図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ローラ・ブッシュ(Bush, Laura Lane Welch, 1946‐)

 第43アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ氏の夫人として知られるローラ・ブッシュ氏は、1946年、テキサス州のミッドランドという町で生まれました。両親は彼女のあとにも何人かの子どもを授かりましたけれど、どの子も生まれて間もなく亡くなったため、彼女は一人っ子として育ちます。

 父は会社員として勤めるかたわら、彼女が物心ついたころから副業として住宅建築を手がけました。『ローラ・ブッシュ自伝』には、いくら頼まれても注文建築を断ったこと、建てたばかりでまだ売れていない家に引っ越しを繰り返したこと、などが書かれています。面白いお父さんだったのですね。

 母は読書が好きで、幼い娘が自分で本を読み始めるまでは、いつも読み聞かせをしてくれたのでした。本はミッドランドの郡庁舎の地下にあった図書館から借りてくることが多かったということです。

 

 両親のいつくしみに包まれて育った彼女は、中学・高校と学校が大好きで、成績のよい真面目な生徒でした。でも、いつも本が読みたくてたまらず、数学の授業では、机の上の教科書の中に隠した本を読んだことがありました。

生活を楽しむ点でも彼女に抜かりはありません。10代の前半からデートを始め、週末にはパーティや映画にでかけ、高校のフットボールの応援に行くなど、青春を謳歌する女の子だったように思われます。

 

ところが、17歳になったばかりのある日の夜、おそらく彼女にとって生涯でただひとつの痛恨事ともいうべき事件が起こります。女友だちを乗せて車を運転中に、話に夢中になっていた彼女は、一時停止の信号を見落とし、衝突事故を起こしてしまったのでした。自分たちはそれほど重傷でなかったのに、相手の車を運転していた同じ高校で仲良くしていた男の子が亡くなったのです。彼女は長いあいだこの件で悩みましたけれど、両親や親しい人たちの思いやりで少しずつ立ち直ることができたのでした。

 

 1964年、彼女はダラスにあるサザン・メソジスト大学に入学し、ここでも生活を満喫しながら教育学を学びました。けれども、周囲の多くの女子大生と同じく大学を卒業するまでに結婚するつもりでいて、彼女の気持ちは就職に向かっていません。

 ために、プールでの水泳コーチ、サマーキャンプでのカウンセラー、小学校の教員、証券会社の社員など、短期間にいくつもの仕事を経験します。たどり着いた結論は、司書になることでした。

 

 アメリカでの司書資格取得には、大学院で図書館学の講座を受講する必要があります。彼女が選んだのはテキサス大学オースティン校の図書館学スクールで、1973年に修士号を取得しました。

 彼女の司書としての最初の任地はヒューストンの公立図書館でした。

 「私が配属されたのは、ヒューストンのアフリカ系アメリカ人居住区にある、線路と産業ビルに挟まれたカシミア・ガーデンズ・ネイバーフッド図書館。ミステリー小説を探すビジネスマンではなく、本を探しに来る家族連れの面倒を見、学校が終わるやいなや図書館は、他に安全な行き場のない子供達であふれか{え}った。事実上、私は彼らの世話係になったのだ。子供達に読み聞かせをし、アクティビティを考え出し、教室に本を貸し出すために地元の小学校を訪れるようになっていた。図書館が静かな時間帯には本を読んだ。」(1

 

 でも、オースティンという町と学校という職場が懐かしくなった彼女は、1974年夏にヒューストンの公立図書館を退職し、オースティンで職探しを始めます。見つかった新しい職は、「モリー・ドーソン小学校の図書館司書としての仕事であり、そこは主にヒスパニック系が住む地域だった。一日の大半を子供と本に囲まれる日常に戻り、受け持つ授業は大好きなお話の時間となった。」

 結局、彼女は「一九六八年から、ジョージと結婚する一九七七年の十一月まで」「教師と図書館司書として働いていた」ことになります。

 

 1977年、ローラ・ウェルチ嬢は、友人の夫に紹介されたジョージ・ブッシュ氏と結婚します。当時のブッシュ氏は石油関連の会社員、その父親はのちに大統領となるジョージ・HW・ブッシュで、すでに下院議員やCIA長官を経験していました。

 息子のジョージは1979年の上院議員選挙に立候補して落選します。代わりというわけではありませんけれど、1981年、父親のジョージがロナルド・レーガン大統領に請われて副大統領に就任します。

 

 以後のおよそ10年以上、若いジョージは石油関連会社の立ち上げやプロ野球球団テキサス・レンジャーズの買収と共同経営など、事業面で成功をおさめる一方、父ブッシュの大統領選挙では妻とともに応援に駆けつけ、スピーチライターをこなすなどして、政治面でも力をつけていったのでした。

 息子ブッシュにとって機が熟したのでしょう、彼は1994年のテキサス州知事選挙に勝利し、翌1995年、知事に就任します。

 夫が大きな州の知事になったのに、ローラは妻としてずいぶん自由に過ごすことができたということです。家族の暮らしぶりも以前と変わらず、夕食はほとんど双子の娘と一緒に4人で食べることができたのでした。

 

 ところが、1998年、夫が州知事選で圧倒的な支持を得て再選されますと、(家庭的には)皮肉なことに、事情が変わってしまいます。あまりの圧勝ぶりに、彼が2年後に行われる予定の共和党大統領選挙の本命に浮上したからでした。以来、妻のローラも夫の選挙にさまざまな協力・貢献をし、2000年の大統領選挙でついに大接戦の末、ジョージ・ブッシュ氏は民主党のゴア候補に勝ったのでした。

 

 20011月、ローラ・ブッシュ氏はファースト・レディとなり、家族とともにホワイトハウスで暮らすようになります。ここに住めば、いわゆる主婦業はかなり軽減されますけれど、その代わり、ほとんど義務ともいえる公式行事への参加やパーティへの出席のほか、議論を二分しないようなテーマでの活動をしなければなりません。彼女が取り組んだテーマは教育、図書館、女性の権利向上などいろいろありますが、ここでは図書館に関係するものを2つご紹介して結びとします。

 

1)ローラ・ブッシュ米国図書館財団の設立

 ファースト・レディとなった彼女は、2002年、親しい友人の協力を得て財団を設立しました。そのウェブサイトによりますと、

 「国内をまわって学校と図書館を訪れ、多くの学校図書館の書架がからっぽで、蔵書と参考図書{調べものをするための本}がおそろしく時代遅れだと気づきました。それがローラ・ブッシュ米国図書館財団を設立した理由」だということです。(2

 この財団は毎年、学校図書館や読書の推進のためにさまざまな助成を続けて現在にいたっています。

 

2)ナショナル・ブックフェスティバルの開催

 アメリカ議会図書館の「ナショナル・ブックフェスティバル」に関するウェブサイトによりますと、このお祭りはローラ・ブッシュ氏の提案によって、彼女と当時の議会図書館長JH・バイリントンが協力して始めました。資金は個人の寄付とスポンサー企業の拠出金によっています。

このフェスティバルでは、さまざまなジャンルから多くの作家が参加して自著にサインをしたりスピーチをするほか、お祭りらしく、本の即売会や子どもが喜ぶイベントも開かれます。

 第1回は20019月に開催され、今年(2019年)も開催される予定で、2014年には参加者が20万人をこえたということです。(3

 

参照:

1)ローラ・ブッシュ著、村井理子訳『ローラ・ブッシュ自伝』(中央公論新社2015年)

2www.laurabushfoundation.com/ (20190210)

3www.loc.gov/bookfest/ (20190210)