図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の5)日野市の助役と部長

 1973(昭和48)年4月に中央館を開館した日野市立図書館は、あいかわらず順調な伸びを示していた貸出にくわえて、それまで等閑に付してきたサービスを少しずつ始めていました。

 ところが、その3か月後の市長選挙で、図書館に理解のあった古谷栄市長が落選します。当選したのは、「新しい革新日野市政をつくる会」を支持母体とした森田喜美男氏でした。

  その影響は、有山崧(ありやま・たかし)市長が亡くなったときと同じように図書館にも及び、予算折衝の担当者が以前にも増して冷たい反応を示すようになるなどしました。

 

 森田市長はそのときの当選をふくめて6期連続で市長選に勝利しますけれど、初めは市議会が少数与党だったために、1年近く助役(今の副市長)を置くことができませんでした。

 1974年(昭和49)4月、森田市長は前川恒雄図書館長を助役にするという議案を市議会に提出し、案は満場一致で可決されました。と書いてしまえば、「ああ、そうか」で済ます人もいるかも知れません。けれども、ふつうは部課長の端っこにいる図書館長が、市政で十分な経験をつんだ先輩諸氏をとびこして助役になるのは、とても珍しいことです。恒雄さんの43歳という年齢、生まれも育ちも日野ではなく、市の職員となって9年、などという事実を併せ考えますと、《異例の抜擢》という言葉が思い浮かびます。

 当の恒雄さんには、事前に市長から助役就任の打診などはなく、「そのあいだ二度ほど氏の家に呼ばれて話し合ったことがある。話題は図書館のことか市役所のことか記憶は無いが、おそらくその両方だったであろう」と『思い出から』という回想録に書いています。

 ちなみに、この未刊の回想録は、私のたび重なる自伝執筆のすすめに応じて、恒雄さんが2013(平成25)年に渡してくれたディスクに収録されているものです。内容は、日本図書館協会への就職に始まり、大阪商業大学の図書館長相談役で終わる、(自伝ではない)仕事関係に特化した回想録です。ただ、そのまま出版するには量的にかなり不十分だったため、私がインタビューをして恒雄さんの話の録音を文字にしていったのでした。

 ともあれ、『移動図書館ひまわり号』にも助役のことは「まったく唐突に」と書かれていますから、市長が恒雄さんを2度も自宅に呼んで話をしたのは、助役候補者の政治的傾向や人柄を見極めようとしたと考えるのが妥当ではないかと思われます。

 

 恒雄さんが助役に選任されたとなれば、図書館長の後任人事を急がなければなりません。自薦他薦があるなかで、恒雄さんが口説いたのは東京農工大学工学部の図書館員だった砂川雄一氏でした。その人選について、私の質問に答えた恒雄さんは次のように話しました。

 ①砂川氏は図書館職員養成所の同期で、そのころから仲がよく、かねて信頼できる人物だとわかっていた。

 ②そのとき日野市立図書館には有能な斎藤隆夫氏がいて、日野に来るまでは砂川氏の部下だったので、大学図書館員だった砂川氏の不安やためらいを和らげてくれるだろうと思った。

 結果、恒雄さんの見込んだとおり、砂川氏は第2代館長として日野市立図書館をひきつづき発展させ、のちに恒雄さんと同じように日野市の助役に就任したのでした。斎藤隆夫氏は砂川氏を継いで第3代日野市立図書館長となり、砂川、斎藤両氏の日野での図書館長在職期間はともに10年を越えています。

 

 助役は、ごく簡単に言いますと、市町村長を補佐する特別職で、任期は4年、各自治体にふつうは1名、市町村長が指名し、議会が承認すれば選任ということになります。2007(平成19)年に地方自治法が改正されるまで、助役の仕事は、市町村長の代理とか職員の監督など、大まかに規定されていました。

 実際に恒雄さんがかかわった仕事は多岐にわたりましたけれど、煩雑を避けるためにいくつかのエピソードをご紹介するにとどめます。

 

 労働組合との交渉は助役の仕事のひとつでした。当時の公務員の労組はなかなか強力で、三多摩では強い労組に対抗するために助役が集まって対策を協議し、「この線で決着させましょう」と約束して交渉に臨んでいました。交渉は夜中までつづくことも珍しくなく、動員された組合員が助役室の前の廊下に座り込み、まれに助役室の中に乱入することもありました。多くの組合員のいる場で団体交渉をしろというわけですね。

 恒雄さんは「それは無理です」と突っぱねます。押し問答の末、部屋から出られなくなりますが、トイレには行かせてくれます。トイレへ行く途中、廊下に座り込んでいる人の中に小学校の建設用地の買収で交渉している地主がいて、「金持ちも組合員なのだ」と思ったということです。(録音20130510)

 

 ◎個別の交渉もありました。たとえば、教育委員会職員組合との交渉では、永野林弘(りんこう)氏の後任の教育長が「君たちに教えてやる」という物の言い方をするため、組合側が怒って丁々発止のやりとりが始まります。「おかげで、このときばかりは楽をさせてもらった」とは、後年の恒雄さんの述懐です。

 この教育長は、議会での答弁でも「あなたに教えてあげます」という態度をとったので、議員はしばしば怒りました。あるとき、教育長が恒雄さんに「私が答弁すると、議員が怒って向かってくるが、どうしてでしょうかね」と尋ねたそうです。楽をさせてもらっていた恒雄さんが理由を教えてあげたかどうかは、聞き洩らしました。(録音20130510)

 

 ◎東京都の美濃部知事は、1971(昭和46)年からゴミ処理の問題を解決するために力をそそぎました。日野市でもゴミ処理の費用を減らそうということになり、恒雄さんが川崎市の助役に教えを請いに行きました。なぜ川崎市の助役かと言えば、トン当たりゴミ処理費が川崎市は東京都の3分の1で、その助役がゴミ処理一筋で助役に昇進した人だったからです。

 恒雄さんが教えられたふたつの方法は、①ゴミ処理場をいくつか増やしてゴミ運搬費を減らすこと、②有能な職員をゴミ処理部門に配すること、でした。この第2の方法には、川崎市ではごみ処理担当部署に異動させられた人はお祝いに赤飯を炊くという、おまけ話がついていました。

 日野市では、まず多額の出費を必要としない第2の方法をためすことになり、財務課の有能な職員をゴミ処理部門に異動させました。すると、その職員が助役室にやって来て、「なにか私は悪いことをしたのでしょうか」と尋ねます。恒雄さんはゴミ処理の重要性を説いて、「有能な職員だと見込んでの異動」だと力説しましたけれど、彼は不信感をあらわにして出て行きました。(前出『思い出から』)

 大量のゴミが環境に与える悪影響と処理費用とに困った各自治体は、ゆっくりとではありますけれど、ゴミ排出量の削減に努力するようになってきていますね。環境省の調査によりますと、1人1日当たりの一般ゴミの排出量が少ない都道府県の1位は、2014(平成26)年から5年連続で長野県でした。

 

 図書館に関係のあるエピソードもひとつご紹介しておきます。

 三多摩の革新市では共同で職員研修会を開いていました。ある年の研修会で主催者のひとりとして恒雄さんが控室にいますと、講師をお願いしてあった松下圭一氏(法政大学教授)が到着しました。松下氏は地方自治の専門家で、恒雄さんと同じ四高を出ていましたので、恒雄さんが親しみをこめて挨拶をしましたところ、いきなり「図書館の司書は私の本を評価できるのですか?」と怒鳴られました。

 初対面の人のあまりの剣幕に驚きましたけれど、氏が《図書館での選書》と《本の評価》とを混同していることが分かって、恒雄さんは何とかその場を切り抜けました。このときの苦い後味が、一般の人向けの図書館解説本『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)を書かせる動機のひとつになったのでした。

 

 1974(昭和49)年4月から1978(昭和53)年3月までの在任期間中、恒雄さんはほとんど緊張の連続でした。なぜなら、部課長たちの冷やかな視線に耐えながら、議会では「関連のない関連質問」をして市長をはじめとする答弁役を困らせようとする一部の議員、自分の守備範囲の質問なのに「助役、助役」と言って助役をまごつかせる一部の部長、時には難題を吹っかけ、断ると脅迫まがいの言葉を吐く市民や議員、強気の要求を通そうとする市の労働組合、役所中が浮足立つような職員の汚職事件などの矢面に立たざるをえなかったからでした。

 このような事例はどこの自治体でもありがちなことかも知れませんけれど、慣れない仕事と愚直に取り組む恒雄さんは神経をすり減らしたのでした。《愚直に》の意味は、上役(市長)や部下(部長・課長)がいますのに、うまく立ち回らずに、あえて矢面に立ったということです。

 そのせいでしょうか、あるとき、保守系の市会議員が「助役は少し馬鹿になりなさい」と恒雄さんに助言してくれたことがありました。「頑張りすぎると足元をすくわれるから、ほどほどにした方がいいよ」という忠告ですね。後年の恒雄さんの述懐は「私もその程度のことはわかっていたのに、できなかった」というものでした。(20130510録音)

 

 就任4年後の1978(昭和53)年、前川助役の再任議案が市議会に出され、あっさり否決されます。なぜなら、議案の提案理由の説明がなく、案にかんする質問もなかったからです。4年前と同じように、森田市長から当人に事前の話はなく、代わって恒雄さんに与えられた1年目のポストは企画財政部長、2年目のポストは都市整備部長でした。

 恒雄さんの話では、助役の役目を誠心誠意果たそうとしたから、当時は悔しかったということです。けれども、部長時代は助役のときのような重圧から解放され、議員たち(とくに保守系の議員たち)がいろいろと気を使ってくれ、課長などの部下との関係もよく、「楽しく仕事ができ、いやなことは全くなかった。滋賀県から{県立図書館長として}来てほしいという話があったときも、この仕事を捨てていくのはとてももったいないと思った」のでした。(『思い出から』)

 結局、助役4年と部長の2年を合わせて6年間、恒雄さんは図書館と直接の関係がない仕事をしたことになります。