図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館を創った人たち(2‐2)

 公立や大学の図書館建設に際して多額の寄付をした人は、日本にもたくさんいます。ここでは、建設費の全額または大半を寄付した個人、グループ、企業、財団法人などの例をご紹介します。「多額」と確認できなかった例や、大学図書館については原則として省きました。例示は図書館名の五十音順になっています。

 情報源を記載していないばあいは、それぞれの図書館のウェブサイトによっていて、それらのアクセス時期は201902~03です。

 

(2)多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち(つづき)

飯塚市立図書館(福岡県)

飯塚市は、1941年(昭和16)年に図書館を開設しました。これは、実業家だった麻生太賀吉(あそう・たかきち)が、みずからの結婚を記念して寄付した土地と、建物の建設費3万円、蔵書の購入費用1万円によって実現したものでした。(麻生グループのウェブサイト「麻生の足跡」20190302)

 

伊那市創造館(長野県)

 上伊那に図書館を作ろうという動きは1921年(大正10年)、学校の先生たちから起こりました。先生たちは資金集めの努力をしましたけれど、関東大震災や冷害のため寄付がなかなか集まりません。

 そこへ武井覚太郎(たけい・かくたろう)という実業家が名乗りをあげます。ヨーロッパやアメリカへ何度も行って、図書館や社会教育の必要性を感じていた覚太郎は、「上伊那図書館建設の費用全額、14万円(現在の貨幣価値にして7億円)を私財の中から支払いました。」

 このようにして1930年(昭和5年)に開館した上伊那図書館が、現在の伊那市創造館に発展しました。

 

臼杵(うすき)市立臼杵図書館(大分県

 「臼杵市臼杵図書館は、臼杵市出身の財界人である荘田平五郎{しょうだ・へいごろう}氏が三菱を退社するに際して、郷土の文化の向上を願い、図書館建設を発案、私費を投じ建設に着手し、大正7年「財団法人臼杵図書館」として開館したのが始まりである。工事総額26,493円58銭、運営資金には、若松港株・東京海上株の配当金が充てられた。

 現在の図書館は、昭和44年、臼杵鉄工所が創立50周年を迎えるにあたり、鉄工所創立者田中豊吉氏がその記念事業として、臼杵市に新図書館の寄贈を申し出て建設、昭和45年に開館し現在にいたっている。」(国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の参加館プロフィール)

 

越前市立図書館(福井県

 「1922年(大正11年)山本甚三郎氏から図書館寄贈の申し出があり、石造書庫3階、閲覧室2階建ての図書館建設着工。総工費約1万5千円。」

 山本甚三郎は越前府中(現在の越前市)出身の実業家でした。

 

恵那市中央図書館(岐阜県

 2007年(平成19年)、新しい恵那市中央図書館(伊藤文庫)が開館しました。鉄筋コンクリート2階建て、延床面積約2,650㎡の立派な建物で、この建設費用10億円と蔵書およそ23,000冊は、財団法人伊藤青少年育成奨学会が寄付したものでした。同財団法人のウェブサイトによりますと、「恵那市への図書館の寄贈」は理事長である田代久美子氏の永年の夢だったということです。

 

愛媛県立図書館

 愛媛県立図書館は、1902年(明治35年)に仮開館した愛媛教育協会の図書館が1935年(昭和10年)に県に移管され、愛媛県立図書館として設立認可されたものです。

 その2か月後に、伊予鉄道電気株式会社(同社社長である井上要の引退記念事業として建築)が寄贈した新築の館舎が落成します。

 

大阪府中之島図書館

 大阪府中之島図書館は、住友家第15代当主・住友吉左衛門友純(ともいと)からの寄付をもとに建設されました。友純は1897年(明治30年)に欧米諸国を訪問し、富豪が公共施設の整備などに私財を出すのに感銘を受け、自らも公共施設の建設に協力したいと考えるようになったのでした。

 1899年(明治32年)、大阪府が図書館の建設計画を発表しますと、友純は、建設費15万円と図書購入費5万円の計20万円(現在の価値で10億円)の寄付を申し出ました。この寄付金をもとに建設が開始され、1904(明治37)年に「大阪図書館」(1906年に「大阪府立図書館」と改称)が開館しました。

 なお、住友グループ広報委員会のウェブサイトによりますと、

 「興味深いのは、図書館建設の資金を提供するのではなく、図書館そのものを建築して寄贈したことだ。おそらくは、商都大阪に文化的施設を建てるのだという使命感に加え、欧米視察で“本物”を目の当たりにしてきたことで、ぜひとも自らが施主となって、その美意識を注ごうとしたのであろう」ということです。

 

岡山市立図書館(岡山県

 岡山市立図書館は、石炭貿易や輸送業で財を成した山本唯三郎(やまもと・たださぶろう)から建設資金の寄付を受けて、1918年(大正7)年に開館しました。

 「山本は、自身の財産を惜しむことなく多くの社会事業に寄付しました。岡山市立図書館のほかにも、同志社の図書館、山陽英和女学校(のちの山陽学園)の校舎、そして故郷の鶴田村には山本農学校の建設のための資金を提供したほか、後藤新平の勧めもあって鎌倉時代の絵巻物の傑作「佐竹本三十六歌仙絵巻」を一時買い支えるなどしています。」

 岡山市立図書館の開館式で来賓として出席した山本唯三郎は、教育は学校だけで行われるのではなく、図書館もあずかって力がある、だから図書館を寄付した、という意味の挨拶をしたということです。

 

喜多方市立図書館(福島県

明治33年(1900)、喜多方町は、図書館を設立するための基本金として毎年10万円余を蓄積することを可決しました。けれども、図書館はなかなか設置されませんでした。それをもどかしく思った喜多方町長の原平蔵は、自分で図書館を創ってしまいます。

 まず土地は自分の所有地、蔵書は自分と有志の寄贈、町費の補助で1913年(大正2年)に私立図書館として開館、というわけです。

 この図書館は1923年(大正12年)に喜多方町に移管され、喜多方町立通俗図書館となりました。

 

京都市図書館(京都府

 1970年代の後半、京都市は日本で人口が5番目に多い大都市で、文化都市を標榜していましたのに、なぜか市立の図書館がありませんでした。ただし、1950年から巡回文庫を走らせており、翌年に社会教育会館内に図書室を設置してはいました。

 そこへ1977年(昭和52年)、実業家の富田保治が図書館建設資金として1億円を京都市に寄付しました。寄付は以後5回におよび、総額が4億円となります。最初の寄付から4年後の1981年4月に京都市初の図書館が開館し、以後、各区に地域館が設置されていきました。

 

新発田(しばた)市立図書館(新潟県

 1927年(昭和2年)、新発田町出身の実業家、坪川洹平(つぼかわ・かんぺい)は、郷里に図書館を建てて寄贈すると町長に申し出ました。町長も議会もこの申し出を受け容れ、翌1928年秋に建設費16,000円をかけた図書館が完成します。閲覧室や書庫、事務室のほかに学習室も備えた建物だったということです。

 坪川洹平は若いころ、サラ・K・ボルトンの『貧児立身伝』に含まれているジョージ・ピーボディの伝記を読んで、自分も同じように頑張り、財を成したあかつきには彼にならって慈善事業をしようと考えたのでした。その結実のひとつが図書館の建設・寄贈だったということです。(新発田市のウェブサイト「坪川洹平:新発田図書館の寄贈者」、20190303)

 なお、ピーボディはアメリカの実業家で、生存中にかなりの数の博物館、図書館、大学を創設しています。

 

裾野市立鈴木図書館(静岡県

 裾野市立図書館には、日本ではとても珍しく、「鈴木」という個人名が入っています。それは、現在の図書館の基となったのが、同地出身の発明家でもあり実業家でもあった、鈴木忠治郎の寄付によって建てられた財団法人裾野町鈴木育英図書館だからです。

 いきさつは、次のとおりです。

 1965年(昭和40年)、鈴木忠治郎は、「勉学の志がありながら進学することのできない町民の子弟のために」1億円を基金として育英事業を始めます。事業のひとつが、設立を希望する町民が多かった図書館の新設でした。図書館の開館は1968年、名称は財団法人裾野町鈴木育英図書館、蔵書は町民や出版社の寄付・協力を受けて約6,000冊、でした。

 1990年(平成2年)、財団法人が解散するにあたり、図書館を市に寄付することになり、鈴木忠治郎の遺徳をたたえて、市は1991年から「裾野市立鈴木図書館」としたのでした。

 

◎西宮市立図書館(兵庫県

 西宮市立図書館は1928年(昭和3年)、清酒「白鹿」で知られる辰馬本家酒造(株)の社長だった第13代辰馬吉左衛門(たつうま・きちざえもん)の寄付によって建物ができました。会社のウェブサイトにある年表には、1927年(昭和2年)に「市庁舎および図書館建築費として西宮市に寄付」とあります。

 また、市立図書館のウェブサイトにある「図書館のあゆみ」には、1955年(昭和30年)、「辰馬本家酒造(株)から寄付を受け、閲覧室、書庫を増築するとともに、初めて開架式を採用」とあります。

 

沼津市立図書館(静岡県

 沼津市立図書館の始まりは1888年明治21年)にできた沼津尋常小学校の文庫(図書館)でした。その後、1952年(昭和27年)に小さな図書室ができますけれど、本格的な市立図書館はあと10年待たなければなりませんでした。1962年(昭和37年)、岡野喜太郎の4,000万円の寄付により、沼津市は鉄筋コンクリート3階建ての図書館を建設・開館し、名称を市立駿河図書館にしたのでした。

 名称に「駿河」と入っているのは、建設費を寄付した岡野喜太郎駿河銀行の会長だったからです。

 

萩市立明木(あきらぎ)図書館(山口県

 明木図書館は、1906年明治39年)、明木尋常高等小学校内に、村立としては国内最古の図書館として発足しました。その後この図書館は、1928年(昭和3年)に瀧口吉良(たきぐち・よしなが)から資金の寄付と図書の寄贈を受けて新築されます。

 彼は地方議会で長く活躍したあと、衆議院議員や銀行の頭取などを歴任した人で、ほかにも郡立図書館を萩中学校(現:萩高等学校)に創立しています。(「萩の人物データベース」20190307)

 

函館市立図書館(北海道)

 函館市立図書館の歴史は、中央図書館のウェブサイトにある「はこだての図書館」に要領よくまとめられています。図書館の建設に貢献した人たちの情報を補足しますと、次のようになります。

 明治の末ごろ、北海道の函館区に岡田健蔵というろうそく製造販売業者がいました。その地には、『函館毎日新聞』への投稿者がつくった「緑叢会」というグループがあり、そこに属していた岡田は、図書館をつくろうと提案して賛同を得ます。

 会員の協力によって1907年(明治40年)、岡田の自宅兼店舗の一角に「函館毎日新聞緑叢会付属図書室」が設けられました。これが函館市立図書館の前史となるはずでしたのに、数か月後、函館を襲った大火によってほとんどすべて焼失してしまいます。

 図書館とその蔵書の大切さを分かっていた岡田は、再び立ち上がります。函館公園内にあった公立の協同館を借り、多くの人の協力によって、2年後の1909年(明治42年)に図書館の開館にこぎつけました。名づけて私立函館図書館、運営は市民有志、建物は木造で、閲覧室、書庫のほかに食堂もあり、パン、紅茶、サイダーなどを提供していたということです。

 かねてより耐火建築の必要性を痛感していた岡田は、1916年(大正5年)、知り合いの銀行家相馬哲平に寄付を頼んで鉄筋コンクリート造りの書庫を完成させます。

 「その後小熊幸一郎{おぐま・こういちろう}の多額の寄付もあり、鉄筋コンクリート造りの図書館本館が建設され、私立函館図書館はその全てを市に移管し、昭和3(1928)年7月17日、市立函館図書館が開館しました。私立函館図書館の開館以来執事、嘱託として実質的に図書館を支えてきた健蔵は、昭和5(1930)年、正式に図書館長に就任しました。」

 小熊幸一郎は越後(新潟県)出身の漁業家でしたけれど、第2の故郷である函館のためにさまざまな公共事業に資金援助を行った人です。

 

弘前市立図書館(青森県

 弘前市立図書館は、1906年明治39年)、斎藤主(さいとう・つかさ)など5人の篤志家によって新築の図書館が市に寄付されて始まりました。蔵書は、1903年明治36年)に小学校の職員有志たちの弘前教育会が設立した私立弘前図書館から引き継いだほか、津軽古書保存会の蔵書や津軽家の文書が加えられていました。

 ちなみに、斎藤主は弘前出身の測量技師・土木技師で、図書館を新築・寄贈したのと同じころ、凶作に苦しむ西目屋村を救うために、開拓、植林、観光などの事業に手を染めています。

 

山梨県立図書館(山梨県

 山梨県立図書館は、1900年(明治33年)の山梨教育会付属図書館の開設をその始まりとしますが、30年後に独立の建物を得ます。それは、江戸時代末に甲斐国(今の山梨市)に生まれて、鉄道王と呼ばれるほど多くの鉄道会社とかかわりをもった根津嘉一郎(初代)が、1930年(昭和5年)、「鉄筋コンクリート2階建、一部3階塔屋付、総坪209坪」の図書館を寄付したからでした。

 彼は株式投資で財産をきずき、根津育英会を創設して旧制武蔵高校を創立したほか、衆議院議員をも務めました。

 

結城市のゆうき図書館(茨城県

 結城市は1992年に図書館建設検討委員会を立ち上げ、1997年に基本的な構想をまとめますと、翌1998年、同市出身の新川和江(しんかわ・かずえ)氏から図書館建設のための寄付の申し出がありました。

 図書館が開館したのは2004年(平成16年)、建物は地上4階と地下1階(駐車場)、図書館部分の面積は4,100㎡余りと、立派なものです。

 なお、新川氏は図書館の開館と合わせて詩にかんする図書約1万冊を同館に寄贈し、2004年に名誉館長となっています。

 

四日市市立図書館(三重県

 明治期、四日市の図書館は、当時の公立図書館の多くと同じように、小学校内に付設されていました。それが独立の木造建築を経て鉄筋2階建てに変わったのは、1929年(昭和4年)のことでした。地元の実業家である熊沢一衛(くまざわ・いちえ)が、昭和天皇即位の記念事業として建設し、図書2,000冊と一緒に同市へ寄贈したからでした。

 熊沢一衛は、四日市銀行頭取や伊勢電気鉄道社長を歴任した人でした。