図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館を創った人たち(1)

 王侯や貴族、僧侶など特権階級の人ではなく、ふつうの人が図書館を創ろうとした動機は何だったんでしょうか。特徴的な例によって、それを考えてみたいと思います。

 

1自らが中心となって図書館を創った人たち

 18世紀の後半に活躍したアメリカの政治家・科学者であるベンジャミン・フランクリン17061790)は、凧をあげて稲妻が電気放電によるものだと証明したことで有名ですね。

一読、とても面白い彼の『フランクリン自伝』ですが、残念なことに53歳までのことしか書かれていません。その本によりますと、学校へは8歳のときに入ったラテン語学校に1年足らず通っただけなのに、彼は書物に親しみ、独学で識見をたくわえました。そして、文才と説得術とが有力者を次々と味方にしていくのに役立ち、勤勉と倹約とが経済的な成功をもたらしたのでした。

 仲間と集まって議論をし、論文を書いたりしているうちに、24歳のころ、彼は妙案を思いつきます。

みんなの書物を集めて共同図書館を作っておけば、われわれに一つところにまとめておくつもりがある限り、その間はめいめい他の会員全部の本を使用する権利がえられ、めいめいが全部の本を持っているのとほとんど変らず有益だろう」と。

この案は実行に移されたものの、本の管理がうまくできず、1年後には共同図書館は解散となりました。でもベンジャミンは諦めません。

 「さて私は初めて公共の性質をおびた計画に手を出した。すなわち、組合図書館の計画である。私が草案を作り、この町で著名な公証人ブロックデンに頼んで定款に作成し、ジャントー・クラブの友達の援助によって五十名の組合員をえた。組合員は最初に一人につき四十シリング、以後は組合が存続する予定である五十年間、毎年十シリングずつ出す規則であった。その後、組合員が百名に増加したので、法人にする許可をえた。これが今日各地に行われている北アメリカ組合図書館の元祖である。私たちの図書館そのものも大したものになったばかりか、なおも膨脹しつづけている。アメリカ人全体の知識水準を高め、平凡な商人や百姓の教養を深めて諸外国のたいていの紳士に劣らぬものに仕上げたのは、これらの図書館である。また思うに、全植民地の住民がその権益を擁護するためにあのようにこぞって抗争に立ち上ったのも、幾分かはこれが影響によるものであろう。」(1

 これは、自分たちが勉強するために本やお金を持ちよって図書館を創った例です。現在の公立図書館の原型と言ってもよいでしょう。

 

 イギリスの評論家・歴史家だったトーマス・カーライル17951881)も、仲間を集めて図書館を創った人です。彼のおもな著書は『衣装哲学』、『英雄崇拝論』、『過去と現在』などで、日本では全集(9巻)や選集(6巻)が発行されています。

 カーライルは、執筆のために必要な文献のかなりの部分を大英博物館の図書に頼っていましたが、利用するときの不便さにいつも困っていました。資料を探す手掛かりの目録が不備であり、ようやく見つけても貸出をしてもらえず、しばしば座席が見つからないために梯子の段に腰かけなければならない、といった具合だったからです。

 そこで彼は、1838年の冬、影響力のある友人に呼びかけて、本を借り出すことができる私立の会員制図書館をつくるキャンペーンを始めました。結果、1840年に「ロンドン図書館企画委員会」ができ、委員には、大学教授や貴族にまじってチャールズ・ディケンズのような作家も名を連ね、委員長にはカーライルが就任しました。

 このキャンペーンが功を奏し、ロンドン図書館は18415月に開館します。当初の会員は500名で、そのうち女性は15名にすぎませんでした。

 カーライルは直接にロンドン図書館の業務に従事したわけではありません。けれど、生きているあいだは何らかの形で運営に参画し、1870年に初代の理事長が亡くなると、実務をしないという条件で後任の理事長職を引き受けました。(2

 このばあいは、利用していた図書館の使い難さに業を煮やした人が、より使い勝手のよい図書館を創った例ですね。

 

 日本にも自分で図書館を創った人たちがいました。

まず、越後(今の新潟県長岡市)出身の大橋佐平(18361901)です。彼は家業の材木商の手伝い、酒屋の経営、明治新政府の地方役人、新聞の発行などを経験し、1887年(明治20年)に東京で博文館という出版社を立ち上げます。

博文館は数種類の大衆的な雑誌の発行によって経営基盤をかため、つづく教養書のシリーズ発刊と合わせて業績を急速に伸ばしていきました。事業が軌道に乗った1893年(明治26年)、佐平は欧米へ視察旅行に出かけて、出版や図書館の実態を目の当たりにします。以来、図書館の設立が、若いころから教育や読書に強い関心をもっていた佐平の念願となりました。

 けれども、財団法人大橋図書館を創設すると発表した1901年、佐平は胃癌におかされていて、11月に亡くなってしまいます。佐平の遺志は、博文館の経営を継いでいた3男の新太郎が全うし、木造2階建ての図書館、レンガ造りの3階建ての書庫が19026月に竣工したのでした。

 その後、この図書館は紆余曲折(たとえば関東大震災、復興、博文館の廃業、東京都庁による自発的解散の勧告など)を経て、1953年にその経営権が西武鉄道に譲渡されました。

 大橋佐平のばあいは、文化の進んでいる欧米と比べて日本には図書館の数が少なすぎるという認識が、図書館設立の動機になったと思われます。

 

次は、一般にはあまり知られていない本間一夫(19152003)という人です。

 彼は1915年(大正4年)、北海道の増毛に生まれました。経済的にはとても恵まれた家で育ちましたけれど、5歳のころ脳膜炎が原因で失明し、13歳まで学校に通うことはありませんでした。その間、家で読み聞かせをしてもらいましたので、本が大好きになります。13歳で入学した函館盲唖院(現在の北海道函館盲学校)で点字図書と出会い、外国には点字図書館があることも知りました。

 1939年に関西学院大学の専門部英文科を卒業した本間は、東京にあった視覚障碍者の施設「陽光会」で『点字倶楽部』という雑誌の編集に従事しました。

 1940年、25歳を目前にした彼は、豊島区雑司が谷にあった自宅(借家)に日本盲人図書館を創設します。「点字図書700冊、書棚4本からのスタートでした。」(3

 戦争中、本間は日本盲人図書館の蔵書と一緒に茨城県、北海道へと疎開し、1948年(昭和23年)、東京に戻って日本点字図書館と改名して仕事を再開します。以後、図書館が順調に発展するにつれて、この図書館は全国に生まれてきた点字図書館の中心的な役割をになうようになりました。また、本間自身、点字図書の普及や点字図書館の発展のパイオニアとして数々の賞を受ける栄誉に浴したのでした。

 本間一夫のばあいは、点字図書と点字図書館の必要性を身に染みて感じた行動力のある人が、同じ境遇にある人のために、(それはまた自分のためでもあったはずですが)率先して図書館を創った例になると思います。

 

 最後は劇作家・小説家の井上ひさし19342010です。彼は山形県川西町の生まれで、父親を5歳のときに亡くし、経済的には苦しい子ども時代を過ごしました。それでも、上智大学国語学部に在学中から台本作家、放送作家として活躍し始めます。その後、彼はさまざまな文学ジャンルに手を広げ、1972年の時代小説『手鎖心中』による直木賞のほか、全部で20ばかりの賞を受賞しました。

 自分の蔵書によって図書館を創るに至ったいきさつは、彼の著書『本の運命』にかなり詳しく書かれています。図書館を創る動機としては、

小説や戯曲を書く際に当面のテーマに沿った大量の本を買ったこと、

そのために自宅に本が増えすぎて困ったこと、

けれども「ある時から、本はもう一冊も処分すまいと決心」したこと、

故郷の若い人たちが本を読みたがっているのを知ったこと、

「本は全部、故郷の若い人たちに差し上げたらいいんじゃないか」と思いついたこと、

「本というのは、必要な人の手に取られることが一番幸せ」だと思ったこと、

などが挙げられるでしょう。(4

さいわい、時の町長が町の施設である農村生活改善センターの2階を図書館のために使うようにと提案してくださり、図書館づくりが具体化します。川西町の若い人たちが蔵書を引き取りに来て、開館したのは1987年、蔵書7万冊、名前は遅筆堂文庫でした。井上ひさしは筆の遅いことで有名で、自認してもいましたので、名称に遅筆堂と入れたのでした。

その後、いわゆる「ふるさと創生事業」という追い風が吹き、1994年、遅筆堂文庫は町立図書館と芝居専用の劇場とともに、美しい複合施設「川西町フレンドリープラザ」に入ることになりました。蔵書は20万冊を超えているそうです。

 

参照:

1ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫1957年)

2ジョン・ウェルズ著、高島みき訳『ロンドン図書館物語』(図書出版社、1993年)

3)「図書館の歴史:本間一夫と日本点字図書館」(社会福祉法人日本点字図書館のウェブサイト、20190222

4井上ひさし『本の運命』(文藝春秋1997年)