図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

高橋景保(たかはし・かげやす 1785-1829)(書物奉行:その3)

 江戸幕府で天文方(てんもんかた)という役職をつとめた高橋景保は、1785年(天明5年)、大坂で生まれました。下級武士だった父の高橋至時(よしとき)は、長男の景保が誕生した2年後に、優れた天文学者だった麻田剛立(あさだ・ごうりゅう)に入門し、その6年後に天文方に就任します。

 天文方は、天体観測を行なって毎年の暦(カレンダー)をつくり、それが日食や月食などの現象と合わなくなると改暦を行なうのが仕事でした。江戸時代の4度の改暦のうち、3度目の改暦施行は、1798年(寛政10年)、景保の父至時が責任者として行なわれました。

 天文方にはもうひとつ大切な仕事として土地の測量がありました。現代の常識からすれば、暦をつくる仕事と土地測量には何の関係もなさそうですが、当時は大いに関係がありました。土地の測量によって天体観測の正確さを確かめる一方、天体観測によって土地測量の正確さを確かめていたからです。たとえば、1795年(寛政7年)、至時が大坂から江戸に出て初めて命じられた天文方の仕事は測量御用手伝いでしたし、のちに彼の監督・支援のもとで全国の土地測量をつづけた伊能忠敬は、同じ年に20歳ほど年下の至時に弟子入りしています。

 

 息子の景保は1797年(寛政9年)に江戸へ出てきて、幕府直轄の教育機関となったばかりの昌平坂学問所に通い、数年後に素読吟味というテストで好成績をおさめました。また、父の至時から天文関係の学問を教えられていました。専門職である天文方は家職として世襲されるので、父が子を仕込むのは普通のことだったのです。

 1804年(文化元年)、父の至時が40歳の若さで病死しますと、20歳の長男景保が跡を継いで天文方に任命されます。すぐに直属の上司である若年寄堀田摂津守などの信任を得た景保は、それ以降、矢継ぎ早に仕事を命じられ、次のような多方面の仕事を着実にこなしてゆきます。

 

 ①1807年(文化4年)、世界地図を作るよう命じられ、イギリス製の世界地図などを参考にして、3年後に「新訂万国全図」を製作しました。

 ②1809年(文化6年)、伊能忠敬の地図をもとに、仮の日本全図である「日本輿地図藁」(にほんよちずこう)を作成しました。「仮の」と言いますのは、北海道がほとんど描かれておらず、忠敬が測量していなかった西日本部分が概略図だったからです。

 以降、父と同様に、伊能忠敬の測量事業を監督・支援する役割をにない、1821年(文政4年)に初の精密な日本地図である「大日本沿海輿地全図」を完成させました。

 ③1809年(文化6年)、国内外の地誌を編纂する仕事のうち、外国にかんする部分を担当するよう命じられます。

 ④1810年(文化7年)、満州語を仕事として研究するよう命じられます。そのきっかけは、彼が2年前に命じられたロシアからの外交文書(満州語)の翻訳を、この年に完成したことです。以後、満州語の研究は景保のライフワークのひとつとなり、数冊の著作を刊行するにいたります。

 ⑤1811年(文化8年)、景保の建議によって天文方に蛮書和解御用(ばんしょわげごよう=蕃書和解御用とも書かれます)が創設され、その責任者となります。この掛りは、ごく簡単に言えば幕府の翻訳機関で、当初はオランダ語の達者な人を集めて翻訳の仕事をしました。

 ⑥1814年(文化11年)、天文方より格上の書物奉行を拝命し、書物奉行兼天文方となります。書物奉行は、国立図書館の管理職のようなもので、これは天文方のほんらいの職分ではありませんでした。

 なお、書物奉行とその職場だった紅葉山文庫については、当ブログの「青木昆陽書物奉行:その1)」に簡単な説明があります。また、同じく当ブログでとりあげた近藤重蔵は、1808年(文化5年)から1819年(文政2年)まで書物奉行の役にあり、6年間ほど高橋景保と同僚だったことになります。

 景保の方は、1814年(文化11年)2月の就任から死去する1829年(文政12年)2月まで書物奉行の職にありましたので、まる15年の在職ということになります。その間、数日おきに紅葉山文庫へ交替出勤をし、書物の収集に努めたほかは、近藤重蔵のようなめざましい業績を挙げることはなく、もっぱら文庫にある書物の利用者だったように思われます。

 

 このように、高橋景保はみずから天文学の研究と観測、外国語の書物や文献の翻訳を行ない、天文方、伊能測量隊、蛮書和解御用などの部下たちを統率して、それぞれの人たちが立派な業績を挙げることに貢献しました。

 これらの仕事に共通して必要とされたのが、洋学の最新の成果、つまり未見の洋書や外国の資料でした。彼我の差をよくわかっていた景保の立場であれば、「急いで手に入れなければ」という気持になるのは当然ですね。それが理由かどうか、彼は国禁を犯してしまいます。シーボルト事件です。

 

 1826年(文政9年)、オランダ商館にいたドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、商館長の江戸参府に随行しました。道中、彼は多くの日本人に歓迎されました。来日翌年の1824年(文政7年)、長崎の出島に開いた鳴滝塾の弟子や友人・知人が各地にいて、港に停泊するたびに喜んで会いに来たからです。また、助手といっしょに緯度・経度や太陽の高さなどを観測することも忘れませんでした。

 シーボルトが江戸滞在中に会った多くの人の中に、高橋景保がいました。ふたりは何度か会って情報のやりとりをするうち、お互いが欲しい資料を交換することを約束します。その結果、景保が提供した資料のうち日本地図と蝦夷地図がとくに重大な犯罪とみなされ、シーボルトが提供したのはクルーゼンシュテルンの『世界一周記』とオランダ領東インドの地図でした。

 

 この事実は秘密にされて、2年近くは何事もなく過ぎました。ところが、1828(文政11年)の春になって、シーボルトから景保宛に送られた小包の中に間宮林蔵宛のものが同封されていたことがきっかけで、景保に疑いがかけられるようになります。

 内偵を進めた町奉行は、同年10月に景保を逮捕しました。評定所(ひょうじょうしょ)での取調べに対して、景保は「国のためにしたこと」だと弁明します。取調べがつづけられる中、翌1929年(文政12年)2月、彼は獄中で病死してしまいました。その遺骸は「死罪」の判決が出るまで塩漬けで保存されたということです。

 

 この事件は高橋景保が主犯ですが、日本側で協力した(あるいは「させられた」)天文方の配下や長崎の通詞(通訳)など数十人が何らかの処分を受けています。罪が重いとされた人たちには遠島(島流し)・永牢(終身牢)が申し渡されました。

 一方のシーボルトは、長崎で何度も取調べと家宅捜索を受けた末に国外追放という処分になり、1829年(文政12年)12月に出国しました。けれども、彼はちょうど30年後に追放処分を解除されて再来日し、長崎に3年間住みながら幕府に招かれて江戸へ行くこともありました。

 

参照文献

上原久『高橋景保の研究』(講談社、1977年)

嘉数次人「江戸幕府天文学(その10)」(『天文教育』v. 21, no. 6, 2009.11)

呉秀三シーボルト先生:其生涯及功業』第2版(吐鳳堂書店、1926年)(国立国会図書館デジタルコレクション 20191010)

シーボルト記念館「シーボルトの生涯」(長崎市の同館のウェブサイト 20191019)