図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ローベルト・ムージル(Musil, Robert, 1880-1942)

 オーストリアの作家ローベルト・ムージルは、20世紀の前半にいくつかの話題作を発表したオーストリアの作家です。その代表作である『特性のない男』は、ほぼ同時期に活躍したマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』やジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』などと並んで、20世紀の小説に大きな影響を与えた作品だと言われることがあります。

 

 このうち、プルーストムージルにはいくつかの共通点がありました。社会的地位の高い父親が、堅実な職場である図書館に息子が勤められるよう手助けをしたこと、息子のほうは創作へのやみがたい思いをかかえつつ、図書館に籍を置いたこと、代表作の執筆に10年以上を費やし、結局、存命中にその完成作品を刊行できなかったこと、にもかかわらず死後にその作品の評価が高まったこと、などです。

 

 ムージルの学業としましては、中学・高校にあたる時期に陸軍のふたつの実科学校で学び、大学は父が教授をしていたドイツ工科大学へ進み、ついで急角度に方向を変えてベルリンにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で哲学と心理学を学びました。

この大学に在学中に処女作品『生徒テルレスの混乱』を書き上げ、1906年の出版にこぎつけます。この小説は評判がよく、翌年に4度の増刷を重ねるほどでしたけれど、発行元の出版社が倒産してしまいました。

 ムージルの学業は、1908年、27歳で哲学博士号を取得して終わります。

 

 1909年、30歳近くなっても腰の落ちつかない息子を案じた父アルフレートは、ローベルトがウィーンにある帝=王室図書館に就職できるよう、人を介して図書館に働きかけました。その結果、父の目論見どおりとはいきませんでしたけれど、1911年春、ローベルトはウィーン工科大学図書館の無給見習いに採用され、実務研修に従事します。けれど、初めから気乗りしなかった就職先が、案じていたとおり自分の時間を奪うのを嘆いて、彼は日記に次のように書きます。

 「3週間前から図書館勤務。耐えがたい、殺人的だ(そこにいる間はあまりにも耐えがたい)。ぼくはまた辞職して、漠然としたものの方へ方向をとるつもりだ。」(1

 そのころ、マルタという女性と結婚して一家を支える責任者となった一方、『合一』という短編小説集を出版したムージルは、いずれ文筆で身を立てることを「漠然としたものの方へ方向をとる」と表現したのでしょう。

 図書館での実務研修は次のようなものでした。

 「図書館長フェヒトナーと書記のゼートラクから、彼は新しい職業のために徹底的に<調教>された。そこで、「優秀な図書館員たるものの秘密は、任せられた書物のうちで、その標題と目次以外はけっして読まないこと」であることも学んだ。」「また、「本を並べたり、保存したり、整理したり、本の扉の誤植や誤記を訂正したりするための」文献目録や方式を学んだ。」(2

 いやいやながら出勤していたとはいえ、ローベルトはその資質と精励ぶりを評価されたのでしょう、19121月に2級司書に昇進し、給与を支給される身分となりました。

 

 2年余り図書館勤めをしていたムージルは、19135月に6週間の病気休暇に入ったのを皮切りとして、同じ年の8月末から3か月間、12月末からさらに数か月間の病気休暇を得て、図書館の仕事をほとんどしなくなってしまいました。

 191421日、彼は『新展望』という雑誌の編集者の職を得、翌日、ウィーン工科大学図書館に退職を願い出ます。結局、図書館での仕事は、見習い期間を含めて約3年間、病気休暇期間を除けば約2年間ということになります。

 

 1914年と言えば、第一次世界大戦が始まった年です。ようやく執筆活動に本腰を入れられそうになった矢先、ムージルはまた急角度に方向を変え、8月に兵役を志願します。配属されたのは歩兵連隊、入隊後3か月で中尉に昇進、体をこわして『チロル兵隊新聞』の編集者に転属、そこへ匿名で多くの寄稿、入隊後23か月後に大尉に昇進などと、191812月に軍籍を離脱するまで、ムージルは軍務に精を出したのでした。

 彼は20歳のときに志願兵として歩兵連隊に勤務した経験があり、22歳のときには予備役少尉に任命されてもいますから、故国の危急時にすすんで軍務につく覚悟はあったのでしょう。

 その後のムージル1919年から22年にかけてオーストリアの外務省や軍事省に勤め、それがいわゆる職歴の最終章となりました。ここからは、筆1本で生計を立てなければなりません。

 

 40歳代の前半、ムージルは戯曲『熱狂家たち』や短編小説集『三人の女』を刊行し、新聞・雑誌に劇評を書くなどして、作家としての地歩をかためます。『三人の女』の版元だったローヴォルト社が、1924年にムージルの既刊本の版権をすべて握り、ムージルが構想していた長編小説の前金として月に200マルクを支払う契約を結んでくれました。フランツ・カフカの著作を手がけるなどして、作家の才能を見抜く慧眼の持ち主だったローヴォルト社の社長は、ムージルの次作に期待したのですね。

 

 ところが、期待された作家の筆が進みません。193011月に『特性のない男』の第1巻が刊行されるまで、7年が必要でした。その間、ムージルはこの長編小説を新聞や雑誌に1章ずつ発表します。

日本では新聞や雑誌に小説を連載して、完結後に単行本化する例は明治時代からありまして、珍しくはありませんでした。とくに多くの読者を惹きつけた新聞の連載小説作家には、夏目漱石吉川英治がいます。けれども、ムージルのように、未発表作品の章をとびとびに新聞などに発表した例はなかったのではないでしょうか。考えられる理由はいくつかありますけれど、最も大きな理由は生活費をかせぐためだと思われます。なぜなら、長編小説の第1巻を書き上げるために心血をそそぐあまり、エッセイなどを書いて原稿料をかせぐ余裕がなくなり、結果として家計は苦しくなる一方だったからです。たとえば、193016日の日記には、「あと数週間しか生きていけない。{妻の}マルタはぼくに事態をはっきり認識させてほしいといっている」(3)と書いています。

 

 ムージルのこの窮状に、個人や団体が入れ替わり立ち替わり手を差し伸べました。

 彼を支援した個人のなかで最大の有力者だったのはトーマス・マンでした。マンはムージルより5歳年長で、ふたりは1919年に知り合っています。その後の10年余りはこれといった交流がありませんでしたけれど、『特性のない男』の第2巻が刊行されたとき、マンはある雑誌でこの長編を激賞し、プロイセン芸術アカデミーの助成委員会に対して、ムージル500~1000マルクを交付するよう訴えます。

 193810月にムージルが「露命をつなぐため、トーマス・マンに一回限りの緊急援助を懇願」(3)しますと、翌月、マンは多額の援助金をムージルに提供したのでした。

 

 『特性のない男』の第2巻は、第1巻の刊行からほぼ2年後の193212月に刊行されました。このときも第2巻に含まれるいくつかの章を刊行前に新聞や雑誌に発表し、ローヴォルト社は新聞に大きな広告を掲載したにもかかわらず、売れ行きは芳しくありませんでした。また、過去に書いた約30篇のエッセイ・評論集『生前の遺稿』(1935年刊)の売れ行きも惨憺たるものでした。

 

 このように、ムージルが追い詰められていったのには、『特性のない男』の構想の練り直しやたび重なる推敲のほかに、ナチス・ドイツによる抑圧があったことも否めません。

 初めのうちはムージルの作品を好意的に批評した人たちへの批判にとどまっていたものが、1936年以降はムージルの著作が発禁処分を受けるようになります。『生前の遺稿』の販売部数がのびなかった一因は、この本が発行の2か月後にナチス親衛隊によって発禁処分を受けたことです。

 1938年はムージルが崖っぷちに立たされた年でした。その原因は、

ドイツがオーストリアを併合したこと、

ローヴォルト社からムージルの出版権を引き継いでいた出版社がイタリアへ逃れたこと、

彼を支援していた人たちの多くが国外へ移住・亡命したこと、

ムージルと妻のマルタも8月にスイスへ逃れたこと、

ムージルの著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に載り始めたこと、などです。

 

 19404月、ついにムージルの全著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に掲載されました。翌年の9月、彼は以前から金銭的な支援をつづけてくれていたアメリカのチャーチ夫妻への手紙に、次のように書いています。

 「{スイス}国内でなんらかの所得を求めることは外国人、とりわけ歓迎されざるよそ者には厳しく禁じられています。毎度毎度さらし者になるとわかっていながら滞在許可証を更新する二、三カ月ごとに、けっしてそのようなことを試みない旨、神かけてかつ執拗な脅迫のもとに誓わなければならないのです。」(4

 収入をもたらすはずの著作を「有害」とされ、亡命の地で生計を立てようにも、身過ぎ世過ぎはまかりならぬと脅されては、立つ瀬がありませんね。

 

 ムージル1936年、水泳中に脳卒中の発作を起こし、近くにいた友人に助けられて軽い後遺症が残っただけで大事にいたらなかったことがありました。けれど、1942415日の、自宅での脳卒中の場合は助かりませんでした。

 

 私は、コリーノの『ムージル伝記 3』にある「年譜および居住・滞在の記録」の終り近くを読んでいまして、194111月、「日記の中で結婚生活を総括」、19421月半ば、「{7歳年上の}マルタに、ドストエフスキー夫人にならって夫の著作を自費出版するよう促す」という部分が気になりました。自分の死を予感していなければ、そのような行動をとらないのではないかと思ったからです。

 ムージルの研究者・翻訳者の早坂七緒氏は、ムージルに関する「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」という論文の中で、次のように書いておられます。

 「マルタとの結婚記念日にムージルは世を去った。筆者は自然死ではないのではないかと思い、可能な限り調査したが、医師による死亡診断書はどうしても入手できなかった。」(5

 そして注記には、かなわなかったムージルの死因究明のいきさつがくわしくつづられています。要約しますと、

2000年ごろと2006年とに、求められた費用を送金して死亡診断書{の写し}を請求したところ、初回は結果として成果ゼロ、次回は「ローベルト・ムージルの氏名と死亡日時の記された紙片」を受けとっただけ。

 2012年にはフランス語を母国語とする協力者を伴ってジュネーブの役所へ行き、渡された文書を(写真撮影はできないと言われたので)許された15分間で書き写した。それを外で待っていた協力者に見せたところ、「これは死亡診断書ではない」と言われた。

 早坂氏のいかにも研究者らしい追究に対して、スイスの警察や役所の人を食った対応が残念ですね。

 

参照文献

1)ローベルト・ムージル著、圓子修平訳『ムージル日記』(法政大学出版局2001年)

2)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 1』(法政大学出版局2009年)

3)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 3』(法政大学出版局2015年)

4)アードルフ・フリゼー編、加藤二郎ほか訳『ムージル読本』(法政大学出版局1994年)

5)早坂七緒「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」in『人文研紀要』78号(中央大学人文科学研究所、2014年)