図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ロラン・バルト(Barthes, Roland Gérard, 1915-1980)

 20世紀後半に活躍した評論家・記号学ロラン・バルトは、1915年にフランス北西部のシェルブールという港町で生まれました。当時32歳の海軍中尉だった父親のルイは、長男バルトがまだ1歳にならないうちに戦死してしまいます。22歳の母親アンリエットは、パリに住んでいた裕福な自分の両親を頼らず、夫の両親が住んでいた、スペインとの国境に近い町バイヨンヌで暮らし始めます。内気な幼児ロランはここで9歳まで過ごすうち、叔母にピアノを教えられ、それが終生の趣味のひとつとなりました。

 1924年、母とともにパリに移住したロランは、モンテーニュ高等中学校とルイ=ル=グラン高等中学校で学びました。この2校では、フィリップ・ルベロールという同級の秀才と仲良くなり、のちに図書館の就職口を紹介されたりします。

 ロランが10代のころの生活は、経済的には苦しいものでした。母のアンリエットが製本の仕事を習い覚え、かろうじて生計を立てていたからです。けれども、ロランの学業は優秀で、長期休暇になるとバイヨンヌの祖父母の家へ出かけて、ピアノや読書を楽しむことができました。

 

 ところが、1934年、18歳のとき、ロランは結核にかかり、以後12年にわたって、高地での療養とパリ大学での途切れがちな学業とを繰り返します。彼が療養生活を送った施設のひとつが、フランス南東部のイゼール県にある学生サナトリウムでした。そこには、学生患者の暇つぶしにおあつらえ向きの図書室があり、年かさであったためか、ロランはその管理を任されます。

 「図書室は非常に充実していた。彼はサルトルの『嘔吐』、『壁』、のちには『存在と無』を読む。とりわけミシュレを読みながら、小さなカードにメモを取り、彼が生涯にわたって実行することになる仕事のやり方を完成する。{1文略}

 ロランは図書室の管理を任されていて、すぐれた実務能力を発揮する。ある書物はほとんど借り手がないのに、他の書物は非常に多いことに注目して、彼のいわゆる《回覧制》なるものを設ける。つまり、もっとも多く借り出される本はリストに挙げられ、特別に分類され、別扱いされる。それらの本は絶対に二週間以内に返却しなければならないが、他の本については期限はない。そうすることによって、人気のある本の迅速な回転を確保しようというのである。」(1)

 これがロラン・バルトの最初の、そして真面目な「図書館員」体験というわけです。

 結局、彼が結核にかんして病院やサナトリウムから解放されるには、1945年の胸の手術を経て、1946年2月まで待たなければなりませんでした。

 

 さて、元気にはなったものの、30歳になって高等中学校の臨時教員の職歴しかなかったロラン・バルトに救いの手を差し伸べたのが、尊敬しあう仲でありつづけたフィリップ・ルベロールでした。彼は外務省職員としてルーマニアの首都ブカレストにあるフランス学院に勤めていて、そこの付属図書館員のポストが1年後に空く予定だと知らせてくれただけでなく、いくばくかの生活費を送ってくれたのでした。

 1947年12月、母アンリエットを伴なってブカレストに赴いたロラン・バルトは、3万冊以上の蔵書のあるフランス学院図書館の運営にたずさわるかたわら、フランス語を教え、講演をします。

 ところが、バルトがブカレストへ着任した年末にルーマニアの王政が崩壊し、代わって共産党政権が成立しました。これを機に、ルーマニア政府当局がフランスと距離をとり始め、1年後の1949年1月にはフランス学院が閉鎖を命ぜられます。ほとんどの職員が追放の憂き目に遭うなか、「バルトは何人かの職員とともにあとに残る。彼はなお三カ月のあいだ、この見捨てられた建物のなかで、書類を整理し、日常の業務をさばき、迅速に処理する。…図書館の本をフランスびいきのルーマニア人たちに分け与えようとするが、彼らは用心して受け取らない。そこで彼は、解決策を探し求め、大学図書館に寄贈しようとするが、いたるところで無関心と皮肉の壁のようなものに突き当たる。」(1)

 バルトは1949年9月末までブカレストにとどまりましたので、ここでの図書館員の経験は、1年10か月ほどだったことになります。

 

 以後のバルトは、若い日の病魔との長い闘いが報いられるかのように、運命が好転します。

 1952年、国立科学研究センター(CNRS)から給費をうけて、研究に打ち込めるようになります。

 1953年、母方の裕福な祖母が亡くなり、遺産を相続した母子の生活が安定し、バルトの初めての著書である『零度のエクリチュール』が新聞・雑誌などの書評欄でおおむね好評を博します。

 1957年、以前に雑誌に連載した社会時評をまとめた『神話作用』が一般読者にも受け入れられ、ロングセラーとなります。

 1960年、44歳で国立高等研究院(フランス国立高等研究実習院)の研究主任となり、その2年後には研究指導教授に昇格します。

 1966年、招かれて日本を訪れ、引きつづき1968年初頭までに2度訪日し、日本で得た印象をユニークな著書『表徴の帝国』(別の日本語訳では『記号の国』)として1972年に出版します。

 1975年、一種の自伝である『彼自身によるロラン・バルト』を出版します。「一種の」と言いますのは、全編が断章から成っていて、自伝らしからぬ風変わりな書き方がされているからです。

 1977年、フランスの研究者にとって最高の名誉であるコレージュ・ド・フランスの教授となります。バルトがこの職につくことができたのは、先に教授になっていたミシェル・フーコーの応援を得てのことでした。また、この年に発行された『恋愛のディスクール・断章』は売れ行きの好調な著作のひとつとなりました。

 

 国立高等研究院でもコレージュ・ド・フランスでも、ロラン・バルトセミナーはとても人気がありました。また、彼は講演や対談、インタビューや寄稿などの依頼に積極的に応じたほか、少なくとも年に1冊は著書を出しつづけました。

 1980年2月25日、昼食会に招かれた帰途、歩いて道を横切ろうとしたバルトは、小型トラックにはねられて重傷を負い、3月26日、入院先の病院で息を引き取ります。64歳でした。独身を通した彼がいつも一緒に暮らし、分身のように大切にしていた母アンリエットは、1977年に84歳で亡くなっていました。

 

 なお、『ロラン・バルト著作集』全10巻(みすず書房、2003~2017年)や『ロラン・バルト講義集成』全3巻(筑摩書房、2006年)のほか、それらに含まれていない多くの著作が日本で翻訳刊行されています。死後20年以上経ってから著作集や講義録が刊行されたという事実は、根強い支持者が日本にいるという証しなのでしょう。

 

参照文献

(1)ルイ=ジャン・カルヴェ著、花輪光訳『ロラン・バルト伝』(みすず書房、1993年)