図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

森鷗外とふたりの親族(もり・おうがい 1862-1922)

 ここでは、森鷗外と弟の潤三郎、長女茉莉(まり)の夫だった山田珠樹をご紹介します。

 

(1)森鷗外

 森鷗外は、本名林太郎、父は津和野藩(現:島根県)の御典医だった静泰(明治維新後に静男と改名)、母は峰子というしっかり者の女性でした。林太郎が生まれたのは1862年文久2年)ですけれど、のちに東京医学校の予科に入学するとき、2歳の年齢不足をいつわって1860年(万延元年)生まれとし、以来、表向きはそれで通しました。

 と言いますのも、林太郎少年は医学校予科へ入学願書を提出する時点で、四書五経オランダ語、ドイツ語を学んでいて、学力は十分すぎるほどについていたからでした。

彼が藩の儒者について四書の素読を始めたのは満4歳、その後も藩校などで漢学をつづけ、家に帰れば母の監督下で復習をしました。満8歳になりますと、父や父と同業の藩医からオランダ語を学び、1872年(明治5年)、満10歳のときに林太郎は父とともに上京し、私塾でドイツ語を学びます。「栴檀は双葉より芳し」の典型だったのですね。

 

 1877年(明治10年)、15歳のとき、東京医学校が東京大学医学部となり、林太郎はその本科生となります。同級には、終生の友となる賀古鶴所(かこ・つるど)や軍医として同じ道を歩んだ小池正直(こいけ・まさなお)がいました。このころの寄宿舎生活をもとにして書かれた『ヰタ・セクスアリス』には、語り手の「僕」をいつも小僧呼ばわりする同室の学生が、古賀という名前で登場します。賀古鶴所は林太郎より7歳年長、寄宿舎ではじっさいに同室、古賀は賀古の文字順の入れ替えというわけで、鷗外はこの人物のモデルは賀古ですよ、と示唆しているのですね。

 

 1881年明治14年)、19歳で首尾よく大学を卒業した林太郎は、しばらく父の経営する医院で診療にあたったあと、数か月後に医官・軍医としておもに衛生制度の研究に従事します。4年後の1885年(明治18年)、林太郎に飛躍のチャンスが訪れました。官費によるドイツへの留学です。使命は、陸軍の衛生制度調査と衛生学研究、師とすべきはライプツィヒのホフマン、ミュンヘンのペッテンコーファー、ベルリンのコッホでした。この3人は世界一流の医学者で、衛生学や細菌学の権威でした。

 林太郎は1888年までの4年間、陸軍の高官から指示されたとおり研究に従事しつつ、西洋の文学や美術にも親しみます。

 

 帰国の翌年から、林太郎は堰を切ったように医学関係の文章を発表する一方、鷗外という筆名で小説、評論、翻訳を発表し始めます。とくに1889年(明治22年)からの5年間ほどは、医学雑誌2誌と文学雑誌1誌を創刊し、その他の雑誌にも寄稿するなど、健筆をふるいました。その中で、彼を有名にしたのは、「舞姫」にはじまる文学関係の著作でした。この作品は、古い文体でありながら、今でも高等学校の国語の教材として幾種類かの教科書に採用されています。1892年(明治25年)には、「舞姫」「うたかたの記」「文つかひ」のほか、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカ、スペインなど世界各国の小説の翻訳を収めた『美奈和集』を出版して、文名を不動のものとしました。

 

  一方、医学の分野での林太郎は、学界が企てた一大イベントを批判して、主筆を任されていた『医事新誌』という雑誌を追われ、それに対抗してすぐさま『医事新論』という雑誌を創刊して批判をつづけるなどの波乱はあったものの、それが陸軍内での昇進のさまたげとはなりませんでした。

 また、1889年(明治22年)から数年間、東京美術学校の専修科で美術解剖学の講師をつとめ、1892年(明治25年)からは慶應義塾大学で審美学の講師をつとめています。

 ということは、20代後半から30歳ころまでの鷗外・林太郎は、軍医、作家、大学講師の3足のわらじを履いていたということになります。

 

 軍医である森林太郎は、日清・日露の戦争に従軍しました。日清戦争に出征するにあたって、彼は2種類の雑誌『しがらみ草紙』と『衛星療病志』を廃刊とします。万が一に備えた身辺整理だったのでしょうか。

 日露戦争(1904年=明治37年)のときには、出征する前に雑誌『万年艸』を廃刊し、遺言を書いています。これも万が一をおもんぱかった措置のようですけれど、全7項からなるその遺言には際立った特徴があります。要旨は、

 第1項:自分の死後の財産は、長男森於菟と自分の母の森峰子で2等分すること。

 第2項:その条件は、長男於菟が相続する分によって、自分の祖母、妻志げ、弟潤三郎、長女茉莉の生活費や結婚費用をまかなうこと。

 第3項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んだばあい、於菟の財産は妻志げに管理させず、自分の弟の篤次郎と妹の小金井喜美子に管理させること。

 第4項:この第3項の条件が自分に遺言を書かせる動機なので、その理由を明らかにしておく。すなわち、森志げは長男於菟(林太郎の先妻の息子)と同居して1年以上になるのに、正当な理由なく彼と言葉を交わさず、正当な理由なく自分の母の峰子、弟の潤三郎との同居をつづけることを拒み、この3人に対して悪意をもっているから、自分の遺族の安否を託すことができないのである。

 第5項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んで、遺族恩賜金や寡婦孤児扶助料を受けるばあい、たとえ受取人が森志げとなっていても、それらの金は第3項に示した管理者に管理させて遺族全体の安全をはかることを望む。

 第6項:この遺言証書は母の森峰子に管理させる。

 第7項:遺言の執行は冨塚玖馬氏と自分の妹婿である小金井良精に委任する。(1)

 際立った特徴とは、森林太郎の母親への信頼・尊重に対して、妻への不信・冷遇が一目瞭然だということです。しかも、妻にかんする言葉は、あからさまで具体的です。なぜこのような遺言を書いたかを勘ぐれば、いくつかの可能性が思いつきますけれど、長くなりそうなので省きます。

 

 以後も林太郎・鷗外は陸軍軍医と作家活動の両面のほか、文部省の美術審査委員会や臨時仮名遣調査委員会、文芸委員会などで委員をつとめ、あいかわらず精力的に仕事をつづけます。作家としては、以前と異なるジャンルに軸足を移す趣きを見せて、和歌や歴史小説、戯曲や漢詩などを多作します。

 軍医としては、1907年(M40年)に陸軍軍医の最高ポストである陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任したものの、3年後に軍医の人事権をめぐって陸軍次官らと対立しはじめ、辞職の申し出と慰留による翻意をくりかえした末、1916年(大正5年)に依願退職を果たします。

 

 ところが、退職から1年半余りが経って、林太郎は宮内省が所管する帝室博物館と図書寮(ずしょりょう)のトップへの就任を打診され、1917年(大正6年)12月、勇躍これを受け容れます。帝室博物館のトップは総長、図書寮のトップは図書頭(ずしょのかみ)と言いました。

 図書寮は律令制の時代から日本にありましたけれど、林太郎がトップに就いたころの図書寮は1884年明治17年)に宮内省に設置されたもので、おもに皇室にかかわる記録を編集・作成し、関連する書物などとともに保存する部署でした。

 帝室博物館は東京、京都、奈良の3つの国立博物館からなり、総長はふつう東京の博物館に出勤します。林太郎のばあい、月・水・金の3日は午前8時から午後4時まで博物館で勤務し、火・木・土の3日は午前8時から午後1時まで図書寮で勤務しました。出退勤の時刻をきちんと守ろうとするのが林太郎の常で、軍医高官時代にはそれが新聞種になるほどでした。結局、博物館総長と図書頭との兼務は、1918年1月から死去するまでの4年半だったことになります。

 

 ここでは森林太郎の図書頭としての業績をふたつご紹介します。

①『天皇皇族実録』の編修

 『天皇皇族実録』の編修は1915年(大正4年)に始まり、その後の4年間でわずか4名の皇族分を仕上げただけでした。森図書頭は、就任するや、計画を立て直し、担当職員を増やし、服務規程を定めて膨大な事業の推進を図りました。

②『帝諡考』(ていしこう)の執筆・刊行

 帝諡とは、天皇崩御後に送る称号のうち、人格をほめたたえる意味をもつもののことです。

 林太郎が「図書館に就任した当時、図書寮では帝諡考を編輯するや否やが問題になってゐたさうであるが、兄は就任後直に編輯する事に決定した。これは歴代天皇諡号の出典を考察したもので、自ら筆を執って僅一年半で完成し、今回完成されるに至ったのである。」(2)

 つづいて林太郎は『元号考』の執筆にとりかかり、大化から大正までの元号について、改元の時期と理由、典拠とされた文献などを調べ始め、この努力は死の数日前までつづけられましたけれど、完成には至りませんでした。

 

 腎臓と肺をわずらって体力が衰えつつあった林太郎は、妻の志げや子どもたちが頼んでも、親友の賀古鶴所が勧めても、医師の診察を受けようとしません。

 そして1922年(大正11年)7月6日、亡くなる3日前に、最後の遺言を口述して枕元の賀古鶴所に代筆してもらいます。要旨は、

 一切の秘密なく交際した友人に{遺言を}代筆してもらう。誰も口出しをしてはならない。

 どのような官憲威力であっても、死という重大事件には反抗できないと信ずる。

 自分は石見の人、森林太郎として死にたい。

 だから、縁故のある宮内省や陸軍の栄典は絶対にやめてもらいたい。

 また、墓には「森林太郎墓」以外に1字たりとも彫ってはならない。(1)

 

 この遺言にも際立った特徴があります。似たような言葉をくり返して「絶対に思いどおりにしてほしい」と訴えているからで、何人もの人がこの遺言の意図を推測ないし憶測しています。一例を挙げますと、評論家の山室静は次のように書いています。

 「その{遺言の}はげしい語気は、まるで彼が一生その禄を食んできた陸軍省宮内省の官憲に対して満腔の憤りと不平をぶちまけたかのようで、言わば死を盾にとって絶縁を宣言しているのである。そこにはたしかに怨恨のようなものが鋭く深く篭められているとも言える。とにかく陸軍省宮内省関係の人々が読めば、かなり不快な遺言であったに相違ない。」(3)

 

 でも私には、この遺言が、憤りや怨恨に根ざした陸軍省宮内省への絶縁宣言だとは思えません。

 森林太郎・鷗外は、長男として、家長として、細やかな気遣いをもって森家を守り支えた人でした。衛生学者として、陸軍の軍医・高官として、(時には大きな判断ミスをおかしつつも)軍と国民の健康増進のために励んだ人でした。文部省や宮内省から声がかかれば、喜んで要請に応じた人でした。自発的な創作・翻訳だけでなく、新聞や雑誌の求めに応じて、文芸関係の執筆を厭わない人でした。そして、死期の近いことを自覚する中、あえて脚を引きずりながら博物館と図書寮に通いつづけた人でした。

 というわけで、森林太郎・鷗外にとっての死は、自らが選んだ浮世の「しがらみ」や「くびき」からの解放だったと考えられます。よって、この遺言は、「最期だけはわがままを通したい」「かみしもを脱いで旅立ちたい」という、自らの解放宣言だと解釈するのが妥当ではありますまいか。言外に、「世のため人のため、人事は尽くした」という自負があるのは言うまでもありません。

 

(2)森潤三郎(もり・じゅんざぶろう 1879-1944)

 森鷗外(林太郎)にはふたりの弟(篤次郎・潤三郎)とひとりの妹(喜美子)がいて、森潤三郎はきょうだいの末っ子でした。鷗外と潤三郎には17歳の年齢差があります。

 1901年(明治34年)、東京専門学校(今の早稲田大学)史学科に入学した潤三郎は、在学中に『朝鮮年表』(春陽堂、1904年)を刊行します。

 

 早稲田大学を卒業した潤三郎は、東京帝国大学史料編纂掛として史料解読の仕事をしていましたけれど、あいかわらず朝鮮への関心やみがたく、1908年(明治41年)、「わたくし{潤三郎}は、京都帝国大学教授上田敏博士の推薦で京都に赴任した。わたくしは始め朝鮮に赴く希望であったが、身体の弱いのを案じて許してくれなかった兄{鷗外}は、京都は親友上田博士の推薦である為に許してくれたのであった。」(2)

 

 赴任先は京都府立図書館、在職期間は1909年(明治42年)から1917年(大正6年)まで、足かけ9年でした。その間、彼は仕事のかたわら歴史の研究をつづけ、兄鷗外が歴史小説を書くときなどに、調査の依頼に応じています。たとえば、

 「{兄が}「伊澤蘭軒」を書き出してからは、京都に関係する事に就いて屡わたくしに照会あり、又気の付いた事をお互に知らせ合って、その都度本文に書き加へてある」ということです。また、潤三郎が東京へ戻ったとき、鷗外の執筆中の作品について夜遅くまで語り合ったこともありました。

 

 1912年(明治45年)3月、彼は米原思都子という女性と結婚します。彼女は、鷗外が4歳のときに四書の素読をならった儒者米原綱善の長女でした。津和野で行われた結婚式に、なぜか長兄の鷗外は出席していません。彼は生まれ故郷に決して戻ろうとしなかった人というのが定説となっていますけれど、かわいがっていた弟とお世話になった旧師の長女との晴れの日にも、津和野に足を踏み入れなかったのでした。

 

 森家の4きょうだいのうち、林太郎(鷗外)、篤次郎(三木竹二)、小金井喜美子は文学に手を染めていますけれど、潤三郎だけは一貫して文献の調査と研究をつづけた人でした。京都府立図書館を退職したあとも、東京帝国大学伝染病研究所の図書室に勤めるなどしていますから、歴史研究や文献調査がよほど性に合っていたのでしょう。

 

 なお、森潤三郎の著作には、兄鷗外についての『鷗外遺珠と思ひ出』(昭和書房、1933年)、『鷗外森林太郎伝』(昭和書房、1934年)『鷗外森林太郎』(丸井書房、1942年)などのほか、図書館関係の『決定版 紅葉山文庫書物奉行』(鷗出版、2017年)があります。

 

(3)山田珠樹(やまだ・たまき 1893-1943)

 山田珠樹は、森鷗外の女婿にあたる人です。つまり鷗外の長女である茉莉(1903-1987)の夫で、ふたりは鷗外が存命中の1919年(大正8年)に結婚しています。夫婦の年齢差は10歳、茉莉は高等女学校を卒業したばかりの16歳でした。

 

 山田珠樹は、1917年(大正6年)、中学時代からの同窓生で2歳下の鈴木信太郎らと同人誌『ろざりよ』を創刊します。この雑誌を介して、彼は5歳年長の辰野隆(たつの・ゆたか)とも親しくなり、のちに3人とも東大でフランス文学を教えることになりました。

 この仲良し3人組に共通するのは、東京生まれ、実家が裕福、一高・東大出身、専門がフランス文学、愛書家、といったところでしょうか。いちばん年かさの辰野隆によりますと、「親友山田珠樹、鈴木信太郎の両君が正に此種の天狗のカテゴリイに属する豪の者」(4)だそうで、「此種の天狗のカテゴリイ」とは、珍本、稀覯書、豪華版などを追い求める人たちのことです。

 

 山田珠樹は、留学させてやろうという親のありがたい申し出にしたがって、フランスへ渡ります。長男の爵(じゃく)が誕生した翌年の1920年(大正10年)のことでした。渡仏するときには心理学を学んでくるつもりでしたけれど、同時期にパリに滞在していた辰野隆内藤濯(ないとう・あろう)らと親しく交わるうちに、関心がフランス文学へ移っていきました。

 

 渡仏2年後の1923年(大正12年)8月に帰国しますと、待っていたかのように起こったのが9月1日の関東大震災でした。このときの地震とそれにともなう建物の倒壊、津波、火災などによって、東京府と神奈川県を中心に10万人以上が亡くなりました。

 山田珠樹の母校、東京帝国大学も大きなダメージを受け、とくに附属図書館はほぼ全焼してしまいます。このときの図書館長は日本図書館協会創立者のひとりである和田萬吉教授でした。彼は1897年(明治30年)から30年間にわたって図書館長の職にあった人でしたけれど、不慮の災難の責任を取る形で、翌年に辞任せざるをえませんでした。

 その後任は宗教学が専門の姉崎正治(あねさき・まさはる)教授で、山田珠樹はたまたま姉崎教授に就職口の世話をお願いしてあったため、教授は翌1924年1月に彼を附属図書館事務取扱、4月に文学部の助教授にしてくれたのでした。

 

 1925年(大正14年)、山田珠樹は司書官に昇進します。司書官というのは、1908年(明治41年)に公布された「帝国大学事務官、帝国大学司書官帝国大学司書特別任用令」にもとづく職名で、帝国大学の図書館に勤務する上級専門職員のことです。

 余談になりますが、近年ベストセラーとなった『君たちはどう生きるか』の著者吉野源三郎は、司書官ではありませんでしたが、東京帝国大学卒業後の数年間、母校の附属図書館員だったことがありました。

 

 遊学から帰国後の数年、山田珠樹はめでたく就職が決まり、罹災した図書館のために姉崎館長を補佐するかたわら、仏文科で講義を担当するなど、仕事の面では30歳を過ぎたばかりの司書官に追い風が吹いていました。

 また、司書官に昇進した年には次男の亨(とおる)が誕生して、家庭的にもうまくいっているようでした。けれど、1927年(昭和2年)、珠樹・茉莉の夫婦は離婚します。後年、妻の茉莉が書くところによりますと、「私と、夫だった人{珠樹}とは真から底から駄目になっていたので、二人には会話が皆無だった。」「ほんとうに駄目な夫婦は、会話が無くなる」状態がつづいていたのでした。(森茉莉『紅茶と薔薇の日々』ちくま文庫、2016年)

 

 結局、山田珠樹は1924年大正13年)から1930年(昭和5年)までの足かけ7年、東京帝国大学附属図書館で働きました。以後、仏文科で辰野隆鈴木信太郎らとともに教育に専念したのでした。惜しいことに、1934年(昭和9年)、肺結核のために東大を休職せざるをえず、2年後に退官して療養につとめましたけれど、1943年(昭和18年)に50歳で亡くなりました。

 

参照文献:

(1)『日本の名随筆 別巻17:遺言』(作品社、1992年)

(2)森潤三郎『鷗外森林太郎』(丸井書店、1942年)

(3)山室静『評伝森鴎外』(実業之日本社、1960年)

(4)辰野隆「書狼書豚」 in 井伏鱒二編『読』(日本の名随筆36、作品社、1985年)