図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

恩を忘れず、中傷をバネに

 まだ10代の後半だった前川恒雄さんは、家族5人で暮らす金沢の狭いわが家をときどき訪れていました。恒雄さんが第四高等学校(略して四高=しこう)の理科甲類、金沢大学工学部の学生だったころで、ちょうど10歳年下の私は小学生でした。恒雄さんは私の父母の甥、正確に言えば、恒雄さんの母と私の父とが姉弟、恒雄さんと私とは従兄弟、という関係です。

 私自身はあまり覚えていませんけれど、金沢に住んでいる姉によりますと、叔父・甥のふたりは、電灯を消して寝床に入ってからも話しつづけることがあったそうです。

 後年、恒雄さんは私に「お父さんにはとてもお世話になった」と何度も言っていました。安月給の数学教師だった父が、話し相手、相談相手となる以外にお世話というほどのことをしたかどうか、私は知りません。父から聞いたのは「恒雄は家からの仕送りなしで頑張っとるがやぞ」など、いつも褒め言葉でした。

 四高を受験するとき、前日からわが家に泊まっていた恒雄さんは、試験当日の朝、「受験票は持っているな」と父に声をかけられ、持っていないことに気づいて一瞬うろたえました。父がすぐ四高に電話をかけて甥を安心させたということです。これは、私が恒雄さんの自伝執筆をサポートするために、聞き取りをしていたときに聞いた話です。

 受験と言えば、私が大学入試に合格した直後、たまたま(だと思いますが)わが家にやって来た恒雄さんが「お祝いを買ってあげよう。何か欲しい物はあるかな」と言ってくれました。当時の私は、『吾輩は猫である』の登場人物、バイオリンを弾く寒月君が好きで、いつかバイオリンを弾きたいと考えていて、「近くの古道具屋に、いつまでも売れないバイオリンがあるから、それを買って」と頼みました。でも、「そんな高い物は買えないよ」と一蹴され、代わりにフランス語の辞書を買ってもらったのでした。

 恩知らずはたいがい嫌われますけれど、恒雄さんは忘恩の徒が人一倍嫌いな人でした。とうぜん彼自身は恩義を人一倍強く感じる人だったと思います。「ありがたかった」「お世話になった」「応援してくれた」「その一言で救われた」「力を与えられた」「信頼してくれた」「その人がいなければ、どうなっていたか判らない」などと、事例を挙げて何度聞いたかわかりません。

 仕事面に限ってその理由を考えれば、何かを成し遂げようと努力する過程で、しばしば無知・無理解・誤解・曲解・嫉妬などによる中傷にさらされた恒雄さんは、自分を理解し信頼してくれた人たちの小さな親切や温かい言葉が身にしみてうれしかったに違いありません。

 一般に、未熟だと自覚する人が大きな責任のともなう仕事を任されたとき、その負託に応えるべく必死に努力すること自体、自分を選んでくれた人の信頼や恩に報いようとする意味合いがあります。また、批判や中傷、偏見や冷遇などの標的にされた人が、それをバネにして成長する例も少なくありません。

 野村胡堂のエッセイ集『胡堂百話』の中に「忘れられない人達」という小篇があります。作家として歩み始めたころに注目してくれた人、銭形平次を誕生させるきっかけを作ってくれた人、雑誌に連載を書けるようにしてくれた人などを、実名をあげて紹介したあとに、次のように書いています。

 「どうにか食えるようになるまでには、無数の嘲笑と、悪罵と、陥穽の中をくぐり抜けなければならなかった。その中にあって、心からの好意というものは、それが、どんなにささやかなことでも、忘れがたいものである」と。

 童話作家アンデルセンの『自伝』には著者の敵や批判者が数多く登場し、彼は「それらの人たちをまとめて阿呆年鑑ができる」という意味のことを書いています。敵や批判者がたくさんいた恒雄さんではありますけれど、自伝を書いていれば、阿呆年鑑の代りに恩人年鑑ができていたことでしょう。