図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の4)『市民の図書館』への貢献

 15年ほど前になりますか、ある大学で非常勤講師をしている現職の図書館員をたずねたことがありました。授業を終えたその人が持っていた数冊の本の中の1冊が『市民の図書館』で、驚いたのは、使いこんだ証しを示すその本の傷と汚れでした。

 『市民の図書館』(初版1970年、増補版1976年)は、図書館界で長く《バイブルのようだ》と言われてきた本です。たとえば、府中市立図書館長だった朝倉雅彦氏は、退職後に受けたあるインタビューで、「わしの日比谷時代から『中小レポート』と『市民の図書館』は、バイブルみたいにいわれてきた」と話していました。氏は1966(昭和41)年から1970(昭和45)年まで日比谷図書館にいましたから、その記憶が正しければ、1970年に刊行された『市民の図書館』はすぐさま《バイブル》だと言われ始めたことになりますね。(1)

 また、『中小都市における公共図書館の運営』(略称:『中小レポート』)の中央委員のひとりだった石井敦氏は、恒雄さんの古稀記念論集の「序文」で、恒雄さんが「市立図書館運営のバイブルともいうべき『市民の図書館』をまとめあげた」と書いています。(2)

 

 この本の「はじめに」には、「本書の原案執筆に当られた前川恒雄(日野市立図書館長)」とあり、「まとめと補筆に加わられた」人として8人の市立・区立の図書館長名が記されています。(3)ただし、恒雄さんは「児童へのサービスについては、私よりはるかに高い識見と経験をもっている清水正三に書いてもらった」と『移動図書館ひまわり号』に書いています。

 恒雄さんは、この本の誕生のきっかけとなった公共図書館振興プロジェクト(1968年から1970年まで、日本図書館協会の事業)の初めから終りまで、菅原峻(すがわら・たかし)氏(日図協事務局総務部長)とともに中心人物としてかかわりました。

 

 ◎『市民の図書館』は、ふつうに読めば2~3時間ほどで読み終えることができる本です。易しい言葉で、焦点をしぼって、迷いなく明確に、公立図書館の運営について解説しているからです。『中小レポート』は内容が衝撃的でしたけれど、『市民の図書館』は『中小レポート』が示した道筋に沿って、日野市立図書館の成功体験を下敷きにしているため、さほど衝撃的ではありません。

 「焦点をしぼって」の意味のひとつは、本文中の見出しのひとつ、「いま、市立図書館は何をすべきか」が示すとおり、「とりあえず」「さしあたって」何をすべきかに焦点を当てていることです。「焦点をしぼって」のもうひとつの意味は、貸出サービスについては付随する予約サービスや読書相談などにも触れているのに対して、レファレンスサービスなど貸出以外の図書館の大事なサービスについてほとんど触れていないことです。

 この本が市立図書館の当面の最重点目標としたのは、次の3点でした。

 「(1)市民の求める図書を自由に気軽に貸出すこと。

 (2)児童の読書要求にこたえ、徹底して児童にサービスすること。

 (3)あらゆる人々に図書を貸出し、図書館を市民の身近かに置くために、全域サービス網をはりめぐらすこと。」(4)

 このように、サービスについては焦点をしぼった代り、本書は、規程・規則、分類・目録、サービス網としての移動図書館・分館・中央館、計画と統計など、仕事の進め方についてはまんべんなくノウハウを示しています。図書館運営のマニュアルたるゆえんです。

 

 『市民の図書館』は新書判で151ページ(増補版で168ページ)の本で、図や表のほかにイラストもところどころに挿入されていて、理解を助ける工夫がなされています。また、できるかぎり明瞭な表現をこころがけて、曖昧さがありません。べつの言い方をすれば、書き手の確信が伝わってくる本になっています。

 いくつか例を挙げましょう。

 「一回の貸出冊数制限はない方がよい。無制限にしてもだいたい平均3~5冊、多くても8冊くらいに落ちつく。制限をする場合は冊数が多いほどよい。貸出冊数1冊とか2冊というのはあまりにも少なすぎる。」とうぜんですよね。

 「複本を置いておかねば需要に応じきれない図書は、複本を買うべきである。」現在、複本をまったく買わない図書館はなくなったでしょうけれど、1970年にはそのように書かなければならなかったのでした。

 図書費の少ない図書館は、多くの市民にとっていちばん切実な貸出サービスで実績をあげることによって、「自信をもって2倍、3倍の図書費を要求しなければならない。」「この要求が市民の要求に裏打ちされたものである限り、必ず実現する」と断言します。その実例として、府中市立、町田市立、七尾市立、高知市立の図書費の推移を紹介しています。

 

 『中小レポート』は、多くの図書館員が参加したフィールドワークと討論によって、日本の公立図書館の惨状とその原因を突き止め、そこから脱却するために何をしなければならないかを説きました。一方、『市民の図書館』は、日野市立図書館を初めとする先進的な公立図書館の実例をまとめて、《やればできる》ことを証明しようとしました。

 この本は、貸出を伸ばすために、児童サービスを拡げるために、図書館網をきずくために、何をどのようにするのがよいか、なぜそうしなければならないか、などを丁寧に説明しています。というわけで、本書は、図書館員にとって理論的な裏付けの書、頼りになるマニュアル、読めば勇気を与えてくれる《バイブルのような本》となったのでした。

 公立図書館の職員たちがおのおの『市民の図書館』を1冊ずつ買って勉強会、研究会を開いた話はたくさんありますし、1960年代後半ごろから全国各地に拡がっていった図書館づくり運動の担い手たちにとっても恰好の参考書となりました。中には、この本をまとめ買いして自分の市の関係者に配った人もいたのでした。

 《バイブルのようだ》というたとえ方が適当かどうかはともかく、『市民の図書館』が1970年代以降の公立図書館の発展に大きく貢献したことは間違いありませんし、『中小レポート』と並ぶ重要な歴史的文献、記念碑的な本となったことも否定のしようがない事実です。

 

公共図書館振興プロジェクトについて

 1968(昭和43)年、日本図書館協会は、『中小都市における公共図書館の運営』刊行以後の公共図書館界の好ましい変化をいっそう進めるために、「公共図書館のすぐれた活動や経験を交流し、その成果をひろく全国に普及し、わが国公共図書館の水準をたかめる」プロジェクトを実施することにしました。(5)

 当時、日図協の実務をとりしきる事務局には叶沢清介(かのうざわ・せいすけ)局長や菅原峻総務部長がいて、日野市立図書館長の恒雄さんは『図書館雑誌』の編集委員に名をつらねるほか、『現代の図書館』の編集委員長をつとめていました。ということで、かねてこの両者とは親しく、とくに菅原氏とは図書館職員養成所の同期生、かつて日図協事務局の同僚という関係でもありました。

 1967(昭和42)年に菅原氏から相談をうけた恒雄さんは、日野市立図書館と、それにつづいた三多摩をはじめとするわずかな点でしかなかった、新しい考え方にもとづく公立図書館を全国に広める必要性を痛感していましたので、渡りに船とばかりプロジェクト案に賛同します。

 

 1968(昭和43)年、『図書館雑誌』7月号の紙上で「公共図書館振興プロジェクト実施要項」が発表されました。2年後の『市民の図書館』刊行へとつながる部分の概要は次のとおりです。

 1.目的は、市区町村の図書館のすぐれた活動や経験をもちよって交流し、その成果をひろく全国に普及する。

 2.プロジェクトの内容は、

 ①プロジェクトへの参加館5館を公募する。

 ②参加館の経験の交流と運営研究のため、3日間の研究会を開催する。

 ③この研究会の報告書を全国の公共図書館に無償配布する。

 ④参加館は昭和44、45年度の具体的な計画を提出する。

 3.参加を希望する図書館は、6項目の条件のうち少なくとも3項目を充たしていなければならない。6項目の条件には、館長の司書資格、司書有資格職員数、人口1人当りの図書購入費、館外貸出登録者の人口に占めるパーセント、運営改善計画などが含まれています。

 

 選ばれた参加館は、上田市立図書館(長野県)、七尾市立図書館(石川県)、日野市立図書館(東京都)、平塚市立図書館(神奈川県)、防府市防府図書館(山口県)の5館でした。

 このプロジェクトで最初に作られた報告書である『市民の図書館:公共図書館振興プロジェクト報告1968』によりますと、「プロジェクトに参加した5つの図書館は、必ずしもすべてが「進んだ図書館」ではな」く、「むしろこの5つの図書館は、さしあたりの目標として多くの図書館にとってより身近かな存在ですらあるだろう」ということでした。

 共同討議は、1968(昭和43)年11月28日から3日間、長野県上田市近郊の塩田町で実施されました。参加者は、参加5館から9名、特別参加者として渡辺進氏(高知市立市民図書館長)、森耕一氏(大阪市天王寺図書館長)、浪江虔(なみえ・けん)氏(私立鶴川図書館長)のほか、建築の専門家である大阪市立大学の栗原嘉一郎氏と中村恭三氏が加わっていました。

 そのほか、オブザーバー2名と日図協事務局の3名を入れますと、総勢19名ということになります。

 討議は、参加5館が事前に提出していた報告書にもとづいて自館の歴史、現状と問題点、将来計画を説明し、その中から次の4つの問題が総括討議に採りあげられました。

 ①公共図書館の第1の仕事である貸出を飛躍的に増大させるための方策。

 ②注力しなければならない児童サービスの位置づけ。

 ③全域サービスの目標設定と分館計画。

 ④職員の専門性の明確化と図書館協会の任務。

 

 けれども、このプロジェクト方式ではインパクトが弱く、新しい運営方法による拠点図書館を全国に広げることがおぼつかないと判断した恒雄さんと菅原氏は、業務の手引きをつくるべく方針を転換します。『移動図書館ひまわり号』によりますと、恒雄さんは次のようなマニュアルにしようと考えました。

 「1.公共図書館の本質から具体的な仕事のしかたまで、一貫した考え方でとおす。

 2.いま何をすべきかを示し、一種の作戦の書にする。

 3.あれこれの方法を概論風に列挙するのではなく、最も優れた方法、手順をはっきりと書く。

 4.読みやすいように、できるだけコンパクトな大きさにし、表現も分りやすくする。」(6)

 できあがった原稿は、「公共図書館振興プロジェクト地域別研究会」(1969年11月に浦和市、12月に山口市)での共同討議と、翌1970年2月のまとめのための討議を経て、『市立図書館の運営:公共図書館振興プロジェクト報告1969』(日本図書館協会、1970年3月25日)として実を結びます。

 その2か月後、この報告書の装いを新たにして刊行されたのが『市民の図書館』でした。変更は、大きさをコンパクトな新書判に、タイトルを短く、でした。

 このように、1968年7月に始まった公共図書館振興プロジェクトは、当初、ゴールを『市民の図書館』の刊行に置いていたのではありませんでした。また、『プロジェクト報告1968』は参加5館の報告が大部分を占めていて、『プロジェクト報告1969』とは内容が全く違います。

 私が恒雄さんの頑張りに感心しますのは、この日図協の公共図書館振興プロジェクトと、前回の当ブログでご紹介した東京都の図書館振興対策プロジェクトとが時期的にかなり重なる部分がありますのに、その重要なメンバーとしてふたつのプロジェクトを成功に導いたことです。

 その間の恒雄さんは、日野市立図書館を順調に成長させつつ、日図協の『図書館雑誌』の編集委員、『現代の図書館』の編集長をもつとめていました。働き盛りの40歳前後とは言え、あるいは、40歳になるかならぬかの若さで、見事な仕事ぶりですね。

 しかも、少し時期をさかのぼって、『中小レポート』を生んだ中小公共図書館運営基準委員会や日野市立図書館の立上げから驚異的な躍進までを含めて考えれば、前川恒雄さんは多くの優秀な図書館員とともに、図書館界におけるこれらの歴史的な事業を成し遂げた人だったのです。

 

参照文献:

(1)『ず・ぼん 10』「朝倉雅彦ロングインタビュー:東京の図書館振興を体現した人」(ポット出版、2004年)

(2)前川恒雄先生古稀記念論集刊行会編『いま、市民の図書館は何をすべきか』(出版ニュース社、2001年)

(3)『市民の図書館』(日本図書館協会、1970年)

(4)『市民の図書館』増補版(日本図書館協会、1976年)

(5)『市民の図書館:公共図書館振興プロジェクト報告1968』(日本図書館協会、1969年)

(6)前川恒雄『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房、1988年)