図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(3の1)日野市立図書館の開館まで

 日本図書館協会の有山崧(ありやま・たかし)事務局長が出身地の東京都日野市で社会教育委員会議長を委嘱されたのは、1964(昭和39)年の秋のことでした。氏はさっそく社会教育委員会の中に、公民館と図書館の設置にかんする特別委員会を設けます。

 特別委員に選ばれたのは、公民館と図書館の設置に前向きな考えをもっている人たちで、文部省と東京都教育庁から社会教育畑の人がひとりずつと図書館関係者3人の、合計5人でした。

 図書館関係者3人は、①『中小レポート』などを通じて有山氏の信頼が厚かった森博氏、②日野市の近くで若いころから私設図書館をひとりで運営してきた浪江虔(なみえ・けん)氏、③半年ほど前にイギリスから帰国して日本図書館協会の事務局で働いていた恒雄さん、でした。

 特別委員会は、公民館と図書館を新設すべきこと、図書館は中央館と複数の分館からなる組織構成とすべきこと、などを提言しました。

 

 翌1965(昭和40)年3月、恒雄さんは有山局長から日野で図書館づくりをしないかと言われます。有山家が日野市きっての名家であり、有山氏は当時の古谷太郎(ふるや・たろう)日野市長とは気心の知れた仲でありましたから、図書館ができることに不安はありません。けれども、『中小レポート』の示した方向に沿った図書館の運営は、図書館界地方自治体、一般市民の常識とはかけ離れています。よほど上手にやらなければ、公共図書館の発展はおろか、古い体質の図書館の温存につながってしまうでしょう。

 有山氏が恒雄さんを信頼していた以上に、恒雄さんは有山氏の慧眼と実行力を深く信頼していました。日野市の試みはふたりにとって《伸るか反るか》の勝負であり、結果的には『中小レポート』の正しさを証明できるか否かという意味でも《伸るか反るか》の勝負となったのでした。

 

 ◎1965(昭和40)年4月、図書館の開設準備のため、恒雄さんは日野市の教育委員会職員として着任します。準備期間は、移動図書館が走り出す9月下旬まで6か月ありましたけれど、法律的な裏づけとして必須だった図書館設置条例の案と資料費などの予算案が市議会で認められたのが6月、恒雄さんを含めて6人が図書館職員の辞令を受け取ったのが7月1日、というわけで、実質の準備期間は3か月しかなかったのでした。小さな市の図書館とは言え、そのような短期間で開設にこぎつけたのは、前代未聞どころか、その後の展開を考えれば空前絶後でしょうね。

 開設を半年か1年先延ばししないで、なぜそのような無茶をしたかは、次のような理由によると思われます。

 ①3月の市議会に提出された図書館設置条例案が認められず、継続審議になっていたこと。

 ②4月1日、教育委員会職員の辞令を受け取った恒雄さんが、最初に挨拶に行った総務部長から「市は図書館をつくらない。都立図書館を日野市に誘致すればよい」という意味の言葉を放たれたこと。

 ③その後、ひとりの幹部職員が(どういうわけか)恒雄さんの自宅にやってきて、「市長が図書館をつくらないと言っている。条例案も取り下げになる」と言ったこと。

 つまり、議会や市役所の空気が必ずしもかんばしいものではないと感じた恒雄さんは、有山氏と相談して、当初予算とスタートまでの日数がいちばん少なくて済む《移動図書館での出発》という思い切った結論で勝負に出たということです。

 結論の骨子は次のとおりで、現実はそのとおりに推移していきました。

 ・当初のサービスを移動図書館による本の貸出に集中する。

 ・市民の求める本は何でも貸し出す。

 ・市の全域に移動図書館のサービスを行き渡らせる。

 ・成否を左右する図書購入費を充分に確保する。

 

 図書館法はその第10条で「公立図書館の設置に関する事項は、当該図書館を設置する地方公共団体の条例で定めなければならない」と定めています。1965(昭和40)年3月の市議会で継続審議となっていた日野市立図書館の設置条例案が内容的に不十分だと判断した恒雄さんは、案を改めました。図書館が中央館と複数の分館からなること、図書館法施行規則の最低基準を下回ってはならないこと、職員は館長1名、副館長1名、専門職員と事務職員それぞれ若干名からなることなど、元の案になかった項目を加えたのです。

 このような具体的な事項を条例に盛りこみますと、変更するときに市議会の承認を得なければなりません。日野市のばあいは、容易に変更できない重要事項であるという決意表明をしたことになるでしょう。

 予算案では、図書費を500万円としました。市立図書館の図書費は200万円でも多いと思われていた時代ですから、とうぜん財政課は首を縦に振りません。押し問答の末に財政課長が市長と相談しに行き、図書館の他の費目を削ることなく500万円の図書費が認められることになりました。恒雄さんの『移動図書館ひまわり号』には「古谷市長のこの決断が、日野市立図書館の将来を決定した」と書かれています。

 図書館設置条例案と予算案は6月の定例市議会で可決され、いよいよ図書館開設のための具体的な準備に入りました。

 職員は10人を希望して6人、3人(館長前川恒雄、副館長の鈴木喜久一氏、新卒の女性)が司書資格をもち、3人が事務職員でした。鈴木氏は茨城県で村立図書館長をしていて、移動図書館によるサービスの経験のある人でした。

 与えられた事務所は市民集会所兼小学校体育館の控室のひとつで、広さ30㎡ほど、電話なし、湯沸し場なし、トイレなしの小部屋でした。私には《ものすごい冷遇》のように思われますが、そこで若い6人の職員が《ものすごい頑張り》をみせます。

 以下は、6人が3か月間にやり遂げた仕事です。

 (1)本を買う書店の決定

 市内にあった3つの書店に平等に本を発注し、早く確実に納品すれば注文が増えるというやり方は、書店主に歓迎されました。図書館は毎年、大量の本を買ってくれる上に支払いが確実ですから、書店にとってはありがたい上得意というわけです。

 (2)規則づくり

 利用のための規則(運用規則)と仕事を遂行するための規則(処務規則)の案をつくり、教育委員会で承認を得ました。当時の教育長は鹿児島県の教育長を経験した永野林弘(ながの・りんこう)氏で、「永野さんは初めから終いまで自分を信頼してくれた」と恒雄さんは回想しています。

 (3)選書

 時間的な余裕がない中、『選定図書速報』(週刊、日本図書館協会発行)を全職員に回覧して本を選び、館長が決済しました。そのほか、新聞広告などを選書ツールとしたのは言うまでもありません。

 (4)受入れと装備

 納品された本のすべてについて、発注したとおりの本か、汚れや落丁がないか、請求書にあやまりがないかなどを確かめます。そのあと、個々の本について10種類ほどの作業をしますが、煩雑になりますのでここでは省略します。移動図書館によるサービスがスタートするときの蔵書はおよそ3,000冊でしたけれど、この受入れと装備に加えて、選書、分類、目録を3か月でこなすのは、並大抵ではありません。

 『移動図書館ひまわり号』によりますと、「私たちは毎日毎日残業が当り前になっていたが、誰も不平を言わなかった。新しい図書館を作るのだという意気ごみが、図書館のことを全く知らない職員をまで巻きこんで、苦労をもすすんでかってでるような雰囲気が作られていった」ということです。

 (5)分類と目録づくり

 分類と目録づくり、それに目録カードのカードケースへの繰りこみも手間のかかる仕事です。ただし、当初はできるだけ手間をはぶく方法によって繁忙期を乗り切ろうとしました。

分類では、子ども向けの本、小説や文庫本を分類せず、目録カードは、本を購入する書店の費用負担で日本図書館協会から買う方法もとりいれたのでした。

 (6)移動図書館

 移動図書館車は、マイクロバスや小型トラックを改装して使います。そのため、図書館はあらかじめ細かいところまで要望をまとめて改装業者と話し合い、工事が始まってからも時には工場へ足を運ばなければなりません。

 8月末に納品されたマイクロバス改装の移動図書館車は、積載量1,500冊で、車内の書架には絵本やマンガを含む子ども向けの本、車外の書架には成人用の本を積むことにしました。

 車の改装と併行してやるべき大切なことは、巡回場所(駐車場所、サービスポイント)の決定です。恒雄さんは市民が来てほしいというところへ行くと決め、市の広報紙で募集しました。最初に決まったのは37か所、いずれも2週間に1度の訪問、駐車時間は50分としました。

(7)市民へのPR

 市の広報紙をPRに使うのは当然として、移動図書館の巡回日程表や利用案内のビラを町内で回覧してもらい、各種の会合で図書館の利用方法を説明しました。開館前に移動図書館が巡回路を試走したことも少しはPRに役立ったことでしょう。

 

 1965(昭和40)年6月、東京都議会が黒い霧事件で解散したのを機に、関係のなかった日野市出身の古谷栄議員が引退したため、日野市長だった古谷太郎氏が空席をうめる都議選に立候補して当選しました。次は空席となった日野市長選挙ということになり、周囲に推されて立候補した有山崧氏が当選します。日野市立図書館の開設を1か月後にひかえた8月下旬のことでした。

 有山市長の誕生は、恒雄さんにとって思いがけない幸運となりました。ということは日野市立図書館にとって、ひいては日本の公立図書館の発展にとって、同じように思いがけない幸運となったということになります。