図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

毛沢東(もう・たくとう 1893‐1976)

 中華人民共和国の創建にもっとも功績のあった毛沢東は、中国南部の湖南省湘潭(しょうたん)県の韶山(しょうざん)という村で、農家の3男として生まれました。ですが、兄ふたりが夭折したため、彼が実質的に長男でした。

理財に長けた父は、農地を買い増し、牛や豚を育てて売るなどして、着実に暮らし向きを豊かにしていました。そして、跡継ぎとして期待していた沢東に、幼いころから畑仕事や牧畜の手伝いをさせました。

沢東が8歳になりますと、父は彼を私塾に通わせ始めます。私塾に通ったのは、近辺に新しい教育をほどこす学校がまだなかったからで、彼は16歳になるまで数か所の私塾で勉強をつづけたのでした。

 

 1907年、父は、14歳だった毛沢東4歳年上の羅一秀という女性と結婚させます。けれども、息子は父親による押しつけ結婚に反抗し、妻と同居することは一度もなかったということです。

この若い妻はかわいそうに3年後に病死してしまいました。毛沢東江青の伝記などに江青を「3番目の妻」と書いてあったり「4人目の妻」と書いてあったりするのは、「本人が認めなかった結婚」をどう考えるかによるものと思われます。

 

 10代の後半からの数年、毛沢東の生活は半年間を一区切りとして、めまぐるしく変化します。

1910年秋、16歳になっていた毛沢東は、湖南省湘郷(しょうきょう)県にある県立東山小学堂という新式の学校に入学します。新式の学校というのは、それまで私塾で教えていた思想・歴史の古典だけでなく、英語や地理、科学などをも教える学校のことです。

②「半年後」の1911年春、彼は長沙(湖南省省都)にある湘郷駐省中学に入学します。東山小学堂のひとりの先生がその中学へ転勤するとき、毛沢東を連れていったからでした。

③その「半年後」の1911年秋、辛亥革命の発端となる武昌蜂起が起きますと、毛沢東は学業をなげうって長沙革命軍の志願兵となります。ところが、清朝最後の皇帝であった宣統帝が翌19122月に退位しましたので、毛沢東の軍隊生活は「半年で」終わりました。

 ④次に彼が選んだのは、湖南全省高等中学校への入学でしたが、その教育内容に不満で、ここにも「半年間」しか在籍しませんでした。

⑤軍隊に居場所がなく、自分で選んだ学校の教育に満足できず、毛沢東は何を始めたのでしょうか? 長沙にあった湖南省立図書館での読書を日課とするようになったのでした。計画的で勤勉な読書生活ではありましたけれども、仕事をせず、学校へ通わず、つぎつぎと行く先を変えるかのような息子に、父は仕送りをしないと決めました。また「半年」が経っていたのでしした。

 

思案の末に出した毛沢東の結論は、学業への復帰でした。1913年春、19歳のときに入学したのは学費の要らない湖南省立第4師範学校(翌年に第1師範学校に併合)で、この決断が功を奏しました。

功を奏した理由は、優れた教師に恵まれたことです。とりわけ毛沢東に大きな影響を与えたのは、倫理学を担当する楊昌済(19711920)という先生で、彼は日本の東京高等師範学校やイギリスの大学で学んだことがあり、数年後には北京大学の教授になった人です。

成功と失敗を繰り返した毛沢東が、広い国土と膨大な人口を擁する国で最終的に革命を成し遂げ、新しい国の形を創りえた理由のひとつには、楊先生が強調した訓えを彼が胸に刻みこんでいたからだと思えてなりません。

 

 師範学校で学ぶなかで、毛沢東は友人にも恵まれます。とりわけ在学中から卒業後までさまざまな機会に行動をともにしたのは、蕭子昇(しょう・ししょう)でした。その様子は、蕭が蕭瑜(シャオ・ユー)の名で出した回想録『毛沢東と私は乞食だった:その秘められた青春』(弘文堂、1962年)に書かれています。

このふたりが蔡和森(さい・わしん)ら学校の仲間と1918年に立ち上げた新民学会という学生団体は、初めのうち、個々人が品性を磨き、身を正して行動することを標榜するなど、政治的な色彩はほとんどありませんでした。ここにも恩師の楊先生の影響を見て取ることができます。

 

 19186月、毛沢東5年半にわたる師範学校生活を無事に終えたものの、この時点でも自分の進むべき道をはっきりと意識してはいませんでした。彼の尊敬する楊昌済はすでに北京大学の教授になっていて、人を介して毛沢東北京大学への入学を勧めていました。けれども、彼は進学にもフランスへの留学にも踏ん切りがつきません。選んだのは、とりあえず恩師のいる北京へ行くことでした。

 

 同じ1918年の10月、毛沢東は楊昌済の紹介で北京大学図書館に職を得ます。いくつかの証言をご紹介しましょう。

 「十月には楊昌済の紹介で、毛沢東は当時北京大学の図書館主任を勤めていた李大釗(り・だいしょう)と知り合った。李大釗は彼を図書館の助手にした。毎日の仕事は、掃除のほかには第二閲覧室で新着の新聞雑誌とやって来た閲覧者の氏名を登録し、十五種類の中国と外国の新聞を管理することであった。当時の北京大学の教授の給料はおおよそ二百から三百元であったが、毛沢東の給料は毎月八元でしかなかった。しかしこの仕事は彼にとってかなり満足できるもので、各種の新しい書籍や刊行物を閲読でき、有名な学者や志をもつ青年と知り合いになれた。」(1

 

有名な『中国の紅い星』の中で、著者エドガー・スノウのインタビューに答えた毛沢東は、北京大学図書館で仕事にありついたいきさつを次のように回想しています。

 「私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところ、かれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党創立者になりその後張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月八元の十分な俸給をもらっていました。

 私の地位が高級なものではなかったので、ひとびとは私に近よりませんでした。私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。」(2

 

 次は、G. パローツィ=ホルバートの『毛沢東伝』の一節です。

 「毛沢東の長沙時代の良き師であった楊教授はこのとき、国立北京大学で教鞭をとっていたので、彼は楊教授の援助で大学の図書館にささやかな仕事の口を与えられた。だが、それはまったく不満足な、恥ずかしいようなポストだった。蕭瑜によれば、毛沢東の仕事というのは図書館を掃除したり、本を整理したりすることだった。」(3

 

 最後に、スチュアート・シュラム著『毛沢東』による図書館員時代の毛沢東です。

 「図書館での彼の仕事は、きわめてつまらないものであり、仕事それ自体も生活の手段にすぎず、人や思想と接触する機会はほとんどなかった。彼は、図書館にくる指導的な知識人の何人かと話をしようとしたが、ほとんどの場合、「南方の方言をしゃべる図書館の助理員に耳をかすだけの時間をもっていない」ことがわかった。」(4

 

 毛沢東が身過ぎ世過ぎのための図書館員であった期間は、191810月から19193月末までの、「またしても半年間」でした。彼のいわゆる職歴は、1920年に長沙師範学校付属小学校長になり、2年後に教職を辞して終わりを告げます。

以後の毛沢東は、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』への寄稿、社会主義共産主義の地方組織づくり、共産党(一時期は国民党)の党務などを通じて、革命の実現にむけて歩み始めたのでした。

ちなみに、中国に共産党が誕生したのは、19217月、上海での中国共産党1回全国代表大会(創立大会)においてでした。そこには、陳独秀、李大釗、毛沢東など数十名が参加していました。

 

 以後の毛沢東の生涯は、成功と失敗の繰り返しでした。それでも最終的に革命を成し遂げて新しい国の形を創りえたのには、いくつかの理由があるように思われます。第1は信頼できる仲間がいたこと、第2はこころざしをしっかり保ったこと、第3は軍事戦略に秀でていたこと、です。

 

 けれども、1950年代半ば以降の約20年間、反右派闘争、農村の人民公社化、大躍進政策文化大革命の発動、天安門事件などで、毛沢東は深刻な誤りを犯し、国内の多くの人に飢えと苦しみ、失望を与えてしまいました。

 そして1976年、強いきずなで結ばれていたふたりの同志、周恩来朱徳が相次いで亡くなりますと、毛沢東も後を追うように亡くなったのでした。享年82でした。

 

参照文献:

1)金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝 上・下』(みすず書房1999, 2000年)

2エドガー・スノウ著、宇佐美誠次郎訳『中国の赤い星』(筑摩書房1964年)

3G. パローツィ=ホルバート著、中嶋嶺雄訳『毛沢東伝』改訂版(河出書房新社1972年)

4)スチュアート・シュラム著、石川忠雄・平松茂雄訳『毛沢東』(紀伊国屋書店1967年)