彼の態度が少しずつ変わってきて、「図書館の仕事が気に入った。嬉しくてしようがない」ということで、あちこちで図書館の良さを吹聴し始めます。あげくの果てに「図書館には毎日たくさんの利用者が来るのに、隣にある美術館はどうして入館者が少ないのか」と、美術館長を詰問するほどになったのでした。(録音20130503)

 

蔵書を豊かにする

 改善しなければならない問題のひとつが蔵書でした。着任後に時間をかけて調べていった恒雄さんの目には、蔵書がアンバランスに映りました。未刊の回想『思い出から』には次のように書かれています。

 「蔵書はアンバランスで、漢文の書物と戦記物が多く、歴史の分野では日本の歴史と外国の歴史にはひどい差があり、フランス革命の本が一冊もないなど、外国の歴史があまりにも貧弱だった。料理や子育てなど、家事の本はほとんどなかった。全体として安い本が多く、なぜそうなったかは聞かなくても解った。前任の館長は漢文の先生、前の副館長は戦記物が大好き、職員数人は日本史を専攻していた。」

 足りない部分を補うためにまず参考にしたのは、加藤周一編『読書案内』(上下、朝日新聞社、1976~77年)という基本図書の解説つきリストでした。ほかにも、現存する作家、読み継がれている過去の作家の著作などを充実させていきました。

 館長になった翌年、恒雄さんは武村知事に資料費の増額を直訴します。

 「図書費は今までとても少なくて蔵書が貧弱です。だから県内の図書館や県民から要求されたら、よその県立に頭を下げて借りなければなりません。こんなことは私が館長の代で終わらせてください。」

 知事は「わかった」と一言。

 それから毎年、図書費は増加の一途をたどり、1987(昭和62)年から「図書資料整備五カ年計画」を始めた事情もあって、計画初年度の資料費は1億円を超えました。

 やがて滋賀県立図書館は、特色のある資料群を構築し始めることができるようになり、《近畿の水がめ》を擁する滋賀県らしく水にかんする資料を収集し、県内に多かった熱心な児童書研究者と市町村立図書館の要望にこたえるために、国内で刊行される児童書の全点購入にも手をつけることができたのでした。

 

サービスを利用者本位にする

 もうひとつ改善しなければならなかったのは、広い意味でのサービスについてでした。

 恒雄さんが館長として着任したとき、県民が県立図書館で貸出登録をしようとすれば、貸出利用願に必要事項を記入して捺印しなければなりませんでした。「いろいろな関門をいとわない利用者が本当の利用者だ」という理由だったそうですけれど、公立図書館に関門はそぐわないということで、これは廃止することにしました。

 貸出の冊数を多くし、期間を長くしたことは、先に触れた通りです。

 館内の模様替えでは、2階の開架室のスペースの配分を変えました。この部屋の3分の2を書架が占め、3分の1を閲覧机が占めていたのを、恒雄さんはその閲覧机を撤去して書架のスペースにし、閲覧机を史料室に移させます。利用者が自由に本を手に取れる開架の閲覧室から机をなくしたのですね。そして、この件は県議会で問題になりかねないと思った恒雄さんは、武村知事に説明に行きました。知事は了解してくれたものの、「東大の図書館に武村の席があるくらいよく利用した。あれはいいもんだよな」と言ったのでした。

 閲覧室に机を置くか否かという問題について、私は恒雄さんに(おもに手紙で一般論として)「置くべきだ」という考えとその理由を何度も伝えました。「何度も伝えた」ということは、「一度も同意されなかった」ということです。

 サービスの改善で忘れてならないのは、先に触れました市町村立図書館を巡回する協力車の運行です。県立図書館の最大の存在理由は市町村図書館の支援だと考えていた恒雄さんは、協力車の運行を大切にしました。1981(昭和56)年の開始時は対象となる図書館が少なく、運転手が移動図書館の運転を兼務していたこともあって、協力車の運行は月に1回だけでした。

 恒雄さんはしばしば協力車に同乗し、市と町の図書館の実情を知ると同時に、県立の考えを伝えて館長たちの警戒感をやわらげるよう努めました。県の公共図書館のネットワークづくりの基本を実践したのですね。『思い出から』には、次のように書かれています。

 「館長たちは喜んでくれ、県立図書館に対する要望はもちろん、それぞれの図書館で起きた問題を話し合って、時間の経つのが早く、ふりきって次の館に向かうこともしばしばだった。」

 協力車は1983(昭和58)年4月から県内の全図書館を週に1回巡回することになります。その代わり、県内を回っていた2台の移動図書館車を1982(昭和57)年と1984(昭和59)年に廃止しました。理由は次の3点です。

 ①県立図書館の移動図書館サービスが市町村立図書館新設の意欲をそぐ恐れがあること。

 ②県立図書館の移動図書館がほとんど利用されていないと思われたこと。

 ③協力車運行のための予算獲得には、移動図書館の廃止が得策であること。

 移動図書館サービスの廃止については、県会議員や元県立図書館長から疑義が寄せられましたけれど、このサービスを受けていた市町村からは反応がありませんでした。利用が少なかったことに加えて、市町村の図書館設置に対する県の助成情報が多くの自治体に浸透し、「自分たちも頑張らなければ」という機運が高まっていたからでしょう。

 

 協力車の運行を始めてしばらく経ったころ、恒雄さんは県内の市町立図書館にひとつの提案(というかお願い)をします。利用者が県立図書館で借りた本の返却を市町立でも受けつけてもらえないか、という内容です。

 提案の場は、滋賀県公共図書館協議会の理事会でした。理事会には県内の公共図書館長が出席することになっており、ここで重要事項を相談し決定します。ところが、「県立図書館のこの提案は理事会の席上で即座に否決」されてしまいます。まだ市町立の館長さんたちには県立に対する警戒感があったというのが恒雄さんの感想でした。けれどもその翌年の理事会では、ある館長から「県立図書館の本の返却の受付は、やってやることにしようか」という発言があり、さっそく実施されることになりました。」(2)『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』の「滋賀県図書館関係年表」によりますと、1982(昭和57)年11月から「滋賀県立図書館の図書返却が、県内公共図書館の全館で可能になる」とあります。

 ちなみに、県立図書館が協力車を走らせて、県内の公立図書館が相互貸借した本の受け渡しを日本で初めて実現したのは、次の証言にありますように、富山県でした。

 「昭和 45(1970)年、相互貸借資料の搬送も併せ担う連絡車の巡回を開始した。これは、県内館の所蔵情報を一括して管理・調査できるカード体総合目録の供用と連動した、先駆的・画期的な取組みであった。また、連絡車には定期的に県立館司書が添乗し(注:現在は廃止)、巡回先の担当者と「顔の見えるやり取り」を行い、実際的・実効的な支援につながるよう努めた。」(3)

 このサービスを実施している都道府県立図書館のほとんどは2005年以降に始めており、1982年に始めた滋賀県立図書館は日本で2番目に早かったのではないかと思われます。

 協力車が運んだ資料は、県立⇔市町立間だけでなく、市町立⇔市町立、他府県⇨県立⇨市町立もありました。この県立レベルの図書館間貸出を実現するため、恒雄さんは近畿地方の府県立と指定都市立の図書館を訪ねて協力貸出をお願いしました。そのとき、京都府立図書館だけが「府内の図書館にも貸していない」という理由で協力してくれませんでしたが、数年後に貸してくれるようになりました。逆に、貸してくれていた図書館が、館長が交代したとたんに雲行きがあやしくなり、とうとう貸してくれなくなった例もあったということです。

 

県立レベルの図書館で初めてコンピュータを導入する

 滋賀県立図書館では、新館を建てるとき、将来に備えてコンピュータ室を設け、ケーブル配線の準備もしていました。新館が開館して1年ほど経ちますと、貸出・返却・予約の処理が急増し始め、入館者の多い土曜・日曜のカウンターでの作業は目の回るような忙しさになってきました。職員を増やすのは簡単ではありませんし、職員増には県立図書館にとってのメリットしかありません。そこで、市町村立図書館に対する協力業務の拡充を視野に入れた、コンピュータの導入を検討することになりました。

 動いたのは、3年前にできたまま休業状態だったコンピュータ導入検討チームで、1983(昭和58)年のことでした。この件についてあらかじめ説明を受けた武村知事は、資料費の思い切った増額のばあいと同じように、快諾します。

 結果、電算機導入の目的は次のように決まりました。

 第1の目的は、「県立図書館に収集・蓄積されている資料に関するすべての情報が、市町村の図書館のカウンターを通してあらゆる市民に公開」されること。

 第2の目的は、要求された資料の迅速かつ正確な提供を図ること。(4)

 具体的には、まず県立図書館にとって、機械処理可能業務のほとんどすべて(発注・受入・支払い、目録作成、貸出・返却・予約処理など)に適用するトータルシステムとすることです。

 コンピュータの導入が正式に決まったのは1984(昭和59)年3月、システムが稼働し始めたのは1年後の1985(昭和60)年4月でした。システム開発会社(NEC)との打合せ、テストデータを使っての確認、35万冊近くになっていた蔵書へのバーコード貼付、カード目録からオンライン目録への変換など、稼働までの準備作業を1年間でやり遂げたことになります。「1年間でやり遂げた」と書きましたのは、その仕事量が膨大だからです。

 次に、全県域を強く意識して、日本の出版情報を県立および市町村立の図書館で検索できるようにしました。東販のゼロMARC(マーク、直訳すれば機械可読目録)と図書館流通センターのTRC-MARCを県立図書館のサーバーに蓄積し、それを市町村立図書館でも検索できるようにしたのでした。この2種類のMARCによって日本の新刊情報がわかるようにしようということです。

 都道府県立図書館でコンピュータを本格的に導入したのは、滋賀県立図書館が初めてでした。中でも、出版情報を県内のどの図書館でも検索できるようにしたのは、滋賀県のひとつの特徴となりました。もうひとつ、複数の全国紙・地方紙に掲載された滋賀県と県内の市町村にかんする新聞記事の索引をデータベース化し、県内のどこからでも検索できるようにしたことも、特徴と言えるでしょう。この索引は1983(昭和58)年4月から直近までの記事の見出しを対象にして、今でも県立図書館のウェブサイトで検索ができるようになっています。

 

県立レベルの図書館で初めての資料保存センターをつくる

 図書館を新設するとき、とうぜん蔵書が増えつづけることを念頭において設計しますけれど、10年経ち20年経ちますと、多くの図書館が書庫問題に頭を悩ませるようになります。このような状態になるには用地や建設費用などいくつかの理由がありますので、一概に計画を立てた人たちの責めに帰することはできませんけれど、できれば書庫の増築(拡張)に含みをもたせておくべきだと思います。

 滋賀県立図書館のばあい、1980(昭和55)年の新館開館のときに、図書の収容能力を開架12万冊、閉架書庫36.5万冊と見込んでいました。合計48.5万冊です。

 ところが、8年後の1988(昭和63)年、実際の蔵書冊数は40.2万冊で、数字の上では8万冊の余裕がありそうに思われますのに、「書庫内の書架から溢れた図書が通路に横積みされはじめるという切迫した段階になっていました。」(5)

 いくつかの案を検討した結果、滋賀県立図書館は地下に17億円をかけて書庫を作ることになり、合わせて館内の模様替え工事の予算も認められました。収容冊数100万冊、工事は1989(平成元)年12月から2年をかけて1991(平成3)年12月に完工しました。

 

 この書庫は、県立図書館の資料を収蔵するだけでなく、県内の市町村立図書館が毎年要らなくなった資料を廃棄するとき、いったんこの書庫であずかり、県立図書館にもないものを県全体で共有する共同書庫、名づけて「資料保存センター」としての役割をもたせることになりました。「昨年{1992年}すでに2万点近い除籍図書や寄贈図書が持ち込まれ、そのうち約6,000点の資料を県立の蔵書として受け入れている。古い資料の少ない県立図書館にとって、この制度は、極めて有益であると考えている」(6)ということです。

 このセンターは県立レベルでは日本初のもので、県内公共図書館の蔵書全体を豊かにし、利用されなくなった資料がのちのち活用される余地を残し、資源のムダを少しでも減らすという意味があります。恒雄さんはこの書庫が完成する年の3月に定年で退職しましたので、資料保存センターは置き土産のような形になりました。

 

知事との信頼関係を築く

 見てきたとおり、滋賀県立図書館は10年間で《再生》と表現してもよい段階にまで改革が進み、以降もその勢いがつづきました。その根底にあったのは、武村正義知事とそのあとを継いだ稲葉稔知事の文化行政に対する熱意、県の教育委員会の力強い支え、県立図書館職員の成長と努力でした。

 武村知事は1986(昭和61)年7月に国政に進出するまで、滋賀県内の図書館の発展を教育委員会と県立図書館に委ねました。信頼して任せたのですね。それを彷彿させるひとつのエピソードをご紹介します。

 「武村知事から「知事として読んでおいたらいい本を毎月三冊言ってくれ」と頼まれました。これには困りました。三冊推薦するのに三冊だけ読めばいいわけではない。大変でした。それに推薦する本や著者を通して私の考え方も知事に分かりますしね。知事室にうかがうと、机の上に推薦した本がちゃんと置いてあって、「読んでいらっしゃいますか」と聞くと、「いやー、全部は読めないけど、表紙を見るだけでも勉強だよ」と、知事はおっしゃっていました。忘れられない思い出です。」(7)

 「参考になりそうな本があったら、教えてください」という程度であればともかく、「知事として読んでおいたらいい本」を「毎月三冊」と言われれば、誰でも困るでしょうね。でも恒雄さんは、自分を信頼して招いてくれた人への恩返しのつもりだったのか、必ず目を通して納得した社会科学系の本を推薦しつづけたのでした。

 

 稲葉知事も、総務部長時代から県立図書館に関心を寄せていて、以降、副知事時代を含めて一貫して恒雄さんの図書館再生を支援してくれました。県立図書館に地下書庫と館内の模様替えの予算を同じ年度に要求したとき、稲葉知事の「図書館長の言うとおりにしなさい」という指示で庁内の了承が得られたのでした。

 未刊の回想『思い出から』に書かれているエピソードをご紹介します。

 あるとき、稲葉知事が全庁への訓示の中で県立図書館の活動を褒め、全庁が図書館のように働くようにと話してくれました。恒雄さんは、とても嬉しかった半面、やきもちを焼かれるのではないかと心配した、ということです。

 また、ときどき知事公舎へ呼ばれて相談を持ちかけられたことや、知事が恒雄さんを、「他に替えがたい場合」という人事の例外規則を適用して、定年後も(非常勤嘱託ではなく正規・専任の職員として)現職にとどめるつもりだったこと、などが書かれています。

 

統計数値に見る滋賀県立図書館の10年

 前川恒雄館長時代の10年間に滋賀県立図書館は数値的にどのように変わったでしょうか。以下の統計数値は、左が1980(昭和55)年度、右が1990(平成2)年度のものです。

 ①専任職員数(司書・司書補+その他) 17+11 ⇒ 22+6

  司書・司書補の割合  60.7% ⇒ 78.6%

 ②蔵書冊数  231,290 ⇨ 443,034

  年間受入冊数  14,560 ⇒ 40,749

 ③登録者数(年度の新規登録者数)  5,997 ⇒ 9,948

 ④個人貸出冊数  53,687 ⇒ 553,756

  協力貸出冊数  37 ⇒ 17,365

 専任職員数に変化はありませんけれど、司書・司書補の割合が高くなっています。一般職の退職や異動に際して、専門職を増やしていったということですね。

 蔵書冊数は約2倍に増え、年間受入冊数も2.8倍になりました。

 登録者数は、年度内の新たな登録者数だけが統計表に掲載されているため、前年度、前々年度から継続して利用している全登録者数は不明です。

 貸出では、個人への貸出が10倍以上に増え、県内公共図書館への貸出は無に等しいほど少なかったものが、市や町の図書館新設と県立の協力車の巡回などによって、順調に増えています。

 

 ここでは、県立図書館が廃止したサービス、中国の湖南省立図書館との交流、日本図書館協会の理事長選挙、図書館事業振興法(案)など、恒雄さんがかかわったのに触れなかったテーマがたくさんあります。それらについては、田井郁久雄氏による『前川恒雄と滋賀県立図書館の時代』(出版ニュース社、2018年)に詳しく書かれています。

 

参照文献:

(1)「座談会:基本のところを歩んで」in『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(2)岸本岳文「図書館の本は図書館で返せます」(『みんなの図書館』no. 214, 1995.2)

(3)小林秀哉「頼りになる「図書館のための図書館」であり続ける」(『ライブラリィとやま』no. 93, 2020.3.13)

(4)滋賀県立図書館・日本電気株式会社「コンピュータ・システム概要説明書」(1985年)

(5)『滋賀県立図書館創立50周年記念誌』(滋賀県立図書館、1994年)

(6)木村英司「滋賀県における県立図書館を核とした公共図書館の資源協力」(『情報の科学と技術』v. 43, no. 11, 1993)

(7)前川恒雄「「本を読むのは先生と坊さんだけ」と言われて」in 関根英爾『武村正義の知事力』(サンライズ出版、2013年)