図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館へ本を寄贈する人たち(5)個人による大量の蔵書の寄贈

 個人がまとまった蔵書を図書館に寄贈した例は、無数と言ってよいほどにあります。寄贈者の多くは作家や学者ですけれど、ほかにも実業家、政治家、軍人、官僚、宗教関係者、在野の研究者・専門家、(古)書店主、愛書家、旧家の当主、コレクター(地図・写真・レコード・書画)などとその遺族・関係者がいます。

 生きているうちに個人が図書館にまとまった蔵書を寄贈するばあい、生まれ育った地やゆかりの地、それらの土地でよしみを通じた人びとへの「恩返し」の気持ちが、しばしば底流にあります。たとえば、

 

 19世紀後半に活躍してわずか44歳で亡くなったロシアの小説家・劇作家アントン・チェーホフ1860年-1904年)は、十代の後半に一家が破産して経済的な苦境に立たされます。ところが、1876年、チェーホフが16歳のとき、住んでいたタガンローグに市立図書館ができ、彼は貧しくて買えなかった本を図書館で読むことができるようになったのでした。その利用には保証金が必要でしたが、不都合なことが何もなければ夏休みの前に返金してもらえました。

 後年、短篇小説と戯曲によって文名の高まったチェーホフは、社会福祉活動に資金を投じ、3つの学校の建設費を負担したりしました。その中のひとつが、生まれ育ったタガンローグの図書館への本の寄贈で、手元には必要な本だけを残し、市長には送り主を伏せておくように頼んだ上で、1894年から98年まで、10回以上にわたって寄贈をつづけたのでした。(1)

 

 国語学者金田一春彦(1913年-2004年)は、高校卒業時と晩年の少なくとも2度、図書館に本を寄贈しています。

 最初は、1927年3月、旧制浦和高校を卒業して東京帝国大学への進学が決まったとき、「大学は授業が始まるのが遅いので、四月十日すぎまで浦和の三上家にいた。私は私を幸せにしてくれた埼玉県に感謝の気持ちで、持っていた本を相当量埼玉図書館に寄贈した」のでした。(2)

 2度目は1998年、彼が山荘を建てていた山梨県大泉村八ヶ岳大泉図書館に、方言に関する蔵書およそ22,000冊を寄贈したものです。それが2004年に北杜市立図書館に含まれる「金田一春彦記念図書館」の一角、「金田一春彦ことばの資料館・日本の方言コーナー」として残され、利用されるようになりました。「ここには先生が生前収集された蔵書・資料などが、約2万8千点あり、先生の直筆の原稿などが約100点収められている展示コーナーなど」があるということです。(北杜市立図書館のウェブサイト、20200115)

 

 次に、太平洋戦争終結直後に、西北研究所の所員の発案で、中国・天津(てんしん)にいた日本人の本を天津図書館に寄贈した、奇妙な例をご紹介します。

 西北研究所というのは、1944年にモンゴルの張家口(ちょうかこう)という町に設立された研究機関でした。所長は今西錦司、副所長は石田英一郎、研究員には藤枝晃、磯野誠一・富士子夫妻、梅棹忠夫など、のちに生態学民族学文化人類学東洋史学などの分野で立派な仕事をした人たちがいました。けれども、研究所としての活動は、1944年春から翌45年夏までの、1年余りに過ぎませんでした。理由は、日本の敗戦です。

 広島に原爆が投下され、その数日後にソ連が参戦したとき、ソ連軍と外モンゴル軍が張家口に入ってくることを恐れた研究所の人たちは、天津へ避難しました。以後のいきさつは、当時まだ正式の研究所員でなかった梅棹忠夫の後年の回想(3)によります。

 到着した天津の町は平和で、居留民団や軍からの放出物資が豊かでした。各地から天津に避難してきた日本人のための収容所は、出入りが自由で、所内に学校ができ、映画会や演芸会も開かれました。天津にいる人たちの引揚げが近づきますと、多くの人が故国に持って帰れない身の回りの品々を売り始めました。帰国時の荷物に制限があったからです。そのような状況下、藤枝晃という30代半ばの研究所所員が「古本屋」を開業しました。店の要領は次のとおりです。

 発案:藤枝晃所員。

 目的:日本人の持っている「文化財」を、中国(天津の図書館)に寄贈すること。

 資金:在留日本人が提供し、総領事館を経て支出。

 商品:「低俗な読み物から、高級な学術書まで」。

 売買:本は売らずに、客が持参した本を現金で買うだけ。

 買値:「一律に定価の一〇倍」。

 店員:「大番頭」=藤枝晃、「店長と会計係」=総領事館関係者、「手代」=梅棹忠夫

 首尾:大繁盛。

 なお、発案者の藤枝晃研究所員は、西北研究所の所員となる前に、京都の東方文化研究所で短期間ながら図書室勤務の経験がありました。

 

 「文化財」や「古本屋」で思い出すのは、日本近代文学館(公益財団法人)に寄せられた多くの寄贈の第1号です。日本近代文学館のウェブサイトにある「文庫・コレクション一覧」のトップに記載されているのが、ひとりの古書店主による1,200回にわたる寄贈だからです。

 1963年に設立されたこの団体は、作家、研究者、出版社、新聞社などの協力によって維持・運営されてきた、日本の「近代文学に関する総合資料館、専門図書館」でもあります。そこは「現在、図書や雑誌を中心に、数々の名作の原稿も含め、120万点の資料を収蔵」していて、個人による寄贈の文庫とコレクションは2018年末で164件に上っています。その中には著名な作家の原稿や書簡、日記や愛用していた日用品などが数多く含まれていて、それらはまさしく「文化財」にほかなりません。

 また、ここは専門図書館を自称するだけあって、15歳以上が利用でき、館内での閲覧(1日300円)やコピー(モノクロ1枚100円)などのサービスを受けられますが、貸出はしていません。

 寄贈の第1号といいますのは、1963年に始まった品川力(しながわ・つとむ)という古書店主による寄贈でした。「文庫・コレクション一覧」の「概要」によりますと、「26,801点。寄贈回数は1,200回を超す。内村鑑三原稿、織田作之助書簡などの肉筆のほかポー、ホイットマン文献など稀覯書多数」ということです。ご子息の品川純氏は「日本の古本屋」のメールマガジン(20130917)で次のように書いています。「父の持論で、貴重な文献類は自分一人で死蔵せず、また散逸しないように駒場日本近代文学館にせっせと愛車の自転車で運んでは寄贈していました。」

 寄贈回数が1,200回を超えたのは、自転車で運んだからなのですね。

 

 昔から洋の東西を問わず、図書館を支援する寄付者・寄贈者が何らかの条件をつける例が少なくありませんでした。たとえば、

 民俗学者柳田国男(やなぎた・くにお)は、1947年、大量の蔵書とともに自宅で民俗学研究所を開設しましたけれど、10年後の1957年に閉鎖のやむなきにいたりました。そのとき蔵書の移管を引き受けたのは成城大学でした。仲介の労をとったのは柳田に師事していた今井富士夫教授、引き受けた図書館長は柳田と同郷の池田勉教授ということで、さらに都合のよいことには、大学が新しい図書館を建設中でした。

 正式に寄託に合意するとき、「この本を使用されていた{柳田}先生は、移管して後も直ちにそのまま継続して使用できることが第一条件だった」ということです。また、「晩年まで関心を持ち続けた南島研究については、自分の収集した文献を基にして、さらに推し進めるように本学{成城大学}に要望した」のでした。その要望に応えて、成城大学の文芸学部には文化史コースが設立されています。

 その後、柳田国男が亡くなりますと、遺言によって蔵書はすべて大学に寄贈され、1973年には成城大学民俗学研究所が創設されています。なお、同大学に寄贈された柳田文庫の蔵書は、「和漢書約15,500冊、洋書約1,500冊、逐次刊行物約1,500種」だということです。(成城大学のウェブサイト、20200203)

 

 公立図書館や大学図書館にまとめて寄贈された本は、ほとんどのばあい、旧蔵者や遺贈の労をとった人の満足できる結果になりますけれど、ごくまれに寄贈する側の期待が裏切られることもあります。たとえば、

 14世紀イタリアの詩人で、ルネサンスの先駆者のひとりとされるフランチェスコ・ペトラルカは、公共図書館を創設するために自分の蔵書をヴェネチアに寄贈しました。彼は交換条件として住まいの提供をもとめ、その条件は満たされたものの、いつまでも図書館はつくられることなく、彼の死後、その蔵書はヨーロッパ各地に散らばってしまいました。

 2017年、日本でも、桑原武夫京都大学名誉教授の遺族が京都市図書館に寄贈した約1万冊の本が廃棄される例がありました。図書館は、受け取った本を段ボール箱およそ400箱に入れたまま6年間放置し、あげくの果てに古紙回収に出したのでした。いろいろな意味で、何とも残念です。

 

参照文献:

(1)佐藤清郎『チェーホフの生涯』(筑摩書房、1966年)

(2)金田一春彦『わが青春の記』(東京新聞出版局、1994年)

(3)梅棹忠夫『回想のモンゴル』(中公文庫、1991年)