図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

李大釗(り・たいしょう 1889‐1927)

 李大釗は、中国共産党の創設を主導した思想家のひとりです。また、北京大学の図書館長や教授でもありました。

 彼は1889年、河北省楽亭県の大黒沱(だいこくた)村の農家に生まれ、幼くして両親を亡くします。孤児を育てたのは、孫に教育を受けさせるだけの財力があった祖父母でした。4歳になりますと、大釗は村の私塾で四書五経などの勉強を始め、順調に成長してゆきます。

 大釗が11歳になりますと、祖父は農村の慣習にしたがって、彼を同じ村の17歳の娘と結婚させます。当時は、親が決めた結婚を認めない毛沢東のような息子が少なくなかったのですが、李大釗のばあいは夫婦仲がよく、妻は夫の祖父母にかわいがられ、近所の人たちとも上手につきあったのでした。それにしても、11歳で結婚とは驚きますね。

 

 1905年から7年まで、李は永平府の中学で旧来の学科のほかに西洋風の新しい科目をも学び、ついで1907年から13年までの6年間、天津にあった北洋法政専門学校で経済学を中心にして政治や法律、日本語や英語をも学びます。

 専門学校を卒業後、李大釗は早稲田大学政治経済学科に留学します。早稲田大学は中国からの留学生を積極的に受け入れるため、1905年から「清国留学生部」を設けていましたけれど、李大釗が留学した時にはすでに廃止されていました。

 ちなみに、李大釗とほぼ同時代に日本へ留学した経験をもち、のちに中国の政界や学界で活躍した人に、楊昌済(教育者、毛沢東の岳父)、陳独秀中国共産党の初代総書記)、魯迅(作家)、蒋介石(政治家・軍人)、周恩来(政治家)などがいます。

 

 李大釗が早稲田大学に留学する前から、故国では国をゆるがす出来事が頻発していました。彼がとくに心を痛めたのは、清朝を倒して中華民国を建設した孫文に代わって大統領に就任した袁世凱(えん・せいがい)の動きでした。

 李大釗は1916年、28歳のとき、早稲田大学を卒業しないまま帰国し、ペンの力で袁世凱政府を打倒しようとします。方法は、雑誌や新聞を創刊し、自ら筆を執って精力的に記事・論説を書くことでした。

 

 19182月、李は国立北京大学の図書館主任に招かれます。推薦したのは陳独秀、受け入れたのは自由主義思想をもった蔡元培学長でした。森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)によりますと、

 「彼は図書館制度自体についても相当の研究をしたらしい。一九一九年に行なったある講演で、彼は図書館の任務にかんする自分の考えを述べ、図書館と社会教育の密接な関係、大学に図書館学科を置く重要性を強調したことが明らかにされている。彼は綿密にプランを練り実行に移した。そして、旧来の北京大学第三院、理科の片隅にあった古びた書庫を、一九一八年八月に新築された第一院、文科の建物に移し、その一階全部を新図書館に充て、十四の書庫と五つの閲覧室を置いた」ということです。(1

また、呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)の「序論」には、より詳しく李の図書館にかんする業績が列挙されています。(2

「李大釗は中国共産党の主要な創始者1人で、北京大学図書館長も務め、図書館にも以下のような大きな貢献をした。(1北京大学図書館をマルクス主義を普及させる拠点とした。(2)自ら図書館学の授業を担当した。北京女子高等師範学院、朝陽大学、中国大学などで「史学思想史」、「社会学」、「図書館学」などの授業を担当している。(3)図書館学を深く研究し、「多くの図書館を設立する」と主張した。(4)図書館員の養成と研修を重視した。(5)北京図書館協会の設立を積極的に推進した。191812月に同協会が設立され、李大釗は中文書記に推薦された。こうした数々の業績によって、李大釗は現代図書館事業の創始者1人として確固たる地位を占めるにいたった。」

 一方、図書館主任室(館長室)とそれに隣接する会議室は、1918年の暮れごろから急進的な北京大学学生のたまり場となり、「北京大学図書館長室はまもなく「紅楼」、すなわち「紅い部屋」として知られるに至った」ということです。(3

 19219月、李大釗は図書館長の職を辞し、教授職と蔡元培学長の秘書とを兼ねるようになったため、彼の図書館勤務は約3年半で終わりました。

 

 その間、李大釗の考えは徐々にマルクス主義へ傾いていきました。その端的なあらわれが1919年に雑誌『新青年』に発表した「私のマルクス主義観」です。これは、中国で初めてマルクス主義を本格的に紹介した論文だということになっています。

 この1919年は、中国にとっても李大釗にとっても、重要な年となりました。いきさつは次のとおりです。

第一次世界大戦の講和会議が1月からパリで始まり、敗戦国ドイツがもっていた山東省の権益を戦勝国のひとつであった日本が継承すると主張したのに対して、同じ戦勝国だった中国はそれを断りました。

 容易に決着がつかない中、54日、これに抗議する北京の学生数千人がデモを行いますが、指導したのが李大釗でした。やがてこれが全国の大都市の労働者や商店のストにまで広がり、のちに五・四運動(ごしうんどう)と呼ばれるようになったのでした。

 

 旗幟を鮮明にした李大釗は、1920年、陳独秀などと共産党の創立に動き出します。このふたりは中国共産党創立の中心人物ということになっていますけれど、19217月の創立大会には、都合がつかなかったので出席していません。

 その後、急速には党勢を拡大できなかった中国共産党は、国民党との協力、いわゆる国共合作を目指します。国内の軍閥や事あるごとに内政干渉する諸国に力を合わせて対抗するためでした。このとき李大釗は孫文と面会して、共産党員が党籍をもったまま国民党員になるという条件を認めさせ、自分は共産党の中央委員でありながら、1924年には国民党の中央執行委員にも選ばれたのでした。

 19253月の孫文の死去以降、混迷を深めつつあった政情の中で、李大釗は相変わらずストライキを指導し、デモを組織し、執筆活動をつづけていました。

 けれども、192746日、逮捕を逃れるために住み込んでいたロシア大使館で、李大釗は張作霖の軍と警察によって逮捕され、428日、死刑判決が出たその日に絞首刑を執行されました。まだ37歳でした。

 

参考文献:

1)森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)

2)呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)

3M. メイスナー著、丸山松幸・上野恵司訳『中国マルクス主義の源流:李大釗の思想と生涯』(平凡社1971年)