図書館ごくらく日記

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司馬遷(しば・せん BC145?-BC86?)

 司馬遷は、『史記』という歴史書を書いた人として有名ですね。けれども、彼の生きた時代が2000年以上前ですから、その人物像については分からないことがたくさんあります。

 司馬遷の伝記的なことがらについての唯一と言ってよい手がかりは、『史記』「列伝」の最後にある「太史公自序」です。これは、序文と内容説明を兼ねたもので、『史記』を書くに至ったいきさつや全体のおおまかな構成、著者である自分とその父司馬談(しば・たん)について書かれています。

 

 司馬遷は夏陽県(今の陝西省韓城県)で紀元前145年または紀元前135年に生まれたとされています。「太史公自序」には「10歳で古文を暗誦した」と書かれていますので、太史令(たいしれい)として仕事をしていた父の薫陶をうけた優秀な子どもだったのでしょう。

 20歳になりますと、足かけ3年にわたって、彼は漢の版図を広く巡ります。旅の目的は定かではありませんけれど、そのときの見聞や資料収集が、のちの執筆活動に役立ったことは間違いないと思われます。

 

 長い旅行から戻った司馬遷は、宮中を守る郎官という職の中でいちばん下の位の郎中という役人になります。紀元前124年から108年までの15年間の郎中職在任中、彼は時の天子である武帝行幸随行したり、みずから使者として西南の異民族の地へ行ったりすることもありました。徐々に皇帝の信頼を得ていったのでしょうね。

 紀元前110年、太史令という役人だった父の談が亡くなり、その3年後に息子の遷がその職を継ぎました。前漢時代の太史令と言いますのは、暦の作成と祭祀・儀礼に加えて、歴史的なことがらの記録をおもな仕事としていました。それらの職掌との関連で、太史令が国の文書や書物の管理も担っていたとする研究書が少なくありません。たとえば、

 

 バートン・ワトソン『司馬遷』は、「百年ほどのあいだに、失われずに残っていた書物・過去のことを記した記録は、例外なくすべて太史公によって収集された。太史公は父子相継いでその職に当った」と「太史公自序」の当該部分を訳しています。(1)

 この部分は、たとえば小川環樹ほか訳『史記列伝 5』では次のような文章になっています。「百年ほどのあいだに、天下の遺文と故事の記録は、ことごとく太史のもとへ集められた。太史公は父子あいついでその職務をひきついだ。」(2)

 伊藤徳男『『史記』と司馬遷』は、「武帝期の太史令の職掌をまとめると、主務として天文暦法を司り、祭祀典礼の準備とそれへの奉仕にあたり、読み書きの試験を掌る職務があった。そのほかに、史官としての職務もあったのだろうか。一口に史官といっても、歴史上の事実を記録すること、それを整理管理すること、その記録によって史書を書くことなど、大きく区分しても三事となる」としています。(3)

また、藤田勝久『司馬遷とその時代』は、太史令の職務を5つ挙げるなかに「王朝図書の整理」を含めており、太史令だった「司馬談は、官吏になる人々の教育と、図書の整理にかかわる役所で勤務していた」と書いています。(4)

 岡崎文夫『司馬遷』では、「太史令は秩六百石、下大夫というから、決して高い官位ではない。その職掌は専ら星暦を掌ったと称せらるるが、それのみでなく宮廷の図書を掌る事もその重なる任であったらしい」となっています。(5)

 

 「失われた」文書や書物が100年ほどのあいだに集められたというのは、秦の始皇帝による焚書や楚漢戦争などによって焼失・散逸した書物や記録を、漢の初代皇帝高祖(劉邦)以降に集めたということです。集めた場所は、長安の宮中などにあったいくつもの書庫で、中には特別に貴重な資料をおさめるための、石造の書庫や金属製の箱もありました。

 焚書坑儒によって悪名の高い始皇帝を弁護した人が日本にもいました。桑原隲藏(じつぞう)という東洋史学者です。その「秦始皇帝」には、もちろん書物を焼くことは悪いことには違いないけれども、多くの古い書物が失われた責任は、秦の首都だった咸陽(かんよう)の宮殿を一挙に焼き尽くした楚の項羽や、官府の藏書の保護を怠つた劉邦や蕭何(しょうか)らのほうが始皇帝よりも重いという論旨が展開されています。また、「坑儒事件に就いては、始皇の暴戻を責めんより、むしろ諸生の卑怯を憫むべきことと思ふ」としています。(6)

 

 司馬遷の父の談は、紀元前110年に亡くなりますが、駆けつけた遷に対して、「自分の後を継いで太史になり、自分が果たせなかった歴史書の執筆をやりとげてほしい」と遺言します。

 司馬遷が太史令だったのは、父の死後3年目の紀元前108年から、李陵事件で獄に下った紀元前98年までの足かけ11年でした。その間、武帝行幸に2年つづけて随行したほか、太史令の本来の職務である暦の改定にも従事しました。

 ということは、彼が王朝の書庫に蔵書を充実させ、資料を整理・管理しながら、それらを活用していたのは11年間ということになります。当時はまだ紙が発明されたかされなかったかという時期でしたから、書物にするような内容が書かれた材料は、簡牘(かんとく=木簡・竹簡)のうち、とくに竹簡でした。同じ大きさ(標準の形は、長さ約23センチ、幅1~2センチ、厚さ2~3ミリ)にそろえられた簡牘には、毛筆と墨で文字が記され、丈夫な紐でつなぎ合わされたものが書物になったのでした。(7)

 このような書写材料の時代、書物は現在の紙の書物とは比べようもないほど、かさばる物でした。また、それらを読み、メモをとり、文章を書くに際しては、現在とは比べようもないほどの手間や時間、記憶力や集中力が必要だったに違いありません。

 

 司馬遷が『史記』の執筆を始めたのは紀元前104年、太史令となって5年目のことでした。佐藤武敏司馬遷の研究』によりますと、漢代の官僚は勤務期間中は官舎に住み、5日に1日あたえられる休日にだけ帰宅できました。だとすれば、公務の余暇に自宅で『史記』の執筆をできるはずがなく、「司馬遷は太史令として官庁保存の各種資料を読み、太史の官庁にあって『史記』執筆にあたったものということになるであろう」と、著者は結論づけています。(7)大量の資料が必要な歴史関係の調査・研究・執筆には、参照できる資料が傍らにあることが(とりわけ当時としては)不可欠でしょう。著者のこの説には説得力があると思われます。

 

 順調に進んでいた『史記』の執筆がとつぜん中断するのは、司馬遷が紀元前99年に李陵の事件で罪を問われ、下獄せざるを得なくなったからでした。この史実を素材にして中島敦が「李陵」という短篇を書いていますので、この一件をご存知の方も多いと思います。事件のいきさつは次のとおりです。

 紀元前99年、武帝に命じられて将軍李広利が兵をひきいて匈奴単于(ぜんう=君主)の軍に対して出撃します。そのとき李陵は後方で物資を補給する任務を与えられましたが、自分も出撃したいと願い出て武帝に許されました。李陵軍5,000は単于軍30,000に対して善戦しましたけれど、最後に包囲されて投降しました。それを知った武帝は怒り、臣下も同調した一方で、司馬遷だけが李陵を弁護したとき、武帝の怒りの矛先が司馬遷に向かったのでした。

 司馬遷は刑吏によって死刑の判決を下されました。しかし、父の遺言に従って『史記』を完成させなければならないと考えていた司馬遷は、恥を忍んで宮刑(去勢)を願い出ました。望みどおり命は助かりましたけれど、彼はなお獄中で数年を過ごさねばなりませんでした。

 

 紀元前96年の大赦によって出獄した司馬遷は、中書令という職を拝命します。その職務については諸説があって、はっきりしていません。ただ、出獄後の司馬遷は、武帝行幸随行したことがあり、『史記』の残りの部分を書きつづけてもいましたので、大赦によって許されたばかりか、むしろ晩年の武帝に尊重され、厚遇されていたようです。

 このようにして紀元前90年ごろに完成した膨大な歴史書に、著者の司馬遷は『太史公書』のタイトルをつけました。それが、のちに『史記』と呼ばれるようになったのでした。

 『史記』が対象とした期間は、紀元前2500年ごろとされる黄帝から漢の武帝までのおよそ2,400年、その内容を記述に沿って大別すれば、本紀(ほんぎ)12巻、表10巻、書8巻、世家(せいか)30巻、列伝70巻、合わせて130巻、文字数は52万6,500字です。

 

参照文献

(1)バートン・ワトソン著、今鷹真訳『司馬遷』(筑摩書房、1965年)

(2)司馬遷著、小川環樹ほか訳『史記列伝 5』(岩波文庫、1975年)

(3)伊藤徳男『『史記』と司馬遷』(山川出版社、1996年)

(4)藤田勝久『司馬遷とその時代』(東京大学出版会、2001年)

(5)岡崎文夫『司馬遷』(研文社、2006年)

(6)桑原隲藏「秦始皇帝」in『桑原隲藏全集 1:東洋史説苑』(岩波書店、1968年)

(7)冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代:書記の文化史』(岩波書店、2003年)

(8)佐藤武敏司馬遷の研究』(汲古書院、1997年)