図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

前川恒雄さんの仕事(1)小松市立と七尾市立の図書館員

 図書館界に限っての話ではありますけれど、前川恒雄さんは多彩な職歴の持ち主でした。すなわち、

  ①市立図書館2館の館員、②日本図書館協会の事務局職員、③市の教育委員会職員、④市立図書館長、⑤市の助役と部長、⑥県立図書館長、⑦私立大学の教授、⑧私立大学図書館の図書館長相談役、です。

 このうち、最初の小松市立図書館への就職以外は、すべて招請または上司の命令に応じての就任でした。それは、人間として信頼され、司書としての熱意と力量を見込まれ、それまでの実績が評価されたからに他ならないでしょう。

 以下、私がインタビューしたときに恒雄さんが語ったエピソードを交えながら(時にはエピソードだけで)、恒雄さんの職歴をたどってみます。

 

小松市立図書館(石川県)の館員(1953年4月~1956年5月)

 辞令をもらうまで、恒雄さんは「図書館が市役所の一部だということが頭に入っていなかった」ということです。このように、恒雄さんには《世事に疎い》面がありました。

 小松市立図書館の閲覧室では、利用者が書架の本を自由に手に取ることができませんでした。と言いますのは、本を並べてある書架の利用者側に金網が張られていて、利用者はまず係員に声をかけ、読みたい本を指で押し、係員がそれを抜き出して手渡してくれるという、なんとも面倒なやり方だったからです。当時の日本の図書館では、セミオープン式(準開架式)というこの方法が普通だったのでした。

 恒雄さんが職員になって初めて採用された提案は、今と同じように利用者が自由に本に触れられるようにすることでした。蔵書が1万冊足らず、職員は館長を含めて6人でしたから、作業としては取り立てて言うほどのことではありませんけれど、利用者にとってはありがたかったでしょう。

 ◎ここでの仕事は、購入する本の選択とその整理(分類と目録作成)でした。コンピュータが使えなかった当時の目録は手書きで、本1冊につき同じカード目録を、原則として少なくとも3枚は作る必要がありました。著者名、書名、分類記号のどれからでも探せるようにするためです。

 ある日、ひとりの市会議員が図書館の書架に《赤い本》が混じっているとねじ込んできました。マルクスの『資本論』を見つけたのでした。恒雄さんは新米図書館員なのに選書を任されていましたけれど、選書結果のリストは館長が決済していました。図書館には《赤い本》も《白い本》も《黒い本》も必要なのだと館長が議員に説明しなかったため、恒雄さんは図書館の本のそろえ方について何も知らない人たちから《赤いレッテル》を貼られてしまいます。

 ある日、市の教育委員会に届いた匿名の投書を館長が読ませてくれました。そこには恒雄さんのやっていないことを、やったと書いてあり、内容が根も葉もない中傷なので、書いた人の手がかりは見つかりませんでした。

 このようにして、図書館にとって具合の悪いことが恒雄さんのせいにされるようになり、恒雄さんは館内で孤立してゆきます。愚痴に耳を傾けてくれたのは新婚の孝(たか)夫人と、図書館問題研究会(略称:図問研=ともんけん)の研究例会などを通じて親しくなった県内の図書館員たちでした。

 

七尾(ななお)市立図書館(石川県)の館員(1956年6月~1960年4月)

 1956(昭和31)年春、以前から職場にかんする愚痴を聞いてくれていた七尾市立図書館長の梶井重雄氏が「席が空いたから来るかい?」と声をかけてくれます。孝夫人にも異存がなかったので、恒雄さんは喜んでこの誘いに乗ります。

 それまで恒雄さんが暮らしたことのある町は、小松、金沢、浦和、東京などでしたけれど、七尾の人たちがいちばん性に合いました。「初めは壁があってとっつきにくいが、いったん親しくなると兄弟のようになれた」ということです。

 恒雄さんは図書館の2階で、整理の仕事と、利用者の相談に応じるレファレンスを担当していました。この係は恒雄さんを入れてふたりいて、計算上は整理の1週間分の仕事を2日でこなすことが可能でした。また、レファレンスの依頼はまれで、読書会の世話や手伝いも毎日の仕事ではないため、恒雄さんは、空いた時間に図書館関係の勉強をし、参考図書の中身や特徴を頭に入れることができました。

 読書会活動に熱心だった梶井重雄館長は、率先して昼間の読書会指導に出かけ、図書館に顔を見せないことがたびたびありました。恒雄さんは、この館長を「天馬空を行くという感じの、とてもおおらかな人柄だったので、気持ちよく仕事をさせてもらった。私の恩人のひとり」だと回想していて、梶井氏が100歳を超えても連絡をとりあっていました。

 恒雄さんは小松時代に図書館が主導する読書会に見切りをつけていましたけれど、七尾では岩波新書の『昭和史』(遠山茂樹ほか著)をテキストとした「歴史を学ぶ会」という読書会の世話役をやったことがありました。メンバーが少なく、館長が留守勝ちだったので、ときどき館長室を会場とさせてもらったということです。やはりおおらかな館長だったようですね。

 この図書館には、まじめで快活な好青年、笠師昇氏という主任司書がいて、日常の仕事のほかに図書館関係の雑誌によく投稿したり、研修会で発表もしていました。ちょうど油がのりきった感じのこの先輩は、折にふれて恒雄さんに的確なアドバイスをしてくれました。館長と主任司書だけでなく、ほかの職員も好意をもって接してくれ、七尾の図書館は恒雄さんにとってとても居心地のよい職場となったのでした。

 ◎ある土砂降りの日、閉館後の図書館で恒雄さんを含めた4人の館員がマージャンをしていて、トイレに立ったひとりが、床が水浸しになっているのに気づきました。4人いたのが不幸中の幸いで、みなが急いで書架の一番下の棚にある本を上に移して大切な本を濡らさずに済んだのでした。翌朝、マージャンのことを知らない館長から「よくやった」と褒められたということです。

 ◎1959(昭和34)年、国立七尾海員学校で英語の非常勤講師をするアルバイトの仕事が、恒雄さんに舞い込みます。出講は図書館が休館日の月曜に1時限だけ、教科書は高校レベルの英会話が中心で、恒雄さんは英語の堪能なイタリア人神父に英会話を習いながら授業を進めます。文字どおり泥縄式のこの経験が、数年後にイギリスでの研修生活で役立つことになります。