図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

授業よりも図書館通いをした人たち

 学校や大学の授業を欠席して図書館通いをした人たちがいます。その理由はさまざまで、

①経済的な理由で学校(または大学)へ通えなかった、②学校になじめない、学校へ通うのが苦痛だった、③読書(または研究)を優先せざるをえなかった、などがあります。

 以下、生年の早い順にご紹介していきます。

 

 数々の名作を書いたイギリスの作家チャールズ・ディケンズは、少年時代に家が貧しく、ろくに学校へ行かせてもらえませんでした。けれども、10代の初めころからいくつかの仕事を経験しながら、「大英博物館the British Museum)の読書室を利用できる満18歳になるや、すぐさま申請の手続きを」し、「ここを、いわば授業料無料の大学として、光熱費のいらない書斎として、また、誰からも邪魔されない私室として、思う存分活用」したのでした。(三ツ星堅三『チャールズ・ディケンズ創元社1995年)

 

 アメリカの発明家、トーマス・エジソンも短い学校生活しか送っていません。しかも、いつもクラスの中のビリで、劣等生だと自覚していました。けれども、彼は元教師をしていた母に助けられて、12歳のころからギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ヒュームの『イングランド史』、バートンの『憂鬱の解剖学』などを読むようになっており、ニュートンの『プリンピキア』を理解しようと努めたりもしました。

 また、暇があればデトロイト公共図書館で過ごし、主題を気にせずに本をつぎつぎと読んでいったのでした。(Edison: his life and inventions / by F. L. Dyer and T. C. Martin, N. Y., Harper, 1910

 

 博覧強記の民俗学者南方熊楠(みなかた・くまぐす)は、1884年、

「大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず。」と「履歴書」に書いています。

入学した大学予備門というのは、秀才の集まった第一高等学校の前身です。なのに、授業など心にとめず、上野図書館(当時の文部省所管の東京図書館の愛称)で読書三昧だったのですね。(「履歴書」in南方熊楠全集7:書簡 I平凡社1971年)

 

 1949年、中華人民共和国国家主席となった毛沢東は、湖南省立第一中学時代、教育内容や学校の規則に不満で、入学後6か月で退学しました。

 「六ヵ月ののちに私は学校をやめ、自分の教育予定表を作りましたが、それは毎日省立湖南図書館で読書することでした。私は非常に規則正しく、予定に忠実で、こうしてすごした半年は私にとり非常に貴重だったと考えます。私は朝図書館が開かれるとそこへ行きました。昼になると、私の毎日の昼飯である二つの餅を買って食べるだけの時間しか休みませんでした。私は図書館がおしまいになるまで図書館にいて読書しました。」(エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』筑摩書房1964年)

 これは典型的な「授業よりも図書館通い」の例ですね。

 

 日本の探偵小説の祖ともいうべき江戸川乱歩は、早稲田大学政治経済学部に在学中、アルバイトに追われて、学生らしい楽しみを味わういとまがありませんでした。それでも、

「小遣いがないので、図書館で本を読むのが唯一の楽しみだった。大学の図書館のほかに、上野、日比谷、大橋などの図書館へよくかよった。教室へはあまり出ず、経済学の本なども図書館で読んだ。『図書館卒業』の口である。学問の本のほかに、そのころポーやドイルなどの英語探偵小説を耽読した。」(江戸川乱歩『悪人志願』光文社文庫2005年)

 

 作家の宮本百合子(初めは中條{ちゅうじょう}百合子)は、東京女子師範学校の附属高等女学校に通っていたころの様子を、「学校の空気と学課が、自分をしっかりと掴えない。苦しく無意味に思える。そこで、上野の図書館へ行ってしまう。女学校の四年生になって、学校の比較的豊富な図書館がつかえるようになるまで、わたしの知識慾は、惨めな状態におかれた」と書いています。(「私の青春時代」 in宮本百合子全集 17新日本出版社1981年)

 また、ある本の「年譜」には、「よく学校へ行くのをやめたり早退けしたりして上野の図書館へ行った」とも書いています。

 

 『青い山脈』などの若者を主人公とする小説で人気のあった石坂洋次郎は、慶應義塾大学時代に授業よりも図書館での読書を優先した経験を次のように語っています。

 「慶應文科の予科時代、私は授業にはあまり出席せず、赤煉瓦の図書館にこもって文学書を乱読した。」

 1921年、病気で休学した彼は、学生結婚をしていた妻と一緒に弘前の家へ戻り、静養します。

翌年、ひとりで上京して復学しましたけれど、「相変らず図書館で気ままに本を読み、教室の講義にはあまり出席しなかった。そういう怠け学生の印象に残っている教授は、野口米次郎、戸川秋骨折口信夫、といった人々」だったそうです。(石坂洋次郎石坂洋次郎:わが半生の記』日本図書センター2004年)

 

 アイヌ言語学民俗学の研究者であった知里真志保(ちり・ましほ)は、1923年に入学した室蘭中学時代からとても優秀でしたのに、学校へ行くのが苦痛でした。当時はまだ人種的偏見が強かったからでした。というわけで、

 「記憶にのこっている私の中学時代は非常に欠席が多かったということである。これは教室で受ける白眼視にたえられなかったからで、決して学業を怠けようと思ったからではない。かといってあまり自慢にもならないことはもちろんである。

 欠席がちでしかも小遣い銭も乏しかった私の足は自然図書館に向って、坪内逍遙訳のシエクスピア全集を読破したり、厨川白村近代文学十二講や本間久雄の著書などに読みふけった。

 読書に興味が出たので、学校よりも図書館で独学したもののほうがほんとうに身についたように思う。」(「図書館通い:私の中学時代」『北海タイムス19550410

 結果、アイヌ語研究の先達である金田一京助の援助を受けながら、第一高等学校、東京帝国大学を経て、教師をしながら『分類アイヌ語辞典』全3巻などを完成させることができたのでした。

 

 作家の武田泰淳は、旧制中学を4年で修了して浦和高等学校文科甲類に入学した秀才でした。熱中することがたくさんあったからでしょうか、「「代返」で出席をかせぎ教室には殆ど顔をださず、もっぱら図書館にこもって国訳漢文大成本の『紅楼夢』や、魯迅胡適等の著作を読みあさり、また漢詩20篇ばかりを試作」していました。高校時代は「授業よりも図書館通い」だったのですね。

 その後、東京帝国大学文学部支那文学科に入りますが、こんどは左翼運動に熱中して、ほとんど授業には出ずに、中途退学してしまいました。(『現代文学大系 57武田泰淳集』筑摩書房1967年)

 

 日本では『華氏451度』や『火星年代記』で知られている作家のレイ・ブラッドベリは、200912月にメキシコのグアダラハラで開かれたブックフェアで、質問に答えて次のような主旨のことを語りました。

 父親が貧しかったため、学校に行けず、子ども時代を図書館で過ごした。

 若者は大学へ行かずに、図書館へ行ったほうがよい。

 『華氏451度』を書いたのは、知識と図書館を守るよう訴えたかったから。(AFP BB news 20091203

 

 アメリカの黒人解放運動の指導者だったマルコムXは、日本の中卒に相当する小学校8年を終えると、「それを機会に金儲けと結びつかないようなことはいっさい勉強すまいと思った。そして、世間に出ると、かつて学校で習ったことはみんな消えてしまった。動詞と名詞の区別もろくにつかなかった。」

 彼は、1946年、20歳の時に窃盗罪で懲役8~10年の判決をうけましたが、2年後、姉エラの努力によって、彼はマサチューセッツ州ノーフォークの犯罪者集団居住地(コロニー)に移ることができました。ほかの刑務所と比べれば天国のようなところです。そこには囚人たちが入れる立派な図書館がありました。

 刑務所には学校もありましたけれども、彼は読書に夢中になり、「図書館内よりも自分の部屋で読むほうが多かった。いったん読書家だとわかると、囚人は、貸出し制限数より多く借りることができた。私は自分の部屋で、完全な孤独のなかで読むのが好きだった。」

 後年、あるイギリス人作家が電話で彼の出身大学を訪ねたとき、マルコムXは「母校は本であり、いい図書館だ」と答えたということです。(マルコムX著、浜本武雄訳『完訳マルコムX自伝 上』中公文庫、2002年)

この人も図書館卒業だったのですね。

 

 宮田昇氏(ペンネーム内田庶{ちかし}、出版太郎でも著書あり)は、いくつかの出版社に勤めたあと、著作権関係の会社を設立する一方、出版と翻訳にかんする著作や児童書の翻訳を手掛けてきた方です。明治大学在学中の図書館通いを次のように振り返っています。

「戦後の三、四年が過ぎても、本を買う余裕がない私は、社会科学系の本や個人文学全集などをよむために、アルバイトのない日は、学校よりも上野の図書館に通うことが多かった。音を立てることさえはばかられるほど、全体が読書に熱中している空間に励まされて本を読んだ。言ってみれば、図書館こそ私の学校であった。」と書いています。(宮田昇著『図書館に通う』みすず書房2013年)

 

 エッセイを中心に紀行・小説などの執筆活動をした高田宏は、大学卒業後の約20年間、出版社の雑誌や企業のPR誌を編集していました。

 太平洋戦争後の数年間、石川県で中学生・高校生だった彼は図書館が好きで、日曜日、夏休み、冬休みにはたいてい町の図書館で過ごしていました。そして、京都大学へ進みますが、

 「大学でも、授業をさぼって図書館にいることが多かった。友達と会って廊下へ出て話し込むこともあったが、膨大な量の本に囲まれている時間は、教室での時間とは別の、宝の山にいる幸福感にひたれる時間でもあった。」(「図書館の時間」in『ことばのうみ:宮城県図書館だより』創刊号、19993月)

図書館で過ごすのが極楽だったのですね。

 

 和歌山県出身の作家、辻原登氏(1945‐)は高校時代を大阪市で過ごしました。そして、 「高校時代は特に不良生徒だったと思う。{大阪市の}此花区にあった親戚の家にお世話になったこともあったが、安治川から西区に渡るのに橋がなく、川底トンネルを利用するしかなかった。よく大型トラックと一緒にエレベーターで地下に降りたものだ。そこから学校へは行かず、中央図書館に入り浸ることもしばしばだった。」(日経新聞電子版 20170126