図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

フィリップ・アーサー・ラーキン(Larkin, Philip Arthur, 1922-1985)

 フィリップ・ラーキンは、1950年代から60年代にかけて発表した詩集によって高く評価されたイギリスの詩人です。

 彼は、オックスフォード大学を卒業直後に就職した小さな公共図書館を皮切りに、63歳で死去するまで、切れ目なく3つの大学図書館に勤めました。けれども、詩人としての栄光が華々しかっただけに、まじめに責任を果たしつづけた図書館員としての姿は、影が薄い印象を否めません。

 1940年、生まれ故郷コヴェントリーがドイツ軍の爆撃によって大きな損害をこうむる数か月前、ラーキンはオックスフォード大学のセント・ジョンズ・カレッジで英語英文学を学び始めていました。翌1941年に受けた徴兵検査で、彼は視力が兵役に耐えられないという理由で不合格となります。

 

 1943年、大学を優秀な成績で終えたラーキンは、11月からイングランド中西部にあるウェリントンという小さな町で、図書館員として働き始めました。「フィリップ・ラーキン協会」のウェブサイトにあるエッセイ(1)によりますと、その図書館は蔵書およそ4,000冊、そのうち3,000冊がフィクション、職員1名(ラーキンの前任者は70歳代の人)、勤務は午前9時から午後8時半まで、あいだに数回の休憩時間、という恐るべきものでした。でも、兵士として戦っている同年代の若者のことを思えば、文句は言えませんね。

 と、彼自身が考えたかどうかはともかく、図書館について何も知らなかったラーキンは、本の購入、分類と目録づくり、貸出、書架の整頓、質問への回答などに加えて、「ボイラーに火をたくことや、蝋引き灯心でガス灯に火を灯すこと」もやり、必要に迫られてon the job trainingを実践したのでした。

 

 蔵書や貸出冊数が彼の在職中に倍増したとしても、スタートしたのがミニ図書館ですから、司書の資格を得るための勉強をつづけながら仕事に慣れてくれば、彼にとっては大した苦労ではなかったでしょう。

 事実、1946年9月に次の職場へ移るまでに、ラーキンは初めての詩集『北の船』を出版し、小説の処女作『ジル』を完成させることができたほか、熱心に図書館通いをしていた5歳年下のルース・ボウマンという女性と相思相愛の仲になっていました。ただし、それらの詩集も小説も成功作とは言えず、ルースとはのちに婚約したものの、結婚するには至りませんでした。(2)

 結局、ウェリントン公共図書館での勤務は3年弱ということになります。

 

 ラーキンが次の就職先であるレスターのユニヴァーシティ・カレッジ図書館の求人情報を見つけたのは、最初のばあいと同じく新聞の広告によってでした。新たな就職先となる図書館の館長ローダ・ベネットは、彼を採用する条件として、通信教育によって図書館の専門職資格を得るための勉強を提案し、それに応じたラーキンはイギリス図書館協会の試験に合格し、1949年にその準会員になったのでした。

 このカレッジは学生わずか200人、図書館員わずか4人。というわけで、ここでもラーキンはさまざまな仕事をこなす必要がありましたけれど、カレッジ全体のアットホームな雰囲気や思いやりのある上司にも恵まれて、仕事面は順調でした。

 一方、私生活面では、1947年に出版した小説『冬の少女』の評判が期待外れ、1948年の父の死去、婚約の解消、出版をめざした詩集がつぎつぎと出版社に断られるなど、順調とはほど遠い状態でした。

 ラーキンのこの図書館の在職期間はまる4年でした。

 

 1950年10月、28歳になったばかりの図書館員ラーキンの第3ステージが始まります。舞台は北アイルランドベルファストにあるクイーンズ大学図書館で、彼は職員数20人ほどをまとめる副館長になったのでした。とはいえ、管理的な仕事ばかりでなく、カウンターで貸出やレファレンス・サービスをし、閲覧室と書架への目配りなど、それまで経験してきた図書館ほんらいの仕事もこなしていました。

 このように、ラーキンが気に入っていたベルファストの町での暮らしがつづいた4年半ほどのあいだ、彼は小説の執筆をあきらめ、もっぱら詩作に励むようになりましたけれど、まだ芽が出るには至りません。その代りというわけではありませんが、3人の女性と仲良くなります。

 初めは、クイーンズ大学図書館の新入職員ウィニフレッド・アーノットという女性、ついで彼が亡くなるまで付き合うことになるモニカ・ジョーンズという女性、最後に、人妻だったパトリシア・ストラングという女性でした。

 ラーキンがこの図書館を辞めて次の任地であるハル大学図書館に移ったのは、1955年3月でした。そのきっかけは、クイーンズのJ. J. グラネーク館長が、ハル大学図書館長の募集広告をラーキンの机の上に置いてくれたことでした。副館長の仕事ぶりに満足していた館長は、あえてラーキンを次のステージに送り出そうとし、推薦までしてくれたというわけです。(1)

 ということで、彼のクイーンズ大学図書館での在職期間は4年5か月ほどでした。

 

 図書館員ラーキンの最終第4ステージとなったハル大学図書館で、彼は亡くなる1985年12月までの30年9か月間、館長を務めました。その間、教授館長や著名な作家館長としてでなく、図書館の専門職資格をもった実務経験のある館長として、職責を果たしたのでした。

ハル大学図書館の退職者たちはおしなべて、ラーキン館長が優れた図書館員で世話好きなボスだったと証言していたとのことです。具体的には、①新入職員に目をかけ、困っている人の相談に応じていた、②図書館協会の試験を受けようとしている職員にボランティアで教えていた、③知的能力が抜きん出ていて、才能は多方面に及んでいた、④皆が彼を支えようとした、などです。(1)

 ハル大学とその図書館は1960年代から1975年代の半ばまで順調に成長し、財政規模が拡大してゆきます。ラーキンが図書館長になった1955年時点で12人だった図書館職員は、1974年には90人を超えていました。この成長期に学長だったサー・ブリンモア・ジョーンズは、在任中に図書館長ラーキンの支持者でありつづけたため、恩義に報いようとしたラーキンの提案で、ハル大学図書館は1967年にブリンモア・ジョーンズ図書館という名称に変わりました。このように貢献者の個人名を冠する図書館は、欧米の大学には無数と言ってよいほどあります。

 貢献といえば、ラーキンはイギリスの文学と図書館にかんする一風変わった貢献をしています。つねづね彼は、当時の英国作家の生の原稿や文書がほとんどアメリカの大学図書館に落札されていくのを見過ごせないと考えていました。そこで、イギリスの「国立図書館および大学図書館の常設委員会」(SCONUL)のメンバーとなったのを機に、この件で警告を発します。その結果、芸術協議会が「現代詩人の{のちに「現代作家の」}原稿コレクション」活動を始め、ラーキン自身が1972年から79年までその議長をつとめたのでした。いかにも作家と図書館員とを両立させた人らしい発想が実現させた功績ではないでしょうか。

 

 詩人としてのラーキンは、1955年に出版した詩集『欺かれること少ない者』によって認められ始めます。翌年、有力紙『ガーディアン』に定期的に詩の書評を書き、1961年から71年まで『デイリー・テレグラフ』紙に毎月1回ジャズ評論を寄稿しつづけます。ジャズを聴くことは、彼の若いときからの趣味だったのでした。

 1964年、久々に出した詩集『精霊降誕祭の婚礼』も前著と同じく好評を博しただけでなく、「詩歌のための女王金メダル賞」を受賞し、彼の詩人としての評価を確かなものにします。

 その後も、ラーキンは文学関係の賞をいくつも受賞し、名誉博士号をいくつも与えられ、文学賞の審査委員長や団体の会長などもつとめました。1984年には、イギリスの詩人にとって最高の名誉ともいえる桂冠詩人となるチャンスを与えられたにもかかわらず、「一般公衆からの称賛やその地位に関するメディアの注目を受け入れがたい」(3)として、それを辞退しました。イギリスの桂冠詩人は、一時期にひとりしか存在させない制度で、原則として、現任者が死去しななければ後任が選ばれることはありません。

 

 20代の中ごろに父を亡くしたラーキンは、以後ずっと母親のエヴァを大切にし、彼女が91歳で亡くなる数年前まで同居しつづけ、彼自身は結婚をしませんでした。何人もの女性と交際した中で、ラーキンが出会いから自分が死ぬまで付き合ったのはモニカ・ジョーンズという知的な女性でした。彼女が病気になった1982年、彼はモニカを自宅に引き取って一緒に暮らしましたけれど、1985年にラーキンが先に亡くなってしまいました。

 死後、ラーキンの意志によって、彼の日記は勤務先の図書館の秘書が館内で裁断・焼却しました。けれども、『ラーキン書簡選集』(1992年)とアンドリュー・モーション著『フィリップ・ラーキン:ある作家の生涯』(1993年)が相次いで出版されるや、全くと言ってよいほど知られていなかったラーキンの私生活が明るみに出、女性蔑視や人種差別を思わせる発言が物議をかもしました。(2)

 ともあれ、ラーキンの生涯は、高名な詩人がキャリアを通じて図書館員でありつづけた稀有の例でした。

 

参照文献

(1)My particular talents : Philip Larkin's 42-year career as a Librarian / by Richard Goodman (The Philip Larkin Societyのウェブサイト、アクセス20191205)

(2)ラーキンの個々の詩と女性関係については以下の2点に詳しい。

  1. 高野正夫著『フィリップ・ラーキンの世界』(国文社、2008年)
  2. 高野正夫著『フィリップ・ラーキン:愛と詩の生涯』(春風社、2016年)

(3)Philip Larkin Biography / by James L. Orwin (The Philip Larkin Societyのウェブサイト、アクセス20191205)