図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の2の2)日野市立図書館の新機軸

 日野市立図書館の出現が日本の図書館界を驚かせたのは、図書館という施設がなかったのに、当時の水準をはるかに超える資料費を得て、移動図書館1台による貸出だけのサービスによって、だれも予想しなかった利用者数と貸出冊数の多さを実現したからでした。しかも、開館当初の物珍しさや熱気による一過性の実績にとどまらず、ほぼ毎年のようにそれらの数値を大幅に伸ばしていったからでした。

 奇跡的と言ってよいほどのその実績は、なぜ成し遂げられたのでしょうか。それを納得するには、よく考えられた戦略や新機軸を知る必要があります。

 

1.奇抜で理にかなった戦略

◎小規模でのスタート

 日野市立図書館の創設は、移動図書館車が1台、蔵書がおよそ3,000冊、職員が6人、サービスを本の貸出に限定、という具合に何もかもが小規模でした。このやり方には、①役所や議員の反感・抵抗が小さく、スタートを切りやすい、②万一失敗しても軌道を修正しやすい、などのメリットがありました。何しろ未だかつてない試みです、小さく産んで大きく育てようとしたのですね。

◎突破口としての本の貸出

 これが有山氏の教えによる《傾斜経営》だということは前回触れました。『移動図書館ひまわり号』には、次のように書かれてています。

 「どんな施策でもそうだが、最初から理想的な図書館を実現することは不可能である。まず最も基本的な、将来の発展の基礎固めとなりうるサービスに、すべての力を集中しなければならない。与えられた予算や人員を一点に投入し、そこからサービスを拡大して、予算や人員の拡大につないでいく。その繰り返しによって、点を面にひろげ、さらに面を立ちあがらせて一個の強固な立体にしてゆく。移動図書館はその一点である。」

 具体的な考え方は、次のようになるでしょう。

 ①本の貸出は図書館の最も基本的かつ最低限のサービスである。

 ②移動図書館の機動力によって多くの市民への貸出を可能にする。

 ③サービスを貸出に限定すれば、予算に占める図書費の割合を大きくできる。

 ④多額の図書費によって新鮮な本を大量に準備できる。

 ⑤多くの人が利用すれば、市民や議員が図書館を支持するようになる。

 ⑥その結果、予算の増額が認められやすくなる。

◎施設も小から大へ

 上記の脈絡は、「中小公共図書館こそ公共図書館の全てである」という『中小レポート』の思い切った断言を、ひとつの小都市である日野市にあてはめたとも考えられます。第1段階は、住民の身近に、施設ではないサービスの拠点(サービスポイントとしての駐車場)を設けます。それはまた、一時的な多額の出費によって市の財政を圧迫することなく、多くの市民を裨益するサービスの浸透によって、少しずつ図書館にかんする費用を捻出しやすくするという戦略でもあります。

 第2段階は、要望の出てきた場所に分館を置いてゆき、最後の第3段階で中央図書館が建てられました。

 

2.多額の資料購入費

 『中小レポート』は、中小図書館のあまりにも少ない資料費を嘆き、「図書館の生命は資料であり、図書館予算の中核は資料費である」と強調し、とぼしい資料費や中途半端な資料費は住民の失望を招くから、そのような図書館はむしろ存在しないほうがましであるとも主張しています。

 図書館を創設するとき、まず中央館を建てるのが常道ではありますけれど、そのためには大きな出費が必要です。そこで、日野市立図書館は初めに中央館も分館も省略しました。というわけで、建設費や大きな建物ではたらく職員の人件費の幾分かを資料購入費に回した勘定になります。

 このように考えれば、ふつうなら創設時に中央館にそろえる数万冊の蔵書を、とりあえず移動図書館用の3,000冊ほどに抑え、数年間は様子を見ながら新しい本を買い足していったのだと分かります。べつの言い方をしますと、創設以降の数年間は、建設費と人件費の幾分かを資料費に回した結果としての《莫大な図書費》であったわけです。

 ところが、移動図書館の利用者数と貸出冊数は事前の想定をはるかに上回りました。ために、新しく大量の本を買いつづけ、その装備と整理をするために連日のように時間外勤務をしなければならなくなり、わずか1年で職員を倍に増やさなければならなくなったのでした。

 

3.本を借りやすくする工夫

◎多くのサービスポイント

 『中小レポート』には「日本のように図書館が市の片隅でヒッソリ存在している状態では、その発展のために“自発的に来館しない大衆”の手元まで本を接近させることが大切である」と書かれています。この指摘にしたがい、日野市立図書館は1965(昭和40)年9月の開館にあたって37か所の移動図書館サービスポイントを用意しました。それは1か月もたたないうちに40か所に、3か月後には47か所に増えました。市内のどこに住んでいても、望む人がいれば「本を接近させ」ようとした結果です。

 その後、つぎつぎと分館ができても移動図書館のサービスポイントは増えつづけ、開館から10年以上経った1978(昭和53)年には、65か所に達していました。すでに砂川雄一氏が第2代館長となっていたころです。

◎登録と貸出にかんする簡単な手続き

 ①日野市立図書館は、本の貸出に必要な登録の手続きを簡略にしました。当時は保証金や保証人を必要とする例はさすがに少なくなっていましたけれど、いくつかある登録手続き方法の中でいちばん簡単な、印鑑さえも要らない方法を採用したのでした。

 ②貸出の手続きとしては、恒雄さんがイギリスで学んだブラウン方式を採用しました。このやり方のよいところは、貸す方にとっても借りる方にとっても時間を節約でき、誰が何を借りたかという記録が他の利用者の目に入らないことです。面倒な手続きがなく、プライバシーが守られれば、安心して借りることができます。

 ただし、貸借のときに時間を節約できるかわり、本を買った後、本にポケットを貼りつけるなど、装備にはそれなりの手間をかけなければなりませんでした。

◎親しみやすい応対

 館長としての恒雄さんは、新任の職員に対して、利用者と接するときの心構えと具体的な言動のあり方について、必ず注意を与えました。たとえば、つねに謙虚であるべきこと、貸出・返却の手続きだけのときでも何かひとこと声をかけること、できるだけ利用者の名前を覚えること、などです。その結果、利用者は歓迎されていると感じ、職員に気軽に要望を伝えたり、ねぎらいの声をかけたりするようになっていったのでした。

 

4.読書意欲に応える工夫

◎貸出冊数の上限を4冊に

 日野市立図書館は貸出冊数の上限を成人4冊、児童2冊とし、小学生以下の幼児は親のカードで借りることにしました。今では驚くほど少ない冊数ですけれど、当時は新機軸といってよいほど多い冊数だったのでした。『移動図書館ひまわり号』には、

 「当時の公共図書館は貸出冊数1冊がふつうで、2冊貸すところはまれだった。日野が4冊まで貸すというニュースは、他の館に一種の衝撃として伝わった。一冊から四冊というのは単なる数字の差ではなく、貸してやる館から借りてもらう館への飛躍、本が少ないから貸せない館から、貸せるだけの本を用意できる館への転換であった。だから、そのころは、貸出冊数を一冊から二冊にするにも、相当の抵抗を覚悟しなければならなかった」とあります。

 また、『中小レポート』にも、「図書は2冊以上貸したい」「2冊までは貸すべきである」との文言があります。

◎需要に応える蔵書:児童書・複本

 日野市立図書館は、上から目線で選んだ《読ませたい本》ではなく、《需要に応える本》をそろえるように心がけていました。とくに児童用の本の需要が多かったことから、全蔵書に占める児童書の割合が最初の数年間45~50パーセントを占め、全国的に見て飛びぬけて大きかったのでした。

 また、利用の集中する児童書やベストセラーになった小説は、ためらうことなく複本を用意しました。ものによっては、数十部の複本をそろえた児童書があったということです。それは、貸出実績を挙げるという功名心によるものではなく、「利用者の要求する図書は万難を排し、提供するよう努める」「要求によっては、充分な複本を用意する」という当初の方針に沿った措置であり、長期間待たせて利用者を失望させないための方策だったのです。

◎リクエストサービス

 リクエストサービスは予約サービスとも言い、ケースとしては、①貸出中の本を読みたいばあい、②図書館に所蔵していない本を読みたいばあい、に行なわれます。

 恒雄さんは、高知市立市民図書館長の渡辺進氏がかかげていた「いつでも、どこでも、だれにでも」本を貸すというスローガンに「何でも」を加えて、日野市立図書館のスローガンとしました。上のケース②のばあいでも、利用者の必要とする資料を万難を排して提供しようとする決意・約束をスローガンの一部としてかかげたわけです。

 「貸出中であろうが蔵書になかろうが予約を受け付け、蔵書になければ買い、それもできなければ他の図書館から借りてでも貸し出すという、本当の意味の予約(リクエスト)サービスを始めたのは、日野が最初であった。」(『移動図書館ひまわり号』)

 恒雄さんは「他の図書館から借りてでも貸し出す」と、あっさり言っていますけれど、初めのうち、貸してくれた図書館はごくわずかでした。国立国会図書館も東京都立日比谷図書館も手続きなどで面倒な条件をつけるため、やむなく、親しい人が勤務している府中市立図書館、中央区立図書館、神奈川県立川崎図書館などに頼んで貸出を受けられるようになり、その後、貸してくれる図書館が少しずつ増えていきました。図書館間の本の貸し借りを相互貸借と言いますが、これを積極的に拡げていったのも、日野市立図書館の新機軸のひとつだということになります。

 この図書館の貸出が急速に増えていった要因のひとつは、リクエストサービスだったということです。リクエストの大部分が新たに本を買うことで解決したからです。

 

5.前川館長のリーダーシップ

◎納得ずくで激務に挑んだ館員たち

 先に触れた渡辺進氏は、日野市立図書館の実地調査を終えて次のように書いています(『図書館雑誌』v. 61, no. 10, 1967.10)。

 「日野市立図書館を訪れてまず感ずることは、その生気に満ちは{た}職場の雰囲気である。そこには、活動している館だけがもっている職場の活気があり、誇りがあり、明るさがある。」

 少なくとも開館後の数年間は激務の連続であったにもかかわらず、前回ご紹介した関千枝子氏による『図書館の誕生』のインタビューに登場する館員は、仕事をする喜びを「充実感がありました」「こんなうれしいことはなかった」「熱気にみちていた」などと話しています。

 これは、利用者である市民のプラスの反応を実感し、仕事の成果が数字でわかり、たびたびマスコミにとりあげられ、館員の志気が向上していったからに違いありませんけれど、その根本には、明確な方針と目標を示してみなを励ましつづけた責任者、恒雄さんの存在があったことを忘れてはならないでしょう。

◎図書館の全職員が移動図書館でサービス

 館長としての恒雄さんは、自分を含めてすべての館員が移動図書館車に乗ってサービスするようにしました。このようなやり方には、次のようなメリットと理由があります。

 ①貸出サービスの大切さを全員に納得させる効果がある。

 ②市民の喜びや感謝の気持ちを全員が肌で感じることができ、モチベーションの向上につながる。

 ③全員が同じ仕事をすることで、連帯感が強まる。

 ④全員が利用者の需要と資料について具体的に知ることができる。この事実は貸出サービス以外の担当業務にも生きてくる。

 ⑤急病などで乗務できない人が出たときに交代要員を確保しやすい。ひとつのサービスポイントで1時間足らずのうちに数百冊を貸し出すこともある移動図書館サービスでは、臨時の交代要員の確保が重要である。

 ⑥誰が利用者と応対しても、ほぼ同質のサービスができるようになる。

◎図書館の全職員が最低ひとつの仕事の責任者

 日野市立図書館の『業務報告 昭和40・41年度』(1967年3月、非売品)は、職員組織の特徴のひとつとして「職員の一人一人がある仕事の責任をもっている」ことを挙げています。その利点は、①各自がいつでも別の仕事を手伝うことができること、②各人が自らを高めようとする意欲をもつこと、だとしています。

 その結果、『業務報告 昭和40・41年度』の執筆は職員全員の分担によって完成し、1973(昭和48)年に建てられた中央図書館の設計案を検討するときも、全館員がグループに分かれて要望をまとめたのでした。

これらには、いちばんよく分かっている現場の職員に任せた意味合いと、各自が歴史に残る仕事の一端を担ったという誇りをもてるように配慮した意味合いとがあると思います。

 

6.『業務報告 昭和40・41年度』

 開館して1年半後の1967(昭和42)年3月、日野市立図書館は『業務報告 昭和40・41年度』を出しました。非売品ではありますけれど、現在は同館のウェブサイトで読むことができます。

 この報告書は、日野市と日野市民への報告であると同時に、全国の図書館関係者への報告にもなっています。「あとがき」に恒雄さんは次のように書いています。

 「図書館界の方々には、私たちの描いた図書館像に異論を唱える方々も多いとは思いますが、ひとつの明確なイメージを執抑{拗}に追い続ける過程としての図書館づくり、図書館サービスの原点から計画した最も単純な方法を全力を注入して実行した傾斜経営の姿を読みとっていただきたいのです。」

 ここにも《訴える人》恒雄さんの面目を見ることができます。図書館運営の方針、その特色、業務ひとつひとつの処理方法の選択と実際、その結果としての成功例と失敗例ないし問題点、統計などを記録し、率直な情報公開によって、この報告を公共図書館界の参考にしてもらおうとしたからです。

 その目論見はみごとにあたりました。たとえば、府中市立図書館の館長補佐だった嵩原安一(たけはら・やすかず)氏は、この異色の『業務報告』について、次のように証言しています。

「新しい図書館活動を模索する他の図書館にとって、貴重な参考書であった。これほど役に立った業務報告書は、今までになかった。そして、これほど情熱的で、心をゆさぶる報告書は、その後もないのではなかろうか。

 試行錯誤をしつつ図書館活動をすすめていたわれわれにとって、日野市立図書館の実践と報告は表裏一体となって、貴重な指針を与えてくれた。」(「日野市立図書館が果たした社会的役割」『図書館雑誌』v. 68, no. 6, 1974.6)

 というわけで、この報告書も、かつてなかった新機軸のひとつだと言ってよいでしょう。

 

7.図書館建築のモデルとなった中央図書館

 日野市立図書館は、開館翌年の1966(昭和41)年6月の高幡図書館を皮切りに、つぎつぎと分館を設置してゆきます。そのほとんどは市の施設の一部を使うかたちの、ごく小規模なものでした。

 念願だった中央図書館が開館したのは1973(昭和48)年4月です。有山市長の死去にともなう1969(昭和44)年の市長選にのぞむとき、当選することになる古谷栄(ふるや・さかえ)氏は中央図書館の建設を公約にかかげていました。ところが、あてにしていた東京都からの建設補助金の雲行きが怪しくなり、市長は4年間の在任中に公約を実現しなければ、と考えます。

 図書館を建てる土地と設計者の選定、建物の広さを決める過程などについて面白いエピソードがいくつもありますけれど、省略します。

 新機軸という点では、次のような事実がありました。

 ①それまでほとんどまたはまったく書かれなかった公共図書館の設計の方針を、恒雄さんが建築計画書というかたちで文章化し、設計をお願いする鬼頭梓(きとう・あずさ)氏に提示したこと。簡単に言えば、どのような図書館をつくりたいかを、かなりくわしく書いたもので、それを土台にして議論がすすめられたのでした。

 ②施設の内容では、閲覧室をつくらず、レファレンス室と職員休憩室、郷土資料や行政資料を提供する市民資料室などをつくったことが、それまでの図書館とは違っていました。

 ③設計をまとめる過程で、恒雄さんを中心とする図書館と鬼頭氏を中心とする設計者とが、熱い議論を重ねました。そのあたりの事情を鬼頭氏が書き残しています。

 まず共同設計者として佐藤仁(さとう・ひとし)氏と山田弘康氏の名前を挙げ、「こうしてこの設計は二氏の能力と情熱に深く負っているのだが、じつはそれ以上に、私たちグループと図書館との、特に前川館長との共同によるところがきわめて大きかった。私たちの仕事は一日移動図書館に同乗し、その活動を身を以って体験するところから始まり、幾日も幾日もの前川館長との討論がそれに続いた。それはさながら真剣勝負にも似て、時に両々相譲らず、議論は深更に及んだ。わたしたちはそれを通じて無数のことを教わった。それは片々たる知識ではなく、先駆者のみの持つ情熱と苦闘の歴史であり、そこから生まれた確乎とした思想と信念であった。だからこの建物の設計者の筆頭には、前川恒雄氏の名前が隠されているのである。」(鬼頭梓「土地と人と建築と」 in『新建築』v. 48, no. 8, 1973.8)

 これはまた、何というすばらしい誉め言葉でしょうか。司書として20年、30年働いたとしても、図書館の新築にかかわる幸運は、めったにありません。恒雄さんは、その数少ない機会をとらえて館員の先頭に立ち、モデルとなるような図書館をつくるべく全力を尽くしたのでした。

 

8.日野市にかんする情報の収集と提供

 『中小レポート』では、郷土資料について、ほとんど利用されない「古記録や近世資料」にかたよった収集をするよりも、「現在の市民生活に直接むすびついた、市民生活に有用な資料がその主力である」としました。

 これを実現するため、日野市立図書館は、開館当初から新聞の切抜きと記事のコピーを取りつづけて郷土資料として蓄積しました。新聞を9紙購読し、日野市にかんする全国紙の記事はコピーをとってファイルし、全国紙の地方版については切り取って保存するというものでした。(『業務報告 昭和40・41年度』)

 また、1973(昭和48)年に開館した中央図書館に市民資料室をもうけ、行政資料を積極的に収集し始め、当然のことながら、市民にも公開・情報提供をしました。これが市庁舎内に移って市政図書室と名称を変え、いっそう本格的なサービスを提供するようになったのが1977(昭和52)年12月のことでした。

 池谷岩夫(いけや・いわお)氏による「日野市立図書館市政図書室の活動」(『図書館雑誌』v. 74, no. 3, 1980.3)によりますと、その様子はおおむね次のようなものでした。

◎基本的性格

 ①サービス対象は、市民、議員、理事者、職員。

 ②位置づけは、日野の郷土資料、行政資料のセンター図書館。

 ③市民への市政情報の公開。

 ④重要な資料は永久保存。

◎市政図書室になるときに集めた資料

 ①東京都および都内市町村の刊行物。

 ②購入資料は、六法、法令解説、行財政関係図書、統計書、福祉や都市問題関係図書。

 ③日野市企画課資料室の所蔵資料のほぼすべて。

 ④各部課が廃棄しようとしていた資料(段ボール箱60箱分)。

◎職員

 1980年現在、職員3名(うち常駐は交替で2名)、臨時職員1名(午後のみ)。

◎所蔵資料

 1980年現在、約20,000点。

◎サービス

 貸出、コピー、レファレンス、『市政調査月報』と『新聞記事速報』の発行。

 レファレンスは月平均約80件。うち、市の職員が約6割。

 『市政調査月報』は1975(昭和50)年7月に創刊した雑誌のコンテンツサービスで、行政関係誌50誌の最新号の目次を印刷製本したもの。配布先は議員、理事者、職員(各課に1~2部)で、要求があれば貸出またはコピーサービス。

 『新聞記事速報』は、「当日の新聞(朝、毎、読、サン、東、日経)の日野市に関する記事、地方行政に関する記事を切り抜き、そのうちから市行政の参考になりそうな記事を編集して台帳に貼り、30部ほどコピーし、部長以上の職員に毎朝直接配布している。各部長は読了後各課長に回覧する。日野市では現在各部課の新聞購入を一部を除いて廃止しているため、この速報は非常に好評である。」

 市民がみずから考えみずから判断する力をつけるためには、必要な情報を手軽に入手できる必要があります。その意味で、公立図書館が住民に対して地域にかんする情報の収集と提供を行なうのは大切なことです。日野市立図書館はそのことをいち早く実行したのでした。

 

9.コンピュータの導入

 日本の図書館における機械化(コンピュータを利用した業務処理)は、1960年代の後半に大学図書館で始まりました。公立図書館では少し遅れて、多摩市立図書館が1977(昭和52)年6月に目録のコンピュータ化に踏み切り、日野市立図書館が同じ年の1月に貸出・返却をコンピュータで処理し始めたのが嚆矢となりました。

 日野のばあいは、2台の移動図書館、6分館、中央館で1日の貸出と返却の平均処理数があわせておよそ8,000件に達していたため、その機械化のメリットを最も期待できるとして、貸出・返却のコンピュータ化を優先したのでした。その結果、「窓口における作業能率を飛躍的に高め、利用者の待ち時間を大幅に短縮すること」ができたということです。

当時の状況とその後の計画は、砂川雄一館長の「本の受け入れから貸し出しまで:電算機が活躍する日野市立図書館」に簡潔にまとめられています(『教育と情報』no. 241, 1978.4)。